矢川澄子、『兎と呼ばれた女』

 私が初めて目にした“由比が浜にてコイコイに興じる”二人を撮った写真は、澁澤龍彦特集号の「太陽」に載せられていたものだった。矢川さんのお顔は帽子に隠れているけれど、そのすんなりした肢体はとても清らな印象で、私は魅了された。 
 その当時の私は、それが、“人並みの幸福を追いもとめるのはやめようね”という約束の言葉で編み上げられた繭の内に憩う、二人ぼっちのアンファンテリブルの姿であることをまだ知らなかった。

 今日の昼下がりの雨は、賑々しい雷を伴っていた。神さまと兎の物語に、いかずちのBGMとはね…。
 『兎と呼ばれた女』、矢川澄子を読みました。


〔 さればこそ、翼ある身ともなれたのではないかしら。わたしたちの結合はもともと天使的な結合、わたしたちの生活はいわば天上の生活で、世間並みのくらしをするため、子孫を生みそだてるために結ばれたばあいとは、まるきりちがっていましたもの。 〕 19頁

 二人の男に愛されて、全身全霊で愛し尽くした女性の心の軌跡。  
 極端な事柄には、心を動かされる。それが自分とはかけ離れた世界のお話ならば、尚更に。 
 美しい言葉でるる綴られているのは、愛とおそれのない混ぜになった純粋過ぎるほどの思慕。すべてを受け入れることと自身を捧げ尽くすことの、命がけのような思念に、ただただ声もなく揺さぶられた。ぐらり…と、まるで地面が傾いだようだった。純粋という名の綱渡りの怖さについて、思いをめぐらす。

 女が男にそそぐ愛に、完璧な形などあるのだろうか…。 
 たとえば私なら、女として相手に向けているつもりの愛情が、支配されて依存することの享受へとすり替わっていくことを考えてみるだけで、厭わしくなってしまう。寄り添い合うのは素敵なことだと思いながらも、ゆだね過ぎることへの抵抗を捨て去るなんて、慮外だ。けれどもおそらく、きっとおそらく、きっときっと…。ここに描かれているのは、そんな次元の話ではないのだ。

 ここにある激しい歓喜も苦悩も、こんな下界の万に一人の女にさえ手に入れられない、この世にあるまじき輝きをはなつ稀な宝石のようにすら見えてきた。だから、この心優しく純粋過ぎた佳人の魂を、痛ましいとさえ感じることが出来ない。私にとってこの作品の怖さは、まさにそんなところにある。
 誰にでも通用する常識や道徳なんて要らない。そんなものから遠く隔たった場所で、この世から追放されて、世界に二人しかいないように互いだけを求めて生きることが本当に出来るものならば。

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