中島京子さん、『平成大家族』

 素敵に薫り高いミルクティを飲みつつ本を読んでいて、ページから目を離さずグラスを手繰り寄せ、その内側をのぞき込んでぽかんとした。あんまり綺麗で。…つまり好きなのです。カフェの真四角な氷とか、コップの中のグラデーションとか…。はい、そんな話はさて置き。  

 『平成大家族』、中島京子を読みました。
 

 よく笑い、よく楽しみ、よく読んだ。 
 実のところこのタイトルを見て、ちょいと顔をしかめていた。ファミリードラマみたいな話は、あまり得意ではない。て言うか、むしろかなり苦手なので…。 
 もしも、堅固な絆でがんじがらめな麗しい家族の物語を読む破目に陥っていたとしたら、私は早々に本を閉じていたかも知れない。今どきの家族なんて本当はてんでばらばらで、だからこそ滑稽で哀しくて、少しだけ愛おしいものなのではないか…。愛情を受け止めて投げ返す…そんな簡単そうなことが、案外上手くいかなかったりして、家族なんて煩わしいものである。 

 相手のことを思い遣っていない訳ではない。それなのに、ことごとく気遣いが的外れだったりする苦みと、面白さ。例えば、どんなに仲むつまじく寄り添っているように見える夫婦でも、その頭の中をこっそり窺おうものなら、案外お互いにあさっての方を向いているのだろう…と思う。そこから生じる頓珍漢な齟齬を噛みしめるのが、夫婦という可笑しな形を継続していく醍醐味なのではないか…とも、私は思いたい。
 そしてまた、家族がいることの煩わしさも、不自由に感じるもどかしさも、一人ぼっちでは味わえない人生の彩りである…と。

 当主龍太郎の言葉を借りれば、“次から次へと、出したものが帰って”きてしまった緋田家。より正確に言えば“出したもの”は、新たな家族と共に転がり込んできた訳である。つまり、出す前よりも数が多い。 
 膨れ上がった緋田家の面々は、当主の龍太郎に妻の春子、春子の母のタケ、長女の逸子、次女の友恵、長男の克郎、そして娘婿の聡介に孫のさとる。まさに大集合である。
 そうして大家族となった緋田家には、もともと潜在した古い問題に新たな問題が上乗せされ、新たな問題から引き起こされる二次的な問題も加わり…。離婚、倒産、破産、再就職、転校、いじめ、出産、引きこもり、認知症…と、どれをとっても珍しくもないありふれた事情ばかりではあるが、同じ時期に揃えて抱え込むにはいささかカラフル過ぎる事態であろうか。 

 各々の目線から語られていく大家族は、やっぱり擦れ違いだらけでほろ切ない。それでも温かい。
 私はなぜか、長男克郎の章などにほろりとしてしまった。我ながら自分が近いのは、むしろ我の強い逸子や友恵の立ち位置なのだろうなぁ…とは思うものの、克郎の家族との距離の取り方とか疎外感には、じんわり沁みてくるものがあった。
 まあ何しろ、
 よく笑い(『時をかける老婆』って、タイトルだけでも素晴らしくて笑える!)、よく楽しみ、よく読んだのである。

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