マーシャ・メヘラーン、『柘榴のスープ』

 とりあえず昨日、おでんを仕込みました。だーさんが新年会だったので一晩じっくり寝かせました。
 何しろ実家から届いた野菜(農家ではありません、母の趣味です)は、青梗菜に春菊に菜の花に、太くて甘そうな葱二本。ずしりと重たいキャベツが一玉に、ずしずしと太い大根が二本。まあまあ大き目サイズのジャガイモ四個に、人参二本。柚子三個。二の腕のようにぶっとい大和芋一本。…なので、せっせと消費しなければなりません。根菜は日持ちするけれど、場所をとるのでとりあえずおでん。食材があふれていると、結構プレッシャーです。
 でも、いつもスーパーで買うときとは違う状態(なめ〇〇の赤ちゃんがいるとか…バタッ…)で送られてきた野菜たちを眺めていると、“食べる”ってまさに、他の命を頂くことなのだな…と、うっかり忘れがちなことを思い出させられました。感謝しながらいただきます…。

 さて、記事にするタイミングがずれてしまいました。読み終えたのは一昨日の朝です。
 まず、この魅惑的なタイトルに惹かれました。柘榴のスープっていったいどんなスープなの…?と、一度気になったら読んでみたくなったのです。

 『柘榴のスープ』、マーシャ・メヘラーンを読みました。
 

 この物語、私は大好きでした。今日が返却日だったので夕方バタバタと返しに行きましたが、装丁がとても好きだったこともあり手放しがたい一冊でした。
 章ごとにレシピが紹介されている様々なペルシア料理は、実際に小説の中でもその調理の段階からそれを頂くバビロン・カフェの人々の様子まで、まるでスパイスやハーブの芳香がこっちへ漂い溢れてきそうなほど美味しそうに描かれています。読んでいると始終、涎がじゅるる…となります。そして主人公・マルジャーンが作る香り高い料理たちは、ただ美味なだけでさえなく、それを味わった人々にとても素敵な作用を及ぼすのでした。
 この、食べることが人々の心に何かしらの働きかけをし、忘れ去られた遠い記憶や夢を引き出すという描き方は、面白いなぁ…と思ったし共感出来るところもありました。所謂ファンタジーとしての設定ではなく、本当に、“食べる”ってただそれだけじゃない何かしらの力だと思うから。食べることと心の間には、不思議なメカニズムがひそんでいるでしょう?

 命の営みの一環として“食”は基本中の基本ですから、とても大切なことだと思います。でも私にとってそれは、当り前な生活に根ざした当り前の食生活が、楽しく美味しく送れればそれが有り難いことであり、それ以上に執着するべきことでもない…という感じでしょうか。
 自分の体の中に摂り込むものだからこそ、色々こだわるべきところもあるでしょうけれど、そのこだわりだけが独り歩きをしないようにしておきたい。わくわくしたり、ほっこりしたり、楽しくなったり笑みがこぼれたり、そんな気分的な“食”の効能を大事にしていられれば、分不相応な美食なんて私には必要ないはず。で、つまるところ辿り着くのは、やっぱり家庭料理だなぁ…と。

 この物語の主人公たちは、生まれ育ったイランから逃れアイルランドと言う異郷の地で、いつか帰るという当てもない故郷の家庭料理を自分たちの店で作りながら、三姉妹それぞれの新たな道を模索していきます。マルジャーンに料理の才能があったことは大きいですが、異郷の地で故郷の家庭料理が彼女たちの独立を助けるという設定には、切ないようで嬉しいようで、ほろりとするものがありました。 
 物語を読み進むにつれて、なぜ三姉妹がテヘランを出なければならなかったのかという事情が、だんだん明らかになっていきます。実は三姉妹には、人に言えない重く辛い過去があって、単に革命の騒乱を逃れてきただけではなかったのでした。癒えない傷、慣れない土地、それでも人はいつか顔を上げて、歩いていかなければならない…。 
 物語全体の印象が少しも重くならなかったのは、全篇をおおう美味しそ~うな家庭料理の匂いと、立ちのぼる湯気の温かさの所為かも知れませんね。

 いやそれにしても、たとえレシピが掲載されていてもなかなか味の想像がつかない料理ばかりで(特に柘榴のスープ!)、ぎゅるる…食べてみたいよぉ…と私の好奇心と食欲がほどよく刺激され、疼いてしまって治まらないのでありましたよ。
 余談ですが、作者も美しいです。

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