多和田葉子さん、『旅をする裸の眼』

 いつのまにか、本当にいつのまにか、迷子になる夢を見なくなったなぁ…。
 それは迷子になると言うか、間違えようもないはずの道を辿っているのに、歩けども歩けども家にたどり着けない…とか。自分の家が見えてくるはずの角を曲がったのに、全く見知らない家並みの中で一人立ち竦んでいた…とか。そういう夢を、昔はよく見た。悪夢と呼ぶのは大げさだけれど、そこで味わう不安やあせりは目が覚めてもまだ肌に沁みついていて、見たくない夢のパターンではあった。
 この作品の中にある何かが、そんな遠い記憶の紐をずるずると解いてしまったらしい。ひどく視覚的な多和田さんの作品世界には、夢の中を流れていく景色の断片をつなぎ合わせたような、摑み所のない印象が私にはあるので、それもむべなるかな…と思いつつ。

 エッセイなのかと勝手に思い込んでいました…。
 『旅をする裸の眼』、多和田葉子を読みました。
 

 もしやカトリーヌ・ドヌーヴの映画を観たことがない私には、わかり辛い内容なのかな…という心配もしつつ、けれども読みだしてしまえばすぐに、誰にも似ていない語り口の物語にひきよせられておりました。
 この作品の中で主人公が、“あなた”と語りかけているカトリーヌ・ドヌーヴは、たぶん実在のカトリーヌ・ドヌーヴとは何ら関係のない漠然とした象徴になってしまっているのですし(作中、ドヌーヴという名前は出てきません)。彼女の出てくる映画ですら、主人公の眼を通して語られ始めるとともに、実際のものとは違う別物に塗りかえられていくのでしょうから。それでいてそれらは、ひどく魅力的でしたが(映画の方も観たくなりました)。

 でも…。あっ気なく拉致されてしまった主人公がその後、自分の置かれた状況がどんどん寄る辺ない方向へ押し流されていくことすら、どことなくうわの空のように受け入れていく様子に、あの迷子の夢の中で覚えたような不安感を煽られずにはいられませんでした。本当にどうしても帰りたいならば、ちゃんと何とかなるのでは…?というもどかしさを噛んでいるうちにだんだん、結局この人は、流離うべくして流離っているのかと、潜在意識がさすらいたがっているのか…と、思えてくるのでした。 
 そしてそれは、“わたし”がスクリーンに映された“あなた”に自分を重ね合わせようとすることの作用で、更に強められていった衝動かも知れません。言語もわからない国に住んで、故郷の国への帰属感すら失っていった主人公にはもう、カトリーヌ・ドヌーヴの映画を追うことだけが、確かな世界とのつながりを確かめる手段になってしまったのだから。

 主人公のいる現実と映画の中の世界が、だんだんねじれ合わさっていくような構造には、とても読み応えがあります。一筋縄ではいかない面白さ、でしょうか。
 それにしても多和田さんの作品って、感想が書き難いです。何だか尻切れ蜻蛉ですが今宵はこの辺で…。  

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