リチャード ブローティガン、『愛のゆくえ』

 先日『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだのは、読書会コミュの課題本だったから。色んな読み方や感想も読ませていただけてとても有意義だった。
 で、ちょっとした村上春樹論のような書き込みもあり、私もあらためて調べてみた。そしたらば、影響を受けた作家の中にリチャード・ブローティガンの名前があり、やはり!と大きく頷いていた。という訳で、ブローティガン。 

 『愛のゆくえ』、リチャード・ブローティガンを読みました。
 
〔 『ベーコンの死』マーシャ・パターソン著。著者は顔に苦悩の表情を浮かべていた以外は、まったく特徴のない若い婦人だった。想像もつかないほど脂ぎったこの本をわたしに手渡すと、恐怖にかられたように図書館を逃げだして行った。その本は実際、一ポンド分のベーコンのように見えた。私はその本を開こうとしたが、その内容がなんであるかを知って、心を変えた。その本をフライにしていいのか、棚に置いていいのかわからなかった。 〕 34頁

 訳者あとがきと解説を読んで、原題に吃驚仰天しました。正確に訳せば、『妊娠中絶――歴史的ロマンス1966年』となるそうです。ふ~む。新潮文庫として刊行されたのが1975年ということなので、このタイトルは使えなかったでしょうねぇ。今ならば逆に、手に取る人が結構いそうな気もしますけれど。どうかな。 
 原題は何だか大胆な感じですが、物語の世界はほわんと柔らかな読み心地がありました。繊細だったりどこか憂鬱だったり、でもそれがだんだん開けていく感じが、大袈裟にではなく淡々と描かれているところがよかったです。

 “人々が一番大切な思いを綴った本だけを保管する珍しい図書館”、という設定に強く惹かれて読んでみた作品です。が、“住み込み館員の私は、もう三年も外に出ていない”とは、主人公は所謂引きこもりかしら? 一応図書館員だから人と接していないわけではないけれど。
 でもそれでも、この図書館の存在と主人公の仕事ぶりは、読んでいてとても素敵でした。その仕事がとても気に入っていて、まるで慈しむように“人々が一番大切な思いを綴った本”を扱う彼の様子が、すうっと心に入ってくるのです。いい図書館だなぁ…と思う一方で、他の誰にも読まれることのない本ばかりが集まってくるものさびしさも、しんみりと沁みてきて、そこがまた良いです。
 物語の筋にはあまり関係ありませんが、図書館明細元帳に書き込まれた23の作品について列記している章が、私は大好きでした。さしたる根拠もないですけれど、ブローティガンという作家はこういうのを思いつくのは得意だったんじゃあないかしら?なんて、思ったりしました。楽しんでいる雰囲気が伝わるような気がしたのです。 

 閉じて完結した引きこもりの場所から抜け出すこと、どこまでも開いた心許ない世界へと飛び出していくこと。もしかしたらそれは、素晴らしいこととして一概に片付けられない側面を持っているのかもしれない。たぶん、人によっては。

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伊井直行さん、『濁った激流にかかる橋』

 伊井さんの作品は二冊目。
 『濁った激流にかかる橋』、伊井直行を読みました。
 
 “よく見ておけ。これが川だ。二つの岸をぶった切って流れる本物の川だ。そして橋。たった一本の橋が二つの岸を結びつけている。それが、この町だ。本物の川と橋のある町だ。” 196頁 

 少しずつ何かが重なり繋がりあう9つの物語、オムニバス形式ならではの楽しさと面白さがみっちり詰まっています。どこかしら奇妙な設定と言い奇妙な人々と言い、私の好みでした! 「濁った激流にかかる橋」「泥水の激流の右岸に住むさいづち頭の子孫」「霧のかかる騒がしい橋からのひそやかな墜落」「ドエル・リバーサイドのひとりぼっちの幽霊」「橋の上で赤い銅貨のような光を浴びる女」「かの有名な氾濫原のバレリーナとその子孫」「恋と市長と水しぶきのかかる橋」「公式記録による世界でもっとも美しい激流」「伝令、激流にかかる橋を征服する」の9篇。

 物語の舞台の真ん中には、かなり異様な川と橋があります。一つの市を大きく二つに分断しながら、のたうち怒涛と流れる川。そして、あまりにも手を加えられすぎて、誰にも全貌を把握出来なくなってしまったお化けのような、全長1.2キロの橋。
 巨大なお化けのような橋は、まるで無秩序なことの象徴の如く不気味な存在感でその姿を現します。何しろ橋の上は、ただでさえ渋滞の混乱を極め危険極まりないのに、ほぼ無法地帯なのです。橋の上で誰かが行方不明になっても、捜索してもらうあてはありません。そもそも捜索するべき下を流れる川は、濁った激流ですし。

 一話目を読み始めてすぐに、もやもやとした違和感で妙に座り心地が悪くなりました。先ず、一見何の変哲もなさそうな普通の町のど真ん中に、どうしてこんな川が流れているのかが全然分からない。橋の長さが1.2キロなら、普通に考えて随分下流でなければおかしいのに、それでいて激流?…どうして? でも、すぐには疑問の答えを明示してもらえそうにもなく、もやもやとした違和感を抱えたまま、読み進まなければなりません。一話目二話目を読んでいる間の、「確かに面白いけれど何なのこのすっきりしない奇妙さは…」という気分も、その所為だったかと思います。
 駄菓子菓子、三話目の「霧のかかる騒がしい橋からのひそやかな墜落」 で、そんな“もやもや~っ”が吹き消されてしまいました。兎に角凄く面白くて。たぶん、いや絶対、かなり痛~い話ですが、語り手の女性の痛さが何だかだんだん愛おしくなりそうで、そんな自分に驚くやら笑うやら。

 さらに後半の話へと進むと、少しずつ昔の川の様子もわかってきて、何だかなぁ…と思いました。人間の姑息な知恵を、あざ笑うかのような激流の川。そしてその河によって右岸と左岸に分断されることで、差別意識を募らせていく住人たち。まるでその愚かさや滑稽さに、歯止めが効かなくなっていくように。
 でも何て言うか、この作品において人々の愚かしさと美しさは、ほぼ等価値というか同等なこととしてに描かれている気がして、そういうところも面白いです。そも、愚かしさと美しさなんて誰の中にも共存していて、それはこの“濁った激流にかかる橋”のように、無秩序に入り組みつつ複雑に絡んできっと分かちがたいものなのでしょう。

 一切の感傷をはねつけ感動的なことを描かない作風に、とても好感が持てました。隅々に至るまで面白かったです!
 (2007.11.12)

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長野まゆみさん、『あめふらし』

 『あめふらし』、長野まゆみを読みました」。

 “きのうの雨が玉先から滴(しずく)となって落ちた。” 54頁

 何て言うか…もう、すごく好きな世界でした。『よろづ春夏冬中』に収められた「雨師」の続篇にあたる作品で、市村兄弟や橘河たちの物語がさらに膨らんでいます。 

 子供の頃から傘を失くす名人だった。
 たとえば、54頁の文章を読んで私は、「あ、傘のあの部分は“玉先”って言うのか。そう言えば昔、あの丸くてぽちっとしたところから雨粒が落ちていくのを眺めるのが大好きだったなぁ…」と、たった一つの言葉から遠い記憶を呼び覚まされた。一瞬で霧が晴れ、その懐かしい記憶だけを掴んでまたこちら側に戻ってきた…という感じだった。
 長野さんの作品を読んでいると、そんなことがしばしば起こる。いつも不意打ち。思いがけない言葉が飛び込んできて、勝手に記憶を呼び覚ます。作品と記憶の中で重なりながらどんどんイメージが膨らんでいくので、その度に頁を繰る手を止めなければならない…。
 美しい単行本に目のない私が、指をくわえて眺めていたこの一冊。いわゆるBLなのだろうなぁ…と言うのが踏み切れない理由だった。『雨更紗』とか『サマー・キャンプ』は大好きだから、そんなに敬遠しなくても良かったのだけれどね。

 この物語に棲んでいるのは、長野作品でお馴染みの少年たちではありません。実際の年齢はよく分からない人物もいますし、一番若い市村岬が学生です。 
 けれども彼らも長野ワールドの住人、美少年たちと同じようにどこか不思議で非日常的な存在です。その中で唯一普通そうな市村青年は、その分“異”なものを引き寄せ“奇”なことに遭遇する才能には恵まれているのですから、難儀なことです(でも実は…)。

 ウヅマキ商會(その実態は、雨漏り診断などをする“何でも屋”)を営む橘河の正体は、タマシイを拾い集める“あめふらし”という存在で、社員の仲村の正体もなかなか普通じゃない。そんな会社で得体の知れないアルバイトをすることになったのが、タマシイを掴まれている市村青年でした。
 ウヅマキ商會には種種雑多な依頼が持ち込まれるのですが、その依頼人やら関係者やら、どうも怪しい。こっちの者ともあっちの者とも判断しかねる…人たちばかり。まあ何しろ社長の橘河が誰よりも海千山千なので、自ずとそうなってしまうのでしょう。仕事を言い付かった市村青年はいつも、いつの間にか厄介な事態に巻き込まれているのでありました。

 ふと気がつくと易々と時空を飛び越えている。ひょいと足を踏み入れたそこには、異界のモノたちがうごめき潜んでいる。そんな長野ワールドが、存分に堪能出来る作品でした。極上の幻想譚です。
 (2007.11.9)

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皆川博子さん、『たまご猫』

 『たまご猫』、皆川博子を読みました。
 
 “猫の形をした虚ろは、次第に深い青みを帯びはじめた。 夕映えが薄闇に侵されるのと、それは符節をあわせていた。 猫の前肢に爪あたりに、一点、紅い色が、夕映えの雫のように残っている。” 25頁

 単行本として出版されたのが1991年の短篇集です。’87年に『花闇』、’88年に『聖女の島』や『二人阿国』が上梓されていることから、皆川世界がより凄味を増していく頃の短篇集…と位置付けていいかもしれません。
 収められている作品は、「たまご猫」「をぐり」「厨子王」「春の滅び」「朱の檻」「おもいで・ララバイ」「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」「雪物語」「水の館」「骨董屋」の10篇です。

 忘れがたい印象を残す秀作ぞろいです。とりわけ、説教浄瑠璃を題材として採り込んだ「をぐり」や「厨子王」の美しさにはうっとり酔いしれました。 
 「をぐり」の登場人物は、老年にさしかかった一組の男女です。どうやら男性の方が女性の家で食事をもてなされながら、二人で会話を交わしているらしい…という場面から始まります。ここで二人の会話の中に“境界の地”という言葉が出て、それが男性の口から「餓鬼阿弥というのを、ご存知ですか」という問いかけを引き出すきっかけとなります。ここのところの文章の流れは、勿体ないような気がしてしまうほど、幽玄なイメージをひき起こす素敵な出だしです。 
 説教浄瑠璃の「をぐり」のことも、その会話の中で語られます。説教浄瑠璃の「をぐり」は、歌舞伎「小栗判官」のもとになった話です。怖くて哀しくて美しい話だなぁ…と思いながら読んでいるうちに、まるで袋の内側と外側を一瞬でひっくり返すみたいにして、説教浄瑠璃「をぐり」の世界が、一組の男女側の「をぐり」の世界に立ち現れてくるような、そんな妖しい逸品となっています。

 また「厨子王」は、皆川作品にしばしばある世にも儚く美しい“姉と弟”ものの作品です。時おり挿入される浄瑠璃の方の「厨子王」の文章をじっくり読んでいると、本文にひそむ残酷さが誤魔化しようもなく滲み出してきて、背すじがぞくりとします。やはり怖ろしい、そして美しい。 
 妖しい魅力という点では、「春の滅び」や「朱の檻」が堪らなく素敵でした。そこには狂気があり退廃があり、覗き込むとくらくらしそう…と思いながらも覗き込まずにはいられない、血で繋がれた女たちの姿がありました…ぞくぞくっ。ラストで奈落に突き落とされる作品もあれば、すくい上げられたように感じる作品もあり、皆川さんの作風が隅々まで行き届いた短篇集でした。
 (2007.11.5)

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村上春樹さん、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、村上春樹を読みました。

 “「しかしあんたはその世界で、あんたがここで失ったものをとりもどすことができるでしょう。あんたの失ったものや、失いつつあるものを」
 「僕の失ったもの?」” 109頁(旧装の文庫、下巻)

 幾度も読んだ作品。おそらくは10年ぶり…くらいの再読。ボブ・ディランを流しつつ。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」という二つの物語が、それぞれの短い章が交互する形でパラレルに語られていきます。並行する世界を時折繋ぐものには、一角獣の頭骨を筆頭に、リンクし合うディテールやアイテム、まるで共鳴しあっているかの出来事があります。短めの章立てで、一見無関係のように進む二つの物語の間で頻繁に起こるリンクや共鳴。この意図的な仕掛けによって、話は並行しながら進んでいる…という印象を受けます。でも本当は、時間の流れ方が全く違うのです…。

 物語の終盤にたどり着いたとき、一本のもつれた糸がするすると解けるように、「ああそうか、この物語の時間の流れは“ハードボイルド・ワンダーランド→世界の終り”だったんだなぁ」と、私はすんなり思いました。ううむ。
 ところが、途中で他の方の感想(読書会の)をちらっと読んでみたらば、必ずしもそうは読まれない方もいらっしゃると知り、何と言うか…吃驚しました。新鮮なほどでした。そういう方たちは、“二つの物語がだんだん近付いて一つに重なる→主人公の死”という読み方をされていたのです。ううむ。

 そして。
 私は解釈にはあまりこだわりたくないので、「なるほど、そうも読めるかも?」というなるべくニュートラルな気持ちで向かい合ってみたわけですが、その結果はやはり、初読のときの素直な印象を捨てることは出来なかったです。じゃあどうして私はそう読むのか?ということを少し考えてみました。だって、季節も繋がるし。あ、そういう問題じゃあないですね。

 私はこの作品を、死の気配だけに満ち満ちた物語としては読めないのです。もしも二つの物語が同時にあのラストにたどり着いたとするのなら、その先には本当に何もないかも知れません。でも私にとってこの物語に描かれてあるのは、死と再生です。すると順番から言って、死の次にやってくるのが再生ですから、“ハードボイルド・ワンダーランド→世界の終り”という時間の流れじゃないと具合が悪いです。
 〈私〉がいるのが現実世界だとすると、〈僕〉がいるのは深層意識の世界です。そして〈私〉の意識は、すったもんだを繰り広げた挙句にその甲斐もなく、現実世界では失われることとなり、それを〈私〉は“死”と考え受けとめます。でも。
 私には、博士が〈私〉に教えた言葉を、その場限りの気休めとは思えません。「そこで私は私自身となり、かつて失い今失いつつあるものと再会することができるのだ」という言葉を。つまり、ここでの時間の流れを“ハードボイルド・ワンダーランド→世界の終り”として捉えると、現実世界での〈私〉は死(冷凍保存?)を迎えるけれど、深層意識の世界へと降りていき、そこでもう一度〈僕〉として、失われたものをとりもどすことが出来る。つまりそれは、魂の再生だと思うのです。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」が死へと向かう“動”の物語なら、「世界の終り」は魂の再生へと向かう“静”の物語である…というように。

 「ハードボイルド・ワンダーランド」の〈私〉は、不特定な女の子(コールガールとか)を相手に、心を求めないセックスをすることで性欲を処理しています。一方「世界の終り」での〈僕〉は、図書館の彼女に強く惹かれながらも、心がない彼女と寝るわけにはいかない、と考えます。 
 何かに疲れ、いろんなもの(大学ノート一冊分くらい)を失い続けてきた〈私〉。真摯に誰かを愛しその心を求めることから遠く隔たって、孤独な生活に自分なりに満足していた〈私〉が、深層意識の中の〈僕〉として、こんなにも切実に彼女の心を求める。これは、“魂が失っていたものを取り戻した=魂の再生”ではないでしょうか?
 終盤に近付くと〈私〉は、自分の人生に対して内省的になっていきます。この辺りのもの哀しさ切なさは、しみじみ沁みます。失い続けてきて何も残らなかった人生も、そんな自分をとりまく世界も、〈私〉は彼なりのやり方で愛していた。彼はそのことをはっきりと自覚し、この世界から消え去りたくはない、と強く思います。私もいつしか〈私〉の失われゆく人生への哀悼で、胸が一杯になりました。そして、彼に囁きたくなったのです。
 あなたの意識は、確かにこちら側では失われる。でも、これからあなたがいく世界で、きっと失ったものをとり戻すことができるよ…と。

 それにしても、こちら側(現実)の世界から見ると、〈私〉は死んでしまったことに一応なるでしょう。深層意識の世界に永遠に囚われて、たとえそこで魂のレベルでの再生があったとしても、なぜそれがこちら側で起こらなかったのだろう…?という虚しさがここには漂っています。ただ、「ハードボイルド・ワンダーランド」の後に「世界の終り」が来ると考えると、前者のラストは閉じているのですが、後者のラストはまだ閉じていないという印象を受けます。何か…、ここから〈僕〉と図書館の彼女の関係が変わっていくのかなぁ?とか、いずれ森に入っていくのかなぁ?とか。

 結局〈僕〉に、〈影〉と別れて向こう側(深層意識の世界)にとどまることを選ばせたものも、〈私〉が最後までこだわり続けてきた「公正さ」でした。目の前の世界(自分が作り出してしまった深層意識の世界)を見捨てれば、元の現実世界へと戻ることが出来る。けれどもそもそも、目の前の世界を見捨てることが出来るような〈私〉や〈僕〉であるならば、こんな話にはならなかったのだから…というジレンマ。切ないラストです。
 (2007.11.2)

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