笙野頼子さん、『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』

 昨日、面接なるものに行ってまいりました。  
 一件の求人に申し込みをしたのが先週の木曜日、月曜日に履歴書等を郵送したらば翌日電話があり、金曜日に面接。展開が早いなぁ…などと、感心している場合ではありません。何だか色々訊いてくるなぁ…と思っていたら、内定していました。す、すみません。詳しい説明を聞いたらきつそうな内容なので、む、無理かも。今後もマイペースで探そうかな…。自宅から近いのが魅力でした。 

 さてさてここから本の話。 
 少し復習の必要を感じて、『だいにっほん、おんたこめいわく史』もめくりました。う~ん。本当は笙野さんの作品は、もっと時間をかけて読み込まないといけないのでしょうね…(図書館の予約本がどんどん届いているし…うう)。

 『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』、笙野頼子を読みました。
   

 三部作の第二弾であります。この配色で白→黒と来たら次の装丁はやはり、燃え上がるような赤い本になるのでしょうか? いや、楽しみ楽しみ。  
 例によって身構えて読みましたが、前作よりかは読みやすかったです。その理由の一つは、埴輪いぶきの存在でしょうか。前作ではもっと複雑だった語りの仕組みが、この作品では、埴輪いぶきの視点から語られている部分が多かったので、いぶきをストーリーの中心に据えて流れを追っていくことが出来るのですね。  
 “おんたこ”に征服された日本では、すでに『だいにっほん、おんたこめいわく史』の時点にて、“国中の人間が自分の、当の本人の生き死にさえもよく判らなくなって”いました。そしてついにこの作品の中では、そんな生者たちの中に蘇ってきた死者たちが平然と立ち混じるという…そんな状況になっておりました。  
 どうやら、国家(つまり、おんたこ)から邪険にされた人ほど、死後に蘇りやすいらしい。しかも、かつて“みたこ教団”の本部が置かれていたS倉市が、死者たちにとっては色々と都合がいいらしい(生者から見られやすいとか)ので、S倉に死者があふれる。でもとりあえず国家は、あくまでも死者を見えないものとしている。どうせ税金とか取れない相手だから。  

 そして、ここに登場する埴輪いぶきもそんな死者の一人です。この人がまた、よくわからないけれども面白かったです。“自分の書いていた小説の中に飲み込まれた”笙野頼子が、死者たちを相手にして“自分の書いてしまった世界がどのように悪い世界かを講義”するのですれど、その内容に対して、俺は自我とか判らん!てな調子でぶち切れちゃうのです。一応、この中では主人公なのに。 
 このいぶきと言う死者(“息吹”なのに死者…)は、何かを滔々と語り出しそうな気配を持ちつつもなかなか自分のことを語らないです。でも、父親の埴輪木綿造が火星人落語(笑えないものを無理に笑う落語)の中興の祖なのだそうです。この火星人落語は前作でも出てきましたが、完結編ではどんなことになるのか、ストーリーとの絡みがこれまた凄く気になります。  
 おんたこ経済も冷えてきたみたいですし、少しずつ反逆の気配も漂ってきてるようですし、完結編でどうなっちゃうのか兎に角楽しみです。  

 本当は私にも、世の中に対してげんなりしてしまうことはよくある。洒落にならないくらいよくある。けれどもそういう事はやっぱり、相手を選んでしか口に出せない。私が嫌だなぁ…と感じることを、享楽している人が沢山いることも確かだから(見回せばネオリベが、おんたこが)。そんな、あれやこれやを思い出しながら読んでいたら、流石に苦しかった。時々胸が疼いた。でもだからこそ私は、笙野さんの作品を読まなければならないのだろう。 

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