桜庭一樹さん、『私の男』

 綺麗は汚い、汚いは綺麗――。 
 目を背けたくなるほどおぞましいものに心惹かれてやまないとき、私は必ずこの台詞を思い出します。そもそも実を言えば、私の指針の一つになっているかもしれません。…ちょっと大袈裟ですけれど。
 この作品の感想も、この言葉に尽きるかなぁ…と思ったのです。

 『私の男』、桜庭一樹を読みました。
 

 桜庭さんの作品を読むのは二作目です。正直なところ、とても驚いてしまいました。兎に角凄い…!
 このタイトルにしても、装丁に使われたデュマスの絵にしても、まるで読み手に対して挑みかかってくるような大胆さを感じていましたが、きりきりと迫ってくる息詰まるような読み応えで、はったりでも何でもなかったことがよくわかりました。始めから終りまで、ただただ圧倒されていましたもの。タイトルも表紙も、これしかない…!という感じです。

 メインの語り手となる女性の名前は、腐野花。 
 腐野花(くさりのはな)とはまた、作者は何と凄まじき名前を与えたことでしょう。ぐすぐすと、腐乱し続ける“花”。死者に手向けられると同時に、じわじわと腐臭を放ち始める“花”…。そして“くさりの”は、“鎖の”にも繋がるのでしょうか。血の鎖に。
 誰の手も届かない地の底を這って、誰にも連れ戻せない闇を下って、人としてのタブーを犯し合う二人の目には、どんなにか美し過ぎる光景が映ったことだろう…とか、そんなことをつい考えてしまいました。禁忌を冒す、闇黒に選ばれし者たち。人はたぶん、そんな彼岸を垣間見てしまったおぞましき異端者たちを、嫉妬にも似た思いで糾弾するのではないか、とか。いや、嫉妬だなんて誰も認めないのは重々わかっているけれど、許すわけにはいかない…という強迫的な倫理は、人がタブーに惹かれることを強く怖れていることの裏返しなのかもしれない。

 章によって語り手が変わり、時系列を遡っていく構成になっています。そして第1章の語り手が、腐野花です。冒頭の場面がとても印象的で、“私の男”という言葉がいきなり目に飛び込んできます。“私の男”とは、腐野花の養父である腐野淳悟のことですが、この場面ですでに、エキセントリックな魅力を持つ男性であることが見てとれる、秀逸な書き出しになっていると思います。
 そしてすぐに、“わたし”と“私の男”の間で過去にいったい何があったのか…という疑問が、話の核心に触れる謎として読み手の前に立ち現れるのです。そうして話の舞台は、語り手を変えながら少しずつ、秘密を隠した過去へと遡っていくのでした。

 まるで作品全体を覆うように海の存在感が酷く大きいのも、強く心に残りました。まず第1章の半ばで、“エメラルド色の海が、鮮やかに染めたビロードの布のように”とか“燃えるような赤い夕陽”という描写が出てきたので、「こんなに陳腐な表現を使う作家さんだったっけ?」と吃驚したのですが、さらに読み進んでいくと、これもまた巧みな仕掛けだったのか…と思えてくるのです。 
 つまり、“花”がフィジーの海のことを“ばかみたいな海”と言い放った理由が、後半ではっきりとわかります。“ばかみたいな、エメラルド色の海”とは比べ物にならない、人の命をも飲みこむ北の海の容赦なき厳しさ。何度も繰り返される北の海の描写は本当に素晴らしくて、罪のないフィジーの海がちょっと気の毒になったほどです。 読んでいるだけで本当に、背中から凍えてきそうな心地がしました。

 奪い合うばかりの絆の男女が、狂おしく求め合う姿はひどくおぞましくて、そして、けれども、怖いように美しい。

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