村上春樹さん、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、村上春樹を読みました。

 “「しかしあんたはその世界で、あんたがここで失ったものをとりもどすことができるでしょう。あんたの失ったものや、失いつつあるものを」
 「僕の失ったもの?」” 109頁(旧装の文庫、下巻)

 幾度も読んだ作品。おそらくは10年ぶり…くらいの再読。ボブ・ディランを流しつつ。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」という二つの物語が、それぞれの短い章が交互する形でパラレルに語られていきます。並行する世界を時折繋ぐものには、一角獣の頭骨を筆頭に、リンクし合うディテールやアイテム、まるで共鳴しあっているかの出来事があります。短めの章立てで、一見無関係のように進む二つの物語の間で頻繁に起こるリンクや共鳴。この意図的な仕掛けによって、話は並行しながら進んでいる…という印象を受けます。でも本当は、時間の流れ方が全く違うのです…。

 物語の終盤にたどり着いたとき、一本のもつれた糸がするすると解けるように、「ああそうか、この物語の時間の流れは“ハードボイルド・ワンダーランド→世界の終り”だったんだなぁ」と、私はすんなり思いました。ううむ。
 ところが、途中で他の方の感想(読書会の)をちらっと読んでみたらば、必ずしもそうは読まれない方もいらっしゃると知り、何と言うか…吃驚しました。新鮮なほどでした。そういう方たちは、“二つの物語がだんだん近付いて一つに重なる→主人公の死”という読み方をされていたのです。ううむ。

 そして。
 私は解釈にはあまりこだわりたくないので、「なるほど、そうも読めるかも?」というなるべくニュートラルな気持ちで向かい合ってみたわけですが、その結果はやはり、初読のときの素直な印象を捨てることは出来なかったです。じゃあどうして私はそう読むのか?ということを少し考えてみました。だって、季節も繋がるし。あ、そういう問題じゃあないですね。

 私はこの作品を、死の気配だけに満ち満ちた物語としては読めないのです。もしも二つの物語が同時にあのラストにたどり着いたとするのなら、その先には本当に何もないかも知れません。でも私にとってこの物語に描かれてあるのは、死と再生です。すると順番から言って、死の次にやってくるのが再生ですから、“ハードボイルド・ワンダーランド→世界の終り”という時間の流れじゃないと具合が悪いです。
 〈私〉がいるのが現実世界だとすると、〈僕〉がいるのは深層意識の世界です。そして〈私〉の意識は、すったもんだを繰り広げた挙句にその甲斐もなく、現実世界では失われることとなり、それを〈私〉は“死”と考え受けとめます。でも。
 私には、博士が〈私〉に教えた言葉を、その場限りの気休めとは思えません。「そこで私は私自身となり、かつて失い今失いつつあるものと再会することができるのだ」という言葉を。つまり、ここでの時間の流れを“ハードボイルド・ワンダーランド→世界の終り”として捉えると、現実世界での〈私〉は死(冷凍保存?)を迎えるけれど、深層意識の世界へと降りていき、そこでもう一度〈僕〉として、失われたものをとりもどすことが出来る。つまりそれは、魂の再生だと思うのです。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」が死へと向かう“動”の物語なら、「世界の終り」は魂の再生へと向かう“静”の物語である…というように。

 「ハードボイルド・ワンダーランド」の〈私〉は、不特定な女の子(コールガールとか)を相手に、心を求めないセックスをすることで性欲を処理しています。一方「世界の終り」での〈僕〉は、図書館の彼女に強く惹かれながらも、心がない彼女と寝るわけにはいかない、と考えます。 
 何かに疲れ、いろんなもの(大学ノート一冊分くらい)を失い続けてきた〈私〉。真摯に誰かを愛しその心を求めることから遠く隔たって、孤独な生活に自分なりに満足していた〈私〉が、深層意識の中の〈僕〉として、こんなにも切実に彼女の心を求める。これは、“魂が失っていたものを取り戻した=魂の再生”ではないでしょうか?
 終盤に近付くと〈私〉は、自分の人生に対して内省的になっていきます。この辺りのもの哀しさ切なさは、しみじみ沁みます。失い続けてきて何も残らなかった人生も、そんな自分をとりまく世界も、〈私〉は彼なりのやり方で愛していた。彼はそのことをはっきりと自覚し、この世界から消え去りたくはない、と強く思います。私もいつしか〈私〉の失われゆく人生への哀悼で、胸が一杯になりました。そして、彼に囁きたくなったのです。
 あなたの意識は、確かにこちら側では失われる。でも、これからあなたがいく世界で、きっと失ったものをとり戻すことができるよ…と。

 それにしても、こちら側(現実)の世界から見ると、〈私〉は死んでしまったことに一応なるでしょう。深層意識の世界に永遠に囚われて、たとえそこで魂のレベルでの再生があったとしても、なぜそれがこちら側で起こらなかったのだろう…?という虚しさがここには漂っています。ただ、「ハードボイルド・ワンダーランド」の後に「世界の終り」が来ると考えると、前者のラストは閉じているのですが、後者のラストはまだ閉じていないという印象を受けます。何か…、ここから〈僕〉と図書館の彼女の関係が変わっていくのかなぁ?とか、いずれ森に入っていくのかなぁ?とか。

 結局〈僕〉に、〈影〉と別れて向こう側(深層意識の世界)にとどまることを選ばせたものも、〈私〉が最後までこだわり続けてきた「公正さ」でした。目の前の世界(自分が作り出してしまった深層意識の世界)を見捨てれば、元の現実世界へと戻ることが出来る。けれどもそもそも、目の前の世界を見捨てることが出来るような〈私〉や〈僕〉であるならば、こんな話にはならなかったのだから…というジレンマ。切ないラストです。
 (2007.11.2)

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )