笙野頼子さん、『だいにっほん、おんたこめいわく史』 再読

 『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』を読んで、『だいにっほん、おんたこめいわく史』の復習をしたくなりました。
 何だか色々忘れてるなぁ…と、自分の記憶力に落胆しつつめくっていましたら、結局ぐぐぐ~っと引き込まれて最後まで再読していました。やっぱり、面白いのですもの。特に冒頭から巫女さんの託宣までは、本当に吸引力があります。ここで捉まって、やめられませんでした。

 今日は再読、『だいにっほん、おんたこめいわく史』です。
 
 〔 小さい私から大きく振り返るそれが文学だ。 〕 220頁(『言語にとって、ブスとはなにか』より)  

 再読だけあって多少は読みやすく、前回苦戦したので自分でもいささか吃驚桃栗でした。いやいや、私なんぞが「読みやすかった」などとのうのうと言っては噴飯ものですけれど、あくまでも初読時と比較すると…という話です。たとえば初読の時は、前触れもなく(章のタイトルに出てくるとは言え)語り手がコロッと変わるので、その文脈についていくのに必死でした。語り手たちの関連性も見えてこないまま、いきおい手探りになって読み進まなければいけなかったりしたものです。
 ところが今回の再読では、始めからそういうものだと割り切って読んでいるし、すでに先に読んだ『おげれつ記』で雰囲気や関係に慣れてしまった所為もあってか、その点はすんなり入りやすかったような気がします。

 改めてこの作品を読んでみると、作品内に内包されているものの複雑さ幅広さに気付かされて驚きました(整理するのが難しくて言及出来ませんが)。前回はあまり気に留めていなかった(てゆーか、その余裕がなかった)、F市の遊郭や遊女の話も興味深かったです。虚構世界の火星人少女遊郭と、実在したF市の遊郭。でもその両者は、“おんたこ”の存在でつながっていて、F市の遊郭で古き“おんたこ”の姿を見ていた“比丘尼の子・おたい”の語りでは、無理やりな神仏分離のことにまで触れられていて、ここで宗教の話にも繋がるし。う~む、面白い。

 あと、前回はどうしても「おんたことは何ぞや?」という方に気を取られてしまいましたが、今回は逆に“みたこ教”って凄いなぁ、なんて思いました。私は特定の宗教を信仰していませんが、時として、苦しいときの神頼みってやっぱりあると思うのですよ。何か…そういう神頼み的なレベルの、シンプルで素朴な、人類よりも大きな存在の力に縋ってみたい!という感性って、本当は失くしてはいけないものなのかもしれないと、思うことはあります。 
 例えば私は、古い大樹の前に立つとどうしても、敬虔で厳かな気持ちになると同時に、自分の存在が静かに誰かに見守られているような気がして泣きたくなる。それで私は勝手に、大樹を信仰している…と言うと大袈裟ですが、自分よりも大きな何かに対して敬虔な気持ちになったり、大いなるものに見守られている…と感じることは、普段私たちが思っている以上に大切な感性なのではないか…と思うのです。そういうことを忘れてしまうと、人は何処までも傲慢になってしまうのではないかと。 
 と、そんなことをつらつら考えてみると、“みたこ教”のゆるさ加減は興味深いです。がっちりと固まってしまった宗教にはアレルギーのある私でも、“みたこ教”だったら面白がってしまいそうです。枠のない大らかな信仰、という印象がありました。まあ何しろ、仏教とキリスト教の習合だったりしますからね。

 先日、笙野頼子特集目当てで買った「文藝・冬号」に、「佐藤亜紀×小谷真理 対談による笙野頼子全著作レヴュー」が掲載されていました。すごく読み甲斐があってうはうはな内容でした。

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