リチャード・ブローティガン、『西瓜糖の日々』

 『博士の本棚』で紹介されていた本。小川洋子さんの作品が初めて本になるときに、担当編集者から贈られたそうです。
 『西瓜糖の日々』、リチャード・ブローティガンを読みました。

 “あるいは、あなたはじっと覗きこむようにして、川を見つめていたのかもしれない。あなたを愛していた誰かが、すぐそばにいた。あなたに触れようとしていた。触れられるまえに、あなたにはもうその感じがわかった。そして、それから、あなたに触れた。” 14頁

 こんな物語を読んだとき、私は私を留守にしよう。外へと開く扉は堅く閉ざし、誰の邪魔も入らないよう気を付けて、余韻の繊細な輪郭がずれないように…いつまでもそっとしておくのだ。こんな、さびしくて美しい物語を読んだときには。 

 読んでみて、なるほど…と納得した。小川作品の世界とどこかで地続きのような気が、しきりとしてならなかった(そう…例えばあの、ぜんまい線を抜き取られた人々の暮らす収容所の話とか)。あの小さな物語に漂う空気を引き伸ばしたかのように、アイデスの空気はますます薄く、そこに住む心優しき人々の存在はますます淡い。
 いく筋も流れる細い川には、西瓜糖でできた橋がいくつも架けられ、その水中には様々な彫像が、水底に葬られた死者たちを守るように立っている。そして夜にはランタンの灯に、照らし出される。そこではあらゆるものが、西瓜糖で出来ている。流れる水の音をいつも聞きながら、毎日違った色で輝く太陽に照らされながら、人々は、永遠の時の中でまどろみ続けるかの如く、おのおのの日々を送り愛し合ったりしている。 
 透き通る哀しみのように優しく、眠りのように静かに、滅びることからさえ忘れ去られ、どこへも向かわないアイデス“iDeath”に守られている彼ら。 

 安らかな絶望、という言葉がふいに浮かんだ。或いは彼らは、絶望しているわけではないかもしれない。けれども何一つ、希望しているわけでもない。彼らがまとう静けさは、希望すらも絶えた後の死のような平和、穏やかさのように思えてならなかった。 
 なぜか語り手には名前がないという。名前がない人物として周囲からも受け入れられながら、本を書いているという。何しろこの場所で最後に本が書かれたのは、35年も前という話だ。 

 全編を貫く語りは、まるで詩のように美しい。 
 この西瓜糖の世界ですら、己の中の過剰を持て余して滅んでいく人たちがいる。けれどもそんな彼らの存在さえ、アイデス“iDeath”を揺るがすほどの意味を持つことには決してならない(私はマーガレットのことが気になるが…)。閉ざされた空間、“微妙な感じの平衡が保たれている”アイデスの内側では、どこにもたどり着くことのない静謐な時間が、ただ淡々と、さらさらと零れ落ちていく砂のようにして、過去へと流れていくばかりなのだ。ここは、あらかじめ全てが失われていた世界だと、思い知らせながら。
 (2007.9.6)

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