ジャック・ケッチャム、『隣の家の少女』

 『隣の家の少女』、ジャック・ケッチャムを読みました。

 気付けば目が離せなくなっていた。これ以上のことを知るのは嫌なのに、読まないわけにはいかない。やはり凄い作品だ…と、思い知らされながら。
 冒頭の滑り出しはほぼ順調だった。「夏休み」というタイトルを付けてもいいような、少年と少女のいる風景が目の前に浮かび上がる。近所の小川でザリガニを捕る十二歳の少年デイヴィッドと、彼より二つ年上の少女メグとの出会いの場面である。物語はそんな風に始まり、デイヴィッドの視点から語られていく。こちらの予想通り、「夏休み」の風景画は一瞬のきらめきの後、どんどんどす黒く塗り込められていくことになる。
 実際にあった事件をモデルにしているという事実が、いつも重く圧し掛かってきた。メグを虐待するルース、それに加わる数人の子供たち、メグに好意を持ちつつも傍観し続けるデイヴィッド。全く救いがない。ストーリーは至ってシンプルで、物語はただただ陰惨さと残酷さをエスカレートさせながら、読み手の恐怖心を煽り立て追い詰めるように突き進んでいく。 

 唯一の望みをかけられるのはデイヴィッドであるが、邪悪さに免疫のない彼は、魅入られたように動くことが出来ない。
 この作品におけるデイヴィッドの存在は、やはり素晴らしくよく描かれていると思う。デイヴィッドの不誠実、情けなさ、自己欺瞞。それらを容赦なく暴き出していく筆は、平凡な人間の凡庸な弱さや狡さを突きつけている。「さあ、見ろ」、と。ルースや他の子供たちがモンスターになっていたとしても、デイヴィッドだけはちゃんと想像力のある当たり前の人間のままでいたはずなのだから。

 結局、メグだけが、彼らとかけ離れた存在だったことが悲劇を生んだと思う。生まれ持った素質に恵まれ、容姿も優れていた。知的で都会的な雰囲気を持ち、何よりも性質が高潔で誇り高い。本来ならばルースやルースの子供たちとは、何の接点もない世界で生きていけたはず。
 ルースの女であるがゆえの嫉妬は、ある意味単純でわかり易いが、子供たちを虐待へと駆り立てていったものは捩くれていてもっと気持ち悪かった。本来だったら自分たちが相手にされるはずもない美しく魅力的な少女を、好きなように存分に痛めつけることに中毒性のある快感を覚えていたのだろうし、そこには自分たちの劣等感を打ち消そうとする働きもあっただろう。そう、メグは彼らにとって、魅力的であればあるほど、それを認めたくない癇に障る存在、無意識の内にある劣等感を刺激する目障りな存在になってしまったのではないか。 
 子供たちにきっかけを与え、先頭に立って導いていったのはルースだとしても、子供たちの方にも充分に、受け入れる素地は出来上がっていた。そして虐待する側に少女(たぶん、美しくはない)が加わることで、彼らの不気味さはますます深まる。

 ルースと子供たちの間には、時折齟齬が生じる。虐待への欲望の出所が、彼らの間では違うから当然である。それでも二つの邪悪さは手を取り合って、戻れない道を突き進んでいく。私に救いがあったとしたら、メグの高潔さだった。
 忘れていいとは思えない、凄い作品でした。ふう。
 (2007.9.18)

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