小川洋子さん、『夜明けの縁をさ迷う人々』

 『夜明けの縁をさ迷う人々』、小川洋子を読みました。

 “故郷に銀杏の切り株を残し、夜を越え、朝を越え、自分は何と遠くまで旅をしてきたのであろうか。ここほど彼が野球をするのに相応しい場所はない。たった一個のボールのために捧げられた聖地だ。いよいよ彼は未踏の頂に第一歩を印すのだ……。” 195頁

 収められているは、「曲芸と野球」「教授宅の留守番」「イービーのかなわぬ望み」「お探しの物件」「涙売り」「パラソルチョコレート」「ラ・ヴェール嬢」「銀山の狩猟小屋」「再試合」。
 ううむ、どれも好きです。秋雨前線とは関係のない、私の中のいつもの雨降り。その静かな場所を慰撫してくれるのが、小川作品です。いつまでも雨が降り止まない場所の、遠く懐かしい気配とかそけき雨音に、耳を澄ますようにして物語に沈み込む…。 

 「涙売り」は再読になりました。不思議な設定の、不思議な味わいの一品でした。  
 そして一読してみると、色んな雰囲気のお話が読めた気がして大満足。朝にも属さないし夜にも属さない、この世界を朝側と夜側に分ける境界上のそのさらに縁では、どこまでも引き伸ばされた白い夜明けだけが、今も続いているのでしょうか? 新しい手付かずな一日の手前で、永遠に立ちすくんでいる夜明けの世界が。

 人の眸にはなかなか映らない何かを、いや本当は見えているはずなのに誰の意識にも残らない忘れ物のような何かを、どこからか丁寧に掬いとって差し出してくれるのが何て巧みなの…と、しみじみ感嘆しながら読みました。それはまるで優しくて慎ましい、小がかりな手品のようです。見物人もつられて息をひそめるほどの…。
 そうして差し出されるのは、例えばラ・ヴェール嬢の足の裏だったり、エレベーターの中のイービーだったり、リンパ液のさざ波だったりします。それらはあまりにもささやかで控えめな存在で、普段ならば私にも見えないものばかりなのに、差し出された途端に懐かしくなるような、ずっと探していた失くし物に出会えた気持ちにさせてくれる何か…なのです。

 私が好きだったのは、「お探しの物件」「ラ・ヴェール嬢」「銀山の狩猟小屋」「再試合」かな。 
 「お探しの物件」は、風変わりな曰く付きの物件ばかりを扱う不動産屋の、その物件の紹介の内容。「ラ・ヴェール嬢」は、作家Mの孫であるラ・ヴェール嬢の形見分けとして、M氏の全集十五巻を受け取った“私”が、生前のラ・ヴェール嬢から聞かされた奇妙な回想をたどる物語。「銀山の狩猟小屋」は、洋品店の女主人から別荘にと勧められ、狩猟小屋を下見に行った“私”と秘書のJ君が、そこで遭遇した異様な人物と出来事の話。
 で、「再試合」なのですが。これ、凄くよかったです。語り手が十七歳のときの、夏の出来事。通っていた高校の野球部が、七十六年ぶりに選手権大会へ出場することとなり…。終盤に物語が思いがけない方向へねじれていく、その切り替えしの描き方が素晴らしかったです。
 (2007.9.11)

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