日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

5月連休に突入…何をしましすか?

2018年04月29日 | Weblog

 こんにちは。
 やっととうべきでしょうか、とうとういうべきでしょうか、連休にはいってきました。いまごろはどちらで過ごしているのでしょうか。久しぶりの故郷へ帰っての日々を送る人、ここぞろばかり観光旅行に出かける人、あるいはどこへも行かずぼんやり、ゆっくりの自宅で過ごしているのでしょうか。いずれにせよ、自分の気持ちや行動を見直すいい日であってほしいものです。
 私は連休の初日は、毎年恒例の「メーデーの集会」に代々木公園に行って来ました。今年は天候もさわやかで演壇でアピールを読む声を聞いているよりも久しぶりの顔を見つけては話していました。連休は、日々のあわただしさから逃れてこれまでの思いをこれからのことに向ける気持ちの整理であっていいのでは思いますが…。さて、どんな連休になることでしょうか。

 今週は今日本の大問題「セクシャルハラスメント」があっちでもこっちでもという状況で話題になっていました。どちらも、「見えざる権力」をかさに女性にセクハラを繰り返した問題でした。誰でにでもきっと身に覚えがあるようなこともしれません。このニュースをみていると加害者の傲慢さがばかりが目立っていました。さらには、その傲慢さで相手をねじ伏せてしまうような暴力そのものに映りました。この状況は、どこかと似ているように見える…、と思えました。いまの国会の与党がまとまりのない野党を相手に政治を展開している様子が似ているように思えます。

 世界では、韓国と北朝鮮の統一会談でありました。「歴史的な瞬間」といわれる大ニュースのなかに日本のニュースはなんとも悲しい気がするばかりです。これが気になることだ。
 4月のおきた与党内での数々の不祥事に与党内でも浄化作用なるべく政治勢力がなかなかでてこず、野党にあっては分裂と野合をを繰り返している。いったい今後どうなっていくのか不安さえ覚えてしまう昨今の政治の流れでもあると思う。これは、政治という衣をきたファシストたちがなにか不穏な動きをたくらんでいるような気さえするのは考えすぎだろうか。首相が「ウミを出す」といってもそれに真剣に取り組もうとする与党内の議員が出てこない。野党が反対しても結局、多数で押し切ってしまう…。そして不祥事。あきれるどころか、不気味でもある。






 週末、職場の人の送別会に参加してきた。ひと口40年という時間の流れの中で今日までどんなことを思いでいたのだろうと思いつつ帰ってきた。
 40年と言えば、ぼくが入社した時にはすでに働いていとことになる。ぼくは20代であったのでそれほど会話を交わしていた記憶はなかった。20年くらいたってから同じ職場に異動になってから話すようになったのだろうか。
 記憶によれば、ぼくはこのご主人がなくなったときお通夜にいっている。当時契約社員であったため誰も行く人はいなかったのだが、同じ職場であったのだろう、さらに休みもあったので出席したのだろうと思う。それでも結婚した子どもたちに励まされて頑張ってきたのだろう。とうとう、再契約という今年条件もあまりよくなかったので契約をしなかったという。年も年だった。あとは結婚した子どもたちと生活していくといっていた。
 今後の予定は、一度行ってみたかった海外への旅行だそうだ。「友達が海外にいるのでそこで10日間ばかりゆっくりしてこようと思う…」ともあいさつで言っていた。

 「ほんとうは働きかった」という後ろ姿が寂しくも見えた送別会だった。
 高齢でどんな仕事ができるのか?
 人それぞれ違う。いま自分出来ることをやることなのだろう。それも丁寧に。遅くともいい…、丁寧に次の仕事の準備をするようにするしなないように思う。これからは仕事一つひとつが自分の体調をもつくっていくようになってくるのだと思う。けっして他人の速さにはついていけない代わりにできることを。

 「仕事だけが人生じゃない」と思っていても、いざこれまでの仕事から離れるとやはり寂しいのかもしれない。まして、仕事によって生活をしていた者にとってはなおさらだと思う。まだ、これからもと高齢者は増えるばかりである。そのとき僕はどうしているのだろうか思った。



【原宿駅】
 昔は「竹の子族」という若者が降りた駅だった。いまは、その若者たちも見かけなくなった。若者の街というイメージのする駅なのだろうか。
 ぼくが利用するのは、一年一度の行われる「メーデー」という労働者の祭典に参加すため降りる駅になっている。この日は、都内あちこちから働く人たちが集まってくる。なんのために…。少しでも自分の働く場所をいいものにしたいという希望があるからである。そして、労働組合からの動員だろうか。
 以前は、代々木公園に集合してそれぞれのアピールを聞き終わると神宮までデモ行進したものだった。最近は、デモ行進する団体もあるがほとんどが解散してしまうようである。ぼくが若いころは神宮までいって、近くの飲み屋によって親睦会をして解散だった。楽しかった…。元気でもあった。

 労働組合の若者離れには歯止めがかからないようだ。そして労働運動という言葉も聞かなくなった。いったいどこへ行ってしまったのだろうか。
 それでも、〇〇ユニオンだとかいう小さな組合は個々人を集めて頑張っている人たちもいる。日頃ぜんぜん関係ないと思っていた労働組合が、経営者のみにあまる横暴(残業代拒否、解雇、偽装倒産、パワハラなど)でいとも簡単に解雇されてしまう実態に職場の仲間で勇気をもって抗議する。ブラック企業という言葉に染まってしまっている現場に気がつき「これはいかん」となっていく。きっと、どこの職場で会社の労務管理に怒りを感じているところもあるのだと思う。その内容に疑問を持ち、経営者にそのなかみを変えて欲しいという単純な要求が、反古にされていく。はじめは話し合いでまとめていくつもりが、抗議に変わってしまう。本意ではないがそうなってしまう所もある。
 それは、その会社でこの人たちと一緒に働きたいという思いがあるからだ。さらには安心して働いたいという当たり前の思い。それが、いつのまにか大事になって「命と権利」という言葉が育っていく職場でもあるのだろう。
 そんな若者たちも多くいる。しかし、すぐにはそうならないのが現実なのだ最近なのだと思う。

 むずかしい理論はわからなくても「あたりまえ」が仲間をつくる関係が大事だと思う。そこから始まる労働組合が大事だと思う。
 ぼくは高齢となり、年々労働組合の人たちとの距離が遠くなっていくのが現実。とはいえ、ばくも働く仲間の一人。難しいことは言いたくないが、働く条件はこちらから言わないと経営者はいつになってもやらないということは骨身にしみている。メーデーにいくと「退職者の会」というメンバーにあうことがある。だいたい大手の企業か公務員関係の人たちである。そんな光景をみていると、こうして集まるためにどれだけ老体を酷使してきたのだろうと思える。

 メーデー集会で国会で始まった「働き方改革」は経営者の「働かせ方改革」になっているという発言があったことを思いだす。健全な働き方は、労働組としう組織と対等にまじめに誠意をもって応えてくれる企業だろう。まずは、労働組合をつくっても経営を考える人の育成から始めるべきではないのだろうか。電通の過労死自死事件以来、労働組合に対する不信感もあるのだろう。

 まさに「万国の労働者団結せよ!」である。



 4月終わる。
 寒い、暑いとい日々があるなかで緑も少しずつ濃くなってきた。山歩きなどをしていると、緑色がグラデーションになっていてきれいだ。おそらく秋は濃い茶色から赤へと木々が変わっていくことを想像してみることが出来る季節でもある。
 5月の連休は何をしようか…。
 それでは今月はこの辺で失礼します。
 楽しい連休になるといいですね。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

 

4月後半。連休が近づいていますが…

2018年04月22日 | Weblog

 こんにちは。
 気温は日々上がっていくようになってきました。寒いと思っても日が昇るはじめると汗ばむきせつとなってきました。
 通勤路ではツバメが少しずつ巣作りの準備をはじめていました。今年も昨年同様の何カ所に巣をつくるのでしょうか。風も光も柔らかな季節です。こんなときは、なんにつけ外へ出て光をいっぱい浴びておきたい季節です。

 さて、今週は「辞意」と「辞職」ということばがセクハラという言葉を間によく聞かれました。この国の政治はもう国民のための政治というよりは、まずは自分らのおかれている足場をみつめなおす時がきているようです。それを、全部任せてきた首相の責任は重いのではないかと思えます。最近では、支持率が低下してきて、その穴埋めのために訪米をしたり(こんな時期に訪米じゃないだろうと思うのに)、政治日程を追いかけては支持率低下の歯止めをかけようとしている姿があります。
 それでも、これまでの「一強多弱」というなかで行なってきた権力政治の傲慢さがあちこちでほころびを見せているということも事実ではないのでしょうか。さてさて、今後はどんなことを強行していこうといのでしょうか。




 女子アジア・カップの最終日(20日)、日本代表はは決勝でオーストラリアを1―0で破り、2大会連続2度目の優勝を成し遂げた。試合内容は、オーストラリア22本のシュート数の対して日本は5本。さらに、ゴール前のハンドでPKになってが、キーパーの山下が頑張って止めた。高倉監督のコメントでは「非常に厳しい戦いになる思っていた、苦しい時間帯が長く続いたが、粘り強く戦って勝利した選手たちにおめでとうと言いたい」と語る。

 相撲界では土俵に女性があがってはいけないアナウンスがあったり、ボクシングでは計量に失敗するチャンピオンがいたり、どこかスポーツがきびしいことなど忘れたり女性差別がまだあるのだと、いやな感じがあった中だった。そんな中でのスポーツ界あってはとても明るいニュースだった。
 ライブでの中継では夜中になってしまったので録画をしておいたものをみたが、ほとんど防戦一方だったのでこれは負けるだろうと思いつつみていた。ところが、ワンチャンスをものにして1点をもぎ取っての勝利だった。まさの決定力の差だった。(男子もこれだけの決定力があれば…)

 そんなな中で目立ったのがディフェンスがよかった。相手に攻め込ませながら最後は相手選手のボールを取り囲んで、相手のスピードを落とさせるなどチームプレーができていたように見えた。そして若手選手の台頭である。
 そして身長のさを埋める背後へのスピードある攻めがよかったように思えた。これで、ワールドカップもがんばってほしいものだ。
 ガンバレなでしこジャパン。それでも、宮間選手や大野選手の復帰を期待したい。


 今年のピュリツァー賞はセクハラ追及したハリウッド映画界の大物追うものプロデユーサー、ハーベイ・ワインスタイン氏をセクハラ疑惑で追及した雑誌ニューヨーカーと有力紙ニューヨーク・タイムズを選んだ。この報道をきっかけに「#MeToo運動」にさらに拍車がかかりそうだ。

 どこでどうまちがえたのか、女性に対するセクハラ行為で政治家があいついで「辞任」「辞職」に追い込まれているシーンがよくニュースになった週だった。あろうことが、女性記者にセクハラをしていた財務次官ということも驚きだ。真実を伝えるべき報道関係者の自分の意のままに記事を捏造させる気でいたのか、これは恐ろしいことだ。まさに「独裁者」の気分だったのではないか…とも。これも、いまの政治のありかたがよく表現された事実だろうと思える。法律をつくるべき公僕の行動は、それを任命した人、麻生太郎副総理兼財務相の責任問題も追及されても仕方がないうようだ。

 これが今の政治の中心議題。国民そっちのけでの国会をつくっているのは誰だろうか。訪米も大事だろうが、まずは自国の政治家たちのふるまいを正すようにしてほしい首相の仕事だろう。だから、自衛官に暴言まで浴びせられる国会議員も出てきてしまうのではないか。そのうち、言葉だけではなく、武器を向けられるのではないか…。今の国会のありかたに不安を感じる日々がまた増えたように思えた。


 最近、退院して職場復帰をした人といっしょに仕事をするようになった。彼はがんでしばらく休職していた。さらに、声帯を手術でとってしまっているために話すことがうんまくできない。時々、職場では他の人の協力をしてもらっている様子だった。それでも、相手にうまく連絡ができていないことに日々ストレスがあるようにも見えた。一緒に仕事をした私もそのことがあった。連絡がうまく伝わらないという事実がたくさんあった。

 これまで、一緒に仕事をした人の負担は増えるのだろうなあ…。だから、あまり語らないが「一緒に仕事をしたくない」という雰囲気もでているように思う。正直、わたしも現実そのことと向き合うと仕事の歯車(自分がやろうとしていることに対して)がずれてきていくようにも思えた。例えば、一つの商品が必要な時の、その商品担当の彼がうまく連絡をとっていなければ、私のやっている仕事にも影響を及ぼしてくる、ということ。そして、その仕事を何分の一か手伝っていくのうちに、自分のペースがくるってきてうまく流れない…という現実になってしまうことがでてくる。

 どれも、自分が伝えたいことがうまく表現できていないことにストレスがたまっていくように思う。健常者は自分の表現をやろうとしたとき、障がい者の人の表現とうまく一致できていけるかなとも思う。
 結局のところ、うまく表現できる工夫が必要なのだろう。これは仕事以前の生活の中でのことでもある。自分であればこう表現したい。それにはこの道具をつかうとか、だれだれの助けを受けるとか…、はっきりした準備が必要なのだろう。とくにその準備は障がい者の方が必要にになってくるのは間違いないことだ。差別ではなく、ちゅんと自分の体と向き合った自分の表現を工夫することでお互いの負担を軽くすることが障害の理解もできてくるのではないかと思う。それには、「助けてあげたい」という気持ちは捨てた方がいいように思える。なぜなら、一生助けを借りることを期待されても困るからだ。要はお互いの工夫を出し合いながら、伝えていくことが大切なように思う。

 とはいえ、「言うは易し、行なうは難し」どうしていくのか、考えて行動しなかればお互いが不幸だろうと思えた。できれば避けたいが、世の中「2人1人ががん」といわれる。他人事とは思わないが、いまの老体にはきつい日々になっていることはますます現実味をおびてきている日々だ。ボチボチ初めていくしかないと考えた週だった。




【吉祥寺駅】
 通勤時、中央線では降りる人より乗る人の方が多い。あさのラッシュ時には目の前の人がうまく立って降りてくれるのを期待する駅でもある。そんな期待があるような駅でもある。吉祥寺は通過するだけの駅。

 むしろ自転車や徒歩で歩く地域というところだ。
 30~40年前はこんなに人も多くはなかった。駅前も静かだったし、井の頭公園も静かであった。さらに歩けば、山本有三館というところもゆっくり休めるところだった。有三館は三鷹の図書館の分室のような存在だったのだろうか子どもを自転車の乗せて動物園の帰りによくよったところだ。絵本ばかりがとても多くて立ち寄っては借りたものだった。係りのおばさんもゆっくり子どもと話しをしてくれたものだった。とくに、小さな子どもとはなすことに慣れていた人だったので面白かった。今は、有料になってしまった。まずはお金を払ってから始まる地域になってしまったのは残念である。第一に子どもにとっては遠ざかる有三館になってしまったように思う。今ごろは、庭先で子どもたちが遊んでいる姿をみかけなものだった。子どもがいなくなって静まりかえったあとはカジカカエルだろうかきれいな鳴き声が池の方からした記憶も遠い昔になってしまったのかなあ…。
※ちなみ入館料300円。年間パスポートは1000円。午前9時から午後5時(月曜日休館)です。



 井の頭動物園もよかった。
 一枚の入場券で動物に会える、奥へいけば彫刻家の北村西望の作品も見学できることもできた。さらには、道路を渡り水族館にも行けた。「一石三鳥」の経験ができるところでもあった。私がすきだったのは、象のはな子さん(もう死んでいない)と水族館だった。水族館では淡水にすむ身近な生物がいておもしろい。こんな身近な生物は子どもの頃はどこにでもいたんだ…ということをつくづく感じる水族館だ。そして、つかまえては食卓にもあがったことを思いだす。ドジョウなどは高級になってしまったが、子どもの頃はちょっと頑張れば食べられた…とも思う。いまでは貴重な生物ということを聞くたびになんとも人間とは、なんとあさましい生き物だなと反省してしまう所だった。

 最近では昔よりも人の多さは何十倍にもなっているのだろう。現在のヨドバシカメラには近鉄デパートがあって、よく四国そばを食べにいきました。ハーニモニカ横丁を抜けると丸井があったようで、今はそれぞれ違うお店のテナントがはいっているようです。
 今は亡きフォーク歌手の高田渡さんが焼き鳥を手に酒を飲んでいる井之頭の「いせや」あたりの光景がなつかしい…。今は幻になってしまったのが残念だなあ。政治家の答弁を歌いあげた「値上げのうた」がなつかしい。さらには、もう時効になったのか「井の頭公園バラバラ事件」のことも人の記憶からうすれてしまったのだろうか。そんな怖い事件もあった時代は遠い昔のことではあるまい。おそらく、当時は人気がなく静かな公園だったのだろうと思う。そして近くには玉川が流れている。万助橋からのずむ川の深さは大人のヒザくらいである。太宰治が1948年6月13日に東京都三鷹市の玉川上水にて愛人(山崎富栄)と身を投げて自死しなことは有名である。当時はもっと水があったのだろう。



 
 「働き方改革」を目玉に始まった国会論議だと思いきや厚生労働省の資料データのでたらめぶりにはじまり公僕者であるはずの人たちの私利私欲のスキャンダルに染まり、あげくの果てに公文書改ざんとなり、いつの間にか国会が権力者対野党との紛糾ぶりを見せた日々になっていた。原因は全部、当事者たちがなかなか本当のことを語らず、出ず、さらには逃げている構図が出来上がっていた。
 唯一、政治の場で歓迎できるのは「北朝鮮の核開発中止」という話題。それでも日本などは、あいかわらず北朝鮮を煽ることばかり政治日程にあげているようだ。「用心にこしたことはない」のはわからないでもないが、一度、相手のテーブルについて食事を囲んで話すくらいの余裕があるといいのに…。
 要はこちらラ側の構えの問題なのだろう。「拉致被害者問題」を出してきてまたしても未解決のなるのだろうか。本気で考えていれば米国に行く前に北朝鮮に行くくらいの勇気と外交力を見せてほしいものだ。
5月の連休が近づいてきました。
 さて何をやるやら…、いまだ予定なし。途中メーデーに参加しようと思案中です。それから、連休前の仕事(新聞2回分)の作成の手伝いかね。ことらは、前の職場(一人職場の時代)の人たちとの作業となる。板橋から中央区まで出かけての作業である。考えてみれば、本社より楽しいような気さえする(移動がめんどうなのだが…)。では、なぜ今の職場は楽しくないのだろうかと考えてみると、会話がないのが一番だろうか、合わないのいうのか、世代が違うのいうのか…。

 今年は本気でごみの部屋を片付けないと体力もなくなってきた気がする。それと、年金受給書類の作成に手を付け始めた。なんとも面倒な言い回しが多くて四苦八苦している。結局、年金事務所にいって質問して答えてもらうしかないようだ。それにしても、こんなに意味不明な日本語をどうやって解釈すればいいのか分からないところが多い。公文書というのはこれほどわかりずらいのだろうかと思う。それとも、わざと専門家にしかわからないようにできているのかねえ。よく訴訟の文書や判決文がわかりずらいようになっていることがありますね。
 まあ、そんなところでしょうか。
 今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

4月・何が始まるなやら。霧のなか…

2018年04月15日 | Weblog

 こんにちは。
 はやいもので4月も半ばですね。今月はじめ新入生、新入社員といわれていたらもう4月も後半になっていました。新入生は学校になれたころでしょうか。
 ある小学校一年生の職場の母親が、入ったと思いきや学校から「布袋を準備してください。それも寸法どおりのmのを用用意して」といわて…とあわてていました。何からなにまで初めての経験です。働きながら子どもの学校の準備まとは大変なようすです。働いてお母さんはにとっては学校の注文は突然すぎることが多いと嘆いていました。専業主婦ばかりだと思ってはいないでしょう。
 一方、新入社員は研修の真っ最中のころでしょうか。私の会社の新入社員はお客さんまわりで頑張っていました。私がいつも週一回の出向先にも来たそうですが…。「まだ、仕事はまかされませんね」と…。
 いずれにせよ、少しずつ自分なりのペースをつくりつつ慣れていければいいですが。いいスタートをきれたのでしょうか。まずは人に慣れてください。

 最近は春といっても暑い日が時々あります。散歩をしていても汗ばむときもあるくらいです。その分、草花には歓迎されているようで道々咲いている花を多くみる機会がふえました。2か月前まで色がなかった多摩川にも、大小さまざまな黄、赤、紫色が映えてきました。自然の息吹を感じるこのごろです。

 それにしても今の国会も色々なことをやっていますね。
 森友問題、加計学園、イラク派遣日報問題、文科省の前川氏講演問題など。
 どれをとっても政府があまりにもずさんな公文書管理にはとどめがかかりません。その公文書を通してしまおうとする力づくが目立っています。さすがに与党内からも関係者の招喚をして事の真相を討論する必要がある…という意見も出てきました。そして、追及すればするほど今の首相の疑惑が深まるような気配でもあるように見えます。首相が国会答弁で「自分の妻が関与していたら総理大臣も国会議員もやめる」との啖呵をきってしまったことが、それぞれの関係者に足枷(かせ)をつくているようにも思えます。いわゆる「忖度(そんたく)」でしょうか。それが強行されれば、真相が出にくくなるばかりではないかと思います。この啖呵によって「間違いを正す」国会審議も危ぶまれていることも見受けられます。国会がその方向でいけば、国民は騙されてもいても流れにそっていくしかありません。

 いまこそ問うべきは、与党国会議員の「道徳」ではないのでしょうか。



 2019年女子ワールドカップフランス大会予選を兼ねたアジア・カップで13日、アンマンでのオーストラリア戦で1対1の引き分け。8大会連続のW杯出場を決めた。

 男子の監督がハリルホジッチ監督が成績不振のため更迭され、日本人の西野朗新監督が就任したというニュースを聞いた。ここにきて、ないだろうと思うのは甘かったようだ。最近の日本代表の試合は勝つことがなかった。せいぜい引き分けだった。世界ランキングも60位まで落ちた。試合をするたびに世界の壁の厚さをみせつけられたものだった。選手起用がなかなか「わが意を得ない」形であったのことにも監督自身も気がついていたのではないだろうか。チャンスをつくっても決定力がかけたシーンを何度も見た。そして、選手とのコミュニケーションがうまくとれていないもことだろうという様子もあった。だから、試合に勝てない状況が続いたのだろう。事実「選手とのコミニューケーションや信頼関係が多少薄れてかいたということ。そしてさまざまなことを総合的に評価して、この結論に達した」(日本サッカー協会・田島幸三会長説明)にあらわれている。
 男子のサッカーは日々更新しているようだ。そこに到達するのはかなりの時間が必要だろうと思う。(冬季五輪のパシュートの金メダル選手たちが多くの日々を合宿に費やしたようになることは、国内リーグもあるし無理だろう)。一対一の攻撃は技術的に無理な今、これまで通り素早いパスの攻撃を見せてほしい(これまでの代表はそれができていない)。そしてそれを磨きをかければいい。

 一方、女子代表(なでしこジャパン)は決して強いわけではない。最近ではこれまでの韓国戦は勝てると思っていたが、引き分けている。負けないところがよかったが、確実に韓国の女子サッカーは力をつくていることを見せた試合だったように思う。
 それでも負けずにワールドカップに出場できるのだろうか。
 2011年ドイツワールドカップの時のレベルはまだまだだと思う。優勝したドイツ大会の試合はゴール前の「ワクワク感」があった。そしてキャプテンの澤選手が引っぱった。パスワークもずば抜けて安心感を持っていた。なによりも選手間のパスの距離感がよかった。いちばんスピードの出る距離をいつも探していたように思う。それは、選手個人の距離感ではなくチームがゴールを目指すものだったように思う。今のチームはまだそこまで到達できていない。日本女子は世界のチームに比べて背が低くロングボールなどへの対応は強くない。それでもそれを補うパスの正確に相手に送る距離と信頼があったように思う。ボールを奪った瞬間、少なくとも前へ飛び出す選手が多い。男子のように意味のないように思えるバックにパスをすることが少ない。まずは、誰かがゴールに向かって飛び出す選手の信頼関係ができている女子とはちがっていたようだ。そして、何度も失敗の多いチャレンジをしていたことが印象的だ。まずはゴールへボールを運ぼうとする個人ではなく、チームを作ろうとしている。

 まさにぼくの好きなアイルランドサッカーの形だ。愚直に何度も同じようなプレーにチャレンジしていく姿、得点をつくることを知っている。
 得点を取るためには何度の失敗をして、それを反省し違うアイデアによってチャレンジしていくしかない。それが大事だと思う。
 女子サッカーは決してうまいといは思わない。それでも、その下手さを何かでカバーしようと動きまわる。そんな姿がチームとして動き出したとき得点になるはずだろう。高倉監督が「究極の戦いを経験し、勝ち上がったのが一番の財産。一つチームが成長した」と語ったことが印象的だ。
 とはいえ、ぼくの好きな、宮間 あや(サッカー日本女子代表元主将)さん、大野 忍(日本女子サッカーリーグ歴代最多得点記録保持者)のプレーがみたいのだが、出場いしていないのが残念でならない。どうしているのだろうか。宮間選手のピッチでの「監督のこうしたい」を確実に「こうする」の行動がよかった…。帰ってきてほしい!!。


 滋賀県彦根市の河瀬駅前交番で県警彦根署地域課の井本光巡査部長(41)が拳銃で撃たれて死亡。殺人容疑で逮捕されたのは男性巡査(19)だった。

 米国では学校で銃の乱射事件が起きて多くの生徒がなくなったという悲しいニュースを読むことが多い。銃社会の悲劇として伝わってくる。まさに、確実に銃という凶器が人間社会とい相容れないものだとういく記事である。だが一方ではなくてはならない道具としての銃の存在が語られることもある。警察にとっては、銃は口以上にモノをいうことをぬきに語れない道具なのかもしれないと思える。できれば、使わないようにすべきものだと分かっていることも暗黙の了解のいきである。

 誰しもこの銃の前では沈黙してしまう最高の凶器だということを誰でも知っている。それが、悪にたいする最終手段として使われるだろうと了解している(時には権力の代弁役として銃を使ってきた歴史もあることも事実だが)。それが、ある日突然、無辜な人たちに使われたら「犯罪」になることは法律が論ずるところだろう。それが使われる場所、使われる条件、使うべき人であるとき法律が規程さしているのだろうと思う。

 ところが、あろうことか「警察官が警察官を射殺」というニュースには驚いた。テレビなどはあるかもしれないが現実に起きるとは思いもよらなかった。まだその詳細はわかってはいないが、これまでの報道によると上司に叱責された部下が怒りに乗じて銃を上司に発砲したとなっている。それも背後からだからだという。いったいどうなってしまっているのだろうか。身内が身内を壊してどうするの…、と思う。それを取り調べる人もつかれることだろう。
 ここでもパワハラらしきものがあったのだろうかと考えてしまう。
 そして、それを払しょくさせるために相当なエネルギーを使うことだと思う。

 最近、「公僕」と言われている公務員(地方。国家)の様子がおかしくなってきてはいなのか。公文書なるものが勝手に書き換えられる、派遣した日報は書き換えられて出てくるというニュース。そして、森友学園問題では、近畿財務局で改ざん作業に従事した作業員が「自分の常識が破壊された」といって自死した。そして今回の上司殺害発砲である。公務員の地位について憲法では「全体の奉仕者」という精神がある。ところが、現実には、個人の怒りや、あるいは一政治家(大臣)のことを考えての国会招喚答弁である。
 まさい「自分の常識が破壊」された状態がつくられてきてはいないのかということが大変気になっている。それも、「忖度」ということを背後に、あるべき形を犠牲にしてまで突き進もうとしている「空気」である。これは怖い気がしてならない。

 最近、身じかにそんな光景を多くもつようになってきている。会話にならない、しない人達が多くなってきたように思う。職場でもそんな気がしている。
 いやーな空気が突き進む先にあるのは、日本の戦前、戦中一部のほくそえむ一握りの人間の姿ではなかったのではなかったのか。通常いちばんいるだろう職場での「働き方」という生産をあげるだけの働き方よりも「なぜ働くのか」ということも大事ではないことなのではないのだろうか。とくにいまの政治家の人たちに望みたい。




【西荻窪駅】
 西荻窪は、散髪屋さんに寄るだけになった。二十代のころから通っている。通算で四十年以上通っている。
 途中、引っ越し先(M市、F市)の散髪屋さんに通った時代もあったがけっきょく、西荻窪に戻ってきたわけである。なにが違うのだろうか…。
 ここは、椅子に座ってから終わりまでの「ゆったり感」がほかと違うように思う。とはいえ、できれば地元で行きたいと考えた時期もあった。休日にのんびり立ち寄れる場所が理想だ。M市時代、地元の散髪屋さんを探していったおぼえがある。終わってみたら、いつもとちがって、あまりにも短く切りすぎていてビックリしたことがある。「ときすでに遅く…」でどうしようもなく、およそか髪がのびる2カ月間はがまんの日々だった。そこへもう二度といかなくなった。確かに、一度や二度では自分の髪型まで覚えてくれるわけはないのだ。

 子どものころおもしろい散髪屋さんがあったことを思い出した。病院のカルテではないが個人の髪型を(髪型の)データとして残しておくというものだった。次にくるときは、そのデータを出して散髪する。それがどれだけ役に立ったかはわからないが、散髪屋の主人もお客獲得に頑張ったのだろう。そのデータは今ではどうなかったはわからない。もちろんパソコンなどはなかった時代。手書きで書いて残しておくのだった。
 ぼくは床屋さん嫌いでほとんどいかないので頭を洗っては泥水が髪といっしょにながれていくたびに恥ずかしかったことを思い出す。なんせ、頭を洗うと非常に軽くなった記憶があるくらいだからよほど汚れていたにちがいない。たいへん世話になった散髪屋さんである。ご主人の企業努力に感謝している。



 最近、西荻窪の散髪屋にいくまで何件もの同業のお店を見かける。ある店は「安さ」を売り物に、また「速さ」をと企業努力は大変なようすである。やはり、今の人たちは「安さ・速さ」を散髪屋さんに求めているらしい。ぼくの行くところにそれを求めるのはやや危険を覚悟しなければならないだろう。ひげをそったら血まみれになるかもしれないからだ。
 四十年もあいだ通っているわけだから、ご主人もすでに僕と同じかそれ以上の年齢のはずだから。
 ご主人が子どもを自転車のうしろに乗せて保育園にむかっている姿を知る者として「後継者」のことも気になる時期になってきたように思えますが…。

 私たちの新婚時代に住んだ西荻窪です。小さな町ですが静かな町です。今も時々降りては散髪屋さんにお邪魔しています。きっと、今のご夫婦がやめたらわたしも行かなくなるのでしょう。
 ちなみに、西荻窪は原爆禁止の運動を起こした発祥の地です。ここに住むおばさんたちがいち早く放射能の危険を世に知らしめた人たちの町でもあります。



 そろそろ5月にむかった動きが始まっています。大型連休への準備でしょうか。私の住むところでも、「暗やみ祭り」の準備でしょうか地域ごとで練習風景などをみかけます。住む人たちにとっては一年に一度の大イベントですから力が入るのでしょうか。私自身、その祭りを最後まで見たことはありなせん。それも、当事者ではないからなおさらです。一部の人がやっているだけでのとお思えてしまいます。それでも毎年、頑張っていることには感心しています。

 私の今すべきことは来月「年金事務所」の予約をとって受給資格を完全なものすることぐらいでしょうか。年々すくなくなっていく年金というのはどういう仕組みなのでしょうかね。
 最近、政府が高齢社会の対策として「高齢社会対策大綱」を決めまたということを耳にしました。少子高齢化で働く人の人口が減る中で、高齢者の人にも働いてほしいというものでしょうか。「全ての人が自分の能力を存分にいかして…」との首相の肝いりでもあるようです。しかし、安い給料で働いて、病気にでもなったらどうすることもできない社会のありようをどうにかして欲しいと思いますが。まさに「一億働き手」の号令のように聞こえます。さらには「死ぬまで働け」とも聞こえてきます。
 いったい、これまでなんのために働いてきたのでしょうか。
 まいってしまいますわ!!。

 今週はこの辺で失礼します。

桜散る後に「あたりまえ…」を思う

2018年04月08日 | Weblog

 こんにちは。
 毎日が温かくなってきました。週末は風も強く花粉症もひどいものでした。それでも、やっぱり春の温かさはうれしいものです。いまは、ハナミズキがきれいに街路地に咲いています。次から次に春をつげる草花の色やにおいが楽しい日々になってきました。プロ野球も開幕しました。今年はどこのチームが優勝するのでしょうか。今年は、プロ野球より前にロシアでのサッカーワールドカップが楽しみです。
 散歩道、ツバメが巣作りをはじめていました。

 さて、今週はますます混迷する政権の失態のニュースが多い週でした。
 「働き方改革」での厚労省のミスの多いデータ資料があり、森友問題では資料データの改ざん。そして今週は、昨年「なかった」というイラク派遣部隊の日報が見つかった問題が浮上しました。「なかったことに」したかったのに、誰がどんな目的で探したのか今後の問題でしょうか。いずれも「公文書」です。何年かあとに、歴史の一級資料として残るはずです。それが、改ざん、廃棄などという管理の問題があまりにもずさんな仕事に信用がなくなってしまいます。これが、「戦後レジームの脱却」ということなのでしょうか。
 こんないいかげんな中で、今後の歴史教育が心配です。誰かが「矜持をもって仕事をしろ」言ったところで解決できる問題ではないでしょう。根は深い。
 歴史は権力者(勝者)によって簡単に書き換えられているようでは大問題だと思います。



 もうひとつスポーツの世界でのできごと。
 レスリング女子で五輪4連覇の伊調馨選手へのパワハラ行為。選手強化部長の栄和人コーチに対して告発状を出して協会で審議されていました。パワハラはあり、栄コーチは強化本部長を辞任しました。
 選手がかつためにいといとな強化練習をしなければならないのでしょう。自分のことは選手自身がいちばん知っているように、その方法は選手が一番知っていることも事実です。五輪4連覇もしたような選手ならなおさらです。それが、いつの間にかコーチも持ち物のようになってしまっていくのはなぜでしょうか。勝つも負けるも選手自身がいちばん知っていることだといえます。コーチの意見も大事ですが、選手をいちばんに考えればパワハラは余計なことです。

 京都府舞鶴市の大相撲春巡業で、土俵で挨拶中の市長が倒れた。急きょ観客のなかにいた女性看護師が土俵にあがり心臓マッサージを始めた。直後「女性は土俵からおりてください」とのアナウンス
 どこまで傲慢なんだろうと…。これが「伝統」だなんて人間味のいない伝統なんてとんでもないと思った。なぜ、こうまでも相撲協会はえらいのかあきれてしまう。
 伝統いえば歌舞伎もそうだろうが、伝統を引き継ぎつつ新しい歌舞伎に挑戦するからお客も楽しいのだろう。だから人気があるのだろう。
 
 今回のニュースを聞いて、米国の黒人差別を思い出した。何の理由かわからないがただ差別する。それが根が深いものがあるのだろうが、それを理解しようとすら思えない暴力行為を繰り返す。これは極端な話だけれども、根っこは同じようなところにあるのだと思う。その第一は、社会を支えている人々の生活基盤の危うさであったり、自分たちの主張がないがしろにされている政治だったり…とあると思う。事件の引き金になっているものがあるはず。

 スポーツは勝敗は第一だが、そこに到達すための背景をもっと大事にしてあげるべきだと思う。そして選手を支えているのはファンだあることも事実なのだから「あたりまえ」が通る団体、組織づくりが大切なことだろう。




 今週はじめ朝の通勤電車が「混むな」思ったらそれもそのはずで「新入社員の入社式」があったようです。入社式などということはこれまで経験がないのでどんな気持ちなのだろうかと思っていました。
 何らかの縁があって利害が一致したのでしょうか? きょうから会社で仕事を通して生活が始まるということです。「働く」ということはある意味では、「他人のわがままに付き合う」ということだと思います。それが、結果的には両方にとってプラスになるということなのではないのでしょうか。

 とはいえ、これまで「ブラック企業」という言葉が横行している時代です。本当に安心して生活ができる「働く」になってはいないことが日々ニュースなどで報じられています。働いてその代償として賃金を得て、日々の生活をささえていくわけです。それが、いつからか自分の生活が壊れていくとしたら、いったい仕事は人に何をもたらしてきたのだろうと思います。いちばん記憶に新しいのは大手企業「電通」に務める一流社員(一流だからか)でさえ、残業で体も心も酷使したあげに自死(24歳・過労自殺)、2020年東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場の建設工事に従事していた現場監督の男性(当時23歳・過労死自殺)、公共放送のNHKで、選挙取材の最前線にいた31歳の記者が過労死、2015年12月に自殺した、小樽掖済(えきさい)会病院(北海道小樽市)の臨床検査技師の男性(当時34)は、直前の1カ月間の時間外労働が188時間だったという結果になったことはやりきれなくなってしまう。

 何が原因だったのでしょうか。まちがいなく「働きすぎ」ということがいえるのではないのでしょうか。お客を喜ばせるはずだったでしょう。ところが自分が不幸になってしまう、という結果は何を私たちに問いかけているのでしょうか。

 社会へ一歩踏み出す季節。それぞれの思いを胸に新しい生活が始まろうとしている4月です。
 社会へ出ていく姿を描いた小説に夏目漱石の『坊ちゃん』や島崎藤村『桜の実の熟する時』という小説があります。『坊ちゃん』では、代用教員として四国に行きます。先生と生徒、上司と部下とのなかでひと癖もある人間たちのつきあいを通して坊ちゃんが人生を語ります。『桜の実の熟する時』では、暗い大学時代を終えた捨吉青年が恋に悩む姿がありました。どちらも、仕事をもって社会へ飛び出した若者を描いた作品です。どちらにも共通していえるのは、人間という生き物がつくる社会、ひとすじなわではいかないということだろうと思います。多くの人たちとの出会いや別れ。そのなかで、いちばん理解してくれる人を探す旅でもあるようです。坊ちゃんや捨吉青年も悩みつつ自分の姿を探しているようです。(暇があったぜひ一読を)



 ちなみに私は、中途採用でした。それも知人の紹介によって採用されました。それから三十数年間の異動を繰り返して定年をむかえたのでした。だから、あらたまって「式」なることもやった記憶もありませんでした。老いて定年退職となり、町行く若者のスーツも顔もフレッシュな姿には励まされます。
 これからスタートです。ガンバレというよりは、自分の意思で後悔しないように仕事してください、と思うばかりです。ただでさえ、保身に走る、組織のことばばかり幅をきかせている世の中だからこそ思います。

 来週あたりから「働き方改革」という国会が始まりそうです。「働き方改革」とはいったい誰のための、何のために改革なのか注視していくことが大事だと思います。むかし「かいた汗がむくわれる社会」という言葉がありました。単純に、よく働いた人がちゃんと生活で来ていく社会ということです。これまでのニュースになっているように「過労死」が横行する社会の「汗のかき方」を考え直すいい機会だと思います。
 これもぜひ読んで欲しい本です。『戦争という仕事』内山節著。人は一人ではいきていけないからこそ、人間同士で大切なものをみつけ、理解することが大事だということがいわれていたと思います。憎しみ、悲しみの多い世の中にあっては、それを解決する手段は「暴力」によってすぐに解決できているような気がします。しかし、暴力では次の暴力への連鎖のスタートラインをひくことでしかないようなことを気づかされてくれる一冊です。人として自分に「あたりまえ」と決意するスタートラインを引いていきたいもにです。



【東京駅】
 中学生のころ、ここから京都に修学旅行に行った。新幹線に生まれて初めて乗った記憶がのこっている。つまらなかったのか、楽しかったのか。車内でだれかが撮ってくれたスナップが一枚だけ残っている。つめえりの学生服で椅子にすわっているところである。

 今でもその隣にいたクラスメートのことは覚えている。S君だ。名字だけで下はうろ覚えで忘れている。なぜ記憶に残っているかといえば、このS君が私の通う田舎の学校に始めてサッカーというスポーツをもちこんだ人なのだ。
 いま思えばあまりにも無鉄砲な集団だった。とりあえず、ユニホームをつくり対外試合もやったものだった。チームは勝ったおぼえがない。高校に行けば、サッカー部は正式にクラブとしてあるものの、当時の中学校では市内にはなかった。それぞれの、中学校の有志が集まって、にわか作りのチームをつくったものだった。脳裏には、土曜の夕方には東京テレビの「ダイヤモンドサッカー」という番組の選手のゴールシーンをえがいていたのだが…(英国のプレミヤリーグを食い入るようにみた記憶がある。そのなかでもジョージ・ベストとボビー・チャールトンというサッカー選手を)。

 中学生のころ修学旅行でここにきても、小旗振るガイドのねえさんの後をついてきただけである。だから、右も左もよくわかっていない気がする(今でそう変わりはないのかみしれない)。
 今まで、誰かが小旗振る方へ流れているように思える。いったいどんな旗色だったのだろうか。はるか彼方にテレビでしかしらない京都という町にむかっていただけなのだろう。東京駅は夢の一歩にむかう始発駅、終着駅にも見える。読者はいいかがでしょうか。

 東京駅を利用した松本清張の『点と線』という小説がある。いつぞや北野武さんが刑事役のリメイクされたドラマをみた記憶がある。詳細は忘れている…。もう一つ。これは私の大好きな『男はつらいよシリーズ48・寅次郎紅の花』です。後藤久美子さん演じる泉ちゃんが満男に結婚の報告をして帰る新幹線のなかで名古屋へ帰っていくシーンにもありました。これから二人はどうなるのか…、満男と泉ちゃんの心もようを映すように静かにでていく新幹線もよかった。これまで『男はつらいよ』シリーズでは東京駅は満男と泉の二人関係をより深めるために登場した駅でもあります。



 季節は入学、入社。さらには若葉。
 少し温かくなって外出も楽になってきました。もうちょっとで5月の連休をむかえます。楽しいことを考えることの方が多いようです。
 最近、私の勤める職場でも、精神的にまいってしまっている人多く見かけます。そのために「休職」という方法で治療しています。なかには、これまで、仕事であうと元気に話をしてきた青年も同じように「休職」しているのをみて信じられないような気がします。

 「いったい世の中どうなってしまったの…」と思います。それも、自分が働いていた職場からなんて信じられないほどです。
 そう考えると、私は2年ばかり出向して本社勤務にはブランクがありました。そして異動して戻ってみて第一に感じたのは「暗いなあー」という感想でした。この間、いったい何が起こってきたのか話を聞くこともなく今をむかえています。世の中パワハラ、マタハラ、セクハラ…と労働者がいじめられる言葉ばかり多くなったことは事実です。以前、産業医の講演会が社内でありましたが、結局のところ産業医は症状を判断するだけで、なおすための行動はできないようです。各職場での内容にまでは踏み込めないということなのでしょうか。

 前社長がいつも「チームワークを大事に仕事をしてください」という言葉を思い出します。それぞれの持ち場の技術も大切なのですが、それを最大限に引き出すチームワークが大事だということでしょう。そして、もっと大切なことは、いつでもすぐにチームワークの力を引き出せるコミュニケーションをということでした。そう考えると、自分の仕事は必死にやっているのですが、他に助けてもらうための準備がないように思えます。世の中「業務命令です」ということだけでは動きません。なんであれ、そのためには日々の生活がいかに語られ理解されているかということも大事な要因になるのでしょうか。

 …ということは今の職場はそれが全然ないのでしょうか。
 そんなことを考えた「桜の散った週末」でした。
 若葉のなかに少しでも新鮮さを思い出したい毎日です。私の場合は定年後の再雇用契約社員ということで、思いっきり言えないのが残念です。それでも、自分なりの「たりまえだろー」の意見はいつも持っていたいと思います。

 それでは今週はこの辺で。
 読んでくれた人、ありがとうございました。
 

今、再びの花粉症再襲来…

2018年04月01日 | Weblog

 こんにちは。
 桜が先週から開花宣言がでたと思いきや、温かさもあって一気に咲いていました。ゆっくりと見る時間もなく今年は過ぎてくようです。唯一、見たのは通勤中みかけた桜でした。
 足元の地べたにも小さな草花が花を咲かせていました。昨年、咲いていなかったところにあるということは、種子を風が運んだのでしょうか。上空ではツバメが飛び始めていました。今年も、同じところに巣をつくり子育てをしてかえっていくいくのでしょうか…。

 さて、今週は「森友問題」で政治がもめていました。証人喚問で財務局がでてきて答弁をしていましたが、それでも解決がつきそうでないのであれば関係者を全部よんで喚問してみればいいのではないかと思います。「公文書改ざん」で、政治家の根幹を審議しているのだろうと思います。それならば、なおさらはっきりしておくべきでしょうか。
 でも現実「アー言えば、こういう」的な答弁に終始していて、なんとも悲しいかぎりの国会が続いていますが…。「働き方改革」というこれからの審議をふまえ、もうちょっと政府は真相究明にまじめにむかってほしいものです。なにか、話を「はぐらかしている」ように見えますが…。野党の追及もいまいちです。それにしても、一回の国会開催の費用はいくらなのでしょうかね、費用対効果を考えれば税金の無駄遣い…とおもうのですが。それでも、議員は自分で払うわけでもないからと思いあがりにも見えます。




『エイプリルフール』
桜の花びらが
静かに落ちていく
地面に引き寄せられているのか、落ちていくのか
それを知っているのは風だけかもしれない

風に吹かれて
地球はまわる

人の世に
桜の花びらがおちるころ
ゆっくり歩きだしてみよう
そしても一度引力さからって
自分の足で立っていこう
風は東西南北吹きすさんでも

風に吹かれて
人もまわる
ときに花びらをみつめながら
歩いていこう





 刻一刻とせまっているのが「年金受給書類」提出の期限。
 たくさん書くところがあるのですが、ポイントさえおさえればさほど難しいことではないということです。人生初めての経験…というのかあわてているというのが正直なところ。「年金は年々減る傾向にある」という事実を身を持って経験する年代になってしまったということだ。
 そして。連日の「日本年金機構」の不祥事。
 大丈夫? と疑っては日々を送っている。「だいたい年金に頼る生活なんて…」という声もある。そんなことはあるまい、憲法25条に「生存権、国の社会保障的義務」とやらあるではないかと思う。
 ましてちゃんと義務を果たしてきた国民の社会保障を果たすべきは国の義務だろう。それさえも、おかしくなったら国としての役割が終わるときだろう。

 そもそも「年金」というシステムはどうしてできたのだろうか。
 ここのところから始めていこうか。
 

【桜の木】
桜が見られるのも今週で終わりだろう。
 今年は、花見もなく終わった。散歩をしていると、たくさんの花見の集団をみた。缶ビールを飲みつつ桜の花の下、アルコールのにおいをピンプンさせていた。「花よりだんご」いま、花のことより「おいしい」食事を楽しむ人へと変身している。
 そんななかで、人々のにおいや会話に関係なく、大きな桜の老木が異彩をはなつときでもある。電線にからまれたり、車の排気ガスを吸い込んでいる老木もある。おそらく、ここに建った建物よりはるか先からその地に根付いてそだつこと数十年。あるいは百年かもしれない。人間のわがままに老木がきずつきつつ桜を、今年もいっぱい咲かしている。
 それを思うと、たかだか一年に2週間ばかりの時間のなかで短いが強い主張をもっている桜の木がすごいことだと思う。
 電線に枝を折り曲げて、駐車する車から邪魔者あつかいされて咲いている。これも立派な町の美しい景色だろう。
 ときどきこの季節になると、子どもの頃よく遊んだ神社の境内の桜の木を思い出す。お正月に墓参りのついでに寄ったときは、半分から折れていた。今年は咲くだろうかと思っていた。
 春は花に、夏は蝉の休憩所に、あるいは集合場所の目印によく見ていた木だった。
 ぼくが子どものころから見ていたからすでに百年は経っているのだろう。
 ときどき、この時期をふり返ったら自分がいちばん居たであろう場所の老木も考えてみるのもいいと思う。



 休日中、ずっと桜の花が咲き誇っている景色にクシャミばかりしていた。
 今年になってなって最悪の花粉症状態。昨年はそれほど気にしなく過ごした桜の季節だったが今年はつらい。
 このブログの更新を頑張っていたが、花粉症で集中できなかった。どうにかここまできた。あとは様子をみるしかない。

 
 今日から4月になりました。花粉症が猛威をふるっています。
 当面この花粉症が落ち着かないことには前へ進みようがないようです。
 とりあえず、今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。