日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

8月も終わります。初秋の風に吹かれて

2018年08月26日 | Weblog


 こんにちは。
 まだ暑い日が続いています。台風20号が去ったあとは、猛暑が身にこたえる週でした。台風が来ると、帰りの心配をして、翌朝は通勤の心配を…と、過ぎ去った後もあれこれ「疲れ」を感じさせるこのごろです。今週はとくに出向先も二度あり、疲れました。

 猛暑…猛暑ということもあって2年先の今頃は東京五輪が行なわれていることを思うと、競技の興味よりも出勤先から帰れるのかなということを考えてしまう週でもありました。いまでも、朝夕の電車通勤は満員の状態で窮屈さを感じているわけです。これに、さらに外国人が五輪に時期にはさらに混雑は増えてくることでしょう。いったい、何をどうしようよしているのか…。

 今週、東京五輪・パラピンピックの大会組織委が「サマータイム制」導入の検討を発表していました。朝2時間早く出て、2時間早く帰ってくる…、ということなのでしょう。しかし、思うほど簡単ではないのでしょう。
 夏の日照時間を考えて、混雑緩和や猛暑を避けるためにとの検討なのでしょうが、この安易さにあきれているのが実情です。これまで欧米70ヵ国で採用されてきたようですが、最近ではこれを撤廃する動きが多くなっているようです。
 何よりも働く人への負担が大きいよいわれています。夏時間のよって睡眠時間が増えるのではなく、少なくなり心臓への負担が大きい…という国内の学会から出されいることをみると「東京五輪」より、自分の生命です。まさに「ご都合」によって検討されているようにも見えます。


 日本の8月は「戦争を考える月」ということが毎年の行事だともいえます。とくに、広島・長崎を戦闘に各地でそれぞれの終戦をむかえる一ヵ月といってもいいと思います。新聞を読んでいたら「8月のジャーナリズム」ということが書かれいました。今年の関心は「平成最後の8月」ということだったようです。「年々かわっていくであろう日本の8月」をどう伝えていくのか問われる月でもあるようです。戦後73年もたつってくると、戦争を語る人も少なくなってきます。生の声で戦争を聞ける時代も長くはないとういうことです。そこで、それぞれの戦争に関する資料館などの役目が多くなってくるようです。

 とはいえ、戦争はある日突然起こるわけではないのでしょう。日々の生活のなかに、戦争という影ができるのではないかと思今う。その影をどう感じて伝えていくのでしょうか。一人ひとりに問いかける8月でもあるのでしょう。
 自分でできることを探すことも大事だと思います。
 本を読むこともその一つだともいえます。




■p150 一八七三年(明治六年)、征韓論をめぐって、政府内部は激しく対立し分裂しました。征韓論の「征韓」は朝鮮半島征伐の意味です。徳川幕府は鎖国政策をとっていましたが、日本と朝鮮はお互いに使節団を交換したり、長崎の出島、朝鮮の草梁(チュリアン)にかぎって、貿易を行いました。徳川時代は、日本と朝鮮の関係は、決して悪くありませんでした。

■p155 東京招魂社は、明治天皇の命令で戦って、戦没した人たちを、天皇の命令で合祀します。天皇に逆らって征討された西郷隆盛を、東京招魂社に祀ることはできません。西郷隆盛は、故郷の城山の地下に永眠しましたが、「西郷はひそかにイギリスの軍艦に乗って薩摩を逃れた」とか「西郷は生きのびて中国にいる」という英雄伝説が生れました。


■p163 私たちは戦争、内戦を問わず、その歴史を考える際に、どうして衝突の原因となった政治的主張の差であるとか、勝ち負けへの経過を戦史的図上演習の概念でとらえがちです。その裏には必ず実利的な経済問題があることをわざと見落とすか、問題にしたがりません。…(略)…。戦争の歴史はきれい事ではありません。戦争の裏には醜い欲望が息づいているのです。経済的理由を根底とした、国益と国営の経済摩擦が大義名分を振りかざした武力行使による解決という形で現れるのです靖国神社は戦争の根底にある経済的欲望を隠蔽し、作られた大義名分だけで戦争を考えさせる愛国心高揚装置だったのです。

■p195 首相が日本国憲法に違反して、靖国神社に公式参拝することは、見すごせない問題ですが、それ以前にも日本側の戦没者というだけで、神様に祀ること自体が、問題だと思います。国家が外国に派兵したり、開戦する理由や動機は決してきれい事ではないからです。その点をよく考えるためにも、韓国や中国と日本の歴史をしっかりと学ぶ必要があります。日本軍によって殺された朝鮮の農民は四万とも五万ともいわれており、とにかく農民軍死傷者数は膨大なものでした。

■p226 日本は「挑戦の独立と内政改革」を大義名分に、日清戦争を始めましたが、朝鮮内政改革はあくまでも建前でした。もともと日本政府は朝鮮の内政改革に関する確固たる方針がなく、反閔妃派の大院君を復活させただけでした。一八九五年(明治二八年)七月六日、閔妃側がクーデターを起こして、大院君と親日派を追放しました。甲申(カブシン)政変以来、日本政府に不信感を抱き嫌悪していた明成(ミョンソン)皇后(閔妃)と国王は、ロシア派になりました…。同年一〇月八日、新任の三浦悟楼公使は、公使館員たちと共謀してクーデターを起こし、日本守備隊の護衛のもとに大院君の王宮に侵入しました。このとき、三浦公使の同行者は俗に大陸浪人といわれた壮士(いわゆるゴロツキ)たちで、彼ら明成皇后を惨殺し、その死屍に石油をかけて焼却しました。(乙木事変)

■p240 戦局は絶望的で勝ち目はまったくありませんでしたが、六月二三日、政府は、国民義勇兵役法を公布して、一五歳以上六〇歳以下の男子、一七歳以上四〇歳以下の女子を国民義勇兵にすることにしました。本土決戦に備え、最後まで戦うことを決めたのです。一九四五年(昭和二〇年)七月二六日、イギリス・アメリカ・中国(中華民国政府)は、日本に対して、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏するよう勧告しました。日本がこの降伏勧告を拒否すると、アメリカは広島・長崎に原爆を投下し、ソ連も日本に宣戦布告をして参戦しました。日本はこれ以上戦争を続けることを諦め、八月一四日、ポツダム宣言を受諾しました。

■p292 靖国神社がある限り、「愛国心に燃えて国を護るために戦死したことは素晴らしいと思います」と解答しないと、高い評価は得られないと思います。「国家というものは、結局なんだかんだとうまいことをいって国民をおだてて、戦争をやらせるものだ。そんな国家より自分の人生や家族を大事にしなさい」という回答を教師はどう評価するのでしょうか?



 地下鉄東西線「九段下」武道館側からおりて坂を歩いていくと靖国通りの右手に大きな鳥居がある。そこがや靖国神社である。都会にこんな大きな神社がるとは驚いていた。すぐ近くには九段会館もある。数々の歴史の舞台になった通りでもあるのだろうと思う。

 8月にはこの神社を軍服姿の人たちがいることもある。首相の靖国公式参拝にアジアの国々が抗議していることもニュースになる季節でもある。ぼくは、なぜこうなってしまうのか、正直なところ本当のところはよく分からなかった。「アジアの国々が抗議をするほどこの神社にはどんな歴史があるのだろう…」と考えているくらいであった。今回読んだ『「靖国神社」問答』(山中恒著)を読んでその意味がわかったような気がした。つまり、神社そのものには、どこにでもある神社とは変わりなないのだが、その歴史的経過があまりにも多くのアジアの人たちを苦しめてきた原因になっていたことが少しずつわかってくるのである。明治から大正、昭和へと歴史の変遷のなかでその重みは国民の生命をものみこんでしまうほどの神社だったというのである。
 いつの時代にも支配者(権力者)の道具ととなるものがあるが、靖国神社はその中でも一級品なのだ思える。さらに、その果たした役割は多くの悲劇をつくったという事実が語られるなかで大きな存在だったということもわかる。

 おそるべき靖国神社である。二度と悲劇を招いてはいけない…、と思えば思うほどこの神社の存在価値を知る必要もあると思う。日本の近・現代の歴史は靖国神社を知れば知るほど理解できるのではないかと思うほどである。この本は、日本の戦争に突入して敗戦まで、軍人や市民を巻き込んだ歴史の入門書でもあるように思えた。いい本だな…と思う。



■p34 「死ぬまでに、四人に一人だが、何人に一人だがはガンになると言われているんだよ。昔の人はガンになる前に死んでいただけで、ガンが増えたのは寿命が延びた証拠なんだ。あなたが肝臓ガンになる可能性があるのと同じで、私のガンがどこかに転移して再発する可能性だってあるんだし、そのときはもうしかたがない。明日は明日で心配しようよ」

■124 思いもよらない展開にまず耳を疑い、それを事実として認識したあとは谷底に突き落とされたようなショックで頭が真っ白になっていました。

p145 それから、過去を悔やんでばかりの毎日です。あのときこういう選択をっしていたら生きていたのではないか、ああいいう行動をとらなければもう少し余命が延びたのではないか。後悔の種はあとからあとから湧いてきます。

p207 今でも妻には申し訳ないことをしたと思っているけれど、人にはその人の器量というものがあります。そのなかで精一杯やってきたのです。要するに人間が小さかったということ、それが自分の限界ということです。つまり、「俺は俺なりにやったんだぜ」ということです。



 毎日まいにちあとは残された命を生きていくだけだ…、と思っている。
 今年の夏は、猛暑で天気のことが気になる日々であった。とくに、天気と人間の気持ちはけっこう身近で、暑さが続いていると「まいったあ」と思う日々になってくる。こんなとき、倉嶋さんならどんなことを考えるのだろうかと思い、本棚の奥から引っ張りだした一冊である。

 購入日をみたら2004年4月と記されていた。14年前のぼくが48歳の時である。この年齢のときなにを思っていたのだろうと思いつつ読みはじめた本でもある。
 倉嶋さんの妻が子を授かった思ったら子宮外妊娠。手術での大量の輸血。その時の輸血によって肝臓ガンになってしまう。医者からの「末期ガン宣告」。妻への後悔ばかり多くなっていく日々…。そして死去。妻がいなくなったとき残ったのはたくさんの後悔ばかりの日々だったともある。そしてうつ病になってしまう。日々襲いくる自殺願望。
 これは、お天気おじさんで有名な倉嶋厚さんの手記でもある。
 やっぱり最愛の人を亡くした絶望感は誰にとっても大きいのだろうと思う。それでも「生きよ」とは誰も言わないし、言ってはくれない。そんな人生のなかでどうしていったらいいのか迷いの多い倉嶋さんの叫びでもあるのだろう。

 14年後の今、ぼくが「生きていればこそ」悲しみも苦しみもある。けれども、「生きていればこそ」新しい出会いの中で亡き人の良さも大きくなる…と思えることだろうか。
 とり合えずい今は、今のぼくがそう思えている。人生で大事なことは、とにかく健康であれ病気であれ、多くの人を送ってきたなかで、生きている自分があることをいま一度感謝するべきだし、それを支えてきてくれた人を思うことだろう。いずれ、ぼく自身も誰かに送ってもらうことなのだろうから…。
 と…、思っているのは勝手な憶測で現実はどうなることだろうと思っている。それでも、考えられるうちは、考え、行動していきたいと決めた一冊でもある。いつも思うのは、世間は冷たいよ…って。自分のことは誰も気にしてはいないのだから、せめて身内は支え合っていこう…と思う。
※『風と雲のことば辞典』倉嶋厚監修(講談社学術文庫)も併せていいと思う。




【新板橋】
 この駅は初めて降りる駅。きっと最初で最後の駅だろうと思う。
 こんな形で降りる駅ではなかたような気がした。齢60歳。調子の悪さを訴えて病院に行った。検査で大腸がんがみつかる。それから、入院、手術、抗がん剤へというながれだった。さすがに、気落ちした様子だった。それからも入退院の繰り返し…。最終的にホスピスでの暮らしを余儀なくされた。そして、3カ月あまりで亡くなった。2年前くらいからのことだった。

 30年ほど前に一緒の野球チームに所属していた。ピッチャーだった彼のボールをいつも眺めていた。チーム唯一のピッチャーで、彼の投げた球の良しあしで当日の試合結果がきまるようなチームだった。それでも、草のにおいがする季節から枯葉がぱらつく季節までシーズン中は休日となれば出かかていた。
 それから、時は流れ野球をチームとしてやるような人がいなくなった。そして解散。かれは仕事の責任者として職場をまとめていたようだった。しかし、そのやりかたがあまりにも強引で、いまでいうパワハラのようだった。職場では完全に浮いていた。それでも働いたのだった。役職定年になって、彼の権力がなくなる否や他の職場に異動願いを出した。

 お通夜から帰り、「人は何とも弱くてなさけないものだなー」と思った。それでも、家族があれば、家族のために頑張るしかないのだろう。
 とはいえ、他人の人生を曲げてしまうほどの保身はつらい現実が待っている。そんなことを日々やっていれば異動願いも仕方がないのだろう。少しずつぼくも、彼からの距離をおくようになった。
 そして、今日。昔のチームメイトが来ていればと…と思ったが誰もいなかった。みんなどこで何をしているのだろうか。それぞれの生き場で頑張っているんだろうか。会いたかった。上司としてではなく、野球チームの一員としてまた会いたいなあと思った彼の最期を一緒に送りたかった。
 とうとう永遠に会えなくなると何となく寂しい気がした。最期くらいは看取ってあげようと出かけたのが「新板橋」だった。もう、この駅には降りることもないだろうと思う。さようなら!…。



 8月も終わりですね。
 毎日、台風に悩まされた日々でもありました。なぜなら、最近の台風は豪雨がすごい。まさにバケツをひっくりかえしたような雨が集中的にふり、傘を持っていても役に立たないほど雨である。あっという間に、降った雨は土砂を崩し、人を水のなかに引きこんで大災害をつくる、という構図である。
 自然にかなうわけがないからただただ避難するだけである。自然に勝とうなどとはしょせん無理なことだということを身にしみた8月もである。

 久しく盆帰りもなく、都会で夏休みであった。知人はハワイだとかいっていたが…。世の中にはブルジョワもいるもんだなーと思った。そういえば、旅行なんてする気にもならないのは経済格差という言葉が示しているような現実だろうと思う。最近、読んだ記事も「健康格差」というものあるそうだ。

 駅のホームに立っていたら、遠くの空に白い雲がきれいでした。(上写真)遠くに見える入道雲が夏の終わりを知らせているように見えます。それぞれの猛烈な暑さのなかどんな夏だったのでしょうか。
 もうすぐ夏も終わりますねー。
 「キケンな暑さ」は少しずつ忘れられだろう。こんな夏でもやっぱり冬の寒さよりずっといいと思う。世間がどうのこうのいうより、自分にとってはどうかが大事な暑さでもあるように思う。暑くても、この季節のよさは誰よりも知っているように思うと、やっぱり夏が好きだ。
 ボチボチ、身辺整理もやっておきたいですね。お盆に行けなかった墓参りも行こうかと思う。それと、山るきも再開しようかと思案中です。

 今週はこの辺で…。
 読んでくれた人、ありがとうございました。



朝の涼しさを感じて…

2018年08月19日 | Weblog

 こんにちは。
 「危険な暑さ」は今週は少しずつなくなっていくような一週間でした。通勤電車ではまだ夏休みの人もいるせいか、すいていて乗りやすい日々でした。朝いちばんに感じる電車のストレスがなかたようにも思います。とくにデイバッグを背負う人へのストレスはいちばんでしたが、電車内にスペースがあるとそれほど気になりませんでした。

 休みは、故郷で過ごしてしっかり休養ができたのでしょうか。ぼくのほうは、今年の変則的な休みの中、散歩(多摩川)と甲子園の熱戦を見ていました。そして、どこへも行かずただただ暑さを感じながら日々を送った次第です。徳島の親戚では阿波踊りが不安視されていたようですが「地元の人は同じようにやったよ。世間が騒ぎすぎる…」との返事でした。地元に夏だけ観光地化するところはいいものです。それを見に来る人、それをむかえる人など楽しい夏休みがあるのだと思います。事実、ぼくも以前はよく帰省していました。盆休みの間だけは町が活気があって、どこへ行くにも観光者の人にあうことが多い日々でした。
 いまではそんな光景も遠い昔になっています。




 自らに批判的なメディアを「国民の敵」と執拗に攻撃するトランプ米大統領に対抗しようと、米国の多くの新聞が16日、報道の自由を訴える社説を一斉に掲げた。だが反発するトランプ氏はメディアを批判した。民主主義の基本である「報道の自由」を軽視する最高権力者の姿勢は、米国民のメディア観に影響を与えてりう(ニューヨーク)

 これまで新聞は「社会の木鐸であれ」といわれてきた。字が読めればおおよそその日の出来事の一部を知ることができるのが新聞であると思う。今ではスマホやパソコンなどでその役目を広げてるが、いちばん安くてみじかなのが新聞だろうと思う。

 そういえば、作家の百田尚樹氏(59)が、自民党の会合で発言した「沖縄の2紙をつぶせ」思い出しました。辺野古新基地移設計画に反対する沖縄の人々の情報誌「沖縄タイムズ」と「琉球新報」のことをいっているのでしょう。なんとも怖い発言があるかと思う。新聞が権力の言い分ばかり聞いた結果、太平洋戦争当時の国民に嘘ばかりの新聞ができあがったのではないのでしょうか。その結果、多くの戦争犠牲者をだした悲劇があったではないのでしょうか。そのことを踏まえて、今では、新聞が「真実」をつたえる役目を大きくになっているということでしょう。

 いつの時代にも、いちばん人々が信用しているはずのマスコミ(ジャーナリスト)に裏切られることがいちばんさびしいものです。国の運命までもきまてしまうことさえあると思います。今のジャーナリズムに敬意を表して、これからもがんばって欲しいと思います。


 改正労働者派遣法の施行から丸三年となる九月三十日を機に、派遣労働者が契約更新を断られる「雇い止め」が増えそうだ。三年の期限を超えて同じ人を同一部署で働かせることができなくなるためだ。好景気とはいえ、雇用の調整弁として使いたい企業のニーズはまだまだ強く、同法が目指した正社員への転換には壁がある。…派遣から三年経過した労働者に引き続き同じ仕事をさせるには、派遣先の企業が正社員などとして直接雇用するか、派遣会社が労働者と期間の定めない無期雇用を結ぶことが必要になる。簡単に解雇できなくなるため、二の足を踏む企業や派遣会社は少なくない。

 派遣聾者の雇用の安定をはかるためにできた「改正労働者派遣法」から考えれば、3年以上同じ職場で働いたら正社員にするか無期限契約をするかになってくる。そこで、企業は人件費をうかせるために「雇い止め」という方法をとってくる。それは、雇用を延長しないということになる。本人が希望してもでもある。これはオカシイではないと思う。
 ぼくの職場にも派遣労働者がいるが、3年後いったいどうんなことになるのだろうか…。あくまでも、企業は「調整弁」としての失業者をつくりたのだろう。だから3年で終わりということにしてしまうだろう。でも、一体今まで働いてきた人のなかには「3年後正社員なれる」で頑張っている人も多いのではないか。さらに、同じ職場で働きたい考えている人もいるだろう。
 まったく、どこまで人を馬鹿にしているのだろうか…。




【多摩川】
 休日の日はほとんど朝の多摩川歩きから始まる一日。雨や雪が降ってものんびり川を見ながら歩く日が、ここ10年ばかり続いている。途中街路樹の花や景色を眺めては季節の移り変わりをいちばん感じるところになっている。
 土手では、老若男女が野球、サッカー、クリスビーなどおもいおもいの体力を見せているところでもある。春から秋にかけては「還暦野球大会」が毎週開催されていて、同じ年齢の人たちが野球を楽しんでいるのを見るにつけ、勝ち負けよりみんなで野球がやれる喜びのほうが先のように思える。

 雨の日などは静かな多摩川では流れる川の音がいちばんよく聞こえる。雨の日には人影もまばらで静かで、運がよければカワセミという羽のきれいな鳥がエサをねらってじっとしている場面に出くわすこともある。
 今は、スポーツを楽しむ人たちの声と遠くから聴こえるセミの鳴き声がいちばん聞こえる季節なのでしょう。

 最近の雨は豪雨にすぐ変化するようで、こんな時は多摩川の水域も怖いほどになる。水が濁って大量の水が勢いよく流れていくさまは「危険な川」を感じさせ、恐ろしさを感じるときもある。とくに台風の過ぎた後の多摩川の姿でもある。
 作家の山田太一さんの『岸辺のアルバム』という小説は多摩川氾濫を描いた小説がる。氾濫によって家族の情景を小説にした作品である。人それぞれの人生のなかに自然の驚異が襲ってくる…。そんな小説だったかなあ。家族のゆくえはどうなるのか(わすれましたが)。

 とはいえ、10年ばかり歩いて気がつくことはこの散歩がぼくの唯一の運動なのかもしれない、と。一週間の人とのストレスをここでうまい具合に流しているのかもしれない。日々の澱(おり)をここで流してバランスをとっているのかもしれない。ただ川の音を聞きながら歩いては止まり眺める週末である。
 
※ちなみに多摩川の源流は奥多摩の笠取山だそうです。いつかいきたいものです。そして最終は東京湾・羽田空港沖です。こちらは熱中症になりながら行ったことがありますが。もっと涼しくならないと危ないと思います。

『秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる』
 という風が吹いていく。



 はやいもので夏も過ぎていくようです。始まってからは「危険な暑さ」ばかりの日々でしたが、涼しくなってくると忘れられていくのでしょう。
 今年は戦後73年。各地で祈念式典なども行なわれいました。いちばん大きい「全国戦没者追悼式」も行なわれいました。誰しも戦争ということには賛成する人はいなのでしょう。そして式典の役割は、戦争になってしまったことへの反省への上に立っての「追悼式」なのでしょう。
 とはいえ、日々の生活の中で感じることは「戦争へと足音」が少しずつ大きくなってくるような出来事もあることに反省がないように思います。それは、これまでの国会のあり方をみればわかるように思います。なんでも法律を強行採決していく形がまさに危険な姿なのではないかと思います。それがまさに具体的に身近に感じたのは「憲法改正」ということでしょう。今、自民党の総裁選が始まろうとしていますが、ここでの論点は「憲法改正」があるようです。

 とくに「憲法9条」について改正がもくろまれていることが報じられるたびに「戦争」のできる入り口にきているようにも思います。
 もういちど考えるべきは「戦争」へ突き進む内容の歴史でしょう。

 その意味で以下に「村山談話」の内容は大切です。長くなりますが…。

【村山談話全文】
 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

 ※日本人は「忘れっぽい」とよく言われます。これは忘れないでください。
 実際の生活にはなんの役にも立ちそうにもない「談話」ですが、最終的には政治の世界に入っていくとき、こういうことが大事になってきます。



 「危険な暑さ」もどこへやら…。
 いつの間にか涼しくなってきた。これから寒くなっていくと思うといやだなー、と思う。
 今月、朝10分ほど早い電車で通勤していた。そうすると会社にはこれまでの20分ほど早く着いていた。あまりの暑さに混雑しない電車を選んでのことだった。これが「サマータイム制」なのかな…と思い通勤していた。
 ぼくの場合、再雇用ということもあってほとんど定時で帰って来る。週に一度の残業くらいである。だから続けられるのであろう。実際、夏の間だけ「サマータイム制」ができると朝早く行っても、お客の方がそれに対応しなければ残業になってしまえばこれまでよりは多く働くことになってしうまうという最悪のパターンができてしまうのではないかと思う。

 2020年東京五輪の時期だけというけれど、これも困った出来事である。
 この今年の暑さの中、代表選手はプレーするとなると危険な気がする。
 そんな気がした夏だった。

 もうすぐ夏も終わるだろう。夏休みの学生たちも動き出して人も多くなり電車も混雑するだろう。東京五輪のときはもっと混雑するだろうなあ…。どうやって帰ってきたらいいのやら。
 来週はちょっと忙しくなりそうだ。ボチボチと思いつつやるしかあるまい。

 読者の皆様はどんな夏休みを過ごしたのでしょうか。
 ぼくの方は、涼しくなってきたので山歩きでも…と思案中です。
 月末には、夏休みを消化しておこうと思う。
 ということで今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

残暑お見舞い申し上げます。

2018年08月12日 | Weblog

 こんにちは。
 残暑お見舞い申し上げます。
 散歩をしていると、セミの鳴く中で地面にセミの死骸が落ちていることを見る日々も多くなってきました。多摩川の水も急に増えているときがある。これも豪雨のせいだろう。

毎日暑い日が続いています。今週は、それぞれのお盆での帰省ラッシュが始まっています。今年は故郷で過ごす日々はどんな日々であるのでしょうか。
 ぼくの方は、妻も僕の方も両親もいなくなり昔以上に「帰る理由」も少なくなり、時期外れのお墓参りなどをするようになりました。四国へはもう10年以上も帰っていないのでしょうか。この時期は一年に一度、なつかしい「阿波踊り」のおはやしの音が耳によみがえってもきます。夜の町におはやしと踊り人たちの熱気が伝わってきそうです。
 さて、今度はいついけることか…。

 徳島から電話などがあったとき、阿波踊りについて話していました。「他県では問題をニュースにしているが、地元ではどこ吹く風という感じで今年も阿波踊りはやっているよ…。」とのこと。
 外野はどうでもいいように騒いでいるそんな当たり前のことをつくずく思う。大事なのは地元人、当事者なのだということを忘れてものごとがいい加減に噂される。それが「風評被害」となっていく。そんな気がした。
 ※『徳島の盆踊り』モラエスを読んでみたくなった。


 

 ペンス米副大統領は9日、国防省省で演説し、宇宙空間での中国やロシアとの覇権争いに対抗するため、トランプ大統領が提唱する「宇宙軍」を2020年までに創設することを明らかにした。トランプ大統領は6月の演説で「宇宙で存在感を示すだけでなく、支配しなければならない」と述べ、宇宙軍創設を国防総省に指示していた。ペンス氏はこの日の演説で、中国とロシアを名指しし「敵対国はすでに宇宙を戦闘領域に移行させた。米国がこの挑戦にひるむことはない」と訴えた。

 とうとうここまで来たか…。SFの世界ではなく現実の「今」のことである。まさに、映画でやっていた「スターウォーズ」ばりの宇宙空間での軍事行動が始まったように気がする。映画の中では「宇宙軍」と「地球軍」との戦闘シーンの迫力がが多くの観客を魅了していた。地球征服をたくらむ者のそれを防止するたものとのシンプルな構図であったように思う。観客は「地球軍」の活躍を応援しつつ楽しんでいたのだろう。「エイリアン」では、少しずつ宇宙を支配するものが世界を支配する予感をもたせた映画だった。エイリアンに襲われながらも、乗り組み員を助けるシーンが多いが、一方で、民間会社が宇宙に住むエイリアンをうまく飼いならし、地球に持ち込み軍事量をたくらむという、ありそうなシーンも出てくる。

 今回の「宇宙軍」。軍事行動を地球から宇宙に持ち込むことも可能になってきたということだろう。「宇宙を制するものが地球を制する」ようになってきたような時代になってきたのだろうか。
 考えてみれば、これまでの宇宙開発の意味はすべて軍事利用に集約されるようになってきたのだろうと思う。日本で種子島から「ロケット打ち上げ成功」というニュースの裏側では政界の情報の支配する覇権競争のひとつなのだと思えてくる。

 それにしてもアメリカという国はつくずく世界支配が好きな国だなと思う。その裏返しは、いまでも世界のあちこちに軍隊を駐留させている。世界を支配してしまうメリットがあるからだろう。日本に原子爆弾を落としたのものその根っこの政治思想はいまも昔もかわっていないように思える。宇宙に行っても、何をやらかすか本当に怖い「宇宙軍」であるように思えてしまう。ただでさえ、たくさんのロケットのゴミが地球の軌道にのってあるという。ときどき彗星にごとく流れているのはこの宇宙ゴミかもしれない。これまで、このゴミが人に衝突したというニュースは聞かないが、きっと地球のどこかで落ちているに違いない。どんな宇宙軍になるかはわからないが、地球外で核戦争となったら放射能は全世界にばらまかれて、地球もおわりになるかもしれない。さらには、周囲1キロメートルの物体が地球に衝突したら、穴があくだけでなく何らかの自然現象を誘発してくるのではないのだろうか。事実、昔に地球に宇宙からの物体が飛来していまの地球がつくられてきたことは時事だと思う。

 日本にも以前「自衛軍」発言をした首相を思い出してしまった。
 なんともムチャクチャな論理で世界が支配されているように思えてしまうニュースだった。
 8月、戦争が終わったどころか、この日から新しい戦争への準備が始まっているようなニュースだった。


 米軍普天間飛行場(沖縄宜野湾市)の名護辺野古移設阻止を掲げ、反対運動の象徴的存在だった翁長雄志知事が8日午後、死去した。翁長氏側近が明らかにした。膵がんで闘病中だった。67歳。那覇市出身。

 日本で大きな米軍基地移設反対闘争の星だった。沖縄のニュースと言えばまずこの記事がなによりもいちばん先に出てくるほどの存在だった。いまの政権に唯一反論を堂々としている人だったように見えた。
 沖縄の県知事はまぎれもなく政治家だった。沖縄県の民意を背負った結果として知事になった人だったと思う。だから、辺野古反対は民意の主張しているだけであるともいえる。問題なのは、その民意を聞かない今の政府与党であったために「移設反対」を繰り返しいってきただけだろ思う。それが、政府の方針とくいちがっていたということ。一時は法廷闘争まで巻きこんで移設工事を差し止めたが、政府は裁判所まで抱きこむ形で、原告訴訟をしりぞけたという経緯もあった。

 そもそも、翁長さんは保守の出身である。以前は政府与党でもある自民党の沖縄の幹部でもあった時代もあった。父親は兄弟は、副知事などを歴任した政治エリートの出身でもある。ところが、沖縄に米軍の飛行機事故や犯罪がなくならなかった。その対応に政府のやりかたがあまりにも沖縄住民に対する差別観を多く残してきた。同じ日本人であるのになぜ沖縄はこれまで日本の犠牲にならなければならないのか…ということを思ったことだとだろう。まさに、政治的な「琉球処分」は残っていることが現実である。




【高島平】
 7年前、2011年東日本大震災が起こった翌年からここで降りるようになった。千代田区にあった会社が地震によってヒビがはいり、ビルの老朽化もあって危険だということで板橋にある工場に引っ越したのだった。当時は通勤が60分から90分とながくなってつらかった。ここに降りたとき寂しい気がしたくらいであった。おそらく、東日本大震災はいろいろな面で移転をよぎなくされたところも多かったことだろう。地下鉄の発車ベルがとても寂しく聞こえた記憶がある。とても不便な駅だ。
 若いころは野球をやりによく降りていたが、会社に通うようになるとは夢にも思っていなかった。

 この駅には、30年ほど前、千代田区時代に仕事を教えてくれた先輩が住んでいた。確か高島平団地内だった。退職して、そのご気楽に過ごしていたかと思ったが、ある日、自分の部屋で亡くなっていたときいた。それも、誰にもわからず、友だちが最近見なくなったので訪ねていって、亡くなっていたそうだ。いわゆる「孤独死」である。なんとも寂しいきがした思い出がある。
 釣りの好きな先輩だった。そして出身が同県ということもあり、話もした。

 これまで、ぼくの職場は、千代田区(永田町・溜池山王・一ツ橋)、板橋区(現在)、中央区(出向・現在)と3つの都内をうろうろしてきた。三十数年働いて転々としている。まさに「流浪の民」である。そこでは、いろいろな人や町の景色に出会ってきた。そのなかで唯一、亡くなった人がいるのが板橋区であるのことに気がつく。
 年齢とともに、移動が遠くなっているのは「逆だろう」と思う。それでも、つぶれず今がある。通勤時間が体にこたえてくるようになってきた。今では、出向先(中央区)からの方がいいように思う。人も通勤時間も出向先のお客さんといるほうが、板橋の本社にいるときよりも落ち着けるようになってしまった。これも「逆だろう」のはずだが…。現実はそうなってしまっている。
  
 ぼくの最期はどこでどんな様子でいるのだろうかと思う。
 病院か、それとも家か…。以前はそんなことは考えたこともなかった。最近はぼくの周りの人が病気になったり、亡くなったりということを聞くと「そんなに遠いことではあるまい…」と思えてきた。
 では何をしておこうか? などと思うのだ。




 再雇用者となり二度目の夏を迎えた。再雇用といってもやっていることは出向者としていた「個人職場」はかわっていない。だから、ぼくの場合、会社の休みというよりお客との関係で休みを取るようになっている。会社が休みだとしても、それと一緒に休むことが難しいこともある。今年はそのことを強く感じた年でもあった。

 今年は旧盆の時期に休むということはできなくて、墓参りも難しくなってしまった。通常なら、夏休みをとってしまうのだが、今年は仕事の月刊誌の締め切りが迫っているので休むことがむずかしくなっている。
 仕事でも少しずつ、周りとの速さや流れと合わなくなってしまっている日々もあることもゆがめないことだろう。

 とはいえ、ぼくはこれは仕方がないことだと思っている。おそらくこのままだと、8月の末頃に墓参りということになってしまうだろう。それでも、無理なく働くことを思えば仕方がないとも思う。
 仕事といえば、ぼくの周りには65歳まで再雇用となって働いている人がいる。定年が60歳であっても、年金が65歳から支給という法律があるからである。しかし、本人が希望しなければ60歳で再雇用しなくい人も世の中にはいることだろう。ぼくも、ローンもなければ働かなかったかもしれない。

 おそらく、今後は盆休みはとりずらくなってくるような気がする。
 それはそれでいいと思っている。大事なのは、その分、どこかで保障されていればいいということだと思っている。
 少しずつ他人のためではなく、自分中心に日々が回っていくような気がする。それは、そうしなければ生活がむずかしくなってきたことが現実味をおびてきたように思う。

 今年、再雇用者で夏休み取得を正規社員と同じようにするよう要求したことがあった。再雇用者は労働組合員でもない。身分はあまりにも不安定なところにいる。それでは、誰が再雇用者が問題となったとき話すのか…という疑問があった。いちよう問題があった場合は労働組合が間にはいっていくようにとはなっていても現実、何もしてはいなかった。それでは今後増えるであろう再雇用者も不安定だろうということで、何人かの連名で「今後の問題と再雇用者の要求書」を会社に提出した。回答は「賃金内容にはふみこまず、休日を正規社員と同じにする」とのことになった。今後は働き続けていくためには、こんな形で要求していくしかないようだ。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 今年の暑さは、これまでの暑さとちょっと違うようだ。冗談ではなく本当に「命の危険」さえ感じることもある。老体にこたえる日々だ。
 そんな中、ときおり降る雨。それも豪雨である。それで涼しくなるどころかますます暑くなる。気分も悪くなる。今週前半にめまいがして、通勤電車のなか、不安を感じていた。「どうなってしまうのか…」と思っていた。

 お盆前、日本の夏はなんでも前倒しで仕事がまいこんでくる。それが、通常の2倍となる。2倍の仕事をどう処理していくか、打ち合わせ、連絡、印刷…。そのことを考えただかで気が滅入ってくる日々でもあった。それに、突発的な人の死…。そんな他人の思惑に振りまわされながらすぎて行く日々は、ストレスもたまる。「時間よはやくすぎてしまえ」と思った週でもあった。そんなこともあって、「気分が悪かった」のだろう。

 今年の夏は、うまくまわっていないような気がする。考えすぎだろうか。
 なにかうまくいかない…。
 そんなことを思いつつ仕事がまっているのだろう。
 きっと、今月末頃が本当のぼくの夏休みがきそうだ。そうしようと送るしかあるまい。だんだんと働きづらくなっていくようだ。だからこそ、自分の仕事の形はゆずれないだろう。それを追求していく日々でありたいものだ。



 セミの死骸を見ることも多くなってきた。多摩川を歩いているとトンボの大群も見かけた。そろそろ秋も近づいてきていることだろうか。ときおり、吹く川風にも涼しさを感じている。
 今年の夏も終わりそうだ。始まってしまえば、終わりが見えるのは自然の方が早いような気がする。時間は待ってくれない。そんな思いでいる。ゆっくり時間が過ぎていく毎日を持てた変則的な盆休みであったように思う。そろそろ働き蜂の帰ってくるころだろう。高速道路の渋滞のニュースにまたいつもの日常が戻ってくるのだろう。
 月末には、ぼくの夏休みをとって時期外れになってしまった墓参りなどしておこうと思う。


 読んでくれた人、ありがとうございました。

8月。甲子園、「鳴門第九」の100年め

2018年08月05日 | Weblog

 こんにちは。
 まだまだ暑い日が続いています。そろそろ帰省ラッシュが始まる時期になってきました。一年の二度の家族の大イベントでもあります。これは楽しいことだと思います。どんなんに渋滞しようが、暑さがあろうが一直線にむかう人の流れはまさに盆暮れのできごとだと思います。

 これも日本の「風物詩」でもあります。高速道路にアリの行列のように車が並んでいる情景が今年もあるのでしょうか。
 「危険な暑さ」といういわれるわりいは町にはたくさんの人がいるではないか。正直、危険だある分楽しさも倍にでもあるように思えるのもわかるような気がする。汗をいっぱいかきながら歩くのは楽しい。なにか、体の汗が悪戦苦闘している様子がわかる。どこまでが限界なのか、限界じゃないのか…、という自分との対話をしているときでもあるように思う。


<8月の暑さのなかで>

ニュースの後に余計なひと言が多すぎる
「危険な暑さ」は誰でもわかる
「ためらわずクーラーのスイッチを入れてください」は
OFFにしたままの苦しさ
ONにしたときの快適さ
その二つの選択の余地はないのはわかっている

年金くらしのMさん…電気代がかかってしまう
明日の生活が心配と、OFFにしたままに
翌朝に、息がなく発見された、現実である

そのとき、年金の最低の生活にのしかかる電気代
年金〇〇円以下で生活する人に
政治が臨時に保障することを考えていれば
「危険な暑さ」からはなれて
Mさんは生活のをつくったかもしれない

こんなあたらまえのような工夫が失われ
「危険な」なという脅迫のような言葉が
日々の生活になってしまっている
Mさん
OFFの中につつましく楽しい明日をむかえるはずだった…
おいしい食事を考えたのだった
孫にもお小遣いを考えたのだった
つつましい生活が続いたはずだった

誰でもわかっているようなことだが

暑さは脅迫に変わっている日々
言葉から普通に脅迫されているような気がする
そんな夏がいちばん怖い夏だということを





 今月もあいもかわらない「朝礼」があった。先月の売り上げから、時候挨拶と聞いてもすぐに忘れてしまうほどのものだった。そのなかで印象に残ったことがあった。「当社も今年創立50周年をむかえます。9月には記念して都内のホテルで祝賀会をやります」との挨拶だった。つい忘れていたが時のながれを感じた朝だった。
 ぼくが勤めて35年くらいたっている。人生の大部分がこの会社のなかで送ってきたことがあらためて感じたのだった。できれば50周年をみんなと楽しくしたいと思った。ところがこの祝賀会には従業員は出席しないそうだ。役員とお客様のみ参加して行われると聞こえたときは、わが耳を疑ったものだ。だが案内をみれば確かに内容には従業員は数にははいっていなかった。なんと悲しいことだろうかと思えてしまった。世の中が不景気だとはいえ、こんな時ぐらい全従業員を参加して祝うべきではないのだろうか思う。

 ぼくが20代のとき、10周年か15周年か記憶は定かではないが一度上野のあるホテルで祝賀会を思い出した。あのときは、今は亡き2代目の社長が挨拶をしていた。世の中は「国鉄民営化」ののときで労資が激突していた時代だった。国鉄職員の多くの自殺者がでた時代でもあった。けれども労働者は元気だった。そして、労働者もその出来事が身じかに考えられる時代でもあった。分かり合えることを語り、疑問をぶつける相手がいた時代でもあったように思う。その時頂いた記念品は置時計だったが、今はもうない。出席した人たちと楽しかったことは遠い記憶として残っている。いまでは、そのとき参加した人は、ほとんど人が退職したり、亡くなったりしている。
 …そんなことを思うと、前回の祝賀会から50周年まで今、残っている人は数えるくらいしかいない。
 「従業員のいない」会社をめざしているのではあるまいが、なんとも寂しい50年目になったことかと思う。

 最近、定年になって思うことはやっていることは少しも進歩がない。これまでのことを踏襲しているだけである。継続することも大切なことには違いはないが、これまで以上に「前へ」いくことが大事だと思う。とはいえ、その元気さえもなくなった、ということだろうか。
 役人とお客ではなにも出来ないのだ。50周年がセレモニーとして、その時の既成事実として残ってもそれを支えてきた歴史を誰がつくってきたのか、もう一度考えた方がいいと思う。労働者がいなければ今はないはずだった。
…そんあことを考えた2018年の50周年だった。

 今年、鳴門市の板東俘虜(ふりょ)収容所でのベートーベン「第九」アジア初演から100年を迎えたそうだ。戦争が終わっても、俘虜収容所のドイツ人の子孫が鳴門市に感謝の気持ちをもって100周年があったそうだ。なぜ、これまでに伝えられてきたのか…、それは役人がやってきたのではなく、そこに住む人たちが誰にも知られずとも交流してきたからだ。そして、両国の人たちが平和がなによりも大事なことを知っていたからだと思う。
 後世に伝えるべきは、イベントなどではなくて民族がちがっていても争いのない楽しい生活をする工夫を伝え合うことなのだと思う。
 甲子園100周年より、ぼくはこちらの100周年の方が好きだ。

 ちなみに50年後。ぼくはいません。何が語られているのでしょうか…ね。


ふたたび【御茶ノ水駅】
 今年の夏。再び「御茶ノ水」に降りている。知人が再び入院したためだった。お見舞いに降りた駅である。
 昔はいい思い出がいっぱいあった駅であったのが少しずつ暗い気持ちで降りるえきとなってしまった。そして、「東京医科歯科大問題」が頭をよぎった駅でもある。
 「裏口入学」といい「女性合格者の減点不合格」というニュースに近い駅でもある。ぼくの能力ではよおびもつかないエリートたちである。その人たちがしのぎをけずっている場所であるはずが、実は「お金」や「女性差別」でできていたとは悲しいことよりあきれるばかりに思える。どうして、こんなことがまかり通ってしまうのだろうか。
 世の中に「結局、最後はお金という富と権力という政治」がはばをきかせる医学だったのだろうか思える。全部が一括りにして思わないが残念に思える。それもこれも、みんな今の社会の裏返し(鏡)のようなものだと思う。

 帰り道、ぼくのまわりには同じ「がん」の人が四方にいる。他人事でもないような気がした。
 それしても、駅の神田川沿いの工事は続いています。東京五輪までには完成させるのでしょうか。駅も変わってしまでしょう。どんな駅になるのでしょうか。聖橋の外観があじもそっけもなくなってしまったようです。あれはコンクリートの橋。以前はもっときれいだったと思いますが…。
 さてどんな駅になるのでしょうか。
 神田川沿いでももう一つ。セミの大合唱でした。これはすごい、頭の上いっぱいにセミの鳴き声が響いていました。



 62回目の夏を迎えている。今年の夏は恐ろしいほど暑いと感じている日々でもある。プールでも熱中症というニュースがあるくらいなのだから驚く。このニュースに、きっとプールの指導員もこれまで通りと思っていたのだろう。ところが、ぜんぜん違う暑さに後手にまわって熱中症がでてしまったのだろう。とはいえ、いまやっていることは全部「後手」にまわっているような社会でもあるようにうつる。最悪なのは「知っててそうしていること」のように思う。熱中症で亡くなった人も多い。NHKが警告にもきこえる熱中症対策を日々番組のあとさきに言っているが、そんなに言うのなら「受信料の分をクーラーの電気代に臨時にまわす」とか言ってくれたほうが、よほどありがたい気がするし、気のきいたことだと思う。

 世の中、いろいろ工夫されてできている。
 工夫のないのは今の与党政治でもある。今は暑い…、危険な暑さでもある。このまま放置すると与党内でも何もいえなくなる…と総裁選での石破茂元幹事長。安倍政治に対抗すべき孤軍奮闘の言葉でもある。自民党の今の政治は嫌いだが、好きな政治家もいる。昔で言えば後藤田正晴氏や田中角栄など。そんな人たちに支えられて今の政治はできているのではなかったのか。それを忘れているのが今の安倍首相のように思う。

 お盆が近づいている…。
 今年はきっとそれどころではないかもしれない。鉄道が毎日動いているように、ぼくの仕事も締切がある。それが終わるまで、夏休みとはいかいなようだ。元気に再雇用している間は貢献(?)したいと考える。それにしても、この暑さにはあきれてしまう。いままでこんなことあったのだろうか。

 来週は仕事が一区切りすれば夏休みをとりたいと思う。きっと月末だろう。夏休みは3日間ある。周りは盆休みで渋滞あり、電車の混雑ありとたいへんだろう。けれど、田舎に帰れる人は、無理をせずに気をつけて帰省してきてください。ぼくの方あい変らずの「一人職場」状態…。本社にいるのに…。

 今週はこの辺で失礼します。
 来週は忙しそうだなあ…。暑さと人の苦情を避けながらいきたいと思います。
 読んでくれた人、ありがとうございました。