日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

お山はまだまだ梅が満開

2018年03月25日 | Weblog

 全国から桜の開花宣言がきかれる週であった。あたたかさも加味して桜も咲く時期を待っていたことだろう。
 これほどまでに日本人から開花の期待をもって迎えられる花もうらやましい。まさにスポーツ選手の「金メダル候補」のようにも思える。プレッシャーもあるだろうし、期待を寄せる瞬間を待っている人々にとっては実に待ち遠しい楽しい時間だろうと思う。
 メダルをとれれば喜び、とれなくても選手の一生懸命さに胸うたれる。

 さて今月は、この「誰かの期待」が全部右たぎられたような一ヵ月だったように思える。
 いま騒がれている「森友文書改ざん」でも、国有地を安く手にいれるために期待をこめて公文書をつくりあげたが、これが「改ざん」だった。事実とことなり、「誰かの期待」のために偽造されたことが発覚した。そして、それに関係した人々がまた「ウソ」のようなことを平気で国会の答弁でおこなっていた。そして、国民が汗して働いた税金がかかわっていることからいまだに真実を求め、国会は紛糾している。

 もうひとつ。年金入力問題。新システム移行に関連して年金機構が個人情報の入力を委託業者に依頼したが当初の予定通りできなくなった。何億年もの税金をかけては発注したが「できない」といことが発覚したようだ。年金機構の期待がかんぜんに裏切られた。それよりまして、こんなにもいいけげんに業者を頼む年金機構に裏切られたのは年金受給者だろう(私もその一人)。なんとも年金受給者を軽視したものだと…。
 あれほど、若者に年金をはらうように追いたてておきながら、これはないだろうと思う。年金をもっとまじめに納めている人はバカみたじゃないか。これまで年金機構になってから、個人情報の漏えい問題などで気がめいる日々も多い。あげくの果てに「私の年金は大丈夫?」と不安になってしまう。
 どれだけ大変なのかはわからないから言いたいことをいわせてもらえば、「国民の期待を裏切るな」と思う。




 今月は老いについて読んでいました。
 日本は平均寿命が男性81歳、女性が87歳という「超高齢化社会」になって来ました。寿命が延びても長生きした内容は、医療介護の病院で寝たきりであったり介護施設の待ちであったり決して社会保障の面からは充実しているとはいえない現実があります。さらには「認知症」となり、介護の負担が家族にかかってしまうこともあります。すなおに長生きがよろこべない現実ばかりになっていることも事実です。
 今回の『長い別れ』(中島京子著)は、親が認知症になってからの家族の物語です。最後を誰がどこで看取るのか…、ということを考えさせられた小説です。ますます増える高齢者の生き方や最期のむかえかたと今、日本が直面している問題を読み取ることもできる一冊です。

 もう一冊は『登山者のために法律入門』(山のトラブルを回避する・溝手康史)です。
 山ブームによって、日本各地の山では数々の事故が起きていることはニュースなどで耳にすることでしょう。その事故によって、その責任の所在はどこにあって誰が保障してくれるのだろうかという問いに数々の事例を参考に消化しています。
 一つに昨年起きた栃木県での栃木県那須町湯本の那須温泉ファミリースキー場で雪崩が発生し、登山の講習会に参加していた県立大田原高校の16~17歳の男子生徒7人と男性教員1人の計8人が搬送先の病院で死亡した事故についても法律的に検証しています。
 さらには登山者個人の事故に関しての行政の対応や責任につても書かれています。
 個人が他人に事故などのトラブルなどの賠償の責任などもあります。

*ちなみにこの事故で、県教育委員会は19日、指導的立場だった教諭3人を懲戒処分としました。処分理由としては「講習会を安全に実施すべき立場にありながら、生との安全への配慮を欠いた」と説明しました。記者会見した教育長は「安全安心であるはずの教育活動で起きた事故で、責任を重く感じている」と謝罪。事故でなくなった父親は「八人死亡という重大な結果にしては、足りない処分だ。今後の部活動での安全管理に緊張感をもてるかも疑問だ」と話した。(3月20日・東京)

 登山は原則的に「自己責任」でもあると書いています。わざわざ山に行くとうことは、日常からリスクの多いところでの生活になります。そこでの、事故は全部「自己責任」ということです。それでも、山の登山道の管理や危険場所などについての責任も書かれています。どこまでが個人の責任なのかということも考える場として書いていることもあります。そんなことを考えると楽しさも半減してしまうと…いうことではなくあくまでも危険な場所でいかに事故を防ぐことがたいせつかということもかいていると思います。



 誰でもいつかは老いていく。それと同時に肉体や精神の老いも一緒につれてくる。
 最近、わたしは若いころは思いもよらないところで「老い」ということを痛切に感じることが多い。それは、駅の階段を降りるときや「年金」という言葉が身じかに感じたときであるかもしれない。そんなとき「私はどんなふうに年をとっていくのだろうか」とい疑問がのしかかってくるのだった。
 現実、若い人に比べるまでもなくなんにつけ動作が重くなっている。生活であれ、仕事であれ若者と競争しようなどという気は起らないくらいだ。そんな日々に「人は年相応に生きればいいと」割り切っている自分がいたりすることもある。いまとなっては老いということは遠い存在ではなく、となりにいつも一緒にいる現実であるということを痛感している。

 『長いお別れ』(中島京子著)という本はそんな思いの中読んだ本だ。父、昇平がアルツハイマー認知症にかかり、父をとりまく家族の話である。老老介護という現実と向き合いながら生きるということ。つれあいの曜子さんも介護をする傍ら網膜剥離にかかり入院することになってしまう。結婚してアメリカカルフォルニア在住の長女の茉莉、次女の菜奈は結婚して佐倉市に住む。さらに末娘の芙美。
 それぞれの生活のなかからできる範囲で母の介護の手伝いをしていく。
 昇平が骨折を機にこの介護も一転してそれぞれの子どもたちへの負担を増す生活を余儀なくするようになる。昇平がなくなりそれぞれの生活の場に戻っていく。妻曜子も網膜剥離という目の手術。退院してからもがんばって生活を続けるという物語である。三姉妹のそれぞれの暮らしのなかでの出来事をつうじて介護ということを知っていくという。10年の年月が流れていく物語である。

 読み終えて、いずれくるだろう死について思う小説である。「形あるものはいつか壊れる」あるいは「命あるものは土に還る」という思いを強くもった小説である。そして、大事なのは「思う存分生きているか?」という問いかけにも思える作品だといえる小説。
 還暦になっていまさら遅い…、という気持ちがあるが残された時間をどう人をまっとうしていくかということなのかもしれない。老人には病気や死はいつもいる隣人のような存在でもあるかのようだ。だからこそ今一度考えて行動していこうではないかというメッセージでもあるかのようだった。
 私自身、介護の経験はない。それでも、自分たちの場合、老老介護ということもないわけでもないようになっている。社会のしくみの中、これまで税金として払ってきたものをどううまく使うかも大切な知恵なのかもしれない。
 とはいえ、まだ現役。生きるためにこの社会のしくみと格闘しながらいくしかあるまい。
 同じような作品に『母』(老いに負けなかった人生)高野悦子(岩波現代文庫)を思い出した。母と娘の話である。痴ほう症になった母を介護しながら、自分の生き方に思いをめぐらし生涯を送っていく。そんな本の抜書きを紹介する。「父は烈しい死に方をした。母は静かに死んでいった。私はどのような死に方をするのだろうか。私にはわからないし、想像しても始まらない。人の死は、その人がいかに生きたかの総決算なのだから、これからも、私は私らしく懸命に生きるしかないのだ」。



 季節が変わるたびに山歩きを楽しんでいる一人として『登山者のための法律入門』はあまりなじみのうすい「法律」という観点を考えさせてくれた一冊だと思います。
 自然のなかに入っていくわけですから人は自然に対して「無防備」なのかもしれません。いついかなる災害に遭遇するかわからないだ ろうし、遭遇してからの対処も分からないということもあります。
 事故が起きてしまってから考えることのほうが多いのではないのでしょうか。それは、事故が起こらないあということが前提に登山を楽しんでいるからでしょう。
 大切なことは「起こり得る」ということを大前提に考えた場合の「注意、対応」が事故をおこさない手がかりになるということも大事なことだと思います。
 例えば、普段では快晴という天気が突然かわってしまったらどうするのか。雨にあたれば体温が急激に下がり、さらに高所の山ではますます冷えていきます。そして「低体温」になり生命にも危険が起こりうるということでも視野にいれたとき、どんな対応(準備)が必要か理解し装備を携帯していくことが大事だということではなかと思います。
 ほかに『やってはいけない山歩き』(野村仁・青春出版社)などがあります。山の常識と日々の生活の常識とは違うこと、山でのつま先から頭までの常識を知識としてしっておく大切さを教えてくれている一冊です。さまざまな山でのリスクを最小限にする知恵もあります。
 合わせて読んでおくといいと思います。




【高尾駅】
 いつも行く「陣馬高原下」行のバス停は八王子から出ていたように思う。それも、京王線の八王子である。暗く排気ガスがムンムンただようバス停だった。利用客といえば、ほとんどがオジサンか(私も)オバサンの登山者だった。静かなバス停だった。いまでは考えられないほどの乗客の少なさに赤字路線だったことだろう。
 ところが、高尾山がミシュランに選ばれてから登山者急激に多くなった。それも、日本人以外の外国人がそれぞれの母国語で会話をしながら行く姿を見るにつれ国際的になったものだと思った。そして高尾頂上の人の多さにも驚く日々である。京王高尾山口には温泉までできた。もう、駅前は観光スポットのようなにぎわいである。
 ぼくが初めて高尾山を歩いた30~40年前はたいへん静かな山だった。木々ももっと多く、影の多い山であった。人もまばらで、待ち合わせを「頂上12時」としてもすぐわかったものだ。あきらかに今よりは静かなのんびりした山だったように思う。
 だから小用に立つことも気にすることもなかった。いまでは、人が多くて無理なようだ。それでも、疲れたからだを動かして奥深く分け入ってき済ませるようだ。トイレが充実したとはいえその場所までいかなければ無理だ。とくに女性は大変だろうと思う。

 とはいえ、これまでに高尾山の有名にしたのは高尾山に関しては「山ガール」であることも事実だろう。ときどきすれちがう山ガールは、色もカラフル、町中で登山用服をきているようだ。そして楽しそうな笑いあり食事あり、と本当に山歩きを楽しんでいるようだ。
 時代は変わった…と思うしかない。時代に翻弄されているあの時代の登山者は、京王線高尾山口からはおりないだろう。その一つ手前の「JR高尾」で降りて、バスで奥深くにある登山口をさがしているようだ。
 おそらく高尾山は今がピークかもしれない。あと何十年先には何があるのだろうか。山を貫通した高速道路、地上50メートルもある道路を見るにつけ、何本も穴をあけられ、ついにはトンネルだらけの山になってしまうのではないかなと懸念する日々だ。



 今週末、久しぶりに山歩きに行って来ました。
 まだまだ寒いからでしょうか、登山者はいつもよりまだ少ないような気がします(その方が静かでいいのですが…)。
 山の方は少しずつですが花が咲き始めてきました。桜の方はもうちょっと先になりそうです。登山道は思ったほどぬかるんでいないのが助かりました。もうその時期はすぎたのでしょうか。一時は靴にどろがいっぱいついて重たく感じた時期もありました。帰ってから万歩計をみたら22㎞の歩いていました。できるだけ歩くように心がけています。

 3月も終わります。来月にはどんなことがあるのでしょうか。
 町では、新しいスーツ姿の新入社員や卒業式の帰りでしょうかはかま姿の女性のすがたも見られました。4月は別れと出会いの時期でしょうかね。
 いい出会いは、これからの人生に大きな影響をつくります。
 私にとってのいい出会いは…、もう期待するべくもなく日々を送っていくのでしょうか。どちらかと言えば、別れの多いの年齢になっていました。
 誰にでもかならず別れはきます。それでも、自分が頑張れる別れがあったことも確かです。そんな人の気持ちをときどき思い出します。
 
 さて来月は年金について準備をしないといけないと考えています。こちらが要求しないと何にもしてくれませんからね…。お疲れさまでした。

 今週はこの辺で失礼します。

花粉症とともに桜が咲きはじめた

2018年03月18日 | Weblog

 こんにちは。
 温かさと共に桜の花が見られるようになってきました。すでに散歩途中では「河津さくら」が満開でした。日本の南から少しずつ開花のたよりも多くなってきたようです。わたしの散歩道にも一本だけ、どこよりも早く咲いている木がありました。春は桜ばかり強調されますが、足元では小さな花も花を咲かせています。それにつれられてか、鳥のすがたもみじかになってきました。
 温かくなると、鳥たちの動きも行動範囲がひろがるせいでしょうかえせを求めてすぐ近くまでよっても一生懸命、腹を満腹にしようとしています。そして、人間もおなじように多摩川の土手には以前よりもかして多くなっていきました。
 少しずつ身が軽くなってきた分、行動範囲も広がってくるのは生物界の法則なのでしょうか…。


 さて今週は、韓国で行なわれいるピョンチャンパラリンピックが盛り上がっていました。これまで、放送がなかったせいか冬季五輪の影になっているような気がしましたが、今回は2020年東京五輪の影響もあるのでしょうかよく放送されていたおかげで見ることができました。(まったくげんきんなものですね)。わたしの注目はメダル候補の競技より団体競技のアイスホッケーが楽しみでした。日本の活躍も期待していたのですが残念ながらいまだの初勝利のない大会になっています。それでも、チームはがんばっている姿には感動です。
 やはり、そしてスポーツはスピードが大事な要素だな…と気づきます。平均年齢が40歳以上となると、技術があってもスピードがなくなり、相手に有利に試合が運ばれて、さらには余裕をもって得点シーンをつくられてしまっています。まだまだ、日本のアイスホッケーへの理解や協力が少ない分、若手選手の参加が背少ないのでしょうか。練習は夜中、スケートリンクを借りてやっている現状だといいます。個人競技はそれぞれメダルや入賞範囲の活躍が目立っていますが、団体競技となるとまだまだなのでしょうか。スポーツ庁の予算など援助を…と思います。


 今週もうひとつ注目になっていたのは「森友問題」でした。
 「公文書改ざん」が事実としてあかるみなって政府がどう対応していくのか見ていましたが…。「一強多弱」の国会はこんなところにも影響しているのでしょうか、ノラリクラリのかわされていました。これだけ証拠が明るみになっても、真実があきらかにならないのはいまの国会を象徴しているからでしょうか。けっきょく、いちからふりだしに戻った形になってきました。
 「証人喚問」が来週からはじまるようです。
 「ロッキード事件」を思い出しました。「ピーナッツ」という言葉が多く聞かれたました。自殺者もいたように思います。作家もジャーナリスト(マスコミ)、野党議員も必死で追及していました。国民に対して矜持をもっていました。少なくとも、自民党議員のなかにも疑問を抱く人がいた時代でした。これだけバレバレでも、保身にはしるのはなぜでしょうか。なんでもそうでしょうが、大事なのはいつ、どんな形でという「引き際」なのだろうかと思います。それさえも、できないのであれば国会は大混乱するしかありません。

 いろいろ言われていますが、けっきょくこれらの問題を引き起こした議員を選んだのは有権者なのです。これにつきます。それにつけても、こんな国会に多額の税金が使われていると考えるとやるせないですね…。いったい、納税者はどうすればいいのでしょうか。信じきれなくなった政治をつくっている与党の責任は重い。




 今月から新入社員がはいってきました。職場見学という期間でやってきました。彼らをみていたら、わたしはあの年代になにをしてやのだろうか、ということを思いました。わたしが30歳代のときは、今よりもっと明るい職場だったような気がします。NHKの番組に「明るい農村」なんて番組がありましたが、農業に挑戦する人たちの姿が印象的でした。そんな希望のような明るさがみたいないものがありました。見学者をみていると、さんざん他企業でいためつけられて再就職してきたかのように見えました。
 
 考えてみれば、わたしの時代になかった「ブラック企業」世代なのでしょうか。とことん、企業のブラック面をみてきたからでしょうか、正直元気がないように思えました。パワハラ、セクハラ、マタハラという言葉が多くなった分なんにつけ、拘束されているような時代・世代なのだろうか。それを、知らずにうっかり言葉を投げかけようものなら、〇〇ハラスエメントとでも言われそうで、言葉がかけずらいのも本音です。
 でも、そればかり考えていたら一緒に仕事をする仲間にはならないのでしょう。どこまで、相手のことを思って行動していくのかが大事なのかもしれなせんね。それが、言われても許せる許容範囲ができるのでしょうか。そんん関係つくっているのだろうかと反省。彼らにとってはまだ先は長い…。いる間だけでも話せたらと思います。「ステップアップ」という幻影がちらつくのでしょうか。世の中そんなに簡単ではありませんよね。




【水道橋駅】
 水道橋には、後楽園球場がありました。ドーム球場になってからは一度も野球観戦にいかなくなりました。いくとしたら、神宮球場に行っていまします。
 夏のナイターは熱気ムンムンでしたが、友だちと飲む生ビールはうまかったですねえ。いまよりはずっと汚くて、煙草くさくて、それでもみんな応戦していました。後楽園球場はジャインアンツの本拠地ですが、わたしはアンチジャイアンツなので負けることを期待していたのですが、ほとんど勝っていました。昔のジャインアンツは、サッカーで言えば、ブラジルと日本くらいの差があるくらい。にくたらしいほど強かった。さらに、アンチジャインアツにとってはアウエイで応援するのも遠慮がちです。なぜなら、いつもチケットはジャイアンツ応援の人たちの中が多かったのです。また、草野球がすきだったのもあるのでしょう。そして、冷たい生ビールそれだけでよかったような気がしていました。今では、すっかり後楽園にはいかなくなっています。そして、草野球も自然消滅しました。私にとっての水道橋駅は草野球とともにありました。
 それにしても、この駅は変わりませんね…。降りるところを間違えると、とんでもなく遠くになっていまうことも…。



 少しずつ桜のたよりが届きます。本来なら、ゆっくり花見でもできるればいいのですが…。現実は、花粉症などでクシャミばかりで出てそれどころではないです。それでも、温かさが身じかになってくるとうれしくなってきます。
 来週は仕事で月刊誌(4月号)が終わります。それが終わればちょっとは桜を満喫できそうですが、それまでは気が緩みません。

 パラリンピックはすごかったですね。一人でメダルを5個もとってしまう人の活躍は信じられません。だからこそ、日々の練習のきびしさを考えるられような気がします。それと支えてくれるスタッフの縁の下お力があったのでしょう。スポーツ観戦は、リアルに感動が伝わってくるので楽しいですね。

 はやいもので今月も下旬です。
 まあー、マイペースでやっていければと思います。今週が終わったら有給休暇でもとって、山る歩きでも再開できればいいですが。その前に、年金の書類の整理と手続きの準備をしなければ…。これはもう全然わからなくて、心配のたねでもあります。

 今週はこのへんで失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

7年目の3.11東日本大震災・福島第一原発事故から

2018年03月11日 | Weblog

 こんにちは。
 少しずつ春のおとづれが足元からやってくるように思えます。多摩川の土手では小さな花が咲き始めてきました。運動場では、人のいあらい息つかいが聞こえてきそうです。土の中から、水の中から春の温かさによって活発に動きはじめるのでしょうか。

 ピョンチャン冬季五輪が終わり、今はパラリン冬季五輪がはじまっている。
 選手の活躍をみるたびに4年間の日々の練習の成果を思うようにだせるようにがんばてほしいと思うばかりである。不自由な体をもろともせず、活躍する選手たちには「人間の無限な力」を考えさせてくれる。ただ、それがその人にどうマッチングでいているいかも大切なことなのだろうと思えた。

 そんなにぎわいのなかで、今日(11日)は東日本大震災・福島第一原発事故から7年目である。7年後の今、復興は廃炉はどこまで進んでいるのか気になるところでもある。住んでいた土地や友だちから離れ離れになった今、どう過ごしていったらいいのか…まだ試行錯誤の日々だろう。


 ロンドンに住む英国人カップルが3月下旬、高知県東端の海辺の寺で挙式を挙げる。仏教徒ではないが、二人は踏破した四国遍路の思い出が忘れられず、札所の寺を人生の門出に選んだ。近年、外国人に遍路の人気が高まっている。四国遍路の何が、彼らを引き付けるのか。(同/4日)

 「お遍路」いつか、歩きたいと、いつも思っている。最近では、外国人が日本人よりも思いを寄せてやってきている…、という記事にもわかるような気がする。とくに行動範囲が拡げられる若者の方がいいのかもしれないのかなあ、思う。
 とにかく歩く…という行為は、自然にふれあういちばんの近道なのかもしれない。歩きながら雨に打たれれば休み、天気がよければ景色をみながら、あるいは住民と話しながらという日々の遍路は、ある意味歩く旅行だろう。昔、人は「お伊勢参り」に多く出かけた。それは、日々の景色から脱却して、道々に多くの人とふれあいながら、自分と人との距離をつくっていったのだろうと思える。それが、社会の基礎となる距離でもあり、必要なものであったのだろうと思う。お遍路は、人との距離をどれだけつくれば、自分という人間をこの世でうまく暮らしていけるかを考えさせてくれる旅行なのだと思う。

 とくに、人との距離を考える時に「近づきすぐれば犯罪となりかね、遠すぎれば薄情者とよばれたり」といういまの社会にあっては大事なことだろうと思う。それが、今では離れすぎた社会となっていればなおさら。
 とはいえ、いいことばかりではないだろう。それが何のか自分で経験してみるのも「お遍路」のよさでもあり、試練でもある。今、思うと四国にいったときに「なんの因果か四国の人と知りあえた」ことをありがたいと思っている。


 学校法人・森友学園(大阪市)への国有地売却問題で、麻生太郎財務相は9日、当時の財務省管理局長だった佐川宣寿・国税庁長官を減給処分とし、佐川氏は同日付で辞任を発表した。同学園との土地取引をめぐっては、朝日新聞の報道で同省の決裁文書が書き換えられた疑いが浮上しており、麻生氏は佐川氏の辞任の理由として「決裁文書の国会提出時の担当局長だった」ことも挙げた。処分と同時の辞職で、事実上の更迭とみられる(同・10日)

 「やっぱりこうなるか」と思えた。
 まさに権力者の横暴の牙城があらわになったのかもしれない。ここまでくるのに国民の一人ひとりに訴えつづけたジャーナリストの奮闘があったからだろうと思える。まして、税金がどれだけ使われてきたのかを思えば怒りがまっさきにくる。それを、冷静に追い詰めていった野党の国会議員も同じであろう。
 でもいちばん大切なのは、この問題のきっかけをつくった一地方議員の疑問が大事なのだと思える。その人が疑問を投げかけなければきっと、そのまま森友学園はできていたのだろう。
 
 もっと、国民のための政治をと思う。
 とくに大事なことをやっているのかもしれないのだろうが、それが虚偽の上に成り立っていることは、虚偽は雪だるま式になるかと思う。
 つくづく国会は国民の問題を審議しているのかとうことを考え出せられたニュースだった。
 



 東日本大震災から7年目です。私がいきてきた中で自然災害をこんなに身近に感じた震災はありませんでした。震災によって、今の職場に変わったともいえるのだろう。もし、なかったならば、今でも千代田区の便利な場所で仕事をしていたことだろうし、一緒に仕事をしていた人たちとも別れずいたと思える。

 震災は、おおげさかもしれないが私にとってのターニングポイントであったように思える。
 なければ、「一人職場」という出向もなかったろうし、同じ年代の人たちとも仕事ができたのではないかと思えるからだ。
 それにしても、いろいろなことがあった7年間だった。同じ年齢の人は出向で病気になり結局、その病気で辞めてしまった。一緒にお酒を飲みにいって友だちは、震災後にがんになってしまった。手術を2回して、いまでもペースを守って仕事をしている。自分自身もその影響をうけて、辞めた人のかわりに出向となり、さらには引っ越し先での仕事に戻った。そして、いまだに週に一度、出向先には行っている。こんなに大変なはならなかったに違いない。
 何もかもが震災のせいにはしたくななかいが、それでも何かの引き金になっていることは確かなことではなかったかと思う。

 それでも震災でわかったこともあります。
 とくに日常気にせずつかっていた原発での電力事情のこと。そしてその原子力発電の制御のできない危険性を考えた7年間でもあったように思う。放射能の怖さや危険なものであることを身近に思えた7年間だった。さらに、都内の交通マヒによって帰宅できない人の多いこと、そこでは多数の人の助けを求めていたこと…。ガンジガラメにされた都内の労働者は、これからどうなっていくのかという不安も多くあった。
 とはいえ、正直なところ災難は日々記憶から遠のいていくように思える。あの時を話す人、時間、場所などの範囲も年々小さくなっていく。職場で話す人もすくなってきたこともあるだろう。

 最近、当時のことをお客さんに言われたことあった。当時の様子を共有したお客さんのことも話す機会もあった。一緒に会社に一晩退避していたことや、テレビに映し出される津波の様子を見ていたことなどの話にもなった。残念なことにこの当時の話が職場の人たちとの話にならないのが悲しいものだと思う。これからも、今日という日をむけると、きっと私自身、当時の話ができる人を求めていくのだろうと思う。そのなかで、得たことを少しずつ加えて生きていくのだろうと思う。

 新聞や本などをでは、「復興」といっても原発避難者や現地の人たちにとっては少しも復興はきていない様子もうかがえる。
 予算をつかい建築物は本当に被災者の役にたっているのだろうか。
 被災者と私自身の共通点は原発の危険性を共有することぐらいだろう。原発の完全廃炉になるまでどれだけのことをしていくのか…、未知数である。ただ言えるのは原子力発電は人類と共存は困難なエネルギーのだといことだろうと思う。チェルノブイリの原発事故でさえいまだにその影響を受けた人たちへの解決はないことを考えれば、二度と原発を再稼働をさせてはいけないということが大事なことであるように思う。




【お茶ノ水駅】 最近はこの駅を降りて、昔歩いた反対の方向の大学病院にいくようになっていました。
しばらく知人が入院をしていたこともあったのでお見舞いによく降りた駅でもあります。年齢とともに駅から降りてから行く方向もかわってきたようにも思えます。

 このあたりはぼくの若かしきころは、多くの大学がありました。神田の古本屋へいくにも大学の構内を抜け道として歩くこともあったくらい。そして、構内には立ち並ぶ「立て看」に学生の主張もありました。いまでは通りから見える構内はきれいになっていてお店のショウウインドーのようです。オフィス街のような静かさです。以前は、学生運動という言葉も通用していた時代の人にはちょっと静かなキャンパスはものたらないような気がしました。駅前ではいつも誰かがスピーカーで自分たちの主張をしていましたが…。政治も「保革一騎打ち」という言葉がありました。そんな時代なのでしょうか。それとも、今の学生は忙しすぎるののでしょうか。

 そしてここを象徴するのは日本きっての古本屋街でしょうか。最近は学生さんの姿よりおじさんの姿が目立つようになってきました。(目の錯覚かなあ…)
文庫本・新書専門の古本屋もあります。一度だけ店のおばさんと話したことがありました。「昔は対面の道路が狭くて向こうにすぐ行けたのに、今は道路が広くなった…。向こう側にいいくにも一苦労です」だとか。ながい間、この土地で古本屋を経営していくのにはご苦労があっただろうと思う。まして、最近は学生が本を読まなくなったといいます(本よりもスマホをながめる時間が長いということです)。白山通りから靖国通りの坂をまっすぐに行くと「九段下」へ。武道館を左手に見て靖国神社のほうに歩く…。ここが、一番キレだと思ったのは夕暮れの時間。坂を歩いてひょいと後ろをむけばたくさんのヘッドライトが美しく輝いていました。
※駅の屋根の形が変わったのでしょうか。久しぶりでした。



 3月もなかばになります。
 春のおとずれは花粉とともに…というところが私の春の第一印象です。
 駅前でポケットティッシュを配っているとすぐもらいに行きます。いつもは素通りしてしまうのですが、この時期だけは必ずもらっています。
 さて、桜も少しずつ咲いてくると思います。自然のありがたさを感じる季節でもあります、今日は「東日本大震災・福島第一原発事故デー」ということもあって素直によろこべないこともあります。とくに、九州の新燃岳の噴火には驚いています。そして、地震です。人類では止めることはできません。今度、東日本大震災なみの地震が来ないとは出れも言い切れません。そんなときは、もう逆らわずなるようになっていくしかないようにも思えます。ただ、子どもたちや若い人にとっては重大だと思います。できるだけ災害を小さく…とお思えば、やはり原発は停止でしょうかね。

 今日はこの辺で失礼します。
 来週は月刊誌の追いこみでしょうか。まいってしまいますが。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

3月、春まだ遠し

2018年03月04日 | Weblog

 こんにちは。
 寒さがなか、温かさが日ごとに感じてきています。
 多摩川を散歩をしていると、なぜか鳥や人が増えたようにも思えます。梅は満開です。桜も早生の種類は小さな花を咲かせています。それと同時に花粉症も登場してきたようです。

 先週はピョンチャン冬季五輪が楽しみもありました。今週はまだその余韻があってその後の選手の活躍が期待されています。アイススケートの羽生選手が「国民栄誉賞」とか…。さらに、その勢いをかって、2020年東京五輪のマスコットキャラクターも決まったようです(なんともへんな宇宙人にみえます)。これがいいのか悪いのかわかりませんが、私は何がデフォルメされたのかさっぱりわかりせん。ピョンチャン五輪のマスコットのようなほうが私はいいと思いますが。
 冬季五輪も落ち着いてメダルをとった人はそのメダルとと共にどんな人生を送っていくのでしょうか。いい人生をつくるはずが裏目にでることもあるのではないのでしょうかね。世間は「五輪の○○で〇〇メダルをとった人」という記憶がいつもついてまわって、ときにはその人の足かせにならなければいいかと思う。誰にでもとれるわけではないのだからとても大変な末のメダル、大事にしてほしいと思う。


【裁量労働制】実際に働いた時間に関係なく、あらかじめ決められた時間働いたと見なす制度。仕事の進め方が労働者の裁量に大きく委ねられる職種が対象で、弁護士や新聞記者のような専門職の「専門業務型」と、企画や調査を担う事務系の「企画業務型」の2類がある。深夜や休日に働いた場合を除き、割増賃金は払われない。労働者は主体的に仕事ができるとされる一方、長時間労働を助長するとの指摘もある。
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 今国会の目玉の「働き方改革」の一つだった。裁量労働制とは、残業の多い職種に関して「裁量次第」で判断して残業代を払わない仕組み(ここでは割増賃金という言葉になっている)。労働者が自分で成果を出せば賃金に反映される仕組みと説明した。厚労省が実際にデータを参考に説明したものの、そのデータが間違っていたため野党によって質問が出た。調べれば調べるほどそのミスが発覚。では、裁量といって誰が決めるのかや、どうやって決めるのかということも不明のように思えてしまった。まさに厚労省への「不信感」がつのるばかりの国会であった。これは、まさに首相への「忖度」かもしれないと考えてしまうのもあたりまえなことかもしれない。
 まさに「いい加減」さもあきれる。国会をわがまの顔でつかっているようなデータのミスであったように思えた出来事だった。
 そして、厚労省といえば「年金」もある。130万人の過少支給ということもニュースになっていた。年金支給者は厚労省の仕事へも不信感を持たざるを得なくなってしまった。いったい、そうる気でいるのだおるか。近く私も年金受給者となるのに…。


 東京電力福島第一原発事故から7年目になる前に、朝日新聞社と福島放送は、福島県民を対象に世論調査(電話)をした。事故による放射性物質が自身や家族に与えた影響への不安について聞くと、「大いに」21%、「ある程度」45%を合わせて66%が「感じている」と答えた。(朝日/3日)
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 原発事故で怖いのは、その時の放射能での被ばく量もあるが、微量でも体内に蓄積されることだろう。それが、何年後か病気として症状が出てくることだろう。チェルノブリのときもそうだあったが、事故後の情報が国によって極秘扱いのために市民は放射能ことは一切わからない状態で作業したり、飲み物や食べ物を体に入れたいたという。数年後が蓄積された放射能が身体を破壊していく。がんにったり、あるいは白血病になったりするという。
 米国で事故当時、海兵隊の艦隊・レーガンが「トノダチ作戦」で原発事故後の福島に食料や水を補給していた。海兵隊の乗員はそのことを一切知らされず、多くの原発被害を出しているという。とくに若い海兵隊員は発症率が高く治療もつらく、医療費も受けられない状況もあるという。そこで、福島第一原発の会社である東京電力を被告として裁判を起こしている。それらの過程で、原告側は「東京電力は放射能の情報をなぜ詳細にくれなかったのか」ということで争っているという。被告東京電力は、「それは米国の問題だ」と平行線をたどっている状況だという。(詳細は『漂流するトモダチ アメリカの被ばく裁判』田井中雅人/エィミ・ツジモト/朝日新聞出版)。

 日本においても、いまいちばん気がかりなのは微量だがこれからの子どもたちの健康だろう。何年ものあいあだ蓄積されて症状がある日出てくる…というときにどうなるのかということだと思う。毎年の追跡調査が必要になってくるだろうと思う。





『名前を思い出した先に』
なにを覚えたのだろうか
セミシグレ…
ベニスズメ…
そんなのいたろうか

川の小枝にじっととまり
きれいな あの鳥
虹色に照らされたその羽には宝石のような輝き

カワセミだ

なんとも記憶とは悲しいものだ
これまで「アンゼン、アンゼン」と
耳にしてきた音も
気がつけば嘘ばかり
何十年もつづくはずの命が
キケン、キケン…と

人は何を覚えてきたのだろうか
嘘ばかり大きな音で耳に入るなか
本当は小さな音(声)なのかもしれない
気付けば還暦もすぎ
きょうがある

さて、老いた鳥はどう飛ぶのだろうか


 本社に異動してから電話を取る機会が多くなってきた。お客との連絡手段の唯一の道具だが、私はたいへん苦手の仕事。
 とはいえ、これがなければ仕事もできないだろう。
 デスクワークとなった異動先では、つねに電話との苦闘が続く日々でもある。「○○ですが…」「○○をよろしくお願いします」などという隣の女性の電話対応を聞いていると他人事のようになってしまう。声の質もかわっていくるようで、さらにはその気もないのに…と思ったりして、ひとり笑ってしまうこともある(ひとり、黙ってっみているが)。

 まだ、わたしはお客との新年会も忘年会も経験しているから少なくとも声のトーンを聞くと相手の顔が浮かぶからいい。ほとんどの人が、上司以外顔も知らないお客への対応は大変だろう。だから、いつもより、バカ丁寧で声色もかわってしまっているのだろう。「相手に失礼のないように…」との暗黙のマニュアルはわかっていても、こちらが忙しいとき相手からかかってきた電話には閉口する。電話のむこうであくせく働いているだろう顔を予想しつつ連絡を聞いている。最後に「忙しいそうだね…?、大丈夫」という冗談も最後にいえるのはまだいい方かもしれない。電話のむこうの人の顔が浮かばない電話は異次元にも思える。だから丁寧ということも理解できる。電話をしている方も受けている方も顔のない会話はつくずく疲れる日々である。

 最近、新入社員が二人採用されてきた。
 どちらもフレッシュな青年のように見える。さて、どんな電話対応ができるのだろうかと思う。きっと、私よりもはるかに上手な対応をしてくれるだろうとみてとれる。とはいっても、電話だけで済みそうにないのが仕事のやっかいなところ。それを埋めるのは、きっと電話相手との連絡以外の会話かもしれない。ちょっとした、人柄をうまく読めるだろうか…。これは「亀の甲より年の功」。どう対応していくのか。正直なところどうでもいいことのように思える。私はわたしのお客で精一杯ということなのだから。

 

【三鷹駅】毎日、休日以外はここで乗り換えている。何十年も利用している駅。私にとって三鷹駅は、電車事故での遅れていても、どうにかこの駅までくれば帰ることが可能な最終駅でもある。あとは次の駅まで歩くとか、さらにはここからバスで行くとか手段を講じることができる駅でもある。7年前の東日本大震災のときも地元からここまでバスを利用していたことを思いだす。大雪のとき中央線が停まっていても、歩いて(20分)三鷹駅までくれば、東西線、総武線で行ける。もちろん座っていける駅。
 ちなみにここから私の家まで歩いたとしたらおよそ2時間くらいかかるだろうか。それでも、まだ自分でどうにかできる最終駅のように思う。

 ここは北口が武蔵野市で南口が三鷹市になっている。北口の方が隙間があって歩きやすい。南口はビルばかりである。子どもが小さい時は、自転車で井の頭動物園に遊びに行った。それで道も覚えられた。動物園にはまだゾウのはな子さんもいた時代だ。大きなはな子さんは迫力があった。
 温室の熱帯植物園のなかには熱帯のめずらしい鳥もいた。冬の寒い日はこの温室で鳥の鳴き声を聞くのが面白かったように思う。
 この駅名のついた墓碑が沿線の公園にある。名前を「三鷹事件」である。電車が三鷹駅で暴走し多くの犠牲者を出した列車事故だそうだ。その事件によって多くの私傷者もだしたが、関係者が拘束されたという。
※【三鷹事件(みたかじけん)】は、1949年(昭和24年)7月15日に日本・東京都北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)と武蔵野市にまたがる日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件。同時期に起きた下山事件、松川事件と並ぶ国鉄三大ミステリー事件の一つとされる。(ウィキペディアより)。

 近くには作家、太宰治が投身自殺をした玉川も流れている。昔はもっと水があったのだろう。いまは30センチくらいの深さである。最近、太宰の文学記念館建設のうわさもあったがいつの間にか消えてしまったようだ。山本有三館もある。以前は図書館兼用で無料だった。子どもはよく遊びにきていたし、絵本も借りていた。係りのおばさんは名前も覚えてくれるくらい子ども好きなおばさんだった。みんなどこでどうしているのだろうかと思う。



 今月は別れと出会いの月でもある。
 卒業式もその一つ。どんな人とめぐりあってきたのだろうと思う。少なからずそれらの人の何人かのお世話になってきたのは確かである。
 そして、今となっては故人となった人も多い。そんなとき「もっと話しておけばよかったなぁー」という後悔ばかり残る月でもある。
 なんとなくすぎていった2月とはちがって3月は、人生の節目の月でもあるのだろう。どんな言葉をかけて別れてきたのか、そして出会ったのか思い出してみるのもいいかもしれないです。
 また明日から三鷹駅を利用する日々である。毎日だと、毎日見る人も一人や二人いることだろう。そして、挨拶もせずとも「今日もきていたか…」とうなずいて一日がはじまるのかもしれません。
 今日はこの辺で失礼します。くれぐれも温かさに油断せず、ね。
 読んでくれた人、ありがとうございました。