こんにちは。
やっととうべきでしょうか、とうとういうべきでしょうか、連休にはいってきました。いまごろはどちらで過ごしているのでしょうか。久しぶりの故郷へ帰っての日々を送る人、ここぞろばかり観光旅行に出かける人、あるいはどこへも行かずぼんやり、ゆっくりの自宅で過ごしているのでしょうか。いずれにせよ、自分の気持ちや行動を見直すいい日であってほしいものです。
私は連休の初日は、毎年恒例の「メーデーの集会」に代々木公園に行って来ました。今年は天候もさわやかで演壇でアピールを読む声を聞いているよりも久しぶりの顔を見つけては話していました。連休は、日々のあわただしさから逃れてこれまでの思いをこれからのことに向ける気持ちの整理であっていいのでは思いますが…。さて、どんな連休になることでしょうか。
今週は今日本の大問題「セクシャルハラスメント」があっちでもこっちでもという状況で話題になっていました。どちらも、「見えざる権力」をかさに女性にセクハラを繰り返した問題でした。誰でにでもきっと身に覚えがあるようなこともしれません。このニュースをみていると加害者の傲慢さがばかりが目立っていました。さらには、その傲慢さで相手をねじ伏せてしまうような暴力そのものに映りました。この状況は、どこかと似ているように見える…、と思えました。いまの国会の与党がまとまりのない野党を相手に政治を展開している様子が似ているように思えます。
世界では、韓国と北朝鮮の統一会談でありました。「歴史的な瞬間」といわれる大ニュースのなかに日本のニュースはなんとも悲しい気がするばかりです。これが気になることだ。
4月のおきた与党内での数々の不祥事に与党内でも浄化作用なるべく政治勢力がなかなかでてこず、野党にあっては分裂と野合をを繰り返している。いったい今後どうなっていくのか不安さえ覚えてしまう昨今の政治の流れでもあると思う。これは、政治という衣をきたファシストたちがなにか不穏な動きをたくらんでいるような気さえするのは考えすぎだろうか。首相が「ウミを出す」といってもそれに真剣に取り組もうとする与党内の議員が出てこない。野党が反対しても結局、多数で押し切ってしまう…。そして不祥事。あきれるどころか、不気味でもある。
週末、職場の人の送別会に参加してきた。ひと口40年という時間の流れの中で今日までどんなことを思いでいたのだろうと思いつつ帰ってきた。
40年と言えば、ぼくが入社した時にはすでに働いていとことになる。ぼくは20代であったのでそれほど会話を交わしていた記憶はなかった。20年くらいたってから同じ職場に異動になってから話すようになったのだろうか。
記憶によれば、ぼくはこのご主人がなくなったときお通夜にいっている。当時契約社員であったため誰も行く人はいなかったのだが、同じ職場であったのだろう、さらに休みもあったので出席したのだろうと思う。それでも結婚した子どもたちに励まされて頑張ってきたのだろう。とうとう、再契約という今年条件もあまりよくなかったので契約をしなかったという。年も年だった。あとは結婚した子どもたちと生活していくといっていた。
今後の予定は、一度行ってみたかった海外への旅行だそうだ。「友達が海外にいるのでそこで10日間ばかりゆっくりしてこようと思う…」ともあいさつで言っていた。
「ほんとうは働きかった」という後ろ姿が寂しくも見えた送別会だった。
高齢でどんな仕事ができるのか?
人それぞれ違う。いま自分出来ることをやることなのだろう。それも丁寧に。遅くともいい…、丁寧に次の仕事の準備をするようにするしなないように思う。これからは仕事一つひとつが自分の体調をもつくっていくようになってくるのだと思う。けっして他人の速さにはついていけない代わりにできることを。
「仕事だけが人生じゃない」と思っていても、いざこれまでの仕事から離れるとやはり寂しいのかもしれない。まして、仕事によって生活をしていた者にとってはなおさらだと思う。まだ、これからもと高齢者は増えるばかりである。そのとき僕はどうしているのだろうか思った。
【原宿駅】
昔は「竹の子族」という若者が降りた駅だった。いまは、その若者たちも見かけなくなった。若者の街というイメージのする駅なのだろうか。
ぼくが利用するのは、一年一度の行われる「メーデー」という労働者の祭典に参加すため降りる駅になっている。この日は、都内あちこちから働く人たちが集まってくる。なんのために…。少しでも自分の働く場所をいいものにしたいという希望があるからである。そして、労働組合からの動員だろうか。
以前は、代々木公園に集合してそれぞれのアピールを聞き終わると神宮までデモ行進したものだった。最近は、デモ行進する団体もあるがほとんどが解散してしまうようである。ぼくが若いころは神宮までいって、近くの飲み屋によって親睦会をして解散だった。楽しかった…。元気でもあった。
労働組合の若者離れには歯止めがかからないようだ。そして労働運動という言葉も聞かなくなった。いったいどこへ行ってしまったのだろうか。
それでも、〇〇ユニオンだとかいう小さな組合は個々人を集めて頑張っている人たちもいる。日頃ぜんぜん関係ないと思っていた労働組合が、経営者のみにあまる横暴(残業代拒否、解雇、偽装倒産、パワハラなど)でいとも簡単に解雇されてしまう実態に職場の仲間で勇気をもって抗議する。ブラック企業という言葉に染まってしまっている現場に気がつき「これはいかん」となっていく。きっと、どこの職場で会社の労務管理に怒りを感じているところもあるのだと思う。その内容に疑問を持ち、経営者にそのなかみを変えて欲しいという単純な要求が、反古にされていく。はじめは話し合いでまとめていくつもりが、抗議に変わってしまう。本意ではないがそうなってしまう所もある。
それは、その会社でこの人たちと一緒に働きたいという思いがあるからだ。さらには安心して働いたいという当たり前の思い。それが、いつのまにか大事になって「命と権利」という言葉が育っていく職場でもあるのだろう。
そんな若者たちも多くいる。しかし、すぐにはそうならないのが現実なのだ最近なのだと思う。
むずかしい理論はわからなくても「あたりまえ」が仲間をつくる関係が大事だと思う。そこから始まる労働組合が大事だと思う。
ぼくは高齢となり、年々労働組合の人たちとの距離が遠くなっていくのが現実。とはいえ、ばくも働く仲間の一人。難しいことは言いたくないが、働く条件はこちらから言わないと経営者はいつになってもやらないということは骨身にしみている。メーデーにいくと「退職者の会」というメンバーにあうことがある。だいたい大手の企業か公務員関係の人たちである。そんな光景をみていると、こうして集まるためにどれだけ老体を酷使してきたのだろうと思える。
メーデー集会で国会で始まった「働き方改革」は経営者の「働かせ方改革」になっているという発言があったことを思いだす。健全な働き方は、労働組としう組織と対等にまじめに誠意をもって応えてくれる企業だろう。まずは、労働組合をつくっても経営を考える人の育成から始めるべきではないのだろうか。電通の過労死自死事件以来、労働組合に対する不信感もあるのだろう。
まさに「万国の労働者団結せよ!」である。
4月終わる。
寒い、暑いとい日々があるなかで緑も少しずつ濃くなってきた。山歩きなどをしていると、緑色がグラデーションになっていてきれいだ。おそらく秋は濃い茶色から赤へと木々が変わっていくことを想像してみることが出来る季節でもある。
5月の連休は何をしようか…。
それでは今月はこの辺で失礼します。
楽しい連休になるといいですね。
読んでくれた人、ありがとうございました。
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