日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

2月も終わり……です

2013年02月24日 | Weblog


 こんにちは……。
 まだ、まだ寒い日が続いています。かぜなどひいてはおりませんか。
 ……と、いっても季節は着実に春に進んでいるようです。それが証拠に一日の明るさがのびてきました。
 私にとって、苦手な朝もはやく夜があけるようになったきたようです。寒さはまだありますが、これから、少しずつ日がのびて、お日さまのぬくもりが少しずつ多くなってくるのだと思います。

 今週、安倍首相がとうとうアメリカ訪問にでかけていきました。
 民主党時代はそれほど聞かなかった「安保」という二文字が浮上してきました。結局、「アメリカもうで……」で御用聞きにいったようなところが、帰ってきたみたらありました。

 「TPP参加交渉開始」という見出しの日曜日の1面には……やっぱりと、うなずいていました。いろんなことをいっても、過去の自民党の政治政策はアメリカ経済のしたごしらえ的存在はかわっていない、と思いました。
 昔、東西冷戦時代の対ソ連対策で、今は中国や北朝鮮対策で縁のきれない仲のよさは、再び強力になっていくような動きです。
 それも、参議院議員選挙までは、のらり、くらりとしていくのだと思います。

 私の好きな歌手・高田渡の「値上げ」という曲の詩を思い出します。
 その詩には値上げするま政治家がいろいろな言葉を庶民になげかけて最後には「値上げ」強行をしてしまういう曲でした。「もっか検討します」とか「いろいろ考慮中」とか、のらりくらりと庶民の不満をよけながら、だましつづける詩でした。それに、近いような気もします。
 

 渋谷駅:娘の靴の展示会があり、久しぶりに渋谷のロフトにいってきました。人が多いのには驚きです。
 駅中を通って目的地のロフトまで……。ところが、せっかくの岡本太郎の絵がかざってあるにもかかわらず毎日みているからでしょうか、振り向きもせず改札に急ぐ足音をきいていました。
 みんな「忙しい……」を連発しそうな勢いのある駅にも思えました。
 かの有名な「忠犬ハチ公」様が主人を待ちわびた駅にしては忙しすぎる駅になってしまったようです。
 行く人の手には、携帯電話をかける人、スマートフォンを見つめている人……、絵はみている時間がないような忙しさを渋谷駅に感じました。それも、土曜日です。わたしもきっと慣れてきてしなってしまうのでしょう…ね。

 いつしか、駅の大作も、こう毎日通るところにあるようになってしまうと鑑賞より町のシンボルとして置かれてしまっているように思えました。あることはわかるのですが、その大事さや意味が忘れてしまっている。やっぱり、絵は展示会でゆっくりみたいしろものです……ね。




 最近は、「心が折れない」ようにするにはどうしたらいいのかなあ……、と思う日々が続きます。
 ぼくは、本当は人の基本は俗にいう成功者(勝ち組とう)のいうことよりも失敗(負け組)の経験がある人のいうこことのほうが素直に聞けるように思えます。しかし、現実はあいかわらず勝ち組み、負け組という構図のなかでは、勝組みがもてはやされているようです。

 でも、よくよく考えてみれば勝組も負け組みがあるから成り立つ構図なのです。そして、いまは、負け組みが徹底的に貧しさに不幸という認知をつくっているのも最近のことだと思います。これが「格差社会」ということなのでしょう。この構図は「負けがあるから勝がある」ということより、負けるともう、完全には光が見えなくなるくらい深く底に落ちて行ってしまう構図が最近です。

 ぼくは、ときどき、昔は貧しくてもみんな元気だったのに……と思います。これは、きっと貧しくても生き方がいっぱいあったからなのでしょう。そして、考え方もいっぱいあったらではないかと思います。
 物質的に貧しくても、おもしろいことを考えてそれぞれが楽しかったのではないかと思います。そんなことを思うと、何が足りないのかな…、と思います。
 そんなことを考えて読んだのは今月の本でした。

   

◎新約聖書入門・旧約聖書入門/三浦綾子/光文社文庫

(旧約聖書入門)
・他の人と同じ状態でなければ、何となく落ち着かないというこの姿は、実はアダムとイブにあったのではないだろうか。イブは神に禁じられた木の実を食べた。それは、神のように賢くなりたいという傲慢と、神の言葉に従わない不従順と、「盗んだ」という、いわば泥棒の行為の三つを犯したことになる(p34)

・神が人間に与えたのは、清い空気と澄んだ水と、みどりの山野と、そして暖かい太陽、雨、風、雪、広い大空ではなかったか、人間は何か一つの発明するたびに、愚かになっていくのは、現代も同じである(p57)

・わたしは、あなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。
一、 あなたはわたしのほか、何も神としてはならない。
二、あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの下は地にあるもの、また、地に下の水のなかにあるもの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してならない。……(略)

三、あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

四、安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目にはあなたの神、主の安息日であるから……(略)

五、あなたの父と母を敬え。

六、ななたは殺してはならない。

七、あなたは姦淫してはならない。

八、あなたは盗んではならない

九、あなたは隣人について、偽証してはならない。

十、あなたは隣人の家をむさぼってはならない。以上十戒(145)


 まさに「聖書」は、人間の歴史の基本あるいは原点が書かれている本だと思います。人間のいやらしさ、素晴らしさ……などを気づかされる本だと思います。

 とはいっても、その内容はむずかしく、その歴史もしらないと自分のこころに届く言葉にならないようにも思えます。そんな疑問をわかりしやすく、自分の経験から「聖書」という本を紹介していると思います。
 
 最初は、「神が……」などと思っていましたが、読んでいくうちに人の生きる形みたいなところを導いているような気がしますが……。
 私は信者ではないので、そんなに詳しく知ろうとは思ってはいません。でも、いったい人が生きている意味はいったいなんだろうとつきつめるとここにたどりついただけと……いった具合なのでしょうか。
 無理せず、自分でできることを考えることが大事だと思いました。

◎つらい心への処方箋/宮子あずさ/ポプラ社

・だから私はあえて言います。「親が憎い-。だから何?」と、親を選んで生まれてくることは誰にもできません。それも一つの運命として、ベストを尽くすしかないのです。(p36)

・しかし、人間は必死になるほど、そうした理屈がわからなくなって、新たな選択肢が出てくると、すぐにそれが手にできるかのような錯覚に陥ってしまいます。そして、それが手にできない時、恨みがましい気持ちになってくるのです。(p41)

・どんなに準備周到に計画された人生でも、どうせ思い描いたとおりにはいかなのです。計画を立てて人生設計をするのはいいことですが、立案にエネルギーをかけすぎ、大事にすぎると、かえって訂正がきかなくなります。(p65)

・人間の気持ちの中にはいつも、不本意な生き方を人のせいにしてしまいたい幼さと、不本意であったこと自体を認めたくないプライドが同居しています。(p76)

・……病気になってしまった理由ばかり探していると、毛結局は不毛な犯人捜しになる、と申しあげましたが。しかし、さらにそれを突きつめると、病気に注力をすることそのものが、人の視野を狭めるという問題になってくるのです。(p102)

・大病を得ても、あくまでも楽観的に気持ちを操作し、生きる力が人間にあるのです。「なぜこうなったんだ」と、人生を詰問しても始まりません。今日生きていることの意味、価値を十分にかみしめて、受け入れるのもまた、おつな道なのでしょうか。(p108)

・実際、今の社会は、これまでの科学万能への反省から、わかりやすいよりわかりにくいもの、形あるものより形のないもの、表現できるものより表現できないものに、重きを置く傾向にあります。(p143)

・でもやっぱり、人間同士あたたかく生きるためにこそ、エネルギーを使いたいたいですよね。(p154)


 妻が病気を患って、入院して、いまだに通院し検査し……という日々が続いていると、ふと以前を振り返って「ああしておけばよかった……」とか「これをやっておければよかった」とか、つい自戒したりします。
 そんなこと、いまさらどう考えようと、遅い!という事実にさいなまされていることも少なくありません。

 そんなと、いちばんいい方法はないかと焦ったりもしますが、まさにいい方法などないことに気づき疲れがいっぺんにでてきます。そして、ストレスがたまり自分までこわれていくように思えます。

 まあ、生きていること自体、つらいことなのでと腹をくくって思えば、自然と今の自分がやることが見えてきたりします。
 「つらい心への処方箋」はそんなことを気づかせてくれる一冊でした。
 受け入れてこそ、人生の一歩がはじまる……ようです。
 そんな気がした本でした。

◎看護婦がみつめた人間が病むということ/宮子あずさ/講談社

本の内容
病と向き合うことは、人生と向き合うこと。「傷ついた人だけが持つやさしさ」「母親であることと、病と闘うことの両立は難しい」など、長く患者さんと向き合ってきたベテランの看護師が、人間の真の姿を見つめたエッセイ集。ベストセラー『看護婦が見つめた人間が死ぬということ』の続編、待望の文庫化。

宮子あずさ
1963年東京生まれ。明治大学文学部中退、東京厚生年金看護専門学校卒。'87年より東京厚生年金病院内科病棟、'96年より神経科病棟に勤務。看護師として働きながら、多数のエッセイを執筆。また、大学通信教育のエキスパートで、働きながら短大1校、大学2校、大学院を卒業している。 主な著書に『看護婦が見つめた人間が死ぬということ』(講談社文庫)、『気持ちのいい看護』(医学書院)、『宮子あずさのナースな毎日』(実務教育出版)、『大学通信教育は卒業できる!』(メディカ出版)などがある。




 思えば会社が移転してはや1年。最初は通勤時間も残業も多くなり、いったいどうなる?、と思って1年がたちました。
 結果として、予想したとおり、残業が多く、通勤時間が90分…と移転前よりは、はるかに会社にいる時間が多くなりました。会社にいて、人間的に成長し仕事ができたか…というと疑問です。ほとんど、いやなことが多き日々が続きました。

 これが現実かなあ、といまはあきらめているといった方が正直なところでしょう。もっと、正直なことをいえば、これからは、自分の身体のことや病気の妻のことなどで精一杯というところでしょう。

 そして「開きなおって」いる自分がこれからもつづくのでしょう。いまさら、現実を拒否したところでどうにもならないことですし、むしろ受け入れられるところは「受け入れて」と日々、安息な眠りのために送るのだろうと思います。

 そして「誰にも、明日のことはわからない……」ということが本音になっているようにも思えます。そしてでてきた言葉が「それなら、一日楽しく送れるようにしよう」と腹をくくっていくことにしています。
 楽しく思えれば、積極的に働きかけて、これは無理だろと思ったら、なるべく避けて、できれば関係を避けていく方法をもちたいと思うようになりました。
 「賃金はがまんの結果……」という言葉も、ほんとうなのでしょうか。いまでは、これが現実なのでしょう。「がまん」をした結果として、今の生活を楽しくできるのであれば、それが必要なことだとして受け入れるしかないように思うようになりました。

 人が移動するということは、多くのことを考えさせてくれます。だから年に何回か「人事異動」というものがあるのでしょうね。
 それが、吉とでるか凶となるか……、あとはどれだけ自分のやりかたを貫けるかが大事なのでしょう。それで、だめなら、できる範囲を考えて「焦らず、怒らず、えらぶらず……」でいくしかないと思います。



 2月も今週でおわりです……ね。
 どんな2月でしたか。
 身近で、バレンタインデーでは、おばさんばかりにチョコレートもらってしまった町内の人気者の話題があり、おもしろい現象だなと思いました。
 身近な、女性より町内会のおばさんのほうが気を使わなくてらくだといってしました。

 まあ、会社にきて上司に気をつかって、さらには女性に気をつかって……といくと窮屈でわかるような気がしました。
 へんに、強烈なギャグ化と思いきや「パワハラ……」なんていわれる職場では、そう思います。でも、そんな関係にしてしまった会社はもっと罪深いなあと思います。
 昔のように何でも気楽に話せる環境が大事なのに……。

 自分が平日、いちばん多くいる職場はできるだけいい環境にしたいものです。窮屈な関係は「相談」するときくらいにしたおきたいものです。
 
 今月も読書は「いやし系」の本になってしまいました。小説も読んでみたいのですが。
 まあ、それは次回楽しみということで……。

       

 最近は誰よりも早く起きています……わ。
 早く、暖かくなって欲しいと願って日々を送っています。
 また、残業の多い日々がはじまりそうです。
 明日は、妻の2ヶ月目の検査です。無事で帰ってくることを願いつつ、それではまた、来週。
 今月はお疲れ様でした。



*読んでくださった方、ありがとうございました。






毎日、寒いですね……

2013年02月17日 | Weblog


 こんにちは。
 寒い日がつづきますね。朝起きるのはちょっとした決意が必要な毎日になっています。
 まして、家族のなかでいちばん先におきるのが私となり、いまは大げさなようですがふんばって起きるしかない毎日です。
 この寒さももう少しとガマンの日々が続きます。うまく、起きるコツなどはないのでしょうが、これも仕方のない……とあきらめて日々を送るしかありません…ね。

 さて、今週はロシアに流星が衝突したそうです。地球の外から流れてくる物体が地球の衝突するのですから衝撃はものすごいことだと思います。物体が10キロメートルくらいあったなら人類はおそらく終わってしまうかもしれませんでしたね。なぜなら、これまで、地球はこのような衝突があってやっと現在の形になったといいます。そこで、生き残ったのが今の動物(人類も含めて)であったといいます。
 一歩間違えて、大きな物体であったら…と思ったら私たちは、今いなかったかもしれない、ということでしょう。

 そんな中、北朝鮮が核実験を成功させたということもありました。人類はかくもどうしてこう「核」を持ちたいのでしょうか。この出来事に抗議をしているアメリカでさえ多くの「核」保有国ですから……。
 まあ、核をもっていれば世界に脅威が与えられると考えているのでしょう。それを使うか否かは、ときの権力者の意思でしょうが、大なり、小なり同じことでしょう。大国が非難するのであれば、「自分のところの核をどうにかしろ!」といわれても仕方のないことでしょう。

 こんなとき、いちばん核の恐怖が人体で知っている日本が世界にもっとアピールしていくことが大事なのでしょう…ね。なんでも、第三者がいちばん調停をするのにいい、というのであれば、日本の役割は大事だと思います。
 さて、安倍政権はそれをやるのでしょうか……。やって欲しいですが。


 駅を高架線にするまで何年かかったでしょうか。
 最後には「こんなに、工事にかかっていれならどんな立派な駅ができるのか楽しみ……」ということを聞いたことがあった。
 駅はその町のシンボルとか顔とかということであれば、この駅は四角四面のわからずや、というところでしょうか。
 こんなに無理してつくることもなかったように思うのですが、駅下にはいくつもの商業施設がいって商売をはじめています。もっと、便利になるのか……思いきや隣の西武線からJRへの移動にまた力のいること。
 高齢者にはちっともうれしい駅になっていないような形となりました。

 思えば、新婚当時はJRも西武線もなかがよくて、JRと西武線とのホームが一緒に利用できていて、便利でした。利用する人にとっては、降りてすぐ反対側にいた西武線にのれたのに、と思います。それが、四角四面になって、二度下段を昇り降りするしまつ……。くるか椅子利用者は二度エレベーターをのるようになってしまいました。

 これも、きっと急ぐことが好きな企業の利益の結果でしょう。



 「デパートにて」
 寒さも本物になりつある休日
 退院した女房とデパートに行った
 「今、必要なマフラー、手袋のバーゲン」に
 温かくなるものを買いにいった

 この冬いちばんの寒さに気がついたかのように
 「寒いでしょ……」と
 デパートの店員さんは
 色の合わせ方や、値段の説明をしていた
 その話しには経験から生活がみえて
 店員の寒さへの工夫がきこえたきた
 聞いていたら、私も女房もすっかり温かくなってきた

 気がつけば
 マフラーと手袋を買っていた
 日々、生かされたなか
 おばさんの話のほうがよっぽど温かいと思った
 帰りに
 ひとこと女房が
 「もうすぐ春だね」といった


 「ロシア南部に隕石落下」のニュースをテレビで見ていた。
 地球に近づくにつれてまさに速度をあげて線を引いたように落下していった。落ちたところはもちろん、周辺への衝撃がすぎごかった。他の惑星からの攻撃かとSFなみに迫力を感じていた。
 「オー、すごい……」
 と感心しているあいまもなく、鳴り響く地響きとともに建物が空気の振動をつくり建築物が吹き飛んでいった。

 レスリングが次期五輪から外れる……などと言うニュースはどうでもよくなった。むしろ思い出したのは新聞に載っていた「100歳まで生きてみたいと思う」(朝日2月11日「ひととき」)記事だった。
 100歳まで生きてみたい理由を「1世紀生きたら社会がどう変化しているか見てみたいから」ということだった。

 隕石や地震の大津波と地球が自分で動き出したかにみえる昨今。
 100年後の社会は相変わらず、きっとどこの国が核をどれだけもっていて、どこの国が脅威だ……。国際的に非難云々。さらには、資源分捕りで正当な民主主義ををつくる理由で戦争へ(戦争に正当な理由などないですが)
とかわっているようには思えなかった。
 ということは、社会は「歴史は繰り返す…」の法則にのっとって、また経済大国だ公害だ、戦争だ……と思えた。
 現に、中国は経済は最先端にきているが公害がものすごいという。昔の日本と同じ轍をふんでいるかのようだ。

 わたしは100歳までとは期待はしないが、今日をのんびり楽しく送れるほうがよっぽどいいのではないかと思えた。経済大国だと騒いだところで、そんなものはごく一部だけで、ほとんどはその分、苦しんでいるように思えるからだ。まして、孤独死、あげくの果てに人骨さえも身元知れず……のニュースを聞いては、ほとんど100年先には期待はない。
 そう考えたら、せめて自分が生きている間は、いい環境で、強いてはいい国とよばれたいと思う。
 大事なのはその一日のこと……。
 まして、隕石がもっと大きなものであれば確実に明日はない、ということであればなおさらである。

 そんな気がした日曜だった。
 さて、どう思いますか。


 今週も忙しかった。労働界は春闘がスタートした。
 そのおかげで、無理をしているように思えた。大資本と大手組合が賃金をめぐって交渉をし始めた、ということだ。
 「景気をよくしたいのであれば、労働者の賃金をあげる」これは、だれがみてもそう思う。一部、大企業がどうふんばったところで、多くの預貯金を動かさなければ好景気など、働くものにとっては「絵にかいた餅」だ。

 大手組合の交渉は賃金交渉が先頭で、そのおこぼれを私たち中小・零細企業がやっともらう……みたいな構図も今も昔も変わっていないように思う。
 そんなことを思うと連合という大組合連合はいまだに、力をいれて組織すべき労働者への影響力はないように思う。現に、報道などによると組織率は年々減っている傾向だと……。

 なにか足らない。それは、何か。賃金も大事だが一人ひとりの本当の労働者になるという未来が見えない状況なのだではにかと思える。
 なんて、えらそうに……。

 さて、今週も低賃金労働者は仕事に生活に忙しい日々が始まる。
 かぜをひかないように注意していきたいと思う。
 朝はやっぱりつらい……けれど。
 では、また来週。

 *読んでくださった方、ありがとうございました。

報道写真展に行ってきました!!

2013年02月10日 | Weblog


 こんにちは……。
 まだ、寒さはきびしいです。
 最近再開した多摩川散歩でも、川から吹き付ける風の冷たさが身にしみます。それでも、休日には野球場やサッカー場では元気なおじさん、子どもがスポーツを楽しんでいます。やっぱり、自分から発電(動く)しないと、自分の身体はあたたまりませんね。

 さて、今週はどんな一週間でしたか。
 「春闘」がはじまったようです。連合が6日日比谷公会堂で2013年春闘の闘争開始を宣言する中央決起集会を開いた……という記事がありました。
 まあ、大きな組合が中心となってはじまった…というところでしょう。

 春闘という言葉も最近ではどんどん小さくなっていくような気がします。なぜでしょうか……。結局、連合の取り組み方が変わってきたからかもしれません。また、世代がちがってきたのでしょうか。むかしながらの闘争の仕方がちがってきたのではないかと思えます。

 ここ何年かは労働組合がほんとんど、要求はだすもの、経営側に押しきられ「定期昇給」すらあがらない状態もつづいています。生活をささえる自分の賃金を決める一年のはじめ、どんなたたかいになるのでしょうか。

 わたしが入社したころは(30年前)、要求も多く、春闘後は必ず、賃金があがりました。毎年、やればやるほどあがるような時代だったように思えます。だから、組合員もがんばったのでしょう。
 いまでは、あがっても微々たる額で、自分が加入している保険代にもならないほどです。それから、「ストライキ」という言葉も死後のようになって、あまり聞きません。忘れてしまったのでしょうか。何がたらないのでしょうか。メーデーも労働者の祭典……というより、大きな労働組合の行事みたいなところがあって、労働者が労働者の自覚をうながすものになっていない気がするのは、私だけの思いでしょうか……。

 ちなみに、原発事故を起こした東京電力の労働組合では今春闘の要求は見送る、という新聞記事が出ていました。事情はわかりますが、事故の責任は労働者にあるのではなく、原発を推進した国や経営者側にあると思います。あるとすれば、事故が起きて大災害になるということに組合としてはどれだけ監視してきたのか……という点が反省されなければならないのでは、と考えます。さらには、連合が今後、どう運動をうすすめていくのかも大事なことです。なぜなら、今後つづく生活を作る側、消費する側の透明な情報がつくづく大事なことだと思うからです。

 組織率も年々減少しているなか、連帯もなくなっているような気がします。何が足らないのか、どうしたら連帯をつくっていけるのか…、ということも春闘の大きなテーマだと思います。
 総じて……労働者側が元気がないのが気になります。
 万国の労働者団結せよ!の思想を追求しつつ春闘がはじまるといいな、と思います。


 さて、散歩で町のあちこちを歩いていると、なんともめずらしい建物に遭遇するものです。そんなに詳しく知らなくても、見た瞬間写真を撮りたいものにでくわすことがあります。それが、通勤途中であったりすれば、無理なのですが今日は休日となれば建物のまわりをぐるぐる、怪しまれるくらい見てしまいます。

 名は人をあらわすというのでしょうか。
 この建物は武蔵野市の建物です。それも、市民の老若男女、ホームレスも酔っ払いもだれでも日向ぼっこしたい芝生もありました。ちょっとモダンな建物です。
 利用者もただ昼寝をしにいく人、受験生、お茶なおみ話し……と、息がぬける空間ともいえると思います。そんなコミニティーな町。
 まあ、利用しない人にとっては、税金だけ使われたしろものになってしまいますが…。
 


 毎年、私にとって恒例となっている「2012日本報道写真展」(横浜)に友だちといってきました
 なんとも、毎年やっていることですが、今年は気分も乗り気になれずいました。かといって、誰も背中をおしてくれるわけでもなく、自分で決めなくては思いつつ行ってきました。

 私にとって、一年間を振り返る……という思いは元旦ではなくて、写真展にいってその内容で振りかえっているような気もします。
 写真の多くは、まだ東日本大震災の復興を報道した写真が多かったです。また、ロンドン五輪の選手たちの表情がいきいきしていて、今回の日本女子柔道のパワハラ問題を思うととても残念に思えました。

 なんでもそうだと思いますが、光のなかに、陽と陰があり、その部分を報道することがジャーナリズムの役目だと思います。その意味で、「真実」を報道することができていたのか?、と思うともの足りないところもありました。福島原発事故からいまだに、真実が語られていない……とのニュースがあるくらいです。げんに、国会で東電が「虚偽の内容」をしていたことも発覚したり、修理にむかっている原発労働者の放射能の数値に手をくわえて虚偽を報告したり、さらには、労働者の賃金をピンはねしていることも伝えられています。

 私たちはだいたいにおいて、陽(おもての部分)しかみないようです。
 ロッキード事件、ウォーターゲート事件など、真実が時間とともに白日のもとにさらされ、事件の全容がわかり、真実があぶりだされてくろうようです。その時、報道写真や記事がいかに大事なものか思えます。
 8日、政官財界に未公開株が配られたたリクルート事件で有罪となった江副浩正氏が亡くなられた。本当に事件の真相はどうだったのか…、という疑問はあうように思えますが……。
 


※詳細はこちらでどうぞ。2012年報道写真展 



 さて、3日間の連休が終わります。
 どんな休日をすごたのでしょうか。わたしは、一日、横浜の写真展にいったくらいで、残りの二日間はごろごろしていました(妻の付き合いで買い物に付き合ったり、掃除を手伝ったりしていました)。
 病気の妻にとっては、生活のすべてが「リハビリ」だそうで、少しずつできる範囲を広げていっています。それでも、一日一回はステロイドののみ薬を続けています。

 まあ、再発しなければ、「御の字」です。
 それが、ずーとつづくことがいちばんです。
 そう思いつつ、また一週間がはじまります。かぜなどひかぬようにしたいものです。

 横浜の報道写真展がおわり、夏には世界報道写真展(東京・恵比寿)です。さて、いえるでしょうか。楽しみに、また働き出したいと思います。
 また、ボチボチ焦らず、いばらず、怒らずいこうと思います。 
※*読んでくださった方、ありがとうございました。











節分で…病気は外!福はうち…といきたいもの

2013年02月03日 | Weblog


 こんにちは……
 昨日は(2日)は一日中、温かい日でした。これから、こんな一日も少しずつ増えてくるといいですね。
 久しぶりに、午後から多摩川の散歩にいってきました。
 毎週休日の日は多摩川にいって散歩をして、流れる水の音を聞きながらのんびりできるひと時が、もどってくるといいと思います。
 自然の音を聞きながら、歩くのもいいものです。ゆっくり流れる水の音はやぱり自然の音。

 さて、今週スポーツ界は、なかでも柔道でパワーハラスメントがあったということでニュースになっていました。ロンドン五輪でメダルも期待にそぐわなかった柔道の風当たりは強いなかでのこと……。

 また、「なぜ、練習の成果がメダルにならなかったのか」という疑問が誰もが胸中にあったと思う。なんでも「国技」ですから、もう少し期待にこたえてもいい……という声も多かったとなかでのできごと……。

 その原因を今後の活動にいかそうという最中もちあがったパワハラ問題でした。けっか、女子柔道日本代表の監督(岡田隆二監督)の責任問題に終止符をうつ辞任になりました。
 五輪代表選手に練習中に暴行をくわえていたというのです。それが、とうとう代表選手の怒りが爆発して訴えたのでしょう。
 さらに、大学女子部員に暴行をしたとして、全日本柔道連盟は準強姦罪で問われていた内柴正人被告の会員資格の永久停止処分を出した。

 おりしも、大阪で高校の運動部の顧問が選手に体罰を加え、それを苦に自殺した。顧問が勝利をえるためにあせってしまったのか、それとも個人的に暴行を加えたのか、いずれにせよ個人的な理不尽な暴力であったのは確かです。

 楽しいはずのスポーツ。それが、苦行になってしまうのか。
 それは、おそらく「勝利至上主義」なのでしょう。個人の成績より、勝利の結果を学校の利益に結びつける結果だろうと思います。
 これでは、プロと同じです。アマチュアにプロの営利を結びつけるあまり、個人選手はあくまでも勝利を追求する。そのため、勝つためには暴力も辞さない……という形になっているのでしょう。
 まして、スポーツで学校の名前をあげようとする経営(プロ)の結果だろうと思います。
 
 いずれにせと、五輪にでれば金メダルとばかり期待を受けていた日本柔道は、今回は問題が噴出した形となった。いままでくすぶっていた問題が一気にでたように思える。他にもきっとあるだろう。でも、どこかで止まっているのだと思う。
 柔道の原点を思い出せ……ときれいごとをいったところでどうにもとまらない。勝利イコール営利となってしまったのだから。むしろ、それはそれで、もっと透明性をもたせて選手自らが取り組んでいるスポーツの楽しさを前面に公開したらいいのだと思う。


 昔、東京…といえば、田舎者の憧れであった。わたしもその一人。
 なんせ、田舎では東京はテレビか雑誌でしかみたことがない都会なのだ。私が、小中学生のころは、一種の憧れの町だったことはまちがいない。
 いまでさえ、交通手段が発達して身近になったため、関東エリアであればすぐに行けるところとなった。さらには、いまでは、東京も大阪も福岡もたいして変わらないほど発達したから、昔ほどの憧れはなくなったのだと思う。
 交通が発達して便利になり、速度も昔から比べれば何倍も早くなった。とはいえ、出逢いがあり別れがあるのも駅だ。何万回と繰り返されてきたなか、人にとっては出発点でもあり、終着点でもあるのだろう。そう思うと、どんな人生模様があるのか、一駅一駅、考えてみても思いしろいと思う。

 そんな東京に住むようになって35年近く。
 自分が気がつく前に、変わっていったようだ。
 そして、東京駅は100年だそうだ。
 今回は復古調にして駅を戻したそうだ。昔に戻したといっても、私は全然見たこともないし、どうでもいいように思う。
 一部の年寄りがきっとなつかしんでいるのろう。私にとっての東京駅そんなに重要度は感じない東京の駅のひとつだった。
 ただ思い出すのは、東京駅は松本清張の「点と線」の舞台になり、また「男はつらいよ」では、満男と泉の別れのシーンくらいだろう。


 きっと駅にはそれぞれの思い出がいっぱいつまっているのだろう。
 ちなみに私が東京にきて降りた駅は「錦糸町」だった。いまでもケバケバしとイメージがあるのだろうか?
 いまでも、あの時、駅をおりたの第一印象と同じで「天と地の町」というイメージは変わらない。なぜなら、金持ちはあくまで天高く豪華にできる、貧乏人はあくまでも地をはって生きていける町、と思えたからだ。
 よくよく考えてみたら、東京という町は、今も同じように生きている町には変わらないと、再度思えた町。


 日曜日の夕暮れ
 一列に自転車が通り抜けていく路地
 今日という空気に押され
 きっとくるであろう明日へむいて
 空気を切り裂いて走りぬけた自転車の
 背中をみては
 歩いていた
   ○
 明日はどんな一日だろう
 朝に夕に
 人の息はいまだに白く
 節分という一日に別れていく
   ○
 今日はどんな日だったろう
 朝日をあびて起きた一日
 やっと家族で話した一日
 妻と買い物にいった正午
 彼氏とデートをした午後
 帰り着いた家路に
 おならがプーと音をたてた
   ○
 また今日を眠り
 また東から朝陽がきっとあがるだろう
 きっと友の笑顔が見られるだろう
 明日
 それはだれも知らない
 今日を生きた人だけが
 おそらくむかえられる一日ということ
 そして、鬼は外へ
 福は家へ…と願ったことが事実
 私のなかの鬼と福をかかえたということ




 先月中旬に妻が退院して半月ばかりたった。一ヵ月に一度の通院検査にも付き合ってみたが、正午昼飯を食べたあと始まった外来検査では夕方までかかった。帰り着いた家でヘトヘトで夕方居眠りをしたいた。健康な私がそう感じたのだから療養中の妻はもっと疲れたと思った。

 これから月一度の外来検査に付き合うのかと思うと、正直こちらが病気になってしまいそうだな…とも思った。だから、しっかり有給休暇もとることも必要だと感じた。
 できるだけ、重いものを持たないいように休日には買い物に協力してまた驚いた。
 スーパーマーケットに行ってみると、けっこう、杖をついたりして不自由な人が多いのには驚いた。いままで、全然気にしていなかった人たちがこんなにいるものか…と驚いた。

 とくに、高齢者は多い。自分の妻がそうであるように世間を見渡せば、がんばっている人たちが多い。
 むねの内に「がんばろう」と思った。おそらく、一生、再発を防ぐようにして病気と付き合っていくしかない身となってそう思えるのだろう。

 人間てえのは、けっこう一人よがりで自分が健康なときは障害者のことはそう考えないのだろう。
 実際、そうなりたくない!と思うほうがつよくて考えたくないのだろう。
 しかし、現実、明日はどうなっているかは誰もしらない事実だ……。
 そう思えば、杖をついて頑張っているひと、目が見えなくとも歩いている人、車椅子で町で見かける人……みんな今日をがんばって生きている人たち。小さく応援していきたいと思う。
 ふと、ガンの家族をもつ同僚に「日本の医者は世界一だから安心しなさいよ……」といわれたことを思い出した。



 いまだに地震があります。昨日は北海道で震度5強の地震がありました。
 そうなると、原発の不安がまた、頭をよぎります。
 実際に関東地方に大きな地震が起きたときのことをいちばん考えているのは原発関係者かもしれません。そして、いちばん傷つくのは子どもや高齢者や病人なのでしょう。それを思うと、なんともやりきれない気持ちにもなります。
 
 今日は節分。
 少しずつ温かくなってくるのはありがたいのですが、また余震の陰が心臓を驚かせます。ちょっと心配な日々です。


また、ボチボチはじめますか。
*読んでくださった方、ありがとうございました