日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

1月の終わりました。お疲れ様でした。

2016年01月31日 | Weblog

 こんにちは…。
 毎日寒いが日がつづきますね。最近は、雨は降っても雪にならなければいいと思うようになりました。
 雪になると、これほど便利な都会でも、列車の駅は大混乱ですからね。
 最近、職場ではインフルエンザで休みをとっている人もいます。ぼくとしては、インフルエンザになるよりも仕事をしていた方がまだいいと思っています。なぜなら、インフルエンザに勝つ体力がなくなっているのでは…と思うからです。
 皆様はいかがでしょうか。ぼくは、今いちばん気をつけているのは、十分に睡眠をとるということででしょうか。

 さて今週は、政治家の献金授受問題がありました。
 それも、与党の大臣となれば大問題です。
 安倍政権を支えてきた甘利経済再生担当相の辞任がありました。
 あいかわらず『政治とカネ』は永遠のテーマのようです。それだけ、政治にはカネがかかるということなのでしょうか。結局、自分で自分の墓穴を掘ってしまったようです。といっても、今の野党にはそれを徹底的に追及する力がないのではないかと思います。
 なぜなら、野党の民主党が大会で党名をかえて他の野党、それも維新の党と組織再編の提案がニュースになっていました。いったい、何を考えているののだろうかと思います。いま、大事なことは、党名を変えることでもなく分裂することでもなく、強力な野党の団結ではないのかと思いますが…。

 関西電力の高浜原発3号機が再稼働しました。これで、鹿児島の川内原発について2基目が稼働したことになります。福島原発事故の悪夢の解決もいまだできていないにもかかわらず、経済優先は他人の危機までも無視しているようです。いったいこの国はどこへ向かおうとしてうるのでしょうか。避難民はどこへいけというのでしょうか。ある意味、それは私たちの置けれている状況も同様になるということです。


 これが、唯一楽しい話題です。 
 リオデジャネイロ五輪の23歳以下サッカーアジア最終予選で日本代表が決勝で韓国を3対2でやぶり優勝しました。2対0と先制をされましたが、後半3点をとり逆転での勝利でした。信じられない…と思うほど短い時間でチャンスをものにした勝利で優勝しました。宿敵、韓国に勝ったことは大きでしょう。アジアでは宿敵のライバルで、いまはやりのリスペクトできるチームですから。



 昨年の暮れから楽しみにしていた正月休み…と思っていたら、月末となりました。
 なにか、1月がはやくも終わろうとしています。正月休みには、読んでおこうと思い図書館で数冊借りたものの、なんともなさけないことで完読したのは一冊でした。意志の弱い読者であることかと思いつつ、今月に読んだ本を紹介する月末になってしまいました。

 昨年同様、自分の好奇心のおもむくままに本を選んでいた。とくにジャンルをしぼって、さらには新年1月だからという気持ちでは読んでいたわけではありませんdした。とはいえ、読みたい本は増えるばかりで手がまわらないといったところが本当なのかもしれない。
 このごろフト思うことがある。「若いときにもっとがむしゃらに読んでおけばよかった」と。元来、怠け者の性分からぬけ出すわけもなく、今まできてしまった、といところが本当なのかもしれない。いつまで若いと思っていたら大間違いだった。いままで買って貯めておいた本などは、おそらく全部読めないのだろうと開きなおった1月でもありました。
 言い訳になってしまうのだが、齢を重ねるにつれて老眼になり、小さな文字をおいかけるのもめんどうくさくなってきたように思う。とりもなおさず、読む量も減ってきました。小説もめっきり減っていました。
 読書も体力が勝負なのでしょうかね。

 一生の中で、自分がまた読んでみたいと思う本はどれだけあるのでしょうか。
 本は読まなくても生命は維持できますが、読んでいいこともいっぱいあると思います。読むだけでも価値はあると思います。とはいえ、書店は減るし、小遣いも減るし…と条件がますます厳しくなるのが現実であるように思えます。それでも、自分が読んでみたい本をさがして求めたときの幸福感(大げさかも)もあるのではないかと思います。通勤電車で一心不乱で読んでいると、なにもかも忘れぼっとうするあまり、乗り越してしまうという失敗もありますが…ね。



【内容】
「ぐずぐず生きる」「80歳を過ぎたら手術は受けない」「仕事が嫌いなら、心を込めずに働く」「がん検診は受けない」…。人はいつか必ず死ぬ。崩壊寸前の日本の社会システムのなかで、どうしたら有限の命を面白く生きられるだろうか。そもそも面白いとはどういうことか。飾らない人生観と独自のマイノリティー視点で、現代社会の矛盾を鋭く突く!生きにくい世の中を少しでも快活に過ごす、本音炸裂エッセイ。

【著者略歴】池田/清彦
1947年、東京生まれ。東京教育大学理学部卒業、東京都立大学大学院生物学専攻博士課程修了。現在、早稲田大学国際教養学部教授。構造主義科学論、構造主義生物学の見地から、多彩な評論活動を行っている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■無限の命というものは、恐ろしく退屈なことではないあだろうか。背水の陣もなければ、一期一会もない。我々の人生が面白いのはいつか死ぬことを我々自身が知っているからに他ならない。無限の命であるならば、一日の楽しみがどんなにわずかであろうとも、ゼロでない限り無限倍すれば等しく無限になってしまう。有限の命であればこそ、今日どれだけ楽しかったかは意義のあるものとなる(p14)

■人生、同じ七十年を生きるにしても、次に新しい経験をすれば体感時間は長くなると思う。体感時間の長さは想起できる記憶の量に比例しているのかもしれない(p20)

■~六十歳から七十歳、五十歳から六十歳に比べてずっと速く過ぎたと言う人がほとんどなので、老化と共に体感時間がさらに加速することは間違いない(p21)

*死は確定的な事実であって、もはや変更することは不可能である。生は確定的な事実ではなく、現在進行形のプロセスである。過去はすでに決定されて変更はきかないが、未来はまさに選びつつあるのだ(p51)

■グローバリゼーションで最もいい思いをしているのは、アメリカの特権階級であろう。ならば、その見返りとして、世界の弱者に対して、いくら寛容であっても、寛容であり過ぎるということはないだろう。しかるにブッシュのアメリカは何をしたか。テロは悪い。それは当り前のことだ。しかし、世界最強の軍事力を背景に、負けることの絶対にない戦いを正義の戦争と称してはじめようとするのは、どう考えても最悪の選択としてしか言いようがない(「強者の寛容について」p77・「グローバル経済と現代奴隷制」ケビン・ベイルズ著・凱風社)

■若い時は、人生は有限だということは頭で理解していても、心はそれに抗って人生は無限だと思いたいであろう。私も三十代の後半までは、私に残された時間は無限とは言えないまでも充分すぎるくらいある、と思った(「病気は待ってくれない」p80)

*~突然、人間いつ死ぬかわからないから、その時最も大事だ、と思っていることをやらなければ、と思い立ったのである(p82)

*農耕、労働、戦争、奴隷。これらの起源はみな一緒なのだ。ひとたび、農耕を発明した人類はもはや元に戻れなくなった。農耕によって支えられている人口は、狩猟採集生活に戻ったら支えきれない。大半は餓死してしまうに違いない。だから労働をせざるを得ない(p91「働くということ」)

■昔、多くの人は宗教を信じていたから、最後に悔い改めれば天国(極楽)に行けるとおどかすことができた。今日、多くの人は死ねば死に切りと思っているので、死ぬと決まった人間は、ある意味では無敵になってしまう。直接的な欲望と死を隠蔽することにより合成立~(p150「食べる楽しみ」)


【メモ】
 最近まで「いつまでも若いと思うな」という言葉をかけられたことがなかった。誰かがいってくれたらきっと、この本ももっと身近になり手に取っていたことだろう、と言い訳をいいたくなる。

現実、馬齢を重ねると足腰が弱くなっていることに身をもって痛感するこの頃である。
 誰を恨む気はないが、今までの、生きてきた中で発した言葉が全部ふりかかる。有限な資源をいかにうまく自分のものにして生きるのかという命題でもあるように思う。
 人生の喜怒哀楽を気づく本でもある。自分はいままで何がいちばん楽しかったか、悲しかったのか考えさせられる本である。
 読む進むうちに、何を残してなにを捨てていくのか、今一度考えてみるとも大事な生なんだよーと思えた。
 誰に、言われているわkでもなく、自分の思うままにきた結果をどう始末するのか。いちばん難しい引き際を考えまえに、いったいこの世の中はどうなって動いてきたかを知るヒントになるだろうと思う。



【感想】
 久しぶりに思い出した名前だった。樺美智子という名前は、ある意味安保闘争という歴史の中で永遠に忘れない名前となったのだと思う。それ以降、奥野浩平「清秋の墓標」、高野悦子「二十歳の原点」、岸上大作「意思表示」など、政治に悩み生きた人たちのバイブルだったのかもしれない。安保闘争という時代。
 人は社会のなかで生きているという強烈なメッセージを残した若者だったように思う。だから、その社会をどう生きたらいいのか…模索の連続あってもいいよ、といっているように思えた。「政治」という冷たい壁にむかっていくなかで、「人が忘れてはいけないかけがえのないものは何ですか?」と問いかけてきた本でもあったように思う。
 ちなみに、樺美智子自身の日記「人知れず微笑まん」(三一新書)もある。ひたむきな、まじめな、ぐちょくな人生。でも、最後に微笑みたい…と。

「最後に」

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

1956年 美智子作





【内容】
 自分のいのちは自分だけのものだと考えると苦しくなる。死んだらすべてがなくなってしまうのか。なぜこの世には不平等な生があるのか―。著者は山深い森の生活から生まれた思考と、西洋哲学・仏教思想とを往還しながら、いのちのありかを探す旅に出る。そして、自分のいのちは自分だけのものではなく、他者や自然や、思いを寄せる人びとと共有しているものなのだと諒解していく。深く静かな思索。
■無人島でただ一人で暮らしていたと表現すれば自分だけでも生きていたように感じるかもしれないがそれは正しくない~。人間は自分の「いのち」は自分の身体のなかにあると感じる。もしも「いのち」が機械的な機能にすぎないというなら、つまり心臓が動き、血液が流れ、といったことにすぎないのなら、「いのち」とは生きている場のなかに成立しているものである。「いのち」は存在することができる。~その場をつくりだしているものが関係である。私たちは、他者との関係のなかに、自分の生きる場「いのち」が存在する場を成立させていた(:はじめに)

■上野村では死はタブーではない。普通の会話のなかで「そろそろ」というようなことが話される(p29)

■~新太郎さんに存在の自己諒解を与えていたのは自然ではなかったか。自然との関わりにおいて生みだされてきた村の暮らしが彼に存在の自己諒解を与えてきたのである(p72)

■~存在する「いのち」はひとつではないことになる。簡単に述べれば深い関係のなかに存在している「いのち」も、浅い関係のなかに存在している「いのち」であるということになって、「いのち」もまた多層的な存在ということにならないだろうか(p80)

■私たちは「関係」という言葉を使うと、自然との関係とか人びととの関係を想起する。ところが新太郎さんの世界にはもうひとつの関係が存在している。それは過去との関係といってよいし、歴史との関係、祖先との関係と表現してもかまわない。彼は過去の世界を受け継いだのである(p83)

■過去は現在の土台として現在のなかにある。未来もまた現在がつくりだす未来である。どちらも現在形のなかにあるといってもよい。つまり、人間には現在という刹那しか存在しないのである。~ひとつのとらえ方としては、私たちは過去、現在、未来という道程のなかにいる。ところがもうひとつのとらえ方としては、私たちには現在という刹那があるだけで、その刹那のなかに過去が感じられ、未来が感じられている(p89)

■永遠性とは、共同体に対する永遠の信頼があると感じられるものである(p92)

■ところが個人を基調とした社会では、社会も経済や文化など個人が未来に向けて生きていく道具にならざるをえない。個人にとっては、死は終焉である以上、すべてのことが終焉へと向かう過程で自分を支える道具にならざるをえないのである。そこに共同体が失ったゆえ成立した死生観があるといってもよい(p94)

■~生と死が親しい関係、穏やかな関係であるという関係であると。この基盤には、このようなことがあった。そこに新太郎さんの「いのち」が存在していて、同時に生きる世界があったのである(p100)

■人間から切り離された「他のもの」は第一に自然である。とともに自然から切り離されたとき、自然と人間の関係を基底において生みだされていく一切のものを人間は失った(p122)

■かつて個人は共同体に包まれた個人であった。~自然と結ばれてこそ成立する個人。村人や死者、歴史や文化と結ばれているがゆえに成立する個人は、何ものにも包まれない個人、自己完結する個人になった(p141)

■自分が死ねば、この世界は終わる。そういう個人になったのである。それが近代的な自由な個人であった。~トクヴィルが述べたように、森や湖を農地や牧場に変えた自分自身に感動いている人間、自己にしか価値を見いだせない人間を誕生させることになった(P141)

■根本的なものが問い直されず、しかしその理念を基に展開している現実のなかに巻込まれる、そういう怪しさがこの社会には成立している(p144)

■問い直さなければいけないのは存在とは何かである。たとえば、いけないのは存在とは何かである。たとえば、私は存在していう。どこに存在しているのか。私の結んでいる関係のなか、そんざいしているのか。


【感想】
 人はいつの日からか、自分の価値観を誰にも理解してもらおうなどとは思わなくなった。よく言えば「価値観の多様化」、悪く言えば「個性がなくなった」とも言えるのではないかと思う。主張があり、反目があり、それでもお互いが生きているという土台が理解しあえない時代…ということがわかる。

 それは、生命の生と死のありかたが不透明になってきたからだろう、と。
 何であれ、人のめにとまり影響を持ち、共有できる範囲を支えあうという作業を忘れてしまったのが、現代人ではなかったのか思えた本だった。

 東日本大震災・福島原発事故の3.11以降の生き方がそれぞれに問われている時代、この本はいい本だと思う。
 生命あるものはいったいどう守られなくてはいけないのか、それをどう伝えていったらいいのか…。
 もっと、はやく読んでいたかった本でもあるように思えた。



 1月も終わりですね。
 これといっていい思いもしていない1月でしたが、読者の皆様はいかがだったでしょうか。
 
 寒いせいっでしょうか、最近また腰痛が再発しました。急な動きをすると「ギクッ」ときそうで怖い日々を送っています。以前は、電車に座っていて乗り換えようとしたとき痛くて立てませんでした。ひと駅のりこすはめになってしまいました。病院では「軽い椎間板ヘルニア」との診断だったですが。

 仕事より体の日々です。これから先は、仕事の日々より自分の体の方が最優先させなければ「寝たきり」になってしまいますー。

 今週はこのへんで失礼します。まだまだ、寒い日が続きそうです。風などかひかないにこしたことはありません。それでは、楽しい2月を迎えてきださい。(…で何をしたい2月かが大事ですよー)

読んでくれた人、ありがとうございました。



雪にとまどった一週間でした

2016年01月24日 | Weblog

 こんにちは…。
 寒い日が続いています。毎朝、起きるのにもおっくうな気がする日々が続きます。
 散歩道の多摩川はまだ雪が残っていました。ゆっくり眺めている分にはいい雪景色ですが、それが足元にかかわってくるといろいろ迷惑な雪だなと思えた日々でした。

 さて、今週のはじめは、東京にも雪がふりました。朝、起きたら窓の外は雪…雪。列車の運行状況を見ると、あんのじょう、列車運行が遅れていました。それでも、どうにか動いているとのニュースの中の月曜の朝でした。そんななかではじまった一週間でした。

 これにはまいってしまいました。
 通勤しようといってみしたが、最寄りの駅では乗れませんでした。改札からホームにまで何列にもなった人の列。これではいつになったら、電車に乗れるのかとおもうほどの混雑ぶりでした。
 この日のニュースでは、京王線の千歳烏山駅の様子が紹介(何キロにも続く人の列)されていましたが、状況は私の駅も同じようでした。
 この日、私はは最寄りの駅はあきらめて次の駅に歩いていました。雪が降る中登山靴をはいて転ばないようにゆっくり歩いて行きました。「こんなところで滑って転んで骨折」というニュースが頭に浮かびつつ歩いた朝でした。当然の、私のほかにたくさんの通勤者の歩いた一本道の筋ができた朝でした。こんな日は、会社までの時間より、まずは身の安全。山を歩く時とおなじモードが大事なのだと思いました。

 まあ、みんなまじめですわ…ね。
 これは日本人の「美学」なのかと思うほどの「愛社精神」がこれおほどの人波をつくっているのかという気がしました。新聞を読んでいたらまさに「社畜」という言葉が載せていました。日本人は「忠誠心」を美徳するものが多いですよね。
 師走の「忠臣蔵」や渋谷駅の「忠犬ハチ公」など。雪の日の行動をみていると身近に日本人の形があったのかなあ、と思えました。あまりの、忠誠心のために他人に迷惑をかけてまで通勤した人もいました。罵声を浴び掛け合う労働者などもいました。これは、困ったことですが。なんで、働きに行くのに通勤者同士が憎みあいあわなければならないか。疲れるだけだろうに。怒りの矛先をだれにむけたらいいのやら…、といった一日でした。

 ちなみに、この日私が職場についたとき、10時ごろに着いたときは、まだ一人しかいませんでした。こんなものです。こんな日の歩き方は、マイペースが大事。天気に文句をいってもしようがありません。誰をうらんでもしようがありません。ましては、鉄道で働く人たちを恨むのはこれは逆恨みです。こんな雪の日、少しでも早く動くように一生懸命なのは、私たちよりずーと早く起きて、懸命に働いているのはことの人たちなのですから…。
 そう思う中、故田中角栄元首相が郷土の道路を雪の日でも走れるように頑張った姿がありました。ある意味えらかったですよね。




 今週も引き続き、スキーツアーバス事故や食糧廃棄処分横流しのニュースが流れていました。自民党の甘利経済再生相の金銭授受疑惑も騒がれていました。
 よくとくみてみると、これは全部、自安倍民党の規制緩和政策の実態として、でてきたものでしょう。
 そして、これがブラック企業のいきくつく最悪の事態だと思えました。

 春闘がはじまった様子です。
 春闘と言っても、注目されるのはごく大手の一部です。それを支えている中小の春闘は影になっているようなのには残念に思えます。派遣社員がふえる中、その人たちの春闘がほとんんど注目されることはないようです。
 小さな会社には小さな春闘があるはずです。どんな内容でどんな要求をしているのかもっと新聞はとりあげてほしいと思います。なぜなら、手賃金で働く人たちの要求は私にとっても身近な気がしますし、実際同じだからです。それは、いまはなくなってしまった労働運動の原点だと思えます。

 今週、所沢のコンビニ「バイト無賃労働について」高校3年生が経営者の団体交渉を申し込むという記事がありました。「18歳選挙権」の時代。まさに生きた一票になる経験だといえます。今の世の中で働くことはどういくことなのか、どうして経営者が身賃労働するのか、してしまうのか、質すなかで生きた春闘がだいじだなあとおもえます。それが、何よりも大事な春闘の原点なのでしょう。


 雪がまだ残る散歩道。
 遠く山を眺めれば、雪が積もっている様子です。低山雪山はいいのでしょうね。静かで、こんな時は高尾山でも人も少なくて、静かな山歩きができる時期でもあります。
 梅の花が満開です。寒い、寒いといっても温暖化なのでしょうか。

 最近、北海道、九州、関東と小さな地震が多いですね。不気味に思えます。
 どこへ逃げるか、どうするか??。
 原発は再稼働で本当に大丈夫なのか、など心配はつきません。それに、そんなことちっとも政治の課題に乗せようとしていないし、ね。



 1月の大イベント「新年会」が終わりました。さあ、今年のはいまりです。
 やっと、2月号の刊誌が終わった今週、落ち着きました。毎月のことですが、今頃は、この仕事が暮れても明けても日々追われる日々がおよそ一週間が続きます。憂鬱な週でもあります。
 数人で担当しているのですが、全員が緊張する一週間でもあります。わたしがここへきてから、7冊目の雑誌終了の週でもありました。終わってしまうとポッと時間があいたような金曜日、近所の某中華飯店で行なわれた「新年会」にいってきました。

 私は出向の身ですので、参加したのは他社の人たちの「新年会」でした。なぜか、自分が在籍するところより気が楽になる場所になりました。なぜでしょうか…ね。
 いつもは、仕事のことばかりの会話やつきあいでしたがここでの「新年会」ではちょっと違う気がしました。
 人を知るということは、ほんとうは大事なことで面白いことなのでしょう。まして、お酒がはいってのこと。ゆっくり、自分の思いや行動をを考え話すってことは、の飲み会の原点なのでしょう。なんであれ、自分がいちばんおもしろいということを話せる場所、人がいることがいまは大事なのでしょうね。
 
 まあ、ことしも自分なりの形で、自分なりの力でこの人たちと付き合っていくしかないのでしょう。できれば、楽しくね。もう、根性で仕事する齢ではないのです。「仕事より自分の健康です。外聞などかまっているとことではありません」ねという会話も納得した「男子会」でもありました。

 さてさて、今週はこのへんで失礼します。
 また、来週から仕事一辺倒??の日々です。楽しみは一瞬ですか。
 今回芥川賞に選ばれた滝口優悠生さんが面白そうです。読んでみたいです(きっと私はヘソマガリなのでしょうね)。「火花」又吉さんのは読んでいませんが、滝口さんが面白そうです。とはいっても、図書館から借りた本もありますし、読めるには限度がありますかね。
それと、火野正平さんの「こころ旅」が始まってほしいですね。

※大相撲で琴奨菊が日本人の10年ぶりに優勝したとのことです。長かったね。でも、今場所の白鵬の元気のなさが心配です。ちょっと休んだ方がいいのかもしれません。「今日やることは今日努力した結果…」なんていっていましたか。なんか、身につかされる言葉です。

 読んでくれた人、ありがとうございました。

1月半ば…またまた一年が始まりました

2016年01月17日 | Weblog

 こんにちは…。
 はやいもので、もう1月も半ばになっています。成人式が済んだと思いきや日々はもう次のことを追いかけているようです。私にとって、今年の1月とはちょっと違うところといえば、昨年からいっているように職場が変わって初めての一年の始まりでした。これから、いったいどうやっていこうか…などと思うより、おそらく昨年同様、ダラダラとしたお客の対応にお付き合いしていくのでしょうか…ね。それで、うまく回っているのですからそれはそれでいいのではないのかと思います。

 さて、今週の出来事はといえば、スキーバスの転覆事故がありました。夜中にスキー場に向かっていた観光バスが山中で事故の様子を伝えるニュース。バスには41人乗車。そして、14人の若者が亡くなり、多数けが人がでたとうことでした。事故を起こした原因について日々ニュースが流れていました。
 これはバス会社の問題でしょう。乗務員2人はいいのですが、まさに丸投げのような運行状況の実態があるように思えました。会社全体で、ツアーのお客の安全を確保していこうという体制が全然見えないような気がしました。

 よくよく考えれば、会社の規模のよって安全対策がちがうのは困った問題です。なぜなら、大きかろうと小さかろうと、人の命を乗せて運んでいるということなのですから。一方で、利益を上げなければという目的もあります。利益を優先するか、安全を優先するか、のようなところが見えました。

 以前にも、バス会社が事故を起こして問題になっていました。その後、乗務員を一人から二人にしたのでしょう。
 
 このニュースを見ていて、地下鉄のワンマン運転のことを考えていました。
 都会では、たくさんの地下鉄が走っています。そういえば、私の利用している地下鉄もワンマンでした。朝のラッシュ時には何度も、出入り口の開閉がされます。ゆっくり乗る人、あわてて駆け込んで乗る人といろいろです。それを瞬時に判断してドアーをしめて発車していきます。それでも遅れて、車間距離の調整に苦心しています。これが、スムーズのいっているときはいいのですが一度、事故や火災が起こったらどうなるのでしょうか。まさに大事故です。以前に韓国で地下鉄火災がありました。車両の軽さを追求したけっか燃えやすいものが多く利用されていたと聞きます。

 車でも自動運転というのが話題になっています。実際に、人が乗って道路を走るとなるといろいろなケースが考えられます。人には感情があるのです。思わぬところで、考えられないことが起きる可能性があるのでしょうね。みんなが「車はまっすぐ走るもの」だと思っていますが、乗っている人はけっして真っ直ぐに走って生きていないのです。いろいろな事情で動いているのです…と思えば、人の数だけのシーンを自動運転する頭脳に記憶させておかいないといけなくなるのでしょう。そんなことは不可能でしょう。
 まして、パソコンを遠隔操作できる時代です。
 やはり人には、人の対応が第一条件なのでしょう。ワンマンは限るある範囲のみ通じる距離ではないかと思います。最近、東京小金井市で一人で運転していたバスが暴走して、民家に突っ込んだ事故があったばかりなのに。

 安全は機械ができる範囲と人間ができる範囲をもってできるもの。機械に任せっ切りではやっぱり不安は消えません。人件費を削り利益をあげるようとしている現実。それが今回の事故がおきたように思えます。
 あたりまえですが、適切な運航をつくる体制が人を中心につくることがだいじなのでは思います。利益も大事ですが、それを生むのも安全であること。なぜなら、スキーツアーは他人の楽しみを乗せて走りものです。決して悲劇など想定していないのです。想定するのは運行会社の仕事だったはずです。



 ■小さな記事から「デフレは諸悪の根源あろうか」(朝日1月16日より)読んで
 国会が始まったようです。日々、政治にはあまり関心がないのですが自分の生活に直結するとなると、これは他人事ではなように思います。安倍政権はデフレ脱却をめざしているとのことです。脱却はいいのですが、そのことが直接、年金生活者や株も投資もしていない人たちにどれだけ恩恵があるのかという記事でした。
 普通は、日々、会社に行って働いて賃金を得ています。農村では、日々、作物を耕す土地にいって育てています。漁業では、朝早くから漁に出て、海の収獲を台所に届けています。年金生活者は少ない年金を楽しみにして暮らしています。それが、家族をつくる唯一の楽しみでもあると思います。決して、株でもうけたりして生活する人は多くはないと思います。

 と、思うと安倍政権のデフレ脱却はだれのために政策なのでしょうか。



 成人式の日にどんじりの年賀状が届く。
 まあ、なんとものんびりした人だあと思う人でもある。ある意味、ゴーイングマイウエイの性格がぴったりな人かなあ…。悪く言えば、あてにできない人のようで、よく言えば我が道を行くというのんびり型でしょうか。
 これもその人の人間性がよく出ていて面白いと思います。(誰って…、それは自分の胸に手をあててください)

 これからが寒さもいちばん厳しくなってくるのだろうか。それでも、けねげに梅の花が咲き始めました。誰に褒められるわけでもなく、ただ黙々と花さ咲かせる。自然の素晴らしさなのでしょうかね。
「こうありたもの」と思いますが、人間はそうはいかないのが世のつねのようです。
 うまくいけば誰かに褒められたい、褒めてもらいたいと思うのでしょう。そこで文句を言おうものなら、ギスギスの人間関係も考えてみなくてはなりません。それが、自分が成長するひとつの条件でもある場合もあります。

 年齢が嵩むにつれてになって「そんなことは面倒くさい」と思うことが多いようです。
 きっと、一度は心をリフレッシュ(メンテナンス)することも必要なのでしょう。それを探しつつまた一年が始まりました。いやなことばかり多い世の中です。それを、どう処理していくのかもこの一年のテーマでしょう。

 まあ、どうにかやっていけてらと考えます。



※井之頭公園に散歩に行ってみました(写真)。
 公園の水を抜いて掃除をしていました。冬なのでさぞかし寒いのでしょうね。なぜ、夏にやらないのかと考えていたら、夏はなんでも活発で、池の匂いがきつくなるのでしょうか、それと虫たちもいっぱい繁殖したりして活発になるからでしょうかね。冬は一休みしている時期なので…ということなのでしょうか。
 バードウォッチングを楽しんでいる人たちもいました。全員で同じ方向をみて楽しそうでした。
 ところで、同じ方向を見てくれる人はいますか…、とふと思いました。のんびりと、そして丁寧に。
これからもそんな人たちをつくって行きたいと思います。
 年賀状のがのんびりしているくらいはいいのです。

それでは今週はこのへんで…。
読んでくれた人、ありがとうございました。 



2016年 始まりました…

2016年01月10日 | Weblog

 こんにちは。
 新年があけて、年賀状もおおかた来て、職場の挨拶も終わり、始まりましたね。
 町を歩けば、門松もまだまだ片付いてはいませんが、もう成人式がの休みが始まろうとしています。まさに、あれよ、あれよと思う日々です。

 正直なところ、昨年からなにも片付いておらず身内の義理を果たすべく動いていた新年でした。気がつけば、休みは遠い昔のように過ぎ去っていました。

 新年早々、国会も始まりました。同時にデモや集会も始まりました。
 今年はこんな状況で始まりました。あいかわらず、与党は野党の声に耳を傾けてみようなどという気がないかのように国会の中継も始まったようです。
 今年、久しぶりにコラムも「天声人語」(朝日新聞)を読んでいたら「皇紀2676年」という言葉を自民党議員から出た…と書かれていました。いまだに、「皇国史観」でものを言っている議員がいました。さらに、昨年「八紘一宇」という言葉も出ていたと書かれていました。いずれも、戦争賛美の言葉です。
 いったいどういつつもりなのかその真意が不明なままの論戦が始まったのには驚きました。
 これは危険な兆候だろうと思えてくるのですが、考えすぎでしょうかね。
 そういえば、ドイツでは今まで封印されていたヒットラーの「わが闘争」が再販されたそうです。そして世界中で難民が移動をしているニュースを聞きます。
 いずれも、憎悪の頂点に達した結果の状況がつくらいいるように思えるます。こんなとき、日本も同じレールに乗ろうとしているような動きに見えます。まずは、自国の「憲法」の論議から始めてほしいところです。




 そして、北朝鮮の水爆実験成功のニュース。
 真偽のところは不明なのだが連日ニュースが流れていました。このニュースを聞いて不思議に思うのはこのときとばかり、あらゆるメディアをつかって非難を集中している様子。大国の原爆実験は、とくにアメリカの場合ならどうなのだろうかと、いつも思う。
 そこでこれではだめだとばかり武器の開発が必要とばかり思わせる。それも、戦争を扇動するような雰囲気でもつくっているように見えてしまうのは考えすぎだろうか。



 いよいよ始まってしまいました。
 過ぎてしまえばみんな「思い出箱」に入ってしまって遠い過去になっていく日々です。それが、厳しいものであれ、いつか過ぎ去っていくものであれば、なんでもやりきれるのだろうと思います。結果が悪かろうと良かろうと過去の1ページになるのだろう。そんなことを思う一年の始まりです。

 今年の目標などは今のところはない状態です。
 異動先での仕事などをとにかく必死に覚えてやってきました。まだまだ、余裕などない状態です。いつ余裕がでのかということもあります。一馬力での仕事に日々、追われている状況です。だからといって、体が状態が悪くなるまで働くことは、誰も望んではいなでしょう。その、さじ加減がこれからの目標になってくるのでしょうか。(会社は、働く人のみが条件なのです)

 強いていえば、いままでの自分の働き方を変えることもなく、いままでの延長線上にあればいいのでしょう。
 誰のために働いているのか、何のために働いてきたのか…、思い出すように生活できればいいのではと思いますが…。
 世の中が、悪くなっていくように思える一年です。なぜなら、政治が悪いからでしょう。
 国民の暮らしのプライベートの部分まで政治が、足音をたててせまってくるような政治はろくなものではないかと思います。例えば、「一億総活躍」などということ。だれだって、言われるまでもなく、活躍しているのです。一生懸命活躍いつになっても正社員にせず派遣社員が増え、賃金が減り、あげくの果てには馘首。まさに弱者を産業の安全弁のようにつかっている経済がおかしい等など。それらを改善し、赤ちゃんから老人まで生活できる基盤をつくる政治が大事だろうと思います。
 はっきり「一億総活躍」ってのは誰のために、何のためにするのか、もっと具体的にしてほしい点です。
 


 一年の始まり。私への「お年玉」のように思えるサロンコンサートに銀座まで妻といってきました。
 日曜ということもあって、道路は歩行者が道路にあふれていました。なんとも、広い道路を昼間に歩けることがなんとも気持ちのものでした。
 車が通る場所がこんなに広いものだとは肌感じた一日でした。
 こんな広い道を歩けるのは一年に一度の経験です。正直、コンサートよりこっちが面白かったような気がします。(コンサートに行ったから経験できたことなのですが…)

 等など…。
 今年はちょと暗い一年になりそう、というのが私の予想です。だからこそ、楽しいものを探していく一年にしていきたいものです。体が動く限り、何かみつけては感動できればいいのですが。
 読者のみんさんにとっては、楽しい一年になるといいですね。
 では、今週はこの辺で失礼します。あいかわらずの愚痴の連発でした。



※今年は、ひとつやっておきたいことは…ありますか。そんなことを自問自答しつつ始まった一年の始まりです。まあ、楽しいことは、そんなに遠くになくて身近にあるのだろうと思います。ただ、それをつくり、準備する自分がいるかでしょうね。そして、その準備段階でリスペクトできるものがきっと大事なのでしょうか。なんでも、準備しているときがワクワク感があっておもしろいといいます。(最近、ラグビーW杯以来、選手がよく使っていた「リスペクト」という言葉が気にいっています)。あとは、大地震がおこらないといいですね。では、今週はこのへんで。
読んでくれた人、ありがとうございました。

あけましておめでとうございます

2016年01月03日 | Weblog

 
 こんにちは。お正月気分もねけてくるころでしょうか。
 いよいよ2016年もはじまりました。ながーい人類の歴史からみれば何億万分の1くらいのことなのでしょうが、その何億万分の1のなかのことです。そして、2016年の私の人生が始まったということでしょうか。
 昨年の暮れから、自分のことといえば毎年の恒例のことを繰り返しやって今日もむかえたというありきたりの年末年始でったのでしょう。それでも、変わらないことよりも、着実に一つ年をとって迎えています。

 見渡せば、自分のまわりはなーんにも変わっていなくて去年から同じような思いを引きずっています。
 その一つに、自分が住んでいる場所。少しも整理がつかず片づけたものははじに寄せただけ…。かんじんの今年の「抱負」みたいなものは忘れている。いったい、新年はだれにためにあるのかー、ねと思います。一つの区切りを目安とした国の予算ではないですから、ひきずっているもでしょう。

 とはいえ、世の中、新年モードです。なにがそんなにめでたいのかと…。
 めでたいのは、たまの休みが長いくらいと、帰省すれば久しぶりにあう人と話ができるくらいでしょうか。
 それがめでたいのでしょう。それがいいのです。
 それでも、今年は昨年よりぜんぜん違う年のなるのではないかと予想しています。

 一つに、政治。どこまで進む安倍独裁政権!!!。
 昨年、政治はどれもこれも強行され、ますます安倍政権一色になっていく様子でした。それが法案の採決をみれば一目瞭然でした。昨年の様子から今年はもっとよくなっていくだろうなとということはないと思います。選挙もあるでしょうから、それで与党が圧勝すればもじどおり「戦争のできる国」になるのでしょうね。それが、だれが賛成などということもわからないうちに進んでいくのでしょう。気がつけば武力一直線の世界に突入していたなどとなっているかもしれません。ただ救いは、18歳からの選挙権をもつ若者がどれだけ今の世の中を考えて行動してくれるかが楽しみです。彼らのエネルギーが力です。ただ、心配なのは、彼らは「共同体=団結」の経験がまりにも少なく、うまく若さのエネルギーをコントロールできるかです。知識も大事ですが、生身の人間のやりことです。どこまで、生きた人たちのことを一緒に考え、行動ができるかが心配です。

 ただいえるのは、結果はどうあれ、これからは若い人たちが中心になっていくしかないという現実です。
 


 今年、わたしもとうとう「定年」をむかえることになりました。今の世の中、定年などといって喜んでいるような時代ではないということは承知しています。とくに、高齢者が多い人口の割合の中では「年金の獲得合戦」のような時代になっていることもゆがめません。さらには「日本年金機構」のずさんな個人情報管理といいニュースはききません。他人の税金としてとっておいてそのお金を株取引の資金にして赤字などと、ろくなニュースはありません。それでも、いままで払った年金をはらってもらわなくてはと思います。はらえなくなったらこれは詐欺ですから。年金の勉強をちょっとしてみようと考えています。

 これまでの仕事を続けるのか、さらには違う仕事をみつけていくのかが今年の問題です。
 今は、とりあえずこれまでの仕事を通じてそれになにかできることをさがしつついく一年にしていきたいと考えています。できれば、それが仕事の違うシーンをつくり発展していくかもしれません。
 

 今年は健康が仕事より優先される年にもなるでしょうか。健康をつくることも仕事…とよくいわれますが、仕事以上に健康を優先させる一年を追求していきたいものです。なぜなら、仕事は健康であればできること。さらに、年齢が加わってくると体のあちこちの無理ができない状態がつくられているなど、昨年、周囲の人たちから学んだことでした。

 多摩川の散歩は引き続きがんばろうと思います。山歩きも昨年以上に積極的にやりたいですね。
 映画もみに行きたいですね。大きなシートに座ってゆっくりできる場所みたいなところ探す一年でもあります。東京に住んでいて、東京の利便性をちっとも利用できていないとつくづく思えた昨年でした。


 60歳。また一つの節目だと思って何かをさがして暮らす一年が始まりそうです。
 よくも悪くも、やったことにちょっと考える時間を足して、このページを埋めていけたらと思います。
 今年も、肩に力がはいらないようにこのブログを更新していけたらいいたいと思います。たまたま読んでくれた方々、今年もよろしくお願いします。(誤字・脱字も減らしたいものです)
 読んでくれた人、ありがとうございました。