日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

雨あがり、季節は秋に近づく

2016年09月25日 | Weblog

 こんにちは。
 雨ばかりの日々が続いています。久しぶりのお天気で気落ちもちょっとは晴れてきたような二日曜日でもあります。台風も、季節通りやってきましたが、最近は強烈な被害をもたらしているようです。社会も自然も人間に何かを警告しているような気もします。
 多摩川を散歩してると自然のなかから生まれた生き物たちが季節を運んできます。
 川面にトンボのつがいが交尾をしながらたくさん飛んでいました。二匹が迷ううでもなく、縦に横に、実にバランスのいい感じで飛んでいました。子孫を残すために、まさに絶妙なハーモニーで飛んでいるような気がします。遠くではモズの声もしました。さらに、遠くにたなびく煙があればまさに秋の景色…なのでしょう。
 季節は、秋に急ぎ足というかんじでしょうか。田んぼでも稲が実をつけていました(東京でも郊外では田んぼや畑もあります)。







 「今月の読書」の月末になりました。1ヵ月は早いものです。としでしょうか。なにをどう読んだのか…という記憶が月末にはうすれてしまっているようです。読む前に「なぜ、読んだ」のかがいちばん大事なことだと思うのですが、月末にはすっかり忘れているようです。興味を持った理由がどれにも必ずあるのだと思うのですがノートにとっておかないと、99パーセント忘れて生活しています。
 そんな夜読み方ですから感想も、時間がたったときになってしまいます。読んだときの「熱い」思いもすでにうすれているような気がします。それでも、時間がたってまた、みてみるときっと違う感想があるのでしょうか。それは、それできっといいのだと思います。



■p29 そんな時代に老後を迎える私がこれから心がけねばならぬことは、いかに老後の孤独に耐えるかの修行である。若い世代に理解や同情を求めて「可愛い老人」になるよりも、私は一人毅然と孤独に耐えて立つ老人になりたい。それがこれからの目標であり、それを私の人生の総仕上げとしたい(佐藤愛子・覚悟をきめる)

■p96 我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方がはるかに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分が説こうとする問題と直接関係ないのだが、こんな機会でもないと思いだすこともなく、また耳を貸そうとしまいから、序文の代わりに書き残しておくのである(柳田國男・山の人生より)




 この本は再読になる。
 もう20年以上の前の本だろう。山田太一さんの本が好きで最近また読みはめてみてどこから引っ張り出した本田。今、再々度みてみようと探したがどこへいったかもうわからない。なんともだらしのないことだと思うが…。読書ノートには、人は何かを求めて生きている。若者であれ老人であれ、気づいてみると「生きるとはかなしい」ほどつらいのだ。「だから…」という自問自答を繰り返すなかから自分らしい生き方をできてくるのだろう。それが、他人からどんなにいいかげんなことであっても、本人にとっては生きるに値することなのだということを尊重しながら生きることが、何よりも大前提であることを語っているように思う。

 そのなかで人間のはかなさや悲しさを告発しているような作品を紹介していくつもの「生きる」を語る。
 



【内容】 「過去」と向き合い、記憶にとどめ伝えてきたドイツ。東西ドイツの統一、移民の増加、兵役の廃止……新たな局面を迎えてドイツはどこへ向かおうとしているか。「記憶」をキーワードにドイツの過去・現在・未来を読み解く。(大月書店紹介より)



 いつの時代も、真実を隠したい群れ、明らかにしたい群れがいる。そのどちらもしまつがわるいのは利害関係にあったときである。一方が、設け、もう一方がそれで被害を被る。利害関係がより怖いのが、その真実を忘れようとすること。さらには、無関心ということで、考えなくなってしうまうことが何よりも怖いということだろう。

 日本では、戦争被害者という一方的な意識があったり、戦争という悲劇ばかり強調されて真実が見えにくい状況が支配することあろうと思う。では、なぜそんなことが起きたのかという本質が隠されてしまうこともある。最近、教科書問題で戦争の記述なども少なくなってきているという。戦争体験者が高齢化して語りづく人がいなくなっていることもあって、戦争というものの体験者を語れなくなってなくなっているという。
 戦争は「悪」とは知識では知ることができるが、知っていることはいつか忘れることもあることを忘れてしまっているようだ。

 この本ではドイツでの「戦争とはいったなにか」ということだったのかを、忘れないようにするためにいったい歴史から何ができるのかということを問い続けた本です。とくに、戦争体験をしらない若者にむけて歴史とどうむきあって行くべきか、ドイツでの教育を紹介している。いつでも、記憶のかたすみにおいておくべき忘れてはいけない歴史教育を市民と教育者、あるいは政治家も一緒に考えていくという挑戦でもある。
 とくにドイツは世界大戦でアウシュビッツでの惨劇をどう「記憶する文化」として残すかという課題にも挑戦しつづけている。そして、二度と同じ過ちをしないために、人間ができることへの挑戦もある。
 『アンネの日記』が世界文化遺産になったように、負の遺産を「記憶する文化」に残す試みが続いていることを紹介してくれた本だった。

 日本では広島の原爆ドームがある。戦争での悲劇を後世に伝えるためのひとつの教育の手段になっている建物でもある。修学旅行などで教育の一環として訪ねるところでもある。
 読み終えて、戦争の悲劇の歴史はなにも遠い場所にあるわけではなく、もっと身近な歴史を探してみるともっと身近なものとして考え実践できるものになるのだろうと思う。
 そこから、平和とはなにか問い続けるものになるのだろうと思う。
 図書館でなんとなくとった本だった。じつに重いテーマがあったようだった。
  



 高齢化社会到来。
 となれば、町を歩けばどこにでも老人が歩いている(私もそうだが…)。
 ごくふつうの老人の仲間との一人として、失敗や喜びも生きる力として立っているのだと思う。
 この写真集は老人ばかりはばをきかす写真集。
 若い青春と呼べる時代もあったのだろうが、生きるために数々のズルもやっていただろう。それでも、いま元気に写真にすまして写っているいる老人になれた思いをそれぞれが語る。そして、最後は誰もが自分なりの顔をを持ち美しくなないけれど、生きているばねを錆びないようにして、「護るべきもの」を探してなくして生きていた。



■p38 二十歳の私は自分の性質と孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅出てきているのだった・

■p44 頭が空っぽで時間というものを感じなかった。涙がぽろぽろカバンに流れた。頬が冷たいのでカバンを裏返しにしたほどった。




 いやなことがあったり、ムシャクシャしたりしたら旅にでたいなあ…と思っていた。旅(旅行)は見知らぬ町での自分がとても素直になれるように思う。なぜなら、道も知らぬ、場所も知らなければきっと素直になれるのだろうと思うからだ。まして、見知らぬ町での人との出会いはもっと自分を素直にさせることだろうと思う。

 『伊豆の踊子』は二十歳の学生が伊豆に旅行をしたときに出会った旅芸人との出来事を小説にしたもの。
 旅芸人をいやしくいう人、病気で苦しむ人とそれぞれの出会いを通じて二十歳が素直になれる時ではなかったのではないかと思う。
 事実、川端康成は自分の体験を踊子を通して素直にみつめ、帰っていく。
 やっぱり、かわいい子には旅をさせろ!。
 







 今週、妻の誕生日だった。○○歳である。
 結婚して30年以上になるが、まともに誕生日などはやったことはない。それでも、娘がケーキをどこからか買ってきて食べる。

 またしても歯の集中工事の時期がきたようだ。まいった。
 予約を入れようとしたら、歯の老人の無料定期健診シーズンで待たされるはめになってしまった。
 「65歳までの20本の歯を残そう」などとはすでにもう遅い…。残った歯でいかに生かしていくかがこれからの課題。
 来週はちょっと余裕が出来そうなので、仕事の隙間をみつけて通うことになるだろう。
 まいった。

 それは、今回はこのへんで失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。



連休ではありませんが…

2016年09月18日 | Weblog

 こんにちは。
 9月にはいるや台風がやつばやにやってきて多くの雨を降らせ災害をつくり去っていきました。次から次にやってくる台風に災害は続くそうです。
 季節はあきになっていくような涼しさがあります。多摩川の散歩道に彼岸花が咲いていました。秋祭りにも出くわします。涼しいわけです。

 この時期は「敬老の日」あり「秋分の日」ありとめじろ押しに休日があってうれしいのですが、実際のところ仕事はその休みのことなど考えていない日本の現実があります。私のところも、実際は連休どころではなく、休日出勤もしなければ仕事が片付かない状況です。(なんとまあ、貧乏くじばかり引いているような気がします)。
 とはいえ、しばらくは(再雇用・契約期間は)この状況からぬけだしことができない身、いいところをさがしつつやっていくしかありません。




 今週、パラリンピックはまだ続いていました。
 障がい者のスポーツ選手ががんばっている様子は、とてもすがすがしい気がします。一生懸命、自分のやるべきことを必死に表現しているように見えました。
 さて、社会はどうかというと、あいかわらず、民意がふみにじられている状況があるように見えます。
 一つに、食の安全、暮らしの安全、働き方の安全と生きていきためにあたりまえの状況がどこでどう捻じ曲げられているのかうまくいってないようなニュースばかりでした。


◎豊洲市場の移転先での土壌汚染問題が報道陣に公開されました。それによると、建物地下の汚染水に有害物質が含まれる可能性は払しょくできていないとの懸念がありました。

■これまでの築地市場から豊洲に移転はきいていましたが、建物が建ってからいろいろな問題が出てくることっていったいどういうことなのでしょうか。「手抜き工事」のように見えます。
 なんでもごり押しで進めてきた都政政治のリスクがここへきてでてきたように思えます。前外添知事の手法そのものではいなのでしょうか。けっきょく、税金がいいかげんに使われて来たようにみえるニュースでした。
 「東京五輪2020」でうかれているどころではないように思えたいやニュースでした。東京五輪のスタジアム建設のときもそうでしたが、結局「白紙」に戻してやりなおしにしました。それまで、使われた多くの税金はどうなってしまうのかあまりにもいい加減だと思います。
 小池知事になって少しは透明性が強調されてきましたが、今後どうなっていくのか注目です。「有識者会議」をつくり検討がされるようになっていくようです。


◎米軍普天間基地飛行場の名護市辺野古に移設をめぐって、翁長知事が国をあいてどり移設を再検討を訴えた裁判。福岡高裁は沖縄の主張をしりぞけ「埋め立て」を認める国側の主張を採用。

■沖縄の問題を法律によって解決しようとした翁長知事に対して、法律は国(権力側)の主張を認めたということになりました。これまで、沖縄県は辺野古に新基地移設を認めなことを主張してきた。事実、今年の県、国政選挙においても基地推進の政治家たちはことごとく落選した。ふつう、そうなれば民意は「反対」なのだろうと思うが、裁判所はそうではないらしい。三権分立からいえば、法はより客観的にみる立場から合理的な判決をするかと思っていたら、そうもいかないらしいということがわかる。まして、最高裁はもっとゆうずうがきかないのだろうか。ここでは憲法はないがしろにされているように思う。そのかわりあるのが「日米地位協定」ということだろう。しかし、この法律は、沖縄の米軍の犯罪に効力を発揮しているとは思えない。事実、米軍の沖縄での犯罪はあとを絶たない。
 そんなことを考えると、軍事施設は暴力の温床でもあるように思える。それを、移転させるって、結局、暴力の範囲を広げるだけではと思える。さらに、自然を破壊し、暮らしがしずらくなる…。だから、民意は反対だったのだろうと思う。いったい、地方自治ってなんだろうと考えさせられる判決。

 とはいえ、国政の影響力を待たせている民進党という政治団体はいったい何をしているのか。
 新しい代表も決まったことだし、野党の責任としてぜひ頑張ってほしいものだ。





 「日々新又日新(ひびにあらたにしてまたひにあらたなり)」

 今週うれしいことが一つ。

 職場のお客さんとときおり話す会話で「もうじき生まれるんです」とは聞いていたが…。
 なぜか今週、これほど身近に感じたことはなかった。
 還暦になると、訃報は多く聞く日々である。さらに、労働意欲なるものもなくなってくる。
 最近は働いていても「なんで働いているのかなあー」と思っていた。「ローンを返済するため、日々ただただ仕事をいたるのおか」という現実だった。
 いったいなんのために働いているのだろうと、考えることもしばしある。
 そんなおり、生まれたばかりの赤ちゃんをスマホで見せてもらった。うわさは聞いていたが、生れたニュースとともに、そのお客さんが職場にやってきて、世間話をしていたときの見せてもらった。ほんとうにうれしそうに見せてくれた。
 これから、「この子のためにこれから働けるのだろう」と思う。

 その写真をみていたら、どんなに世間が騒がしくても人は誕生するんだなーと思った。
 この子のために父親は当分、仕事に家族に楽しく送れるだろう。一緒に命をまっとうしようと思うだろう。
 そういえば、孫がかわいいというのもわかるような気がする。小さな命と一緒に生きていることへの感謝もあるし、ともに生きていることを教わっている。

 私は、これからは生きている時間より死に向かう時間の方が近い。そんなとき、永遠とも会思える命のありかを見せられると、もうちょっと頑張ってみようかという気になる。なんとも不思議な「赤ちゃん力」にあやかっている。趣味や会話を楽しむ工夫もしないと、と思う時間がもてることは大事…と思った。
 
 暮らしの中で、日々に振り返る人がいることは大事なことだと思う。
 今月、旅先で亡くなった人がいて、今週は新しい誕生があった。人生悲喜こもごもだ。
 出生したからいって安心はできないいやな世の中であることは現実だ。とくに、安倍政権には思う。
 児童虐待や待機児童問題など。やることがちっとも進んでいないことも事実だ。為政者の怠慢には怒りを覚えるが、とにかく頑張って子育てができる社会になることを目指すしかない。
 来週あたりから国会も始まる。どれだけ、子どもや老人のことを語る国会なるのだろうか。もしかして、まったく語られない…、なんてことがないことを願いたいものだ。

 私も、自分の子どもが誕生した時はどんな思いで仕事をしてたのだろうか、と思い出した。

 今週は、祝日が2日ある。でも、19日(敬老の日)はしごとで出勤だ。なんともやりきれないと思うが、この日はいつか取りもどそうと頑張るしかないようだ。
 今週、なんとか月刊誌がまとまりなく終わった、と。ひと区切りがついたように思う。仕事とはいえ、人の少ない職場では「こんなものだろう」という気がしてくる。時間の余裕もなければそうなつ。
 月末は、ゆっくり山歩きができることを切望しつつ。
 
今週はこのへんで失礼します。
読んでくれた人、ありがとうございました。

秋雨前線がやってきた

2016年09月11日 | Weblog

 こんにちは。
 台風12号が心配されましたが、関東に近づくにつれ熱帯低気圧になっていました。
 北海道では、川が氾濫した町では浸水があいついでニュースになっていました。台風が北海道にまでいくのも珍しいとおもっていました。そして、時折、起きる地震、とあいかわらず日本だけでなく地球がなんらかの変化をし始めたと思える夏でした。
 そして、秋雨前線がはじまりました。来週は一週間雨模様の予報です。また、災害が起きなければいいのですが。

 多摩川を散歩していると、トンボが地上におりてきたようです。めの前をたくさん飛びはじめています。
 季節は秋にむかっているようですね。

 昨日、プロ野球セリーグ優勝に広島東洋カープがが決まりました。なんと25年ぶりだそうでおめでたいことです。これで、広島が優勝したのぼくが経験したのは2度目です。古葉監督の時代ですね…。
 25年前はまだ会社も移転してなかった。そして大きな震災もなかった時代ですね。
 ぼくも35歳えっした。なんとも若い時代でした。あおれから25年ですか。長い時間がかかったように思います。
 今思うと、これまでに世の中ずいぶん変わったように思えます。
 労働者に派遣という言葉もなかった。あれから思うと、地球も社会も悪くなったように見えます。震災が大きな影響があるのでしょうか。自然災害は仕方がないとしても、人災は悪い方にいっている社会とはいったいどういうことなのでしょうか。
 原発事故は最悪ですし、さらには今の政治はうまくいってないようですし(うまくいっていると行っているのは政権側で)、ぼくも齢を重ねていまの時代がいちばん悪いような気がします。みなさんはいかがですか。
 
 さて、今週からリオ五輪あとのパラリンピックが始まりました。
 身体に障害があるなかでも、これほどに人間の体が強いものだと思わせる選手たちに見入っていました。
 人間の残った身体の機能を鍛え上げ研ぎ澄ましてみればすごいことができてしまうものです。五体満足の人たちが励まされるパラリンピックの競技でした。
 放送も前回よりははるかに多くあるように思えます。これは、やはり次回の東京大会の影響があるのでしょうか。
 パラリンピックをみていると、人間のあらゆる可能性を感じさせてくれます。腕がなければ、足で、さらには口で足でと。眼が見えなければ耳で、足が悪ければ車いすで、とあらゆる人間のもつ機能をフル活用して競技にがんばっている姿は涙がでてきてしまいそうにすごいなあーと思います。
 これは人間だからできるのだろうと思えます。自然界でいる動物であれば、死をいみする障害になっているだろうことを知恵をしぼって生きていく、という人間の素晴らしさを表現していると思えます。
 一人ひとりの選手たちの物語がききたいような気がします。
 そんな気がしたパラピンピックの活躍にみえました。

 けっきょく、障がい者の住みよい社会は健常者にも住みよい社会といえるのではないのでしょうか。
 参加選手はほんと一握りです。そう考えると、もっと身近な障がい者たちのこともそうなっているかということは別問題です。現実は社会保障が削られますます、生活しずらい環境になっているのではないかと思います。パラリンピックをみていると、身近の障がい者がそうなっているのかということがもっと大事なのでは思えます。今年、神奈川の障害施設で多くの死者を出した事件がありました。犯人の偏見がもとで事件が起きたように思えます。こういう現実が何をわたしたちに何をもっと大事にしなければならないのかいう問いかけを発信しているようにみえます…。障がい者はのぞんで障がいを持っているのではありませんから。


 

 いよいよ、今月もいちばん忙しくなってくる月末にむかってきました。
 前回でも書いたように、担当者が急逝してしまったため、今月はどうなるかな…とい気持ちのなかでの月末です。その仕事が分担されたようですが、さてうまくいくかなあ、という不安をかかえての一週間が始まります。

 最近、久しぶりに歯医者さんに通うようになりました。ながーい付き合いはまだ続いています。これも広島カープではありませんが、もう15年のお世話になっています。とうとう総入れ歯かと思いきや、今の技術はすごいですね。抜けそうな歯と健康な歯を接着してくれました。これで、丁寧にあつかえば半年は持つそうです。でも、半年後は…、どうなっているのでしょうか。

 歯医者さんいわく「○○さん、仕事で忙しでしょうが今年中に都合をつけて一週間のうち二度これる日をつくれるときにまた予約してください」とのこと。
 そういわれて、休みが取れていないなあ…、と思えました。一人職場になってからというもの、仕事がたまると休んではいられなくなります。片づけないとすぐたまってしまいます。まして、週刊の新聞と月刊誌の仕事が日々待っていますので休みもとれなくなったという現状です。ここまで「再雇用」がなぜするのか、と思えます。まして、賃金は現役のときよりさがっているのですから…。「同一労働同一賃金」などということは、「絵に描いた餅」状態が現実です。
 ちょっとは自分の体のことです。考えて行動しようと思いますね。

 やっぱり「仕事は個人では終わってはいない」ということをつくずく思えます。

 パラリンピックを見ていると、障がい者であれ目標がちゃんとしていればいろいろ工夫をして勝つために頑張れるんだな、と思えました。日々、安穏とくらしていることはある意味幸せなことかもしれません。
 でもそれだけでは知恵も工夫もうまれないんだよね。五体満足をフル活用して生きていることに恥ずかしささえ覚えます。そんな気がした週でもありました。

*****おまけ*****愚痴に付き合ってくれた人に***************おまけ*****




※久しく難聴ということもあって音楽からは遠ざかっていました。難聴になる前は、ウォークマンを持ち歩きながらよく聞いていましたが今は全然聴かなくなりました。ヘッドフォンが良くないということで遠ざけていました。以前、どこかの局のテレビドラマを見ていたら、いい曲が流れてきてもう一度聞きたくて買いました。
やっぱりよかったですよ。バラード風にできていて、日本語訳を読んでいたらこれもまたいいです。
こんな詩がかける人は、ななんとも若いソングライターでした。日本人のジャニーズもこんな歌をうたう人いないだろうか。機会があったら聴いてみてくださいな。(本当はこれじゃないとのこと)。でも、これもいい曲だと思います。歌手もボブ・ディランみたいでいいですね。

【レビュー】TOM ODELL『LONG WAY DOWN』
年明けのブリット・アワードで批評家賞を獲得し、注目されていた22歳のシンガー・ソングライターだが、初作を聴けばその評価も大いに納得。嘘偽りのない心情吐露の様がここまで鮮烈に感じられることはそうそうない。場合によっては独りよがりに思われかねない私的すぎる歌詞であっても、感情がメロディーと歌とピアノの音に直結していて、小細工することなくそれを伝えんとしているから、並外れた説得力が生まれるのだ。だから悲しみの表現も喜びの表現もその究極をいくこととなり、聴く側としては心掻きむしられたり昂揚したりと大変。ライヴそのままのような録音方法も大正解と言えよう。生命力と迫力に満ちた歌声を聴きながら、音楽の種類は違えどエミリー・サンデーに近いものを感じた。 bounce (C)内本順一



 今回も愚痴っぽい更新になりそうです。
 今週が終われば、ちょっとは息がつけそうに思えます。歯医者も山歩きもできそうでしょうか。ちなみにこんなことをいっている矢先に、19日(敬老の日)に出勤がはいっています。連休がはいると大変です。
 では、今週はこの辺で失礼します。少しずつ涼しくなってきました。食欲の秋です。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

台風のあとさきに…。

2016年09月04日 | Weblog

 こんにちは。
 朝晩とてもすずしくなったように感じます。夏も終わりのでしょうかね。
 多摩川の散歩道では、足元からバッタがたくさんはねています。鳥も群れをつくり始めました。ツクツクホウシが鳴きはじめました。台風後の川は濁ってもいます。そして台風も来ていました。

 今週関東から東北、北海道へ台風10号が通り過ぎていきました。この台風で東北地方などでは被害もでていました。死者・行方不明者などニュースで報じられていました。勢力がすしずつ弱くなるどころか、衰えをしらず通過した台風10号でした。自然の災害は人間にはどうやっても防ぎようがないことが身をもってわかる瞬間だと思いました。さらに、こわいと思ったのは、福島原発の放射能漏れが大量の雨水と一緒に流れ出しているのだろうと思うとこれは人災ではないかと思いました。
 防ぎようのない自然災害には、最小限の災害にする工夫も大事だな思う週でもありました。

 イタリアの地震といい、日本の地震や台風といい地球規模でなにかが起こっているようにも思えます。
 そんなことを思うと、日々の思いはいつの間にか「落ち込む」ことばかり考えてしましいます。
 それでも、時は過ぎていく中で少しでも昨日より明日…という流れのなかで楽しくなるようなことを考えて行動することが人にとっては大事なことなのでようね。
 リオ五輪の日本人の大活躍に、我を忘れて応援した時間も少しずつ薄い記憶のなってくるなかで、やはり大事なのは身近な友人だったり家族であったりと思えます。

 さてさて、何か楽しみはありますか。






 今週、これまで一緒に仕事をいていた人が夏休みの旅行先で突然亡くなってしまった。
 私よりもすこし年上の人でした。静かな人だった。
 毎月、月末の月刊誌の終わりはいつも、祝杯をあげたたように喜ぶ姿が思い出された。ニッコリと笑って帰っていく後ろ姿が印象的だった。
 ただ、救いは家族旅行の途中でったようで、家族のいるなかでのできごとだったときいている。

 身近な人がいなくなると、自分が働くところの灯りがひとつ消えたように思える。まして、他の場所でいたとはいえ、毎月、月刊誌の終了2週間ばかりとはいえ一緒に仕事をやった人だった。
 異動後、やっとその人なりの人柄をしった矢先の出来事だったので淋しいと思えた。

 とはいえ、仕事はまってくれない。
 抱えていた仕事の分担がはじまる。それぞれの負担が増える。
 そんななかで、その人の仕事のやり方が少しずつあきらかになっていく。なんとも丁寧にゆっくりさらに正確にやっていたことがわかる。私には同じようにまねはできないだろうと、思った。仕事のやりかたそのものが彼の人柄そのもののように思えた。どんな形であれ、働くことが生きているあかしになっているように思う。



 人の一生の終着地はどこでどうなるかわからない。
 そんなことを考えた週でもありました。自分の体は自分で管理するしかない、ということはわかっていても本当のところは自分にしかわからないとつくずく思えた。人の痛みはどれだけ言葉にしたところで本当のことはわからないのだろう。ただ、その痛みを少しでも和らげるのはいちばん近くの信頼できる人になると思う。
 家族であれ、知人であれそんな人がいるだろうか。

 身近にそれほど年のはなれていない人がいなくなってしまうということは、自分自身へのメッセージを残していくのだと思えた。そのメッセージを自分なりにかかえて、その時がくるまで生きていくしかないように思える。
 そして、今まで一緒に仕事ができたことにこころからお礼がいいたいと思った。
 ありがとうといいたい(合掌)。

 
 台風12号も近づいています。
 雨ばかりの一週間になるのでしょうか。気の重い日々が続きそうですね…。
 また月刊誌の忙しさが始まる2週間が始まる。彼と一緒にやった唯一の仕事でもあった。
 彼が残したものは何であったのか問いながらの日々がはじまりそうだ。

 とはいえ、現実の生活は「めんどうくさい」で始まり、どうにか終わらせる日々がくるのだろうと思える。それでも、仕事を進める人がまた大事になってくる日々がやってくるのだろう。
 とりあえず働いているのだから。
 そして、私がここにこうして働けれるのも誰かの協力がおおいにあってのことだから…。

 今週はちょっと疲れた一っ週間でもありました。
 
 また、落ち着いたら、山歩きにいこう。

 読んでくれた人、ありがとうございました。