こんにちは。
今週は雪も降り寒さがいよいよ本物になってきました。雪が少しでも降ると、混乱するのが都会の風物詩のようになってきて、雪の降った当日の通勤電車は満員状態でした。こんなときは、急がず、焦らず、ゆっくりと、と思って動きます。なぜなら、あわててけがをしたらばかばかしいです。とはいえ、実際は「雪のために遅れています。申し訳ありません」という無意味なアナウンスのなかを、電車のドアのところで押し合いへしあいやっと乗る始末です。
あいかわらず日本の通勤電車は、荷物を運んでいるような日々です。
さて、今月も終わりですね。
世の中はまあ、急ぎ足ですすんでいます。「年金制度改革法」が「環太平洋経済連携協定法(TPP)法案」に続いて「強行採決」でもめていました。25日、衆院厚生労働委員会で審議継続を野党が求める中「強行採決は行わない』と約束したなかで「私が述べたことを全く理解頂いていないようであれば、こんな議論は何時間やても同じですよ」との首相発言のなかで強行採決されました。なにを言っても無駄な様子があるような情景でした。現政権は解決策は「強行採決」しかしらないようです。
このままでは、何でもちょっと審議して、既成事実をつくって進んで行ってしあうような見切り発車状態の国会が続くそうです。強行採決する反対側には、野党、労働組合の弱体さがあることも忘れてはなりません。
いったい、今後がどうなっていくのでしょうか。
まさに「一強多弱」が「問答無用」状態でことが進んでいくありさまは「ファシズム」そのもののように見えてしまいます。
今月の「読書」は欧州を舞台にしたものになりました。
今月、「駆け付け警護」の任務をうけて自衛隊の一部が南スーダンに派遣されました。昨年、成立した「安全保障関連法」(これも強行採決)のなかの任務です。野党がいうように、これで一歩戦争への危険性が増えたということでしょうか。なぜ、こうも戦争の火種をつくりに行ってしまうのか? という気がします。そんななか、これまでの戦争のなかでどんなことがおきていたのか小説を通して読んでみたいう気になりました。
たとえば、第二次世界大戦のドイツ。その時代を経験したひとが一つ一つ丁寧に日常の生活の中から戦争に遭遇した経験を書いたものが今回紹介する、グードルン・パウゼヴァンクの本です。
とくに、ドイツではヒトラー政権による残虐極まりない戦争が繰り広げられた国です。終わってしまえば歴史の一ページに過ぎませんが、最も戦争の本質をもっているように思えます。
本を読んでいくと、ドイツではユダヤ人を迫害した差別が目をひきます。日本でも同じようなこと太平洋戦争のなかで朝鮮、中国などへ差別・迫害などがありました。これが、似ているようなところもあります。
政治家がすべてその戦争に加担したとは思いませんが、すくなくともその方向性を指示したことは重い責任であると思います。今回、日本でも南スーダンに派遣される自衛官が銃撃戦に巻き込まれ、戦争への加担して命を落としたらいったいどうするのだろうかと思います。稲田朋美防衛相が「すべてにことについての責任は、私にある」といいました。それを聞いたところでことは進んでいく危険があるということは事実です。
【内容】
ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次大戦。その終盤、間に合わせの訓練を受けただけで ロシア戦線に送り込まれた17歳のヨハンは、左手を失って故郷の山あいの村へ戻り、郵便配達人として働いている。
ある時は戦地の夫や息子、兄弟と彼らの帰りを待ちわびる家族をつなぎ、ある時は〈黒い手紙〉によって彼らの死を知らせるヨハン。臨月のおなかをかかえて夫を待つ妻、意気揚々と出征していった十代の息子を案じる母、総統が最終勝利をもたらしてくれると熱狂的に信じる娘。戦争に、ヒトラーに批判的な者もいる。ヨハンとおなじく傷病兵として帰郷した若者、ポーランドやウクライナからの強制労働者。そして、ヒトラー・ユーゲントのリーダーからSS隊員になった孫の戦死を受け入れられず、訪れてくるヨハンを孫オットーだと思い込むようになる老女……。
若いヨハンの誠実さ、温かさは人びとの心を開かせる。みながヨハンに不安、悲しみをあずけ、それをヨハンは受け止める。恋人イルメラとのつかの間の幸福、ドイツ降伏に続くささやかな平和。その後にヨハンを待っていたものは……。
自分の生きてきた時代が犯した過ちを正面からみつめ、戦後生まれの世代、21世紀に生まれた若い世代に向けて書きつづけてきたパウゼヴァングの最新作。(本紹介の抜粋)
■p17 生還するヨハンは相応の代償を払った。レニングラード近郊で手を失ったのだ。目の前が真っ黒になる直前、木にひっかかっている自分の手が見えた。白樺の枝が受け止めてくれたのだ。
■p27 戦争は、どれほどの愛を阻んだことだろう。しかし、そのような時代に大きくなっていくもの…それは不安だった。黒い手紙はいつ来るかわからなかった。それは家族を極度の恐怖に陥れた。戦争は慣れ親しんだものを破壊し、安全を食い破り希望を押し潰し、身体を痛めつけ、魂を歪める。ものごとの記憶を刻むという意志さえ奪い取ってしまう。
■p67 森林官舎のキーゼュッターさんとは逆に、アマンダおばさんは自分の息子を理解している。しかし、この不条理を、事実として受け入れようとはしない。
■p83 「誰だって、もう戦争はしたくない。だけど戦争は私たちが起こすんじゃない。上にいる誰かさんよ。死骸に群がるハゲタカみたいに、爪を立てて権力をつかみ取ろうとする~」
■p173 「手や命を捧げることを期待する国家にいったいどんな愛国心を持てばいいんだろうね」。
■p174 人間もこんなふうに生きられたらと思った。気の向くまま、好きなように動きまわる。戦争へなんか行かなくてもいい。したいことをする。休暇に行く。旅をして世界を見て回る。女の子と恋をする時間を持つ。
きないくさい、戦争の足音に気づいてしまう
日々の生活に「戦争」という言葉はついぞ見当たらないのが現状だろう。とくに、日本にあっては「戦争」という言葉は他国のことだという意識がたかいのではないかと思う。
それというのも「憲法」が今までどうにか武力をもって世界に行こうと一部の権力者たちの暴走をくいとめてきたからだろう。それには、それを守ろうとする者がちゃんといたからにほかならない。そして、それに賛成した人々の姿が、どうにか日々戦争という足跡をつくらせないようにしてからだろうと思える。
なによりも日本は戦争によって300万人以上という数字ある。実際にはそれ以上の人が確実に亡くなったという時代を経験してきた。広島、長崎では原爆の経験もあり、いやというほど戦争の傷ましさを経験してきた国でもある。
最近、この現実を忘れたかのように「武器」を使おうとしている動きが重みをましてきたように思える。今回の南スーダンへの派遣もどうなっていくのかわからない。「駈け付け警護」といいかにも人道的な命令でやることは、戦争そのもの現実ではないかのように説明がある。それでもやっていることは、武力での警護である。
そんななかで、それをくいとめる方法はといえば、結局武力という形になっていくのではないだろうか。それは、戦争そのもの形はなかったのかという反省を考えさせられる。
『片手の郵便配達人』の最後にヨハンが認知症のアバンダおばさんに自分の息子に間違えれてしまう。それが原因でヨハンも危うくなっていく…。やっと、戦争が終わったというのに、終わっても人々の生活にはいまだに戦争の悲惨な経験がまさに「戦争」という事実をつくっているように思える。
以前、詳細は忘れたが、どこかで「女は戦争が終わってから戦争だ」ということを聞いた記憶がある。戦争の影響は、兵士だけでなく、弱者により苦しい生活を強いていく状況だろうと思えてくる。
【内容】
「ナチス・ドイツ」の言葉からまず連想されるのは「ホロコースト」だろう。ユダヤ人を詰め込んだ移送列車や強制収容所……しかし、それは本書のどこにもはっきりとした姿をあらわさない。ここに描かれているのは、ドイツのどこにでもある町や村、そこに暮らす〈普通の〉人びとが全体主義の狂気にのみこまれていった、あるひとつの「時代」である。
両親や祖父母、おじおば、教師に隣人といった身近な人びとの言葉、行動、社会のありよう……当時の子どもたちが見たさまざまは、やわらかな心に楔のように打ち込まれ、戦後も消えることはなかった。彼らは、思い出したくない「あの時代」のことを言葉にしないまま、大人になった。やがて歳をとり、孫の世代の子どもたちが、ある日こんなふうに彼らに尋ねる。
〈ナチス時代、この村でなにがあったか話してくれる?〉
《「……なぜそんなことを聞くんだい?」
「学校でそのころのことを習ってるの」
「まったく教師ときたら! なにもあの時代でなくてもいいだろうに!」
「どうして? 私たちは自分の村の昔について知る権利があるわ」
「……ホルナウはこんな田舎だ。だから、ここの人はなにも知らなかったし、なにも見なかった。戦争になったことだけは気づいてたけどね」
「ここでもみんなハーケンクロイツの旗を掲げてたんでしょ? そんなホルナウの写真を見たことがあるもの。ユダヤ人迫害についてはみんなどう言ってたの?」》
〈あの時なにをしていたの? なぜなにもいわなかったの? 罪悪感はなかったの?〉
戦後60年という長い時間をへて、やっと重い口を開いて語られた20人の「あの日」。痛みは消えていない。その痛みをおして語る勇気を蓄えるには、それだけの時間が必要だったのかもしれない。その傷みは、作者パウゼヴァングも分かち持っている。
刷り込み教育をうけ、ナチス思想に傾倒した少女時代。敗戦と引き揚げ体験。本書に登場する、ヒトラー死亡のニュースを聞いて泣いた少女、数か月におよぶ引き揚げの途上で「人間素材的価値」によって分けられた支配者と被支配者からなる世界像をすこしずつ修正していった少女は、かつての作者自身の姿だ。そして戦後は「騙された」ことにたいする怒りから、しだいに「騙された」側の罪も問うようになる。長い時間をかけて――
この時代の証言者はまもなくいなくなる。だからこそ、ナチス時代の〈日常〉を、そして、その日常のすみずみまで浸透していた狂気からは大人も子どもも逃れるすべをもたなかったことを、いま伝えておかなければならない。その作者の思いが、どの物語にも満ち満ちている。
物語とはただのつくり話ではない。フィクションだからこそ伝えられる真実がある。内容の重さを伝えるのに十分な簡潔さ・強さを備えると同時に、もっとも読ませる力を備えた短篇というかたちをとって描かれた20の物語=文学的ドキュメンタリー。 (本紹介より抜粋)
戦争という事実をどう記憶に残していくのか。
戦後71年。日本の戦争はどう記憶に残っていくのだろうかと思う。歴史の教科書では、時代の先頭をいく人たちが歴史の名を残していくだろう。しかし、その時代の指導者の生活は、戦争の日々の傷ましさを経験していくということより、勝利のみを信じてすすむだけなのだろう。勝利を導くために、市井のひとはどんな生活や思いを経験ていたか…ということは「戦争はいいものじゃない」という現実があったのだろうと思う。
『そこに僕らは居合わせた』は、戦争がつくっていく日常の様子を描いていく。そこには、武器を持った兵士のすがたより、食糧や、鍋、皿、カップなどを利用して日々食べて会話をかわして生きていく姿である。戦争の足音が少しずつ聞こえてきた時代には、日々の暮らしが変化していく。その様子を描いている。その変化に暮らしずらさを感じていくが、戦争へ拘束されていくことに気がついていくが、後戻りできなくなっていく姿が日々を被うようになっていく。
この本は、些細な日々の生活に「疑問」を投かけることを説いているように思える。
【内容】
ヨーロッパ各国に連日大勢押し寄せる「難民」.一人ひとりの素顔,その苦悩や希望とは? 受け入れ側の論理や戸惑いは? ドイツを目指すアフガン人一家の逃避行に,一人の記者が寄り添い,世界的課題の実態と,背後に横たわる重い歴史に迫る.複雑で「遠い」問題が,すっとストレートに伝わってくる,第一級の同時進行レポート。(岩波書店紹介)より
■p7 日本からみれば「遠い世界の出来事」かもしれない難民・移民問題を現場から解き明かす手法が何とかないものかと知恵を絞ってひらめいたのは、欧州へと向かう一組の家族と行動を共にする同時進行ルポに挑戦することだった。
■p17 ~「難民」と「移民」という言葉について触れたい。難民や移民は、自分たちの国から出て、外国に移動する人たちという点では共通している。大きな違いは、移動するきっかけが「政治的な迫害」にあるかどうかだ。
難民を定義する基本となっているのが、一九五一年に締結された「難民の地位に関する条約」(難民条約)。「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に、迫害を受ける恐れがある」ことを条件としている。
~一方で、本当は外国で働くために出てきた「移民」と、見極めることは難しくなっている。
■p81 欧州各国では最近、押し寄せるイスラム教徒への警戒感を反映し、右派政党の躍進が目立つ。ただでさえ「反イスラム感情」が高まっているのに、テロ事件でさらに状況が悪化する可能性は極めて高い。
■p90 ポピュリスト(大衆迎合主義者)~自由党。「今、我が国はイスラム化の危機にある。移民を追い返すためのフェンスを国境に作るべきだ。経済的な豊かさを求めてやってくる移民より、まずは貧しいオーストリア人に手を差し伸べるときだ」
~「極右」というと「支持に広がりが限られている熱狂的な愛国者グループ」という先入観があったが、集会にはごくありふれた市民もかなり参加し、シュトラッヘ党首に喝采を送っていた。
■p118~119 同行取材の最終日ということで、ドイツで難民申請したアリさん一家の道のりをここで振り返っておきたい。アリさんは二〇一〇年、旧支配勢力タリバンと政府軍との戦いが続くアフガンからイランへ逃れた。そこでタヘリーさんと結婚し、フェレシェテちゃんが生まれた。トルコへ密出国した一家は、ゴムボートでギリシャ・レスポス島へ密航。その後、ギリシャ本土へと渡り、バルカン半島を陸路で北上した。イランを出てから、ドイツ南部メスシュテッテンにたどり着くまでに、約一か月半かかった。「安全なドイツに着いてほっとしています。一家で穏やかに暮らせるチャンスを与えてほしい」
安堵の表情を浮かべるアリさんは、欧州への旅に踏み切った理由をこう話している。
「イランから一家三人で、アフガンに戻ることを何度も考えた。でも、アフガンは危なくてとてもできなかった。だから欧州を目指したのです」
■p210 欧州で逆バネのように台頭する「移民排斥論」や極右政党の躍進を支持する人たちについても、単純に「極右非道」と切り捨てることができない。
人道主義や「ヒト、モノ、カネの移動の自由」を掲げて、一つの平和なヨーロッパを目指す欧州連合(EU)の統合理念は崇高なものだ。EUが、難民。移民問題だけで崩れ去ることもないだろう。加盟28か国、5億人以上の域内人口を超えて、「数の力」を前面に押し出すことこそが、国際社会でのしのぎを削るアメリカや中国、日本、ロシアと対抗する最高のカードだからだ。
「難民」はどうしてうまれてしまうのだろうか?
※「難民」と「亡命」ということばを思い出す。どうちがうのか。
2011年東北大震災のとき、よくきいた言葉が「帰宅難民」だった。ここでも「難民」ということばがひっきりなしにマスコミから流れていた。これは本当に「難民」なの? という疑問はあった。この「難民追跡」を読む限りでは「難民」に該当するほどでもない。つまり「難民」ではなく「被災者」ではないのかと思えた。とりあえず、交通がストップして交通網が断たれ、帰る手段がみつからない。それでも、時間はかかるが道さえ間違えなかければ、どうにか歩いて帰る家はある。いっぽう「難民」は帰るべき家さえもない。そして決定的に違うのは「難民」は政治的な武力衝突によって人為的につくられたたものだということだろう。だから、道をたどって帰っても命の保障さえないところに生活する安全もないということになる。同じ点は「難民」も「帰宅難民」も生きて安全で働き、生活することを求めていることだろう。
今後、「難民」はどこへむかうのだろうか。
武力で解決していく限り、減るどころか増える時代になっていくように見える。それは、結局、武力でしようとする方向であるからだ。まさに泥沼である。
それは、他国があまりにも干渉しすぎてきた国のあり方が考える機会なのかもしれない。自国の利益を考えた政治はいいが、他国に干渉しすぎた政治は難民をつくり出し原因になっているように思う。
『世界から戦争がなくならない本当の理由』(池上彰・祥伝社)には、イスラムの武力衝突のそもそもの原因は大国の軍事介入にあるということを思い出した。
※還暦にもなり、あと何年読書を続けられるかなあ…、と考えることがあります。
給料は下がる一方で、本は高くなるばかりです(物価も上がっているのだろう)。そんななかで、古本屋にでかけてめぼしい本があったりするとそれはうれいいのですが、それにしても本が高い。趣味だと思えば、適当にしているところです。最近の作家のものはあまり興味がありません。むしろ、歴史の中を今でも読み継がれている作家の作品が多くなってきました。長い歴史の中を耐えていまにあるのは、おそらく残っている「意味」があるからでしょう。その「意味」を自分なりに考えてみるのも楽しいことかもしれないからです。今でも、散歩の途中の図書館通いを続けていこうと思います。
師走が近づいていると、何となく気ぜわしくなってくる。
これが、特徴なのかもしれない。誰に追われる…、おそらく私は仕事に追われる一カ月になるように思う。
今の職場にきて2年目の師走。少しは、慣れたものの、今度は仕事相手の人たちが一人抜け、二人抜けと様変わりしている。その代わりにまた対応しなければならなくなると、ストレスもちがうところで生まれてくるのだろう。
今年は「再雇用」となって一年目。
確実に賃金が減ったことは痛い。つまりは、私の小遣いも減るということなのだ。「希望がゆきわたる国へ」という公明党のポスターのようにはいかないなあと思う(当の本人はウソでもなんでも「希望がある」と思って言っているのだからいいかもしれないだろうが暮らしはいいとは思わないのに)。しかし、この政党も地に落ちたというか、権力の番人になって「オカシク」なっているのか変わってしまったなあと思う。そもそも、宗教と政治というのがおかしい。オカシイと言えば、韓国の朴槿恵大統領の支持率が4%で、100万人単位のデモが起きている。これも、宗教家と関係しているという。
アメリカではTPP反対のトランプ氏が次期大統領に決まった。日本は強行したTPPはいったいどうなっていくのだろうか。安倍首相もアメリカを先行できるほどの政治家とは思えないしねえ。
来年は、いろいろなことを「どう受け止めるか」がとわれるだろうなあ。そして、どう動くか。
世の中がなかなか読めない時代になってきたように思う。
例えば、アメリカ大統領選挙のトランプ氏の勝利。直前までクリントンの優勢がニュースになっていたが蓋をあへたらトランプ氏が大差で勝利してしまった。イギリスではEU(欧州連合)離脱で反対派の勝利がいわれていたにもかかわらず離脱賛成派が勝ってしまった。どちらににも共通するのは「他国より自国の利」という理由だろう。正直なところ、自分のところが疲弊しているのになぜ他国を優遇うするのかということだろうと思う。
つまりは、時のリード役がことごとく不信感をもたれているということではないか。となると、誰がリード役になればいいのかである。イギリスもアメリカも二択からの一方が選ばれた結果となった。さらに、注意すべきことは、極右の進出がいわれている。この注目する選択の影にその部分を抱きかかえるように極右が増えていく状況もつくられていることは見逃すことのできない事実だろうと思う。
日本では与党の強行採決が行われる背景にやっぱり同じような極右的な動きがあるとめるような気がする。それが、最近よくいく「日本会議」だろう。ドサクサに紛れてその指導がいきわたったときがいちばん恐ろしい結果を生みさしはしないかと心配に思えるのだが…。
ことしのブログはいかがでしたか。いろいろと好き勝手なことばかり更新してきました。誤字脱字も読み返しみて多かったなあ、と思います。
なんとも日々追われてい一年が過ぎていくように思えた。
読んでくれた人、ありがとうございました。
*おまけ*
『自分の感受性くらい』【茨木のり子】
ばさばさに乾いてゆく心を
ひとのせいにするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
『自分の感受性くらい』【茨木のり子】
ばさばさに乾いてゆく心を
ひとのせいにするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ