日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

春を待ちつつ、2月終わる。

2019年02月24日 | Weblog


 こんにちは。
 寒い毎日が続いています。ときどき春を感じる温かさもあります。
 2月がおわりますか…。
 少しずつ日が長くなっていくようです。散歩をしていると自分の影の少しずつ短くなってきたようにもおもえます。この時期に思いあ出す言葉が「三寒四温」というこtでしょうか。雨が降りながら、北風が南風になっていくのを楽しみにしつつ日々を送っています。この時期「天気予報」に耳をかたむけると、なかなか信じられないほど当たらない予報が多い時期でもあるのではないのでしょうか。(傘をもっていたもののバスの中に忘れてきてしまった週でもありました。予報などあてにしなければ…と思えた日もありました)

 今週はインフルエンザ、学級閉鎖、合格・不合格、受験ということばをよく聞いたように思います。知人の息子さんが都立を受験するということを心配そうに話していたことが印象的でした。親心としては他人が何と言おうとも、不器用な子ほどかわいいものです。

 とんでもないのは、千葉県の高校受験で受験者に送付した合格・不合格通知が逆になっていたというニュースでした。これはないなーと思います。受験者に真逆の通知がくるわけですから驚きよりもあきれます。でも、それを公表したということは安堵しています。少子高齢化時代ですから、全部合格にしたら思います。おとなの責任が問われている2月でもありました。
 なんせ、今では国が公表するどころかウソの「勤労統計」を言いわけをつくりながら、うまくまるめこもうと国会審議がやられている最中ですから…。





 読書の中心となっているのはほとんどが通勤電車の中です。ですから、重くなくかさばらないことが第一条件というこよになってしまいます。「○○賞」といわれた本でも、出た時には買わないことがほとんどです。いずれ、文庫本になる時を待っているような日々です。
 とはいえ、本当は読みたのですが…。正直なところ経済的に無理というところです。最近の本はこずかいの1割ほどの値段のものが多いようです。図書館では、ブームということもあるのでしょうか、ほとんどが「予約待ち」の状態です。そのうち忘れられて、ちがう本を読んでいることが多い、というところが現実でしょうか。

 こんな日々のなかで、手元にとる一冊をどう選んでいるのでしょうか。
 今月読んでいた本はジャーナリストを主人公とした『ミッドナイトジャーナル』という本は、今年の新年の新聞を読んでいたら仕事で寄稿していただいている評論家からの紹介記事があったからでした。『矛盾社会序説』は、これも読んでいいる新聞のコラムで紹介されていたものでした。
 これまで、読んできた本はけっきょくは他人の影響が多いということに気づきます。そこには、少なからず、自分との意識が似たところがあるからでしょう。

 手元にとる一冊。読むまでにいろいろと理由があることにも気づきます。
 そんなおとを思いながらの日々です。



【内容】
『ミッドナイトジャーナル』では地方記者たちの幼女誘拐殺害事件で大誤報を出す。その結果、地方支局に飛ばされた辣腕記者の関口豪太郎。7年後、埼玉県東部で再び発生した幼女誘拐未遂事件で、犯人は二人という目撃証言から、7年前の事件との関連性を疑う。
当時、犯人は二人との情報を得ながら追求しなかった事への悔恨。もしあの時の一人がまた事件を起こしていたら――。豪太郎は当時の部下の記者たちと目撃者を探し、掴んだネタを夜回りで刑事にぶつける。そして一歩、一歩事実を探りあてていく。日々の起こる関連事件を追行ける新聞記者のすがたを描いた小説。(新潮文庫紹介抜粋より)

■取材とは、タネを撒くことからは始まる。タネを蒔き、何度も通って挨拶をし、雑談して苗に育てていくことで、ようやくネタになる。タネが芽を出すのも大変だが、実際は苗として育ててからの方が苦労することが多い(p155)

■優秀な刑事は皆おっかない顔をしているが、根は寂しがり屋だ。記者がびくつきながら近づくと怒鳴って追い返すくせに。遠慮なく懐に入りこんでいくと意外なほどあっさり受け入れてくれる。(p207)

■真実の多くが、誰かの都合によって隠され、捻じ曲げられているからさ。それらを一枚ずつひっぺ返して、真実まで辿り着く。そしてそれらを検証して、自分の言葉で記事にするのが俺たちの仕事じゃねえか。(p243)

■真実は真夜中に出てくるというのが親父の持論だったんだ。だから、毎晩家に帰って家族団らんで温かい飯を食っている人間にとくな記者はいないって…。まあ、これは取材にかこつけて取材相手と飲み歩いた親父の言い訳みたいなもんだけど。(p246)

■新聞記者に武器がるとしたら、それは書くことだ。取材相手にしてみたら教えても許可なしには書かない記者の方が安心して何でも話せるに違いない。(p276)

■携帯電話の動画カメラも、画像投稿サイトもなかった時代だ。人間がきちんと顔を出して語ることに、なによりも重みがあった。(p303)

■真実というのは常に闇の中にある。それを探して出すのが俺たちの仕事だ。(p310)

■私は新聞記者はまだ世の中に必要だろ思っています。ネットが出てきて、もはや新聞に速報の役割が消えたのは事実ですし、購読者も減っています。だけどどんなに伝達ツールが発達しても、現場に出向いて、自分の目と耳で確認する記者がいなかれば間違った情報も拡散されます。(p337)

■「書いて伝えるんですよね」(p470)



 この本を読んでいるときにも、日本中で凶悪犯の犯罪がどこかで誰かによって起こっているにことだ。そして、その報道記事で新聞に載せられるのだろう。それがあるときはスクープとなる。そのスクープによって記者の立つ位置も変わってくる。取材する側、される側との綱引きにとって、成果として私たちのまえに出てくる。

 「新聞なんて読まなくてもスマホやテレビでこと足りる」と思って毎日過ごしているのだろうか。たとえば就職試験での一般常識で出題される科目として「新聞」はあるようになっていないだろうか。試験が終われば、さようならということになってはいないだろうか。
 新聞は日々の様子を手軽に安価で読めるものなのに…と思っているのに残念だと思うことがある。それがいちばんよく分かるのは事件記事だと思う。昨日の事件をじっくりと読むことができるものだ。
 『ミッドナイトジャーナル』という小説は、新聞記者という仕事を通じて、その仕事をする人間模様を紹介している。
 取材を拒もうとする警察。それいかに聞き出すか新聞記者が事件を追いかける執念。その記事によって浮き沈む人間模様。
 「勤労統計不正」問題が話題をよんでいる中、審議の中でも真実をいかに知らせるか、ジャーナリストの活躍に頼るところは大きい。それは、私たちの生活をも考えることにもなる記事であるはずだと思う。権力の暴走を防ぐひとつの大事な仕事だ。隠そうとする側とその中身がどれだけの重要性があるかを提示する仕事でもある。本当のことを知らせることはニャーナリストの仕事。すぐそばにそのことが起きている。新聞を読むたびにこの本が思い出される本でもある。記事への執念のようなものを感じる。執念といえば、

 こちらは警察側から描いた小説『警察署長』〈上・下〉 (ハヤカワ文庫NV)という小説を思いだしました。「1920年冬、ジョージア州の田舎町デラノの郊外で若者の全裸死体が発見される。初代警察署長ウィル・ヘンリー・リーは、秘密結社K・K・Kの犯行と見て捜査を開始する。だが、検視の結果判明したのは、死体が警察関係者の手によって尋問された形跡があるという事実だった。一体、犯人は何者なのか?調査の末、やがて意外な人物が浮かびあがるが、そのときウィル・ヘンリーを思わぬ事件が襲った!南部の小都市を舞台に、40数年に及ぶ殺人事件を多彩な登場人物を配して描く大河警察小説。アメリカ探偵作家クラブ最優秀新人賞受賞作」
 という内容の小説だった。こちらは、警察官の執念だ。

 シリアで現地武装勢力に拘束されていたジャーナリスト安田純平さん。その解放後の活動がどうなっていくのだろうかと思う。とはいえ、わざわざ危険な紛争地域に命がけでその様子を伝えることの大切さをつくずく考えさせられる一冊でした。



■なぜいいままでの出来事では「電通新卒女性社員自殺事件」ほどには社会的衝撃が与えられなかったのだろう。あまり過酷なことだが、それはきっと「かわいくなかった」からだ。もちろん単に外見的なことで「かわいくなかった」といっているのではない。過労死していった有象無象の人びとは、さきの一件ほど…(p18)

■しかしながら、私たちは(仮にそれが差別あるいは差別的な意味を含んでいることがわかっていたとしても)往々にして、人を外見で判断するような社会生活を営んできてしまっている。むしろ、社会そのものが外見的判断を前提として構築されているのである(p64)

■刺青を入れた人を公共の場や浴場から排除する際の論理として「容姿で差別してはならない。だが自分でそのリスクがあることを知ったうえで(つまり自己責任が選択のうえで)不利益を引きうけた場合、それは差別にあたらない」といった言明はしばしば用いられる(p68)

■人は誰でも自分自身の幸せを考えて暮らしている。そのことが悪いわけでは決してない。ましてや誰かと一緒に暮らしたり結婚したりすることで、不幸になりたいと考える人などはいないはずだ。ささやかな願いをかなえるためには、彼らのような存在は必要な犠牲なのだ(p112)

■…特徴的であるのは「傷ついているのは当人ではなく、傷つくかもしれない誰かを想定・仮定して、その表現を過度にバッシングする人びと」存在である(p116)

■偽りの「真実」が生じるとき、すでにその社会では虚構が広がるのに有利な条件が整っているのである。不安なときこそ、ただしい判断を……2011年以降繰り返されてきた正論だけが虚しく響き、今日もデマは真実に勝利している(p134)

■…「安物買いの銭失い」をする人びとがいなければ「ただしい情報」それ自体が価値を持つことがないということは留意するべきだろう。「無知な大衆」がたくさんの無駄金を消費してくれるからこそ、彼らエリートたちはスマートに資産を貯えることができるのだ。

■無縁社会を自ら選んで生きる人びとは、「絆が持つ排除の力」が存在しなければ、あえて故郷を離れ「自由で無関心な街」に集まることではなかったであろう人びとなのだ(p177)

■不況によって、そこから生じた社会の歪みや矛盾を、社会の「自浄作用」であるかのように再定義するのだ。言い換えれば不況とはある種の「審判」であり、そこで淘汰されなかったものが「ただしい行いをした者」であり、脱落してしまった人々とは「本来報いを受けるべき人びと」としてとらえられる(p153)



 生きていれば社会の多くの出来事の誘惑でつくられている。それが、「矛盾」を多く抱えているなかで起きていることに気づかされる。「過労死」問題。なぜ大手企業の女性が取り上げらるのか、もっと探せばいっぱいある。確かにその後の過労死事件が出てきた。氷山の一角としての多くの社会の矛盾をかかえながら暮らしていることを考えさせられる。それを「自由」だと思うのか、それとも「不自由」と思うのか本人の気持ち次第と…いうのが今の世の中。

 そしてわかったことは、けっきょく世の中は富裕層のためにうまく流れるようになっているということ。それが事実に世の中には「成功話し」は「失敗話」より多く語り継がれて読者もその方向に誘導されている。いわゆる「勝ち組」ということなのだろう。権力も同じ方向に向きつつ動いている。「毎月統計」でも貧乏人はより低賃金になるようなっていることがわかってきた。それも虚偽作成によってである。これが世の中に出中れば一生知らされないまま終わって「こんなものだよ…」と思うだけなのだろう。時代に押し流されつついる中、立ち止まって考えてみたら、どうなっているのか? といことを紹介している本。

 そんなことを思いながら読んだ一冊。



■…撮影するときに相手とのコミュニケーションをしっかりととることが重要です。カメラを向ける前に、ひとこと声をかけてもいいし、目を合わせて会釈をするだけでも、印象は大きく変わります。相手が「撮ってもいいよ」という気分になってくれれば、公表後にトラブルが起こる心配も少なくなるものです。(p56/旅行先の朝市の写真)

■あなたが撮った写真であっても、キャラクターを撮影すると、その著作権が写真におよんでしまうため、あなたの判断だけで公表することはできません。ブログで掲載するのであれば、テーマパークに確認する必要があります。(p74/テーマパークのキャラクターをブログ掲載にあたって)

■ママ友の集まりの写真をSNSに投稿すると、写っているママが了解していれば何も問題ありません。子どもの写真も、その保護者であるママがOKしていれば同じです。(p80/ママ友の集まりでの写真)



 写真を撮るのに大事なこと。
 「撮られる側の身になって」ということかもしれない。そこには、法律(著作権)がはいるようようになるとなおさらだろう。いつでも、どこでも簡単にスマホで撮れる世の中になっている。そんな簡単だからこそ気をつけなければならないことが多くあると思う。
 簡単なものは「何かが抜け落ちている」ことが多いと思ったほうがいい。その抜け落ちた部分を了解できる範囲で撮ることが大事ではないかと思う。他人の一部を切るとる作業である写真であるからなおさら、取る側は気をつかう必要があるのだろうか。

 ちなみにぼくが好きな写真は大勢写ったスナップが好きです。
 人の動きや様子は、時代を象徴している一部分だと思います。むかし、アイドルの髪型がはやれば、見わたせば同じものを多くみました。自分をどれだけ気持ちよくさせてくれたのか…ということでしょうか。そんな人々の写真もいいです。




【バスを待つあいだ…「想定外」を思う】
 バス通勤って「想定外」だったです。「想定外」というと、すべては2011年3月11日変わってしまっようです。千代田区にあった会社が地震によってヒビが入り、ビルの耐震性が問題になりました。そして、これ以上ここにいると危険ということもあって板橋(荒川がすぐ近くに流れる)に引っ越すことになったのでした。
 あれから8年目。まだバス通勤は続く。バスはほ常時2~5分の遅れは当たり前で付き合うしかないことを痛感した(最近は電車も同じようですが)。

 停留所でバスを待っている間、バス停の周りの景色がかわっていくのを見てきました。雪でもふれば10分ほどで距離を1時間もに乗っていたこともあった。あるいは、20分くらい歩いて行く日々もあった。いずれにせよ、不便になったことには変わらない。冬のバス停は毎日暗い中で待つことになった。そんな夕方、夜空を見わたすとコウモリが飛んでいることある。「まだ、いるんだ」と感心してしまう。夏には街路地に蝶も飛んでいる。そんな自然のなかにあ停留所の利点はそんなところにあるのかもしれない。季節の移り変わりを感じながら今も停留所でバスを待つ毎日が続く。
 「不便」なのはバス通勤になるということになったときから感じていたことだろう。それでも、春夏秋冬を見るにつけ「仕方がない」と思うようになった。それでも、残業が減り、賃金も減っていいこともないと…と感じている。

 忙しさが「美」のように感じていた千代田区時代。自分を忘れて日々仕事に集中していいものを…つくっていたのでしょう。老いて思うことはそれは忙しさがいやなことを忘れる時間であったかもしれない。仕事に没頭すればとりあえず、いやな現実を忘れていられるからだろう。バス停で待つあいだ、2011年の3月11日の大震災が思い出される。時間がとまったような夜空を見上げては日々の移り変わりをぼーと眺めてはそんなことを思う停留場で立っている日々がまだ続きそうだ。

 最近、福島第一原発事故で避難している人たちへが起こした裁判の判決が話題をよんだ。
 判決には、東電や国に賠償命令が出たということだった。まだまだ終わっていないんだとつくずく思う。



 2月もおわり。月末の忙しさもひと段落した。
 これからは少しずつ温かくなっていくのを待つしかないように思う。それと同時に花粉症の季節でもあります。今年の花粉はどんなあんばいなのでしょうかね。

 今日、沖縄県で辺野古新基地の県民投票が実施される。沖縄の民意が示される日でもあるのだろう。それにしても、これほど強行に工事をすすめる理由はあまり知らない。ひどすぎるくらいの「民意無視」の政治が続いていることがわかるようだ。

 今日の朝日新聞『日曜に想う』におもしろい記事があった。
 今の「人手出不足」ということがいわれているが、本当は「国民不足」ではないかという記事だった。政府は「入管法改正」までした理由を労働力不足をあげていた。さらには、過日、自民党大会での「自衛隊の新規募集」が少ないことに問題視していた発言もあったほどだ。
 仕事があっても働き手がない時代に自衛官までの募集は無理だろうと思う。とくに土木工事関係者の働き手は外国人の労働は欠かせない実態をみればわかるだろうに。
 本当の「人手不足」の原因は働いている人たちが安心して子どもを育て上げられ、老後も暮らせる社会になっていなのが一番の原因ということをはぐらかしているようになっている。
 これでは、根本から軌道がちがうようなもので、いつになっても「人手不足」は解決できるわけはないだろうと思う。まして、自衛隊にはいるための人口はできない…になっているのは当然なことなかもしれない。



今月はこれで終わりです。
 ながーくなってしまったようです。まあ、ほとんどが「愚痴」みたいないなってしまっていますが…。
 今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました

インフルエンザはどこから…

2019年02月17日 | Weblog

 こんにちは。
 まだまだ…(毎週ですが)寒むさが続いています。むしろ、これまでの寒さより強く、冷たく厳しく感じる日々です。花粉症もでてきました。電車通勤ではマスクは必須アイテムとなってきました。ぼくは、帽子とマスクをつねにつけている日々になってきました。インフルエンザもどくふ風と思っていたら自分の職場から、あるいは出向先でも休みをとる人がを見ることも多くなってきたようです。考えてみれば、会社の自転車通勤者よりも電車やバスを使っている人のほうが患っていることに気づきます。ウィルスは人が多いところほど伝染するようです。実際は、避けることできないのです。この時期はできるだけ人の多いところは避けて生活するこ工夫できればいいのですがね。

 さて今週は、水泳選手の池江璃花子さんが白血病だとニュースがありました。来年の五輪を考えれば第一候補だろうと思っていた人も多かったでしょう。スポーツは健康な体からということを改めて考えてしまいました。ここは、治療に専念するしかないようです。まだ若いということも大切なことです。
 それにしても、児童虐待のニュースも多い週でもありました。
 いま、子どもと老人など弱者が住みにくい社会になっているんだなあーと思います。どうしてこんなにも子どもを虐待する社会になってしまったのか…。子どもが子どもをイジメ、大人が子どもを虐待している世の中なんて「子どもは産みたくない」ということもあるのではないのでしょうか。さらには、女性への暴力へと…。
 よくよく見れば、今の国会もそんなようすに見えます。例えば沖縄の辺野古埋め立てなどは県民がいくら反対の意思を表示しても強行に実施していく姿勢などに見えるように思えます。




【毎年登場…いつしか大事な思い出の中に女性は今もきびしい。お雛さまも泣いているのでは…】
 ことしも3月が近づくいまごろ、「一年間のご無沙汰」のお雛様が登場します。このお雛様もう三十数年、毎年見ています。初登場のときはぼくも若くて働きざかりでした。工場もアナログで多くの社員がいました。スマホもない時代。
 多くいればいろいろな人もいるということで、趣味のクラブも社内にありました。釣りクラブやスキークラブ、野球部などもありました。所属する健保でも多くのクラブを応援していて、とくに野球は春から夏にかけて「健康増進」ということで大会もありました。家族で大会を見に行ったりしました。保養所もたくさん契約してしていて安く宿泊できることでよく利用してもいました。あれから三十数年…。世の中不景気で(首相は好景気といっていますが)多くの会社がクラブなどが解散に追い込まれた時代です。保養所の契約もなくなり、野球大会もなくなっていました。

 はっきり言って、ぼくの若い時代はよかった(老人のいう「昔はよかった」ではなく)ように思います。給料は安かったことには変わりはなかったですが…。
 なんにつけ、人間関係がよかったように思います。少なくとも今のような黙っているのが「美学」みたいな時代ではなかったように思います。みんなで、言いたいことは言って、ケンカも反省もありました。それでも「働けばどうにかなる…」とい気持ちが安定していました。忙しさもありましたが、働くことが「一人過労死」のようなものをつくらない状況もできていたようです。労働組合も組合員の意見を代弁できていました。支え合っていける環境がありました。「即戦力」はだれもいませんでした。技術や知識は先輩から教えてもらいました。

 おそらくぼくの知らないところで多くの問題があったのかもしれません。それでも、今のような職場が暗くなかったですが…ね。こんなに格差がなかったのではなかった時代。便利ではなかった時代、たよりは機械ではなく人だったように思います。今もそれは変わらないはずなのですが、どこへ行ってしまったのでしょうか。

 三十数年目のお雛さまを見ると女性はいまも実態は変わっていないのではないのでしょうか。いろいろと法律はできてもそれを利用するのは本人ではなく企業の都合によってではないのかという現実です。法律を利用する人、それを理解して支える人がいて活きてくるのではないのでしょうか。「女性機会均等法」から「男女共同参画」などと言われても、その時を繕うようなことではないはずです。
※今週「駅」は降りた「記憶の駅」がありませんでした。お休みします。




 新聞を読んでいたら〈非正職賞与なし「不合理」〉(大阪高裁判決)がありました。内容は、《「正社員と非正職員の待遇差が労働契約法の禁じる『不合理な格差』にたるかが争われた訴訟の控訴審判決で、大阪高裁(江口とし子裁判長)は15日、非正職員にも賞与を支給すべきだとする判決を示した。最高裁は昨年6月、正社員と非正職員の手当の待遇差を「不合理」と初めて判断したが、弁護団は「賞与の支払いを認めたのは画期的だ」としている。》(朝日16日)

 なるほど…。いつもぼくも思っていたことがこうも当たり前のように判決で出たことはうれしくなります。(再雇用となっていいとこもないなかで)なんとも不合理で理不尽な会社という世界。そんなことを考えるにつけ、「当たり前のことを当たり前に…」ということが気になっていました。

 以前に「同一労働同一賃金」ということで大手運送会社の再雇用者が賃金の差額を求める判決がでたように思う。「65歳の年金満額支給までの間の雇用で同じ仕事で差額はおかしい」ということでの裁判を起こしたことを思いだした。
 ぼくも「定年すぎて10時過ぎの残業はないよー」と考えながら帰る時があるなかで「せめて賞与くらいは出してほしい」と思っていました。そんな中で画期的な判決でした。今後、控訴などしたりしてどう変わっていくのかはわかりませんが注目度の高い記事でした。

 とはいえ、こういう定年後の人に対する問題は無関心が多いような気がします。誰しも年をとるのであれば、いずれ該当者になっていくことは知っているのでしょう。それでも、現役の人にとっては「余計なことに首を突っ込みたくないかなー」とも考えます。なぜなら、自分らのことで精一杯なのかもしれません。
 それでも、医療費はかかるし、物価は上がるし、消費税も10パーセントとくれば必要な課題ではないかと思いますがー。



 案のじょう、今週は月刊誌の仕事が忙しさをつくっていました。さらに、編集者のインフルエンザは困った事態が起こしていました。担当筆者との調整がうまくいかず…、仕事が後手後手にまわった結果、ぼくの方もそれに輪をかけて後手にまわっていました。もうちょっとですが、来週明けからまたその続きが始まると気持ちが思うと重くなりますね。



 風さえなければ少しは温かさを感じることができるようになってきました。
 北風が南風になるのも、もう少しのしんぼうかもしれません。春を待ちつつ野外へ出かける楽しみも見つけるようにしたいものです。
 とはいえ、まだまだですかね。

 さて、来週はどんなことが待っているのでしょうか。
 来週が終わればひと息入れられそうです。1ヵ月の一度の山歩きに休みをとって行ければと思案中です。まだ、山は寒いのだろうけれど冬の山道は、運がよければ雪が積もっていたりして歩きやすいこともあります。そして空気も澄んで静かですよ。あとは天気でしょうか。
 最近、散歩をしていて空を見上げることが多いようです。上にはけっこう楽しい建築物をみているこのごろです。東京ってところは高い住居が多いですね。坂道も多いことに気がつきます。高い建築物で地震でも起きたら大変でしょが、そのときはもう終わりでしょうか(ぼくのところも同じですが…)。無理して生きながらいでもというあきらめのもあります。仕方ないでしょうか。あと何年かね、と思うことがあります。「老い」ってのは仕方がありません。老いて何をするか未だ思案中ってところでしょうか。

 それまで一日、楽しく送れるようにしたい年齢ですわ。

 では、今週このへんで失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました


 

積雪に足が重くなる時期ですが…

2019年02月10日 | Weblog


 こんにちは。
 まだまだ寒い日々が続いています。週末、東京も積雪になるとの予報もでていました。関東地補遺が雪になると交通網はみだれ、帰りの交通事情が気になり仕事も地についていないようになるようです。以前、昼ごろから降り出した雪が帰るごろ交通が乱れては「運休」という路線が多くでた年がありました。仕事が遅くなればなるごど動かなかくなります。急きょ、駅前のビジネスホテルを予約したことがあります。ところが、どこも雪の交通事情を予想してか満室なことが多いようです。この日、仕事が意外と早く終わって帰れました。
 とことん東京は雪に関しては弱い地域だと痛感した記憶がありました。

 さて、今週は寒さはあいかわらずです。ますます、着ぶくれの電車のなかです。座るときでもまずは、先に座っている人の洋服の具合が見て…となるこのごろです。
 「統計不正問題」は引き続き審議されていました。いったいこの国は、どこまで国民をだまし続けるのだろうと思えてきてしまいます。それも、政府の都合によってです。
 さらに、弱者への暴力がますますエスカレートしているようなニュースが多いのに気がつきます。家庭でも職場でも…、さらに国でも弱者への「同調圧力」のような空気が濃くなっているような日々でもありました。

 梅が満開でした。こんなとき自然はウソをつかない…と思える瞬間でもありました。散歩のとき青空にむかって花を咲かせているのを見るとホッとしますね。
 



総務省が8日発表した2018年の家計調査によると、2人以上の世帯が使ったお金は月平均28万7315円だった。物価変動の影響を除いた実質で、前年度より0.4%減だった。勤労世帯の実収入も実質で4年ぶりに減少に転じた。賃金が延び悩む中、節約志向が鮮明になっている。(朝日/9日)

 最近の統計不正問題があってから「経済成長が伸びている…」という言葉が「本当か」という気がしてくるようになりつつある日々です。安倍首相が一人そう思うのは自由だが実質的に数字が語る重さが現実なようです。それだけ、「統計」の大切さがわかるような気がします。
 その上で、実際に自分の生活を見渡せばわかることだと思います。自分が働いて給料を得て、余裕のある生活は送れていません。その結果、暮らしの中から減らす費用が出てくるのです。貯蓄したり、レジャーをしたりなどということは「どこの世界の話」というのが実際のところでしょうか。

 春闘がはじまりました。今年は「何パーセント」の賃上げを目指すのでしょうか。
 再雇用者となって「春闘」などは、どこふく風…という日々になってきたようになってきました。とはいえ、この時期に労働組合のアピールをしていかないとますます賃上げどころか、組合自体が存亡の危機になってきます。物価指数とのバランスを考えれば昨年以上の賃上げ要求が大事なことでしょう。企業の商品値上げは2ケタも当然のようになっている異常な世の中です。さらに紙の値上げも続いています。このままでは、企業の利益と働く人の賃金の格差がますます広がる一方です。ということは、モチベーションもあがらないということになります。
 企業の利益を労働者に還元できない理由は正直なところ「経済成長」はないものと同じということでしょう。春闘はその辺も明白にしてバランスのとれたものにしてほしいものです。

 4月から昨年成立した「働き方改革法案」が施行されます。実際はどうなっているのか見えません。誰のための法律か、そのうちあきらかなってくるでしょう。


パンプスに一石を投じたのはグラビア女優でフリーの石川優美さん(32)。18歳で芸能活動を始め、写真集やDVDを多数リリース。#MeTooに刺激を受け、1年ほど前に自身のセクハラ被害をブログで告白、注目を集めた。石川さんは1月24日に…<ヒールやパンプスを履かなきゃいけないという風習をなくしたいと思っているの。なんで足怪我しながら仕事をしないといけないんだろう>。かかとの高いパンプスの着用は窓口業務や接待業でルールとする職場があり、一般事務職でも身だしなみやマナーとして求められることが多い。だが、足に合うものを探すのが難しく、歩きにくい上、足腰に痛みが出ることもあり、転倒の危険性もある。(毎日/7日)

 靴が合わないとつらいです。以前、気にいったローハーを求めたときのことです。ながい時間履いていると足が痛くなるだけでなく頭もいたくなった経験があります。どこか問題があったのでしょうか。実際の仕事で着用する靴が合わないと仕事どころではありまん。
 仕事上それにあった靴をというのであれば、工事現場とおなじで安全靴をはくのが労働安全法というもので決まっているのだろう考えます(実際は事故が起きてからわかることがいいうようですが…)。さらに、仕事であつかうのすから仕事がやり安いような靴を求めるのは当然だと思います。仕事ではいちばん着用しているものでありますから、安心して仕事がやりやすいものがいちばんでしょう。足を怪我してまで働く理不尽さをなくために法律もあるのだと思います。仕事ではきずらいものなら、はきやすいものを会社につくってもらえばいいのではないのでしょうかね。まして、怪我までするのであれば(仕事がやりずらいことで)、「指定された靴を着用してくさいという」ことをいいながら改善しない会社の怠慢ではないかと思います。

 とはいえ、靴はだいじな生活に密着したものです。仕事で使用することを考えれば個人というよりその会社は働く人への誠意をもって相談にのるべきだと思いなす。それを、強引にすれば「命令」であり、問題です。上司は「命令」することを「やりがい」だと勘違いしている人もいます。それでも、会社に自分のことを言っていくのは勇気にいることかもしれませんが、生活まで脅かすほどのけがになるよりはいいのではないかと思います。
 原則では仕事がいちばんしやすい工夫をするのも会社の責任ではないかと思います。他人の見た目より、自分がいちばん仕事や生活がやりやすいものをと思います。
 それ以上の難しいことは、わかりませんけれど…。




 
【駅がかわれば人もかわる?…変わるチャンス?】
 あと2カ月もすれば小金井公園の桜が満開になるでしょうか。
 40年ほど前に知人と花見にいった思い出がある駅です。公園いっぱいに花見の人たちで満員でした。公園内にある野球場で練習試合もやっていたような思い出があります。思えば、会社のあった千代田区から小金井までの移動は大変だと思えましたが…。いま、こんな近くに住むようになるとは思ってもいませんでした。

 以前、会社の上司が近所に住んでいたので誘われては同僚と一緒に飲み会もありました。ぼくも30~40代であったからでしょうか、仕事の話ばかりしていました。そのうちに上司も気に入ってくれて「〇〇部長をやってみないか」ということを言われた駅でもあります。そのときは「ぼくなんか駄目でしょう!」と断っていました。考えてみればあのとき受諾していれば、今が変わったのかもしれませんねー。それでも、これまで定年まで思うように働けたのはあのとき「断ったからな?」と考えることもあります。人生なにがあるかわかりませんね。
 その後、あの時一緒に飲んでいた同僚が部長になり、定年前に辞めてしまいました。今何をしているやら「消息不明」です。そして、ぼくは今でも「再雇用」という形で働いているわけですから。さらに、ぼくに昇進をすすめてくれた上司も定年で辞めていきました。あの時代、一緒にこの駅の周辺で、野球や飲み会をやった人は誰もいなくなりました。

 駅がこんな立派に変わっていくのも見るにつけ、あの時代から変わらない自分と比較して考えてしまう駅です。駅や地域が変わっていく様子を見るにつけ「ぼくはどう変わったのだろうか…?」と思う景色になっています。そんなことを思いださせる駅でもあります。
 日々ビルは建ち並び、上へ上へ…と伸びていくのを見るにつれ「駅が変わる」ことが人も物もまきこんで進んでいくスピードが恐ろしくもあります。
 桜の町でもあり、ピンク色の似あう町です。



 何年かに一度どこの会社も「〇ヶ年事業計画」なるもが出てきます。その計画にそって、会社が運営されていきます。従業員にはあまりなじみのあるものではないでしょうか。知らないという人もいるのでしょうか。それでも、通常は「〇〇計画」を立てそれに向けて、紆余曲折、試行錯誤をしながら計画にそうように運営されていくのでしょうか。ぼくの会社の風土でもあるのでしょうか、ぼくみたいな再雇用や正社員も集めて「説明会」がもたれます。これはいいことですが…。
 その内容は、それぞれの会社によって違います。(もちろん内容はここでは書けませんがそんな時期でもあるということです。)

 ぼくの気になることは昨年、強行成立した「働き方改革」ということです。これはぼくがいちばん身近に感じているからでからでしょうか。ますます、労働力不足ということがいわれています。とくに現業で技術職などはパソコンのソフトは年々更新できますが、人の更新は簡単にはいきません。そんなことを思うときどれだけ、高齢者(今後ますます増えるであろう)とどう関係をもっていくのだろうかとか、正規社員はどう関わりをもっていくのだろうかなどがあります。昨年、「再雇用でも過労死」という記事がありました。それほどに高齢者を働かせる職場もあるのです。さらには「同一労働・同一賃金」などです。

 そう思いませんか。ご同輩の方。



 3連休の最後の日、都心では雪が降り始めている様子をテレビでみていました。
 困った…と思のがまず最初。雪は日常では考えれないことになっていることに気が…つきます。それは、昔ほど都心では雪との関係が上手ではない人々がいるからでしょうか。不便になることへの危機感でしょうか。そして余裕がないせいでしょうか。
 
 雪の日には超満員の電車が浮びます。それだけでも憂うつな日々が浮ぶからでしょうか。
 少しずつ、雪、仕事、理不尽、調整…と頭のなかで整理していきます。その中で今いちばん大事な順番を脳が整理するのでしょう。それが一つでも減らせる日々があるといいと思います。さーあー、どうなることか。月刊誌も明日あたり「どっかーん!!」と原稿がくるのでしょうか。いやだよー、とまず浮かびます。



 いやな雪を楽しく思える考えを一つひとつ創らないと重い日々になります。雪の中の足跡とか、雪に覆われた森とか、足あとひとつない山を歩きたいとか…ねえ。
 それでもバスは遅れる、電車は超満員とかを消し去るほどのものはあるのだろうか。雪合戦をやりたいですねー。その人数を集まるほどの人間関係がありますか…。都会では自由だと思うほどいいところじゃないと思います。おせっかいも大事なことを思います。
 では、滑ってころばないように注意していきましょうか。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

2月にはいりました。

2019年02月03日 | Weblog


 こんにちは。
 はやいものでもう2月になってしまいました。1月がどんな月だったかと振り返る時間もなく突入したような月です。もうすでに、「平成最後の…」ということなど忘れているように思います。まるで、他人のことのようになっています。例えば、「節分」「バレンタインデー」とか、まるで利益誘導型の商売用語のような言葉がまた多く聞こえるようなってきました。そのたびに、季節も寒いの中、懐の寒いのにはみがまえる日々です。さらにインフルエンザです。乾燥がつづく日々です。なにかしっとりした温かい日々が待ちどおしい日々でもあります。今日も霜柱を踏みつつ散歩がする休日でした。

 さて今週は。
 先週は、全豪オープンで大坂なおみ選手の活躍があまりにも素晴らしかったですね。スポーツ選手の活躍は感動的。
 そして、今週はサッカーアジア大会での日本代表の決勝進出にワクワクしていました。決勝戦はカタール。どう考えてもこれまでのからいけば…勝てるかなとテレビ観戦をし始めたら、前半にカタールの見事がゴールが2回も決まり驚きました。「あーあ、これは負けるな」と思いきや不良応援団らしく眠っていました。翌日結果をみたら3対1で負けていました。(残念…)

 ところでカタールは次回のサッカーワールドカップの開催国です。これで力が入っていたのかと思いました。どおりで強いわけですよね。以前、日韓サッカーワールドカップのときも、日本と韓国は強かったことを思いだしました。韓国はベスト4までいった大会でしょうか。どこも同じで開催国はそれなりに、力をつけているようです。それも国をあげて育成プログラム云々…とくれば強くなりわけです。カタールの2得点がまりにも衝撃的なゴールだったので忘れそうにありません。この日のディフェンスは眠っていたのでしょうか。まだ、練習不足でしょうか…。
 得点力があがれば守備力がうまくいかず、バランスのとれたチームづくりは難しいものですね。これから、ワールドカップ予選が始まることでしょう。どんな反省点があって、ワールドカップへむけて修正していくのか楽しみでもあります。

…〇… …〇…  …〇……〇…  …〇……〇…  …〇…
 
 そして国会が始まりました。ウソで固めつつある雪だるまのような日々の討論です。
 はじまるやいなやです。今度は厚生省の「毎月勤労統計」がずすんなやり方であったことが指摘されていました。「勤労統計」というのは、その数字を基にして各企業が今後の指標をたてたり、賃金をきける大事な統計なのでしょう。それが、違っていたのでは、会社の賃金も低くなってしまうこともありようです。新聞報道でいう「偽装成果」になってしまうこともあります。ということは安倍首相の「アベノミクス」という経済成果も偽装という話にもなってしまうように思えます。それを受けて国会答弁でも賃金の伸び率を「アベノミクス成果」という豪語してきた首相も「強調したことはない…」と言い始めてもいました。

 またしても、だまされているような国会がはじまりました。昨年は「森友加計問題」で首相が関係ないような言動が多かったことを思いだしました。「ウソばかり」という印象が残っています。ウソが雪だるま式になっていくような日本が今後どうなっていくのか、ちょっと不安です。そういえば年金の個人データ問題ももありました。
 政治はもう、権力者がいかにうそを本当のように見せようと偽装するかがテーマのようにも見え始めているように思えます。困ったことです。もう、権力者は民目線がなくなりつつあるような気もします。
 選挙のときぐらいしか政治家のがんばりが見えなくなっていくような気がします。野党の役割も大きくなってきました。民意をつくるべき野党の奮闘がいちばん期待される1年でもあるようなーと思います。国の基本を決めていくのは誰が誰のためにやっていくのかが問われている一年が始まったように思います。





便 所 掃 除        濱口 國雄(土曜美術社)

 扉をあけます
 頭のしんまでくさくなります
 まともに見ることが出来ません
 神経までしびれる悲しいよごしかたです
 澄んだ夜明けの空気もくさくします
 掃除がいっぺんにいやになります
 むかつくようなババ糞がかけてあります

 どうして落着いてしてくれないのでしょう
 けつの穴でも曲がっているのでしょう
 それともよっぽどあわてたのでしょう
 おこったところで美しくなりません
 美しくするのが僕らの務めです
 美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう

 くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます
 静かに水を流します
 ババ糞におそるおそる箒をあてます
 ポトン ポトン 便壺に落ちます
 ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します 
 落とすたびに糞がはね上がって弱ります

 かわいた糞はなかなかとれません
 たわしに砂をつけます
 手を突き入れて磨きます
 汚水が顔にかかります
 くちびるにもつきます
 そんな事にかまっていられません
 ゴリゴリ美しくするのが目的です
 その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
 大きな性器も落とします

 朝風が壺から顔をなぜ上げます
 心も糞になれて来ます
 水を流します
 心に しみた臭みを流すほど 流します
 雑巾でふきます
 キンカクシのうらまで丁寧にふきます
 社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます

 もう一度水をかけます
 雑巾で仕上げをいたします
 クレゾール液をまきます
 白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
 静かな うれしい気持ちですわってみます
 朝の光が便器に反射します
 クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします

 便所を美しくする娘は
 美しい子供をうむ といった母を思い出します
 僕は男です
 美しい妻に会えるかも知れません

■しごとに疲れたとき、ぼんやり思い出す詩です。(ちょっと長くなりましたが)
 再雇用となって3年目になりました。忙しさは責任も重さと比例していて、軽くなったことは事実です。ときどき、一日じゅう、仕事をしている人たちをゆっくりみていることがあります。(ぼくが暇なのように見せるほど)周りは忙しそうです。
 昔、いまのJRは国鉄と呼ばれた時代がありました。そのなかに「国労」という労働組合がありました。時の首相は中曽根康弘氏でした。国鉄民営化にする政治を行っていました。一方でこの国鉄民営化は日本でいちばん強い国労という組合つぶしだともいわれていました。事実、組合員が遠距離派遣や清算事業という名前によって職場や組合からも離れていく人も多くいました。さらには、抵抗する組合員の中から自殺者も出ました。それでも、国は民営化を通して「JR]になりました。おなじ国に住み、生活する人たちがなぜこれほどのことをしていまうのか…ということをよく考えたものでした。そして、出てきたことが「利益を得るモノ」「不利益を被るモノ」をつくる集団がいることに気づかされました。その現実のなかで世の中は動いているという事実があたりまえのように弱者が追われていくのは今も昔も変わっていないのだろう思います。ただ、その緩和策がその時の時代によって変わっているだけなのだと思います。

 いまは「勤労統計」で数字を偽装して世の中が動いているようにも見えます。
 最終的に証拠は「消えて=消されて」なくなっていくということなのでしょうか。
 とはいえ、その時代に生活する人々はいやでもそれを受け入れていくしかないのも事実です。働いて生活することが安心できる時代は年々失われていくように思います。少子高齢化は時代がつくりあげた現実です。とくにその時代の権力者の政治が反映された結果だとも思います。…ということは、いい政治ではないことがいまさらのようにわかる時間でもあると思えます。
 その後、電通も郵政も民営化になっていきました。政治課題としての「〇〇民営化」は大きな政治魅力なのでしょうか。最近では水道も民営化が一部はじまっています。国のずさんな計画で目標を失って民営まかせになって、あげく苦しむのも「民」であるのです。
 ぼくは政治家の「民」を語るときどこを向いているのかが気になります。

 「便所掃除」という詩は、働くことが大事だと思った時代、そのなかで大事なことをいつも勉強していた時代の詩だと思います。「即戦力」ではない時代でした。みんな先輩から教えてもらいながら一人前になっていきました。世の中が冷たくとも職場は温かく仕事ができた時代でもありました。そのバランスが働く人の安心でもありました。




【終着駅が始発駅か】
 都会では大きな路線のほかに小さな路線は縦横無尽に住宅街を通り抜ける線路も多くあります。ちょっと不便なローカル線です。単線であったり、1時間に4本ということも当たり前です。そんな路線を日々使っていて「終着駅」はすぐ先になります。
 不便な場所であっても木々や畑がたくさんあるのはありがたいものです。この駅の先には多摩川もあります。さらには、ラグビーで有名なサントリーの練習場もありときおり見かけることもある散歩のコースでもあります。
 東京に住んでいてこれほど魚や鳥、虫などを多く接することができる場所もあります。春には多摩川の鯉の産卵もみることもできることには驚きです。そんな場所の終着駅です。

 とはいえ、ここからの通勤は大変です。昨年年末に働き盛りの知人が「通うのが大変なので引っ越します」といって、都内(23区)に引っ越していきました。子どもが学校に通うにも通勤での帰りにも大変なのは身をもってわかります。JR線からローカル線に乗り換えて5分ほどすると真っ暗な中を電車が走っていることに気づきます。静かな闇のなかを一本の灯りが目立つときでもあります。休日などは人は数えるほどしか降りない駅が終着駅。最近、終電に間に合わず、タクシーで帰ることがありました。60歳すぎてこの時間はないだろうと思いました。

「終着駅は始発駅」ということをどこかで聞いたことがありました。
 ぼくはいったいどこが終着駅になるのだろうと思うことがあります。定年になりいまだに仕事をしている。きっと死ぬまでのんびりすることはないのだろうなあーと思います。であれば、始発駅より終着駅までずーっと歩いていこうと思うことがあります。そしていまさら始発駅などというパワーはないように思います。



 1月が去り、2月にはいりました。
 少しずつ温かくなってくるのかと思うとうれしくなってきます。身を縮めて歩くこともなくなるのがいいです。インフルエンザの心配もすることもなくなってきます。少しずつ、気持ちが外へ向いてくる季節がいいのです。

 今月沖縄県で辺野古新基地にたいする県民投票が行われます。どんん結果がでるのでしょうか。今まで沖縄の人たちが一生懸命に基地を考えた結果が反映できるものであるといと思います。ここだけは、ウソのないものであってほしいものです。
 今週はぼくが育った野田市というところで少女が親から虐待で亡くなったニュースが毎日報道されていました。昔はこんなこともなかったのに、いつからこんなに子どもが住みにくい日本になってしまったかなーと思います。ニュースを聞くたび今週読んでいた『ミッドナイトジャーナル』(本城雅人著)を思い出します。新聞記者も大変だろうなあ…と思います。事件を追うだけでなく、再犯を防ぐ一役を新聞記者がになっていること知りました。
 物騒な世の中です。日々事件が凶悪になっていく日本です。
 だいたい弱者が安心して暮らせる国はきっといい国だと思うと日本は「ヤバイ」でしょうか。米国ではよく聞きますが、そこまで似てきたことには悲しくなってしまいます。

 ときおり起こる地震には震えています。思えば毎年3月には「東日本大震災」の経験が語られる日々が近づいてきます。とりわけ人災(原発・津波災害避難など)には真剣に考える時でもあるのでしょうか。

 「節分」も間近です。
 「〇〇外」。今回は「ウソは外」というところでしょうか。
 また、月末にむけて仕事が増える来週でしょうか。老体にムチ打つ日々がはじまりますか。いやだねー。先月、闘病生活を送っていた知人がとうとう会社を辞めたました。一人ずつ、仕事から離れていく姿を見るにつけ寂しくなってきます。一日をふり返ってみれば多くの人の姿をうかべては消しています。楽しいことが少なくなってきましたが、それでも自分の立つ位置を確かめながら立ち上がるしかないのでしょう。「できるものはまた明日できるという保証はない…」だから、今日を少しでもできることを見つけてはウロウロする日々でいいと思うこのごろです。

 30年前に買った絵本『よくばりすぎたねこ』を眺めていたらおかしくなりました。なにがおかしかったのか…、かわいいネコの活躍が素直な気持ちをまた呼び覚ませてくれたのでしょうか。日々の楽しみ方がなんともユーモラスでシンプルな面白い絵本でした。こんなことぐらいでしょうか。
 それはこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。