こんにちは。
寒い毎日が続いています。ときどき春を感じる温かさもあります。
2月がおわりますか…。
少しずつ日が長くなっていくようです。散歩をしていると自分の影の少しずつ短くなってきたようにもおもえます。この時期に思いあ出す言葉が「三寒四温」というこtでしょうか。雨が降りながら、北風が南風になっていくのを楽しみにしつつ日々を送っています。この時期「天気予報」に耳をかたむけると、なかなか信じられないほど当たらない予報が多い時期でもあるのではないのでしょうか。(傘をもっていたもののバスの中に忘れてきてしまった週でもありました。予報などあてにしなければ…と思えた日もありました)
今週はインフルエンザ、学級閉鎖、合格・不合格、受験ということばをよく聞いたように思います。知人の息子さんが都立を受験するということを心配そうに話していたことが印象的でした。親心としては他人が何と言おうとも、不器用な子ほどかわいいものです。
とんでもないのは、千葉県の高校受験で受験者に送付した合格・不合格通知が逆になっていたというニュースでした。これはないなーと思います。受験者に真逆の通知がくるわけですから驚きよりもあきれます。でも、それを公表したということは安堵しています。少子高齢化時代ですから、全部合格にしたら思います。おとなの責任が問われている2月でもありました。
なんせ、今では国が公表するどころかウソの「勤労統計」を言いわけをつくりながら、うまくまるめこもうと国会審議がやられている最中ですから…。
読書の中心となっているのはほとんどが通勤電車の中です。ですから、重くなくかさばらないことが第一条件というこよになってしまいます。「○○賞」といわれた本でも、出た時には買わないことがほとんどです。いずれ、文庫本になる時を待っているような日々です。
とはいえ、本当は読みたのですが…。正直なところ経済的に無理というところです。最近の本はこずかいの1割ほどの値段のものが多いようです。図書館では、ブームということもあるのでしょうか、ほとんどが「予約待ち」の状態です。そのうち忘れられて、ちがう本を読んでいることが多い、というところが現実でしょうか。
こんな日々のなかで、手元にとる一冊をどう選んでいるのでしょうか。
今月読んでいた本はジャーナリストを主人公とした『ミッドナイトジャーナル』という本は、今年の新年の新聞を読んでいたら仕事で寄稿していただいている評論家からの紹介記事があったからでした。『矛盾社会序説』は、これも読んでいいる新聞のコラムで紹介されていたものでした。
これまで、読んできた本はけっきょくは他人の影響が多いということに気づきます。そこには、少なからず、自分との意識が似たところがあるからでしょう。
手元にとる一冊。読むまでにいろいろと理由があることにも気づきます。
そんなおとを思いながらの日々です。
【内容】
『ミッドナイトジャーナル』では地方記者たちの幼女誘拐殺害事件で大誤報を出す。その結果、地方支局に飛ばされた辣腕記者の関口豪太郎。7年後、埼玉県東部で再び発生した幼女誘拐未遂事件で、犯人は二人という目撃証言から、7年前の事件との関連性を疑う。
当時、犯人は二人との情報を得ながら追求しなかった事への悔恨。もしあの時の一人がまた事件を起こしていたら――。豪太郎は当時の部下の記者たちと目撃者を探し、掴んだネタを夜回りで刑事にぶつける。そして一歩、一歩事実を探りあてていく。日々の起こる関連事件を追行ける新聞記者のすがたを描いた小説。(新潮文庫紹介抜粋より)
■取材とは、タネを撒くことからは始まる。タネを蒔き、何度も通って挨拶をし、雑談して苗に育てていくことで、ようやくネタになる。タネが芽を出すのも大変だが、実際は苗として育ててからの方が苦労することが多い(p155)
■優秀な刑事は皆おっかない顔をしているが、根は寂しがり屋だ。記者がびくつきながら近づくと怒鳴って追い返すくせに。遠慮なく懐に入りこんでいくと意外なほどあっさり受け入れてくれる。(p207)
■真実の多くが、誰かの都合によって隠され、捻じ曲げられているからさ。それらを一枚ずつひっぺ返して、真実まで辿り着く。そしてそれらを検証して、自分の言葉で記事にするのが俺たちの仕事じゃねえか。(p243)
■真実は真夜中に出てくるというのが親父の持論だったんだ。だから、毎晩家に帰って家族団らんで温かい飯を食っている人間にとくな記者はいないって…。まあ、これは取材にかこつけて取材相手と飲み歩いた親父の言い訳みたいなもんだけど。(p246)
■新聞記者に武器がるとしたら、それは書くことだ。取材相手にしてみたら教えても許可なしには書かない記者の方が安心して何でも話せるに違いない。(p276)
■携帯電話の動画カメラも、画像投稿サイトもなかった時代だ。人間がきちんと顔を出して語ることに、なによりも重みがあった。(p303)
■真実というのは常に闇の中にある。それを探して出すのが俺たちの仕事だ。(p310)
■私は新聞記者はまだ世の中に必要だろ思っています。ネットが出てきて、もはや新聞に速報の役割が消えたのは事実ですし、購読者も減っています。だけどどんなに伝達ツールが発達しても、現場に出向いて、自分の目と耳で確認する記者がいなかれば間違った情報も拡散されます。(p337)
■「書いて伝えるんですよね」(p470)
この本を読んでいるときにも、日本中で凶悪犯の犯罪がどこかで誰かによって起こっているにことだ。そして、その報道記事で新聞に載せられるのだろう。それがあるときはスクープとなる。そのスクープによって記者の立つ位置も変わってくる。取材する側、される側との綱引きにとって、成果として私たちのまえに出てくる。
「新聞なんて読まなくてもスマホやテレビでこと足りる」と思って毎日過ごしているのだろうか。たとえば就職試験での一般常識で出題される科目として「新聞」はあるようになっていないだろうか。試験が終われば、さようならということになってはいないだろうか。
新聞は日々の様子を手軽に安価で読めるものなのに…と思っているのに残念だと思うことがある。それがいちばんよく分かるのは事件記事だと思う。昨日の事件をじっくりと読むことができるものだ。
『ミッドナイトジャーナル』という小説は、新聞記者という仕事を通じて、その仕事をする人間模様を紹介している。
取材を拒もうとする警察。それいかに聞き出すか新聞記者が事件を追いかける執念。その記事によって浮き沈む人間模様。
「勤労統計不正」問題が話題をよんでいる中、審議の中でも真実をいかに知らせるか、ジャーナリストの活躍に頼るところは大きい。それは、私たちの生活をも考えることにもなる記事であるはずだと思う。権力の暴走を防ぐひとつの大事な仕事だ。隠そうとする側とその中身がどれだけの重要性があるかを提示する仕事でもある。本当のことを知らせることはニャーナリストの仕事。すぐそばにそのことが起きている。新聞を読むたびにこの本が思い出される本でもある。記事への執念のようなものを感じる。執念といえば、
こちらは警察側から描いた小説『警察署長』〈上・下〉 (ハヤカワ文庫NV)という小説を思いだしました。「1920年冬、ジョージア州の田舎町デラノの郊外で若者の全裸死体が発見される。初代警察署長ウィル・ヘンリー・リーは、秘密結社K・K・Kの犯行と見て捜査を開始する。だが、検視の結果判明したのは、死体が警察関係者の手によって尋問された形跡があるという事実だった。一体、犯人は何者なのか?調査の末、やがて意外な人物が浮かびあがるが、そのときウィル・ヘンリーを思わぬ事件が襲った!南部の小都市を舞台に、40数年に及ぶ殺人事件を多彩な登場人物を配して描く大河警察小説。アメリカ探偵作家クラブ最優秀新人賞受賞作」
という内容の小説だった。こちらは、警察官の執念だ。
シリアで現地武装勢力に拘束されていたジャーナリスト安田純平さん。その解放後の活動がどうなっていくのだろうかと思う。とはいえ、わざわざ危険な紛争地域に命がけでその様子を伝えることの大切さをつくずく考えさせられる一冊でした。
■なぜいいままでの出来事では「電通新卒女性社員自殺事件」ほどには社会的衝撃が与えられなかったのだろう。あまり過酷なことだが、それはきっと「かわいくなかった」からだ。もちろん単に外見的なことで「かわいくなかった」といっているのではない。過労死していった有象無象の人びとは、さきの一件ほど…(p18)
■しかしながら、私たちは(仮にそれが差別あるいは差別的な意味を含んでいることがわかっていたとしても)往々にして、人を外見で判断するような社会生活を営んできてしまっている。むしろ、社会そのものが外見的判断を前提として構築されているのである(p64)
■刺青を入れた人を公共の場や浴場から排除する際の論理として「容姿で差別してはならない。だが自分でそのリスクがあることを知ったうえで(つまり自己責任が選択のうえで)不利益を引きうけた場合、それは差別にあたらない」といった言明はしばしば用いられる(p68)
■人は誰でも自分自身の幸せを考えて暮らしている。そのことが悪いわけでは決してない。ましてや誰かと一緒に暮らしたり結婚したりすることで、不幸になりたいと考える人などはいないはずだ。ささやかな願いをかなえるためには、彼らのような存在は必要な犠牲なのだ(p112)
■…特徴的であるのは「傷ついているのは当人ではなく、傷つくかもしれない誰かを想定・仮定して、その表現を過度にバッシングする人びと」存在である(p116)
■偽りの「真実」が生じるとき、すでにその社会では虚構が広がるのに有利な条件が整っているのである。不安なときこそ、ただしい判断を……2011年以降繰り返されてきた正論だけが虚しく響き、今日もデマは真実に勝利している(p134)
■…「安物買いの銭失い」をする人びとがいなければ「ただしい情報」それ自体が価値を持つことがないということは留意するべきだろう。「無知な大衆」がたくさんの無駄金を消費してくれるからこそ、彼らエリートたちはスマートに資産を貯えることができるのだ。
■無縁社会を自ら選んで生きる人びとは、「絆が持つ排除の力」が存在しなければ、あえて故郷を離れ「自由で無関心な街」に集まることではなかったであろう人びとなのだ(p177)
■不況によって、そこから生じた社会の歪みや矛盾を、社会の「自浄作用」であるかのように再定義するのだ。言い換えれば不況とはある種の「審判」であり、そこで淘汰されなかったものが「ただしい行いをした者」であり、脱落してしまった人々とは「本来報いを受けるべき人びと」としてとらえられる(p153)
生きていれば社会の多くの出来事の誘惑でつくられている。それが、「矛盾」を多く抱えているなかで起きていることに気づかされる。「過労死」問題。なぜ大手企業の女性が取り上げらるのか、もっと探せばいっぱいある。確かにその後の過労死事件が出てきた。氷山の一角としての多くの社会の矛盾をかかえながら暮らしていることを考えさせられる。それを「自由」だと思うのか、それとも「不自由」と思うのか本人の気持ち次第と…いうのが今の世の中。
そしてわかったことは、けっきょく世の中は富裕層のためにうまく流れるようになっているということ。それが事実に世の中には「成功話し」は「失敗話」より多く語り継がれて読者もその方向に誘導されている。いわゆる「勝ち組」ということなのだろう。権力も同じ方向に向きつつ動いている。「毎月統計」でも貧乏人はより低賃金になるようなっていることがわかってきた。それも虚偽作成によってである。これが世の中に出中れば一生知らされないまま終わって「こんなものだよ…」と思うだけなのだろう。時代に押し流されつついる中、立ち止まって考えてみたら、どうなっているのか? といことを紹介している本。
そんなことを思いながら読んだ一冊。
■…撮影するときに相手とのコミュニケーションをしっかりととることが重要です。カメラを向ける前に、ひとこと声をかけてもいいし、目を合わせて会釈をするだけでも、印象は大きく変わります。相手が「撮ってもいいよ」という気分になってくれれば、公表後にトラブルが起こる心配も少なくなるものです。(p56/旅行先の朝市の写真)
■あなたが撮った写真であっても、キャラクターを撮影すると、その著作権が写真におよんでしまうため、あなたの判断だけで公表することはできません。ブログで掲載するのであれば、テーマパークに確認する必要があります。(p74/テーマパークのキャラクターをブログ掲載にあたって)
■ママ友の集まりの写真をSNSに投稿すると、写っているママが了解していれば何も問題ありません。子どもの写真も、その保護者であるママがOKしていれば同じです。(p80/ママ友の集まりでの写真)
写真を撮るのに大事なこと。
「撮られる側の身になって」ということかもしれない。そこには、法律(著作権)がはいるようようになるとなおさらだろう。いつでも、どこでも簡単にスマホで撮れる世の中になっている。そんな簡単だからこそ気をつけなければならないことが多くあると思う。
簡単なものは「何かが抜け落ちている」ことが多いと思ったほうがいい。その抜け落ちた部分を了解できる範囲で撮ることが大事ではないかと思う。他人の一部を切るとる作業である写真であるからなおさら、取る側は気をつかう必要があるのだろうか。
ちなみにぼくが好きな写真は大勢写ったスナップが好きです。
人の動きや様子は、時代を象徴している一部分だと思います。むかし、アイドルの髪型がはやれば、見わたせば同じものを多くみました。自分をどれだけ気持ちよくさせてくれたのか…ということでしょうか。そんな人々の写真もいいです。
【バスを待つあいだ…「想定外」を思う】
バス通勤って「想定外」だったです。「想定外」というと、すべては2011年3月11日変わってしまっようです。千代田区にあった会社が地震によってヒビが入り、ビルの耐震性が問題になりました。そして、これ以上ここにいると危険ということもあって板橋(荒川がすぐ近くに流れる)に引っ越すことになったのでした。
あれから8年目。まだバス通勤は続く。バスはほ常時2~5分の遅れは当たり前で付き合うしかないことを痛感した(最近は電車も同じようですが)。
停留所でバスを待っている間、バス停の周りの景色がかわっていくのを見てきました。雪でもふれば10分ほどで距離を1時間もに乗っていたこともあった。あるいは、20分くらい歩いて行く日々もあった。いずれにせよ、不便になったことには変わらない。冬のバス停は毎日暗い中で待つことになった。そんな夕方、夜空を見わたすとコウモリが飛んでいることある。「まだ、いるんだ」と感心してしまう。夏には街路地に蝶も飛んでいる。そんな自然のなかにあ停留所の利点はそんなところにあるのかもしれない。季節の移り変わりを感じながら今も停留所でバスを待つ毎日が続く。
「不便」なのはバス通勤になるということになったときから感じていたことだろう。それでも、春夏秋冬を見るにつけ「仕方がない」と思うようになった。それでも、残業が減り、賃金も減っていいこともないと…と感じている。
忙しさが「美」のように感じていた千代田区時代。自分を忘れて日々仕事に集中していいものを…つくっていたのでしょう。老いて思うことはそれは忙しさがいやなことを忘れる時間であったかもしれない。仕事に没頭すればとりあえず、いやな現実を忘れていられるからだろう。バス停で待つあいだ、2011年の3月11日の大震災が思い出される。時間がとまったような夜空を見上げては日々の移り変わりをぼーと眺めてはそんなことを思う停留場で立っている日々がまだ続きそうだ。
最近、福島第一原発事故で避難している人たちへが起こした裁判の判決が話題をよんだ。
判決には、東電や国に賠償命令が出たということだった。まだまだ終わっていないんだとつくずく思う。
2月もおわり。月末の忙しさもひと段落した。
これからは少しずつ温かくなっていくのを待つしかないように思う。それと同時に花粉症の季節でもあります。今年の花粉はどんなあんばいなのでしょうかね。
今日、沖縄県で辺野古新基地の県民投票が実施される。沖縄の民意が示される日でもあるのだろう。それにしても、これほど強行に工事をすすめる理由はあまり知らない。ひどすぎるくらいの「民意無視」の政治が続いていることがわかるようだ。
今日の朝日新聞『日曜に想う』におもしろい記事があった。
今の「人手出不足」ということがいわれているが、本当は「国民不足」ではないかという記事だった。政府は「入管法改正」までした理由を労働力不足をあげていた。さらには、過日、自民党大会での「自衛隊の新規募集」が少ないことに問題視していた発言もあったほどだ。
仕事があっても働き手がない時代に自衛官までの募集は無理だろうと思う。とくに土木工事関係者の働き手は外国人の労働は欠かせない実態をみればわかるだろうに。
本当の「人手不足」の原因は働いている人たちが安心して子どもを育て上げられ、老後も暮らせる社会になっていなのが一番の原因ということをはぐらかしているようになっている。
これでは、根本から軌道がちがうようなもので、いつになっても「人手不足」は解決できるわけはないだろうと思う。まして、自衛隊にはいるための人口はできない…になっているのは当然なことなかもしれない。
今月はこれで終わりです。
ながーくなってしまったようです。まあ、ほとんどが「愚痴」みたいないなってしまっていますが…。
今週はこの辺で失礼します。
読んでくれた人、ありがとうございました。