こんにちは。
とうとう1月も終わりです。新年のあいさつもしたのか、しなかったのか忘れるくらいの速さで・・・終わりますか。さすがに。新型コロナ感染症者の激増に政府も「緊急事態宣言」をわてて出すような1月でもありました。さらには、もっと感染を防ごうと法案までつくって1月は進行中というところなのでしょうか。
いったい、いつ収束がくるのやかいもく見当がつかいない日々を送っていました。収束とさせるというより、いかに自分が感染者にならないようにするか「不安」な毎日でもありました。とくに、人の多いう駅構内の移動や通勤帰りの夕方の電車のなかが心配でした。それでも、乗者数は通常より2割くらい少ないように思えます。
月末になって今月読んだ本の整理していると、今月のこころのよりどころのような本に目がいっているようです。平日はまったく書店によりことはありません。休日に散歩のついでに立ち寄ることが多いようです。
今月はコロナ禍のなかでなかなか行動にうつせない山歩きのことが気になって手に取った『山小屋の灯』でした。日帰りの山歩きにとっては、山小屋はあまり関係なのないのですが、いつかは泊まってみたいと思う山小屋の紹介もあって楽しく読めました。
昨年から今年にかけて、コロナ禍のなかで山には二の足を踏む日々であった。頭のなかでは、「今ごろは紅葉がきれいだろうなー」とか「枯葉を踏む音がなつかしい」など山歩きでの、色や音、匂いがなつかしい。とはいえ、コロナ禍でも山に行っている人がいるのは現実だが、私はあとさきのことを考えると怖さを感じるのでゆくじなしの私には無理だなと思っている。そんなことを思いながら手に取った本だった。
山小屋でなくとも、他人と話をするのは楽しい。とくにコロナ禍では会話もこころもとない日々である。なおさらである。いまごろ、この本のなかの山小屋の人たちはどんな思いで生活をやりくりしているのだろうかと思うと、きっとこの本のなかでの会話もなつかしんでいるののではないかと思う。
山小屋のよさは、私たちが平日、職場で仕事をしているころ、自然と一体感のある毎日の生活のなかで暮しているとどんな思いがよぎっていくのかということを聞いていみたいということかもしれない。
そんな一片を切り取ってこの本は紹介していて思いしろい。季節の中で、語られる山小屋の住人と話が自分をとりもどす何かになっているということ思い出す。
■p38 丸川荘・大菩薩嶺・・・「~帰りぎわ、くだんのトイレにちょっとした仕掛けしたから、ぜひ使ってよ」木製電話ボックスのようなトイレ小屋だが、先に入った野川さんが「何コレ~!」と噴きだしながら出てきた。確かに意表をつく演出があって、おかげで尻にあたる冷たい隙間風も忘れてしまう。
■p55 ころっぽくりひゅって・霧ヶ峰・・・「父はよく、『山小屋は質素でいい』と言っていました。道路が開通してからペンションが増えましたが、父は山小屋というスタンスを変えなかった」
■p65 のろのろと食卓につく。白いごはんと、漬物、味噌汁、鯖の塩焼き、とろろ、海苔、ふだん二日酔いの朝はろくに食べられないが蓼科山荘の朝ごはんは食べれる。
■p75 両俣小屋・南アルプス・・・夜、星さんも一緒に夕食を囲んだ。東京で謳歌した女子時代初登山で歩いて表銀座で大感激したこと、出版社でバリバリ働いたこと。や山小屋に入った理由。波乱万丈の星さんの女道を肴に気持ちよく酔った。
■p81 雲ノ平山荘・北アルプス・・・小屋のついて語るとき、二朗さんは何度も「文化」という言葉を使った。小屋に刻まれた黒部の自然と人々の歴史。それらはこの土地の文化であり、それを残しながら新世代の山小屋を造りたかった。「その時代にはもう戻れないけれでも、山賊たちがただそこにある自然を純粋に受け止めたように、僕たちも未知との出会いに心打たれたり、そんな気持ちになってもらえたら」。スポーツのように山を歩くのではなく、山と自然と「関わって」ほしい。その方法を知るための場所に自分の山小屋がなれたら。それが二朗さんの思う、理想の雲ノ平。
■p96 船窪小屋・南アルプス・・・「こんなところまで泊まりに来てくれてありがとう」と繰り返し頭を下げていた。ふたりは60年間毎晩、感謝の言葉を述べてきた。愉快なレシピノートがある。小屋を愛し、助っ人に来てくれる人だってたくさんいる。そして何より、60年間ひたりが迎えてきた登山者がいる。疲れ果て倒れ込んだ土間で差し出された熱いお茶。あの温かさを、安堵を、感謝を、私たちが忘れるということは決してない。
■p109 駒の小屋・尾瀬・・・小さくてもしっかり目の届く小屋のほうが客も自分も楽しいし、居心地がいい。それが長年小屋番を務めてきた三橋さんがたどりついた理想の山小屋像だ。うちのスタイルは「薄利薄売」と笑う。
どこにもあるような風景が消えてはつくられ、また壊される。そして新しい風景が出来あがる。これが資本主義法則の原則。そしてそれが「文明」とばかりうそぶくのだろう。そこでの失われるものは金銭でははかりしれないものがあるということを考えさせられる『チッソは私であった』という本かもしれない。
水俣チッソ事件は、自分たちの住む海辺のまちに大工場が建ち、人々の雇用がつくられ、工場の働く人も、海辺で漁業を営む人も生活がえんえんと続くはずだった。ところが、工場から海に流された水銀の汚染水によって人々の生活は一変していく。生活をささえるための海で漁業ができなくなり、生活を楽しんでいた人々の体は病気になり、町そのものが破壊されていった時代になってしまった。その原因を被害者から追及しようと「チッソ水俣闘争」が始まる。その原因は被害者が指摘するように、工場の廃液があるということが確定されることになる。政治家をも巻き込んで、補償問題へと追及されていく。そして、著者の緒方正人さんはほんとうの原因は、工場よりももっと大事なものがあったはずではないかと提起するようなる。
そして最後にたどりつくところは『チッソは私であった』という問いかけである。
水俣病で多くの人の命や生活がなくなってしまった。人間の営みさえも壊され失っていった。小さな島々から昔のよう人と人との関係も消えて行った。補償されたことは大切なことかもしれない。そのための、国や県によって制度・政策としての法律もできた。
しかし、これまでの島の人々の暮らしや声が戻ってくるわけでもない。自然破壊の時代とともに守るべきものがちがっていく・・・。本当は守るべきものは一つであっていいはずが、水俣病事件に多くのものを守るようになっていってしまった後悔が残った。本来ならば、制度・政策の法律などいらない世界が必要なはずなのに、押し売りのようにつくられた。
とはいえ、一度壊されたものは戻ってこない。その代り、国や社会はその戻らない代償として「責任」ということばでいろいろと取り繕っているにすぎないのだろう。
人間は守るべきものを問い直す時期にきている。みじかなものが最も大切な自分であることを確ために必要なことがいわれているような気がする。
コロナ禍のなかでこの本を読むと、緊急事態宣言が出ていくなかで水俣病事件の繰り返しを人類はいつも繕っているようになっていないのだろうか、ということをつくずく考えさせられた一冊だった。
■p46 私自身は、一九八五年、自らが求めうづけていた患者として認定申請を取り下げました。~一つは水俣事件の本質的な事件の責任のゆくえを自分が追っかけていたかと思います。~しかし、チッソや国や県にあると思っていた水俣事件の責任が本質的なものかという疑問がずっとありました。そういう構造的な責任の奥に、人間の責任という大変な問題があるという気がして仕方がなかったのです。もう一方で、水俣事件は私たちに何をいっているんだろうかと考えるようになりました。
■p50 時代のなかに自分を引きすえて総括することが求められているという気がします。
■p53 チッソは一体何だったのかということは、現在でも私たちが考えなければならない大事なことですが唐突ないい方をするようですけれども、私はチッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思います。
■p60 ~水俣病四十年を迎えて、大方、ある処理機構の中に入れられてしまったと私自身は思っています。
■p61 ~遺憾に思うという程度の官僚作文の謝罪文であったり、和解金という低額の金銭が支払われたっりというふうに、責任の意味、内容が型に入れられしまった。今度の和解でも訴訟や認定申請を取り下げることがことが条件になりましたから、当の未認定者といわれた人たちが、もう国と県ともチッソとも闘いようがないわけです。これから先、誰と闘えばいいのか。相手がいないわけです。私は、そう意味では、和解は、制度的な処理機構をつくって、いわば金策でもって患者の魂を遺留地の中に閉じ込めようとしたものだと思っています。
■p70 ~一言いえば「偽りの記憶装置」を作ってきたということではないか。それによって私たちは、生命としての本質の記憶から外れてしまったところにきてしまったのではないかという気がします。
■p72 そのいのちのつながりを断ち切ったのが、水俣事件のあらわれだと思います。水俣事件では、人だけでなく、魚や猫や鳥や、家で飼っていた豚まで亡くなったのです。生活の中にあったといえばいろんな生き物が殺されていったわけですけれども。私は加害者チッソといったときに、以前は自分と離れた別の存在だと思っていました。会社であり、権力であり、体制だと思っていた。ところが自分が問われていること―。事件の意味を考えている時に、私自身ももう一人のチッソだったと考えるようになったわけですけど、いのちのつながりから自分自身も遠ざかっていっているのではないかと危機感がありました。
■p106 命の記憶という時に、私自身の体験の中にそういうことがあるような気がする。~一言で言うと、殺生の罪深さを知っとったと。そういう伝統が村の社会の中にあったということ。それを壊したのが水俣病事件であったり、近代の文明であったと私は思います。
■p113 わたしは海山とつながりたい。そして人間だけでなく自然に対する信頼を持っていたいと思い続けているんです。
■p139 水俣病の病気のことは大きかですけれども、家族、地域が壊されて、親戚の関係も壊され、汚か、うつるからあっちへ行け、あんたの魚は買わない人とか、ある補償金のことを汚か金ばもうろうてとか、散々なことがあったわけである。
■p149 ~社会制度や補償といったものの中では救われない。そうしたものの中に納まりきれない何かがあるということです。それがどうもやっぱり魂というもののように思えたんです。~それが救われてない、救われてきれないという感じがするんです。
■p164 ~一番よく感じるのは、私たちがあまりにも沢山の仕組み社会の中に閉じ込められているような息苦しさにあるように思うのです。~会社は社会の重役、斜塔は、はじめ加害者と呼ばれた人たちの責任についても損が賠償責任とか、あるいは役所の厚生省とか大蔵省の責任なんかそうです。刑事責任とか民事責任とか賠償責任とかいわれてきて、そうした仕組みを作ることだけは必死に行われてきたわけですけど、一番奥にあるところの人間の責任ということを避けて逃げてといってもいいんですが、やはり仕組みを作ることで埋め立ててきてしまったという気がします。
とうとう私も年金満額取得年齢になった。さてどうするのか?。
同じ世代の人たちは、それぞれ老後の生活を始めて行った。年賀状にもそのことをふれるものが多かった。
「定年」とは、働き続ける人、働かない人の分岐点のようにも思える。だからといって働くことをやめることはないのだが、これまでさんざん働いてきた人生をふり返れば、本当の意味で自分のための時間が持てるということだろう。できればそうしたい・・・、よいうのが本音だろう。しかし、それを気にしてくれる人もいなければ働けないほどの体が弱っているわけでもない。
年配者で働いている人の意見は「働くのが好きだ」という理由で続けている人がいるが、これは本当ではないのだろう。
そんな問いの繰り返しの中で読んだ本が『あのひとはなぜ定年後も会社に来るのか』であった。この本では、自分の位置を再確認するために訪れるようになっている。要は、働くだけで一生のほとんどを生活してきたライフサイクルへの問いかけでもあるようだ。なぜなら、日本では、定年後のライフをサポートするほどの社会にはなっていないことだからだろう。サポートするまえに「生涯現役」という言葉が讃えられるような社会になっているからである。
裏をかえせば、高齢者の対する制度・政策が貧困からだろうと思う。
※そうならないためにどうしたらいいか、と思って読んだのだが、結局のところ老人の孤独感についての処方箋のような本であったように思う。期待して失敗だった。
もちろん、この本は途中でやめたのだった!
■p10 老後の不安と孤独感の問題は、ご自身の「認知」と「行動」を見つめなおすだけでシンプルに、どう付き合っていけばよいのかが見えてきます。ほんのちょっとのコツでできるのです。
■p43 ~70代、80代と年齢を重ねると、友人や家族など周囲の人を「死」という形で喪い、物理的に孤独な状態となった人生とどう付き合っていくかについては、また変えられる余地がありそうです。
天気がいいと用事がない限り、多摩川の土手沿いに散歩にいくことにしている。
今日も南向きのベランダに風に吹かれながら洗濯ものやらフトンが気持ちよさそうにほされている。紫外線がどうの花粉がどうのといっても、お日さまに乾かされたものは一番いいと思う。フトンであれば、一日の温かさが残っているような気がする。お日さまのにおいもあるのだろう、と思う。
少しずつ、日が延びていく。うれしい限りである。通勤でバスを待つあいだ夜道のいるのはさびしいものである。それが明るいと気持ちの持ち方も違う。
今日も青空の下で、少年野球チームが元気に練習をしていました。しっかり太陽の光が元気をつくっているようにも思えます。
野球といえば、春の選抜高校野球の代表の32校が決まりましたね。今年は出来るのでしょうか。できれば、無観客でもいいからやってほしい気がします。それも、さんさんと太陽にしたでやってほしいものですが・・・。どうでしょうか。
高校野球に関して明るいニュースもありしたが、暗いニュースもありました。
2017年夏の甲子園で活躍し、みごと優勝した花咲徳栄高校の主将を務めていた元選手が2019年4月に八街市で起きた強盗事件に関与していたということで強盗致傷罪で起訴されたと報道されていました。
しかしその経緯があまりにも理不尽な理由で起こしてしまったということも報道されています。高校を卒業後、名門私立大学の野球部に入部して練習をしていた時代に先輩部員から「コンクリートの上に正座させられたり、たぼこの火を押しつけられるなどしごきが毎日あった」と話していました。そのため、高校野球時代の監督に相談にいったもの「耐えろ」といわれてたのですがとうとう退部してしまったそうです。
途方にくれるなか知人に誘われて事件に関与したそうです。最終意見陳述で「理不尽を知る自分が理不尽な被害を与えてしまった」といって頭をさげたそうです。
もっと、周りが親身に相談にのってやれればと思います。
こんなニュースを思い出しました。個人的には刑の軽い方をと思います。
まだ、将来があるスポーツマンだと思います。
1月も今日で終わり。はやいですね。
今月長い間、一緒に仕事をしていた同僚が定年でやめていった。これまで私と同様の「再雇用」で働いてきた。「辞めてどうするの?」と聞いたものの返ってきた返事は「自分のために・・・ね」という気のない返事だった。
思えば確かにこれから先のことを考えると、そう思うこともあるのだろうと思う。自分でやることがあればなおさらだろう。それで、「やることがあるのか」といえば「ないけど、これからは家族と一緒にと」いうものだった。正直なところできればそうしたいのもやまやまだが・・・。現実はきびしいという思いもあった。
私は、会社にいることは「働くのが好きだから」なんてうそっぽいことは言わないまでも、今抱えているお客とけっこううまくやっていることは、仕事だから大変なのだが付きあっているのはけっこう楽しい気がするのも本当かもしれない。きっと、今のお客とも(変わったりして)手伝いができなくなったら考えるかもしれない。
そのときまで、ボチボチのんびりやっていくしかないのだかな・・・とも思う。
コロナ禍での「緊急事態宣言」は残り1週間で終わるのだろうか。
毎日感染者数があるなかで宣言解除したらGoToキャンペーンが始まって、またもとに戻るだろうと思える。「自粛してください」といわれても、正直、自分のストレスがたまったら、発散するところ求めるだろう。だから旅行に行ったり、飲みにいったりとするのはわかるような気がする。国はそういうことは「自助」で解決してくれといっているような政治が続く限り、繰り返すばかりだろう。
今週はこれで失礼します。
天気がつづくのはいいのですが乾燥しすぎるのも困りものです。
また、明日からコロナ感染に気をつける日々です。困ったね。
それでは、今週はこのへんで。
読んでくれた人、ありがとうございました。