日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

さむーくなってきました。ついポケットに手を入れています。

2016年10月30日 | Weblog

 こんにちは。
 寒さがほんものになってきました。散歩道でも枯葉が風に舞う景色をみることが多くなってきました。
 いちばんそれを感じるのは、朝夕の暗さです。なかなか朝陽がでませんし、夕方は暗くなるのが早くなってきました。洋服もだんだんと鎧のように重くなってきました。これが齢を重ねると肩がこるように感じます。

 さて今週、プロ野球日本シリーズが日本ハムファイターズの優勝で終わりました。この日本シリーズを振り返ってみれば、今大会は大谷投手の大会といってもよかったような活躍でしたね。走攻守の3拍子そろった選手もめずらしいです。ただ、今後はどれかに集中しないとつぶれてしまうでしょう。私は、ピッチャーとして活躍しているところを見たいです。「10マイルピッチャー」はそれほどいませんからこれからもずっと見ていきたい選手です。(一部では大谷選手は日本プロ野球界のお宝)ともいわれています。きっと、大リーグに移籍するかもしれませんね。

 それよりも今最も注目しているのはサッカー19以下の試合です。決勝まで進んでいます。決勝戦はサウジアラビアとの対戦。さて優勝できるのでしょうか。頑張ってほしいものです。




 10月も終わります。
 はやいものです。季節は秋でしょうか、それとも初冬でしょうか。朝晩は寒くなってきました。日中、暑いからと薄着で出かけては仕事帰りにはすっかり寒くなっています。こんなとき、寒いところには長いは無用だと思います。

 さて、月末。毎月の「本棚」です。今月は再読した月でもありました。だから二度目と言うほんもあります。なぜ、そうなったのか自分でもはっきりしません。簡単に「いい作家、いい小説だから」ともいえますが、何らかの作用が働いて手にとったものだと思います。私としては、さっちの方が気になった月でした。
 おそらく、10月というなかで何か思うところがあったのでしょうか。

 一つ言えることは、星の数ほどある本の中から選んだのですからなにか理由があるのではないのでしょうか。例えば、「永遠に語りつがれるもの」とか「記憶のどこかによみがえったこと」とかが小説のどこかにあったから、再読をしたのだろうと思えます。

 そして今週は「読書週間」だそうです。わたしもあまり気にしてはいなかったのですすが、ポスターをあるのも知りませんした。ポスターをみていたら、人物がみんなスマホではなく本を持ってるポスターが印象的でした。最近では、こういう光景もなかなか見ませんね。それでも、あえてポスターにしたのは「いざ読書」という掛け声の気迫が感じられて楽しくなってしまいます。
 やはり、本はスマホではなく、紙に印刷された本ですよね。
 いま読んでいる『日本人と読書』(岩波新書)を読んでいたらの、古来日本人は読書という行為の流れの歴史を書いていました。「音読か黙読」からはじまり、歴史のながれの中で変わっていく読書の形を紹介しています。本と人との関係など、来月紹介できたらと思います。

 さて今月は、新刊本はどれもありません。これまで気になっていた本や再読をしている本を紹介しました。




【作品
三浦右衛門の最後 忠直卿行状記 藤十郎の恋 入れ札 島原心中 恩讐の彼方に 仇討禁止令 屋上の狂人 父帰る 他

【感想】
 教科書で読んでも実際、読んでみたいとあまり思わない作家だった。
 とはいえ、内容はたいへんおもしろいものが多いと思えた。「忠直卿行状記」や「恩讐の彼方に」は、読んでみて、教科書だけで終わらせるのはもったいない作品だと思えた。なにがそうなのかというと、偉い人にはその人なりの大きな悩みがあり、その悩みゆえに一生を苦しいものにしていまっているという歴史小説の「忠直卿行状記」。
 忠直はいま大河ドラマ「真田丸」で主人公の真田幸村を大阪夏の陣で討ち取り戦功の人となる。徳川の世をながくつくった功労者でもある。だが、小説のなかの忠直は、家来を信じられなくなっていく。そのため、自分にとって唯一信用できる家来を尋問していく。家来は、一生懸命、忠直に尽くそうとするがすればするほど溝ができていってしまう。なぜだろうか。人間の悲しいほどの宿命のような小説でもあるように思えた。
 
 「恩讐の彼方に」では、自分が従えている主人を勢いで殺してしまう。
 そして逃亡。逃亡というなかで、さらに強盗をくりかえし生活する日々。強盗を繰り返す中、人間のあさましさをつくづく考える日々もあった。
 その暮らしを後悔し、その反省の意味をこめて「自分にできること」を考え行動を起こしたのが出家し、人が困っている岩山にトンネルを掘ることでした。20年をかけてやっと掘り終えたとき、自分がかつて殺してしまった主人の息子がかたき討ちにやってくる。息子はかたきと思っていた男がいつの間にか一緒に苦しんでいる人間同士だとわかる。老いにいつでも殺されて構わないほどのかたきを見ているうちに息子の心は少しずつ変化がおこってくる…。

 人が一心不乱にことにあたっていることにたいして他人はなにができるのか。まして、自分のことではなくて他人のためにだ。いつのまにか、他人のためになどと思っていなくても、いずれ自分にめぐりめぐってやってkるのだろう。それがいつなのか、どこでなのか…。そう思う。


【解説】
 すぐれた人間観察を筆にのせ、人々の素顔を捉えて絶賛を博した著者が、最も脂ののりきった時期に遺した傑作揃いのエッセイ集。(文春文庫より紹介)

【感想】
 この本は「再読」。
 もう20年ほど前に出版された文庫本でした。
 向田邦子のエッセーは、生活の中からの思いが出ていて「あーあ、こんなことあるような」というところで納得していくことができるような気がします。そして、日々の一つ一つを丁寧に広いあげては思い出させる魔術みたいなところもあるような気がします。
 日々の仕事に、男女の関係にと。職場のひずみ、家族との確執等など。思い出せば向田エッセーの中の題材になるようなことがたくさんあります。それを、拾い上げてポッと光をあてているような気がします。
 だからおそらく、もう一度エッセーを再読したくなるのだろうと思います。
 


■p102 人生の残り時間を意識する年齢になって訪れた、寂しくも自由な日々を彼女はいま、精一杯楽しんで生きようとしている。

■p151 病を抱えた身体でも何もこんなしんどい取材をしなくても思うが、石川さん「私は、一人一人と付き合うしかものを考えきれん人間だから」と笑う(石川夏生の場合)。

■p154 その人に出会った目的が商業誌に文章を発表することであり、書き終わった後は一生会うことがなくても、相手の人生に入り込み、相手もまたこちらの人生に入り込んでくることに変わりはない。そこで起きる摩擦や葛藤や疑問、こんなはずじゃなかったという失望や思いがけない発見によって、その人の生きる姿に近づくことができるのだ(同)。

■p215 「アメリカ人とっては原爆のイメージはキノコ雲。そのキノコ雲の下の街で誰がどんなふうに生きていたなんて考えない。でも石内さんの写真を知人に見せたら、広島で暮らしていた一人一人について、初めて思いを馳せたと言っていた。あのドレス着ていた女性たちがどんな恋をし、どんな夢を持っていたのか想像したいって。これこそアートの力です。彼女の写真は世界に向けて発信する力を持っている(石内都の場合)。


【感想】
 それぞれの分野で活躍している人たちの「声」を届ける方法に興味があった。詩や写真で伝える作業はいったいどういうことなのだろうと考えていた。
 読んでいて、それぞれの人たちが伝えるは自分の生き方ぬきでは本当のことが伝わられないことがわかる。自分の主張や生活の質を変えてまで伝えていたのでは、景色を伝えるどころかその人の旬がなくなってしまうのかもしれない。あたりえのように思えることだが、ながいサラリーマン生活をしていると「理不尽」がまかりとおている生活。それでも、「私」を伝えるには、私という人間をどこかで主張するものがあるからだろう。

 人はどんな思いで伝えていってるのか、そして読んでいく中でその思いをどれだけきみとれるのだろうかと思えた一冊です。



 10月も終わります。今年も2ヵ月ばかるりとなってきました。はやいものですね。
 気がつけば、今の職場で再雇用となって毎月には月末のあわただしい日々を送るうちに今年も終わりそうですか…。巷では、年賀状、来年の手帳も売り出されたりその日の出来事など風のように過ぎていく毎日でもあります。
 今は、仕事でも誰に相談するでもなく、今までの経験を毎日すり減らしてしつつ終わっていくような気もします。新しい企画よりも、これまでやってきたことを間違いなくすすめていく日々になっているようです。それは仕方がないと思います。一人でできることは限りがあります。
 もしあるとすれば、今の仕事をより的確に間違いのないようにするということくらいでしょうか。あとは、お客である人にどれだけ助言ができることうらいでしょうか。

 年をとってくると、どうしても明日のことを考えることでせいいっぱい…だな、という日々があります。
 そのなかでの楽しみはいったいなんだろうということが遠のいていくような気もします。それでも、自分のことですから、もっと楽しくしていきたなあと思います。それも、自分でできる範囲でできることを探していきたと思います。仏教では人生は苦しむものだそうです。苦しみながら生きていくしかないようです。それでも、それを和らげるものが、きっと楽しいということなのでしょう。そう思うしかありません。

 ぼけっと(BOKETTO)する日々が時間が大事なときにとれないことに腹立たしい日々があるのでしょう。それともぼけっとしすぎているのかもしれませんねえ。

 ともあれ、10月も明日で終わりです。年末調整の書類が届いてきました。しっかりしているよね、世の中は…
 最近、鳥取で地震が起きました。知人がその震源地の近くの人もいて、週末あわてて片づけと様子を見に行ってきたようです。地震は、ずっと頭からぬけませんね。
 これは日本にうまれた宿命みたいなものでしょうかね。
 1カ月お疲れ様でした。

 11月こそは、紅葉をみに山歩きに行きたいものです。
 読んでくれた人、ありがとうございました。 

10月も寒さを連れてきて、去っていきます

2016年10月23日 | Weblog

 こんにちは。
 寒さがとうとう身近になってきてしまいましたね。ときおり聞こえる流しの灯油屋さんのこえが身近になってきました。もう、涼しさがなくなって寒く感じてきました。多摩川のススキも満開です。

 こんなときは、出不精になりがちです。行くところもあったかいインドア―のようなところが中心になってきてしまいます。だから、映画館というこでもないのでしょうが、今回も何度も見ている映画を、映画館にいってみてきました。
 「七人の侍」という映画です。これはすでに30年ほど前に上映されている作品でもあるので、読者の人も一度はみたり、きいたりしてるのではないかと思います。それでも、最近では、映画が古いのでどこでも上映とはいかないようです。新作に席をゆずっているような状態です。それでも、時々、単館でやられるのでそれを探して見に行くということくらいになっているようです。観客はやはり、年配の人が多く、若い人は少なくようですした。あとはDVDなどでみるしかないような貴重な作品だと思っています。



【解説】
巨匠・黒澤明監督が約1年の歳月をかけて撮影、空前絶後のスケールで描く最大最高のアクション時代劇。日本のみならず世界の映画人・映画監督に衝撃を与えた。徹底した時代考証と緻密な脚本、人物設定による映画のリアリズム、大迫力のアクションシーンは勿論のこと、厳寒の中で大殺陣を繰り広げる俳優陣の熱演も見逃せない。本作で初めて採用されたマルチカム方式(複数のカメラを用いた同時撮影)はその後の黒澤作品の特徴となった。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。
【物語】
戦国時代――野武士たちは野盗と化し、ある農村を狙う。農民たちは野盗に対抗するため「侍を雇う」ことを思いつく。農民・利吉(土屋嘉男)は侍を探し始めるが、金も出世もない仕事に誰も寄りつかない。ある日、利吉は勘兵衛(志村喬)に出会う。初めは断る勘兵衛だったが、農民の心情を思い量り、手を貸すことを決める。勘兵衛の手伝いもあり侍が集う。最後に粗野な男・菊千代(三船敏郎)も仲間に加えてようやく集まった侍七人。野盗撃滅に向け綿密な策が立てられる。(「午前10時の映画」より抜粋)


【感想】
 「七人の侍」はあまりにも有名な作品なのでよくテレビなので放映されていたのはよく見ていました。黒澤明監督いえばこの作品。海外の監督にも多くの影響を与えたという作品でもあるといわれいる。そんな作品。実際映画館でみたらだおんな醍醐味があるのかという気持ちでみていました。
 この映画をみてやはり映画は映画館で見るのがいいということもわかる映画でした。
 この作品に出演した俳優たちも、一人ひとりどれをみても個性的で、それぞれの役割の良さを引き出していていることにも感心しました。

 農民から武士になりたかった三船敏郎演じる菊千代の大活躍。武士を怖がっていた農民たちを近づけた功労者。菊千代は、武士に農民の性格を教えていくなかで、戦闘開始の気力をつくっていった。川向こうの農民を助けに行ったとき、泣きじゃくる赤子をだいて「これは俺だ」という本音を語る。

 野武士を怖がる農民たちにシンプルな戦術を教えていく、言葉の少ない志村喬ぼ勘兵衛。そして、戦うことはどいうことなのか、これも的確な言葉で教える。戦で負けるとうことを的確に語っていく。それも、言葉の最期はいわず相手に考えさせるやりかたもいい。「城は攻めるより守る方がむずかしい…」もいい。

 宮口精二が演じる久蔵もいい。
 無口で剣を磨くだけに執念を感じさせる。それでも、若い二人の逢引きをしているところに出くわしたシーンでは大人の対応。静かで、理解力が奥深い。しかい頑固おやじ。これは「男はつらいよ」でも吉永小百合さんの父親役の作家の様子とも等しく思えた。

 五郎兵衛(稲葉義男)も参謀としていい。隊長はこんな補佐があって隊長ならしめるのではないかという気がする人物。勘兵衛の戦術を誰よりも理解し、次のいってを補佐する。

 平八(千秋実)も大事。
 農民の悲しさや苦しさををいちばん理解して柔らかく語る人柄がいい。決死って武士らしくないところも、農民に信用されている。

 七郎次(加東大介)はおそらく、官兵衛と一緒に戦にでたこともある戦友。徹底した世話役を演じている。それでも与えられた任務に命がけで乗り越える戦術家でもある。百戦錬磨の武人。

 しんがりには勝四郎(木村功)。まだ元服も終えないわかい武士。理想論を持ち、度重なる野武士との戦闘で武士らしくなっていく。それでも、若いことを身をもって発散している。この7人の武士の中でも「希望」でもあったように見える。だから、監督も最後まで生き残りの一人にしたのかもしれない。

 とまあ、この7人が中心になって野武士から百姓を守った。
 いつとはなく、私たちの暮らしの中でも人があるがままの中で、理解し、それぞれの個性を見ぬく力を養っていく。
 この映画をみていると、今の世の中の足らないものを網羅しているように見える。官兵衛の指揮官としての責任と奮闘。これは、今の首相に見てもらいたいような気がする。自分の言っていることにちっとも責任がないような言動。そんな気がした。さらには、最近「強行採決」沖縄では「土人」発言と、人を見下したあまりにもひどい言葉の連発。これらにはどこか、ひとりよがりの、結局は無責任な対応を押し付けれている「今」をつくっているように思える。
 こんな人たちと仕事でもなんでもやれたらきっと楽しいかもしれない。
 戦国の世の中、頼るのは自分だけという雰囲気のなかでもこうして人を信じて奮闘する人はいるのだろう。それも、自分の利害を最低でも、最高に人として大事なことを残して去っていく仲間がいることはいいものだと感じさえせる映画だと思った。されが、今いちばん消えつつあるものだからだろうと思えた。
 最後に、悪者(?)だけど、戦闘シーンで馬に乗った野武士たちの迫力がいちだんと良くしていたことも忘れてはならないだろう。映画や世の中けっして善人だけで楽しくなっているのではないことや、野武士には野武士の意地をよみとるシーンでもあったように見えた。

 そのぶつかりあい、せめぎあいがまさに「世界」なのだろう。




 早いものです。もう一年がたったということなのでしょう。マンションの定期総会に出席してきました。ここに住んで14年目でしょうか。はやい、はやい…。
 ということは、私が東京のこの地に住みはじめて20年近くなるということでしょうか。都内をあちこち放浪してたどり着いたところが今の土地です。いわば、東京の田舎者には変わりはないのでしょうが、自分でも信じられないほどの長さになったいうことになります。

 思えば都内で最初に住んだのは品川区でした。ここは23区内とはいえ、夜は静かな所でした。小さな坂が多くて夜歩くとしんんどい日もありました。そして、次に大田区でした。新幹線が地下深くもぐってでてくるところは絶景でした。それでも畑などがあったりしてのんびりした住宅地でした。さらには、杉並区。ここは駅前が明るいのですが、住宅地の路地にはいってしまうと暗くて静かな町でした。小さな店が多く見るものがたくさんあったように思います。いまでも、散髪屋さんだけは、杉並に通っています。
 そして、最終(?)の現在の土地。田舎で、田んぼや畑もあります。散歩をすると夏は草の匂いがここちよく思えます。でも冬は風がとても冷たく感じる土地です。なんせ、多摩川のちかいのですから。

 さて、理事会ですが、いまでも住人の顔と名前が一致しないのは私のせいでしょうか。初めて光ような人もいます。あとは、女性の人たちがえらくおばさんに見えるようになりました。わたしも、きっとじいさんに見えているのでしょう。
 とはいえローンはまだ続くとなると、いかに快適に過ごすかがテーマでもあります。「野鳩が巣をつくってはしまってからおそい撤去をづするのか」、「13年前は新品だった台車がポンコツになってしまった」、「ペットボトルつぶす道具はいまどこへ行った」とかも出てきました。それぞれ、人も道具もそろそろメンテナンスが必要な時期になってきているようです。15年には「大修繕計画があります」とのこと。

 それにいとして、今度は自分の体がポンコツになっているのでは…、と思えた理事会でした。

 さて、今週はこの辺で失礼します。
 寒さがますますつらくなってきました。うっかりするとカゼでもひきます。くれぐれもご注意を!
 読んでくれた人、ありがとうございました


秋も深まりつつあります

2016年10月16日 | Weblog

 こんにちは。
 朝晩がたいへん寒くなりました。空気も乾燥し始めているせいでしょうか、寒く感じます。うっかりしているとカゼをひいてしまう寒さです。
 多摩川を散歩していると、さすがに雲が高くなってきました。コスモスも満開です。
 日中はそれでもまだ温かいので、歩くもいいし、スポーツをするのもいちばんいい季節ではないかと思います。
 気が早い親子もいて七五三を見かけたりします。子どもの成長を願う親は同じです。それ以上に、親たちの暮らしもよくなってほしいものです。

 さて今週はどんことがあったでしょうか。
 埼玉県新座市で起きた東京電力施設の地下送電ケーブルが火事になったのは驚きました。当日、西武線で帰る知人は大混乱の中帰ったそうです。東電の福島原発事故のことばかりニュースになりますが、こんな身近なところにもなんとも怖いことが起きていたことに驚きです。原因は電線の老朽化で、そのメンテナンスを怠ったということのようです。「想定外」でもないのでしょうが、東電の手抜きは怖いです。でも、こんなことはどこにでもあるように思えます。気がつけば「老朽化」。人も機械もいつかは壊れる存在。その原則がいつも忘れられているような気がします。


 広告大手の電通に勤めていた女性新入社員(当時24歳)が自殺をしたのは長時間の加重労働が原因だったとして労災が認められた。東京労働局が抜き打ち調査に踏み切った。女性新入社員の過労自殺をきっかけに、違法な長時間労働が常態化している疑いがある。違法な長時間労働は表面化して刑事事件に発展する可能性が出てきた(10/15・朝日)

 大手企業で起きた問題。大手だけあってやることひどいものだという感想だ。長時間労働を自主的にやっていたのだろうか。おそらく、暗黙の「もっとやれ」という管理職やそのとりまき部下のパワハラもあったのではないと思う。まさに忙しいは、人間じゃなくなっていくように思う。それでも、その部署の上司の責任は大きい。
 これはまさに「氷山の一角」。一週間前、山形県酒田市で男子消防士(当時20歳)が自殺したことについて指導者(上司)よる「指導の範囲を逸脱した暴力行為があった」と公務災害を認定したばかりだった。

 さらには、時間外労働の労使協定なしに、社員に長時間労働させたとして、水戸労働基準監督署は14日茨城県ひた市の船舶金属部品製造会社「ヨットマン」と、社長(65歳)を労働基準法違反の疑いで水戸地検に書類送検したと発表。長時間労働させられた社員9人のうち、男性しゃいん1人(当時44歳)が死亡しており、労基署は長時間労働と関連あるとみている(10/15・朝日)。

 いったいどんな気持ちで入社したのだろうと考えることがある。「少なくとも誰かの役にたつ」ことを思っていたのだろう。しかし、過重労働で「いったいなんでこんなに働くのだろう。自分が能力がないのかなあ」と悲観ばかりしているように思えた。けっきょく、ゆっくりと考えて行動することがなくなったら、社畜であろう。

 「一億総活躍時代」のなかみはこんなものだだろう。少しも労働者にとっていいことが伝わってこない。過労死自殺が減らないのがその証拠だろうと思う。「ブラック企業」という言葉も生まれた。「一億総活躍」の裏側では数々の労働者いじめがあるのだろう。まだまだ、ニュースになっていないことがたくさんあるのだろう思う。契約社員や正社員との格差。この国の公平さは働く意欲も奪っている。そして、それを守るべき労働組合の顔がみえてこない。
 それにしても、今回これだけ大々的にニュースになったのはなぜだろうかと思う。こういうことは、ある意味働くものにとては大事なことだ。できれば、全国的に調べてニュースにしてほしいくらいだ。日本の会社の働き方実態のようなものを徹底的に調査してほしい気がする。それがわかれば、日本で働いている人たちの実情が見えてくるだろうし、それに対してのより具体的な対策もでてくるだろう。二度とあってはいけないというわりには、こういう働く者にとって守られるべきものが抜け落ちているような気がする。確かに法律があって守られるべきなのだが、現実はそうなっていないことをもっと知らせることが大事だと思える。

※「過労死等防止対策推進法」という法律があるが、その法律を守ったら企業が成り立たない会社の実態がおおいのではないか。それが問題だと思う。


 富山市議会で、政務活動費の不正取得が次々と明らかになった。ほぼ半月で自民の3議員が辞職し、民進系両会派の計5人が辞職した(9/18・東京)。

兵庫県の県議だった野々村竜太郎による政活費が活動もしていないのに使われていたというニュースを思いだす。今回のできごとは、働いた人たちが納税しているお金がどう使われいるのかあらためて考えされる事件。
 あきれるばかりだ。ただ、救いはそれを選んだ一人ではなったということ。それにしても、なぜこんなことが平気になっているのだろう。どうみても、政治家は税金で働いている自覚がほしい。しかし、最近、国会議員のなかでも領収書の問題がでていた。それもおなじようなものだろうか。

 政治家にとっては「政治家とかね」は永遠のテーマになっている。本来、政治家は暮らしやすい社会をつくる公僕なのであるのはず。それを忘れて私利私欲に走ってしまう政治家がいることを問題にするべき。
 それから、あるべき政治家の姿を追い求めてほしい気がする。日本にだっていい政治家はいあるはずだ。


 米国でも最も有名なミュージシャンのひとり、ボビ・ディラン(75歳)に今年のノーベル文学賞が贈られる。1901年から続く賞の歴史で、歌手の受賞は初めてのことだ(10/15・東京)

 ノーベル文学書が村上春樹ではなくボブ・ディランとは思ってもみなかった。なぜなら、音楽だからだ。
 確かに、ボブ・ディランの詩は時代を反映したいいものがあるのは知っている。きっと音楽というより、詩の内容とその活動に贈られたのであるのだろうと思う。

 わたしも大変うれしい!!

 あんの上、上智大学教授(アメリカ文学)の飯野友幸さんは「シュールでモダンな現代詩を歌詞として使ったのは、彼が初めてだった。決まり文句を並べたラブソングばかりだった歌詞の世界に、文学を取り入れた。その後のほtんどのミュージシャンに影響を与え、現代の太守文化の基礎を作った一人」(東京10/14)

 主張がはっきりしていた詩には納得する。
 ♪どれだけ道をあるいたら一人前の男としてみとめるられるのか?♪が「どれだけ、働いたら過労死にならなずにすむのだろうか」というふうに高いメッセージの印象が強く残っている。
 反戦歌でも有名な歌手だろう。でも、ボブ・ディランの受賞はいいと思う。なぜなら、彼は彼なりに一生懸命に平和を求める詩を歌にして語っているからだと思うのだが…。






 月末が近づくと、毎月のこととはいえ忙しくなる「一人職場」である。ときどきカン違いが生じ入稿を忘れてそのまま放置したことがる。入っている原稿を忘れて、最終日に「あれっどうなった?」と聞かれ「入ってません」などと答えてまいったことあった。それでも、一人何役、変わりのみの速さをする歌舞伎役者のごとくやってきた。今までの失敗の教訓は生かして二度とないように注意してやってきた。

 そんなある日、同じように「原稿はいっている」と聞かれて「入ってません」と会話が繰り返された。実際に工程表にはチェックも入っていない(過去の教訓からチャック表をつくる)。「入れたはずだが…」といわれて二回、三回押し問答。とうとう、切れるという言葉あるがそれが相手にきたのだろう「何回いわせるんだ…」と。そして、わたしは「入っていないことは確かです。その仕事はそちらの仕事です」と…。また切れるのかと様子をみていたが、さすがに入れてなかったのだろう原稿とデータを持ってきた。
 そして何もなかったようにことが進んでいる。

 なんとも理不尽。

 「ふざけるなー」と叫んでもよいくらいであった。
 人と人の関係は仕事でこうなっていても他ではとってもいいやつもあいる。そう思うようにしている。その条件は、絶対に暴力を振るわないことだ。力まかせに腕をあげたら、その人とは絶対に口も聞かずそのまま進むであろう。(言葉の暴力もおなじだ)。パワハラということを聞くが、しょっちゅう同じような、近いような言葉を口にする人もいる。どんだけ偉いのだが、自分には理解困難なような人も多い。

 そんなときは、ずーと付き合うとは思わないように自分にい言い聞かせている。選択を何度もしていく。
 その選択さらには決断でやっていくしかないようなことが日々多い。
 とはいえ、いまの職場はそれほどの悪党もないないので、「ほかではいいやつだよなー」と考えるようにしいている。ただ、その愚痴をいう相手がいないのが残念に日々である。仕方がないのだろうか…、と。これが、今の職場(会社)の経営陣の限界なのだろう。だれでも嫌なことはままある。それを、全部かかわって悩むほど暇ではない。悩むべきことは違うことで悩んだ方がいい。

 十人十色。生活の考え方も行動も違う。それを認めつつ、仕事では一つの方向をめざして進めるところもで終わりにしたいものである。
 それでも「理不尽」は日々は多い。


 毎日が少しずつ寒くなっていきます。うっかり、昼寝などしていると起きた時にカゼをひいてしまうこともありますから、この時期は注意が必要です。体を思いっきり動かして汗をかいたあとも気を付けないといけません。そうはいっても、気候は体を動かすのに気持ちのいい季節です。無理なく、焦らずボチボチとやっていきたいものです。自分が好きなことに悩むことがいちばん大切だと思います。


 どうしたもんじゃろのう…、とやっていきたものです。
 月末が近づくとそれだけで気が重い一人職場。
 はやく切り上げて、山あるきにでもでかけたいなあと日々考えています。


『理不尽なカフカ』

他人にいやなことをいわれたら
楽しい話をする友達の話を聞きにいこう
忘れられない悲しみがあったら
遠いともだちに手紙でもかいてやろう
返事がこなくても、その手紙に書いておこう
世の中…ちょっとおかしくないか、と

忘れないうちに
自分を取りもどそう
楽しい話をする友達に会いにいこう
そこでの他人をしろうという
ぼくをつくろう

旅はまだ終わってはいない
なかばに泣いているわけにはいかない
そんなことを思ったら
楽しい話をする飲み屋に友と語ろう


 
 それでは今回はこのへんで失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。


 

秋の空…変わりやすいんですね

2016年10月09日 | Weblog

 こんにちは…。
 朝がとても寒くなりました。天気もやはり秋という季節の特徴で変わりやすい日々が続いています。せっかくの連休も天気予報を気にしつつの日々でした。
 朝は、朝焼けがとてもきれいだと思いきや、日中はどしゃ降りということもめずらしくない季節ということもできるでしょうか。
 多摩川を散歩していても少しずつ虫の声もすくなくなってきました。足元を飛んでいたバッタもすくなくなってきました。もうすぐ、冬…。ますます、動きずらくなってくる。いやでね…。

 さて、今週はどんな一週間でしたか。10月もはじまったばかり、暑い日と寒い日が交互にやってくるような週でもありました。
 東京都議会では、豊洲市場問題があがっていました。小池都知事も公約にかがげた「議会の透明性」追求でがんばっているように見えますが、限界ありきで幕がおりていくような気がします。2020年東京五輪でも、競技開催地の変更があげられいます。建設予定地をかえようということなのでしょう。
 いままで都議会は、いったい何を討議してきたのか、という疑問をまたざるを得ません。この責任は、与党である自民・公明の責任が大きいのでしょう。そして、それを追及する最大野党の民進党の責任は、それ以上に大きいでしょうか。そんな気がしますが。とくに、新潟県の県知事選挙の民進党の「自主投票」にあきれます。なぜ、原発反対の候補が応援できないのか驚きです。福島原発事故のような事故がもう一度起きたらどうするのでしょうか。それを変えるのが政治です。なんとも不思議な党です。


 所得税の配偶者控除の見直しが進んでいる。女性の社会進出を後おしする狙いがあるというが、本当にそうなのか?。パートなどで103万円以下の収入をする主婦には、夫の年収から38万円の所得控除がついたいる。今回、この額を見直すあるいは廃止するという議論が進められていた。

 103万円以下で所得控除はよかった。実際、本当に所得控除があるの?、と思うこともある。しかし、なくなればもっと税金が取られると思うと引き続きあったほうがいいと思う。必要な処置だろう。なぜなら、年収が少なければ生活が苦しくなるというのが現実です。103万円より高くすればいいという案も出ていたが、控除がなくなると思うと、だれでも頭を働かせて103万円まで計算しやらないないだろう。それが正直なところだと思う。本当は、夫は規約社員、妻はパート社員という生活いでぎりぎりの暮らしという構図をなくすことが大事なのではないのだろうか。契約社員という制度をなくし、正社員にする制度を設けることがのが先決。派遣会社が儲かる構図はおかしいように思う。

 稲田防衛相が南スーダンを訪問し、国連平和維持活動(PKO)を視察。陸自の自衛隊員が道路補修などをおこなっている。「駆け込み警護」で隊員の新任務が増えた。治安が不安定ななか紛争解決に武器が登場するのも考えれれる。最後の手段とはいえ、撃ち合いが始まれば誰がとめることができるのか。

 まさに『ある戦争』状態が近づきつつあるように思える。いったいどうするのだろうか。
 PKO参加5原則に武器使用が禁じた憲法が生かされている。それが、どんな形で破られるのか。まさに危険極まりない「駆けつけ警護」だろう。日本億憲法がないがしろにされるような国際貢献が大事なのだと思う。



 連休中、雨ばかりの日々でした。山歩きも予定しいたのですが、雨になり急きょ映画に行ってきました。
 いま「気になっている映画」というテーマをつくり探したのが「ある戦争」という映画でした。内容は今の日本が勅命いしている「安全保障関連法」を成立を受けて、国連平和維持活動(PKO)から新たな任務が自衛隊につきつけられているさなかの戦争映画だからです。それも、南スーダンでの「駆けつけ警護」によって武器の使用も辞さないということが現実的になってきたいるさなかの映画であるともいえると思います。

【内容】
 タリバン圧政下のアフガニスタンで平和維持活動にあたるデンマーク軍の兵士たちを描き、第88回アカデミー外国語映画賞にノミネートされた戦争ドラマ。母国デンマークに妻子を残し、150人の兵士を率いてアフガニスタンに派遣されたペダーソンだったが、ある日、任務中に部下が地雷を踏んで命を落としてしまう。さらにその数日後、地方の村を訪れた彼らは、敵の急襲を受けて航空支援を要請するが、その支援攻撃によって複数の民間人が犠牲となる。ペダーソンは責任を問われ、軍法会議にかけられるが……。主演は「LUCY ルーシー」などハリウッドでも活躍するピルウ・アスベック。「偽りなき者」の脚本家トビアス・リンホルムが監督・脚本を手がけた。(映画紹介より抜粋)



【感想】
 私のとって「戦争」とは、ある国が権益がほしいために、その権益を得るための大義名分をつけて他国あるいは他の土地を暴力によって奪取するという行為だと思っています。その典型的な例がベトナム戦争で、北はソ連(当時)、南は米国が軍事介入しはじまったといいます。そのとき初めて最近よく耳にする「集団的自衛権」ということで米国が南ベトナムに介入して戦争がが烈しくなったのです。

 なんであれ戦争が始まってしまえば、止めるにはさらなる軍事介入が必然でなかなか停止をすることは難しくなると思われます。映画のなかでもアフガニスタンの治安維持を目的としています。その目的はその国の権益があるからです。なにもなければ、だれもふり向きもしません。
 とはいうものの、日本の政治の流れのなかで「武器をつかう自衛隊」が現実になると、殉死も出てくるのです。これまで、自衛隊は武器使用が許されていませんでした。だから「戦争」という世界に踏み込まずにいてきたのだと思います。それが、私たちにとっての平和のつくりかたと思えるからです。憲法9条でも、そのことをうたっています。それが、まさに『ある戦争』のような状態になっていこうとしている今、この映画考えさせてくれます。一人の殉死が次の死者をつくるのが戦争だと思います。そうなると、歯止めがきがなくなり、世論は「憎しみ」や「憎悪」をエスカレートさせ戦争へと突き進む危険性がいつもはらんでいるのが戦争です。



 映画を見ていて、一人ひとりの意識のなかには「この戦争の意味が問われ」ていると思います。命がけで守るものはいったい何なのかと。それは、一人ひとりの命であり、暮らしであるのだということに気がつきます。その一番の方法が戦争であってはならないと思えます。けっきょく、戦争は誰も幸せにしません。勝っても負けても残るのは悲しみだけではないかと思えます。すくなくとも、市民とってはないのではと思います。



 「体育の日」。運動会がなつかしい。散歩の途中で校庭に白線が引かれ、各国の旗が吊るされていた。それも雨の中で悲しそうだった。順延のだろうか。花火の音も聞こえず残念だろうなあ…。
 
 連休も終わり。明日から仕事です。月刊誌の締め切りも近づいてまたバタバタとするのだろう。毎月のこととはいえ、きつい日々が始まりそうです。
 さらに、最近、今まで編集をやってきたベテランのお客が「介護休暇」をとり始めました。また、これでひととき、大変なのかな、不安をかかえた週が始まります。
 やるしかないのか。まあ、どうにかなるかなあとはらをくくってやるしかないようです。およそ2週間。じっと我慢だろうか。

 前回から映画に足を運びようになりました。情報を集めてみると実に多くの映画が上映されています。さすがに東京というところはすぎ土地だと感心します。でもお金がないとなんとも意味のある土地にはならないのも現実です。そんななかシルバー料金(1800円のところ1100円に)はうれしい限りです。でも、その分稼ぎがないのだから、あたりまえかと思えますが…。

 とはいえ、この連休に山歩きができなかったことは残念です。

 

『前に後ろに』

うしろをふりむけば
誰かが追いかけてくる
そんな毎日が
ぶれてはもどり
もどってはぶれる
いつかからだの中心に
わたしがもどるのでしょうか
かすかな動きも目に入る日々よ


 今週はこのへんで失礼します。
 それは来週まで
 読んでくれた人、ありがとうございました。


10月になりました。

2016年10月02日 | Weblog


 こんにちは。
 朝晩が少し涼しくなりました。虫の声もよくきこえるようになりました。
 天気予報をみていたら、秋はとくに今ごろは台風がおおく、梅雨のこところよりも雨が多いそうです。

 夾竹桃のにおいがどこからかしてくる季節になってきました。今年もあと3カ月ばかり、と思うとこの一年いったい何をしてきたのだろうかと思います。忙しさに愚の日々を送って、とうとう10月という感じしますが…。
 
 今週は「食欲の秋。芸術の秋。スポーツ秋」といいますが。どんな秋を送っているのでしょうか。

 さて、今週も東京都の問題がニュースになっていました。「豊洲問題」「東京五輪問題」と。いったい、いままで都議会は何を決めてきたのだろうかと思うほど、そのいい加減ぶりには驚きます。とはいえ、その議会をつくる政治家を選んだのは都民です。いったい、何をどうしたかったのか…。
 まさに、迷宮にはいりそうなことが多い都議会には驚きです。






 今週、19日の「敬老の日」の代休をつかって、30日(金曜日)に映画をみてきました、平日ということもあってか映画館はすいていました。苦手な、チケット購入の操作もあわてずできました。チケットの自動販売機は、お客さんがいっぱいいる時などは、後ろの人が気になり何回もやり直しをするときがあります。とっても、嫌いですね。
 ゆっくりやればできるのですが、人で混雑しているとやりにくいですね。昔は、「〇〇一枚、面白い?」で買っていたいた時代から今は会話もなく無言でことがすんでしまいます。時代ですかね…。
 でも、ありがたいのは60歳以上は、通常1800円のところ、1100円で見られることです。特別な映画以外はほとんど1100円で見らえることは、いいですね。

 【内容】
 ある役所に勤務する定年まじかの市民課長が主人公の話。腹の調子が悪い日々を送ってた。病院にいって検査をしてもらったところ、軽い胃潰瘍と診断される。検査を待っている間にある患者から病気の進行について話を聞く。その内容とは、胃潰瘍と診断されてからの医者のいうことについての注意だった。そして、その話の内容から自分の胃潰瘍は「胃がん」であることを確信してしまう。余命をどしたらいいのか悩む。

 息子との回想シーンが思い出される。これまでの生活をふりかえる。考えれば考えるほど悩みが深刻になっていく。どうしようもない自分の命を捨てばちな生活がいやしていく。ある日、市役所で働いていた若い女性が訪ねてくる。辞めたいので課長のハンコが欲しいという。女性の話をきくうちに彼女に生きている楽しさを見つけようと、役所を休み会い続ける。しかし、女性はいつの日か、おじいさんの付き合いを「おかしい」とさげすむのだった。自分が役所をやめて小さな町工場に働く意味を課長に話す。「こんな小さな工場でもだれかの役にたっていることに少しは楽しさをみつけていると」。

 そんな会話から課長は自分のできることを思い仕事に戻っていく。
 いぜんから市民から嘆願されていた公園造りの要望を取り上げようと頑張る。書類をかいて何度も公園をつくるのに必要な部署に足を運ぶ。さらには、暴力団にも脅されるが屈せず足を運ぶ。
 そしてついにその計画が実を結び公園ができがる。今まで雨がふるたびに水たまりになって、不衛生だった場所が遊具もでき子どもたちが元気に遊ぶ場所に変わったのだった。

 課長は病気で死んでしまう。その通夜の日、仕事仲間が集まり課長の話をする。
 「なぜ、こんなにがんばっていたのか」みんなで話す。いままで気がつかなかった自分たちの仕事の大切なことを思い出す。
 しかし、仕事が始まって役所の様子は依然として前と同じで、市民の要望に遅々とすすまぬやる気の見えない日々が続く…。


 【感想】
 ぼくの周りも「がん」と診断された人は多い。ある人は肺がんだったり、膀胱がんだったりと多いことに気づく。いまでは「がん」は治療がそうとう進歩していることがわかる。それでも、ぼくの知識の中にでは「がん=死」ということは正直なところではないかと思う。『生きる』をみていったい「いきる」ということはどういうことなのだろうと考えた。

 「死」は考えること。「生」は行動すること。
 映画代が安い…とばかり喜んでいられない年齢になってきたが、かといって「死」は考えていはいない瞬間だ。このときは「生」を感じているだけなのだろう。そして、「ぼくの生きるってなんだ」と考え行動することでその一瞬一瞬を生きているのだろうと思う。
 日々の生活は自分の思うようにならない。それが、映画の通夜のシーンで課長のやったことについて発奮して頑張ろうと思ったのだろう。そして、日々の生活での実際の仕事にもどると、またいつものように遅々と進まぬ日々をつくっているのだろうと思う。
 とはいえ、それがあったから課長も自分のやるべきことに気がついたのだろう。そのことがまさに課長にとっての「生きる」という意味だった。誰しも生きる意味をもっているだけではない。あるとき、何のきっかけでスイッチがはいり、本当に自分は生きたという証明をどこかでつくればいいのだと思うのだ。そのときは、「生」など考えてはいないだろう。

 大事なことは、「生」をつくろうとするスイッチをみえつけるチャンスを多く持つことだと思うのですが、なかなかない。だから、人は悩んだり楽しんだりして生きているのだと思う。そして、ときどき「死」ということを考えて大きくなっていくのかもしれない。

 『生きる』はそのスイッチの一つになったのだろう。
 時代は「生きづらい」ときくのですが、この映画はそんな時代に見てみると少しはヒントになるような気がしました。大きなこと、小さなことということではなくて「自分のとって」ということがキーポイントです。

 今回、やっぱり映画は映画館でという気持ちにさせる。
 もう一度みたい映画…。DVD テレビで放送されますが、余計な情報がいっさいない映画館での映画はやっぱりいいものだとつくずく感じた一日でした。最近は本離れと同じように映画館離れといわれているようですが、できれば映画館でじっくり見れみるといいものは感動します。そんな気がします。



 『怒り』という映画も同映画館でやっていたので家族に誘われて見てきました。
 八王子で起きた、「夫婦惨殺事件」に端を発して事件を追う刑事たち。その事件に何らかの関係をもつ若者3人。それぞれの場所でアウトローのように日々を送っている。一人は借金取りに追われて漁港で、有名企業のサラリーマンの一人はゲイの相手をする孤児院育ちの若者、さらに沖縄の無人島で旅をする若者。
 事件は、容疑者と関係のあった取り調べから、少しずつ犯人の様子があきらかになっていく。警察ははっきりしてきた犯人の顔を公開する。テレビ流れたその様子を、若者3人が住む生活の中に入ってくる。周りはそれを疑うもの、またそのことから逃げるもの、さらには追われても逃げていくもの…と流れていく。

 とうとう、犯人は自分と同じようなシーンをつくり刺されて死んでしまう。そして残った二人の疑問に持たれた若者は、さらに逃げていく。そしてその二人の関係者は自分のこころに「後悔」をつくってしまう。
 映画がおわってとても疲れた映画だったように思えた。

 人はなんとももろいものだな、と。しかし、それを支えるのももろい人間なのだから仕方がないよ、と思う。
 そして、最近の犯罪の事件のありかたを象徴しているような感じもした。日々の生活のなかに、一瞬にして犯罪が、前後の動機無き殺人事件もあるのかもしれないと思えた。

 犯罪もデジタル化したように、顔がみえない時代なのだろうかとも思えた。
 


 休みの日は、余裕があるからでしょうか「これもやりたい。あれもやっておきたい」ということは仕事でも遊びでも同じです。しかし、これが実際の生活になってしまうと、日々の生活に追われて忘れたように過ごしているんだろう、と思います。

 忙しくなると「忙しい、忙しい」ということを連発して日々が過ぎていくような気が済ます。とくに月末にはもう走るように日々がすぎているように思えます。なぜ、そうなるのかなあ…と思っています。

 だから、のんびり動いているものをみていると「じゃまくせえ!」と思えてしまうのかもしれません。本当は、そののんびり動きたい自分がいてほしいのではないかと思うのです。そんなことが重なって、振り返る日々が少なくなるときっとノイローゼになっていくのでしょうか。教師にノイローゼ患者が増えるという記事に遭うのは、振り返る時間が出来ていないせいではないかと思います。映画『生きる』のばかで、「ひまを忙しく感じて過ごしている」ようにも見える役所生活がありました。今はこんなシーンは「古きよき時代」ではないかと思えます。
 そう思うと、立ち止まって自分のいる場所を余裕をもって見つめなおす10月になってくるののではないかと思います。



 10月。ぼくにとってはスポーツの秋だろうかなあ。休みの日は、できるだけ体を動かしていたい気がします。体が動くと脳も動きますから。
 先週の休日出勤(9月19日「敬老の日」)の代休をとっていた日々も終わります。多摩川散歩もできずちょっと残念です。映画館にいけば多摩川は遠のきます。両方ともやろうと思う年ではありませんから仕方がないあのですが…。

 天気がよければ、山歩きもしたいものです。
 今週はこれで失礼します。やっぱり映画は映画館でみるのが一番、ということを学んだ休みでした。
 読んでくれた人、ありがとうございました。