日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

秋の到来・・・何するものぞ。

2020年09月27日 | Weblog
 
 
 今月も終わりですね。
 9月は雨と一緒に涼しさを運んでくるような季節です。「暑さ寒さも彼岸まで」とはいいふるされた言葉ですが、まさにその時期が9月のように思えます。思えば「暑い、暑い」とい言葉がきかなくなるとアッという間に秋がきていました。季節は「読書の秋」でもあるのですが、今年はコロナ禍ということもあってか季節感を感じるより、日々の感染者の数字ばかりが気になっていた。
 今月の読書は、8月の末頃から通勤電車のなかで読んでいました。毎日通う電車のなかでの習慣とはいえ、コロナも気になり「密」を避けつつは少しずつ窮屈な気がする毎日が続いています。彼岸以降、少しずつ混雑は増していく状況になってくるようになってきたように思えます。気がつけば、一人間隔どころか、立っている状況でもすき間が少しずつなくなってくるようです。そのうち、毎朝、ホームで「椅子取りゲーム」が始まるのでしょうか。
 とはいえ、最近思うことは「老い」でしょうか。どんなに元気でいてもいずれの寿命があるのでしょう。そう思いながら『百歳までの読書術』は面白かった本です。事実、買っておいた本でも、若いときは平気であったものが、文字が小さすぎて敬遠してしまう本も多くなってきました。時々、辞書などは虫眼鏡をつかって読んでいることもあります。せめて、新聞ほどの文字の大きさが最低条件でしょうか。そして、行間が狭い本は大変になってきました。読んでいるうちに、文字が多すぎて真っ黒な紙に見えてしまうこともあります。とくに岩波文庫などは貴重な古典が大いのですが文字が小さくて読む気にならないということもあります。コロナ感染ではありませんが文字でも「密」になって、行間のせまい本も苦手になってきました。
 そんな読書の日々です。
 
 「昭和」という時代はもう遠くなっているような気もする。現在は「令和2年」(2020年)である。私の生涯は昭和、平成、令和の時代を生きてきたことになる。
 ちなみに私の生まれた昭和31年(1956年)である。
 昭和が1926年にはじまり、1984年に終わる。平成は1984年から2019年。そして令和は2019年からである。
 昭和生まれの私にとっては、平成、令和は昭和よりは、はるかにいい時代のはずだったのだが、いま思うと悪くなっているようにも思える。
 歳をとったというだけでなく、今の若者をみるにつけ本当によくなったのかな? と思うことが多々あります。
 
 歴史家が資料や記録などを研究し一冊の本に起こして、私たちにその判断をあおいでいることは事実である。過去に、西ドイツ大統領や統一ドイツ大統領を務めた、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏の第2次世界大戦終戦40年を記念する演説で「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」と述べたこと言葉を思いだす。過去の歴史が善かれ、悪しかれその事実に目をそむけることは現在を考えないに等しいということなのだろう。現在を考える一つの材料としての歴史があるのであれば、自分の今を考える材料ということにもなるということなのだろう。
 とはいえ、私が生れてこの年になるまで世の中では多くのことがおきていた。私がいちばん多感な時代は、すでに「60年安保闘争」や「三池闘争」などは下部になっていた。
 
たとえば、70年安保にむけてそれぞれの政治課題を追求していた時代だったのだろう。ときどき、「10・21国際反戦デー」のよびかけもあった時代だった。警察官には蹴とばされていたときも思い出される。
 平和問題に一つにしろ、これまでたくさんの人々が同じ場所に立って訴えていたにちがいない。それが、いまになって形がちがうにしろ面々とつながっているということは歴史のながれを思う時間でもある。
 「佐高信の私の昭和史」を読んでいると、知らないところで一生懸命生きてきた証が歴史となっていることがわかる。無関係に思えて、一つひとつの行動にはそれぞれの歴史のなかにあるんだとつくづく考えさせてくれる本になっていると思います。さらには、今を状況に喜んだり、悔しがったりするとき、私たちがいかにその時代に出来事に「無関心であった」ということを考えさせられる一冊でもあるように思える一冊です。
 
▼p5 よく、郷土を愛する延長に日本を愛することがいわれますが、故郷は日本という国家と違って武力を持ちません。そこが決定的に違うのです。
 
▼p39 歴史には、ただ一つの真実というものはないのです。強者の発する声だけでなく、弱者の声もすくいとって複眼的に見たとき、そこに客観的真実というものが浮かび上がってくる。私は、そういう視点がとても大切ではないかと思います。
 
▼p48 日本経済の高度成長とともに、潰れない銀行はいよいよ強大になっていく。銀行が一般人を相手にしなくなったことで「サラ金」というものができるわけです。いわば社会の徒花(あだばな)として、そういう金融業者が登場する。~そのサラ金がなぜできたかということです。
 
▼p68 ~日米開戦について直接後から大々的に報道されてきたのに対し、満州事変の真相は長く隠され続けうやむやにさてきたかです。
 
▼p99 日本人は、動機主義に陥りやすいところがあります。強引な領土拡大を推し進めていくと何が起ころうが、「結果」を予測して考えねばならないところを、ただ、日本は人口が多いから、と言って突っ走る。すべて「動機」です。動機というのは勝手な論理でなんとでも言えるのです。
 
▼p105 日本は発展途上国への経済援助はけっこうやってきていますが、日本の企業が得をするヒモ付き援助が多々ありま、留学生や研修生に不本意な条を強いることがままありました。
 
▼p147 だまされるということはもちろん知識不足からくるが、半分は信念すなわち意志薄弱からもくるのである。
 
▼p149 疑問を待たず、考えず、批判せず、信念を打ち捨てて、その流れの渦に巻き込まれてだまされ続けていたほうが人間ラクなのです。
 
▼p264 今は、分かりやすさを求める時代です。すぐに答えが欲しい。結果が欲しい。曖昧さに耐えられず、すぐに白黒つけたがる傾向があります。しかし、それでは本質がつかめないのです。
 
▼p285 しかし本当の「平等」とは、人と違うけれど隊等であることです。考え方とか志向が違ってもちゃんと居場所が確保されて平穏でいられること。「はみ出しも対等であること」それが本当の平等です。
 
 最近、安田純平さんの記事が東京新聞(夕刊)9月15日号に載っていた。安田純平といえばシリアの武装勢力によって拘束され外交問題にもなったジャーナリスト。解放されてから日本にかえったとき「バッシング」にさらされて「自己責任」ということをよく聞いた記憶がまだ新しい。日本での迷惑論やデマにふるまわされて居場所がなくなるくらいになったという記事もあった。
 
 『自己責任』という本を読んでみると、日本人のジャーナリストへの理解はまだ遠いなと思う。
 日本では拘束され無事解放されたジャーナリストの勇気と行動を賞賛するどころか「自己責任」という言葉の嵐だった。紛争現地から解放された著者の今井紀明氏も書いている。なぜ、そこまで批判されなければいけないのか? という日々だったこともあったとも。
 では、紛争現地に拘束を覚悟して世界中のジャーナリストが行かなかったらどうなるのだろうか。そして現地の紛争の状況を配信しなかったらどうなるのだろうか。きっと、現地のラジオ放送や新聞記事を載せるくらいになってしまうのではなかろうか。
 以前に日本ではイラクへの自衛隊派遣の現地の日報が
「ない」とか小野寺五典防衛相が発表した経緯があったように思う。さらにその日報の存在がでてくるまで時間がかかったという事実があったことなど報道されていた。
  このように、国は何につけ都合の悪いことは隠したがるのではないかと思う。
事実、これまでの歴史のなかでは戦時中、日本軍が連合軍に相当ダメージを負っていても、日本に都合のいいように報道してきた歴史があったことを思い出させている。そんななかでも、宣伝・広告をもってプロバガンダもあったと歴史は伝えている。ともすれば「真実」がなおざりになって多くの犠牲者を生んだ原因でもあったではないかと。さらに怖いのでは、多くの国民が嘘の報道によって、戦争高揚まで当たり前のように思うことだろう。「平和を守れ」と言う人は「非国民」というレッテルをはった歴史もあったことを思い出す。
 今井紀明さんが、現地の本当の様子を知らせるために現地に行き、拘束され、解放・・・。そんななかで、助かったいのちをバッシングされた中で感じていることを『自己責任』では述べている。
 「知る権利」というものがある。しかし、それは黙っていては、「知らされない」状況でおいていかれてしまう現実がある。
 最近では「公文書」が改ざんされたり、「桜をみる会」の名簿が消却されたりと、身近に多くの、知るべき情報が置き去りになっている状況があるということは、紛争現地にいって拘束され報告されないということは、同じ状況なのではないかと思う。
 
 ちなみにシリアで2013年にフランス人のジャーナリスト4人が武装勢力に拘束され、翌年解放された。当時のオランド大統領は、国をあげてむかえ喜んだという。
 日本との雲泥の差である。この違いはいったなんだろうなあーと思えた。デジタル化進み、日本人は新聞を読まなくない人がいないのだろうかな。そんな歴史の流れや重みも感じてしまう。
 
▼p174 「自己責任」という言葉の日本中で叫ばれる中、私は札幌に向かった。羽田空港から菜穂子と一緒に飛行機に搭乗した。機内の細い通路を通る。まるで罪人になった感覚だった。
 
▼p208 イラクで拘束され、私たちがイラクに行った行為そのものがバッシングの対象となった。それによって傷ついたのは、イラクに行った私たち当事者だけではなかった。いちばん身近な家族、そして友だち、大事な人たちの犠牲を強いることになったのだ。
 
▼p217 それでも、私たちがイラクに行った行為は「自己責任」が問われるのだろうか。私の答えは「わからない」だ。ずっと「わからない」かもしれないし、将来、何らかの仕事に就いて、イラクだけでなく多くの矛盾を抱える地域の現実を伝えることに携わったら、その答えを自分なりに導き出せるかもしれない。いまはそう思っている。
 
 人間はいつ頃まで本を読めるのだろうか。そして、読みたい本にめぐりあうまでの好奇心も同様に。
 還暦をすぎると老いは駆け足で追いかけてくる中で、自分との対話を通じて、本との関係を考えてみる一冊である。
 本といえば学者の人たち。自分の探究心に身を任せたくさんの本を読むプロフェショナルである。老いによって、目も悪くなり、持久力もなくなることは学者の命とりとなる。老いによって本を読めなくなったときが学者の引退間近ということにもなる。古今東西の知恵から一冊の本にめぐり会い、仕事して論文を書き発表するということが出来なくなったとき、引退となるのだろう。
 『百歳までの読書術』は「老いと読書」という誰でもが出遭うことを体験から紹介している。自分の年齢とたまっていく本。本の処理もできず覚悟のうえで重い本の下敷きになって死んでいった本好きな老人。再読の楽しさ深さ・・・一冊の本にたくさんの物語を語り、老いとともにその味わいもちがってくると。
 それでも、自分のペースをつくることで読み続けることの楽しさなど、悩みのつきない読書生活の方法が指南されているところもおもしろい。
 死が近いということを自覚しながら読む本の味わいを楽しみも、老いとのつきあいの楽しさというのも面白い。
 大切なのは、若いときは考えもしなかった「読書には体力=健康」ということも考える本でもあるのがよかった。
 さて、死ぬまでどんな本に出会うのか、この本を読んで、会えるまで死ねないという気持ちにもなってくるのも不思議である。
 
▼p86 今世紀はじめ、アメリカで住宅バブルの崩壊と、それにつづく金融危機によって失業者が急増した。あのときもそうだったが景気が大きく傾くと図書館利用者のかずが増える。収入が減り、時間に不本意なゆとりが生じたせいだろう。
 
▼p163 七十代とちがって、六十代の死はなかば覚悟の無念死であるほかない。こうして私の「死者の国」がどんどん拡大してゆく。わるかったな。こんなかたちでおなじ場所に並ばされるなんて、きみたち、考えたことがなかったろう。
 
▼p176 してみると、六十代のなかば私は、ときにチラッとじぶんを老人と考え、つぎの瞬間にはみずからを老人とみることを反射的に拒むという、なんとも中途半端におかれていたらしい。
 
▼p168 齢をとれば人間はかならずおとろえる。いや逆かな。人間一般ではなく、ひとりの生身の人間にとって最初にやってくるのは心身の衰退であり、ややおくれてそのおとろえこそが世にいう「老い」であったことにハッと気がつく。(あとがき)
 
今年、山歩きに出かけたのは1月のみの一度だけだった。新型コロナウイルス感染拡大で「自粛」をしていた。5月の連休前までパンデミックとなり、そのなかで死者もでた。こうなると、ちょっと都心へいくにも怖いなーと思う日が多くなった。なんにつけコロナ禍で元気になれず過ごす日々が多かったことか・・・。
 そんなとき読んだ山の本である。
 『人生山あり、時々谷あり』は山の楽しさを読めた本だ。なんといってもパワフルなおばさんである。がんになっても山登りをやめない女性登山家で本である。
 エベレストへ挑戦したことによって、その後一生山との関わりのなかで思うこと、考えたこと、などをエッセー風にした本である。山をめぐる仲間、家族との語らい、成長とたくさん景色を思いながら書いている。
 私たちは、できるだけ高い山に登りたいと思うのが自然だろうとおもうが、田部井さんいわせれば自分がいま登っている山が一番いいと思うことが大切なことだともいう。山に順位をつけてはいけないとも言う。
 それが、山とのつきあい方の基本でもあるようにも思えた。高い山であれ低い山であれ、そこの魅力を見つければしめたものと・・・。
 山を歩くヒントがなればいいと思う。
 
▼p84 「山には順位をつけない」のが私の流儀。
▼p95 山の上では社長もヒラも関係ありません。大切なことは、謙虚な気持ちで、経験者の言葉に耳を傾けること。
 
 
 「阪神タイガース5選手が陽性」というニュースがあった週だった。タイガースはペナントレースでのジャイアンツを追って2位で頑張っているチームだ。急きょ、1軍と2軍との選手を19人を入れ替えてシーズンを送ることになった。い残り試合も少なってきて、ここはジャイアンツに少しでもゲーム差を近づける時期であったにもかかわらず、ここ2試合のヤクルト戦は2連敗である。矢野監督も大変だろうと思う。
 江戸川区の食品工場で78人の集団感染とのニュースもあった。重傷者はいないということであっても、工場はもちろん、これまでの感染経路んども考えれば大変だろうと思う。感染者が、工場にくるまでの交通機関や立ち寄ったところなどによっても感染がおきることもあるだろう。これから工場もどんな対応をしていくのか、集団感染になってしまった工場などは、今後どんな対応が必要となってくるのだろうと思う。
 
 政府は10月から新型コロナうウイルスの感染拡大に伴う水際対策を大幅に緩和しようとしている矢先だからなおさら申告に思える。「本当に大丈夫?」とも思う。来年の東京五輪があるためか、何か急いで既成事実をつくろうとしてようにも見える。感染者が減る傾向になく、集団感染になれば事態は深刻なのだろうと思うのだが。
 なぜなら感染拡大のいちばんは「人の移動」によって起きるのだから・・・。
 軽症とはいえゆだんはできないことにはちがいないようです。なぜなら身内に病気になってなっている家族などがいればなおさらだろう。わたしの家族にも難病者いるので油断はできない。世間は軽症でも私の家族にはつねに重症者に見える。はっきりいって東京五輪どころではないのでは・・・と日々思う。そんな一週間だった。
 とはいえ、感染者には罪はあるまい。日々一生懸命に働いていて、気が付いたら感染していたということだろう。大事なことは、その後の医療態勢であったり、従業員の保障などであろう。解雇したり、移動させたり、排除の論理がまかり通るようなことは政治が守っていくかねばならない。「自助努力」はそれぞれやれる範囲やっているのだから・・・。
 今後、インフルエンザとコロナ感染ということも考えられるとも警告されている。
 ところで、集団感染になったしまた工場などは今後はどんな対応をしていくのだろうか。報道などでも細かく紹介してほしいところだ。
 
 多摩川を散歩道ときめて20年近くになった。毎年のこととはいえ、土手沿いのグランドでは草野球やサッカーが盛んにやられている。春先から年末までグランドでは子どもから老人までスポーツを楽しんでいる。私が、多摩川のグランドでみているなか中でいちばん好きなスポーツは消防士たちの(職場別対抗だろうか)ソフトボールである。消防士といえば年中無休のように働いている人たちである。きっとソフトボール大会のときは忙しい中、うまく調整して休みをつくっての参加なのだろう。みんな体格がよく、ピッチャーが投げたボールが、まぐれにもうまくバットにあたるやはるか彼方に飛んでいく光景もおもしろい。初めての人もいるようで、エラーもあったりしても楽しくやっている。
 これもスポーツの楽しさだろう。
 
 昨年台風19号では、大雨、強風によって関東地方も甚大な被害がでたことは記憶に新しいところだ。私のところも、強風の危険情報がながれ、窓にはガムテープなどで×印に貼ったのだった。多摩川では川の水があふれ、川近くのマンションなどの停電があいついで報道されていた。
 台風が去った何日か後に、散歩に出かけると、グランドは穴だらけになっていた。ネットも木も倒れ流されていたりして消えていた。
 その1カ月ごろ、通ると重機がグランドの補修工事をしていたことを見かけた。今年も、春に桜をみるついでに出かけてみたが補修には時間がかかるようだ。
 やっと夏あたりから少しずつ、グランドが修復された。
 最近では3分の2ほどが補修完了された。まだまだ全部はむりなようだった。
 
 ここ十年のあいだ気候変動のせいか、台風がくると甚大な被害のつめ跡を日本列島に残し去っていく。今年は、地震に豪雨・強風、コロナと災害のもりだくさんの年でもある。自然災害はどうにも避けられないことだから仕方のないことだと思う。でも、災害中、災害後、多くの被害者が出てくるのは「人災」になっていることを、もっと人間は反省すべきだろうと思う。
 2011年の東日本大震災後、いまだに原発事故の放射能汚染や避難民の状況などをきくたびにそんなことを思う。
 
 台風と多摩川の物語といえば山田太一の『岸辺のアルバム』という小説を思い出す。台風によって家が崩壊しようとしているだけでなく、家族が崩壊の危機をむかえている家族の話であったように思う。(詳細は忘れた)
 
 
 少しずつ、季節は冬にむかっています。
 涼しくなってきたと思っていたら毎日雨が続きます。秋の名物の空いっぱいの「ウロコ雲」がいつになったら眺められるのだろうかと思ういます。地上では、秋の花が静かに咲いています。地面では秋をつくりつつありますが、上空にはまだ秋の景色になっていないようです。それでも最近は異常気象が多くなってきたので、昔ながらの景色が消えていってくるのでしょうか。
 
 今週、勤め先で「インフルエンザ予防接種」の費用を会社が負担してくれるようになりました。今年に限ってことのようですが助かります。私はこれまでインフルエンザ予防接種はうけていませんでした。今年は、うけたほうがいいのかなと思います。これも、会社のコロナ対策なのでしょうか。本当は、感染のシュミレーションの対策を知りたいのが・・・。出向先では、シュミレーション1~4段階に分けての通勤、テレワークなどを明示していました。最悪は、一時作業中断ともはっきりしていました。これは大事なことだと思います。
 
 遠い太平洋の向こう側の米国では、大統領選にむけての民主党、共和党の代表の動きが活発になってきました。とくに目立つのはトランプ大統領が権力維持をねらって様々な動きが報道されています。あからさまに相手を誹謗中傷したりするのもあったり、自分に有利にするために、判事の人事に介入したりとあからさまです。その様子を見ていて思い出すことは、日本では、安倍前首相が次期検事長の人事に介入したことが事件になっていたことがありました。あからさまに自分に有利な人事を誘導するのは、どこでも同じようです。ところが、日本においては、当の黒川氏の「賭けマージャン」のスキャンダルによって白紙になりました。それがなければ、強引にすすめていたのではないのでしょうか・・・ね。
 残念なことは、そのことがあっても与党内には自浄力がはたらなくてますます政治が権力側に偏っていく傾向にあることでしょう。
 おそらく、菅首相になってからもそのことは同じでしょう。
 
 新聞を読んでいたらとんでもない記事を目にしました。
 元総務相の竹中平蔵氏が、貧困をなくすために政府が全国民に最低必要な金額を配る制度(BI=ベーシックインカム)について、「1人に月7万円支給。財源は生活保護・年金の廃止」を導入の発言をしたこと。コロナ感染で失業者や生活保護者がふえている中、とんでもないことをいうなと思う。これまで、多くの非正規雇用を推進してきて、コロナ禍でその非正規雇用者をたくさん解雇してしまった原因をつくってきたにもかかわらずのこのような発言とはあきれてしまった。まさに年金生活者を弱らせる安易なものだと思う。それでは、政治をやっている意味がないではないか。これまでの社会保障をいきなり壊すような発言にもうけとれる。だいたい、日本は老人社会にむかっているのです。そのうち、私も含めて、人口の半分が年金生活者になるような社会をつくっておいて、ひどなーと思います。
 ここまで政治がきたか・・・とも思った。
 とはいえ、こんなことを言わせてしまう政治風土をつくってきてしまった国民にも責任はあるのだろうけれでも。それにしてもひどすぎる。
 
 
 来週には10月に入ります。晴れた日には季節も秋を感じられることだと思います。
 とはいえ、「GoToトラベル」解禁もあり人の移動も多くなってくるでしょうからちょっと心配なところもあります。毎朝、通勤電車に乗るにつけ日々人が増えてくるし、最近ではマスクの下から他人の息がきこえるくうらいの混みようが復活しはじめました。こんななかでクシャミでもしようものなら・・・。

 10月には菅内閣での国会も始まるようです。私は不思議に思うのですが、安倍首相があれほど極悪非道な政治をやってきたのに支持率が60%を超える数字です。「どうなっているの」と思います。コロナでの「アベマスク」や「河井議員の公選法違反」などの背景にあきらかに安倍首相があるのに・・・。それを「引き継ぐ」と豪語している人がこんなに支持されるなんて・・・。
 このことについて、新聞の投書で支持者にあきれていた老人の姿が思い浮かびます。
 この機をみこんで総選挙も時間の問題となってくるのでしょうか。
 とまあ、10月は波乱の月になるでしょうか。
 ではこのへんで失礼します。
 読んでくくださった人、ありがとうございました。

お彼岸になりまして・・・

2020年09月20日 | Weblog

 こんにちは。
 朝夕すずしくなりました。少しずつ季節は冬にむかって進んでいるようです。ふり向けば、今年も残りわずかですね。1月末からコロナ禍のなかに過ごしてきて、いっこうにコロナ感染からの安全は遠のいていくなか日々の過ぎ去ることも気持ちに停めず歩いてきました。多摩川を散歩していたら、曼珠沙華が咲き始めていました。セミの声よりマツムシやコオロギの声のほうが多く耳にすることが多くなってきたようです。吹く風も冷たくなってきました。

 さて、今週第99代首相がきまりましたね。決まったといっても、これまでの安倍首相の政治を継承する、という菅義偉官房長官がなりました。新聞では「安倍のコピー」とか「表紙だけ変えた首相」ともいわれています。
 考えてみれば、安倍首相が病気で任期満了前に首相を辞職したことに責めはないにしろ、これまでの政治の運営や法案の内容には「なかったことにはならない」でしょう。森友、加計での公文書隠ぺいによって、自殺者まで出した事件がありました。さらには「桜を見る会」などでは、招待者に関する疑惑などもありました。さらには、昨年の参院選での広島選挙区から当選した河井案里議員の公職選挙法違反についてもありました。
 さらには大企業優遇の「租税特別措置」による大企業優による偏った税金のありかたもありました。コロナ禍で倒産・失業が増えているなかますます問題になっていく事例だと思います。
 ・・・で、それを継承すると聞けば、やはり国民にとってはきびしい政治であることには変わらないのだと思います。





 都内の感染者数が日々100~300人以内になっています。この数字だけでははかりしれない状況があるのでしょうか。最近は、この手の数字ばかりが先行しているようで、その感染場所のの正体がややわかりずらくなっているようにも思えます。
 毎日乗る通勤電車。日々、人が増えていくようになってきました。とくに、朝の遠距離の中央線は人の背中を押しながら乗るようになってきました。いっときは、人の人の空間もあったのに、と思いつつ乗り込む日がつづきます。
 やっと混雑から解放され、次のなる電車に乗り換える。階段をあがり、駅構内つぎなるホームへと足を運びながら、ふと思う。「通路のあちこちに出店せが多すぎるのではないか?」とか、コンビニあり、通路に喫茶店があったりと、駅構内がところせましと店が多い。これを便利に思う人もいるのだろうなあー、と思う。
 けれでも、構内にこれほどお店が多いと、空気の流れも人の流れもわるくなってしまうだろうと心配になってしまう。とくに、「人身事故」などで電車が停まっているときなどは、人が多くて移動も困難になってしまうこともある。けっきょく、人の流れに乗りつつ、目的のホームに近寄っていく・・・という移動になってしまうことが多い。正直「邪魔だー」と思ってしまうこともある。お店の駅の設置に関しては考えられているのだろうが、もう少し考えてほしいものである。


 これまで、季節の変わり目には一度くらい行っていた「山歩き」をやっといけるような気になってきました。コロナ禍自粛で行くのもはばかれるのかも・・・と遠慮をしていたのですが、「そろそろいいのかも・・・」と思うこともあります。それでも、コロナ感染は日々いることは現実なのだろう。
 思い切って連休を利用して行って思ったことは、自分が考えるよりはるかに人はたくましく生き方を楽しんでいるんだなーと思う。登山口までのバス停留所では、臨時バスがでるほど多くの登山者にはびっくりしたほどだった。そういえば、何をしていても感染するときはコロナ感染になるのだろうと思う。ただ、感染予防には普段以上にすることは必要なのかもしれない。
 自分の好きなことを、追求していくということは、コロナに負けない一つの方法なのかもしれない。少しずつ、スポーツや音楽、演劇の世界でも観客数を増やしていこうとしていることも、その一つなのだろう。
 そんな気がした、一日だった。



 最近、仕事で十年ぶりにお会いした人と姿をみて、ながく働いてきた日々を思い出しました。ながく働いていると、どこかでなんらかの形で大変お世話になった人が、ひょっこりと現れたりすると、とても感激していることがあります。昭和の若々しきころ、怒られたりしながら仕事をしていたころが懐かしく思えます。今では「あんな時代もあったね」と笑いあえることが年をとった、ということなのでしょうか。
 年をとることによって、コロナ感染のリスクは高くなっていることも現実なのでしょう。
 とはいえ、自分の好きなことを犠牲にしてガマンして病気になっているほうがもっとつらいような気がしますが・・・。

 菅政権が誕生。ようやくこれまで多く権力を思うがままに利用してきた安倍政権が終わる・・・と安堵していたやさき、「安倍政権の継承」という答弁にはがっかりした。ということは、これまでの問題を無視して政治が展開されるのだろうなあーと思った。わたしは、石破茂元幹事長の「納得と共感」がよかったと思っていたが、いまだに自民党は自浄能力ができないでいるらしいとも思えた。菅義偉首相が圧勝したことによってますます、これまでの問題はないがしろにされて進むようなきがするし、実際そうなっていくのだろう。
 やりきれなさ・・・。
 そんな一週間でもあった。
 
 さて、どんな連休を送っているのでしょうか。お彼岸ということもあって、近所の墓所にはたくさんの人がみられました。「暑さ寒さも彼岸まで」といい古された言葉がうまいことを言っているなあーと思いした。
 私は、連休の一日を利用して日さしぶりの山歩きにいってきました。前日の雨が降ったせいで、登山道が滑る安く、転ばないようにしていたためでしょうか、翌日は体中が筋肉痛でした。ぬかるんだ登山道は、自分が予想した以上に注意が必要になっていました。筋肉痛はその動きの結果でしょう。それでも、コロナ禍自粛でモヤモヤしている気持ちが少しははれるような一日でした。「迷ったら、まずは行動を!」をと思える日でもありました。少々バテ気味の一日でした。それでも、まだ少しは動けるな・・・と思える発見もあり安心できたとも思えます。登山道はまだ、昨年の台風の影響で封鎖されているところもあります。自分の歩く場所は事前に調べていった方がよいでしょう。計画通りいかいなと、疲れも倍増します。あわてて…けがの原因にもなります。
 まだまだ続くコロナ感染とうまく付きあっていく一つの方法なのかもしれません。
 
 また明日から仕事。ボチボチはじめるだけですが、ね。連休明けの仕事は「山盛り状態」を思うと頭が痛いのですが・・・。
 読んでくれた人、ありがとうございました。 

少しずつ季節は、秋にむかってます。

2020年09月13日 | Weblog
 こんにちは。
 季節は少しずつ涼しくなってきました。この時期、天気がはっきりしない日が続いています。おかげで、いつも折りたたみ傘は手離せません。あい変らずマスクもつける日々があります。すでに、セミの声よりも秋の虫の鳴き声がおおく聞こえるようになってきました。日も短くなってきました。通勤帰りのバス停で、暗いなか立っていると秋がもうすぐそこにきているんだなーと思います。

 さて今週、総裁選と野党合流が行なわれていました。総裁選では、各候補が主張を述べる放送もありました。みていて、この総裁選はもうすでに決まっているような感じもあります。事実、「安倍首相の継承」を訴える候補が有利のようです。
 「安倍首相の継承」ということは、何をと思います。なぜなら、これまで安倍首相がやってきたことは、弱者にとってはいい政策だと思いません。さらに、これまで野党が追及してきた「森友・加計問題」「桜を見る会」さらには「河井議員の公職選挙法違反」などに対しても、与党としてなんの解決策もしめしているようには思えません・・・。国会運営でもヤジがとびかう中の「強行採決」のシーンを何度みたことでしょう。こんな政治を継承するとは、いったいどう意味があるのでしょうか。

 もうひとつ、NTTドコモの電子マネー決済サービス「ドコモロ口座」から不正な引き出しがあり、被害が起きていました。スマートフォンなど便利な面もあるが、反面その脆弱性が露呈された事件なのだろうと思います。犯人も他人の口座に不正にチャージする知識を持っているのだろうからその知識をもっといいところに使えばいいのにと思いした。これは、全部NTT側に問題があるのだから責任も問われるのだろう。人の虎の子をこんな形で盗難に遭うことは、考えたこともないのだろう。便利なことはその一方で、よほどしっかろりしたガードがないとだめだということだろう。
 コロナ禍で現金をもつことも「雑菌の宝庫」でもあるお金。とはいえ、「いつもニコニコ現金払い」は敬遠されがちとも聞く。ポイントを貯めるスマホ払い。どちらを選択すのもいいが、こんなことがあるとやっぱり、ポイントより、自分の財布は他人をあてにしてはいけないのかなーと、頑固にいたい気になってくる。
 


 どこへ行くにもマスクは体の一部分になってきたように見えます。好むと好まざるとにかかわらずマスクは、いま人として外へ出るための必需品のようです。公共機関、とくに医療機関へでは強制的に必要になってきました。ときどき、マスクをとって空気を吸い込むという格好が、不思議に地球に住んでいないような気さえおきてきます。
 いっとき、今年のマスク不足のときのことを思い出します。薬局の店頭からマスクが消えて、その商品はがインターネットで何十倍の価格がついて販売されていたことがありました。なんとも、人間のおそろしさ、あさましさを痛感した日でもありました。これも、「おれおれ詐欺」のようなものにも思えてきました。けっきょく、弱者がどこまでいってもいじめられているような光景のようにも思えました。

 マスク不足を政治で解決しよう「布マスク」が配布されました。ところが、いっこうに届かない状況があったり、汚れていたりした不良品もありました。なんとも、政治家たちもまりにもいい加減な対応に腹もたちました。あまりも唐突すぎたマスク配布には何十億の税金が予算として使われ、それもあまり役に立たない結果にさらに怒りがこみあげてきたことがありました。

 まだまだ必要なマスク。正直なところ、本当にこれでコロナウイルスは本当に防げるのかなーと思うこともある。「しないよりは・・・」というところもある。そのあとは、政治がコロナ禍終息へむけての対応が大事でしょうか。これまでのコロナ対策を反省してほしいと思います。大事なことは、医療機関の充実なのではと気づきます。病気になるのは、かならずあることです。それに対応する医療機関などへの充実は政治の役目でしょうから。



 だんだん寒くなっていくのかなー、と思うと気が重くなってくる。今年はコロナ禍であるため、寒くなればインフルエンザが流行ってくる。カゼかな思ったら、コロナ感染だったり、ということもあるだろう。コロナを防ぐには、個人のできることには限界があるだろう。ときどき、感染したらどうなるのだろうと考えることがある。
 ワクチンもないわけだから、重症化した場合、自分の体力や免疫力にたよるしかないのだろう。さらには、隔離してくれる病院がちゃんとあるのだろうか・・・という不安が出てくる。新聞などでは、一時の感染激増のときよりは余裕があると読めるが流行すれば満員状態になってくる。寒くなって来ると、コロナだけじゃなくなってくる。

 「GoT0トラベル」も全面解禁になるという。それにともなって演劇・映画館なども人数規制が緩和されるという。それには、感染への対策を整えればの話である。感染対応を整えるってどんなことをするのだろう。



 テレビのニュースをみていたら、「コロナがあってもなくても来年の東京オリンピックは開催する」という声がアナウンサーから聞えた。ムムム・・・。いまどき誰がそんな大胆なことをいっているのだろうと思って調べてみたら、国際オリンピック員会のジョン・コーツ副会長が、フランスのAFP通信の電話取材で述べたとわかった。どれだけの裏付けがあってこれほど自信たっぷりの発言をするのだろうか。

 それを聞いていたら、よく登山家のいう「登りたいと、登れるは違う」という言葉を思い出した。
 いまでも世界中をコロナ禍のなか、これといった強力なワクチンができているわけでもない。さらには、減る傾向にもあるわけでもない。東京などは、日々、増えたり減ったりしているだけで、減る方向にはなっていない。
 オリンピックが莫大な経済効果をあげることはこれまで多くの人が言ってきた。だから、コロナ感染よりも経済効果を期待しているのだろうかと思う。ある意味、今の日本の政治状況にも似ているように思う。
 コロナ禍でこれまでも医療、失業、倒産が多くなっている。その対応策もままならないなかで、東京五輪はないだろうと思う。あったところで、まさにバブル効果であって、五輪が終われば、さらに悪化すするのではないかと懸念してしまう。

 大事なことを忘れている。大きなアダバルーンより、足元の暮らしを戻したいだけなのだ・・・。お正月にはお正月らしく。そんなことぐらいも今は考えられない状況なのだからなおさらだろう。何かいい担保でもみつけたのだろうか?。
 近代オリンピックの父、クーベルタン曰く「オリンピックで重要なのは、勝つことでなく、参加することである。 」と・・・。いまごろ泣いているのではないか。


 スポーツの秋、芸術の秋、食欲の秋・・・。雨の降らないくもり空の中、涼しさが日ごとに濃くなっていくようだ。秋という季節は、以外と曇りが多い。いつもであれば、運動会がはじまることだろう。運動会のときは決まって、曇りの時が多かったなーと思う。
 きっと、天気になるころはいまよりずっと涼しくなっているのではないのだろうかと思う。
 散歩途中の野球場では少年・少女たちが野球の試合をしていた。どちらを応援するわけでもなく、みんなの一生懸命に見ていた。「うらやましいなあ」と思う。選手をみていたら、下手でもうまくても、どっちをとっても一つ一つのプレーに頑張っている姿が笑顔をさそう。チームプレーでは、一人の選手がいくら頑張っても勝利をてにすることはたいへんだ。誰かのエラーに負けるかもしれない。とはいってもその選手がヒットを打つかもしれない。そんな期待と不安の緊張感のなかで、いかにチームプレーをするかがスポーツ面白さだと思う。

 どちらが勝っても、くいの残らないように・・・と思いながら散歩続ける。
 少しずる秋が近寄ってくるなーと思う。そして冬。きらいな冬の到来とくる。
 いったいどうしようかなと思うが・・・。こればかりはどうにもならぬ。
 明日かまた月末にむかって忙しくなるなーと思う。体だけは気をつけないといけないし、コロナ感染にも気をつけたいものである。
 
 来週の3連休までちょっとがんばろうと。今度こそ3連休の一日、どこかで山歩きにいけるようにしたいと考えています。
 それでは今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

9月になりました。少しは涼しくなるでしょうか?

2020年09月06日 | Weblog
 こんにちは。
 9月に入りました。少しずつ、日が短くなってきました。
 少しは涼しくなってくるのかなと期待しているところですが、空を見上げればあいかわらず立派な入道雲がみえました。それでも、吹く風はちょっと涼しく感じます。季節は秋にむかっているのようです。

 季節が変わると、今度は台風がやってきています。沖縄、九州地方で台風10号の猛威が大変な状況のようすです。「これまでに経験のない・・・」といわれればどんな台風だろうと思えます。昨年の台風19号のことを思うとどれだけの被害がでるのだろうかと思うと不安な日々になっているでしょう。私のいく多摩川ではいまだのその復興は進んでいないところもあるくらいです。さいわい、昨年はコロナ禍もない状態でありました。今年はどうなってしまうのだろうか・・・と。



 今年の夏は暑かった・・・というところが正直なところでしょうか。これまで「夏は大好きな季節」と言ってきました。理由は、夏は身軽で解放的なこと、日の出がはやくていいな、と思っていました。ところが今年はコロナの影響もあるのでしょうか。マスクはするし、暑さがこれまで以上に暑いと感じていました。ひところ、あまりの暑さにしなびてしまう・・・ほどの怖さも感じました。きっとこれが熱中症の症状なのでしょう。通勤途中のバス停で立っているとめまいさえ起きてくることもありました。なんとも恐ろしさを感じて日もありました。
 そのなかで一番感じたことは、「老い」とうことでしょうか。暑さのなかで体力もなくなっていくことがわかります。そらには体力とともに「気力」がなえていくようなときも感じました。いったいこんな具合でいくとどうなってしまっていくのかということが不安をつくっていくようです。

 とはいえ、老いでも暑さをうまくコントロールできることもあるのでしょうか。
 今年の夏は、暑さに関して「避難」するようにということをよく聞いた夏でもありました。暑さからにげるように避難するということなのでしょうか。逃げるように避難できればいいのですが、出来ない人もいるでしょう。事実、熱中症によって亡くなった人も多い夏でもあったと報道されています。とくに年配の人たち。これまでの夏の過ごし方のつもりでいたはずだったようです。ところが、今年はこれまでの夏とはちがったということでしょう。

 これでの夏とは決定的にちがったのは「老い」でしょう。わたしもこれまで通りの夏の過ごし方をしていました。季節はいつもの夏であっても、私自身がちがっていたということでしょう。年々、夏がきびしくなってきたように思えます。とくに今年はコロナ禍も重なっているからでしょう。
 そんな中、台風10号が沖縄、九州地方に接近していると報道されています。
 熱中症、コロナ禍、台風・・・。今年の夏は史上最悪にも思えます。いつまでつづくのやら・・・。老いにムチ打つ自然の猛威はまだつづくようです。
 遠くにうかぶきれいな入道雲。美しいなーと思えるほど余裕のない夏でもありました。それも、空を見上げては「きれいだなー」と思う瞬間をつくろうと日々送るように精進したいものです。もう夏に挑戦なんて気は起こさないことですかね。

 
 そういえば、おくればせながら 先週に安倍首相が体調を不良で首相辞任というニュースがありましたね。なんともこちらは「遅すぎ」と思うほどでした。
 私は個人的には安倍首相がこれまでやってきた政治には賛同してはいませんから「お疲れさま」などとはいえませんけれど、それでも首相として日本をまとめてきたわけですから大変だったと思います。それはそれ、これはこれという言いかたをすれば、一部の富裕層と大企業資本家たちにとっては大変ありがたい首相であったことはゆげめません。政治家と企業のギブ&テイクはこれまで以上に強固になったことでしょう。それは権力をもっているがゆえにできたことでしょうか。

 これまでの政治(国会)での法案の成立場面ばかり浮かびます。それは、議長の周りに賛成、反対の人たちがもめあって強引に法案を成立させてきた記憶ばかり残っています。そして、現在進行中の、河井夫妻の公職選挙違反、森友・加計学園で公文書偽造などばかり目立っています。どれも解決していないことが残念に思うばかりです。最近では、カジノを含む統合型リゾート(IR)事業で、元自民党の衆院議員、秋元司容疑者らが逮捕されたIR汚職事件がありました。安倍首相任期期間中にたくさんの疑惑に関しても何も首相として解決しようとしていないことにはあきれてしまいます。各新聞ではこれまで首相期間中の政治が特集されています。
 とくに目にするのは「看板倒れ」ということではないかと思います。
 
 とはいえ、今、総裁選が行なわれます。まあー、「出来レース」のようにも思えます。総裁を誰にするかはこれまでの状況をみれば「安倍総理の継続」を訴えるころになり、あの人が総裁になるのでしょうか。


 今週、9月に入りました。台風が発生して、沖縄・九州地方には「いままで経験したことのない台風」が上陸しそうです。どんなものなのでしょうか。これから、台風が次々にやってくるのでしょうか。昨年もありました。関東地方を通って甚大な被害をだしていきました。わたしの家も窓にテープを貼ったり、水を買いだめしたりと避難準備をしたことを思い出します。都内では、高層マンションの地下の電気室に水が入り停電して大変だった聞きます。40階以上のともなるとエレベーターが停まってしまうのですから、階段の昇り降りだけでも大変になっていました。

 多摩川のグランドでは、いまだに復旧していない野球場もあります。
 というところで今週はこの辺で失礼します。そろそろ夏バテが出てきました。
 読んでくれた人、ありがとうございました。