日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

1月おわり…お見舞いにいってきました

2017年01月29日 | Weblog

 こんにちは。
 はやいもので1月も終わりです。バタバタとした感じもしないけれど過ぎてしまえば「速い」ものだと思えています。さて、何をやったのかという収獲も感じず、日々が去っていくようです。
 休日の午後、知人のお見舞いに都心にいってきました(写真)。夕方、西日にがビルの間から見えるのをぼんやりと眺めていたら、こんなところで40年以上も仕事で通勤していたことにむなしくなってきました。
 あげくの果てに、病気になって大病院に入院してしまった知人のことを思うとなんともやりきれなくなってくるような夕暮れ時の都心の景色に見えました。
 知人との会話のなかで「仕事はきついが、人間どんな形であれ働けなくなったらおしまいかね…」という会話を思い出しました。「もう少し働きたいものだ」とも…。「できれば、のんびりと働きたい年齢だし」。

 寒さもあってなんともやりきれない帰宅となった1月の終わりでした。

 さて、月末は恒例の「今月の読書」コーナーです。一か月の間、ほとんど通勤や空いた時間をみつけて読んだ本の紹介です。本もじっと我慢の時間が必要です。じっと動かず本を読む持久力のある体力が必要なようです。その我慢のむこうには、著者の言いたいことや思いがやっと伝わってくるような気がします。著者の本位はどうかはわかりなせんが、自分の気持ちが出来てくるのが楽しい気がします。それが「感想」であったり「思案」でったりするのでしょうか。その面白さに、読んでできるだろうと思えます。

 それでも、最近は本も高いです。新刊などは2000円以上は当たり前になっているようです。文庫本になりなで待っていてもいいのですが、年齢を考えると文庫本になる前に、わが身が絶版になってしまう可能性ももありで、永遠の会えなくなってしまうようなこともあります。
 とりあえず、書店でみて「さようなら」で、図書館に通い、その作者のこれまでの著書を検索して読むしかないのでしょうね。
 そんなところです。


 2017年になって、今年はどんなものを読んでみようかと思いつつ始まりました。今年、一番初めに読んだのは、『遠い光芒』という小説でした。これは、昨年暮れに三国連太郎という俳優の本『出逢いの哲学』を読んでいたら紹介されていた一冊でした。生きていればいろいろな人とめぐり合うのですが、めぐり合うということはある意味その人への日々の努力へのご褒美のようなところがあるという感想でした。
日々の人への苦労や成功への報いとして「出逢い」もあるのだろうと思います。その俳優が紹介していたのが『遠い光芒』という本でした。私たちが、日々努力…しているかという裏返しのような問いを突きつけられているような気持ちもありました。そして、反省でしょうか。考えさせられる一冊にもなりました。
そんな出会いの本や人に、今年はどれだけ出会えるのだろうか、と思いました。




【著者紹介】木下富砂子:佐賀県唐津市生れ。1992年『鈴の音色』静岡市民文芸受賞。1993年『命消えし夜』静岡県芸術祭入賞。1994年『この流れの中に』北九州市森鴎外記念事業自分史文学賞受賞。1995年『峠の茶屋』田宮文学賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1921年1月2日生まれ。1946年6月中国・徐州市より引揚。1960年静岡市にて美容院経営。1992年『鈴の音色』静岡市民文芸賞受賞。1993年『命消えし夜』静岡県芸術祭賞受賞。1994年『この流れの中に』北九州市自分史文学賞受賞。1995年『峠の茶屋』田宮文学賞受賞。静岡市在住(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『わが恋は炎なりき』より

■p30 …もう手遅れ。この言葉をこれまで幾度聞いたろう。もう手遅れ、もう手遅れ。炭鉱の暮らしでは何処かで誰かが言っている。生まれて来たのも手遅れながら、生きているのも手遅れ、死ぬのも手遅れ。




 九州の炭鉱町を舞台にはじまるこの物語は、家族の物語でもある。
 荒くれでもあった父と兄弟3人から始まるそれぞれの「生きる」という選択がどんな人生をつないでいったのか、興味深い。親から子へ、さらには孫へ受け継がれていく「生きる」が時代のなかで翻弄されながらもつないでいく。どんな運命でも、足を地につかせ出発していく、それしかないように思えた小説だった。
 今、平成という時代にいきている間にこれまでの生きた証がなんらかの形で残っていることだと思う。当たり前だが、そのなかでも小説になることはごく稀なことだと思う。一つの時代に生きた市井の人たちの歴史はほとんどが姿になってあらわれてきていないのが現実だろう。
 そのなかで、なにかの巡り合わせのようにこの本は感じて読んだ、今年「初読み」の一冊。
 内容は九州の炭鉱町を舞台に繰り広げられる小説。

 一つの家族から新しい家族、さらには異郷でのそれぞれの生活。家族の一人ひとりの思いをのせて追いかけては描かれていく。そこには、どこであれどうにか人の思いと自分の思いの葛藤の中ですすめていくしない人生を感じさせてくれる。そして、時代に流されながらも自分をふるいたたせる「言い分」を見失っていない物語はいい、と思えた。

 読んでいたら五木寛之の『青春の門』を思い出した。この小説も九州の炭鉱町を舞台に始まる大河小説だったように思う(40年ほど前に読んだ)。





【内容】
イギリスのEU離脱、反イスラムなど排外主義の広がり、トランプ米大統領誕生……世界で猛威を振るうポピュリズム。「大衆迎合主義」とも訳され、民主主義の脅威と見られがちだ。だが、ラテンアメリカではエリート支配から人民を解放する原動力となり、ヨーロッパでは既成政党に改革を促す効果も指摘される。一方的に断罪すれば済むものではない。西欧から南北アメリカ、日本まで席巻する現状を分析し、その本質に迫る。

・■p196<大西洋を挟み、イギリスの「置き去りにされた」人々に続いて、アメリカの「忘れさられた」人々の逆転劇が演じられようとは、誰が予想しえただろうか。/font>

 いま世界を席巻している政治の流れがポリュズムという流れだそうです。
 ヨーロッパでも英国の難民受け入れに難色をしめし、EU(ヨーロッパ連合)を離脱するか否かの国民投票がで離脱派がわすかの差で勝ちました。さらには、米国では民主党のクリントン氏が有利とみられた大統領選挙ではトランプ氏が大逆転で大統領になりました。
 これらの流れはいったい何かというと、「ポリュズム」だと言われます。では「ポリュズム」とはいったいどんなものかということで、今回の『「ポリュズムとは何か』水島治郎(中公新書)を読んでいました。

 政治の流れは「わかりやすさ」も必要ですが、本当の弱者の生活をを贅沢ではないけれど通常の生活に引き上げることにあります。それには、底辺の力が必要になりそのパワーを、中流のなかに引きずりこませる政治が大事になってくるようです。

 アウシュビッツ解放から72年、国連の式典でグテーレス事務総長が「ポピュルズムが、外国人への嫌悪やイスラム教徒への憎悪に拍車をかけている」(1月29日「天声人語」)の記事が印象的だ。



【内容】
太平洋戦争を機に海を渡り、戦後も帰国せずにその地で生きることを選んだ「日本に帰らなかった日本人」を、『17歳の地図』の著者が世界各地に訪ね歩きインタビュー。取材から完成まで20年の歳月をかけた渾身の書下ろしノンフィクション。インドネシア、台湾、サイパン、ポナペ、韓国、中国、ロシア、キューバ……終戦の混乱の中で、彼ら、彼女らの下したひとつひとつの選択、ひとりひとりの生き方を寄り添うように描く。

■p196 バンザイ・クリフのところにいくつもの慰霊碑が立っていた。その慰霊碑をはさんで、ピースサインの観光客が写真を撮っていら。戦争の記憶が風化するよりは、どんなかたちでも記憶された方がいいのか、僕には分からない。ただ複雑な気分でそんな光景をながめていた。

■p200 「短いね。人生の苦楽の楽もないのに、もう七三になった。苦労の連続だものね。子供の頃の希望通り行っていたら七三年は長いかもしれないかど、僕ら何も恩恵がないまま七三になった。これは短い。誇り? 誇りは仕事を真面目にやってきたぐらいなもんだ。休まず、遅刻せずに、ちゃんと仕事だけは真面目にやったというぐらいのもんじゃないかね」(金城善盛・サイパン)




 昨年あたりから「戦後なになに」ということを多く耳にするようになった。
 戦後と言われても…、という気持ちの方が強い。とはいえ、ぼくは戦争に行った父から生まれた子どもだ。いったい戦争とはどういうことなのかということは本や人に聞くしかない時代に生きている。実際、大砲や機関銃の音も聞いたこともない。まして、平成という時代に生れた人にとっては、親も子も戦争は他国の様子でしかみたこともないかと思う。幸いにも日本には平和憲法があるし、原爆の悲劇を世界のどの国よりも経験している国でもある。だが、そのことは平たんな道の中で生まれたものではないということも知ることができる。戦争という音も空気も知らないぼくたちは、幸福なのだろうと思う。

 『ひとり記憶』(写真・文・橋口譲二)は戦争という時代に生きた人たちの話だ。ただ違うのは、戦争が終結しても帰国せず異国にとどまった人たちを訪問し話を聞いた記録である。
 橋口譲二という写真家は戦後帰国せず異国に生きる日本人を訪ねるという。なぜ、帰国せずその国に残って生活してきたか本人と会話をつづけながら聞いている。いわば、異国で終戦をむかえた人たちの話である。
 終戦をむかえた日、昨日までは征服されていた人々が自国の土地の自分にもどっていく。一方、支配者だった日本人が支配される側になっていく。
 しかし、よく話を聞いてみると異国の地での敗戦は兵隊も住民も「やっと自分を取りもどした」という感覚だったように思えた。

 敵も味方も、攻撃する方もされる方も「国家」という重荷を降ろした瞬間でもあったようにも見える。祖国に帰還する日本人にならず、異国での生活や選んだ理由を聞きながら思うのは、国は違っていても生きているもの同士、本当に自分の人生をまっとうしたいという理由があったからだろう。そして、大切に思えるのは、人は本来理解あえる存在だという安心感が残った。
 それを引き裂くのは、個人ではなくて国家を背負ったときの人間なのだろうと思えた。事実、拳銃や戦闘機は個人の持ち物ではなく国家の持ち物だったということを再認識させてくれた一冊だったように思う。
「生きる」ことを大事にすれば、国とか祖国とかではない。昨日まで敵同士で戦っていても、国家に与えれた銃(暴力装置)から解放されれば、残ったものは「ともに理解しあい生きる」ことだけ。人は生き方が求められ、見られ理解しあっていくのだろう。




「再会」
生きてみるもんだなぁと、思う
その笑みはあの日の悲しみがあって
その口もとには強がっていた時間があって
そのえりあしにはやさしいにおいがあった

時間はそんなことを勝手に
忘れさせていくが
お会いしたその一日
40年前のえくぼが語っている

どんなに悔やんでも
泣きたい40年は
ただあなたを包んだいる
空気のなかにあるだけだ




 1月も終わりですね。
 どんな2017年の始まりだったでしょうか。知人は、まだ入院先で過ごしていました。きっと、来月、手術だろうともらしていました。
 お見舞いに、一人で、遠い地方からきた知人を案内して再度お見舞いにと暖房で暑すぎる病室に通った1月でした。 「こんど、おいしいものを食べにいこうよ」と言って帰途にむかっていました。
 出会いと別れ…。
 そんななかでまた始まっていくようです。
 1月は、人にも気候にも寒さだけが目立ってしまって「寒い」日が続いたように思います。そんななかでも、梅の花や蝋梅はきれいに花を咲かせていました。そんな景色を眺めつつ春が待ちどおしい日々です。
 とにかく2月はいい月にしたいものです。
 散歩をしていたら、引っ越しをしている若者たちを見かけました。みんな旅立つ日も近づいているようです。
 体には自信がないのですが、ぼくなりにボチボチ始まっていこうと考えています。
 さて今月はこのへんで失礼します。
 インフルエンザが流行しているそうです。気をつけて予防してください

 もうじき2月が始まりますね。節分があって、立春が待っています。少しずつ温かくなっていくのでしょう。
読んでくれた人、ありがとうございました。

寒さで、心も体も乾燥注意報ってところです。

2017年01月22日 | Weblog

 こんにちは。
 はやいもので、1月も一週間ばかりで終わりです。「新年あけまして○○」などといっていたことがもう忘れているような毎日です。いつもの1月が始まったということなのでしょうか…。週に一度の仕事での「残業」があって、月末には月刊誌の締め切りにムチを打たれ、あわてている…。それも、どうにか終わった月末には「安堵」という繰り返しがやってきました。

 それでも、昨年とはおきっとどかかが違うのだろうと思いつつ日々が過ぎていくようです。それが、「いいのか・悪いのか」と思いつつ日々が過ぎていくようです。
 とりわけ、いちばん体感している日々の寒さに「乾燥注意報」というラベルが貼られているようです。
 一年の計画が始まった多摩川を散歩。
 橋梁工事というものをやっていました。震災につよい町づくりなのでしょうか。でも、町が強くなっても個人レベルでは心も体も、年々弱くなっているような気がします。まして、これほど震災の多い年代の暮らしていると気持ちも、一人ひとりの心の工事のほうが大事なようになってきます。政治家は、人それぞれのことよりも、形として「強い」なにかがを象徴的に残しておくことに税金をかけているように見えます。元気な市民が災害を乗り越えるのは、頑丈な建物や橋でもなく、一人ひとりががんばれる日々の生活の楽しさのように思えます。(とりわけ、自分のことを考えるとそんなふうに思えますが)。



 さて、今週の「マイニュースベスト」は。

 「不動産王」と呼ばれ、公職経験のない初の米国大統領が誕生した。共和党のドナルド・トランプ氏(70歳)が20日正午第45代大統領に就した。「米国第一主義」を掲げ、選挙期間中では排外主義的な差別発言が問題になった。それでも、「国益を優先」で「米国を再び偉大にする」にとうとう大統領になった(朝日1月21日)

 大統領就任式の場で、「賛成の集会」と「抗議の集会」の様子を放映していたニュースを見ていた。
 いかにもアメリカらしいなあ…という思いがした。「これからいったいどんな政治をすうるのだろうか」という変な期待感もないわけではない思いもある。
 それでも、選挙期間中の発言をみていると、勢いにまかせて「暴走」するような人ではないかという気持ちにもなった。そのとき、不動産王という大金持ちの勢いで「逃走」もしてしまうような危うさもあるような政治家のよういも見えた。一見、超派手な発言は本当なのか…ということも考えた。

 選挙勝因の一つに、いままで失業や人種差別から「置き去り」あるいは「忘れ去られた人」の期待が大きいともいわれた。本来、政治はそういう人の期待に応えて社会をつくっていくのだろうと思う。そして、バランスを保ち差別を解消して、生活をもとに戻してなんにつけ「贅沢しなくても、日々の暮らしができる」政治であればいいのだと思う。しかし、それがいちばん難しいのはこれまでの世界の歴史は語っている。

 政治家は「有言実行」であれば、本当に実行していくのだろう。それにしても、ある意味「乱暴」なやり方になってしまうような発言だった。要は彼をささえるブレーンがいかに政治をつくっていくのかが、これからのキーポイントでもあるのだろうと思う。
 ただ危惧するのは、トランプ大統領の誕生の理由が、誕生させた理由が「人種の排除」を利用していかないかということである。

 就任前に日本の安倍首相がトランプ大統領のところに訪問した。何のために…。トランプ大統領とは「一蓮托生」ということなのだろうか。それにしても、今後の米国新政権にどこまでもついて行くつもりでいるのだろうか。自国の政治も暴走気味に運営のなか、どうまとめていくのだろうか。日本でも今週「通常国会」がはじまったばかりだ。
 最近「ポピュリスムとは何か」水島治郎著(中公新書)を読んでいたら、「ポプリュズム」という状態がが世界を席巻し始めている…ということを書いてあった。なかでも。英国のの欧州離脱や米国のトランプ大統領就任についてその形ができつつあるということだった。本当にそうなのか。
 世界のメディアも模索中のようにも見える。ただ、一方でこの流れは、過去の世界大戦時代の政治に似ているようなところが非常に危険な流れをつくっているようだとの警告を発しているような本でもあった。
 そして、その流れを世界中にこと細かく、丁寧に伝える報道の重要さがいわれているようだ。それは、政治家の言葉が「ここちよい響きの言葉」の本質をいかにつたえるかという大切さだと思える。政治家が市民の支持を集めるのには、誘導すべく「言葉」をいくつもの投げかけいく。

 沖縄でオスプレイが燃料補給中に海に墜落したのはまだ記憶に残っている。ニュースでは「不時着」という表現で伝えられていた。ニュースをみていたら、海に落ちたバラバラの機体を回収していた映像だった。
 「これで不時着はないだろう…」と思った。映像を見なければ、機体もパイロットもめでたしで終わっていただろうと思う。ニュースも放映もみていななければ「不時着」で一件落着の言葉だった。だが、本質は「墜落」でった。こんなふうに、身の周りの本当のことが、伝える響きによってななんでもなくされていくことの怖さを思う。
 安倍首相の「積極的平和主義」はスーダンで武力行使を行なうこと。福島原発の「アンダーコントロール」とは、放射能の危険を閉じこめるのではなく、悲劇を見過ごしていく…という風にみえる。
それがいったいどういう結果を、私たちにつきつけていくのかを知らせることも大事だろうと思う。

 そんなことを考えたニュースだった。

 広告大手、電通の新入社員だった高橋まつりさん(22歳)が2015年12月に過労自殺した問題で、高橋さんの遺族と電通は20日、再発防止策や慰謝料などの支払いに関する合意書に調印した。電通は今後、再発防止の実施状況について年1回、遺族側に報告することを約束した(1月21日朝日)

 「死」をもって抗議した娘さんがかえってくることはない。それでも、二度と起こしてはいけないことだ。
 まさに氷山の一角だろう。この報道が世の中に知られたから、同じような事件が報道されている。今度は男性だった。さらには、昨年のワタミに勤めていた娘さんの過労自殺が浮かび上がってきた。
 「ブラック企業」なるものは、その予備軍でもあるし、実態がつかめないが同様なことをしているのだろういうことは認知事項かもしれない。

 いつの時代にも、労働者の犠牲に資本主義は大きくなってきた。これは歴史が示す法則になっている。ただそれが大衆の反抗にあって、表にでるかでないかの差でしかないように見えた。
 さらに、遺族も泣き寝入りした時代が過去にいっぱいあったはずだ。
 今、よんでいる『遠い光芒』木下富砂子著(鳥影社)にも明治・大正・昭和を生きた女性の物語に炭鉱の様子がでてくる。炭塵爆発によって多くの死者がでたがなんの保障もなく泣き寝入りする時代がえがかれていた。その犠牲の上にさらに炭鉱会社は大きくなっていったようだ。

 昭和に入ってからいちばん大きな炭鉱爆発で「総資本対総労働」の形になった三池闘争がある。
 炭塵爆発によってたくさんの犠牲者を出した。企業はにさらに追い打ちをかけるように労働者に「解雇」を突きつけてきた。このとき、労働者側は労働組合(総評)や政党(社会党・共産党など)が中心になって、死者の保障や一酸化中毒をわずらっら人たちへの保障などを求めておおきな闘いがあった。まだしも、しっかりした労働組合や政党ががんばった時代。当時の事故遭った一酸化中毒によって入院している人もいるという。
 そんな延長線上に今があるのだろう思う。

 それで、企業は安全対策を徹底させたはずだった。しかし、その安全対策も忘れたかのようにまた死者を出す。これは、なぜこうなってしまうのか…、ということが永遠に問われなくてならない。そして、それを監視する労働組合が必要ということ。
 不思議に思うのは、監視をするべき労働組あはどこへいったのだろうかと。労働組合の組織率は低くなってきているとはいえ、ないよりあった方がいいに決まっている。少なくとも働いている側にとってはである。



『ぞうきん』
雨の日に帰ってくると
玄関にぞうきんが待っていてくれる
ぞうきんでございます
という したしげな顔で
自分でなりたくてなったのでもないのに

ついこの間までは
シャツでございます という顔で
私に着られていた
まるで私の
ひふでもあるかのように やさしく
自分でそうなりたかったのでもないのに

たぶん もともとは
アメリカか どこかで
風と太陽にほほえんでいたワタの花が

そのうちに
灰でございます という顔で灰になり
無いのでござます という顔で
無くなっているのかしら
私たちのこんな思いでもいっしょに
自分ではなんにも知らないうちに
ぞうきんよ!

『まど・みちお詩集』(角川文庫)より
      
※日本には昔から、モノ対する思いやりがあったようです。日々使っている道具にも偶然にそこにあったわかではないようで必要にせまられて私の近くにあるのだと思います。そして、その流れを思うと「もっと大事にしてやらないと…」と胸にやきつく言葉があるのではないかと思います。
 この詩をよんでいると、何であれいつかは「灰」になって地球の一部になってしまうのだろうと思えます。それがどこであれ、地球のどこかで土になってなんらかの肥やしになっていくのでしょうか。

◆ ◆ ◆

 朝起きて、のぼる太陽をみていると、誰に褒められることもなく、ただ静かに全人類を救っていくる太陽のありがたさが身にしみてしまいます。ほんとうに世界中の人々を輝かせている光なのでしょう。その恩恵を地球にいて感じている日々は本当は「感謝」していかないといけないのだろう…ね。
 とはいっても、自分勝手でわがままな人間ですから、ムカツクということもあるのでしょう。
 そんなとき、「ぞうきん」という詩を思いだしてください。



 少しずつ、いつものように「疲れた」といっていた日々がもどってきました。
 さて、あと何年働けるのでしょうか。
 今月も終わりが近づいていますが、これもあまり変わり映えしません。なんか新しいことを…と考えてみても浮かばない状態です。もうちょっと、行動しないと、ね。
 はやく温かくなってほしいと思います。インフルエンザがはやっています御注意を!!

 今週はこのへんで失礼します。
読んでくれた人、ありがとうございました。

1月も始まりました。そこで考えたこと。

2017年01月15日 | Weblog

 こんにちは。
 通勤電車も幕の内をすぎれば、混雑が身近になってきました。そして、毎日みていた、数少ない同じ乗客の顔ぶれもみえるようになりました。どこで、どんな仕事をしている人なのか…と思うことがあっても話すことはない人たちの顔がそろってきたようですね。
 年賀状さおつもおおかたが終わったように思います。
 寒さもほんとうに冬の力を見せつけるようにきびしくなってきました。
 西日本では雪がつもったそうです。ふだんあまり降らない地方でも雪がつもっていると聞きます。。

 わたしのところは、のんびりとはじまりました。とはいえ、月末が近づいてくているようです。
 近所の大学で共通一次センター試験の会場でもあるのでしょう。
 週末、朝の電車にはめったに混むこととないのに中央線並みに混雑していました。
 駅は、センター試験の会場が近所の学校がありました。
 受験生の人たちが列をつくって歩いていきました。彼にとってはこれからが本番というところでしょう。センター試験で、さらには、受験校の試験と、今月と来月は忙しい日々を送ることでしょう。それにしても、少子高齢化でどこの大学も人が欲しいわりには素直ではありませんね。受験よりも、希望大学で学ぶ方が大事な気がします。大事なのは、希望する大学に入ってどんなことを学んで、将来に役立てるのかということでしょう。



 そんななか、やすくて働きながら学ぶ場であった「定時制高校」の廃校が計画されているニュースを読むたびに「学ぶ権利」がないがしろになってきているように思える。 
 一流大学を出て、大企業に入社していいように使われないようにきちっとした勉強をするほうがいいのではないかと考えてしまいます。自分の学んだことが、いい方向にすすむように役立てる勉強だと思います。
 受験、学費と借金、学費の返済…。つくづく日本という国の大学はほんとうに学ぶにはお金のかかる国だなと思えます。それでも、勉強してがんばって希望の学校に入っている人もいるのですから…。
 そう考えると、昨年、東大を卒業して広告会社に卒業して「過労自殺」をして女性が可悲しいことのように思えます。人の努力をこれほど「無」にしてしまう社会ってやはりおかしいなと思います。(まえから、ちょっとおかしくなっているように感じてはいましたが…)「過労死事件」を思い出すたびに、大事なことを置き忘れてきたいることに考えさせられます。





 「元気な老人」にこしたことはないのですが…。
 年金支給年齢を現在の年齢から、さらに上げていくようにも思えるニュースがありました。
 とはいえ、自分が目標にしてきた年齢で働いてきた人にとっては「とんでもない」と思うのでしょう。さらに、年金支給額が減るとなれば「とんでもない」と思います。
 わたしも「再雇用2年目」になって驚いたことはその賃金額の低さでありました。
 最近、新聞の投稿に「定年後の給料カットひどい」(東京新聞1月9日)がありました。内容は、定年になり再雇用での給料の明細を見て全てのカット削られており、あまりにも低いのでおどろいたことを書いた投稿でした。これが、政治家のいう「一億総活躍時代」などと本当に言えるものかと憤慨していました。政治家はいくつになっても下がらないのにおかしい…ともふれていました。(読んでいて納得…でした)。

 確かに私も「手当」というものがカットされて賃金も定年前の3分の2になっていました。さらに賞与もないというものでした。仕事は同じようにやっているにもかかわらずです。
 「同一労働同一賃金」ということで、昨年、神奈川県の運輸業者の労働者が、定年後に再雇用され、正規のときと同じ仕事をしていてで賃金に差があるのはおかしい、ということで裁判がありました。地裁の判決では、労基法違反として、賃金をがえるよう判決がでましたね。さらに、高裁ではその判決が覆された判決もでました。
 これからますます「高齢化」がすすむ日本の職場です。それを考えれば、定年後の仕事と賃金のなかみも経営者は考えなくてはいけない時代になってのではと思えます。実際、再雇用の仕事は「補佐」でもなく、これまでと同じなわかですから「経営努力」を考えて必要がある時代になってきたのではないのでしょうか。



 年賀状のなかには、現役の人かと、退職した人からの二通りの形があるようになりました。
 退職したひとの年賀状は旅行の写真を印刷されていたりなんともうらやましい身分であることか…。
 現役の人たちの年賀状は、年賀のあいさつと「社交辞令」の型通りの年賀状でありました。
 いずれにせよ、どちらも元気なことが何よりの便りだと思えるものでした。

 それでは今週はこのへんで失礼します。
 最近は、寒さのせいでしょうかね、どこへいくでもなく休日は多摩川散歩にせいを出しています。歩いていると、寒さはあるのですが土手で元気に運動をしている子どもたちは若者をみていると温かくなってくるような気もします。家に帰ってじっとしているより寒さを感じないのは不思議ですね。
今週は、雑誌の締め切りで印刷の週でもあります。ちょっといそがしくなるだろうなあ…と思っています。

さて…、お年玉年賀はがきの当選番号はどうでしたか?
今年の運勢がさいさきがいいように「当たる」といいですね。
では、読んでくれた人、ありがとうございました。

久しぶりの山歩きでした。

2017年01月08日 | Weblog

 こんにちは。
 お正月休みも終えて、そろそろ故郷の思い出を忘れつつ仕事が始まったことでししょうか。
 いつも思うのですが、過ぎてしまえばもう忘れていて眼の前のことに夢中になっているようです。もう少しすると、気の合った人たち同士で「新年会」でも…となってくるのでしょうか。
 毎年のこととはいえ、寒い日々が続きます。こんな日は、フトンにくるまれて眠っているのが(熊のように)いちばんな気はします(用事がないかぎりですが)が。

 さて、今週は仕事始めということもあって、ちょっとはのんびりしていました。挨拶をするといっても、自分の会社の人はいませんので簡単なものでした。まさに「ワンオペ育児」と同じ「ワンオペ職場」ですので、これからの予定をカレンダーに書いていました。
 ちなみに「ワンオペ育児」とは一人で家事や育児を担うことで、自分が病気をしても誰も手助けしてくれない状況の人のことです。これでは、育児や家事をすることもそうとうなプレッシャーになってしまう状況で休む時間がとれない「過酷」ということです。まして、職場での場合は、仕事から離れれば終わりですが、育児や家事は一年中ついてくるということでストレスもたまると聞きます。

 とまあ、ぼくの今週はこんな様子でした。みなさんのところではどうであったのでしょうかね。


 今週は3連休でしたので今年初めての「山歩き」に行ってきました。天気予報をみると、7日(土曜)を除いては雨や雪でした。これは、ちょっと仕事始めの疲れはあったものの土曜日以外にない判断しての決行でした。

 コースはこの出発がおそいので、自分の体力を考えてみた場合、陣馬高原から小仏までの工程にしました。それでも、やはり登りはつらい時間帯でした。霜も降りていますし、日向では登山道がぬかっていたりします。すれちがう人のなかでは、ころんだでしょうか泥だらけの人もみかえけました。
 それでも泥だらけですんでいいのです。転んで骨でも折ったらそれこそ大変です。以前、ぼくも転んで、小指の第一関節の筋肉を切った経験があります。そんなことを思い出した登りでした。(ぼくが筋肉をきったのは下りでした。今も小指がうまく曲がりません。生活に支障はないのですが)。



 きつい登りが終わるころ、目の前に広がってきたのは遠くに富士山の姿でした。この景色がいちばんのご褒美のような気がしました。
 今までの疲れも忘れて眺めていました。この日は、寒さもあり、新年もはじまったばかりで休みがあるせいでしょうか登山者もいつもより少なくて静かでした。360度見渡せる展望は素晴らしいものでしたよ。



 ぼくが陣馬高原から高尾までの縦走でいちばん好きなところは展望もいいのですが、いちばんは尾根歩きが好きです。木々に囲まれた登山道をゆっくり歩いているときがいちばんの醍醐味だと思います。人が多くて列をなしてしまうことはあまりありませんし、人が少なくってくると近くでは鳥などの鳴き声がきけます。また、すれちがう登山者をみるとのも楽しいものです。がんばっている人、へとへとな人…。これもぜんぶ山歩きです。
 とくに冬は人も少なくて静かさがいいです。
 今年は何回行けるのでしょうか、そんな思いで帰ってきました。



 年賀状もほぼ届き、新年のあいさつもおわりました。
 一年間どんなことがるかな…と思いつつ1月が始まりました。そして、初仕事が始まった。また月末まで始まる月刊誌の仕事と準備がはじまったところでしょうか。

 「再雇用」2年目となりました。
 作年から「同一労働・同一賃金」などいわれていても「本当にそうか」と疑問は引きずっての年越しであった。それは、目標であってそこに届く企業努力といったところなのだろうと思う。若い人にはきっと「今が精一杯」というところだと思う。なぜなら、賃金はいっこうに延びようとしない現実のなか、それを考える余裕さえないというところが正直なところだと思います。
 ぼくも、この年になるまで考えてもみなかった。

 若い時は「働いていればどうにかなる」という思いですごしてきました。事実、どうにかなってきように思います。そして、年々少なくなったが賞与も年2回出ていた。それが生活の補てんとして賄われいた。
 そんな時代だった。
 しかし、今の労働実態は、ぼくの時代よりはるかに悪くなっているように見える。世の中に「ブラック企業」という言葉もなかった。(同じように行為があったとしても、どこかで穴埋めしてうまくまわっていたのだろう)。それが今の時代を象徴しているように思える。

 昨年、大手広告会社「電通」に勤める娘さんが仕事に悩み「過労自殺」が話題になっていた。東大を卒業し、夢にまでみた会社で、仕事をしてがんばっていたのにもかかわらず「死」に追いやられた現実が突きつけられた暮れであった。(2015年の暮れにも、居酒屋「ワタミ」に勤めていた女性が過労自殺をして裁判になり「和解」が成立したにもかかわらずだ)。いつの間にか、同じことがあっても利益をえるために、労働者は本当に「使い捨て」の時代に思えたニュースだった。
 新聞のコラムに「電通の労働組合はいった何をしていたのか」という記事を目にしたことがあった。労働者を守るための労働組合が、いつのまにか機能しなくなってしまったのだろうか。これが、今の労働組合の実態なのだろうか(最近、労働組合の組織率が低下している原因はこんなところにあるのではないか)。

 若い人たちが生き生き働ける姿をみると、こちらまで元気になるように思えます。それが、自然な形のでは思えます。働く人が生き生きしていない時代とは、最悪の時代に見えます。まさに、最近がその状態のように見えるのは思い過ごしでしょうか。
 

 等など…。
 今年がはじまって思ったことです。働くことは大変なのですが、それを支えあうのはやっぱり働く人たちのではないかと思います。それが、疲弊していたら、支えあえません。
 そんな思いで一年が始まるように思えました。
 新年早々から、重い話題になってしましましたが今後もあきずによろしくお願いします。




『日々のおくり方』
朝のあいさつに
「不信人物」といわれ
除夜の鐘の響きが
「うるさい」と
幼児の遊ぶこえにも
「うるいさい」と

人の元気がこれほど
騒音に聞こえた時代はあったのだろうか
一日のはじまりがあり
一年の終わりがあり
人が励まされた声があり

世の中が騒音にするわけは
あるのだろう
その声がどこからきたのか
どこへいくのか
感じながら
きょう
一日がはじまっていく
そして去っていく

誰かの声を聴きたくているのに
意地を張っているような日々

 また、温かくなったら山歩きにいこうと思います。誤字脱字があると思います。ときどき、ご容赦ください。
 今週はこのへんで失礼済ます。読者の皆様くれぐれもかぜのなどひかぬようにご自愛ください。
 ぼくなどは、カゼをひいたりすると、致命傷になりかねなので注意しています。
読んでくれた人、ありがとうございました。

あけましておめでとうございます

2017年01月01日 | Weblog

 こんにちは。
 あけましておめでとうございます。
 1カ月のご無沙汰でした。
 来てしまえば、新年といっても昨日から続きにすぎない一日です。それでも、生涯にとって最大の「節目」という日なのでしょう。

 初詣にいってきました。
 町は寒いなかでもほんわか温かい気持ちが漂っているように思えます。
 なぜでしょうか…。
 きっと、人の心のなかに元旦というのは双六でいえば、もういちどスタート地点に戻ってみようという一日なのかもしれません。
 昨年、なにごとにもうまくいかなった人、うまくいった人、それぞれの新たなスタートへの地点として「元旦」があるのかもしれませんね。それでも、大事なことはスタートラインにくるまでの日々の出来事であると思います。
 さて、どんなお正月をお迎えでしょうか。
 元気に新年をむかえているのでしょうか。



 はやいもので「再雇用」になって2年目を迎えようとしている。現在の職場も異動してから3年目になった。昨年もこの職場で考えたことを「Working Map」のコーナーで更新してきました。自分の置かれている働き方を世間の働き方を考えながら記録するコーナーです。
 今年も昨年同様にここでは、一年中で一番多くいる場所としてどんなことが起きて、どんなことを考えていたのかを自分の働き方を問い続けていきたいと思います。
 昨年は「過労自殺」が問題になっていました。それを守る労働組合はいったいどこで何をしているのかという疑問を持ちながら年を越してしまいました。



『元旦に』
ことしの目標とか
ことしの夢とか
ぎょうぎょうしく問いつづけるのはだれのせい

あいさつで始まって
人はだれかに背中を押されながら
ゆっくりいければいいのではないかと思う

小鳥や虫や草花は人知れず
おひさまが昇れば
沈むまで
あたりまえのように生きて
夜の暗さとけんこんでいく
生きているいることのもどかしさや
いがみあうこと事もなく
きょう吹く風に流れていく

さて
わたしだ
小鳥や虫や草花と同じようにではできないとしても
それに似ていくかのような思いと
行動をしていきたい一年でありたい

※「ひびの詩」は一カ月に一度くらいできればいいと考えています。また、気に入った詩の紹介もしていきたと思います。


 今年は何回山歩きができるのでしょうか。
 ボチボチ時間を見つけたは、近所の山に行ってみたいと思います。一人であれ、友と一緒に行きたいと思います。自分の体力も考えてゆっくりといきたいです。



 さて、今年も故郷に帰って、大渋滞に巻き込まれて、それでも楽しい思い出をつくって帰ってきたころでしょうか。いつも思うことですが、終わってしまえば「早い…な」ということです。
 わたしの正月は、初詣、お墓まいりなどで終わってしまいました。それは、毎年の行事です。これといったことも起こらず、わが家は始まったようです。近所の公園も静かなものでした(上写真)。

 世界では…、米国のトランプ政権のゆくえが注目されていますね。いったいどうなっていくのか。
 それにしても、昨年騒がれた「タックスヘイブン」というものはいったいどうなったのでしょうか。法律的には違法ではないそうですが、それでも、自国に税金を納めない人がいるとういうことはフェアじゃないように思います。その分、私たちの薄給からの税金を取りつづける政治ってどうよ…と思います。さらには、年金も減額するそうですからたまらない不公平ではないのでしょうかね。
 少しずつ頭が、現実にもどっていきます。ああーいただと思いますがこれが、今年も続くのでしょうか。
 そろそろ、仕事始めが近づいてきます。靴磨きでもはじめましょうかね。

 ことしも、考えながらいこうと思います。
 さて、どうなることか。ことしもよろしくおねがいします。
 
 読んでくれた人、ありがとうございました。