こんにちは。
8月も月末。
ブラジルで行なわれていたリオ五輪が終わった。
8月に入ってから連日、どこかのテレビチャンネルでリオ五輪の熱戦をやっていた。
これまでテレビをみていてお笑いタレントがトークする番組が多かったので楽しい日々だった。笑えないトーク番組ほど嫌いな番組もない。そんなわけで日々にへきえきしていた。
五輪放送は、笑いはなかったが真剣に死闘を繰り広げている選手たちの姿は美しかったように見えた。選手たちの4年に一度、全力を尽くして試合をする選手の熱戦には感動するばかりだった。そして、人間はここまでやれるのかな、という気持ちにもさせられたものだった。
メダルを取った選手、取れなかった選手。
代表選手となっても一競技に3位までにしかメダルがないわけであるからほとんどの人はメダルもないまま自国の帰って行くのだろう。マスメディアは、メダルをとった選手には大きな記事をつくり自国に報道する。しかし、出場選手のほとんどがメダルのないまま帰って行わけだ。「今度こそはメダルを」という思いで4年間の練習するのだろう。
一年のわずかな期間だったが、こんなにも人の心を熱くしてしまうスポーツ競技はいいものだと思う。とりわけ、今年は難民の選手たちの出場もあった。自国で観戦し、応援してくれる人々の手のため、強いては自分のために頑張っている姿は多くの感動をつくったのだろうと思う。
リオ五輪を見ていて、目標があることは素晴らしいことなのだろうと思い返していた。
少なくとも、参加した選手たちには4年後の目標ができたのだろう。実際の自分の実力がどれくらいあったのか大会のなかで肌で感じたように思える。
4年後が楽しみである。
そして、終わってみて現実の生活にはいる。
夢のっ舞台は終わったと…、思って町に出てみると人はそれなりの次なる楽しみをさがして動きはじめている。たとえば、お祭り。(そんな季節になったのかと感じさせてくれる)。
もう秋は足元にきていて、それをどう人に感じさせるかは日々の人の動きもあるのものだと思える。
台風10号が近づきつつある休日。雨の止んだのをさがしていた午後の時間、太鼓や笛の音とともに町内会が町にくりだした。きょうも、人は現実を追っている。老いも若きも、このときは年をわすれて必死に山車をひいたり、太鼓をたたいたり、観客もいつのまにか笑顔になっている時間でもある。
季節は、少しずつですが秋にむかっているように感じる音があります。朝夕、静かなとき虫たちの声も小さく聴こえてきます。暑いのはもう少しの間…と思わせるような8月の末です。
さて、今月はどんな本を持ち歩いて読んでいたのでしょうか。
わたしは、小林一茶の俳句の本を持ち歩いていまし。以前、ラジオを聞きながら散歩をしていたとき小林一茶の講演会の放送を聴いていてとても興味を持ち、さっそく読んでみた本です。それも、一瞬を短い「俳句」という文章をつくる。五七五という17文字のなかにその時の気持ちや様子を表現している文学。なにか、このめんどうくさい世の中をとても簡単にひねくり出した17文字でしょう。
他に俳人はいるのですが、小林一茶を選んだのは、講演のなかで「一茶40代にして歯もほとんど抜け」という文句がとても気になりました。これは、ここだけ「僕とおなじじゃまないか」と思い、ではどんな人なのかな思いもあり読んだ一冊でもあります。
ちなみにこんな俳句があります。<なけなしの歯をゆるがし秋の風>
■p81 日々かわる風物、夜々ちがう旅枕、旅は憂いもの辛いものであるけれど、野山の美しさ、知らぬ町の面白さ、それに鄙(ひな)の言葉の目あたらしさ。
■p108 日よ月よ増ゆるものには白髪かな> ■p118 手すりて蚊帳の小すみを借りにけり> ■p189 生き残るわれにかかるや草の露>■p207 寝すがたの蠅追ふけふが限りかな>■p228 うしろから秋風ふくやもどり足> ■p252 うら壁やしがみつきたる貧乏雪> ■p278あとあとの人に飽かれた梅の花> ■p281 元日や我のみならぬ巣なし鳥
■p290 連句の醍醐味はここにある。連衆の丁々発矢の応酬の中、互いの人生がうかがえ、処世観が浮び出る。風流ごころの深浅もやさしみの厚薄も。それをともに尊び、より親しみを共有する、このうれしさ。
■p320 ふるさとやよるもさはるも茨の花> ■p330 なけなしの歯ゆるがし秋の風>
■p360 今まで生きて、あちこち世間をみてきた一茶は、身内に道を外れた極道もんを持つ苦しみも、よくわかるつもりだ。身内は切るに切れない。久離切って勘当さすれば、法的に連座の罪はまぬかれるというものの、血は切れないのだ。
■p388 われ好きてわがする旅の寒さかな> ■p432 うつくしや障子の穴の天の川> ■p464 はづかしやおれが心と秋のそら
【感想】
最近、還暦になり「ぼくの人生はなにをしてきたのか…」って考えることが多い日があります。
働いてきた、ということはありますが、それに付随していったい何を支えにきたのだろうか、と思います。人生あとわずかで終わり…と思うと現実にいったい何がこれまで支えてきてくれたのかなあ、とも思います。
これまで、多くの人に支えられて生きてきてそのなかみをもうちょっと考えてみようという気持ちで読んだのが小林一茶の自伝ともいえる『ひねくれ一茶』という本でした。
小林一茶とう俳人の人生。
農家との子としてうまれ、家族の一員とすごす日もなく江戸に奉公に出される。奉公先で俳句とめぐり合う。その俳句を人生の糧として生きる。勉強を重ねて、全国に俳句行脚の旅に出る。旅先でいろいろな景色のなかに生きる人々の姿を俳句に残していく。
気がつけば50歳を過ぎている。長野の父もなくなり、遺産相続問題、結婚、子どもの誕生。そんな中で、いままで世話になった全国の俳句仲間が鬼門にいく。その姿を隠さず俳句と向き合って創る姿勢が後の一茶が一茶という名を遺した所以だろうと。俳句その数約2万句ととてつもない数を残した。その一句、一句を読んでみると今生きている一茶の心の風景が浮かび上がってくる。
俳句という「風流」を楽しむ世界から、市井の現実を描写した一句はいまでも感動的だと思える。
自分の身の周りにおこっている事実が今も昔も変わらないということをつくずく感じさせる物語。
読み終えて、では「ぼくはどんな足跡を残してきたのだろうか」と。借金くらいだろうかと。
【内容】
浅草寺の境内にたたずみ、通る人を見つづける。これと思う人に声をかけ、山門の壁ぎわに立ってもらい、40年。撮った人は1000人を超えた。1973年以来、写真家・鬼海弘雄がいまも撮り続ける肖像群。その中から80人の他人とは思えない世間のひとたち、誰しもが「王」であり、強い存在感で迫る。初出100人以上、また間にエッセイを挟む。写真についての考えを語ったあとがき付き(ちくま文庫紹介より)。
【感想】
日々の生活の中で「しんどさ」を感じたら手の取って読んで(実際はみる)みると楽になるような本だと思える。小説もマニュアルも読むものに疲れたとき気がついてカバンのなかにいれていたら、いつの間にかまくらもとに置いていた。写真集に橋口譲二の『17歳』がある。17歳という年代の人たちを撮ったもの。大人への入り口で悩んでいる様子や、これからやろうしているも夢への明るさや暗さが見えるような写真集であると思う。『17歳』は不安、希望、夢などが表現しているとしたら『世間のひと』の人々は、人生浪花節、達観している人、なんと思われようと自分をつらぬいて生きている人などが見える。
どんなにぶざまに世間が評価しようと「私は私」という頑強な姿の世間の日々を追った写真集は語っているように思う。自分がこれまでの生活が今の自分がいるんだ…ということを隠さず、騒がず淡々と写真に撮られている『世間のひと』と人たち。
そのオン姿をみてると、落ち着いてくる読者になっている、そんな不思議な一冊でした。
年賀状以外にはがきを使うことはめずらしくなった。
夏には暑中見舞いという安否をたずねるはがきがある。最近は、メールやツイッターというもので終わってしまう。それでも、ゆっくり手元にとって自分の様子を伝える通信手段は貴重だと思っている。相手も自分もゆっくり読めるのがいい。
今年も暑中お見舞いを数人に送った。
忘れたころに、電話でのお礼やらはがきなどでいまの様子を伝えてくる。
元気なのか病気なのか、それとも不通なのかわかってくる。
まだ、返事のない人のことを思いつつ秋がかくる。日々の忙しさの中に忘れていくのだろうと思う。
今年は仕事の関係で夏休みがとれず、とうとう月末に振り替えていた。
やはり、お盆の時期一緒に休んで同じ、空気の中で楽しみたいと思います。
気がつけば雨が多くなり、台風もやってくる。
秋がそこまで来ているのだろうと思う。ちょっとは涼しくなると安心する。
今回は「今月の読書」は「カバンのなかみ」というタイトルにしてみました。一か月間、通勤電車や散歩の途中でカバンに入れておいた本を紹介することは同じです。ちょっとした「気分転換」というところです。
来週は台風10号がいよいよご対面するかもしれません。
「大型でたいへん強い台風10号」というニュースは連日続いています。「厳重に注意してください」などということもいっています。そんなにいうのであれば、「会社は休んで外に出ないでください」といってくれた方がよりわかりやすいのにと思っていもいます。そんなに危険なら仕事どころではないだろうと。正直ではないですね。
今週はこのへんで失礼します。
読んでくれた人、ありがとうございました。