日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

4月・何が始まるなやら。霧のなか…

2018年04月15日 | Weblog

 こんにちは。
 はやいもので4月も半ばですね。今月はじめ新入生、新入社員といわれていたらもう4月も後半になっていました。新入生は学校になれたころでしょうか。
 ある小学校一年生の職場の母親が、入ったと思いきや学校から「布袋を準備してください。それも寸法どおりのmのを用用意して」といわて…とあわてていました。何からなにまで初めての経験です。働きながら子どもの学校の準備まとは大変なようすです。働いてお母さんはにとっては学校の注文は突然すぎることが多いと嘆いていました。専業主婦ばかりだと思ってはいないでしょう。
 一方、新入社員は研修の真っ最中のころでしょうか。私の会社の新入社員はお客さんまわりで頑張っていました。私がいつも週一回の出向先にも来たそうですが…。「まだ、仕事はまかされませんね」と…。
 いずれにせよ、少しずつ自分なりのペースをつくりつつ慣れていければいいですが。いいスタートをきれたのでしょうか。まずは人に慣れてください。

 最近は春といっても暑い日が時々あります。散歩をしていても汗ばむときもあるくらいです。その分、草花には歓迎されているようで道々咲いている花を多くみる機会がふえました。2か月前まで色がなかった多摩川にも、大小さまざまな黄、赤、紫色が映えてきました。自然の息吹を感じるこのごろです。

 それにしても今の国会も色々なことをやっていますね。
 森友問題、加計学園、イラク派遣日報問題、文科省の前川氏講演問題など。
 どれをとっても政府があまりにもずさんな公文書管理にはとどめがかかりません。その公文書を通してしまおうとする力づくが目立っています。さすがに与党内からも関係者の招喚をして事の真相を討論する必要がある…という意見も出てきました。そして、追及すればするほど今の首相の疑惑が深まるような気配でもあるように見えます。首相が国会答弁で「自分の妻が関与していたら総理大臣も国会議員もやめる」との啖呵をきってしまったことが、それぞれの関係者に足枷(かせ)をつくているようにも思えます。いわゆる「忖度(そんたく)」でしょうか。それが強行されれば、真相が出にくくなるばかりではないかと思います。この啖呵によって「間違いを正す」国会審議も危ぶまれていることも見受けられます。国会がその方向でいけば、国民は騙されてもいても流れにそっていくしかありません。

 いまこそ問うべきは、与党国会議員の「道徳」ではないのでしょうか。



 2019年女子ワールドカップフランス大会予選を兼ねたアジア・カップで13日、アンマンでのオーストラリア戦で1対1の引き分け。8大会連続のW杯出場を決めた。

 男子の監督がハリルホジッチ監督が成績不振のため更迭され、日本人の西野朗新監督が就任したというニュースを聞いた。ここにきて、ないだろうと思うのは甘かったようだ。最近の日本代表の試合は勝つことがなかった。せいぜい引き分けだった。世界ランキングも60位まで落ちた。試合をするたびに世界の壁の厚さをみせつけられたものだった。選手起用がなかなか「わが意を得ない」形であったのことにも監督自身も気がついていたのではないだろうか。チャンスをつくっても決定力がかけたシーンを何度も見た。そして、選手とのコミュニケーションがうまくとれていないもことだろうという様子もあった。だから、試合に勝てない状況が続いたのだろう。事実「選手とのコミニューケーションや信頼関係が多少薄れてかいたということ。そしてさまざまなことを総合的に評価して、この結論に達した」(日本サッカー協会・田島幸三会長説明)にあらわれている。
 男子のサッカーは日々更新しているようだ。そこに到達するのはかなりの時間が必要だろうと思う。(冬季五輪のパシュートの金メダル選手たちが多くの日々を合宿に費やしたようになることは、国内リーグもあるし無理だろう)。一対一の攻撃は技術的に無理な今、これまで通り素早いパスの攻撃を見せてほしい(これまでの代表はそれができていない)。そしてそれを磨きをかければいい。

 一方、女子代表(なでしこジャパン)は決して強いわけではない。最近ではこれまでの韓国戦は勝てると思っていたが、引き分けている。負けないところがよかったが、確実に韓国の女子サッカーは力をつくていることを見せた試合だったように思う。
 それでも負けずにワールドカップに出場できるのだろうか。
 2011年ドイツワールドカップの時のレベルはまだまだだと思う。優勝したドイツ大会の試合はゴール前の「ワクワク感」があった。そしてキャプテンの澤選手が引っぱった。パスワークもずば抜けて安心感を持っていた。なによりも選手間のパスの距離感がよかった。いちばんスピードの出る距離をいつも探していたように思う。それは、選手個人の距離感ではなくチームがゴールを目指すものだったように思う。今のチームはまだそこまで到達できていない。日本女子は世界のチームに比べて背が低くロングボールなどへの対応は強くない。それでもそれを補うパスの正確に相手に送る距離と信頼があったように思う。ボールを奪った瞬間、少なくとも前へ飛び出す選手が多い。男子のように意味のないように思えるバックにパスをすることが少ない。まずは、誰かがゴールに向かって飛び出す選手の信頼関係ができている女子とはちがっていたようだ。そして、何度も失敗の多いチャレンジをしていたことが印象的だ。まずはゴールへボールを運ぼうとする個人ではなく、チームを作ろうとしている。

 まさにぼくの好きなアイルランドサッカーの形だ。愚直に何度も同じようなプレーにチャレンジしていく姿、得点をつくることを知っている。
 得点を取るためには何度の失敗をして、それを反省し違うアイデアによってチャレンジしていくしかない。それが大事だと思う。
 女子サッカーは決してうまいといは思わない。それでも、その下手さを何かでカバーしようと動きまわる。そんな姿がチームとして動き出したとき得点になるはずだろう。高倉監督が「究極の戦いを経験し、勝ち上がったのが一番の財産。一つチームが成長した」と語ったことが印象的だ。
 とはいえ、ぼくの好きな、宮間 あや(サッカー日本女子代表元主将)さん、大野 忍(日本女子サッカーリーグ歴代最多得点記録保持者)のプレーがみたいのだが、出場いしていないのが残念でならない。どうしているのだろうか。宮間選手のピッチでの「監督のこうしたい」を確実に「こうする」の行動がよかった…。帰ってきてほしい!!。


 滋賀県彦根市の河瀬駅前交番で県警彦根署地域課の井本光巡査部長(41)が拳銃で撃たれて死亡。殺人容疑で逮捕されたのは男性巡査(19)だった。

 米国では学校で銃の乱射事件が起きて多くの生徒がなくなったという悲しいニュースを読むことが多い。銃社会の悲劇として伝わってくる。まさに、確実に銃という凶器が人間社会とい相容れないものだとういく記事である。だが一方ではなくてはならない道具としての銃の存在が語られることもある。警察にとっては、銃は口以上にモノをいうことをぬきに語れない道具なのかもしれないと思える。できれば、使わないようにすべきものだと分かっていることも暗黙の了解のいきである。

 誰しもこの銃の前では沈黙してしまう最高の凶器だということを誰でも知っている。それが、悪にたいする最終手段として使われるだろうと了解している(時には権力の代弁役として銃を使ってきた歴史もあることも事実だが)。それが、ある日突然、無辜な人たちに使われたら「犯罪」になることは法律が論ずるところだろう。それが使われる場所、使われる条件、使うべき人であるとき法律が規程さしているのだろうと思う。

 ところが、あろうことか「警察官が警察官を射殺」というニュースには驚いた。テレビなどはあるかもしれないが現実に起きるとは思いもよらなかった。まだその詳細はわかってはいないが、これまでの報道によると上司に叱責された部下が怒りに乗じて銃を上司に発砲したとなっている。それも背後からだからだという。いったいどうなってしまっているのだろうか。身内が身内を壊してどうするの…、と思う。それを取り調べる人もつかれることだろう。
 ここでもパワハラらしきものがあったのだろうかと考えてしまう。
 そして、それを払しょくさせるために相当なエネルギーを使うことだと思う。

 最近、「公僕」と言われている公務員(地方。国家)の様子がおかしくなってきてはいなのか。公文書なるものが勝手に書き換えられる、派遣した日報は書き換えられて出てくるというニュース。そして、森友学園問題では、近畿財務局で改ざん作業に従事した作業員が「自分の常識が破壊された」といって自死した。そして今回の上司殺害発砲である。公務員の地位について憲法では「全体の奉仕者」という精神がある。ところが、現実には、個人の怒りや、あるいは一政治家(大臣)のことを考えての国会招喚答弁である。
 まさい「自分の常識が破壊」された状態がつくられてきてはいないのかということが大変気になっている。それも、「忖度」ということを背後に、あるべき形を犠牲にしてまで突き進もうとしている「空気」である。これは怖い気がしてならない。

 最近、身じかにそんな光景を多くもつようになってきている。会話にならない、しない人達が多くなってきたように思う。職場でもそんな気がしている。
 いやーな空気が突き進む先にあるのは、日本の戦前、戦中一部のほくそえむ一握りの人間の姿ではなかったのではなかったのか。通常いちばんいるだろう職場での「働き方」という生産をあげるだけの働き方よりも「なぜ働くのか」ということも大事ではないことなのではないのだろうか。とくにいまの政治家の人たちに望みたい。




【西荻窪駅】
 西荻窪は、散髪屋さんに寄るだけになった。二十代のころから通っている。通算で四十年以上通っている。
 途中、引っ越し先(M市、F市)の散髪屋さんに通った時代もあったがけっきょく、西荻窪に戻ってきたわけである。なにが違うのだろうか…。
 ここは、椅子に座ってから終わりまでの「ゆったり感」がほかと違うように思う。とはいえ、できれば地元で行きたいと考えた時期もあった。休日にのんびり立ち寄れる場所が理想だ。M市時代、地元の散髪屋さんを探していったおぼえがある。終わってみたら、いつもとちがって、あまりにも短く切りすぎていてビックリしたことがある。「ときすでに遅く…」でどうしようもなく、およそか髪がのびる2カ月間はがまんの日々だった。そこへもう二度といかなくなった。確かに、一度や二度では自分の髪型まで覚えてくれるわけはないのだ。

 子どものころおもしろい散髪屋さんがあったことを思い出した。病院のカルテではないが個人の髪型を(髪型の)データとして残しておくというものだった。次にくるときは、そのデータを出して散髪する。それがどれだけ役に立ったかはわからないが、散髪屋の主人もお客獲得に頑張ったのだろう。そのデータは今ではどうなかったはわからない。もちろんパソコンなどはなかった時代。手書きで書いて残しておくのだった。
 ぼくは床屋さん嫌いでほとんどいかないので頭を洗っては泥水が髪といっしょにながれていくたびに恥ずかしかったことを思い出す。なんせ、頭を洗うと非常に軽くなった記憶があるくらいだからよほど汚れていたにちがいない。たいへん世話になった散髪屋さんである。ご主人の企業努力に感謝している。



 最近、西荻窪の散髪屋にいくまで何件もの同業のお店を見かける。ある店は「安さ」を売り物に、また「速さ」をと企業努力は大変なようすである。やはり、今の人たちは「安さ・速さ」を散髪屋さんに求めているらしい。ぼくの行くところにそれを求めるのはやや危険を覚悟しなければならないだろう。ひげをそったら血まみれになるかもしれないからだ。
 四十年もあいだ通っているわけだから、ご主人もすでに僕と同じかそれ以上の年齢のはずだから。
 ご主人が子どもを自転車のうしろに乗せて保育園にむかっている姿を知る者として「後継者」のことも気になる時期になってきたように思えますが…。

 私たちの新婚時代に住んだ西荻窪です。小さな町ですが静かな町です。今も時々降りては散髪屋さんにお邪魔しています。きっと、今のご夫婦がやめたらわたしも行かなくなるのでしょう。
 ちなみに、西荻窪は原爆禁止の運動を起こした発祥の地です。ここに住むおばさんたちがいち早く放射能の危険を世に知らしめた人たちの町でもあります。



 そろそろ5月にむかった動きが始まっています。大型連休への準備でしょうか。私の住むところでも、「暗やみ祭り」の準備でしょうか地域ごとで練習風景などをみかけます。住む人たちにとっては一年に一度の大イベントですから力が入るのでしょうか。私自身、その祭りを最後まで見たことはありなせん。それも、当事者ではないからなおさらです。一部の人がやっているだけでのとお思えてしまいます。それでも毎年、頑張っていることには感心しています。

 私の今すべきことは来月「年金事務所」の予約をとって受給資格を完全なものすることぐらいでしょうか。年々すくなくなっていく年金というのはどういう仕組みなのでしょうかね。
 最近、政府が高齢社会の対策として「高齢社会対策大綱」を決めまたということを耳にしました。少子高齢化で働く人の人口が減る中で、高齢者の人にも働いてほしいというものでしょうか。「全ての人が自分の能力を存分にいかして…」との首相の肝いりでもあるようです。しかし、安い給料で働いて、病気にでもなったらどうすることもできない社会のありようをどうにかして欲しいと思いますが。まさに「一億働き手」の号令のように聞こえます。さらには「死ぬまで働け」とも聞こえてきます。
 いったい、これまでなんのために働いてきたのでしょうか。
 まいってしまいますわ!!。

 今週はこの辺で失礼します。

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