こんにちは。
新緑の季節を満喫できたでしょうか。
この季節は命の芽吹きとでもいうのでしょうか、寒さになかに耐えていたものが一気にでてきて、目にふれさせてくれてます。それが、誰彼にほめられることなく、ただひたすら自然のひとつのできごとしてわたしたちの身近になっていく季節でもあります。
さて、5月はどんな一か月げつでしたか。
ぼくのところは、職場の移動、人事の異動と日々がかけあしですぎていったように思えました。そして、また一からの仕事がはじまりました。
そこで見たものは、これまで一人の職場から大勢でのなかにあってのメリット、デメリットを考えたひと月でもあったように思えます。
5月になり、さわやかな季節。読書にもってこいという季節は感じてはいたものの、職場の引っ越し後の態勢づくりや、週2度の出向とあわただしい出来事に翻弄された一か月もありました。
ついでの本もたくさん捨てた月でもあります。家でも会社でも併せてたくさんの本を片づけていました。そんななか、今まで読んできた本、これから読みたい本などのことを考えた月でもありました。
原則として、新書はできるだけ読むようにこころがける一方、再読したい本も多くあります。
今回、紹介する澤地久枝さんの本は再読の部類にはいるのでしょう。
それは、昭和という歴史のなかで知らされていない人々の声や生きざまが多く書かれた作家であるかだと思えます。
「いったい、戦争があった昭和とい日々はどんな生き方や声があったなのか」ということに熱心の取り組んだ作家でもあります。
そんな中で、とりわけ多くの人が犠牲になった「戦争」という出来事に翻弄された人々にスポットをあてています。それは、名もなき多くの若者が、市井の人々の生きざまをすべて強制的に折ってしまう時代を掘り越した作家ということもいえます。
新書では髙村薫さんを読んでみました。
いまこそ、作家が声をあげるときはないのではないかと思います。こちらは、今を生きる時間に合わせた作家の発言になっています。日々、時の為政者に翻弄され、強引に生き方さえも変えさせられようとしている時代だからこそこういう作家も大切な指針を与えてくれるものです。
これまでの出来事のなかで、ふと足をとめて考えてみるとき、同じ目線に立ちその方向を指しているような気もします。
■崩壊するような山の斜面でもなく、溢れるような河川もない恵まれた住宅地だが、それでも十分すぎる恐怖を味わい、いまさらながらに自然と比べて人間の存在の小ささを思った。大雨の水があふれ、山が崩れ、家や道路が押し流されるのを、まさに見ているほかないのが人間の身の丈というものだとすれば、私たちはもっと自然を恐れて生きるべきだろう・(大雨に思う・p49)
■一口に国民と言っても、価値観は多様である。今回の衆院選の自民党の得票数は、全有権者数の二五%に過ぎない。二五%の有権者の価値観が、残り七五%の生活を牽引していくのだが、このことに違和感を覚えない人はいないだろう。理由が何であれ、全有権者の半数近くが選挙に行かなかった結末がこれである(有権者の「諦め」未来はp63)
■一般の日本人は、二十一世紀のいまなお国連で戦時中の慰安婦問題を非難されるようなことに不本意な無力感を募らせており、それはリベラルを目標としてきた人びとも例外ではない。一方で、たとえばオリンピックやワールドカップの日の丸に熱狂する心象の、ほんの一歩先にはナショナリズムの熱狂狩り、それが生活の安定や希望を失った日本人のこころを埋め合わせるものになる。こうしてとくに政治的というわけではない浮動票が安倍政権に流れ、野党ももはや代わりの選択肢を示せないでいるのである。(二分される社会p73)
■書き手も読み手も、自分自身や身辺の暮らしには大いに関心があり、それについては多弁ですらあるが、一方で、自身が生きている社会や時代を言語化する必要を感じなくなったのかもしれない。そうなった理由は、ウィンドウ95に始まった情報化社会の爆発的発達であり、ネット世界に溢れだした膨大な情報ですべて間に合うような幻想がもたらされたことだろう。…とまれ、人間と社会のことを書き尽くさんとしたかつての社会派小説や全体小説が消えたいま、世界は個々人がネットからつまみ食いした情報の継ぎはぎによって捉えられるようになった。全体が消え、全体がもっている複雑さが消え、全体があってこそ常識や社会性が消え、国のありかたを問う視線が消え、政治や歴史への関心も大きく損なわれた。(宗教と市民社会p75-76)
■というものの、年齢とともに生き方や価値観はもちろん、日常生活の一つ一つを変更すするのが難しくなり、判でも押したような平板な人生を送っているのを感じるからである。長年こうだと信じてきたものが揺るがされたり、更新を迫られたりする不快感を覚え、それならいっそ背を向けていた方が楽だとばかりに世事に関心をもたなくなる。それでも内心はそういう自分に違和感もあり、少し無理をしてでも新しいことに挑戦したり、さまざまな社会問題に眼を、向けたりして、あえて自分に負荷をかけることもする。これは個人がボケ防止策というより、少し大げさに言えば、人間としてこの社会に生きる義務のようなものだと思う。(真面目に生きるp98-99)
■一方、かくも不真面目な国会議員を目のあたりにしながら、怒りの声を上げない有権者もまた真面目に生きていいないと言うほかないが、自衛隊員の戦死や非正規雇用の貧困を想像するぐらいのことがなぜ出来ないのだろうか(同、p99)
髙村薫という作家は気になっていた人。ときおり、新聞のコラムなどに自分の発言を書いていた記事を読んだこともあった。小説の方は一つも読んでいない。ときおり新刊が紹介されている広告をみると、小説も読んでみるかと思う。時代のかおりをぷんぷんさせるような小説があることだろうと思う。
『作家的覚書』は、きっとその屋台骨みたいな時評であるのだろう。
日々、たうさんの情報にふれるがその本質は読者まかせであるかのようになっている。でも、事実は「そいなるようにつくられているかマインドコントロールされている」かのような判断になっていることに気づかされる。
その多さにたてうちできなくなり、挙げ句の果てに本当にその「本質」や「原則」のようなものが捨て去れていく日々を感じさせてくれる一冊だと思えた。例えば、安倍首相の支持率が何を強行して、横暴なと思っていても下がらない…、という数字のトリックはどこにあるのだろとか思うことさえめんどうになっている。余裕もなくなっている。
そんななかで「憲法改正」という大事なものが東京五輪という最大級のイベントの一緒の中に組まれている。さらには「共謀罪」とても同じ中に組み込まれている。憲法改正という大変なテーマが東京五輪のなかに小さく見えるような錯覚をつくっている。五輪が終われば、とんでもないほど重要なことに気がつくときは「あとのまつり」状態だ。そう思う。
と、まあそんなふうに気がつかせる一冊だと思う。
「ものを言うこと、それもまたまた行動である」と帯に書かれていたがまさにそのことを言っている作家なのだろう。
小説は、人のすきまをうめてくれる物語でもある。読んで「こんなこともあるだろうな」と気がつかさせてくれる。それは、読んだ人の気持ちが小説の一部と重なる何かがあるからだろう。それだけではなく、社会のなかに目をむけるとこんな「時評」もその背景だと思えることが気がつのではないのだろうか。
■沈黙し耐えている人間の内側にある感情――。嘆き、痛み、憤りを他人事ではなく感じるような人生遍路がわたしにもある。(歴史の裏方p33)
■苦労させた子供がやっとその境涯を抜け出る――それを見守る親のような気持もあるかもしれない(軍衣の男たちp51)
■人生とはいわば出会いのことで、人々と出会いもあればあるいは難病との出会いもあります。出会いたくない出会いは避けたいと思っていて、選択の余地なく向こうからやってきます。どんな非凡な人生であろうとも、また、平凡な人生であろうとも、そえぞれに余儀ない出会いの連続のなかを生きることで人生の暦はのこされてゆき、その暦はひとつの異なった顔をもちながら、どこかでよく似ています。(女たちの暦p62)
■おんなは一人前の人間として扱われなかった旧民法下の社会。教育勅語があり、徴兵制とそれを支える軍人勅諭が生きた時代。治安維持法によって「国体」が守られていた時代。そして戦争の時代。(時代の浮島p107)
■人生は旅であるとよく言われることである。その旅は、どんな試練にさらされているときでも、かならずどこかから見守っていてくれる視線があり、さしのべられる手のぬくもりのある旅だった。だから生きてこられたのだと思う。(五十歳の断章p114)
■ある人間の物語は、連鎖のはじまりにすぎない。「昭和史のおんな」は昭和を生きたおんなたちの歴史であり、男たちの歴史であり、いまなお生きつづけていることを思う。(愛すること生きることp152)
■仕事もひとつの旅に似ている。どんな旅にも終わりがあるように、やっと「あとがき」を書くところに辿りついた。(敵・味を超えるp168)
■わたしたちは死者たちによって生かされている。別れの余韻を心で聞きながら、やっぱり明るく笑って生きていたい。(ひそかな慕情ひそかな鎮魂p182)
■人のいのちの重さについて、そのいのちのちがいに軽く扱われるかということについてわたしはの思いは、敗戦後の満州生活からはじまったのかもしれない。~かつて日本の社会は、個人の命の重さなど問題にしなかった。兵役法という強権で軍隊に召集はしても、どこでどのように死んだかを確認する仕事は国家の義務ではないようだ。(祈り・記録ミッドウェー海戦p191)
■いのちの重さにわたしがこだわるのは、「昭和の歴史」の内実、とくに無名の生と死を忘れがたいからであり、わたしの心をとらえているのは国家を超えてすべてのいのちの明日なのであす。(いのちに国境なしp231)
再読した本。
1994年5月に購入した記録があるところをみると、23年前に一度は読んだ本ということになる。23年前となるとおよそ40歳の時である。仕事もおおよそ覚えて、職場ではバリバリ仕事をしているころでしょうか(?)。
どんな思いで読んでいたのだろうか…。
今回手に取って読んだのはたまたま本の整理をして見つけた本だ。
最近、澤地久枝さんの名前をきくようになった…という記憶があったためであろうか。どこで聞いたのかと記憶をたどってみたら、去年の国会デモのときに聞いたし、最近では憲法改変をめざす与党に対して反対をしている作家ということを改めて思い出しからだったのだろう。
そして世は、共謀罪という法律が今まさに反対を押し切って強行しようとしている。そんななかで、二度と戦争のやらない日本をめざそうとしている自公与党政治。そんな中、今の日本がどんな歴史のなかで気づかれたのかを説いた作家でもある。戦争を一人ひとりの人間に視点をおいて書かれた作品が多い。
その歴史をひきずって今がある。その歴史は「美しい国」などではなかった。そのことを全国を歩き聞き書いた作品群は貴重なものだと思う。
さて『苦い蜜』(わたしの人生地図)は、これまでのノンフィクションを書き上げたきたなかでの苦労話やその作品とかかわるのなかで考えたエッセー。
書き上げていく中で厳しい現実を突きつけられてくじけそうになるなかでも、もういちど考えを原点にもどし作品として世に送ってきた物語でもあるように思う。それは、作家だけではなく、わたしにも気づかせてくれるものがある。そして、世の中はずっとつながって今があるとうことを気づかせてくれることもあった。
もう少し、澤地久枝さんを追いかけてよんでいきたいと思った。
とはいえ、絶版が多くて残念なきがする。いまこそ必要な作家だと思うが。復刻を期待しつつ…。
ぼくにとっての5月は、駆け足ですぎていったように思える。
本社への異動を受け、週2度の出向、さらに本社での仕事と落ち着くことも許されないほどの忙しさだった。
ぼくとしては、本社でゆっくり仕事をやりたかった。へんな感じのまま5月が終わろうとしている、というところである。これが「再雇用」という形なのだろうかとも思っている。
6月には、もうちょっと自分のペースをつくっていきたいと考えている。いまさら、他人の目をきにしながら仕事する年でもない。
それに、他人の合わせるほど体力もないことは、いちばん自分がしっている。
そろそろ梅雨がきそうである。
雨も余裕があればいいのだが…。
ちなみに、「共謀罪」という法律が参議院に審議が舞台が替わるそうだ。
なにがなんでも、五輪やテロを最大限に活かして、人のこころの不安ばかりあおって、成立をもくろむ与党に対して野党はどうしていくのだろうか。さらに、不安なのは先の審議会では、答弁にしどろもどろの与党の答弁でなか、「共謀罪」の成立かという疑問が払しょくされていない。とんでもないことだといっても「聞く耳がないのか」「見解が違う」のか。だから納得する議会だろうと思う。
では今週はこのへんで。
読んでくれた人、ありがとうございました。