日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

10月も終わりに思ったこと…

2007年10月28日 | Weblog
 10月も最後の日曜日になってしまいました。はやいもので今年もあと2カ月で終わりです。今月はなんとも足早に過ぎていったことか…。
 今月は、私の怠慢もあるのでしょう、ゆっくり考える時間もなく、月日の流れの速さに追いかけれらた1カ月であったように思います。そして、気がついてみればまだまだ続く仕事をしていました。
 そして気がつけば、ラグビーのW杯は終わり、野球の日本シリーズ、アメリカのワールドシリーズも始まっていました。特に、ワールドシリーズでは松坂、岡島、松井選手の活躍を期待したいものです。
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 さて、今月の最終になって思うことに仕事はやはり「信頼関係」が大切だということでした。なぜ、そう思うのかと言うと、信頼関係があまりない職場であるからそう思えてしまうのでしょう。
 三重県伊勢市の「赤福餅」製造日偽装問題がありました。創業300年の老舗がこんなことをしていたということで300年の伝統というか信頼が一瞬に落ちていくように思えてなりませんでした。それにしてもいままで何をやってきたのでしょうか。
 創業当時は今のような食品を保存する保存技術もなかってためきっと作ったものだけしか売らず、売り切れで終わっていたのでしょう。それでも、伊仙神宮にお参りした人たちにとっては楽しみの一つであったに違いありません。
 創業当時のおいしい、そしてお客様によろこんでもらうことで「赤福餅」の味と伝統ができあがったのでしょう。
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 時代はかわり、保存技術も発達して日持ちがするようになった「赤福餅」。そして全国の人たちに食べれ喜ばれる商品になったことなのでしょう。それなのに「製造日偽造」はどうして起こってしまったのか。
 作れば売れる…。売れれば儲かる…、といった利益優先が創業当時のこころざしのようなものが消しさられていったのかもしれません。それを、オカシイと思った誰がか内部告発したのかもしれません。
 300年という創業当時からの信頼がこの日、危機に瀕したのでしょう。
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 消費者は製造過程も内容も赤福餅を食べるということと同時に信用しているわけだと思います。それが「ウソ」えあれば食べなくなります。食べなくなるというより「残念」におもうのかもしれません。操業停止になれば「あのおいしい赤福餅」が食べられなくなってしまった…と裏切られたと思えてしまいます。
 不二家のシュークリーム、北海道の「白い恋人」チョコレート、ミートボール食肉と、ことごとく「信用」がなくなってきました。それも長い間操業してきた企業ばかりです。きっとこれらも内部の人のてによる「内部告発」によってあかるみに出てきたのではないかと思います。告発したひとも相当の勇気が必要であっただろうと思います。その人にとっては良心によって流れをかえたかったのかもしれません。
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 ここで自分のつくっているモノに対してどれだけ自分は「信用」できるのかという問いが一方ではかえってくるのかもしれません。
 *読んでくださった方、ありがとうございました。

35年ぶりの再会

2007年10月21日 | Weblog
 一日の終わり。日の暮れるのが早くなってきました。そして、寒い日が少しずつきているようです。
 寒い日が近づくにつれ「嫌いな冬がまたくる…」という思いがやってきました。
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 先週は四国へ行って、今週の週末の休日は病気の兄を見舞いにいってきました。今年は厄年か?と思うほど身辺の人たちの危機が舞いこんでくるようです。それでもベッドで眠っている兄は頑張っている様子です。
 2週連続で西に北に飛び回っているうちに毎日が時間に追われているような感じがします。とうとう疲れ果て、ここに住んでいる人たちには申し訳ありませんが今日予定されている「管理組合総会」は欠席してしまいました。おかげで、久しぶりに静かな午後を過ごせました。
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 「人の生命にはいつか終わりがあるだろう…」と思うと悲しくなってしまいます。こう思うとなんとも人生の短かいのでしょう。
 今週、ひとつ良かったことがありました。田舎のお見舞いの帰り、弟の働く職場の「農業祭」にいったときのこと。35年ぶりに同級生に会いました。出会いとはとんだ瞬間にやって来るものです。35年ぶりにあって話したことは仕事のことや他の同級生のことでした。
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 お互いが元気なことを確認し、また会えるかどうかわからないまま別れてきました。最近は、新しいものを見つけるより、なつかしい人たち会う方が楽しい気がします。時の流れは、便利なもの、新しいものへとむかっていきますが今日は、古くてもがんばって活躍している同級生に会えたことがいちばん楽しかったことでした。
 こんなこともあるんだ!と思いつつまたいくかー。
 *読んでくださった方、ありがとうございました。

忌引き3日間をとって…

2007年10月15日 | Weblog
 3日前の深夜、妻の田舎(四国・徳島)から電話があった。妻は電話をにぎりしめて父の死亡を伝えられたのだった。今回も父の死に目にあえなかった。
 朝、さっそくいちばん早い交通手段をとるため飛行機の予約をいれて四国へむかった。そして私は職場に「3日間の忌引き休暇」を申請した。
 義父は94歳だった。今年の夏の帰省では「100歳まで生きてくださいと」と思ったものだった。その反面、「ここまで生きたらいつ逝ってもおこしくない大往生だろう」と思っていた。だから、今回、訃報を知らされた時不謹慎かもしれないが「待ってました」とも思った。
 話によれば、その日父は昼食に大好きなカレーライスを食べていたという。それだけが救いだったかもしれない。
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 お通夜から告別式が身内の悲しみをよそにたんたんと進んでいいた。告別式のとき高齢になった姉が疲れたのか倒れ、告別式会場に救急車も来た以外は無事終わった。
 私のほうは、徳島へ帰ってからというものこのお葬式に身内として出席したわけで朝から晩まで、姉夫婦のみなさんと一緒にこのお葬式のため手伝っていた。そしてとうとう帰る前日、不規則な食事や睡眠不足で体調をこわし最終日はロールパン1個だけで一日過ごしていた。それでも無事、最終日、兄弟で今回、参列、出席してくれた人の整理をして終わった。それぞれの生活する土地へ帰っていった。
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 帰ってきたから、残り一日の忌引き休暇で今回のことを思い出してみた。
 そして、私は義父の94歳という年齢まで生きているのだろうか…と。
 おそらくどう頑張っても自信はないと思った。だいたい、94歳まで生きるための生活をしているか?といえばこれもまた自信がもてないでいる。そう、考えると94歳は恐ろしく高い目標だろうと思った。
 そしてお通夜のとき集まった人たちで会食しているとき、思い出話しでおおいに笑っていた。生きている人にとっては「死」は悲しみでもあるが、一方、生きている楽しみ方を再確認させる場なのだろうと思えた。
 「死」は予約も期日指定もできない…。ある日突然やってくることが多い。そう考えると、生きている間だけは平凡であろうと周りの人たちと楽しく過ごせる日々を追求したほうがいいに決まっている。憎しみよりも愛情を持てるものをたくさん多くつくったほうがいい。そういうことが自分に返ってくることを期待せず日々そうして生きていくほうがいいと思った。
 とうとう両親もいなくなった。これからは自分たちで新しい人へアプローチして人をつくっていくしかない。たよったり、頼られたりそんあ人間関係をつくっていくしかない。そして思い切り悲しみを共有できる友達や親戚を大切にしていくしかないと思った。
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 *読んでくださった方、ありがとうございました。

体育の日に……

2007年10月08日 | Weblog
 10月にはいりました。
 朝夕はすっかり涼しくなりました。
この時期は、うっかり薄着ででかけたりすると寒気を感じていてカゼをひいてしまった…と、なってしまいそうです。今年もあと3か月……。はやいものです。この涼しさ、気持ちのいい気候のなか楽しい1日をつくろうかと思う休日です。
 天気もいいし、運動するのにはいい。そんな1日をむかえ近所を散歩すると小学校の校庭では運動会の真っ最中です。青空の下、元気に子どもたちが走っている姿をみていたら、ぼくにもあんな時代があったのだろうなと思いました。
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 僕の生活も半世紀。
最近では思い切り走ったことがさすがになくなくったような気がします。ちょっと走ったという記憶があるのは、最終電車に乗り遅れないようにと走っているときぐらいでしょう。小学校でみた、子どもたちのようにその1日を元気いっぱい走っているような感じはありません。
 それでも、いまこの子どもたちをつつむ環境がめまぐるしくかわっていくなか、大人も子どもも急激な環境に変化で疲弊しているようなところがあるように思えました。事実、「いじめ」「変態教師の登場」さらには受験競争、最近では子どもが子どもを殺人にいたる時代状況と…、おとなも子どもも生きていくのに難しくなってきたような気がします。
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 ぼくの子どものころ、40年前(昭和30年代)。
 確かにえこうひいきをする先生もいました。イジメもありました。新任教師をいじめている古参の先生もいたりしていまでいうセクシャルハラスメントをしている教師もいました。子どもの心にどうしうようもないない教師達の言うこととそれに忠実に守ろうとしたジレンマのなかでの学校生活であったような気がします。
 今の時代のような「悲しさ」が意味不明のような時代ではなかったような気がします。悲しみは即、貧しさであったり単純であったような気がします。それでも元気に生活していたのはなんだろうと、小学校の運動会をみながら考えいしました。
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 運動会は春の遠足と同様に一年間のなかの一大イベントでもありました。田舎ですので稲の収穫を終えた大人たちもこの日だけはのんびり、校庭にムシロをひいてみていてくれました。のんびりした秋の一日だったように思えました。
 スポーツは、より速く、より高く、より力強くということになりますが、いま運動会に参加している子どもたちにとってのスポーツは体をたくさん横へ、上へ、斜めへと動かすことの方が大切のではないかと思います。そして運動する体をつくることの方がより大切のではないかと思います。
 体育の日に。
 *読んでくださった方、ありがとうございました。