日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

9月も終わります! 早かった一か月でした。

2021年09月26日 | Weblog
 こんにちは。
 風が少しずつ、涼しさから寒さに変わっていくような毎日が続いています。
 「暑い、暑い」といっていたのはつい一か月前ですが、お彼岸が過ぎてすっかり秋らしくなってきました。秋風が吹き始めたようです。雨も冷たく感じるようにもなりました。コロナ禍で、今年もこの時期やる運動会も中止になるのでしょうか。   
 東京五輪・パラリンピックは出来たのですから、もうちょっと国や教育員会が熱心にやってみれば運動会もできるのではないかと思えてしまいます。国のイベントより身近なイベントです。
 今月末に「緊急事態宣言」も解除されるようなうわさが流れています。これまでさんざん悪者扱いされた、飲食店や若者たちにもようやく生活がもどってくるのでしょうか。ほんとうにそうなるのでしょうか・・・。
 いま国がやっていることは、コロナ対策以上に総裁選になっているような気がします。それも、あいかわらずの弱者のお金をいかに減らすかのような政策が取ら出されています。そのひとつに「年金を減らす」ということも少子高齢化によって当たり前のように語られていました。

 その前にやることがたくさんあると思うですが。なかなか、高齢者や児童などに対する社会保障や教育予算はまわってこないようです。それどころか、あいかわらず、「軍事予算」は増える一方です。「脅威」をあおり、気づいたら、国と一緒にどこかを攻撃しているような気がします。まさに、暴力装置をたくさん準備している国の未来は明るいわけはありません。
 いまいちばん大事なことは、コロナ禍の対策も十分にやることと、コロナ禍後の対応が大事なのではないのでしょうか。
 だれが総裁をやってもこんな状況のなかでは同じだろうと思えてきます。とくに、これまでの問題を誰も明らかにしようとしていないことから、そう思えます。もうレースは、決まっているようなものでしょう。世襲制のほまれ高い人が、ここでも総裁という名誉を受け継ぐことでしょう。そんな気がしますけれど、どうでしょうか。


 最近は年なのでなにもなければさっさと寝てしまうことが多くなった。若かりし頃は終電で帰ることもしばしばだった。家で寝ている時間より、会社にいる時間が多かったこともあった。それも若さということなのだろう。電車で眠り込んで目的の駅までくればなんとなく疲れは忘れていたのだった。
 とはいえ、今そんなことをしたらきっと心臓が悲鳴をあげてストライキを起こしてしまうのだろう。最近、私のなかでは「年を取るという事は万事眠ること」だという法則が確固としてつくられている。

 ところが、深夜(丑三つ時)、電話の音には驚く。まず心臓がバクバク音を立てているように脈を打つ。そんなことだから、今、深夜に誰かの訃報聞いたら、私自身も危ないかもしれないだろうと思う。
最近、隣の若者の声が時々聞こえる。なんとも怪しげな会話を聞いていると心臓に負担をかけているようになった。それも、まさに丑三つ時あたりに、笑う声や合いづちをしている声が聞こえて来る。深夜でなければまったく耳障りなことはないが、時間が時間である。仕事のことや遊びの電話であろう。笑う声が聞こえるのだが、こちらとしては少しも笑えない心境のなかである。

 いったいなにごとだろうと思いつつ、隣のベランダから聞こえてくる声の主を想像する。あーあっ、隣の息子だ。大学を出てどこかに就職できたと聞いている。
 集合住宅では、だいたい子供のときからの顔が浮かぶ。そしていつの間にか、父親よりも大きくなっていると、どなたでしたっけ? と考えてしまうことがある。それでも、だいたいの子ども時代の顔は浮かんでくる。今は栄養がいいのだろうか、ぐんぐんのっぽになっていくその息子をみたことがある。時々、挨拶でもかわすようなことがあると、私は見あげているようになっている。

 携帯電話も成長していて、いまでは、いつでもどこでも電話が可能となった。昭和一桁の人にとっては想像もつかないことが起きてしまっていたことだろう。昭和世代中間期の私にとっても同じで、やっとスマホを持って使いこなすというより、最低限の電話、メール、カメラくらいで精いっぱいになって機能を追いかけている。
 そんな便利さによって、夜中のベランダでも電話が可能となっている。
 このことを恨んだところで仕方があるまい。自分でもけっこう世話になっている。
 問題は、真夜中の電話である。
 昨年からコロナ禍の中、「緊急事態宣言」テレワーク、人と会話するのこともはばかられる場所が多くなった。深夜、誰もいないところで大声をあげたくなる気持ちもわからなくはない。だからといって、新宿の歌舞伎町ではないのだ。灯が煌々として場所でもあるまい。そんなに話したいなら、多摩川の土手にでもいってたき火を囲み、話すといい。誰もとめはしない。せめて、暗くなった夜くらいは何もかも忘れて眠っているところ、邪魔はしないでほしいと思う。
 形態も身長もうなぎのぼりに成長するわりには、人のこころの成長がまったく追いついていないのだろうか。のっぽの息子も携帯電話(スマホ)もなにか置き去りに成長ばかりの時代になった。バタンと窓をしめたとたん静かになった。
 そんなことを思いつつ、浅い眠りのなか、朝はとてもつらかった。



 9月は早かったー。
 連休が多い月だと楽しみにしていたにもかかわらず、早かった・・・。
 そう思えてしまうのは、休みのほとんどが自分の予定通りがものごとがすすまいないことと、他の用事が多かったこともあったのだろう。
 やっと、月刊誌の仕事が終わったとたん、お彼岸、理事会などもあったのが気持ちの整理もない中ですすんでいったこともあったのだと思う。
 ふり返ってみればどれも、「めんどうだなあ」と思い終わってしまうと、いろいろと考えさせれて楽しいこともあり、プラスマイナスゼロでよかったような気がする日々だ。
 一つに、お彼岸後の墓まいり。連休中にいってきた。コロナ禍ということもあって、娘がレンタカーで同行してくれたこともあったのだろう。
 帰りによったサービスエリアでのこと。
 コロナ禍ということで、もっと自粛しているのかと思ったがとんでもなかった。たくさんの人に驚いてしまった。それでも、久しぶりのドライブなどを楽しむ気もわかるような気がする。「コロナ感染に十分気をつけて」とはいうものの、実際の生活では本当に感染しないには不十分だろう。それでも、「気をつけている」ということを形にしていることで、ちょっと安心しているだけなのだろう。これは、誰にでも感染しないは絶対にないだろう。それでも、出かけてくることが大事なのだろう。なぜなら、そこで感じることが、生きている証をいっしょうけんめい考えることだからだろう。そんなことを思えた一日でした。

◇・・・・◇・・・・◇◇・・・・◇・・・・◇◇・・・・◇・・・・◇

 今月、通勤電車で読んだ本はけっこうあった。それでも、なかなかまとまらず日々が過ぎていった。(簡単に・・・)
 『氷壁』(井上靖)、『山の帰り道』(沢野ひとし)、『誤植読本』(高橋輝次編)、『全盲の弁護士 竹下義樹』(小林照幸)、『狂牛病』(中村靖彦)と読んだ。面白かったのは、『全盲の弁護士』と『狂牛病』だった。
 『狂牛病』では、新型コロナウイルスの感染がなぜでてくるのかわかったような気がする。食の安全などというまえに、私たちの身のまわりの食がどうなっているのかが問われる本だと思った。
 『全盲の弁護士』では、なんにつけ一つの仕事を仕事として成り立たせることがいかに大事かわかったような気がする。それが、どのように自分の成長につながっているか考えさせられることになっているかということを言っているような一冊だった。(まとまらず・・・ここまで)
おまけ
「れんしゅう」まどみちを
今日も死を見送っている
生まれては立去っていく今日の死を
自転公転をつづけるこの地球上の
すべての生き物が 生まれたばかりの
今日の死を毎日見送りつづけている
なぜなのだろう
「今日」の「死」という
とりかえしのつかない大事がまるで
なんでもない「当り前事」のように毎日
毎日くりかえされるのは つまりそれは
ボクらがボクらじしんの死をむかえる日に
あわてふためかないようにとあの
やさしい天がそのれんしゅうをつづけて
くださっているのだと気づかぬバカは
まあこのよにはいないだろいうということか


 9月も終わります。
 何か駆け足で過ぎていったように思えます。コロナ感染が激増した月でもありました。職場でも、感染者や濃厚接触者も出た月でもありました。月末になって、感染者の自宅待機も終わり顔を見せるようになって安心できるようになったものでした。そんな光景をみて、少しずつ減っているようですが収束にはいまだ見えないのが現実でしょう。
 「緊急事態」は、考えてみれば、いまの日本はいつでも「緊急事態」のなかいるようなものだと思えました。ただその事態をつくっているのも政治家なのでしょうから。まさに人災でもあるわけです。
 自然災害、放射能、コロナ・・・と。そういうえば、福島第一原発事故での「緊急事態宣言」はいまでも解除されていないですよね。
 コロナになって生活が変化したということをよく聞きます。
 きっと、これからも生活は変わっていくことになるのでしょう。変わらないのは政府の対応策でしょう。総裁選でどれだけこれまでのマイナスイメージを払しょくさせようとしていても、その本質は同じだということでしょう。
 変わるべきは、私たちよりも総裁選で語っている人たちかもしれません。

 9月になって「誕生日おめでとう」という一方で、知人・友人の安否が伝わってきます。そんななかで連れ合いがなくなった人、もう完全に仕事をリタイヤした人などの話もついてきます。「おめでとう」という反面、少しずつ人の命も消えていく世代にもなっていることに気がついきます。
 日々のこもごもに「めんどうだー」と言いつつ、生きていることを気づかさせてくれる人たちは大切な隣人です。
 まだまだ、めんどうなことがたくさんありそうです。それでも、結果として「楽しかった」ことに思いを巡らす日々にしていきたいものです。 
 来週は10月です。今年もあとわずか・・・なんて。
 また明日からボチボチいきたいと思います。
 では今週はこの辺で。
読んでくれた人、ありがとうございました。

秋風が吹いてくるなかで・・・

2021年09月19日 | Weblog

 こんにちは。
 さすがに涼しくなってきました。台風14号がさった日曜日に久しぶりに青空を眺めました。多摩川に散歩に行けば、川面の光がきれいに反射していました。
 もう秋ですね。秋と言えば運動会ですが、コロナ禍のなか今年も中止になるのでしょうか。散歩途中の小学校で児童が力いっぱい走っている光景をみることもないのでしょうか・・・。
 風も涼しくて心地よい散歩ができる季節でもあります。
 今週は雨ばかりの日が続き、外出するのもおっくうに思えました。いつの間にか彼岸花が咲いていました。季節は確実に秋に向かっていることに気がつかされました。

 さて、今週いちばんに耳にしたことは、自民党の総裁選の話題でした。これまでたいした政治もしなかったわりには、こういうイベントはしっかりやるものです。これには政治が「お祭り」といわれるのも納得します。ワッショイ、ワッショイというあいだに、国民もその渦に巻き込まれていく流れです。自民党そしても、これまで菅政権がやってきたことがあまりにもずさん政治であることを分かっているのでしょう。だから、選挙前に「お頭」を決めておこうということなのでしょうか。
 とはいえ、4人の候補者(河野太郎、岸田文雄、高市早苗、野田聖子)らが掲げる政策の中に、これまでの反省もなにもないことには驚きます。いわゆる「説明責任者」としての政治家がないのでしょうか。強権政治そのもののように思えました。
 これまで菅政権が行なってきたコロナ対策などについてもあまり聞きませんし、今後のコロナウイルス感染対策にどう対応していくのか・・・などもあまり聞きません。むしろ、自分たちを足場をかためてくれる政策(大企業優先の)が目立ちます。とくにひどいのは、高市氏の「防衛予算の増額」にはひどいものだと思えました。コロナ禍で医療が疲弊し、さらには飲食店の経営や従業員が路頭にまよい、そして非正規がこれまで以上に失業している中で、この政策はないのだろうと思います。いつかこの現実が政権自体をゆるがすことになるのだろうと思います。いったい、どこを向いて政治をしているのだろうと怒りにもなりますが・・・。
 こんなことでは、また同じ轍をふむように思います。



 ある通勤の電車のなか、50代の二人の婦人の会話。
 「電車の乗るのは久しぶりです。仕事をしている間は毎日利用していたんですが」「そうですね・・・。久しぶり。こうして乗って出かけてみると昔のことを思い出しますね」この二人、黒ずくめの洋服。どこかで知人の法事でも出かける途中でもあったのでしょうか。

 そんな会話のなかに、私は毎日、現役で乗っていたんだ、と思いました。そして今でも利用している。田舎から東京に住むようになって移動はほとんどう電車でした。その間、電車の色も変わり、国鉄からJR(民営)になり、さらには順法闘争、24時間ストライキなどの言葉が浮かんできました。
 最近では「計画運休」という言葉をよく聞きます。さらに、一番印象に残っている言葉は、東日本大震災のとき乗った電車のアナウンスで「この列車は行けるところで行きます」ということを思い出します。これまで、国鉄から民営になる過程では清算事業団という職場をつくり労働組合つぶしなどがありました。そして、多くの組合員の自殺がたくさんあった「民営化の黒の歴史」もあることも聞いています。

 それにしても、毎日終電まで休むことなく動いているということはとても大事なことだと思います。その背景には、運転する人、車両を点検する人、線路を補修するひとなどさまざまな人の手がかかっていることを忘れがちです。地震であろうとコロナであろうと、人びとを目的地まで運んでくれる電車のありがたく思えます。
 電車のなかではほぼ毎日、半世紀以上文庫本を読んでいました。とても居心地がよくて適当に揺れて集中できる時間でした。机にむかって本を読むよりずっといいと思うことがあります。さいわいに乗車する電車が始発駅ですので、ホームに並んでいれば必ず座れることもあって、いつも読書の時間の車中でした。

 十代のころは江戸川乱歩を読んでは興奮していました。気がついて見わたせば、周りの人がみんな犯罪者に見えてきたりもしました。あまりに夢中になれすぎて乗り越すこともありました。
 そんな思いでもありました。今でも時々、乗り越すことがあります。
 以前に、乗り越して次の駅までいってしまったこともありました。引き返すため長いホームをあるいて乗り換えることもありました。
 時々、思うことがあります。半世紀以上、電車に揺られて日々でした。これから、あと何年揺られることだろうか、と。そして、あのご婦人のように「久しぶりに電車に乗るわ・・・」なんれ日がくるのでしょうか。
 今度は、もっと遠くまで本を片手に他県の終点までいったみようかと思います。


 台風14号が通りすぎた日。
 久しぶりに青い空と遠くの山々を眺められました。空気も冷たくなってきているせいでしょうか、遠くまで見える一日でした。
 多摩川を歩いて遠くに見える山々。コロナ禍で出かけなくなったことを思います。そして、一緒に歩いた友人のことを思い出します。この年ですから、病気などで他界していった人もいます。元気に登った山を眺めるたびに思い出すことも多くなりました。さいわいにも、私はまだ元気でいられるのもそんな人たちのおかげなのでしょう。
 人生100年時代。これは絶対に無理でしょう。
 「敬老の日」も近づいています。
 だいたい、今の日本の「敬老」をリスペクトする文化は残っているのでしょうか。『魔法のことば』(星野道夫・文春文庫)のなかで、アラスカのクジラ漁でことが書かれたいます。クジラを解体する時に若者は老人たちの技術を学んでいくそうです。その時間が、これまでの長い歴史のなかではぐくまれた人に対するアイディンティティーと呼べるものを感じるそうです。そのことが、彼らの生きる形となっているそうです。それがアラスカの文化なのだとも言っています。
 わたしたちの生きる日本では、どんなとき高齢者にリスペクトを持つのでしょうかね・・・。「2025年問題」はもうすぐそこです。年金など社会保障などについてどんどん身近になってくるのでしょう。若者も老人もそのことを考える時期がきているということでしょう。政治家はもちろんその対策を世に問うことが大事なことはいうまでもありません。

 9月、いろいろと書類が送られてくる月です。私が何十年か前に、10月に中途採用で働きだしたためでしょう。契約した保険などはどれも9月締切が多いようです。どれも、現役時代のものからひきずっているものです。これからは年齢のことも考えて、見直す必要にものが多いようです。いっそのこと、契約をやめることも考える時期なのでしょうか。
 働けなくなったとき、いちばん頼りにするのは、これまで納めてきた税金の範囲内でどれだけ国が保障してくれるのかということでしょうか。
 その税金の使い道ひとつをとっても、その国の政治のありようがわかります。

 ちなみに敬老の日(20日)の朝日新聞に以下のような内容の記事がでていました。
「2015年の国勢調査を基に高齢者の人口推計を公表した。65歳以上の人口は前年より22万人増えて3640万人、総人口に占める割合(高齢化率)は29.1%となり、それぞれ過去最高を更新した。政府が「生涯現役社会」を目指す中、高齢者の就業率は25.1%と初めて「4人に1人」に達した」・・・と。
 働き方は、パート・アルバイトなど非正規の職員・従業員の就業が多い。
 年金受給のかたわら、生活の一分補てんのために働いているのが現状なようだ。(わたしも同じ)決して生活が豊かではないのが実態とうことが、わかる。
 さらに、公的年金制度を低くする政策も今後の政府方針であることも報じられている。減らすべきは、高齢者の年金や社会保障ではなく、必要もない軍事予算や逮捕されても、いまだに給料をもらっている政治家や安易に税金を無駄遣いする人たちではないのだろうか・・・と思う。
 あとは、大企業の内部留保という大金をもっと税金をあげてとりあげる政治をするべきではないのか、とも。

 世の中、広告や宣伝などは、現役バリバリの世代を中心に送られてきます。それも他人の財布を覗き込むようにです。わたしには全く関係ありません・・・。
 ・・・そんな気がします。


 
 今週、コロナ感染の陽性者になった職場の人やお客のたちが還ってきました。自宅待機でどうにか乗り越えることができたようです。
 少しずつ、都会では身近な人がコロナウイルスの感染するようになってきました。これらから大事なことは、感染したあとの対応です。ワクチンを2回打ったからといっても、感染する人はするのだということです。
 これまでの医療態勢を考えれば、やはり不安は隠せません。保健所がすくないこともその原因なのでしょう。自然災害もよくよくみてみると人災なのだと思います。なんともへんな世の中になっているようです。

 さて、来週は、連休もあって忙しそうです。アルバイトであるのですが、時々正規社員より忙しく感じることもあります。かといって、仕事にはあたれません。誰彼と比べてところで仕方がないことだと思います。できることを、ボチボチとやっていくだけしょうか。できなければ他人の助けを借りるときです。それが出来なければもう、おしまいです。それが限界なのだというだけです。
 どんなに格好つけたってできなければ、仕事になりません。
 来週は、管理組合の最後の打ち合わせで総会の準備があります。
 これも、分厚い書類がきていました。
 ボチボチです。
 それでは、今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。
 

緊急事態宣言、さらに延長しました

2021年09月12日 | Weblog

 秋が近づいているような毎日です。季節は着実にだれのことわりもなしにやってきているようです。毎日涼しくなってきました。おかげで晴れの日より曇りの日が多くなってきました。
 9月がこんなに涼しくなるとは最近ないように思います。昨年は、もう少し暑かったのではないのでしょうか。そんなことは忘れて日々を送っていることに、ふと年齢を感じてしまいます。

 東京五輪もパラリンピックも終わり、少しは静かになりました。五輪開催中はコロナ感染者は毎日がうなぎ上り拡大していました。このまま本当に開催を続けていいのだろうかと思う毎日でした。事実、期間中はこれまでにないほど増えた数字が日々目にすることが多い日でした。その対策は遅々として進まないなか、今に至っているようです。途中、横浜市長選挙が行われ、政府のコロナ対策への非難もあって、大差で与党の推す候補を大差で破った夏でした。そこで改めて、声こそ出さないが市民は怒っているのことがわかりました。そのなかで、もう一つの争点、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)がありました。カジノは必要かと思っていましたが、市民はそれよりコロナ対策の病院の方が必要だろうと考えたようです。さらには、誘致に関連した国会議員の秋元司衆院議員が贈収賄容疑で実刑4年の判決がでるほどですからますますカジノはいらなくなったということでしょうか。

 そしてコロナ感染は続いています。夏休みも終わった学校も混乱しています。夏休み延長もあり、オンラインでデジタル教育をやる学校もあり、それぞれバラバラの状態です。これも、現在の政治の現実の結果なのでしょうか。そして、総裁選がはじまりました。
 今秋、総選挙に向けた各党の動きが活発になってきました。とうとう、コロナ対策に多くの批判を浴びた菅政権は終わりになるようです。菅首相自身が退任を告知しました。
 それにしても、菅政権は「説明のない政治」が多かったと言われています。事実、東京五輪でもコロナ対策も十分な説明がないままなだれこんだ日々がありました。説明がないのですから「責任」もないこともいわれました。「責任者」の顔がいまだはっきりしないようにも思えます。つまりはゴリ押しの政治ということなのでしょう。ですから、これまでの「桜をみる会問題」「森友問題」「学術会議」2などの説明はいまだにありません。





 時が経つのが早いものです。もう、季節のことよりも今日をいかにうまく乗りきれるかが命題になっているようなことさえ感じます。時より、職場で若者と話すと話す声にも力強さを感じてしまいます。「・・・それほど言うのなら、実際形にしてから次へいくかが肝心だよ」ということをいつも言っているようにも思います。
 理想を語る若者。現実をふりかえる老人。
 それも少なくなってきました。おおよそ、コロナで会話の時間がなくなっていくなかで、本当に話したいことは時間がかかるものです。短時間で、うわべだけをどれだけいいつくろっても、実際の行動にうつしたときはそのボロは確実の形となってあらわれるものです。

 流れ流れて、今があります。
 職場を転々した分、窓から見える景色もちがっていました。
 どこの景色がいちばんよかった・・・という気持ちはありません。どこでも心を癒す景色はみつかるものです。これって人間の本能なのでしょうか。いつでも、ほっとしたとき遠くを眺める先には何らかの思いを持てる建物があったりしました。その空気の中を横切る鳥や虫の景色もありました。人間がどんなに立派なシンボルをうちたてようとしても自然はマイペースなのだな思います。そんな力を知るたび、人間の飽きなき欲望がどれだけ人間を苦しめているのだろうかと、ふと思います。結果として、格差がつくられ、持つ者持たぬ物の格差がうまれ、とうとう格差が理不尽さをつくる社会がこれまで以上にできあがっているのが今でしょう。

 スポーツの世界は「フェアプレー」を大事にします。同じ条件下でということなのでしょう。オフサイドというルールは「ぬけがけ」をいましてめています。社会の中にも、そのルールはあるのだと思う。いま、社会のなかにはたくさんのオフサイドがあるように見えます。そんな形でいつまでも続く社会は、ますます住みにくい社会が身近になってきているようになっているようです。

 老体にムチ打って明日もまた、今月締め切りの雑誌の仕事がまっています。
 少しは前月よりましなものにしようと思います。



 今週、「緊急事態宣言」が再々延長されました。 
 私の会社の人にもコロナ感染の陽性者もでてくるくらいだから「当然」だろうと思ってしまう。少しも収束にむかっているとも思えなくなっている。こんな時、安心して生活できる医療施設になっているのだろうかと思う。陽性者も「自宅待機」という人も多くなってきているとも聞く。そんな中で、待機中の悪化によって亡くなってしまう人の報道も多い。そして、保健所などの足りないこともいわれてる。「安心・安全」といってきたが、なにが安全・安心なのかわからない。安心する材料さえ、提示されていない状況が現実なのだ。それでも、必死に命を守る医療従事者の活躍はいまは、説明不足の政治家より具体的だ。
 日々、「感染者〇〇人」という数字は、単なる数字ではなく、一人ひとりの人生があるのだから。

 ニューヨークの世界貿易センターに2機の旅客機が激突した日から20年目だそうだ。2001年9月11日である。
 正直なところ、アフガニスタン、イスラエルなどの中東のことはまったくといって分からない。ただ、中東は昔から、「ソ連(現ロシア)とアメリカの代理戦争の場所」だと思う。それが、20年前突如、ハイジャックされた旅客機によって貿易センターに激突させたのか・・・。それが「テロ」になり、米国が報復のためにいちはやく、アフガニスタンに軍事行動を始めたということなのだろうか。
 そして20年後、米国は一方的に、すべての駐留米軍を撤退したようだ。
 けっきょく、米国は20年間の多くの人々の命を戦闘によって失ってきた。

 そのことを思うと、ベトナム戦争のことを想起させる。
 米国の信じる「民主主義」とベトナムの「民主主義」との衝突と、表向きは柔らかだが、やったことは戦争(軍事衝突)には変わりはない。ソ連の援助を受ける北ベトナム、米国の援助をける南ベトナム。双方の利益をベトナムという国で奪い合った形がベトナム戦争なのだろう。そんな中でいちばん利益を得たのは軍事企業ということ。多くの命を踏み台にして利益をだすこと現実が明らかになったことは他国の人たちも理解していた。だからベトナム戦争反対のデモが各国で起きたのだろう。そのデモに支えられ、結局米国は、戦争の意味さえわからなくなって撤退していく・・・。そして今のベトナムができたということなのだろう。*ベトナム戦争は『ドキュメントヴェトナム戦争全史』小倉貞男著 (岩波現代文庫)『戦争の悲しみ』バオ・ニン著に詳しい。

 しろうと目でみてもそれくらいはわかるのだが、今回のアフガニスタンもその根っこは同じことなのだろうと思えてくる。
 ただ、ベトナム戦争のときのように、戦争の意味が混沌としていたとき、貿易センターのテロが起きた。そのことによって、ますます戦争の理由が「報復戦」になってしまったように思う。それでも、タリバンがゲリラ的に戦闘があり、ますます収拾がつかなくなった結果、撤退したのだろう。それも20年間の時間の中に戦争の形が「対テロ」といわれて変わったように見えるが、その本質は変わっていないのだろう思う。
 誰かに煽られ(ヘイトスピーチ)て、意識のなかに暴力が正当化されつつあつ世の中になってきたのも今かもしれないように思えてくる。

 最近、横浜に最新鋭空母クイーン・エリザベス が来た、ということもを喜んでいるときではないかもしれない。さらには、南西諸島に軍事施設が増えていることも報道されている。これは、対中国ということなのだろう。
 昔、「仮想敵国・ソ連」という言葉があった。これと同じなのだろう。
 いずれも、米国の計画でもあるのだろう。
 戦争という言葉を使わない軍事行動があるとすれば、一国ではなく連合国で各国に責任を負わせたようにみせる。世界はそんな方向に進んでいるのではないのだろうか? その例が、今起きている各国と共同訓練をする形なのかもしれない。
 20年前の同時多発テロという軍事行動も、その一つなのかもしれない。
 被害者は誰も望んでいない、二度と繰り返してはならない・・・という。それでも起こしうるのが、軍隊という組織なのだろうと思う。

 東京五輪・パラリンピックでは「多様化」ということがいわれていた。本当に多様化を認識して実践すれば、相手の国に勝手に侵略などしないはずだ。それでも、侵攻してしまう現実がなくならない・・・ということは、結局多様化ということがそれぞれの政治に本当に反映されていないからなのだろう。
 今秋、総選挙はそんなところを考えてみたいと思う。
★おまけ
◎土曜日の午後。いつも楽しみにしていた『ポアロ』というテレビドラマが最終回だった。今回は、ポアロが挑むのは「殺人鬼」。それも、凶器も使わず殺人を犯す犯人ですから、どうするのか・・・と思っていました。この殺人鬼の凶器が「言葉」。心理的殺人教唆ともいうのでしょう。殺人を犯す相手の悪口を実行させる人間に、その気(殺人)にさせていく。これには、永久につかまらない。
 連続殺人の謎を解いていくポアロがみものでした。
 ふりかえって、日本という国もどこかの国によって戦争実行教唆のようなことに堕ち込まねばいいと思いました。でも、ありそうなことです。
 アフガン戦争はこの諜報戦争であると聞きます。
 とはいえ、最終回は残念です。来週から『刑事コロンボ』だそうです。これも楽しみです。

 きょうはこの辺で失礼します。
 まだまだ、続くコロナ禍での仕事です。来週は忙しくなりそうだ。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

9月にはいりました・・・

2021年09月05日 | Weblog

 こんにちは。
 9月に入りました。今週は雨ばかりの毎日で、まるで梅雨のようでした。少しは涼しくなったものの、雨ばかりの日々はきついです。それもコロナ禍であってはなおさらです。外出自粛とはいえ、よくふる雨音を聞いているのはさびしくなってしまいます。

 この時期いちばん元気な人はパラリンピックの選手たちでしょうか。連日の活躍は東京オリンピックよりも見ごたえがあるように思えました。やはりメダルをかけた選手は見ごたえがあります。ただ残念なことは、テレビ中継でもメダル獲得の可能性のある選手ばかりが放映されたことでしょうか。全部を放映することは困難であるあかもしれませんが、とくに思いました。

 夏の暑い7月下旬から東京五輪、さらには8月下旬から始まったパラリンピックも今日でおわりました。スポーツ選手の活躍には感動するものの何かと不安な日々は続いていました。さおれに輪をかけて今週、コロナ対策に万全を期してやってきた菅首相が突然の辞任を発表しました。「安心・安全」をキャッチフレーズに行なわれた五輪もパラリンピックも首相にとっては一つの仕事であったにすぎないように思えます。この二つが無事終わることを見とどけて「辞任」とはまったく無責任極まりないように気がします。
 「コロナ対策に万全を」といいてきた本人が辞任をするのですから、「万全」どころか「不十分満載」の政権運営だったのではないのでしょうか。
 これでますますコロナ感染に拍車がかかるような気がします。
 新聞にも載っていましたが、ずべてについても「説明不十分な首相」という印象でした。秋田から政界へでてきたときの政治家としての信念のようなものがいつからなくなってしまったのだろうかと思います。むずかしいのでしょうかね。
 だから「政治家は信用できない」というイメージを植え付けてしまっているのではないかと思います。

 

 先月、仕事先のお客にコロナ感染があったと記述しました。ニュースなどでも「今日の都内感染者、〇〇人」という数字を他人事のように眺めていました。ところが今週なんと、自分の働いているところにも忍び寄ってきているようです。
 今週「都内営業所にてコロナ陽性者がでました」という社内の報告書をみてびっくりしました。いよいよコロナ感染が身近になってきた・・・という思いがありました。現在は、感染者は自宅療養して、保健所との連絡で濃厚接触者や感染経路など調査中とのことでした。
 職場では「ワクチン2回接種した人がうらやましい」との話もありました。それでも不安は消えません。さらには、病院がひっ迫している状況では「安心・安全」な気にはなれないのが本音です。ワクチンをすすめていますが、そのワクチンが不足している段階で、予約もままならない中です。
 会社では個々人に「騒がず、あわてず、手洗いうがい、三密を避け」でこれまで通りのコロナ対策をしてほしいとのことでした。

 今後は、静観して対応をさぐっていくように見えました。
 とはいえ、気になるのはアルバイトやパートの人が(私も)感染した場合の保障はどうなっているのでしょうか。世間では、感染期間は支払いはしないというニュースをよく聞きます。政治ではそのことにいまひとつ、はっきりしていないということ気がします。
 今回の首相ではありませんが「あーあ辞めた」ですみ人もいますが、ほとんどの人が生活困窮者になることを考えれば他人事ではないように思います。どうも世の中、不公平満載の社会になっているようです。そういう政治を許してきてしまった私たちにも責任はあるのですが・・・。
 つくづく、猛省の週でした。


 やっとスポーツの祭典の日々が終わりました。感想としては、東京五輪よりパラリンピックの開会式から競技内容まで、スポーツの持つ楽しさや力強さを感じさせていたように思います。障害者がスポーツを楽しめる社会とは、私たちのとっても楽しい社会にちがいないと思います。
 今回メダルラッシュで騒がれたパラリンピックでしたが、本当はこれからが大事なのだと思います。今回、活躍した選手たちが路頭に迷うわないような施設やら補償も大事にしてあげることが大事なことなど思います。

 実際は、終わってしまえば、火の消えたようにほそぼそと選手たちが頑張ってきたことを繰り返してはならないのだとも思います。
 とはいえ、まだまだコロナ感染がおさまっていない状況です。むしろこれからが一番気になる時期になってくるのでは・・・と危惧してしまいます。
 そんなことを勝手に思った週でした。
 来週は天気が続くといいのですが。

 9月に入りました。
 季節は秋になっていくようです。散歩の足元ではバッタが飛び立ち、夕暮れにはセミの鳴き声からコオロギのやさしい音色にかわってきました。季節は、しっかりと続いているころに感心してしまいます。それを思えば、人間社会の移り変りが少しも人間にゆとりを与えていないような季節になっているような気持にもなります。「一寸先は闇」となる日々にならないために、もっと考えることやることを追い求めなくては・・・と。
 
 今週はこの辺で失礼します。あまり、内容のない更新になっています。
 読んでくれた人、ありがとうございました。