8月も終わりです。
今月、何かいいこと、思い出に残る8月になったでしょうか。
私などは、年々、思い出に残る夏が少なくなっていくように思えます。どこかに旅行へいくでもなく、なにやら冒険をするでもなく、「暑い、暑い…」という言葉が真っ先に出つつ、淡々と日々が過ぎていったように思えます。強いていえば、のんびり夫婦で墓参りの珍道中をくりひろげたことでしょう。
今年も、古里にむかった超渋滞を満喫し、いまとなっては、その苦痛をここちよく思って過ごした8月ではなっかのでしょうか。
静岡で船の浜松天竜川での転覆事故。夏の甲子園。どうでもいい芸能界、島田紳助の芸能界引退。北海道の泊原発事故、超円高、等などと、暑さに拍車をかけ、日々の話題にことかかないほどニュースがありました。
でも、ちょっと心配なことが発見しました。
日々、福島第一原発事故のニュースが収束もしていないのに小さくなっていくことです。
ニュースがなくなってしまうと、いっけん解決したような錯覚がおきてしまうようです。
現実、「忘れてしまうことが解決」だと思えることも多々、ありますが、こと放射能汚染や放射能垂れ流しは、いまだに続いています。解決するどころか、進行形の問題なのですよ…。現に、時間がたつにつれ、食物に放射能が発見されてきています。それも、それはずで、原子炉の冷却がうまくいっていないですから…。
私は、これからマスコミはひとつの原発テーマを追いける義務があるのではないかと思います。それが、新聞の仕事だと思います。
本当に、これから、誰の圧力にも屈せず、ジャーナリズムの仕事をしてほしいです。つくづく、報道が管理統制された66年前の日本を考えると、そう思いまが…。
◎菅首相の交替劇
リビアでは反体制派「国民評議会」がついに、半年間で死者2万人を出してガダフィ体制を崩壊させた。そして、本部をベンガジからトリポリに移したと発表。
かたや日本では、東日本大震災、福島第一原発事故で、死者1万5千人以上、行方不明約5千人、原発事故による放射能の影響でを受けて避難・移動約15万人以上。いまだに原発事故の収束もままならない時期に「菅首相降ろし」が動き出していいる。
共通するのは、何らかの「利権・覇権」のともなう権力闘争にちがいない。
なんで、今頃…?、と首をかしげてしまうのは、わたしだけかなと思う。
在任期間、1年3ヶ月。ここまでの間、震災、原発事故とこれまでにない未曽有の災害を経験している。その対策に、遅々として進んでいないことに非難が多いことはわかる。
しかし、よく考えると、これは菅首相自身の問題というより民主党内部の問題だろうと思う。
例えば、原発事故で首相は「脱原発」を訴えた。日本の電気エネルギーを自然エネルギーから、原発に替るものに段階的にしていき、いずれ原子力に頼らないものしようした。そのための「節電」も実行してきた。浜松原発も停めた。
わたしは、個人的にはこの考えに賛成である。収束はすすまない中、目標が「脱原発・廃炉」とあるからだ。原発事故でその補償問題をしっかりと追求しながら大きな目標がしっかりしていたと思う。
これで「指示率」の数字ががさがっていくのが不思議に思えた。そして、その数字がひとり歩きしはじめて「菅首相降ろし」へと変化していったのだろう。しかし、よく考えてみると、この指示率は民主党の指示率でもある。それに対する対応が「首相交替」で変わるものではないと思える。
私は、むしろ菅首相の「脱原発」を本当に受け継ぐ気がないような「交替」なのかもしれないいう疑念は隠せない。
「これ以上、脱原発を強行したらまずい…」とでも思った、と。
22日の記事「筆洗い・東京」にこんな記事がある。数十人にの学生に「脱原発」に異論がる。その内容は「脱原発→電力不足→生産拠点の海外移転→産業空洞化→日本経済大打撃」という構図が出されている。
この構図は「日本経済をダメにする脱原発」ということである。「原発は怖いが背に腹はかえられない」という構図。経済優先という構図。
経済優先(利益優先)の社会。これさえも脱原発は考える岐路にきている…と示している。そのための菅首相の苦悩だったはずだと思ったが。学生は早急さが理解できる。しかし、放射能の収束、復興もこれから何十年もかかると思えば、首相がコロコロ替るという事態はいいはずはないのだろう。
…と思うと、1970年から42年間支持されてきたカダフィー大佐という人物のやってきたことも「崩壊」で片付けるほど簡単なことではなく、評価されるべきころがあるように思う。
まさに、今年は政治、経済のターニングポイントにきているのだろう思った。すでに、経済優先(原発維持)か安全生活(脱原発)か…の綱引きがはじまっている。
♪今月はこんな本を読んでいました…8月編。
今月は放射能がこんなに身近なったことについて驚いてしまった月でした。
日比谷野音での集会でそれが強くなっていました。これは、「忘れては生きて通れない」と思い原発関係の本を読んだ月でもありました。どれほど理解…しているかは問わないで下さい。ただ、身近においておきたいテーマとして読んでいるようなことが大事だと思っています。
◎原発を終わらせる(石橋克彦編・岩波)
・三月十一日午後二時四六分、地震発生の翌日、十二日三時三六分、福島第一原発1号機の原子炉建屋の最上部にあるオペレーションフロアが、水素爆発で吹き飛んだ(p3)
・大規模な原子炉または格納容器があった場合、200キロ離れた首都圏でも決して安心できない。首都圏が強制避難地域になった場合日本は全滅する(p47)
・「エコサイド」ちまり、生態系、人びとの暮らし、健康、さらには伝統文化まで根本から破壊つくす、文明の暴力について考えた(p54)
・先住民は植民地主義政策のもとに土地を略奪され、労働力して使い捨てられ、そのあとエコサイドによってまたもや国家に土地を奪われて、伝統文化を継承することができなくなった(p55)
・双葉町は、原発誘致と引き換えに膨大な額の「原発三法交付金」を受けながら、ハコものづくり資金を使い果たして財政難に陥っている(p59)
・地域に原発を無理やり押し込み、安全対策をさぼり、事故が起きると「想定外」といって責任を回避する政府と東電には被災者の声に耳を傾けながら生活再建を考える謙虚さはみられない(p63)
・日本の原発に対する世論もようやく82%が廃炉をもとめると高まってきた(東京新聞)それでも、政財官、学者、評論家、マスコミの一部は抵抗している。原発に故郷を追われた避難民、被曝した市民と労働者の声を風化させてはならない(p66)
・史上最大の原発事故である。放出された放射性物質が福島全体を強く汚染しただけでなく、東日本、関東一帯へもヨウ素131、セシウム137などの放射性物質が飛来し海洋汚染も拡がっている。しかも、事故は進行中で終わりが見えない。健全だとみられていた施設にいつ不測の事態が起こるかわからない状態が続いている(p80)
・使用済燃料の直接処分を含めて、原発から出る高レベル核廃棄物の最終処分の候補地が決まっているのはフィンランドのオンガロだけである。10万年の監視が必要な危険な核廃棄物を安全に管理できるのか、後の世代に知らせることができるのか、誰も答えを持っていない(p85)
・原発は先のことがわからぬまま開発されてきた歴史を持つ。「廃炉」の大変さも考えられなかった。また、放射性廃棄物(死の灰)の処理を考えてこなかったことは「トイレのないマンション」と揶揄されつづけた(p87)
・原発緊急時対応の原則は「止める、冷やす、閉じ込める」であるが、朝刊の報道は電源喪失の結果、福島第一原発で「冷やす」がうまくいっていないことを示している(p102)
原子力をエネルギー源として利用することの危険性を直視することなく「原子力は安全です」とゴマカシを言い続け、ついにこれを信じてしまったかのような日本の「原子力安全文化」の行き着いた先が福島原発事故であったと考えるべきであろう(p114)
・「原発と地震」の問題を考えるさいには、つぎの四点をあらためて肝に銘じる必要がある。
(1)原発の安全性は莫大な放射性物質を内臓することから、ほかの施設よりも格段に高くなければならない。
(2)原発は完成された技術ではない。
(3)地震というものは最大級の様相を呈するということ
(4)人間の地震現象に関する理解はきわめて不十分で、予測できないことがある。(p125)
・福島原発事故の直接の原因は地震と津波だが、安全対策が劣悪だったことが事故の深刻化を招いた。この原発事故が基本的には人災と考えるゆえんである。
(1)重大事故についてのシュミレーションの欠如
(2)指揮系統の機能障害
(3)原子力防災計画の非現実性非難指示の遅れ(p131)
・福島第一原発事故は事故終息の見通しが立たず、1号から6号まで、すでに廃炉になることは確実である。これまで、原発マネーによって豊かな地域社会を築いてきた双葉、大熊の両町は第一原発の廃炉によって「豊かさ」の基盤を一挙に失う。
一方、電力消費地に暮らす私たちも、これまでのような電力消費を継続することはできなくなった。個々の生活スタイルだけでなく、東京の一極集中してきた産業や都市形成のあり方も問われている(お163)
【内容】
「過酷事故を防ぐことは原理的にできない」「核廃棄物を安全に保管できるのか、だれもが答えを持っていない」…。福島第一原発事故とはいったいどんな事故だったのか。それにによって、生活が変わったいくのか、変るべきなのか…。これまでの検証(反省)と方向を示している一冊です。
【感想】
どうしてこんな大事故が起きてしまったのだろうか思う。さらに、原発は「反対」とはよく聞くが、なぜ反対なのかより詳しくわかったように思う。読み終えて、「原子力とは人類は共存」なんていう言葉はつくる側の論理で、そこに住む側のものではないことがわかったような気がする。
昔、そんな遠い昔ではなく、私が青年のころ、政治は野党としての役目をちゃんと果たしていたことに気がつく。なぜななら、東北でも青森、宮城、福島には原発ができて、岩手、秋田県にはない…。それを考えれば、岩手も秋田も革新(当時の社会党、共産党)の国会議員が住民の盾となり、抵抗運動があった、ということ。それが変ってしまったということもある…なあと思う。
◎原発を闇を暴く(広瀬隆・明石昇二郎編・集英社)
・ストロンチウムは、骨の中あるカルシウムと置き換わって体内に蓄積して、強い方放射線(ベータ線)を長期間放出し続ける。半減期は28年です。これが、福島第一原発から今も海と大気に放出され続け、環境中に拡散しつつあると見てまず間違いないと思います。(p54)
・大事故が起きると本当に何も想定していない。だから備えもない。対策はすべて泥縄式になる。(p56)
・被害は半永久的に続くというのが、原子力災害のおそろしいところ。…不幸にして日本はそういう時代に突入してしまったというのが現実だと思います。(p63)
・放射性物質は何ベクレルと言っているけれど体内被曝は「蓄積」される被害…。セシウムは筋肉、ヨウ素は甲状腺や卵巣、ウランやプルトニウムは肺や生殖器に、コバルトは肝臓に、ストロンチウムは骨に溜まって静かに被害を及ぼす。(p64)
・「地獄の蓋は開いてしまった」ここから食物連鎖による放射能の濃縮が始まるからです。(p67)
・一般に許される放射線量は1ミリシーベルト1年です。(p67)
・運転を停止しても、電源が失われれば、使用済み核燃料が水素爆発を起こしてしまう。(p79)
・汚染されたカネで原発を推進してきた連中の犯罪である。中曽根康弘、正力松太郎、田中角栄、小林庄太郎、米倉弘昌…(p88)
・原子力マフィアというのは、要は、政・官・に原子力関係の産・学が癒着した原発推進ばかりの共同体、つまりシンジケートです。言ってみれば、独占企業の電力会社の潤沢なカネを回し合うことでつながっている運命共同体で、利権の巣窟といっていい。安全なんて、まるで考えていない。原子力分野では東大工学部、東工大原子炉工学研究所、京大原子炉実験所の研究者たちが原子力推進の三大勢力で…御用学者たちだった。(p99)
・今後、今回の事故による処理費用や賠償費用までも発電コストに上乗せされ「世界一高い電気料金」がさらに高額になる可能性もある。(p196)
広瀬 隆
1943年東京生まれ。早稲田大学卒業後、大手メーカーの技術者を経て執筆活動に入る。『東京に原発を!』『危険な話』『原子炉時限爆弾』などで原子力の危険を訴えるとともに、一貫して反原発の論陣を展開してきた
【内容】
福島第一原発事故が起きてしまったことは「人災」との立場から、その背後関係を追究した本。これまで、それらがわたしたちの前に現れてこなかったことはすべて「安全神話」という名のもとに知らされてこなかった。今回の事故で、原発推進にかかわった人達の責任も追及されるよう、考えるべきだというのが著者のいいたいところ。
原子力は遡って、自民党政権時代に多くの学者やマスコミも一緒になって、市民の安全宣伝を流してきたことがわかる。それらを、もう一度洗いなおしてみた一冊でもある。
【感想】
原発事故が人災である限り、それに係わってきた人たちがいる。しかし、それが何十年も前の話となると、研究者・ジャーナリストの追求がなければ困難だ。それが、今回の「原発の闇を暴く」もよってわかったように思う。
どこにもよくある「利権」にむらがる人たち(政治家・学者・ジャーナリスト)が並んでいたのには驚いた。写真家の浅井慎平にも驚いた。彼らの多くの手によって、まわりにまわって事故が起き、その生命や住居を追われる福島の人たち…。はっきり、いって騙されていた…という気持ちが強い。そして、原子力を今の今まで、推進させてきた「犯罪者」と呼べる存在なのかもしれない。弁解の余地があるのであれば、今後の報道に参加すべきだと思った。
そんな、気持ちを整理して表に出したのがこの本だと思った。
◎隠される原子力・核の真実(小出裕章・創史社)もあわせて読むといいです(内容・感想は略)…………………………………………………
小出 裕章
1949年東京生まれ。東北大学工学部原子核工学科卒、同大学院修了。1974年に京都大学原子炉実験所助手になる。2007年4月から教員の呼称が変わり、現在は助教。専門は放射線計測、原子力安全。伊方原発訴訟住民側証人
◎天災と国防(寺田寅彦・講談学術)「災害は忘れたころにやってくる」という名言を残した物理学者です。また、災害と人間との向き合い方があり、ためになりますよ…(内容・感想は省略します・ゴメン)
◎山歩きのオキテ(工藤隆雄・新潮文庫)
・憧憬の山だからといって北アルプスなど高い山にいきなり入るという歩き方はしてはいけない。疲労して取り返しのつかないことになる。(p39)
・遭難するのはきちんと準備してないで山に入るからだ。危険は山にはあるのではなくて、その登山者の中にあるのだ。(p44)
・交通の便がよくなっても自然の厳しさは変らない。(p48)
・そのための登る山ごとにどれくらいの歩行距離があり、そしてどのくらい時間がかかるのかをきちんと把握しておかなければならない。(p90)
・様々な方法で情報を集め、不安材料を少しにする努力をする。(p92)
【内容】
山歩きは自然と親しむのに一番。ゆっくりマイペースで…いきたい。自然を満喫する一番の方法。
しかし、いかに手軽でも自然は「危険」のいう原則は知らないと思わぬ、しっぺ返しがある。そのほとんどが、山歩き当事者の責任が大きい。その回避をいかにしてやるか…。そのための、道具の準備と体の準備のために読める一冊です。
工藤隆雄
1953(昭和28)年、青森県生れ。出版社勤務を経て、ノンフィクションから児童文学まで幅広い執筆活動を続けている。日本大学芸術学部文芸学科講師。主な著書に『富士を見る山歩き』『山小屋の主人の炉端話』『山のミステリー』『平成富嶽百景』『カラー版山歩き12ヵ月』などがある。
【感想】
山歩きは、100パーセント自己責任の部分が多い。それを考えたら、いかに危険を回避して楽しく、自然と向き合うのがいいか…という書いてあり、楽しい一冊でした。
私自身、体力が年々なくなっていくなかでも自分なりの山るきを見つけることが大事だと思いました。近くて、楽して、美味しいものを楽しくできる山あるき…。
山るきは「根性」をつくるものでもなく、人をしごく道具でもないのです。
ちなみに秋は「秋雨前線・台風と雷」に注意する季節です。カッパは必携です。
◎楡家の人々(下)(北杜夫・新潮文庫)は次回にします。
今週、久しぶりに残業をしてみました。それも、二交代制でもないにもかかわらず深夜2時過ぎ終了…というもの。帰りは、さすがにホテルに宿泊する者、タクシーで帰る者と二手に分かれての安眠でしたが……。
今の職場をたちあげる云十年前にはよくこれくらいの残業はありましたが…。最近はめっきりなくなりました。正直、以前は使命感があって?、どうにか頑張れました。でも、最近は体のほうが心配になってきます。
このまま続ける事を世間でいう「過労死」が待っているのか…という気持ちにもなりました。(実際はありませんが)
そもそも「残業」とはどういう仕事なのでしょうか。予定外の仕事。突発的な仕事。無理をする仕事でしょうか。
これまでの様子では、予定外、それも突発的なものという範囲だと思います。残業も予定という、なんとも無計画なことだと思いますが、日本の社会は勤勉という言葉があるように、ある意味この仕事で支えられているのだと思います。そして、それを頑張っている人が支えているまか不思議な社会なのです。
ということは、この下支えの人が大事にされる社会であれば、誰も文句などないのですが、実際は政治家にしろ、資本家にしろそうはなっていないようです。
1年間に2万人もの自殺者を出す国。それが日本です。これも、やはり、残業のせいなのだと思います。
最近は、原発事故のかげに隠れていて、出てきていませんがきっとあるのでしょう。大きな労働組合と産業医も大いそがしだと思います。やはり、企業は利益をうむ背後にはこれらが小さくなっているような気がします。
原則、残業はやめた方がいいのです。やるとしても、一人で抱えないような気配りが必要だと思います。最低でも二人で、頑張れるものをつくることが大事だと思いました。
……………………………というものの、実態は、今後も考えていきたい問題です。これは、組合も管理職関係ないことでしょう。働く者同士のことだからです。そして、「いいものを作りたい」と思えばなおさらです。健康を害してまでいいものはつくれません…ぞ。
さて、読んで下さった方、どうでしょうか。
今週は、東京は地震が少なかったようです。そお変りに大雨がふり、床上の水浸しになったところありました。
…でも、地震は今後あると、いつも思っています。だから、原発は冷やし、停めることを望んでいるのですが…。
ながながと、なりました。「楡家の人々・下」がやっと終わりました。3ヶ月くらいかかりました。感想は来週にでも…。
だんだん、秋が近寄っているようです。多摩川の土手では虫たちが冬支度をはじめていました。
ほんじゃじゃ、また。お疲れさまでした。
*読んでくださった方、ありがとうございました。