日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

クニ破れて山河アリ。つわものどもの夢のアト。

2017年10月29日 | Weblog

 こんにちは。
 先週に引きつづき台風の影響で関東地方は雨が降っています。週末の雨ばかりで出かけるにも出足をくじかられてしまう雨になっています。そして、ニュースでは被害を伝えることが多い台風のようです。雨だからのんびりと、家にこもって…という気になれない台風です。
 季節は雨がふるごとに寒さが増しているように見えます。職場ではカゼをひてマスクをしているひともみました。これからは、寒さに対応した体が求められるのでしょうか。ちょっとした工夫が大切な季節です。

 さて、今週は衆院選の開票結果がでました。
 あいかわらず与党の勢力は衰えようとしませんね。どうしてなのでしょうかねえ。自民党、公明党を合わせて過半数以上になってますますやりたいことをやろうという意気込みが伝わってきます。まさに今後も「一強多弱」の色あいが濃く出てくる政治が転回されるのでしょうか。困ったことですねえ…。

 さらには、これまで日本は「ものづくり日本」ということがいわれてきました。それが危うくなってくる企業の不祥事が相次いでいました。
 神戸製鋼の品質検査の偽装、日産、スバル両自動車会社の検査偽装。どれもが一流企業、いわばを日本のモノづくりをリードしてきた会社だけに大変なように思えます。
 それにしても、なぜこのタイミングなのだろう…とも思います。きっと内部告発かで発覚したものではないかと思います。どれも、「氷山の一角」にも見えます。なぜなら、大小あるもののブラック企業という言葉があるようにいま、日本の働く現場が偽装があるのではないのでしょうか。重箱の隅をつつくようですが、私の身の周りにもあります。「なんでこうなるの?」と思える出来事が多いのではないのであようか。それにつけても、この企業の労働組合はいったいどうなっているのかのかという疑問がでてきるのではないのであようか。(労働者を守るはずの組合がどう対処していくのか、今後の組織の在り方も問われていると思いますが) 
 それにしても、「希望の党」はいったい何者だったのでしょうか。まさに、政治家の野心やもろさを見たような気がしました。





 たいへんご無沙汰していました。8~9月と2か月間のお休みをもらっていました。2か月間の間には紹介している本意外にもありました。しかし、私の怠慢で記録していないことが多く月末にまとめることもできずにいました。
 今月は…と思いがんばってみました。読み返すうちにどれも中途半端の反省はゆがめません。それでも、一つの記録として残すために、今月は載せました。

 世の中には星の数ほどの本があります。その中から何らかのご縁であるいは必要にせまられて読んでいるのが本です。どれも、興味深い内容であることは読み終えて感じます。その中で「これはも一度読んでみたい」というものも出てきます。図書館で借りたり、絶版はアマゾンで探したり、と気がつけばこれから何年生きられるかわからないのにたまる一方です。そんなことを思いつつ手元にとっておきたい本はいっぱいあります。なんかバカなのでしょうねえ。



p151 ところが、入院が三週間あまり七月三十日、人のうめき声が聞こえないところで眠りたいと思い始めたら、もう矢もたてもたまらなくなって、いきなり、明日退院したいと申し入れた。

p176 しかしこの世の出来事には必ず”因”があって”果”があるのであって、あらゆる物理的な、心理的、生理的、そして社会的因果関係も予測する力もあれば、多くの不運は避けられるはずである。

p176 いや現実には人の世は私利私欲、不注意、怠情などが渦巻き、一人の人間では防ぎきれぬ悪しきものの種子が尽きるとはないのだろう。だから個々の人間は運命としてあきらめるより仕方のない、自分の力を完全に出し切ってなお避けることのできない不運というものは、いつの世になってもつきまとうことだろう。

p389 また一方、発見と同時に既に手遅れも手遅れ、今日死ぬか、明日死ぬかというような状況の中にあって、彼の死生観、患者としての生きかたと、医師たちやナースたちの姿勢が緊張感ある調和を保って、彼はある平安のうちに死に得た、と推測されるからである。彼の死について書くことの意味を納得するまでに、かなりの時間がかかったが、それは対がん運動への私の中の虚しさのためでもあった。…その度に私は、「家の中の恥をさらして書いても、所詮、がんなんて他人事でしかないのね」と嘆いたものである。



 しょせん「がん」という病気とは縁がないだろうと思っていた。若い時にはとくに考えてもいなかった病名だ。
 ところが最近のこと、会社の同僚や友達のようすを聞いたら以外と多いことに驚いてしまった。
 そして、とうとう身内にまでその病名がうかんできた。がんは遺伝子するようなものだと考えていたがちがったことを目の当たりにしておどろいている。
 「なぜ…? ぼくの身内に…」という疑問はいまも消えない。
 「なんという無知!!」それでも信じたくないことだった。
 それからというもの、少しずつ落ち着いて「がん」についての本を読んでみようと思って一冊選らんだのが『がんと闘う、がんに学ぶ、がんと生きる』(中島みち・文春文庫)であった。
 読めばよむほどに、それほど遠い病気でもないように思えた。「がんは病気の王様か」という気さえ起きてきた。それにしても、これほど長い間研究され薬も多くできているだろうに、いまだにそれができていないのはなぜだろうと考えてしまう。そんなことを思った。
 さて本は、作家・中島みちさんが乳がんにかかってから、その対応をドキュメントした記録である。発症から手術、そして治療 しょせん「がん」という病気とは縁がないだろうと思っていた。若い時にはとくに考えてもいなかった病名だ。
 けっきょく、この病気との関係は生きていくためには永遠の付き合いがよぎなくされる。しかも、その過程においては死をもつれてくる病気であることはだれでも分かっていることだろう。うらをかえせば、それだけ人に「人間とは…」という大きなテーマを与えてくれる病気であることがわかる。
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p45 「…おめえはな、さぶ、pれにとっては厄介者dころか、いつも気持ちを支えてくれる大事な友だちなんだ、正直にいうから怒らねえでくれよ。おめえはみんなからぐずと云われ、ぬけていると云われながら、辛抱づよく、黙って、石についた苔みてえにしっかり自分の仕事についてきた。おらあその姿を見るたび、心の中で自分に云いきかせたもんだ…。

p114 世間ぜんたいが敵だ。これを忘れてはいけない。金持ちは金の力で、役人は権力で、罪のない者を罪人にすることができる。自分のように金もなく権力もない者にはかれらに対抗することはできない。

p103 心の中で唾を吐いた。

p210 一枚の布切れのため、右から左からも無法に痛めつけられ、一生をめちゃくちゃにされてみれば、人を憎み世間を憎むのは当然なことだ。いまはその憎む心でいっぱいなのだ。無事平穏にしている者を見れば、その憎悪をかきたてられるだろう。

p275 うまい字を書こうとすると嘘になる。字というやつはその人の本性をあらわすものだ。いくらうまい字を書いても、その人間の本性が出ていないものは字ではない。上手へたは問題ではない。自分を偽らず正直に書け…。

p310 「…人間てやつは欲に弱いもんだ。いるかわからないが、おめえが訴え出ても、その役人たちは自分の欲と面目のためにどんな手を使っても揉み消そうするだろう。

p317 この世を生きてゆくということは、損得勘定じゃない。短い一生なんだ。自分の生きたいように生きるほうがいい。しっかりやってくれ清さん。

 久しぶりの山本周五郎の作品を読んだ。
 『さぶ』という作品は、40年ほど前(20歳台)に友達に紹介された小説だったと思う。今では、その友達は結婚ししてゆくえ知れずとなっている。どこでどんな生活をしているのか思い出すことがある。その時代は、「この親友とは一生つきあってゆくのかな…」と思っていた。
 その昔、靖国神社を歩きながらこの人と一緒に一生を送っていけたらなんと幸せなことかとも思っていたが…、世の中思うほどに進まないと思う。青春時代とは多感でもあったのだと思う。そんなことを思い出させてくれる小説だと思う。
 山本周五郎の大事な人間の心あり方を問う作品があるように思う。
 その一部を紹介するかのように小説にしていることに気がつく。
 いなみに、神奈川近代文学館で2017年(平成29)9月30日(土)~11月26日(日)の期間「周五郎展」をやっています。終わる前に一度行ってみたいと思う。
※興味のある方はこちらも 山本周五郎展
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p21 森林というコミュニティは、高い樹木だkでなく、低木や草なども含めたすべての植物が同じような方法で会話をしているのかもしれない。

p24 …同じ種類の樹木同士ではそうはならないのだ。…ブナなどの木は仲間意識が強く、栄養を分け合う。弱った仲間を見捨てない。仲間がいなくなると、木と木のあいだに隙間ができ、森にとって好ましい薄暗さや湿度の高さを保てなくなってしまうからだ。

p63 樹木のとっては、菌類がいちばん大切なパートナーだが、それ以外にもたくさんの協力者がいる。たとえばキツツキ。「協力者」は言いすぎかもしれないが、少なくともキツツキは樹木の役に立っている。

p108 「森は自分の居場所を自分で理想に近づける」

p144 クマは食べれば食べるだけどんどん太るが、木の場合は、満たされてしまえばそれで終わりになる。たとえば野生のサクラやナナカマドなどは、まだまだ日差しの強い時期が続いているというのに、八月になると早くも赤く染まりはじめる。今年の活動はもう終わり、といわんばかりに。樹皮の下と根っこのタンクが満たされたので、それ以上糖分をつくっても蓄える場所がないからだ。

p145 健康な木は葉の黄色をきれいに輝かせることで、自分には翌年も抵抗力があるぞ、と合図している。これは、その木の免疫力があって充分な防御物質が分泌できているということを意味しているので、アブラムシの子孫などの目には脅威に映るだろう。

p160 樹木の運命も、あるひ突然、何らかの理由で大きく変わることがる。樹木の健康は、森林の生態系が安定しているどうかで決まる。

 これからの山歩きは広葉樹のおおい森を見つけていくようにしたい思わせる本である。樹木の生活を考えることは、一年や十年のサイクルでは説き明かせない生活があるようだ。森の木々の紅葉や葉の光合成はすべてに意味があることがわかる。それが、なぜそうなのかとうことは質問できても、納得できるものがなかった。その答えがこの本は、教えているかのようだった。樹齢数百年という巨木を見るときに、大事そうにされていることが木々にとってはいちばん迷惑なことだということも理解できる本でもあるようだ。

 これから紅葉の季節。
 木々の生活を読むことは、その意味がわかること。森を歩くとき、再読していくとさらに主人公たちの音が身近に感じることだろうと思う。
 一人で歩く森の中で「知られざる樹木たちの生活」をきっと思い出すことだろう。(ちなみに出版社は「早川書房」でした)。


p133 働くことのあり様はさまざまな形がある。人の数だけ働くこともある。それは「私」という個人がこの世界に二人といないことと同じだ。「私」が働きことをどのように選択し、どう関係を持つかによって、働くことの在り方、意味が決まる。それは働くことと「私」の関係を問うていくことでもある。そして、問うということができるということ自体、自由であることの証なのだ。
 小説は時間と場所が、今の自分に似ている光景をつくっているものがあるものが多い。
 それぞれの景色のなかに自分がいる。ある作家の小説が似ているものがあることに気がつくこともあると思う。
 林芙美子の『放浪記』は就活をしている人に良く似ている。それは、職を求めてさまよう主人公のように求めるものを得るためにさまよう景色なのだろうと思うからだ。さらに、派遣狩りという言葉が世の中を席巻したとき読まれたいた小林多喜二の『蟹工船』という小説を思い出す。そのなかに、登場する人々が時代と場所は違うが境遇がまりにもよく似ている…という小説が話題になったことは記憶に新しいことだろう。

 とくにそんなことを意識して小説を読んでみたら…という本だった思う。
 ただそんなことを気にしなくとも、手に取った本はなんらかのテーマがあるようだ。大事なことは、最後に読みえ終えて手に取った本の内容のテーマと今置かれいる自分の立っている場所を考えることが最も大事なことだと思う。

◆◆ほかにこんな本も読んでいました。

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 早いものです。
 一年が終わろうとしています。一年のマンションの締めくくりとして管理組合の総会に行ってきました。近所の図書館分館を借りての総会でした。
 メインテーマは「今年の会計報告」と来年の「大規模修繕」についてでした。とくに「大規模修繕」については、質疑が多数でた総会でもありました。
 最近、建築物の偽装事件などはききませんそ。横浜の「傾斜マンション」、「杭打ちデータ偽装事件」などと呼ばれた、横浜市都筑区の大規模マンションの問題が記憶に新しいでしょうか。そんなことが頭をよぎった総会でした。

 この事件は元請けが工事を下請けに丸投げして発注したものでした。その仕組みは、いまでも下請けが工事を請け負う構図はかわってはいないのでしょう。今回の修繕工事でも管理会社から下請けに工事の発注するそうです。
 ただ、それが他人のことから現実自分の身の周りに関わってきたということでしょう。元請けが下請けに発注することは問題ではなく、そのなかで元請けが予算内で利益を多く得ようとして、下請けに注文をつけ、下請けは自分の利益と元請けへの利益をつくるために、手抜き工事をしていた…ということでした。そのため、マンションは欠陥になっていることを偽装したものでした。

 最近、NHKの「クローズアップ現代」でこの内容の放送がありました。
 私は失礼と思いつつ質問にこのクローズアップ現代の内容と「そんなことのないように修繕後の検査を的確にやってほしい」との注文をつけていました。業者は「管理会社も立ち会って『打診検査』なども含めてちゃんとやるとの回答でした。私も管理組合の理事の人もぜんぶしろうとですから、と理由で工事の細かい内容にはよくわからない…ことが多いものです。それでも、少なくとも自分たちのお金で修繕することになるわけですから、もっと注文をたくさんあ出して質問が必要になってくるように思えました。質問が偽装への「予防効果」があるだと思います。質問をして恥をかくくらいならまだいいのです。それより重大な問題になる前にたくさんの「恥」でもかいておくのも必要なのではないのかな、と思いました。



 とうとう10月も終わる。
 思えば先週と今週はとても忙しかった。それが証拠に歯ぐきが腫れて、腰痛が戻ってきた。季節の変わり目にはこんな症状が多く出てくることは知ってはいるが…、体が痛みに悲鳴をあげている。とうとう、腰痛にはコルセットを着けて仕事をしていた。散歩をしるのもおっくうになって体が重くなっている。
 まさに「負の連鎖」で体調がわるくなっていくだろうと日々感じるようになった。

 気分転換!!と思い、散髪屋さんに行ったり、11月には体が軽くなるようなスケジュールを手帳に書きこんでいた。まさに、天気次第とならないようにしたいが、貧乏人の私は天気は貴重な情報だ。
 これだけ雨も降れば、季節は一気に寒くなって山は紅葉が見ごろになってくるだろうと思う。11月はそれをのんびり『樹木たち…』を思い浮かべながら歩いてみようと思う。
 それも、日々の計画の一つ一つの実行から。忘れたようにしてきたものを片づけていかないとパニックになるのは私だ。
 「負の連鎖」で心がこんがらないようになる前に一歩づつ行きたいものである。「今月の本棚」をまとめていたら、子どもの頃、夏休みも終わりに近づいた宿題を思い出した。なかなか怠けぐせはなおらないものである。
 大人になって「スケジュール」を手帳に付けることを覚えたが、性根はそんなにかわっていまのだなあと思う。<反省の日々>日々是毎日ということだろう。

 さて、11月はすぐそこに来ています。
 どんな11月になるのでしょうか。そんななかでも、「これだけは」と思うものを実践しようという予定が大事なのだなあ…と思います。
 「今月の本棚」はいかがでしたでしょうか。8月から10月の本を紹介しました。もっと感想があったのでしょう。それを記録していないと全部忘れています。大事なことはノートをとること、と。
 来月のメインテーマは「年金」についてです。どんな本を読んでいるのでしょうか…。10月も終わります。おつかれさまでした。

 11月の連休にでも整理していこうと思います。
 台風の去った後、近所の公園にいくと木々も少しずつ紅葉し始めていましたよ。(写真)そして、北風が強くなってきていました。うっかりするとカゼをひいてしまいます。風の戸に木々が音をたてていました。ご注意を!!
 プリ野球日本シリーズも始まっています。私は、関東なので横浜ベースターズを応援しています。ガンバレーと…。でも、工藤監督のファンでもあります。今回はカンベンしてもらいましょう。(ちなみに、工藤監督の選手を大切にする持論に感心しています)
 それでは長くなりましたが、今回はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

 

台風21号接近まじか…選挙終わる

2017年10月22日 | Weblog

 こんにちは。
 ここ一週間、ほとんど雨でした。雨で寒さもいよいよ本格的になってきました。これには、10月だというのに「この寒さある」という寒さもありましたね。
 突然マフラー姿の人を多く見た日でもありました。季節の変わり目、体調が温暖の差についていけず…というまえに、この時期はちょっと暑くとも体を冷やさないが基本だと思います。
 寒さに日々、追いかけれている毎日になってきました。
 超大型の台風21号も関東地方に接近している日曜日でもあります。



神戸製鋼は、製品データの改ざん問題を調査するため社内の自主点検や緊急監査した。アルミ製品を生産する長府製造所(山口県下関)の管理職を含む従業員の不正を報告しない隠ぺいをしていたと発表した。日本工業規格(JIS)の認証を受けた銅管のデータを書き換える不正行為もあった(10月21日・東京新聞)

 日産自動車も新車の出荷前に行なう「完成検査」で無資格の従業員が続けていた…というニュースも最近あったばかり。「やっちゃえ日産」のCMの言葉も不正を暗示していたかのように聞こえてしまうのは不思議ではないように思う。一流企業の不正疑惑の中で困惑するのは利用者だ。さて、「自分の乗っているの愛車は大丈夫」と思ってしまうだろう。事故を起こしても「ハンドルを切り間違えた自己責任」ではすまなくなってしまう。そして「事故は人災」だとなってくる。それも、企業の手抜きでである。企業に対する安心はなくなってしまう。そこで、働いて労働者はさらに疑心暗鬼での仕事に自信がなくなってくる…。「負のサイクル」が回り出して、けっきょく誰にもいい思いがなくなってしまう社会になってしまう。

 そういえば、昔にこんなことはあった。
 こちらは食品疑惑。雪印牛肉偽装事件があった。雪印牛肉偽装事件=<(ゆきじるしぎゅうにくぎそうじけん)とは、2001年(平成13年)10月に日本で起きた牛肉にまつわる補助金詐取事件。2002年(平成14年)から2004年(平成16年)に発覚した牛肉偽装事件の最初の事件である。本事件により、補助金詐欺の実態が暴露され、他の補助金詐欺事件が発覚するきっかけともなった事件である。=雪印牛肉偽装事件最近ではマクドナルドのハンバーガーの肉の正体が不明。本当の牛肉ではないなど、身近にはけっこう多い。

 でもよくよく考えてみれば「ブラック企業」だって残業代不払いや超残業時間の電通やNHKでも疑惑だらけではないかと思う。どれをとっても働く人にとってはよくないシステムだと思う。これが「負の連鎖」というものになって会社を覆いつくした結果、にっちもさっちもいかなくなり、その問題に悩むことさえばかばかしくなっていくように思う。働く人の中には、それを考え悩む人、知らん顔をする人に二分されていくのだろうと思う。けっきょく、悩んだ末、自分がその解決策もないまま働いてしまう最後に「過労死」なるものがあるように思う。まじめな労働者が、なんの手だてもなく、いきついてしまった結果である。問題があるにもかかわらず、企業は放置して利益を得てきたことは「偽装事件」と同じ構造だろうと思う。そして、次々に起きてきている過労死は、労働者を守るべき組織も問題と思えるのだが…。

 と、思うともう一企業の問題ではなくて社会そのものの問題だと思うえる。それを放置ししてきた政治にまでいきつく。では、その政治をになってきたその時代の政権はいったいなにをしてきたのだと…いうことも問題になってくる。その政権が、同じようなこと「森友・加計問題」も同じことなどと思う。こちらは国民の税金が使われている。
 まさに、小さな問題から、大きな問題まで日本のシステムそのものの問題だと思う。
 一つずつ出てくる疑惑のニュースに話をしているが、この本質はそれを作っている社会そのものが根幹にあることをつくづく感じたニュースだった。
 そして、最後は全部責任を働く人が背負い込んでいるような仕組みに腹立たしささえ覚えるのだ。就活でやっと入った会社に裏切られてしまっていることに怒りも覚えたニュースだった。


停車中のワゴン車が大型トラックに追突され、静岡市の萩山嘉久さん(45)、妻友香さん(39)が死亡した事故は、夫妻が別の乗用車とトラブルになり、針路をふさがれたのが原因だった。車同士のもめごとは身近な出来事で、2人に1人が普段からあおり運転に直面している(10月16日・東京)=あおり運転

 「あおり運転」の記事を読んで考えたことは、個人の憤懣を他人にぶつけているような景色が浮かぶ。たまたま高速道路で追い越され、ぶつかりそうになって難を逃れて「気をつけろ!」と思っていたら、またしても進路を妨害しているように思えた(のだろう)車にその怒りをぶつける…といういいがかり。まいってしまう。言いがかりつけられた本人は、文句をいう人の前後がわからないので、ただ怒鳴られた状態。

 わたしの場合は「あおり運転」じゃないが、満員の通勤電車のなかでケンカをしている若者を見かける。そんな光景も「あおり運転」に似ているように見える。どこか怒りっぽい若者は、ことの憤懣のはけ口を隣の人にたまたま向けてしまったのではないかと思う。私も、老人で小さいのでよけることができない通路などでは思い切り肩をぶつけれるときがある。腰がギクッとなり、歩けなくなる。
 そんなことは毎日である。わたしも若いときあんな風に老人にぶつかっていたのだろうかと反省してしまう。ただでさえ、肩のぶつかりあう満員電車では何が原因でいいがかりをされるかわからないから、混んで来たらリュックは手で持ち、なるべく窮屈で体の痛みを感じない限り次の駅までガマンの日々だ。
 それはそれでいいと思っている。ガマンできる範囲である。ちょっとの辛抱だからである。すぐに忘れることのなるだろうから…。

 『スタンドバイミー』という映画を思い出した。いたずら腕白4人の少年の青春と心の成長をえがいた名作である。少年から青年それぞれの人生。少年という時代に別れをつげ、それぞれの成長を見守る温かい映画だったと思う。物語のナレーションをつとめる作家になった少年がそれぞれの友達を思い浮かべながら物語だった思う。
 最後に、別れからの行方を語るところが印象的だった。大親友のクリストファー・チェンバーズ(リヴァー・ジュード・フェニックス)が猛勉強して弁護士なる。しかし、ある店での喧嘩の仲裁にはいって刺されて亡くなってしまう…という語りの部分はさびしい結末だったように思う。とてもいい映画になっています。大人になっても何度もみたい気がする映画ですよ。
 これも別の景色の「あおり運転」のようなものだと思えた。




 先週土曜日、突然のメール。
 「パソコンが落ちた…。スキャンもできない」夜11時ごろメール…。
 「このビルは呪われている!!」と。
 まだ、仕事をしているお客からだった。翌日、会社のメールをみたら写真が50枚ほど、原稿がファックスで40ページほど来ていた。きっとパソコンやスキャンが落ちる前に送ったものだろう。電源がどうにか戻って、引き続きファクスだけは流れていた。

 電源がおちた原因は漏電だった。
 今月末に修繕にくるそうだ。それがいま一番の問題解決の方法。
 結局、他人任せの仕事になっている日常があるんだなあ…と思えた。では、いったい私の仕事はなんだ、他人の修理を待つ間、何もできないということなのだろうか。いかに便利なわりには実際には何もできない日々なのだろうかと思えた。まあ、これは宿命だと思えば宿命なのだろう。

 他人まかせの仕事がうまく回るためには多くの企業や人の手を借りなければできない商品のあり方を考えていしまった。月刊誌の印刷も近づきだれでもがあわてている一週間だった。
 そのなかで、人の存在が機械以上に大切する人間関係が大事なことをつくづく思う。夜中のメールで、少しでも気が晴れるのなら送ってきても仕方がないようなあ…と思う日々だった。


 「歴史」に「もしも…」ということはないが、今回の解散がなければ国会はどうなっていたのだろうか…と思う。
 「森友・加計」問題が追及されいた国会だったはずだ。安倍首相はいったどんな説明をしていたのであろうか。さらには、それに関係した「忖度」とかという言葉にどれだけ追及がなされただろうか…という思いもよぎる。

 いまのところ「解散」ということで全部が宙ぶらりんの状態だということをどれだけの与党議員が選挙をやっているのだろうかと思うのだ。
 それにしても、この選挙で与党が圧倒的な勢力をつくってしまえばおそらく「森友・加計」は忘れたような状態になっていくのだろうか。それを追及すべく野党がいまより少数になれば、「一強多弱」は続き、「終わった」ということで押し切られてしまうかもsれないなあ、と。
 選挙前から、これほど安倍政権の横暴さが目立った国会運営が支持されてしまうのだろうか思う。だれがみても、「おかしい」だろう。まさに弱肉強食の絵図をつくっている国会は、審議する場ではなくて承認する場になってしまっている現実を見ればみるほど「おかしい!!」と思わないのだろうか。

 この選挙期間中、自民党は憲法よりも「豊かで平和な日本を守り抜く。 未来に責任を持つ確かな政策を、自民党は実行し続けます。 アベノミクスを全国で加速し、所得を向上。 幼児教育を無償化します。 皆さんの暮らし。子供たちの未来。この国を、守り抜く。 ぜひ、あなたの声を聞かせてください。」という言葉が並ぶのに、これまでの反省もないところに驚いてしまう。バラ色によってすべてを葬りさって(なかったことに)しまおうというイメージが見える。
 本当のところは、「臭いものにはフタ」で進もうとしているように思える。所得向上も必要、保育も大学の教育費も必要というなら、在日の朝鮮学校にも教育費無償化も必要となぜいわないのだろう。そして、「CMの言葉のようになるのは憲法を変えられたら…」というのがう本質だろうか。本音は選挙勝利後だろうか…ね

 「安倍政権に審判」。
 いったい有権者はどんな行動をするのだろうか。消費税10%引き上げや憲法改正、沖縄問題、原発推進、北朝鮮などあるが、私は働く場所をもっと考えろと与党の襟をただす選挙になってほしいものだと思う。希望の党や日本維新の会の保守系(第二自民党)はどこへいくのだろうか。
 そしていちばん伸びてほしい野党(共産、立憲民主、社民)はどうなるのだろうか。
 「歴史にもし…」があればと思うようなことを考えなくともいい選挙になってほしいものだ。



 明日には選挙のほとんどの結果がわかっていることだろう。
 どんな結果になっても変わらない日本であってほしいものだ。でも、不安はある。保守が合同して「大政翼賛会」とい政治が昔あったこと。そのご、集会や結社、さらには表現の自由が制限され、日本は戦争への道へ突き進んだ政治の形でもある。希望の党や自民党が大半をとればその道もあるかのしれないという危惧があるからだ。
 最近の政治は、原則がないように見える。ただ、利益を優先させるだけで、気がつけば、長時間労働や核開発、原発再稼働と人間が制御できないほどのものがはばをきかせてきてしまうのではないかという不安が残る。
 今週はこの辺で…来週は紅葉の山歩きをやろうと思います。
 読んでくれた人、ありがとうございました。


   ※写真は台風のため、これまでのストックしたものです。


一雨ごと、秋深まる

2017年10月15日 | Weblog

 こんにちは。
 雨が降るごとに寒さも身にこたえるようになってきましたねえ…。
 休日の朝、雨などとなると少しずつ散歩もおっくになってくるのが正直なところです。寒さをがまんして外へ出れば、木々の葉が雨と風にうたれて落ち葉になっています。散歩道も枯葉を踏んであるくことがおおくなってきました。

 寒さをのりこ散歩にでれば枯葉を踏む音が冬の音のひとつなんだということがわかるような気がします。季節を感じる音はいくつくらいあるのでしょうかね。これからその音をさがしての散歩にもなるだろうと思います。


 選挙の「期日前に投票」に行って来ました。
 雨ということも少ないのかな、と思っていましたが混雑していました。外へだてら「出口調査」とやらをしているお兄さんに呼び止めれて答えていました。
■安倍政権ってなんだったのなあ…

 思えば今回の選挙は「どんな選挙なのだろう」と自分なりに考えてみました。
 安倍政権が誕生以来のちょうど節目の選挙であると思います。その安倍政権がやってきたことはといえば、2012年12月第2次安倍内閣が発足以来翌年の2013年の参院選で自公の圧勝でまず①特定秘密保護法が成立。さらに衆参両委員会で憲法解釈を変える閣議決定。2012年には消費税増税の先送りをして衆院解散した。ここでも衆院の3分の2を超える圧勝。自公政権の第3次安倍内閣。集団的自衛権を行使する(武器をつかうことを認める)②安全保障関連法が成立。2017年には②共謀罪法が成立…とやってきた。その間2017年には第4次安倍内閣が発足して、「働き方改革」の間最中に「森友・加計問題」が議論の真っ最中だった矢先の突然の解散だった。

 全体を通しての印象は、駆け足にそれも「問答無用」的な強行で進んできたように思う。とても印象的なのは「異論」を新聞記者や野党からいわれても、ほとんど無視するかのような菅義偉官房長官の記者会見にはあきれた。自分のいいようい解釈して、無視するように見えた。
 そこにきて、「一強多弱」で野党が抗議がなかなか通らない。今年にはいりますますその強行的な姿勢に拍車がかかるような安倍第4次内閣だった。

 どれをとっても、討論・審議より短い時間で圧倒的な議員の数で法律をつくってきたように思う。それも、ずべて軍医的な影をひそめながら、関連する法案が成立していったように思う。けっきょく、働く人たちのための「働き方改革」という国会は突然の解散になっていた。
 それも、権力を持つ側の都合のいいように政治はやられるのは仕方がないにしても、その内容はあまりにも偏りすぎていたように思う。このままいけば、本当に野党がいいように海外での自衛隊は戦争に巻き込まれてもなんら不思議ではないように思えた。戦争が他国の土地でやられている、という状況がつくられていくように思えたのだった。これは、昭和15~17年の日本の状況になっていくようだ。

 けっきょく安倍政権は、働く人のことを考えるふりをして企業優先(軍事的なことも含め)の政治をやってきた。それも、危険なのはこれまでの歴代の首相がやってきた戦争の犠牲者を踏みにじったような法案の強行突破の政治だったよだった。
 その間、「過労死や過労死自殺」をよく耳にしたり、新聞では報道されていたにもかかわらずすぎていった。まったなしの労働者の悲劇を見過ごして「森友・加計学園」では自分のお友だちを加護していた様子はなんとも身勝手な政治家だと思えるほどだった。驚きは、その問題が浮上し始めたと思ったら「解散」だ。ほんとうにご都合主義にはあきれた…。
 
 なんでこんなことになってしまった…、と思えば結局、彼等を選んだ有権者にも責任があるように思う。とはいえ、ここまで追い込んだ野党議員の人たちはがんばった。これ以上好き勝手にやられては、私たちの税金をどう使われ、どこへ連れていかれるか不安でもあった。
 それが証拠に、今年の都議会銀選挙での自民党の敗北があったように見えた。小池百合子都知事のやったことは評価されるべきだと思う。ただ、これが国政にも…という野望が「希望の党」をつくったものの、これが野党めざすものとはちがって来た政治は混乱をまねいている。なんとも、これも政治かと落胆した。だから、私は「希望の党」は自民党より最悪の党に見えてしまうのだ。なぜなら「しがらみのない政治」といっていますが、その「しがらみ」で都知事になれたのではないのでしょうか。ただその「しがらみ」が悪くなって今度は「リセット」となったのでしょう。しかし、そこから逃げていては決して、私たちの望む政治はできないと思いますが…ね。
■応援したい弱小野党…その名は社民党
 私が期日前投票をして思うことは、本当の野党が伸びいてほしいということだ。とくに、共産党や社民党が野党をリードすることを願っている。とくに弱小の社民党にはぜひぜひ、もう少し国会議員が増えてもいいと思う。これまで、小さいながら働く人とのために頑張ってきたように思うし、これからも働く人のことを大事に訴えてほしい。ながい歴史をもっている野党政党にがんばってほしいと思うのです。がんばって!


 わたしの個人的なえこひいき的な意見としては、日本の政治から弱小政党の意見が通らなくなったら日本はヤバイ!!…と思う。小さな意見をよい意見であればくみ上げていくのが民主主義の原点だろと思うとがんばってほしいと思うのだ。



 秋雨が空気を冷たくさせていきます。山もそろそろ紅葉が始まっているころだろうと想像します。ちょうど一週間前は、高尾山に山歩きにでかけいました。そのときは「紅葉はまだまだだな…」と思っていました。この雨で今年は早くなるのかもしれません。低い山とはいえ、とてもきれいに紅葉した山々の景色はいいものです。日々のいやなことを忘れさせてくれます。そう思うと山の紅葉は、心と体にとてもいい「薬」だとでしょうか。そんな「薬」ならわが家の常備薬にと思います。けれどもこれだけは、他人から買うこともできません。事実、自分の汗と苦労で現地にいってあじわうしかないものです。そしてゆくれないものなのでしょうか。
 私は、そんな薬をみつけるために山歩きをしているのかもしれません。
 それも、やみつきにならないようにある程度の距離をもちながら、つかず離れずに…。よりそっていくような気持の薬は誰もつくってはくれそうもありません。
 そんな気がします。みなさんはどんな常備薬を持っているのでしょうか。

 来週のいまごろは、大多数の国会議員が決まっていることでしょうか。当選、落選によって悲喜こもごもの感想があることでしょう。
 憲法や労働、社会保障(年金)、教育、医療などくらしにかかわる方向が少しずつ決まってくるのでしょうか。
 個人にとっては、良くも悪くても私たちの生活が少しでもいい向きになればいいのですが。まさに、来週の風がどこへいくのでしょう。





※ご無沙汰していた「私の好きな詩集」を今回は選んでみました。一つの時間や時期を思っています。今回は濱口國雄の詩集にしました。時代は次の時代のためにあるものです。愚策なこてで悲劇であっても時代はつながっていると思います。違うことは、前の時代よりもよくしようという人がたくさんいるように生きるという反省する人がいることだと思います。
 「くさいものはフタをするのではなく、きれいにする工夫と実行」がよりましなものをつくりますし、くさいものがなくなる方法です。

「便所掃除」 濱口國雄詩集(土曜美術社)1974.2.15より
扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしぶれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明けの空気もくさくします
掃除がいっぺんにいやになります
むかつくようなババ糞がかけてあります

どうして落着いてしてくれないのでしょう
けつの穴でも曲がっているのでしょう
それともよっぽどあわてたのでしょう
おこったところで美しくなりません
美しくするのが獏たちの務めです
美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう



くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます
静かに水を流します
ババ糞に おそるおそる箒をあてます
ポトン ポトン 便壺に落ちます
ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します
心臓 爪の先までくさくします
落とすたびに糞がはね上がって弱ります

かわいた糞はなかなかとれません
たわしに砂をつけます
汚水が顔にかかります
くちびるにもつきます
そんな事にかまっていられません
ゴリゴリ美しくするのが目的です
その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
大きな性器も落とします

朝風が壺から顔をなぜ上げます
心も糞になれて来ます
水を流します
心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます
キンカクシのうちまで丁寧にふきます
社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます



も一度水をかけます
雑巾で仕上げをいたします
クレゾール液をまきます
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
静かな うれしい気持ちですわってみます
朝の光が便器に反射します
クレゾール液が 便壺の中から七色の光で照らします

便所を美しくする娘は
美しい子供を産む といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません




 今週はこのへんで失礼します。
 そろそろ、各保険の「確定申告」の「重要」な封書が舞いこんでくるころでしょうか。お金のかかることばかりで困ってしまう。少なくとも、年金生活もはじまりそうなのに…。まあ、むりせずボチボチ始めようとしますか。

 とはいえ、来週は仕事にひっかきまわされそうだ。雑誌の原稿が入稿が遅れているし…。いったいどうなることやら。)おらしらべーどー。
読んでくれた人、ありがとうございました。


◎おまけ
 最近、またはじまった「こころ旅」この番組はいいです。
こころ旅

 ちなみに、興味のある方は下記のホームページをみて下さい。
社会民主党

三連休はいかがでしたか?

2017年10月08日 | Weblog

 こんにちは。
 毎日が寒くなってきているのが身にしみてわかってくるようになってきました。10月になって、紅葉を楽しむ季節にもなってきました。
 さて、この3連休はどんなことを計画していたのでしょうか。
 私は、この連休に山歩きにいってきました。前日の雨で道が歩きにくかった点もありますが、当日は天気はよくていい一日でした。老いて、体が動けるうちは、ゆっくりやり続けていきたいものです。


 今回の「山歩き」は高尾周辺の新しいコースをさがす予定でありました。コースは、陣馬高原下~底沢峠~堂所山~三本松山~大嵐山~杉沢ノ頭~八王子城山~八王子城跡(北高尾縦走)までのでした。ところが、底沢峠に着いたとき、「前日の雨の具合があって、ぬかるんだ道は危険だろう…」と思い、予定を変更したのでした。そして、こんなときには毎回歩いているところが安全だと判断しての計画変更となりました。
 当日、臨時バスも出たほど満員のバスの乗客でした。それが私のコースには一人もいませんでした。いったい、どこへいったのでしょうか…。(陣馬高原をめざしていたのでしょう)。それほど、人気のないコースなのだないうことがわかりましたが…。
 
 それでも、山道はしっかりしていてわかりやすく、さらには静かで他人の行動に気をつかわないのがいいところでしょうね。
 いつかはこの計画とおり歩いてみようと思います。
※今回は最終目的地に高尾山口になってしまったことを大変後悔している。それは、人の多さが降りてきて疲れを倍増しているように思えたから。それにしても、人の多さに驚いた。とくに外国人(白人、中国人、朝鮮など)が目だって多いように見えた。おそらく、五つ星の影響なのだろうと思う。みんさん日本人よりも礼儀正しく親切だ。ただ、山歩きというよりは友だちと観光地へきている感覚なのだろう。それでもいいのではないかと思う。一人ひとりの人間は北朝鮮のミサイルや米国のトランプ大統領の横暴…は見えないしいい。20年ほどまでは静かなところだったのに…。
 これも時代の流れだろうかね。私はここだけは個人的に遠慮します。
 次回は「北高尾縦走」にチャレンジしてみよう。






 ときどき「歩いている風景」ということを思いながら山歩きをしている。少し重めのリュックを背負い、長い坂道を何時間も歩いている心象風景を思うかべているときがある。この風景は何かに似ているなあ…、とも思う。一日の食糧を背負い、黙々と登り、時に「なぜこう苦しいのだろう」と思い立ち止まる。帰途に向かう電車のなかで、楽しそうな家族や若いカップルの笑顔をみていたら疲れたことも忘れています。こちらもついもらい笑顔をつくっている。
 こんな風景も見ることがある。家族連れ。子どもと一緒に山登りをがんばっている。ときどき子どもが「おなかスイタヨー」と立ち止まる。そして「まーだー」と泣き言がはじまる。お母さんが「もうちょっとダヨ…」、「何か食べようか」などといってなだめる。私にもこんなことが昔にあったなあ…と思い出す。子どものとっては、山登りなどはどうでもいいのだろう。なにか楽しいことにめぐり合えさすればそれでいいのだ。途中の景色などとどうでもいい嘆きがきこえる。それもそうだなー、と思う。子どもにとっては小さな変化より大きな刺激がほしいのだろう。「もちょっと…」という気持ちは足を止めるおおきな理由になってしまう。そういいながらも、お母さんが励ましながら頂上までいけたのだろうかと思いつつ歩いていく。

 そしてゆっくり考えてみたら、山るきは「夜逃げ」をしている風景だなあと思います。とても勇ましい姿でもない。ボチボチ風の向きとリュックの重さを考えて足を向ける。リュックの重さと一日の行動範囲の距離が比例し、その重さを少し理解しながらゆっくり歩く。
 頂上に立つとき、大自然のなかでは人間の砂粒のような生命。なんともはかない命だろうと…。
 そして、たくさんの苦しい、めんどうくさいことを忘れるために、一歩ずつ足を運んでいるのだろう。それが、歩いている意味なのかもしれないと思う。一歩ずつ、ただ前に足を運ぶだけの進でのこと。それがなければいつになってもつかないことがわかっている。汗をかき、「疲れた」を連発して「めんどうくさい」を思い、ゆっくり歩く山歩きは、一瞬すべてをわすれて気持ちのカゼを浴びることだろう。「逃げては」また戻り、歩いていく…。これが山歩き、逃げる場所を求めているような気がする。


 最近、電車をまちながら起きたこと。
 登りの電車が入ってきたホーム。下りのホームには踏切をわたる必要がある。私が遮断機が下りる前にわたりきったそのとき後ろを向いたら「ガチャン」という音。渡り終えたおばあさんが持っていた杖が放り出せれて鉄柵にあたった音だった。前のめりなり、額をてすりにうちつけていた。こらばないように膝を思いっきりついた。
 「大丈夫…、だいじょうぶ」と寄ってみると「大丈夫」という声が返ってきた。ベンチにゆっくり座りズボンのすそをめくってみると血が線をひくように流れていた。「ティッシュ、ない」という。それをみていた反対側のホームにいた駅員がとんできて「大丈夫ですか…」と近寄ってきた。
「これはひどい」とって事務所から救急箱をもってきた。包帯をまいて治療していた。

 「踏切をわたれきれず電車にはねられる」というニュースがときおりある。あわてなければ渡れただろうと思う。渡れないのではなくあわててしまって、体のバランスがくずれ動けなくなっているように思う。わたしも、しばしば駅のながい下り階段のときある。はじめは階段にうまくのっていた足が、てんぽがくずれバランスをくずしてしまう。そんなとき、前のめりに転びそうになる。あわてちゃいけないなあーとつくずく思う。

 開き直って「老人は遅い。その何が悪い」という開き直りも必要になのだろうと思う。高齢者にやさしい国づくりとは、ペースがゆっくりすること。早いことが美しいのではないという価値観が大事だということを大切にする社会だと思える。それを許しあえる社会が必要なのだと思う。


 気がつけば、総選挙がまじかにせまっている。今回はなにがいちばんテーマになってくるのだろうか? と思う。
 与党は憲法改正に力をいれている様子だ。憲法にそれほどこだわっている政権はある意味危険な兆候なのではないかとふと感じた。なぜなら、権力者はまずやりたいことは法律を意のままにしたいはずで、できれば権力を思うようにしたいと考えるのだろうから。
 でも、私的に考えれば憲法はいまのままでいいように思う。それは、軍隊をもたいない主義であるし、その分教育や医療や社会保障などに税金を使うことがいいと思うからだ。「軍隊」となるとそれなりの武器が必要になるだろう。しっかりした形にするためには戦闘機も戦車も戦艦も戦うためにひつような道具をそろえるようになるはすずだろう。その額が桁ちがいの高額。数百億円の税金をつかって買わなければなることになる。そんなことは税金の無駄遣いだと思う。正直なところ、給料から引かれる税金が増えるればふえるほど安くなる…という現実は、国が強くなってもちっともうれしくない。
 それほど、国を強くする必要があるのだろうか。話し合えば戦闘機などいらななだろうに…。その分の税金を使って欲しいとものだ。それが、憲法9条なのだろう。

  それから、最近を私の同じ年齢の人たちを見渡せば患者になっている人の多いこと。わたしも近い将来…、などと考えてしまうのだ。
 なにがそうさせてしまうのかといえば、いちばんは高齢者ということだろう。そのことは防ぎようのない現実なのだから仕方があるまい。では、どうしたらいいのだろうか?。この国は、ほんとうに患者のことを考えているのは医療従事者で国は何もしてはいないように思う。だから、経営難を隠して残業代をはらわない病院もでてくるのだろう。医者は日々一生懸命に病気とたたかっているのに、その保障がない国はいったいどういうことだろうかと思う。NHK でさえ過労死をだしている。
 最近、電通の「過労死」について判決が出された。会社の労働条件を見直しに点をおきた判決だったようだ。それでもなにか、なにか腑におちない気がする。労働者を守るべき労働組合はいったなにをしていたのだろうか。NHKも同様に何をしてきたのだろうか。問い直されべきは労使の働き方だろうと思う。それは政府のいう「働き方改革」ではないことだけは確かだと思う。

愚痴はこのくらいにして、今週はこのへんで失礼します。
 ちなみに高尾山は紅葉はまだです。
 読んでくれた人、ありがとうございました




朝夕は涼しく、季節の変わりめに思う

2017年10月01日 | Weblog

 こんにちは。
 とうとう10月になりました。進歩道では、すっかり空気が冷たくなってきました。Tシャツ一枚では寒く寒くなってきました。そろそろ、洋服も心も衣替えという時期でしょうか。うっかり、うす着でいるとくしゃみの連発、さらには寒さが体中を支配してかぜをひいていることもあります。この時期は、ちょっと厚木が基本で暑くなってきたら、脱ぐことを考えて行動するきせつのでしょうか。
 最近は、ファッショなのでしょうか酷暑でも革ジャンや長袖のシャツなどをきた人を多く見かけました。季節とおしゃれなの関係でしょうか。
 私には、そんなイキな趣味はありませんが…。いずれにせよ、人間は季節を洋服で調節する以外にありません。温暖のさをすばやくキャッチして人それぞれにあった着こなしが大事な時期なのでしょうか。それと、人の会話に温かいゆげの出るようなおしゃべりが最も大事な季節だと思えます。

 さて、今週に衆議院の解散がありました。やぶれかぶれかなのか、なんらかの目算があるのでしょう。今回は48回目の衆議院議員選挙になります。選挙の解散のながれの中で、「今回ほど大義のない解散はない」といわれていますが、有権者にとってはどんな感想があるのでしょうか。そもそも、解散する時はどんなときなのでしょうか。
 解散権は与党によって、その時の有利な条件がそろったとき「解散」という行動を起こすのでしょう。今回の安倍首相の解散はどんな意味合いがあったのでしょうか。巷では、今、与党が解散するなかみは「森友・加計学園疑惑隠し」とのニュースが流れています。そんな中、解散するのはよほどのもくろみがないかぎり不利だと思います。ではなぜ解散に踏み切ったのかと考えてみると、野党の混乱があるように見えます。さらには、北朝鮮の今後のでかたが大きな目玉となってくるからでしょうか。


 9月28日(木)午前、臨時国会が召集されたその場で安倍政権が解散。
 総選挙は10月10日公示、22日投開票。民進党は、小池百合子・東京都知事が結成した新党「希望の党」に合流を図り、事実上解党のする。野党共闘をかかがげる社民、共産との野党強とは混乱する状況にある。安倍政治が5年にわたる政治が問われる選挙になる。


 今回の解散には正直驚いた。なんで今…と。
 これまで安倍政権は、「奇襲攻撃」のような「強引」な政治手腕をしてきた。その背景には「1強多弱」だった。「共謀罪」法案ではまさにその手腕が実行された。さらに「安全保障関連法」(戦争法)ではやや暴力的に議会を掌握して成立させていた。次々にやつぎばやに法案が強行成立させるなか、稲田防衛相が南スーダンで行なっていた自衛隊の活動日報を隠ぺいして辞職。今村復興相が東日本大震災について「東北でよかった」発言。さらには最近の豊田真由子議員の秘書への暴言発言などがあった。

 これまでの安倍政権の下でさんざん勝手な発言や行動が行なわれてきた。それでも、離党や辞職でどうにかなってきた。そして、安倍首相の解散…とどれもあまりにも勝手きままな政治行動であったように思う。どこか歯車が間違ってしまったかのようだ。

 そして今いちばん話題になっている民進党の解党。
 政治家の裏切りにもみえる行動。いったいこれからどうするだろうか。だいたい参議院の民進党はどうなるのか…、そして「希望の党」に行く人はいいが、行きたくない人はどうなるのか…。どれもまだ不透明なまま、動き始まっている。実際、これまで指示してきた労働組合との関係もあるだろう。これも「しがらみのない政治」ということなのだろうか。まりにも自分勝手な行動に信じられない政党になってきた。第二自民党のようにも思える。

 新聞にこんな「投稿」(朝日10月1日版)があった。
 安倍さん、小池さん、前原さん。憲法改正を唱える政治家ばかり、表に出てきている。すっかり土俵が出来上がっている感じだ。庶民の心配事は、賃金や雇用、教育、老後などのなのに。私たちの暮らし向きがよくないのは、それは憲法のせいだ、と思う国民がどれおほどいるのだろうか。…(略)…憲法の是非を問い返せるほどの知識も経験も慎重さも、十分にお持ち合わせていない。けれでも、今回の総選挙で、憲法改正が当然のように選択肢のテーブルに載っているのは腹立たしい。


 私もなにが憲法改正だ、と思う。変える必要など全然ない。それよりも安心して働ける賃金や老後の保障をちゃんと考えて欲しいと思うのだ。政治家の皆さんの自分の働き場所を必死に求め、右往左往している様子は私たち自身の日々の生活なのだから。けっきょく最後は政治家でさえ、人間で私利私欲になっているように見えた一週間だった。




 今週末、兄弟の入院先にお見舞いに行ってきた。
 定年退職、そして再雇用と…。自分が働きずめでやっと落ち着いた矢先の入院だった。私も体には自信があったが、今回のに行って自信がなくなってしまったお見舞いだった。
 よくよく話をすると、入院までの日々の生活が反省させられた。
 やっと仕事から離れ、煙草に酒に運動不足…の日々を送っていたのだった。それから、これから自分のやりたいことを…と思っていた矢先であったかもしれない。さらに、話をすれば、何年か前、健康診断でちょっと悪いといわれていたことに対しての油断であったのかもしれない、と。あのとき、もうちょっと念入りに日々の生活を送っていたらなあ…と思う。

 そんな会話を思い出しながら、私は、病気のウィルスというものは日々体を蝕もうとして活動していると思った。健康なときであっても、ウィルスは体のずみずみでその出番を待っているかのようにしているのだろう。それが、たまたま今出てこなかっただけでなのだろう。ところが、ある日突然、体の一部が不自然になって、さらには何らかの原因がウィルスにスイッチがはいって病気になるのだろうと思えた。
 そして、肉体が高齢になればなるほどその病気のスイッチの入るチャンスは多いのだろう…と。人はそれに対抗するため、どこかで自分流に得てきた赤信号を見つけては休んだり、運動したりとしているのだろうと思う。それは、誰でもおなじではなく、その人だけがもっている赤信号を早くきがつけばそれだけ軽くすむのだと考えてていたのだった。

 たとえば、腰がいたいという日々。
 それでも、これは一生つきあっていくしかない持病だと思っていてもそれを少しでも軽くしようとする努力が必要なことのように思う。
 それで、どうにか腰痛だけで済んでいるだけなのだと思うことだろう。
 
 今年3月ごろまで友達の入院先にお見舞いにいっていた。いまは退院して日々できる範囲で仕事に就くようになっている。
 今年はお見舞いだけで済んでいるが、いつかは私が入院先で横になっているかもしれない。日々精進していこうと思っている。それは、煙草をひかえることであったり、運動をもう少し増やしたり、そして疲れたら無理をせず休むことと、自分への命題として行くことにしようと思ったお見舞いだった。

 最近はいまさら、ガムシャラに何事もやろうと思ってはいない。なぜななら、体が無理がきかない。ただ、やれる範囲で無理なく、自分ペースでやっていくしかないようである。なんと非難されようと、こればかりは他人にわからないものだ。自分との対話をこれまで以上にしていくことが大切な年齢なのかもしれない。

 はやいものです。
 今年もはや3か月で終わりです。
 「去る者は日々に疎し」といいます。これまで、どれだけやってきたのと…。何かにつけ、日々の注目があるうちは騒がれます。流行や他人のスキャンダルなどに時がながれていくようになってはいなかったか、反省します。何がやりたいのか、今回お見舞いにいって帰ってきて思いました。できれば理想ですが「悔いの残らないように」がんばっていきたいものです。
 10月に入って、季節は初冬へとむかっています。日光の戦場ヶ原では霜が降りたというニュースがありました。空気もヒンヤリとしてきてしました。季節の変わり目…。何かと体に負担がかかる時期だと思います。
 読者のみなさまも体には気をつけて日々を送ってください。
 今回はこんへんで失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。