日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

一年間ありがとうございました。

2018年11月25日 | Weblog

 こんにちは。
 寒さが毎日きびしくなってきました。日々、厚手の服が身をつつみます。どこへいくにも真っ先に寒さが追いかけてくる日々にもなりました。そろそろ、年賀状の準備という気持ちになってもきます。それと、この時期、少ない知人からの「喪中」のハガキが舞いこんでくるころでもあります。ぼくの所へは5枚のハガキがきていました。この時期、人との永遠の別れがを教えられる季節でもあるのです。季節は寂しさを運んできます。少しでも暖をもとめて動いている季節でもあります。


 久しぶりに連休の真ん中、恒例の「紅葉山歩き」に行って来ました。コースは、「小仏~景信~小仏~城山~高尾山」というのんびりできるコースでした。寒さよりは、自然の色にあっとうされて忘れているようでした。この時期の山歩きは体も温まり、天気さえよければちょうどいい暑さになります。



 いつもであれば、陣馬高原下からの山歩きですが、今回は紅葉を眺めながらのゆっくりしたものにするために、予定を縮小したものとなりました。
 紅葉はもみじが中心にきれいでした。遠くに見える、赤、黄、茶、オレンジ色のグラデーションの落葉樹の森も見えました。落ち葉を踏みながらの山歩きも楽しいものです。(注意することは落ち葉による転倒も多いとききます。この日ぼくも転倒しました。なるべく両手をあけておくようにしたいものです。)



 歩いていて、ふと足を止める場所は紅葉のある場所が多いこの時期です。目の前に季節の色がいちめんに広がっていくと、ふと自然のふところの深さみたいなものを感じるでしょうか。のんびり、眺めては新しい色に感動するころことがあります。これから、落ち葉になり木々は休眠状態にはいっていくのでしょう。一年間ありがとうございましたという気持ちにもなります。



 空気も乾燥しているせいでしょうか、遠くまでの眺めがいい時期でもあります。ゆっくり眺める静かさもなりました。はるか彼方には八王子の町並みがみえます。町の喧騒をなのがれては、一時ですが風の音や鳥の声をきくこともできます。まだ、午前中の早い時間帯では人の声の方が少ないのです。
 それでも元気で登ってくる親子連れにはこちらも元気になります。体力がぜんぜん違う悲しい真実がわかります。でも、子どものように早く、元気にとはいかないまでも、自分なりのペースがとれるのは老人の特権でしょうか…。



 遠くに見える富士山も雪景色をになっていました。
 山歩きでいちばんの醍醐味は、遠くの眺めることができることではないかと思います。普段は、ビルの窓ガラスや工夫された花壇などを眺めています。いわば足元をばかりを気にしているような毎日であることに気づかされます。「森をみて木をみる」ということがありますが、遠くの景色をみて自分の置かれている場所をゆっくり考える時間が持てるというのも山歩きのよさだと思います。(だいたい自然のなかでは人間はちっぽけなもの…。自然にさからっても最後は、合わなければ痛いしっぺ返しの歴史でしょうか)



 さて、最後は久しぶりに「高尾まんじゅう」(ぼくが高尾に通うようになった30~40年くらい前からあり変わらぬおいしさがあります)を求めるために、高尾山口に降りて行きました。ところが、予想をはるかに超えた人、人の多さには驚きました。これほどとは考えてもいませんでした。これじゃ、元旦の初詣の人の流れそのものです(写真上)。連休で紅葉を見に来る近さを考えればこうなるのでしょうか。さらにミシュランの三ツ星の影響もあり、外国人の多さも目立ちました。これにはmまいってしまった。高尾山口に降りるまでに、景色どころではなく、人の背中ばかり気にしながらの下山でした。

 ぼくはこれまで、こんなこともあるということで陣馬高原から歩き手前の城山や小仏で降りていました。今回の下山で驚いた。これほどまでとは…。あんのじょう、登山道によっては一方通行(登りのみ)になってしまっているところもあるといいます。大変な混雑でした。
 ぼくは、今後きっともうここは避けていくことだと思う。高尾山はりっぱな観光地であるように思う。駅前のお店もどこも列をつくっているほどの盛況でした。地元の人にとってはこれはこれでいいことなのでしょう。でもあまりの盛況ぶりになんでもとなると考えものですが…。


【ぼくにとっての高尾山】
 老いてからは、この山はぼくの山歩きをする一番好きな場所となった。
 若いころは、友だちと谷川岳や雲取山、奥多摩、丹沢などに行っていた。いちばん印象に残っているのは谷川岳でいつも雨の中を歩いていた記憶がある。雲取山は山小屋泊まりでいった。客がすくなかったためかドラム(五右衛門風呂)缶風呂は面白かった。緊張していた体がホッとしてことを覚えている。緊張していると、自分の体が無理をしていても疲れがわからなくなっている危険があることにここで覚えたように思う。ドラム缶風呂で疲れたことを自覚した…。
 その後が一人で丹沢や奥多摩にもいった。奥多摩の鷹巣山は登っていただけのような記憶がある…。丹沢は懐の深い好きな山だ。これらに共通するのは交通がちょっと大変だということに気がついて避けるようになった。(交通費もたいへんですから)

 けっきょく「今度一緒に行こうな!」と言っていた知人は山はリタイヤしたようになってしまった。今では、ぼくは一人になってしまった。どこかの「○○会」や「登山仲間」などの組織に所属すればもっと行動範囲も山の楽しさも知ることが出来るだろうと思う。
 とはいえ、ぼくのようなわがままな人は無理だろうかな…と思っている。だから、単独山歩きが多くなった日々となった。それは、自分の行動に責任はともなうがちばんのんびりできているからいいと思ってのことだから仕方がない。

 自分の今の条件にあった山というのが高尾山だったように思う。交通も京王線沿いの住民になって30年近い。知人もみんな老人になってどこへ行くにもしんどい年齢なった。さらには病気なって入院中という人もいる。見渡せば、若いころ一緒に山歩きをしていたてリタイヤ状態の人たちには、田舎に帰った人、病気治療中の人と、山歩きどころではない状況になってしまっているのが現実だろうと思える。そのことを考えれば、山歩きをやっていることは疲れるかもしれないが健康を保てる方法なのだとも思う。

 ぼくの山歩きの基本モットーは「無理のないこと」。
 行ける範囲であれ、山の道具であれ、無理のない範囲でゆっくりできればと思う。山の道具は毎年軽くて便利な商品が出ている。店頭を歩いていると「どれもいいもの」が多い。オシャレで便利そうなものもある。だからとって本当に必要かといえば、必要のないものもある。なくても他のもので代用できるものも多い。例えば水筒など。ぺっとボトルで用はたりる。大事なのは飲める水があるということなのだ(本人の美学によって必要ならこばむものではないが…)。大切なことは、持っていくものは必ず必要で使えるものなのだということだと思う。それが軽くて頑丈ならなおさらいい。そして、経済的な理由も大事だと思う。

 できるだけ行動範囲は地図などで知っておくことも大切なこと。とくに初めていくところであれば、最低限の地形や登り下りは等高線でしっておくことが無理なく…ということの第一だろうと思う。
 最近はスマホでほとんど位置関係はわかる。だからといって信頼できるか言えば半分くらい。なぜなら、電池がきれれば(何らかのアクシデントなど)ただとお荷物なってしまう。まして高価なものなら失くしたらと思うと安心できる道具とはいいがたい。低山あればそれほど必要ないのではないと思う等など…。

 高尾山であればスマホの機能をつかうほどでもないと思う。
 まあ、好き好きだ。
 これからも、あと何度いけるのか? ゆっくりあわてず歩いていきたいと思う。これは山歩きに限らずなんにつけ共通する行動様式であるのだろう。高尾山に学んだことは、自分の範囲で無理をしないようにする行動だと思う。いい山だとぼくは思う。自分に合ったコースをのんびりさがしては、この山の周りをうろうろしていきたいと思う。




 早い…、速い…と思いつつ11月が終わろうとしている。
 これで今年の更新は1ヵ月ほど開店休業になります。毎年のことですが読んでくれる人にはご迷惑をおかけします。毎年12月は、仕事も気持ちも忙しくなっていることは昔も今も同じである。ひらたく言えば、宿命のような気がします。職業上の宿命でしょう。やればできないことはありませんが、自分のストレスをつくることほどバカらしいことはありません。ですから今回で今年の更新は終了とさせていただきます。一年間ご愛読ありがとうございました。

 今年一年間をふりかえってみれば、正直なところ、なんのかわり映えもせず、ただ週の終わりの更新ではなかったと思います。新しいことも考えず、日々の気持ちを置き去りにしたような気でもります。いったい本当は何をやりたかったのか? 今も考え中です。
 
 ただ言えることは、少子高齢化の時代といわれるほど高齢者や保育施設などがまったく変わり映えせず、税金は五輪や戦闘機などに多く使われるようとしています。さらには、労働力の足らない穴埋めでもするように外国人労働者の雇用をこれまで以上に受け入れようとしています。国内の本質的な問題をそれで乗り越えていこうということでもあるようです。新聞では、外国人雇用に関して、これまでの雇用の在り方が問われているのが現実のです。一つに外国人留学研修生の人たちの「失踪」について、愚弟的な解決策がないことが報道されています。「失踪」した理由に、低賃金や過酷な労働条件などが上げられるといわれています。

 身の周りを見わたせば、多くの労働条件について考えさせられます。ぼくのいる職場でも、高齢者の再雇用に条件についても何も問われず仕事だけが動いています。聞こうとする気がないのか、逃げているのか、そう思えるのですが…。働き方や正規社員との仕事のつながり、さらには賃金のことなど大事なことが今年一年でなにも変わらないことには、高齢者としては不満な一年でした。でも、これでいいのであれば「このままで」という開き直りもできますが…。
 とりあえず一年間がもう少しでおわります。
 一年間お疲れさまでした。

 今月の「本棚」は休みます。
 とはいえ、ひとこと…。最近の本は高いですね。手もでませんね。文庫本になる日を楽しみにまっているのですが2,3年先が多いようです。ほんとんど通勤時間に読む本です。正直、読みたいと思ったている本は、生活にはほとんど何の役にもたっていないようです。それでも、おもしろい本はまだいっぱいあるのでしょうから…。よく調べてある歴史小説はいいですね。これも、楽しみの一つとして来年も続けていきたいと思います。 

 一年間ご愛読ありがとうございました。
 「年末調整」の書類を書くために昨年のものを参考にしようと探していたら、たくさんいらない書類やら新聞の切れ端やら出てきました。一年間コツコツためるとこんなにも多いの…と驚きました。ほとんど役立たずで捨てることにしました。考えてみれば、本当に必要なものは意外とまとめていないことが多いようです。その代わりどうでもいいようなものばかり集めては貯まっていく日々です。どう頑張った墓場までは持っていけないのにね…。

 一年間、愚痴のような不満のようなことばかり綴ってきました。誤字・脱字もたくさんあるでしょう。ぼくとしては、このコーナーは「自分への宿題」のようなつもりで、週末に更新してきました。日々の出来事などを通して自分の思うことなどを書いてきました。読者の皆様はどんな感想をお持ちでしょうか。(どんなことであれ、続けていれば見えてくるものもあります) 
また、来年1月から頑張って更新できればと思います。
 読者の皆様をいいお年をお迎えください。お体は大事にして年末を乗り切っていきたいものです。ではまた、来年あいましょう。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

寒さがきびしくなってきました。

2018年11月18日 | Weblog

 こんにちは。
 昼間は温かいと思っていても、夕方は寒くなってきました。通勤途中、知らずにポケットに手を入れて歩いていることが多くなってきました。落ち葉も多くなってきたようで散歩をしていると、箒を持って掃除をしている人も見ます。紅葉で楽しいのは、ゆきずりの人くらいで、落ち葉の近くに住む人たちにとってはちょとやっかいな季節になってきたのかもしれません。マスクをする人も多く見かける季節にもなってきました。。

 この時期は寒さばかりが印象に残ってしまいますが、景色は、空気も澄んできたきたせいでしょうか、遠くの山もきれいに見える季節でもあります。ぼくの住む遠くには、山が遠くに見えてとてもきれいにうつっています。
 風の強い雲ひとつない時は、多摩川の橋からスカイツリーの頭が見えることもあります。遠くをみていると、あの先に通っていることが思われて遠いところに日々を送っているなあーとも感じます。




【友だち・学ぶひとたち】
 散歩をしていると、よく見かける光景は定年退職っしたであろう人たちが目につくようになりました。ぼくが同年齢の人になったからだろうと思う。
 多摩川などでは、男性は一人で歩いたり、釣りをしていたりと…楽しんでいる。女性は何人かで歩く姿を多くみかけることが多いように思える。
 年を取ってかわったということは「くよくよしなくなった」ことだろう。若いときは、他人の気持ちが気になって自分という人間がいつの間にかその人に合わせた種類になっているようになっていたように思える。「類は類をよぶ…」ではないがそんなことが多かったのではないのだろうか。要は図々しくなったということなのかもしれない。

 最近、「ぼくはいったいどんな考えを持って生きていくのだろうか…」と思うことが多くなった。例えば、帽子を毎日つけて会社にいくこともなかったが、今は着けて行くことが多くなった。以前は、通勤列車が混雑していたときは帽子が邪魔になるように思えた。でも今は、なるべく混雑した電車を避けるように選んで乗るようになった。それで済むなら、その方が自分のやりたいことが出来るのではにかと思う。他人の都合に合わせるのではなく、自分がやりたいことをやるのであれば、それに合った条件をさがせばいいと思うことが多くなった。他人の迷惑であれば避けることを考えればいい。
無理をして他人合わせるのに自分の気持ちをだいなしにしてしまうことはやめた方がいい、と思うようになった。世間は自分のことは気にしていまい…。オシャレということでもないのだろうか。

 日々、他人同士で話をするわけでもない。そんな中で自分を表現するのは大事なことだろうと思う。よくいう「第一印象」ということになるのだろうか。
 町を歩いているとそんなことを思うことがある。以前「意識が変われば服装が変わる…服装が変われば言葉が変わる…、言葉が変われば社会が変わる…」(うろ覚えですが)ということばに遭遇したことがある。考えてみれば、いわれなくてもどこかで実践していることなのだろうと思った。
 身近な人たちとのかかわりの中で、「語らぬ表現」とでもいえる身支度は大事なことなのだろうと思う。
 他人に迷惑をかけねばどんな格好であってもいいのではないかね。

 そう思ういつつ、日々を送っている。
 そして、人はどんなことであれ死ぬまで勉強なのだなあ…と思う。知らないことを知ることは面白いと思う。知ったところでどういうこともないが、自分が納得できる時間を持てるということが大切な日々の習慣なのかもしれない。


 毎日思うことがある。
 「65歳定年制」という事実は少しずつ現実になってくるだろうと思う。新聞にも、公務員の定年が65歳ということが議論され始めている。さらには、高齢化社会がますます進む状況のなか、仕事も高齢化に頼らざるを得ない状態になってきたともいう。知人と「死ぬまで働けかい」と話しているが冗談ではなくなってきたように思える。

 実際に、ぼくが再雇用制度によって契約社員になって、日々経験していることは「高齢者と若年層との仕事のマッチングができていない」という現実があるように思える。たとえば、正規社員との賃金が半分ほどちがうのに同じように仕事をしていることがある。そんなとき僕が思うことは「同一労働同一賃金」にしてほしい、ということがある。さらに、同じように残業をやっても1時間の格差がある…。

 それを今後どうやって解決していくのだろうかと日々思っている。



 11月も後半、さすが朝は寒くなってきました。
 週末には連休もあります。
 とはいえ、来週はちょっと忙しくなりそうだ。ちょっとがまんの週になりそうだ。
 水曜日までガマンして仕事をするしかあるまい。はやいもので、今週が終われば、今月も終わったようなきになってくるだろうなあ…。
 連休には、紅葉を見に山歩きに行ってこようかと計画中。あとはお天気だけだが。「年末調整」もあるのか、めんどうだね。
 今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

 

立冬の風をうけて

2018年11月11日 | Weblog

 こんにちは。
 いよいよ冬も立ち上がる季節になってきました。それでも、実際は朝夕の冷え込む以外は温かいです。もう少しで、今年もおわりですね。ときどき「今年もおわるねえ…」との会話があります。年賀状の準備をはじめるころ、知人から喪中のはがきもとびこんできました。そして、あらためて、知人の家族のことあまり話さなかったなあ、と思うこと。紅葉も身じかになってきました。落ち葉の赤がきれいなことに不思議な思いをしています。「なぜ、赤になるのでしょうか」ってね…。
 年末調整の書類も渡されました。一年に一度だけの「税金」について考える時期でもあります。内容は去年とほとんど変更がないわけですが、それでも保険の支払いの多さには驚きます。それでも、健康が一番とあきらめているのでしょうか。

 今月にはいってから東京新聞に「税」について特集がくまれています。それを毎日読んでいると、なんとも兵器(戦闘機・レーダーなど)の高いことには驚きます。これが戦争では武器になるのでしょうけれど、それにしても知らないうちに高額なものを買っているのでしょうか。それも、米国産ということもあって借金するわけでしょうか。戦闘機の一機分でどれだけの保育児童の待機がなくなるのでしょうか。憲法の9条がなければ今以上の「防衛費」なるものが知らな間に積まれるのでしょうか。国の借金が何百兆円もあると聞きます。そのつけは、誰が責任をもって払うのでしょうか。こんな額はもう「ふみたおす」以外ないとも思えますがね。「国民の生命と財産を守る」ことができるのは兵器とは…ならないことが大事だと思います。
 そのうち、いい武器をもつと使いたくなるのが世の常で、危険なものを持ったということでしょう。抑止力ともみえますが、とにかく高額な戦闘機は必要なのでしょうか…。国の税金の使ったものを、一年に一度、こと細かく新聞に載せたらいいのではないのでしょうか。きっと、日本の政治がいちばんよくわかるのではにのでしょうか。各省庁の予算から出費の出所まで新年号の折込でもいれたらいいのではないのでしょうか。

※ちなみに会計検査院は9日、2017年度決算報告書を提出。内容をみると税金の無駄遣いを含む指摘金額が1156億円で、2年ぶりに1000億円を上回る結果となった。指摘件数は前年度より49件減の374件で、過去10年で最少であった。法令違反などの「不当事項」が292件、計75億円に上った。そして、指摘金額では、防衛省が640億円と最も多く、危機対応融資をめぐり不正を行っていた政府系金融機関の商工中金が152億円、農林水産省の118億円と続く。件数の最多は厚生労働省の95件だった。(10日・東京・朝日)




米中間選挙は6日投開票され、「米国第一」を掲げるトランプ米政権と共和党は上院で多数派を確保した一方、下院では過半数割れとなり、民主党に敗北した。民主党は8年ぶりに下院を奪還し、上院と下院の多数派が異なる「ねじれ」が復活する。……「白人至上主義が増長し、移民やマイノリティー(少数派)への憎悪犯罪(ヘイトクライム)は後を絶たず、移民排斥うや反グローバリズムで支持を得る愛国主義が連鎖する。南米では『ブラジルのトランプ』と呼ばれる極右の元軍人が大統領で勝利し、欧州では難民・移民に寛容なドイツのメルケル首相が地方選の敗北で党首退任を表明。日本も格差が拡大し、外国人労働者の受け入れを進める中、人ごとではいられない……と。(8日・東京)

 世間が騒がしい「米国中間選挙とはいったい何か?」 ぼくは正直あまり知らなかった。米国にトランプ大統領が登場したしたときその言動には驚いていたが、あれよあれよ…という間に大統領になってしまった。その第一の原因は「忘れられた労働者」の復活があったからだということを何かで読んだことがある。これまで、汗を流して働いてきた労働者が景気が悪くなって失業に追い込まれる。そこで働いてきた労働者はどうすればいいのか。もういちど働きたい、と思った人たちを救いあげた結果大統領になったとも記憶している。しかし、ふたをあけたら失業の原因は移民労働者のせいだとか、女性蔑視の個人的な発言が私的から公的人間の発言になっていった。移民排除、米国第一主義をかかがげたともあった。

 とはいえ、大領領自身も不動産王の大資本家である。政治家ではなく経営者だったということは隠せなかったのだろう。そして、これまで使っていたブレーンを次々の更迭するなど、まさに会社の仕組みそのものを持ってきてしまったようなところがある。つまり「クビ」だと。差別の平気。さらには、国民が唯一情報を知るべきマスコミまで問答無用の壁をつくってしまった。
 議会も自分第一主義になってしまったかのようにも見えたのはぼくだけだろうか。

 これまでニュースの少なさもあるが米国のことは、大統領発言とその現実しかわからなかったように思う。今回の中間選挙でちょっとはまだまだ、民主主義というやりかたを模索して頑張っている人たちがいることがわかったような気がする。(いままでほんとんど大統領のことばかりニュースになってきた)やっぱり、自分の国は自分たちで考え、行動し、変えていくという政治が大事でるあことをいっている中間選挙の結果だった。投票率では47・3%という数字が過去最高の水準と驚きである。米国も日本と同じに投票率は低いことにまた驚きである。あれほど、デモがあっても彼らはほんの浜辺の砂粒のようなものだったのか…。日本では集会やデモは砂粒どころか宇宙の星のひとかけらのようなものかもしれない。それでも、集まってデモすることに意義があることは大切な表現の一つだと思う。




外国人労働者の受け入れを拡大する政府の入管難民法改正案。経済界の要請を受け、安倍政権は今国会で成立を目指すが、当事者の外国人労働者の話はろくに聞いていない。法務省は劣悪な環境が問題となってる技能実習生の失踪原因データ公開も拒否。果たして労働者目線で調査は行われているのか。高度プロフェッショナル(残業代ゼロ)制度に続き、法律の必要性を示す「立法事実」が問われている。(10日・東京)

 悲しいことに国内の労働者の「過労死」が「労災認定」ということに多く出てわす。「働き方ァ改革」とはいっても、働く現場ではあいかわらず残業代に不払いやパワハラ・セクハラが多い。今週でも病院職員が自殺していた新聞記事があった。亡くなったのは20代の男性職員。約400人の給与支払い業務をほぼ1人で担当していた。長時間労働によってうつ病になり、自殺したという内容だった。
 さらに、外国人が日本に技能実習生として茨城県行方市の農家で働いていた中国人女性(32)が未払い残業代などを求めた訴訟で、水戸地裁は実習生に200万円の支払いを命じた。(朝日10日)など続々でてくる。

 こんな状況を政府は本当に把握しているのだろうかと思う。
 現実は外国人労働者が実習生としてきて不当な働き方横行している実態が新聞でも多くニュースになっている事実は隠せないだろう。失踪する外国人労働者も後を絶たない状況もある…。失踪理由として「暴力を受けた」「労働時間が長い」「低賃金」「最低賃金以下」などもあがっている。戦中の強制労働みたいな実態が隠ぺいされているようにも見える。

 これで本当に外国人を雇用できるのだろうか。何十年か先に日本の企業「徴用工」問題となって訴えられるようなことはしていないのか心配な面が出ている実態ではないか。
 「働く」ということはだれにでも役に立っていることを意識すること、そして生活ができていること。働いていることにプライドが持てることが大事だと思う。ときには大変な仕事もあるだろうが、大変には大変に見合った代金を払うこと。これまで、「過労死」などで本当に何を学習してきたのかということを思ったニュースだった。





【多摩川・つり】
 ときどき夢をみる。湖か沼で小さな波紋に眼をやりながら釣りをしている夢である。いやなことがあったら「楽しいことを考える」とこんな風景になるのだろう。
 ウキが少しもやる…。魚の体がエサにふれているのだろう。なかなかうきがうごかない。遠くで大きな鯉がはね上がる。大きな波紋がうきを大きく動かしている。少しずつうきに引きがわかるようになってくる…。
 いっこうに釣れない。それでも水面に映る光がここちよいと思っている。

 少年時代はよく釣りに行った。手製の釣竿をもって、エサはミミズである。ミミズはすぐ裏手のゴミ置き場にいっぱいいた。栄養満点のミミズだった。
 釣り場には大人の人もいて、ぼくらの釣りを迷惑そうに見ながら釣りをしていたように思う。大人たちの釣り姿や道具は本物で僕たちのようなにわか作りの釣りではない。僕たちが釣れるものは小さな口ぼそという魚ばかりだった。大人たちは鮒や鯉を釣っていた。魚も道具屋、エサに比例しているらしいと思う。僕たちの道具も少しずつ本物になる年齢になると、大きな鮒も釣れるようになった。大きな鮒を釣ったときのドキドキする気持ちは今では忘れている。ドキドキすることって久しく味わっていないようだ。
 子どもでも一番釣れる時期走っている。それは、「のっこみ」といわれる産卵期である。春も近づくころ魚が浅瀬にやってきては、腹をすかせている。その時は大収獲になる。何十匹とつれたときは家に持って行って、2、3日泥を吐かせて家族で食べたことがあった。子どもこころに生活の役に立っていたことに満足したのだろうか。いい風景だった。

 最近はなかなかそんな風景ができない。あるとしたら子どものころ、休みの日に朝早く起きて自転車で数キロ離れた沼に釣りにいった景色がそうなのかもしれない。もう一つ、四国の田舎に帰ったとき近所の貯水池に一人で釣り行ったときがそうかもしれない。
 山歩きもいい。ゆっくり歩くことだけでいいのだろう。



 朝、近所の公園に散歩に出たりすると木々が少しずつ紅葉している。人の姿は多く見ることができる。いまが一番いいきせつなのだろうなあ…と思う。汗をかくこともなく軽い動くと温かくなる。ということは人の出入りも多く見る。何人かで勉強している人たちもいる。知らないことを知るということは楽しいことである。ちょっと面倒なら、何人かで集まって分からないところを話すのもいいのだと思う。世間話をしながら勉強するのはいい。これからは、休みの日ぐらい、気の合う仲間を募ってやれることを見つけることも大事なのではないのかなあ、と思う。ところで、最近の若者は…とはいいたくないが、世間話ができないときく。原因は新聞を読まなくなったからだそうだ。スマホではピンポイントで記事を読めるが、その記事を世間と結び付けて話そうとすると、それだけでは済まなくなる。けっこう世間話は難しい。何気なく読んでいる新聞を読むと世間が見えてくるのだという。雑学もできる…、それを生かす生活が大事なのだろう。
 神社に行けば「七五三」の家族連れを多く見た。着物がとてもいい。やっぱり日本人なんだなーと思う。
 子どものころを思い出したら映画『スタンドバイミー』を思い出した。この子どもたちはの20年先はどうなっているのだろうか。少なくとも今の政治じゃよくないだろうなあ。



 いまさら「七人の敵」ではないだろう。よって来るものは宝物としてみたい気がする。
 来週は今月の月刊誌の追い込みの週…。一ヵ月なんてなんと早い。先月もいまごろこんな嘆きで一日が終わったように思う。今週も同じである。進歩がないのはお客にも責任あるのだろう。
 昼間の暖かさに油断することなく11月も後半にむかっていくしかない。
読んでくれた人、ありがとうございました。

11月になって

2018年11月04日 | Weblog

こんにちは。
昼間は温かいと思っていたら、夕方から突然寒くなったと感じることが多くなってきました。気がつけば、暖を求めて動き始めています。
 「寒くなりましたね…」とあいさつをする季節がやってきました。
 昼間はのんびり影が長くなってきたことに気づきます。通勤帰りのバス停はまっくらになっていました。ライトがまぶしくなってきたようです。日本中が寒くなってきました。嫌いな冬が近づいてきました。これからおよそ半年、寒さのなかにいることになるのですが…。とてもつらいですね。

 さて今週はプロ野球の日本シリーズが決着しました。個人的には広島カープを応援しましたが福岡ソフトバンクホークスの負けました。残念です。敗因はチャンスに得点できないこと、エラーの数でしょう。エラー(ミス)は勝負ごとにつきもので、負けるいちばんの理由です。それが本当にそうだということを語っていた試合でした。見ていて気がついたことは、両チームとも外国人のピッチャーが実に多いですね。いわゆる「助っ人」です。もう助っ人いない勝利はないようになっています。時代の流れでしょうか。
 阪神タイガースが優勝したのは何十年前かね。もう生きている間に見ることはないのでしょうか。バース選手のホームランをみていた時代がなつかしい。


アフリカやアジアを中心に、世界で9億人近い人は自宅にトイレがなく、野外で用を足している。中でもインドは貧困層が多い経済的な事情に加わえ、トイレを「不浄」とみなす宗教的背景にがトイレ整備を阻む。(東京・1日)

 住むところが違えば、排せつの場所も違ってくるのは当たり前だと思う。それがどこであろうと誰にも迷惑をしていなければいい。それも文化であるから、よそ者がとやかくいいことはないのだろう。生きにくいものになっていたのであれば問題となるだけではないのだろうか。差別されるとか、生死をきめてしまうほど不衛生だとかということなのだろう。
 今回の「インドのトイレ事情」の記事では「安心してトイレを」ということなのだろう。トイレに用を足しに行った少女がレイプされたり殺害されたりした事件が起きていることが社会問題になっているわけだから、必要ということだと思う。これらは社会問題になっていて、2019年までに野外排せつをなくすとインド・モディ首相は運動を始めているという。

 話は2011年に「トイレのないマンション」という言葉が記憶にある。これは東日本大震災で福島第1原発事故で言われていた。原発は事故が起きてもそれを修復するめどがないほどだということ。つまり「安全管理」ができていないとうことだと思う。事実、事故によって多くの放射能が垂れ流しになって多くの住民に被害をもたらして、いまなおその解決にいたっていない。人間がつくったものでこれほどいい加減な排せつ処理の上にできていることをあらためて知った事実だった。

 トイレがなくても生きていける社会があればいいのだが、自分たちでつくってしまったことだから解決するしかない。それがいちばん大切なことだと思う。人は口から食物を取り入れて生きていく。一方で排せつすることも忘れてはならないことである。おいしいく食べたものでもその排せつは必要不可欠なこと。きれいごとではない。そのことをいつも頭にあってものごとをやり始めることが大事だなと思わせるニュースだったように思う。「うまかろうが、まずかろう」が人が生きていく循環のなかでおきてくることだ。そこで一番必要なことを置き去りにしていることを今一度考えることが大事だと思った。


多くの乗客の命を預かる操縦士が飲酒問題で逮捕される事件が起きた。先月末にも全日空系の機長が飲酒がもとで乗務できなくなる事態が発覚したばかり。――日本航空の男性副操縦士(42)が乗務前にロンドン・ヒースロー空港で乗務前に基準値を大きく上回るアルコールが検出されたとして、地元警察当局に逮捕された事件で、副操縦士は1日、現地の裁判所で罪状を認めた。(朝日・3日)

 最近、飛行機事故が少なくなったと思ったら事故は目の前にあったのだ…ということを思ってしまった。それは、搭乗の前の係りの努力によって防がれていたのだろう。とくに飛行機は事故が起きたら防ぎようがないほど大変である。二重、三重のチェック機関があってしかるべきだと思えた。今回のロンドンでのニュースは事故が起きなければそのままだったかもしれない。しかし、事故が起きる要因がひとつでもあれば止めることは大事なこと。係りの人はその仕事をまっとうにしただけだろう。

 日本では、神奈川で乗り合いバスが運転手の突発的な病気で事故を起こした。前の乗用車に激突、その事故によって若者が一人亡くなった。
 中国では路線バスが橋から転落事故を起こして13人が亡くなった。原因は運転手と乗客とのけんかが原因だった(3日・朝日)と伝えている。

 人間が操縦・運転する機械にはどれにもリスクがある。しかし、それを防ぐための係りもできている。それが事故を防ぐことになる。
 でも、いちばんの原因はなんでも人がいなくなったことだろう。バスの事故でも、ワンマンでなかったら、少なくとも事故は小さくなっただろうと思う。「人はミスを起こす」ということを大前提にすれば、一人ではなく二人ということが大事なことだと思う。人命優先ということを考えれば、乗りものには最低二人態勢が必須ということを法律でつくればいいのではないかと思う。利益も大事だが、利用者の命を大切にすることを考えれば最低二人態勢が大事なことだと思う。
 
 無人自動車??。人口知能が発達しようがそれをコントロールするのは人間だろうから。間違えながら生きていく人なのだから。それでも知恵を出し合っていくのも人間なのだから、と思う。人手不足ということから外国人労働者を多く雇用するようになった日本。言葉も違う、文化もちがう。それをどう穴埋めしてくのか。いちばんの解決策はこれまでの答弁ではなにもないのが現状だ。大事なことは現場で働いている人が言葉の壁をのりこえる「働きやすさ」をつくることが安全を優先できる第一条件だろうと思う。
 それと人手不足の原因がなんであるのかとくと政治家のみなさんに考えて欲しいと思います。その背景が今の人手不足なのだから…。それを置き去りにして外国人を安易に雇用することだけはやめてほしい。同じ人間として生きていくのだから、差別や偏見を意識しない世界を求めていることは同じなのだから。




『かけだしの老人』
よわい六十二歳
六(ろくでもない)二(青二才)。
まだまだと思いきや
病がどこかで待っている
その辻を曲がり…もう少し先へ行き
そうすると「病家」にぶちあたる
「お待ちしていました」とでも
いうように歩き出す
あっちが痛い、こっちが痛いと
からだの音が鳴りやまない

過日「働き方改革」という為政者の弁
落ち着くところを失ったような老いぼれは
「一生働いてくれ」と、
言われたように冷たく聞こえた
信じるものが少なくなっていく
誰かの支えに生きている
誰かをどこかで支えていると思いたく
今日も一日が終わる




【京王線・中河原駅】
 京王線はあまり使わない。山歩きに行くときぐらいだろう。
 この駅にはいい思い出がない。十数年まえにこのえきのちょっと先の鎌倉街道で子どもが学校に行く途中、乗用車にはねられた場所がある。そのときの様子といまも変わってはいないようだ。

 通勤途中で携帯に電話があった。「いま病院にきている。子どもが車にはねられてきているの」という内容に頭の真白になったことを覚えている。救急車で運ばれたのことだった。当日、会社を休んで入院先に急いだのだった。子どもは足の骨折をして松葉づえをついて出てきた。頭は転んだところがよかったのか「異常なし」であった。次に警察に行った。事故の遭った状況を係りの人に話してもらった。「四つ角で、青信号で渡ろうとしたところ自動車が右折しようとしてきたとき自転車に前車体を衝突してしまった」という内容だった。
 何日して、当事者が保険会社の人と一緒に誤りにきてくれた。骨折で学校に行く不便を考えて、毎日タクシーを使ってください…とのことだった。事故当事者をみればまだ青年だった。真面目そうな車のセールスマンだった。当分、電車で通うとの約束をして謝っているのが印象的だった。

 ときどき会社の帰りによって反省をの話して、帰っていくようになった。
 何か月かして、裁判所から事項当事者の裁判について「起訴するか否か」の書類が届いた。これまでの青年の行動をみて「不起訴」で結局「示談」で終了した。青年は、謝罪とお礼のあいさつにも寄ってくれた。

 正直これが骨折でなく、障害者にでもなったら徹底的に裁判でもやってやろと思ったくらいだった。自動車は一歩間違えると凶器になるとまざまざとみたのもこの時期だった。
 最近、年配者の自動車事故が多発している…というニュースを聞くたびに、昔のこの事故を思い出す。自分だけの事故では済まなくなることを思えば、追突に遭った人のことの方が気になってしまう。
 便利なのはよくわかる。とはいっても他人の一生をだいなしにしてしまうことは困る。運転手の注意が必要だろう。なんと言おうとも、自動車事故の被害者にとっては加害者を殺人者と思ってしまうのが正直なところだろう。
 この駅は散歩をしていて、へこたれてしまったとき乗る駅である。今でもいい思い出は残っていない。でも、駅構内の総菜屋のとんかつはうまいですがね。



 11月が始まりました。寒くなったということだけが一番印象に残る11月である。寒さで身を縮めて日々送ってしまうのではないかと思う。それがなんにでも影響していくのが今月から師走だろう。思いっきり背伸びをできる場所をいつでも求めていたいと思うが、そんなところを見つけるまでまた今年も紆余曲折に日々だろうか。

 最近、「いちばん一緒に仕事がしたい人」というのがいなくなったように思う。再雇用となって、見渡せば年下の人ばかりになったからだろう。遠慮してか、それともあてにしていないというのか仕事の話も世間話さえもしなくなったとことが多くなったことか。かえって出向先の職場の方が気楽に仕事のことや世間話ができるようになってしまった。巷のことも読んだ本のことも出向先のお客との話の方が時間をかけていることに気づく。

 本社での職場では「いくらでも手を抜いている」ように見える仕事ぶりに見える。「決めたことは最低やっておくこと」というのがいつの間にか抜けていて、いずれ事故がおきたらなんの言いわけもできなくなってしまうほどのにも見える。いったい誰がこんな仕事の仕方を伝授したのだろうかと日々考えている。ぼくは、先輩たちに仕事も教わっことは、手抜き(職場でやるべきこと)にはミスの温床にもなるということだろう。
 いい例がこれまで、自動車の検査工程で手を抜いて問題になってきた自動車業界や油圧機メーカーの不祥事だろう…、等などを思う11月である。いずれその答えが出るだろう。

 寒くなってきた。雨が降るとなおさらである。外へ出かけるのがめんどうになってくる。仕事にいくにもめんどうになってくる。低賃金でも一応行かねばならないだろう。本社の仕事というより、出向先の人たちに迷惑がかかるだろうし…。いまのところ、この人たちの仕事は一緒にやっていきたいと思う。



 ちょっと心温まるニュースはないのだろうか。
 そういえばシリアで拘束されていたジャーナリストの安田純平さん(44)が3年4ヵ月ぶりに解放された。あんな危険なところに世界中に戦乱の真実を伝えるために命がけで報道しようとしてきた人である。今後の活躍がどうなっていくのだろうか。でも、心配なことは『自己責任論』という言葉である。またしてもイジメかよ!と思えてしまう。なぜだろうか、命をはってニュースを世界中に伝えようとしている人になぜ、拘束されたことのについて責められるのだろうか。こういう人がいるから、非道なことが伝えられ考えさせてくれるのではないのだろうか。とてもへんな「責任論」に批判があるのだろうか。

 これも、根っこは学校のいじめと同じではないかと思えてしまう。
 それでは今週はこの辺で失礼します。紅葉がはじまってきたようです。月末には紅葉を見に山歩きを計画中ですが、天気がどうでしょうか。
 読んでくれた人、ありがとうございました。