こんにちは。
すっかり朝夕が寒くなってきました。毎朝起きるのさえ、少しつらくなってきました。天気がよくても、寒さには苦労しそうな10月になってきました。コロナ禍となってもう時期一年が終わろうとしています。早くも、来年のカレンダーや手帳なども店頭になりびはじめていました。思えば、今年は新型コロナに始まり新型コロナで終わりそうです。
今年は、コロナ禍ということもあって働き方もかわってきました。こんなとき寒い朝を経験しなくてもいい「テレワーク」という形がいいのかもしれません。私は、そんなことを考えながら、誰かのテレワークで起きる頃、電車のなかでいるのでしょうか。これがいいのかはわかりません。テレワークになっていいことばかりではないのでしょう。まだ、その問題が表に出てきていないだけだのでしょう。
できる仕事、できない仕事のなかで不公平感なども出てくるのではないのでしょうか……。それをどうか解決していくのか、今後の動きが注目されるところです。いずれにしても、仕事をすることには変わらないことです。そんななかで、働く人たちの暮らしやを守っていくのかがこれからの問題です。
そんなすみわけの中に、私たちいる年になったいうことなのでしょう。さてどうなるのでしょうか・・・。
空は青空・・・。
朝夕が寒さを感じる季節になってきたようです。新型コロナ禍で一年中マスクを着けて歩いていると季節の変わり方を色や音で感じるよりも、温暖のちがいで感じるこのごろです。寒さが自分への注意信号を送っているようにも思えます。
最近では「GoTo〇〇」とやらで外出自粛から、少しずつですが外を歩くようになり人の姿も多くみるようになりました。とくに通勤電車のなか、朝夕の空間は「密」の状態がもどってきました。「これ密だろ」とだれの顔にもそう言っているようにも見えるこのごろです。
時おり、混雑する駅のホームにリュックを背負った人たちをみることもあります。どこかに山登りにもいくのでしょう。その装備から日帰りのようにも見えます。少ない知人を集めては、山歩きはいい一日なるのだろうと思いつつ、出勤途中のできごとです。
休日の朝、散歩をしていると犬を連れて散歩をする人、ちょっとめかして駅のホームに立っている人、ロードバイクで風をきる人・・・。それぞれの楽しみをひめて動きだしたようです。
そんな光景をみていると「私は何が楽しくて」とも思うことがあります。それぞれの楽しみ方千差万別。老いてくると風を切るスピードにはついていけず、一緒に生きている犬の最期まで看取る自信もなく、あるいは遠くにいくほどのお金もなく、ただただ身近なところをウロウロする日々が多いようです。
ふり返ると、楽しみは後ろから来て、目の前を通り過ぎてはそのことをつたえて…はいくように思えます。若い人たちの楽しみを聞いていると、「自分は」と問いつづける日々でもあります。格好よくロードバイクで走る人にもその楽しみ方があるのでしょう。
そんなことを聞いたり、見たり、触れたり、やってみたりしている人を見ていると自分にも何かもっとやりたいことがあったのだろうと思います。身近な人の楽しみを聞いていることが、自分の行動の一歩なのかもしれません。
さて・・・、私は誰にどんな楽しいことを語れるのでしょうか。そして、その人にどれだけ生きていることを感じさせてあげられるのでしょうか。
偉そうにいうこともなく、自分自身の身のたけでいることができるのでしょうか・・・。
やっと出た『武漢日記』は楽しみに待っていました。新型コロナ禍になってこれまでたくさんの本がでたようです。実際にコロナに遭った現地の人たちの声がききたかった。以前にはイタリアから現地報告『コロナの時代の僕ら』(パウロ・ジャルダーノ・飯田亮介訳/早川書房)を紹介したと思います。それぞれ感染後のようすを自分の足元から発信したものです。
今年は新型コロナ感染症ではじまり、終わるのでしょう。さらには、新型コロナ禍から始まることもあります。それはいったいどんなことなのでしょうか。
とはいえ、経済優先の世界では経済復活のためにいろいろな政策が実行されています。グローバル経済ということをまだ追いかけては、さらにコロナ感染がヨーロッパ諸国、とくにフランス、英国、スペインなどはさらに悪化しているようです。これからどんな方法ほうが最適なのか、まだまだ道筋は決まっていないようにも思えます。私の周りでは確実なのは、人の移動や集合体がリスクはあるということくらいです。米国では大統領でさえコロナに罹り立ち直ったことを宣伝にしているようなところも出てきて、危険だなーと思わせます。
ワクチン開発は進んでいるようですが、出来たからと言って一挙に解決するとは思えません。ワクチンの効く人、副作用ある人もでてくるだろうと思います。
来年の東京五輪などは、今の状態ではそれぞれのスポーツは別々にできても、一つの会場でできるようには思えません。やるのであれば、日にちをとって会場の距離を観客も制限して・・・ということしかないように思えます。
などなどコロナ禍ではあります。その後の中国武漢の様子もきになるところです。
藤沢周平の作品はどれも好きなので、以前少しずつ全集をあつめていました(ほとんど古本)。そのなかの一冊が『三屋清左衛門残日録』のはいっている全集21巻でありました。
読み始めて字の小さなことと二段組みということもあって苦労しました。このシリーズはすでに文庫本で出ているものです。きっともう読めないかもしれません。老いてくると、字の大きさは読む基準にはいってきます。新聞でも一時期、文字を大きくする時期がありましたが、納得します。全部全集であつめているわけでもなく、これまでも文庫本ででているものがありました。そっちの方は手軽でよいと思います。これからは、どうしても文庫本でないものを求めていくのでしょうか・・・。
今年、世界で初めて、新型コロナウイルス感染を出した武漢について、その中味を知りたいと思っていた。都市封鎖(ロックダウン)という政治的判断のなかで人々はどんな思いで生活していたのだろうかということが知りたかった。
今年はコロナ禍のなかでの生活が当たり前になってきたように思う。毎日マスクをすることにも抵抗感さえうすれてきてしまったように思う。(これがこれからの生きかたとでもいうように)どこへ行くにもまずは検温・消毒からは始まる場所さえ増え続けている日にも疑問さえなくなってきたようにも思える。
とはいえ、これがこれからの「新しい生活」か?という疑問もある。仕事ではテレワークということが盛んに言われるようになった。裏を返せば、この状態になってしまった原因はそっちにけで、「新しい生活」もないだろう。人が本来もっている声、におい、色などが失いつつあるのではないか。『武漢日記』には、感染下でも失なってはいけないものを、必死で探しているように思えた。なぜなら、困ったことに、コロナ禍でも差別や弱者への政策はいまだのひどい。著者が文中で「ある国の文明度を測る基準は、どれほど高いビルがあるか、どれおほど早い車があるかではない。どれほど強力な武器があるか、どれほど勇ましい軍隊があるかでもない。どれおほど科学技術が発達しているか、どれほど芸術が素晴らしいかではない。ましてやどれおほど豪華な会議を開き、どれほど絢らんたる花火を上げるかでもなければ、多くの人々が豪遊して爆買いするわではない。ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ。」というように見てみればわかるだろうと思う。
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■p8 「感染症は中国だけに蔓延したわけではなく全世界で蔓延しています。新型コロナウイルスは中国だけでなく教訓を与えたのではなく、全世界に教訓を与え、全人類を教育したのです。傲慢になっていけません。尊大になってはいけません。自分が無敵だと思ってはいけません。
■p81 あなたの長寿の秘訣は何ですか? 脂身の豚肉を食べ、体は鍛えなくていいから、人を怒鳴るつけることだ。これが祖父の答えだ。三つ目の秘訣は、誰かに文句を言うことである。武漢市民はいま家に閉じこもり、何もすることがなくて、イライラしている。
■p88 人はいつも口実を要している。我々は文書に基いて仕事をしているとか。だが、現実は様々に変化しているのに多くの文書は軽率に出され、内容は大雑把だ。
■p92 平和な時代、平凡な生活、平穏な日々が続き、人間の善意も表に出てこない。ろきには、そのまま人生が過ぎていく。けれども、戦争や災害などの非常時には善意と悪意がどちらも目にする場合がある。人は驚き、悲しみ、怒り、そして慣れていくのだ。
■p103 私の主たる仕事は小説を書くことだ。以前、小説について話したとき、次のようなことを言った。小説とは、落伍者、孤独者、寂しがり屋にいつも寄り添うものだ。ときに歩き援助の手を差し伸べる。小説は広い視野を持って、思いやりと心配りを表現する。ときに雌鳥にように歴史に見捨てられた事柄や社会に冷遇された生命を庇護する。あるいはこうも言える。小説自体が、彼らと同じ運命にある世界を表現することであり、彼らの伴走、温もり、鼓舞が必要なのだ。
■p114 自分の身の丈に合った生活を送れればそれに満足だった。ところがサイクリング仲間二人(私の同僚)のうち、一人は病気で、一人は家族が病気にかかっている。どちらも新型コロナ、コロナ肺炎ではないが、病名を言えば誰もが顔色を変えるだろう。
■p115 新型コロナウイルスの最も恐ろしい特徴はその類い稀な伝染力だ。いま、勢いが衰えつつあるウイルスだが、人々は外出すれば再び猛威をふるおうと待ち構えている。~私たちはもうこんな長く頑張ってきた。私たちのために命をかけてくれた人の努力を無駄にしてはいけない。
■p125 いま、人々が経済回復について議論する時間は、すでに感染症について議論する時間を上回っている。多くの企業が倒産に直面し、多くの人々が収入を失い生存の危機が迫っている。
■p141 私は言っておきたい。ある国の文明度を測る基準は、どれほど高いビルがあるか、どれおほど早い車があるかではない。どれほど強力な武器があるか、どれほど勇ましい軍隊があるかでもない。どれおほど科学技術が発達しているか、どれほど芸術が素晴らしいかではない。ましてやどれおほど豪華な会議を開き、どれほど絢らんたる花火を上げるかでもなければ、多くの人々が豪遊して爆買いするわではない。ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ。
■p183 武漢市民は、いまも気が晴れない。~一般庶民の経済的基盤が崩れることで、やはり不安が増す。方向感覚もなくなる。いつ外出できるか、いつ仕事を再開できるのか、わからないからだ。自分の力で手がかりがつかめず、制御不能の状態なので最低限の心の安定も失われている。そんあときには、自分を落ち着かせるもの、手ごたえを感じさせるものがほしい。
例えば、一つの見解である。感染症が猛威をふるっていたとき、誰もが責任の追及をしなかった。調査する時間もなかった。人々は思いやりの心を持ち、こだわりを全部捨てた。しかし、いまは局面が好転し、心の中にしまっていた問題が表面に出てきた。回答を必要としている。一方では急展開を見せる出来事もあった。
■p208 今日では都市封鎖から四六日目である。
■p214 なぜ、私たち市民が猛威を強めているのに指導者たちは無知なのか? 言ってしまえば、常識不足だ。彼らの常識は政治的概念の上に成り立っている。一方、私たちの常識は人生経験に基づく。
『三屋清左衛門残日録』を読んでいたら、夏目漱石の『草枕』の「智に働けば角が立つ情に棹させば流される意地を通せば窮屈だとかくに、人の世は住みにくい 」という言葉が浮かんできた。老いてまで一生この言葉はついてくるようだ。清左衛門の生涯は、他人から喜ばれ、憎まれても存在感のある人間であれば世の中に生きていることを感じさせてくれる。悪いかよいかは後の世の歴史のなかで証明されることだろう。
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■p46 自分だけでなく、あの安富源大夫も勝手な思いこみから命をちぢめたように思えた。探索の自信がみるみる消えて、清左衛門は餌差し足軽の女房年江から聞いた話は、当分誰にも言うまいと思った。ひとに話しては源大夫がかわいそうだと思った(「高札場」)
■p85 親は死ぬまで子の心配からのがれ得ぬものらしいという感慨がそれである。その感慨は、今日の空模様のように清左衛門の気持ちをじっとりと重くする。
一年に一回の、管理組合の総会にいってきました。今年はコロナ禍で出席者も、旧理事会役員と新理事役員だけが出席になっていました。他の人はすべて「委任状」という形になりました。借りていた開催会場が閑散としていたことが印象的でした。
議案もほとんどが「可決」をもって終わりました。
私も来期は、理事会の一人として参加するために出席していました。
現実には「管理組合」とは名ばかりで実際はプロの管理会社の人がやっているもので、理事はそのなかでまとめていく、といった形だけのもののようにも思います。理事会は輪番制をとっています。今年は私も3回目の理事を担当することになったとことです。管理会社の人の名刺をいただき、引き継ぎがおわり帰ってきました。
ところで実際にマンションという建物はどれくらい持つのでしょうか。鉄筋コンクリートの耐久年月はどれくらい持つのだろうか? と思いながら帰ってきました。おそらく、耐久年月を終えればまた、大改修ということもあって「建て替え」ということもあるのでしょう。その場合は、また最初に戻ってローンを組んだりするのでしょうか。おおよそ、私が建て替えの時にはこの世にはいないでしょう。人間の寿命ということを考えれば、そうなるのでしょうか。
さらに、新しい所へ引っ越す人もいるでしょう。「資産」としての住居と考えればそれまで価値をさげないようにする方法がメンテナンスということでしょうか。
等など・・・。ない頭で一年間を引きうけたわけでした。
人間も建築物も利用している(生きているとき)が大事だということ忘れずにいきたいと思います。
「去る者は日々に疎し」。
早いもので10月も終わります。毎日マスクをすることが当たりまえになってしまっていくように思えます。その度に、これがこれからの生活スタイルになっていくのだろうか? と思えてしまう。
そんななかで、新型コロナウイルスは日々の感染者数ばかりがニュースになってしまっているようだ。これまでの多くの失業者、解雇、倒産などがニュースになっているが少しも解決のいいニュースは聞かれないようにも思う。それより、経済復興への糸口とばかり政府の予算がばらまいていく。
季節も寒くなり、コロナ禍人とのふれあいも冷たくなったいくようにも見えます。
マンションの管理組合総会も住居人同士の顔もあまり見る機会もなかうなっている。今回は「委任状」がほとんどの大会でした。この時期だから仕方がないじゃない・・・。と思ってみるものの、寂しいことです。これは「普通じゃないよね」と自分に言い聞かせていました。これでは解決すべきことも解決できないじゃないのかなーとも思いました。結局、コロナは私たちに何かの警告しているようにも思えました。土曜日『ドキュメント72時間』というテレビ番組をみていたら、飲食店専門の業務用機器の中古販売店が放送されていました。コロナ禍で相当の飲食店が閉店に追い込まれた状況がわかる中古店の繁盛ぶりが放映されていました。
うまい店も、安い店も根こそぎ閉店に追い込まれていくようです。それでも、どうにか店をしめずに踏ん張っている人もいました。
「GoToイート」では解決しそうな問題ではとも思います。これでは、結局、資産の大きいものだけが残っていくしかないようにも見えます。
安い給料の人間が外へ食べにいくことはありませんよね・・・。
ではこの辺で失礼します。
寒くなってきました。インフルエンザもあるようです。寒さに気をつけてください。
読んでくれた人、ありがとうございました。