日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

管理組への総会にいって、考えたこと・・・

2020年10月24日 | Weblog

 こんにちは。
 すっかり朝夕が寒くなってきました。毎朝起きるのさえ、少しつらくなってきました。天気がよくても、寒さには苦労しそうな10月になってきました。コロナ禍となってもう時期一年が終わろうとしています。早くも、来年のカレンダーや手帳なども店頭になりびはじめていました。思えば、今年は新型コロナに始まり新型コロナで終わりそうです。
 今年は、コロナ禍ということもあって働き方もかわってきました。こんなとき寒い朝を経験しなくてもいい「テレワーク」という形がいいのかもしれません。私は、そんなことを考えながら、誰かのテレワークで起きる頃、電車のなかでいるのでしょうか。これがいいのかはわかりません。テレワークになっていいことばかりではないのでしょう。まだ、その問題が表に出てきていないだけだのでしょう。
 できる仕事、できない仕事のなかで不公平感なども出てくるのではないのでしょうか……。それをどうか解決していくのか、今後の動きが注目されるところです。いずれにしても、仕事をすることには変わらないことです。そんななかで、働く人たちの暮らしやを守っていくのかがこれからの問題です。
 そんなすみわけの中に、私たちいる年になったいうことなのでしょう。さてどうなるのでしょうか・・・。



 空は青空・・・。
 朝夕が寒さを感じる季節になってきたようです。新型コロナ禍で一年中マスクを着けて歩いていると季節の変わり方を色や音で感じるよりも、温暖のちがいで感じるこのごろです。寒さが自分への注意信号を送っているようにも思えます。
 最近では「GoTo〇〇」とやらで外出自粛から、少しずつですが外を歩くようになり人の姿も多くみるようになりました。とくに通勤電車のなか、朝夕の空間は「密」の状態がもどってきました。「これ密だろ」とだれの顔にもそう言っているようにも見えるこのごろです。
 時おり、混雑する駅のホームにリュックを背負った人たちをみることもあります。どこかに山登りにもいくのでしょう。その装備から日帰りのようにも見えます。少ない知人を集めては、山歩きはいい一日なるのだろうと思いつつ、出勤途中のできごとです。
 休日の朝、散歩をしていると犬を連れて散歩をする人、ちょっとめかして駅のホームに立っている人、ロードバイクで風をきる人・・・。それぞれの楽しみをひめて動きだしたようです。
 そんな光景をみていると「私は何が楽しくて」とも思うことがあります。それぞれの楽しみ方千差万別。老いてくると風を切るスピードにはついていけず、一緒に生きている犬の最期まで看取る自信もなく、あるいは遠くにいくほどのお金もなく、ただただ身近なところをウロウロする日々が多いようです。
 ふり返ると、楽しみは後ろから来て、目の前を通り過ぎてはそのことをつたえて…はいくように思えます。若い人たちの楽しみを聞いていると、「自分は」と問いつづける日々でもあります。格好よくロードバイクで走る人にもその楽しみ方があるのでしょう。
 そんなことを聞いたり、見たり、触れたり、やってみたりしている人を見ていると自分にも何かもっとやりたいことがあったのだろうと思います。身近な人の楽しみを聞いていることが、自分の行動の一歩なのかもしれません。
 さて・・・、私は誰にどんな楽しいことを語れるのでしょうか。そして、その人にどれだけ生きていることを感じさせてあげられるのでしょうか。
 偉そうにいうこともなく、自分自身の身のたけでいることができるのでしょうか・・・。
 

 やっと出た『武漢日記』は楽しみに待っていました。新型コロナ禍になってこれまでたくさんの本がでたようです。実際にコロナに遭った現地の人たちの声がききたかった。以前にはイタリアから現地報告『コロナの時代の僕ら』(パウロ・ジャルダーノ・飯田亮介訳/早川書房)を紹介したと思います。それぞれ感染後のようすを自分の足元から発信したものです。
 今年は新型コロナ感染症ではじまり、終わるのでしょう。さらには、新型コロナ禍から始まることもあります。それはいったいどんなことなのでしょうか。
 とはいえ、経済優先の世界では経済復活のためにいろいろな政策が実行されています。グローバル経済ということをまだ追いかけては、さらにコロナ感染がヨーロッパ諸国、とくにフランス、英国、スペインなどはさらに悪化しているようです。これからどんな方法ほうが最適なのか、まだまだ道筋は決まっていないようにも思えます。私の周りでは確実なのは、人の移動や集合体がリスクはあるということくらいです。米国では大統領でさえコロナに罹り立ち直ったことを宣伝にしているようなところも出てきて、危険だなーと思わせます。
 ワクチン開発は進んでいるようですが、出来たからと言って一挙に解決するとは思えません。ワクチンの効く人、副作用ある人もでてくるだろうと思います。
 来年の東京五輪などは、今の状態ではそれぞれのスポーツは別々にできても、一つの会場でできるようには思えません。やるのであれば、日にちをとって会場の距離を観客も制限して・・・ということしかないように思えます。
 などなどコロナ禍ではあります。その後の中国武漢の様子もきになるところです。
 
 藤沢周平の作品はどれも好きなので、以前少しずつ全集をあつめていました(ほとんど古本)。そのなかの一冊が『三屋清左衛門残日録』のはいっている全集21巻でありました。
 読み始めて字の小さなことと二段組みということもあって苦労しました。このシリーズはすでに文庫本で出ているものです。きっともう読めないかもしれません。老いてくると、字の大きさは読む基準にはいってきます。新聞でも一時期、文字を大きくする時期がありましたが、納得します。全部全集であつめているわけでもなく、これまでも文庫本ででているものがありました。そっちの方は手軽でよいと思います。これからは、どうしても文庫本でないものを求めていくのでしょうか・・・。

 今年、世界で初めて、新型コロナウイルス感染を出した武漢について、その中味を知りたいと思っていた。都市封鎖(ロックダウン)という政治的判断のなかで人々はどんな思いで生活していたのだろうかということが知りたかった。
 今年はコロナ禍のなかでの生活が当たり前になってきたように思う。毎日マスクをすることにも抵抗感さえうすれてきてしまったように思う。(これがこれからの生きかたとでもいうように)どこへ行くにもまずは検温・消毒からは始まる場所さえ増え続けている日にも疑問さえなくなってきたようにも思える。

 とはいえ、これがこれからの「新しい生活」か?という疑問もある。仕事ではテレワークということが盛んに言われるようになった。裏を返せば、この状態になってしまった原因はそっちにけで、「新しい生活」もないだろう。人が本来もっている声、におい、色などが失いつつあるのではないか。『武漢日記』には、感染下でも失なってはいけないものを、必死で探しているように思えた。なぜなら、困ったことに、コロナ禍でも差別や弱者への政策はいまだのひどい。著者が文中で「ある国の文明度を測る基準は、どれほど高いビルがあるか、どれおほど早い車があるかではない。どれほど強力な武器があるか、どれほど勇ましい軍隊があるかでもない。どれおほど科学技術が発達しているか、どれほど芸術が素晴らしいかではない。ましてやどれおほど豪華な会議を開き、どれほど絢らんたる花火を上げるかでもなければ、多くの人々が豪遊して爆買いするわではない。ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ。」というように見てみればわかるだろうと思う。
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■p8 「感染症は中国だけに蔓延したわけではなく全世界で蔓延しています。新型コロナウイルスは中国だけでなく教訓を与えたのではなく、全世界に教訓を与え、全人類を教育したのです。傲慢になっていけません。尊大になってはいけません。自分が無敵だと思ってはいけません。

■p81 あなたの長寿の秘訣は何ですか? 脂身の豚肉を食べ、体は鍛えなくていいから、人を怒鳴るつけることだ。これが祖父の答えだ。三つ目の秘訣は、誰かに文句を言うことである。武漢市民はいま家に閉じこもり、何もすることがなくて、イライラしている。

■p88 人はいつも口実を要している。我々は文書に基いて仕事をしているとか。だが、現実は様々に変化しているのに多くの文書は軽率に出され、内容は大雑把だ。

■p92 平和な時代、平凡な生活、平穏な日々が続き、人間の善意も表に出てこない。ろきには、そのまま人生が過ぎていく。けれども、戦争や災害などの非常時には善意と悪意がどちらも目にする場合がある。人は驚き、悲しみ、怒り、そして慣れていくのだ。

■p103 私の主たる仕事は小説を書くことだ。以前、小説について話したとき、次のようなことを言った。小説とは、落伍者、孤独者、寂しがり屋にいつも寄り添うものだ。ときに歩き援助の手を差し伸べる。小説は広い視野を持って、思いやりと心配りを表現する。ときに雌鳥にように歴史に見捨てられた事柄や社会に冷遇された生命を庇護する。あるいはこうも言える。小説自体が、彼らと同じ運命にある世界を表現することであり、彼らの伴走、温もり、鼓舞が必要なのだ。

■p114 自分の身の丈に合った生活を送れればそれに満足だった。ところがサイクリング仲間二人(私の同僚)のうち、一人は病気で、一人は家族が病気にかかっている。どちらも新型コロナ、コロナ肺炎ではないが、病名を言えば誰もが顔色を変えるだろう。

■p115 新型コロナウイルスの最も恐ろしい特徴はその類い稀な伝染力だ。いま、勢いが衰えつつあるウイルスだが、人々は外出すれば再び猛威をふるおうと待ち構えている。~私たちはもうこんな長く頑張ってきた。私たちのために命をかけてくれた人の努力を無駄にしてはいけない。

■p125 いま、人々が経済回復について議論する時間は、すでに感染症について議論する時間を上回っている。多くの企業が倒産に直面し、多くの人々が収入を失い生存の危機が迫っている。

■p141 私は言っておきたい。ある国の文明度を測る基準は、どれほど高いビルがあるか、どれおほど早い車があるかではない。どれほど強力な武器があるか、どれほど勇ましい軍隊があるかでもない。どれおほど科学技術が発達しているか、どれほど芸術が素晴らしいかではない。ましてやどれおほど豪華な会議を開き、どれほど絢らんたる花火を上げるかでもなければ、多くの人々が豪遊して爆買いするわではない。ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ。

■p183 武漢市民は、いまも気が晴れない。~一般庶民の経済的基盤が崩れることで、やはり不安が増す。方向感覚もなくなる。いつ外出できるか、いつ仕事を再開できるのか、わからないからだ。自分の力で手がかりがつかめず、制御不能の状態なので最低限の心の安定も失われている。そんあときには、自分を落ち着かせるもの、手ごたえを感じさせるものがほしい。
 例えば、一つの見解である。感染症が猛威をふるっていたとき、誰もが責任の追及をしなかった。調査する時間もなかった。人々は思いやりの心を持ち、こだわりを全部捨てた。しかし、いまは局面が好転し、心の中にしまっていた問題が表面に出てきた。回答を必要としている。一方では急展開を見せる出来事もあった。

■p208 今日では都市封鎖から四六日目である。

■p214 なぜ、私たち市民が猛威を強めているのに指導者たちは無知なのか? 言ってしまえば、常識不足だ。彼らの常識は政治的概念の上に成り立っている。一方、私たちの常識は人生経験に基づく。

 『三屋清左衛門残日録』を読んでいたら、夏目漱石の『草枕』の「智に働けば角が立つ情に棹させば流される意地を通せば窮屈だとかくに、人の世は住みにくい 」という言葉が浮かんできた。老いてまで一生この言葉はついてくるようだ。清左衛門の生涯は、他人から喜ばれ、憎まれても存在感のある人間であれば世の中に生きていることを感じさせてくれる。悪いかよいかは後の世の歴史のなかで証明されることだろう。
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■p46 自分だけでなく、あの安富源大夫も勝手な思いこみから命をちぢめたように思えた。探索の自信がみるみる消えて、清左衛門は餌差し足軽の女房年江から聞いた話は、当分誰にも言うまいと思った。ひとに話しては源大夫がかわいそうだと思った(「高札場」)

■p85 親は死ぬまで子の心配からのがれ得ぬものらしいという感慨がそれである。その感慨は、今日の空模様のように清左衛門の気持ちをじっとりと重くする。



 一年に一回の、管理組合の総会にいってきました。今年はコロナ禍で出席者も、旧理事会役員と新理事役員だけが出席になっていました。他の人はすべて「委任状」という形になりました。借りていた開催会場が閑散としていたことが印象的でした。
 議案もほとんどが「可決」をもって終わりました。
 私も来期は、理事会の一人として参加するために出席していました。
 現実には「管理組合」とは名ばかりで実際はプロの管理会社の人がやっているもので、理事はそのなかでまとめていく、といった形だけのもののようにも思います。理事会は輪番制をとっています。今年は私も3回目の理事を担当することになったとことです。管理会社の人の名刺をいただき、引き継ぎがおわり帰ってきました。

 ところで実際にマンションという建物はどれくらい持つのでしょうか。鉄筋コンクリートの耐久年月はどれくらい持つのだろうか? と思いながら帰ってきました。おそらく、耐久年月を終えればまた、大改修ということもあって「建て替え」ということもあるのでしょう。その場合は、また最初に戻ってローンを組んだりするのでしょうか。おおよそ、私が建て替えの時にはこの世にはいないでしょう。人間の寿命ということを考えれば、そうなるのでしょうか。
 さらに、新しい所へ引っ越す人もいるでしょう。「資産」としての住居と考えればそれまで価値をさげないようにする方法がメンテナンスということでしょうか。
 等など・・・。ない頭で一年間を引きうけたわけでした。
 人間も建築物も利用している(生きているとき)が大事だということ忘れずにいきたいと思います。


「去る者は日々に疎し」。
 早いもので10月も終わります。毎日マスクをすることが当たりまえになってしまっていくように思えます。その度に、これがこれからの生活スタイルになっていくのだろうか? と思えてしまう。
 そんななかで、新型コロナウイルスは日々の感染者数ばかりがニュースになってしまっているようだ。これまでの多くの失業者、解雇、倒産などがニュースになっているが少しも解決のいいニュースは聞かれないようにも思う。それより、経済復興への糸口とばかり政府の予算がばらまいていく。
 
 季節も寒くなり、コロナ禍人とのふれあいも冷たくなったいくようにも見えます。
 マンションの管理組合総会も住居人同士の顔もあまり見る機会もなかうなっている。今回は「委任状」がほとんどの大会でした。この時期だから仕方がないじゃない・・・。と思ってみるものの、寂しいことです。これは「普通じゃないよね」と自分に言い聞かせていました。これでは解決すべきことも解決できないじゃないのかなーとも思いました。結局、コロナは私たちに何かの警告しているようにも思えました。土曜日『ドキュメント72時間』というテレビ番組をみていたら、飲食店専門の業務用機器の中古販売店が放送されていました。コロナ禍で相当の飲食店が閉店に追い込まれた状況がわかる中古店の繁盛ぶりが放映されていました。
 うまい店も、安い店も根こそぎ閉店に追い込まれていくようです。それでも、どうにか店をしめずに踏ん張っている人もいました。
 「GoToイート」では解決しそうな問題ではとも思います。これでは、結局、資産の大きいものだけが残っていくしかないようにも見えます。
 安い給料の人間が外へ食べにいくことはありませんよね・・・。

 ではこの辺で失礼します。
 寒くなってきました。インフルエンザもあるようです。寒さに気をつけてください。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

はやくも10月が終わる・・・さむくなってきました。

2020年10月18日 | Weblog
 こんにちは。
 すっかり朝夕は寒くなってきました。朝の通勤時間はマスクのうえのメガネがくもってばかりいます。目の前の景色が、うっすらとして見えなくなったり危うく電信柱のあたってしまう日もありました。無意識の衝突ほど痛いものはありません。雨もひつ続く日々でもあり、メガネのくもりを拭きながらの日々がもどってきました。
 秋の虫も聞こえなくなってきています。聞こえてくるのは木々を通り過ぎる風の音になってきました。もう、季節は冬にむかっているようです。

 さて今週、あいかわらず「学綬会議人事の任命拒否問題」が新聞で多く読んだ日々でした。学術会議会員で6人の学者が今回の政権によって新任されなかったということでした。
 任命拒否された6人とは、芦名定道(京都大教授 ・キリスト教学)「安全保障関連法に反対する学者の会」や、安保法制に反対する「自由と平和のための京大有志の会」の賛同者。 
岡田正則(早稲田大大学院法務研究科教授・行政法)「安全保障関連法案の廃止を求める早稲田大学有志の会」の呼び掛け人。沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設問題を巡って2018年、政府対応に抗議する声明を発表 。③小沢隆一(東京慈恵会医科大教授・憲法学)「安全保障関連法に反対する学者の会」の賛同者。安保関連法案について、2015年7月、衆院特別委員会の中央公聴会で、野党推薦の公述人として出席、廃案を求めた。 ④加藤陽子(東京大大学院人文社会系研究科教授・日本近現代史)。「立憲デモクラシーの会」の呼び掛け人。改憲や特定秘密保護法などに反対。「内閣府公文書管理委員会」委員。現在は「国立公文書館の機能・施設の在り方等に関する調査検討会議」の委員。⑤ 松宮孝明(立命館大大学院法務研究科教授・刑事法)犯罪を計画段階から処罰する「共謀罪」法案について、2017年6月、参院法務委員会の参考人質疑で「戦後最悪の治安立法となる」などと批判。京都新聞に対し「とんでもないところに手を出してきたなこの政権は」と思ったとインタビューに答えている 。⑥宇野重規(東京大社会科学研究所教授・政治思想史)
 憲法学者らで作る「立憲デモクラシーの会」の呼びかけ人。 2013年12月に成立した特定秘密保護法について「民主主義の基盤そのものを危うくしかねない」と批判していた。 (=共同通信より)
 その6人の中の一人に加藤陽子東大教授という名がありました。加藤陽子さんの本は何冊か読んで経験がありました。とくに、日本が太平洋戦争に突入する経緯がわかりやすく書かれていた本でした。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 (新潮文庫)『とめられなかった戦争 』(文春文庫)などの本を読んでいました。二度と戦争をしてはいけないことを本当に熱く語った本でした。

 とはいえ、これらの学者先生たちは、安倍政権の時代にはことごとく反対を訴えていた人たちでした。あるときは、集会の先頭で、法案反対の理由を聞いたときもあった思います。その裏付けがしっかりした歴史の経験から訴えていて説得力のある意見だった思います。
 おおよその学者という人たちは、権力への批判勢力であっていいと思います。それは、過去の歴史のなかから暮らしが危うくならないようにするためだった思います。それぞれの専門分野から権力者から私たちを守ってくれる意見をもった人たちだと思えます。権力者は彼らの口封じをいつも考えていたいのでしょう。その結果が今回の問題になった、ということでしょう。良心的な学者先生も世の中にはいるのです。
 いまでいうと、コロナ禍で多くの企業で倒産や労働者の解雇のなかで働いています。そんななかで学者たちが解雇された労働者を守るために、私たちに多くの支援などもしてくれていることは忘れてはいけません。解雇を正当とする学者もいれば、無効という学者いるなかで、私たちの立場にたってくれる人たちは大切な存在です。だから、もっと働いてもらって、研究を重ねて政府に対等に意見をいう学者の人たちが一人でも多くいてほしいとも思います。

 それと、何よりも大切なこと。
 ことごとく政府に文句を言う人を排除しているいうに見える今回の政府(権力側)の動きを思えば、そのうちに学者だけではなく、私たちへの排除もあること。「なんとなく文句がいえなくなる圧力」が作られていくとうことへの危機的状況がつくられているということでしょう。昔、「治安維持法」という法案があって、多くの思想家が弾圧されました。そのうち名もなき民衆
も、排除されるた時代がありました。そんな過去をまた作ってはいけないということもあって、学術会議の学者の人たちも頑張っているのでしょうから。まして、安倍前首相の時代「忖度」ということばのなかで、身内には甘く、批判していたひとたちを無視してきたことを思えば、なおさらです。

 今回の「任命拒否」があって、学者先生がいろいろなことを私たちの側にたって役にたっていることを知ることができたように思う、知ればしるほど「任命拒否問題」を解決してほしいものです。それにしても、こんななか連合などの労働側は意見をいわないのでしょうか。さらには、集会やデモなどやらないのかなーと思いました。どうなっているの?



 新宿駅午前7時半。この通路を何十年通ったことだろうか・・・。
 ここを通る一日の乗降客数約353万人だそうだ。353万分1が私ということだろう。なんと多くの人たちがこの駅を通過してそれぞれのところに行くことを思えば、それだけの物語もあるということなのだろうなーと思う。

 今年はコロナ禍ということもあって、少しずつ人が増える構内にはマスク姿が増えていく。
 最近、ヨーロッパでは新型コロナウイルス感染が激増し始めたそうだ。フランスなどでは外出禁止令が出され、違反者には罰金までとるという厳しい制限もでてきた。スペイン政府は30日、首都マドリードの新型コロナウイルス感染拡大抑制策を強化し、公園やレストランなども時間によっては閉鎖なども実施されているようになった。
 一方日本では、いまだに東京五輪に期待をよせているかのようだ。外国がこのような状態のなか、考える余地もないだろう。選手も、とくにフランスやスペインで練習どころではないのではないか・・・。

 いつも思うが一日350万人以上が往来している、新宿駅でもパンデミックがあって不思議ではないのはないかと思う。そろそろ、本音を言うべき時がきているような気がした。東京五輪を菅首相は「やる!」といっていた。いつのまにか「東京五輪」が国民そっちのけで、政治家のテーマになってしまっているのではないのかなーと思う。

 とはいえ、少なくとも一日この駅を利用する350万人で、少なくとも300万人くらいはマスクのを着けているのだろう。ものすごい勢いマスクが使われ捨てられていくことだろう。そして、マスクの下の笑顔をみることもできずいるのだろうと思う。
 マスクをはずすころ、どんな顔になっているのだろうか・・・。



 今月もあとわずか・・・。早いものです。
 久しぶりに晴れた多摩川散歩に行って来ました。青い空を見るのも久しぶりです。
 こんな青空の下、この時期といえば運動会でしょう。散歩帰りに幼稚園で万国旗がはたびいていました。それでもコロナの影響でしょうか。無観客状態のようでした。一年に一度、楽しみにしていたのは子どもより親たちの方であったのではないのでしょうか。それも青空・・・。残念でしょう。親にとっては、元気なわが子をみたかったでしょう。

来週は月刊誌も終わります。コスモスも今週が見納めでしょうかね。
 それが終わればちょっとのんびりできるのでしょうか。
 それでは今週はこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。




台風の季節・・・寒さは体とふところに。

2020年10月11日 | Weblog
 こんにちは。
 今週は雨ばかり降っていました。原因は台風14号の影響のようです。
 この時期、雨は冷たさが身にこたえます。とくに、通勤の日暮れなどのは暗くなったバス停で待つあいだがとても冷たく感じます。すべて若さが解決するなどとは思いませんが、寒い中で立ち止まっているバス停ではきついなーと思います。桜の木の葉もいつの間にか風に吹かれほとんどが落ち葉になっていました。
 もうすぐ冬がくることをつたえているように思います。寒い・・・。いやな季節がやってくるのか、という思いでいる日々が多いくなってきました。
 あわてて、長袖のシャツやジャンパーを出したりあわてた週でもありました。寒さは駆け足でやってきているように思えます。

 さて今週は、学術会議人事の報道ニュースが多くきかれました。日本の学者先生の研究機関で、今の日本を語るうえで大切な研究機関でもあるようです。たとえば、原発の放射能のことをきくときは放射能を専門に研究している意見が貴重になってくるように、日本を代表する学者の集まりであることはわかります。その何が問題かということですが、今回の学術会議の任命について、菅首相はこれまでのやり方を変えたのか、6人の学者を省いたことが問題の発端でした。学綬会議側からは、菅政権の人事介入を問題にしていました。さらに、6人を任命できない説明もしていないことに反撥していることが報道されています。
 私もいったい何が不服で任命しないのか・・・ということが説明できないことにも疑問があります。これまで6人の学者は、安倍政権の時代に出されていた法案に疑義を持ち反対もしてきた人たちでもありました。それは、社会にとってとても大事な行動であったと思います。
 学術会議にもれた加藤陽子教授という人の書いた歴書を読んで経験があります。先行が日本の現代史。満州事変や太平洋戦争のことを分かりやすく解説した本でした。何よりも歴史と国民の生活を大切にした学者だと思いましたが・・・。
 きっと菅政権にとっては、不本意な先生たちなのでしょう。それでも、話し合っって合意・妥協をしながら社会のありかたを考えて実行していくのが政治なのではないかと思います。これでは、米国のトランプ政権のようになってしまいます。真似をすることはないでしょう。
 これで、何よりも大切な、「ものをいう」人たちの口を封じ込める政治が考えられるということが危険なのです。政治は暴走すれば立ち止まらせる意見が大事なのではないかと思います。事実、昭和史で「問答無用」でファシズムが支配し、戦争へむかったと加藤陽子教授はいっていましたよ。
 何十年かたったとき、今日の歴史をどう評価されるのか・・・。そう思うと、一時代の政権によって左右されては問題なのではないかということを強く感じたニュースであった。未来に目をむけるために考えてほしいものだ。


 ある学者の記事を読んでいた時のこと。
 テーマは「アベノミクス経済の検証」とか・・・。とても難しい論文であるように思えていましたが、読みながらに少しずつ学者先生のいわんとするところがちょとずつ理解できるようになりました。「三本の矢」「新三本の矢」という経済政策についての論考している記事でした。およそ1時間弱ほどかかって読み終えると、ちょっとわかったような気がします。

 「経済学」という学者先生のとっては、これまでの安倍政権がいかに労働者の生活を苦しくさせてきたかを淡々と検証し述べていました。
 そういえばコロナ禍の時代となって、多くの企業や労働者(正規・非正規も)倒産や失業者になっている今がわかるような気がしました。まわりまわって、これまでの経済政策は大企業がいかに大切にされた経済政策だったこともわかるような気がします。その、背景には政治と経済という関係があるのでしょう。それが事実に政策では法人税がとても安くなっていましたし、内部留保という企業の貯金も多くあるそうです。そして、その実態は、中小企業や非正規社員の倒産や解雇という方法がほとんどだともいうこともわかります。

 とはいえ、国を支えているのは、多くの中小企業や低賃金の労働者が圧倒的に多いことは、新聞報道なのでもわかることです。政治はあの手この手で、この苦しい状況に「夢」をもたせてきました。ひとつに「宝くじ」。あたれば、人生が大逆転の世界になってくるのでしょうか。誰でも、一度はそんな「夢」をみて買うのでしょう。それでも現実には、当たることよりはずれの人の方がほんとんど・・・。大事なことは、延々と続くであろう日々の生活のなかの仕事であることを忘れさせることがポイントなのでしょう。テレビの宣伝をみれば、みんなウソばっかりと思えることもあります。
 ※ちなみの東京リサーチが発表した企業倒産がコロナ禍2月以降は600件に達した。倒産をしないが、解雇や雇い止めなどの経営を踏み切ざるを得ない企業は激増したいる状況。
 そろそろそのことに気づく時期なのかもしれません。


 春の景色にマスク、夏の暑さにも、冬が近づく日々にもマスク。おそらく今年は一年中マスクをしつつ送ることになるのだろうか。これまで、世界中で何億枚のマスクが消費されたことかと思う。
 世の中コロナ禍ということもあって、マスクの花盛りでもある。マスクで命が守れるのか、なんとも応えに窮屈になってしまう。それでも、わたしたちができる唯一の方法であると思っている。そうはいっても、ウイルスは見えない、臭わないから始末が悪い。それをわかってマスクの日々を送っている。
そんな中で、今回『デジタル庁』ができた。菅政権のめだま商品といっていいものだろう。コロナ禍になってますます人の密は避けねばならない、ということをいいことに「デジタル化」の実現をもくろんでいるのだろう。
 新しい経済の形をさぐってみれば、人の弱みにつけこんで搾るだけ搾る政策がデジタルということになったのだろう。本当に、コロナ禍で人命を守るために、なんてこれまでの政治の在り方をみれば本当とは思えないのは私だけだろうか。
 もっと突っこんでみれば「超監視社会」ということもいわれている。合点のいくことがうなずける。
 身近な端末のスマートフォンからあらゆる情報がどこへ集約されるかといえば、国家ということだろう。
 この機会にマイカードも一緒に国民もらさず加入促進が期待できる。一石二鳥とはこのことだろうか。
 個人の情報は国が管理出来て、その情報を使えるとなれば、管理しやすい。
 さらには個人の枠を越えた「スーパーシティ構想」なるものもあるという。どこか知らないが、一つの町(市)を実験的に、すべてデジタル化にしる構想らしい。すべてのデータを管理・集約するのは、それなりの大企業になるのだろう。「未来社会」とは聞こえはいいが、本当に便利になるかもしれないが、さらに負担が増えることは確実だろう。そこで儲けるのが経済の発展だと思っている人たちにとってはうれしいことだろう。

 デジタル化ということもあって、教科書もデジタルにという大臣も出てきた。もう重い鞄は不要か。

これからはあの手、この手で不安のなかに、安心のメリットばかり宣伝されることだろう。
 コロナ禍はいつ収束するのやら。去るまで次から次に新構想が出てくる。決して、国民を安心させることはないだろう。それが、ある意味資本主義の鉄則だからだろう。で、資本主義とはいったい何だろう。


 ノーベル文学賞が決まった。米国の女性詩人のルイーズ・グリュックさん。今年も、村上春樹さんの受賞がかなわなかった。テレビのニュースでは村上ファンの残念な表情が放送されていた。自分が好きな作家には、その価値を世界に知らしめるノーベル賞はもっとも大きさなのだろう。だれしも、自分が愛好作家には力がはいるのは当然なことかもしれない。

 こんな空気でいわせてもらえれば、私のなかのノーベル賞作家は藤沢周平さんということになるかもしれない。好きな作家はひとそれぞれ。それぞれの個性があっていいものだと思う。
 いつだったか過日、「文学不要論」などということがいわれた時があった。大学の新設部門には、文系より理系を多くつくろうとい話だったように思う。予算をかけるのであれば、すぐ役に立つ理系の学生をつくろうということなのだろう。技術立国をもくろむ人たちの意向なのだろう。さらには大企業の希望もあるのだろうか。
 本当にそうだろうか。

 今回、詩人がノーベル文学賞に選ばれた背景はなんだろうかと思う。いま、世界は、とりわけ米国ではトランプ政権になって、ヘイトによって人種差別が顕著になったように思う。白人警察官の黒人への拳銃発射事件が多く話題になった年でもある。世界中での人種差別の歴史はながい。私の知るいちばん、強烈だったのはヒトラーの行なったユダヤ人差別だろう。『アンネの日記』をよむとそのことがよくわかります。
 常に世界は動いている。その中に生きる人びとは何を考え、生きていこうとしているのだろうかと思うと、ノーベル文学賞の価値は大きいと思えました。
 さあ来週は忙しくなるだろう。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

10月にはいり、だいぶ涼しくなりました。

2020年10月04日 | Weblog

 こんにちは。
 10月に入り、涼しくなりました。夏の暑かったことがなつかしささえ感じます。朝夕は、ちょっと寒さかえ感じることもあります。虫の声も夏のセミから秋のコオロギなどに変わってきました。静かさがいっそう増す夕暮れを感じることもできます。
 この時期は、汗をかいたままにしておくと、急に寒さを覚える季節でもあります。昼間はあついと感じていても、しっかりと寒さへの対応が必要になってくる季節でもあるようです。

 さて、今週は菅首相が誕生して1週間ほどたちました。これからどんな政治を展開するのでしょうか。安倍前首相の継承といっているくらいですから「期待」はしていませんが、むしろどれだけ悪くなるのか、ということの方が心配なところです。
 そんなこともあってか、今週は新聞を広げれば菅首相のあしがためとでもいうような人事が発表されていく記事を多く読みました。
 一つの「日本学術会議の人事」がありました。与党にとってはプラスになる人には「任命」されるて、マイナスになる人は避けていました。とくに、これまでの与党が強行採決してきた法案などに異議をとなえる人は任命されていませんでした。
 日本学術会議は、いわば日本を代表する「頭脳」でもあり広く意見を聞き政治にも反映するためにある人たちの集まりなのでしょう。正直なところ、私の生活には直接には関係していなくても、ある学者の提言がその国の方向を決めることが間接的にかかわってくる人たちなのでしょうか。政府に異論を唱える人も大切なことなのでは思います。きっと、最近、米国のトランプ大統領は、自分の立場を有利に運ぶために最高裁判事を決めたことと同じことなのでしょうか。
 少しずつ、菅首相も安倍前首相の足跡と同じような方向に進んでいるようにも見えます。



 10月にはいってかと思うと、通勤電車のなかも肩がぶつかるほの満員になってきた。2~3カ月前であれば「密」といっては敬遠されてきた光景であった。それが、忘れられたかのように閉まるドアでは人を押し込んで列車になる日々が戻ってきたといいうことなだろう。ソーシャルデスタンスなんてここにはない状況といった方が正直だろうと思う。
 そういえば、10月から「GoToトラベル」でもコロナ感染が多い東京も解禁された月もある。さらには、スポーツ観戦、音楽、食堂なども少しずつ人員制限が緩和されてきている。どこへ出かけても、人の移動は増えていることは事実のようだ。感染にいちばん避けるべき移動が暗黙のうちに増えていくことだろうと思う。
 一方では菅首相政治のめだまでもある「デジタル庁」がつくられた。
 デジタル庁なるものは、コロナ禍で後方支援からフロントにでてきたものだ。考えてみれば、デジタル化はコロナウイルスによって出てきた新しい商売でもあるわけである。学校教育では一人一台の普及をするという。さらには「マイナンバー」を任意から義務化にさせるためのにもってこいの方法でもあるということなのだろう思う。
 買い物の支払いをポイントをつけるスマホ決済もその一つだろう。

 とはいえ、デジタル化はとりあえず電気エネルギーがなければ、パソコンもただの箱だ。さらには、今週おこった株式取引がサーバーが壊れていたのだろうか、一切の取引ができない・・・などの問題が起きている。コロナ禍で大学生はこれまで自宅でテレワーク同様、オンライン学習である。本来あるべき姿でもある、学生同士の刺激ができなくなっている。こちらの方はいっこうに進んでいない。オンライン学習ができればいいが、学習をおこなうためのパソコンやそのほかの電気機器を買えない学生だっているだろう。そういうことは一切、無視されたデジタル化もあるようにも思える。

 こんなコロナ禍での光景をみていたら、辺見庸の「アフリカでは、飯も食えていないのにスマートフォンを持ってどうしるんだろうと思う。しかし。彼らから金をとる。一円でも五〇銭でも、血の一滴まで収奪する。資本主義はそこまできている」(『絶望という抵抗』)という対談で述べた発言を思い出した。
 コロナ禍であろうと、それを利用して生き延びるためにますます厳しい生活を強いられた人間までをも冷遇する対応がきっと今なのだろうと思えてきてしまう。そして、(その国の「文明を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ(『武漢日記』:方片著)も記憶がよみがえってきた。
 今が、こんな状況なのだろう。菅首相はどう乗り切っていくのだろうか。
 日本中ではたくさんの失業者、倒産がコロナ禍で歯止めがかからない。こうなると、本当の政治家の仕事が注目されていいはずなのだが、どこへむかうのだろうか。


 ひさしぶりの「ウォーキングマップ」です。私は、コロナ禍であろうと生活のために毎日、ボチボチと働いています。激しく働くほどの体力はなくなってきましたが「再雇用」という存在で、職場にぶらさがっているように働いています。なんにつけ、職場では「オブザーバー」のような位置で、意見はあるが決定権がないという宙ブラリンな存在が「再雇用」というところなのでしょうか。
 今月はじめ、恒例の朝朝礼がありました。毎月、この場で社長さんの訓示めいたものがあります。今回はコロナ禍で、「デジタル化はますます進んでいくでしょう」と発言していました。とはいえ、今の職場を見わたせばほとんどがデジタル化になっています。これ以上デジタル化をするということは、いったいどういうことなのでしょうかと、ふと考えました。毎日の仕事は、デジタル化になれてきているせいか何にも考えずすぎてきたことはゆがめません。

 では、今後はどんなデジタル化があるのでしょうか・・・と思います。
 たとえば「新聞」でいえば「ペーパレス」ということでしょうか。新聞を全部デジタルにしたら紙はいらなくなってしまいます。それは、機材さえそろえればできることでしょう。それを、タブレットやスマートフォンでみるようにする、ということになるのでしょうか。いつでもどこでも読めるようにするは便利なのでしょう。でも、バッテリーがなければどうなるかということは、停電したらどうなるのでしょうか。
 タブレットやスマホはただのお荷物になってしまうのではないのでしょうか。だいたいあ日本は地震や洪水など災害の多い国です。東日本大震災や北海道のブラックアウトも考えてみてください。当時、デジタル化は逆に災害を大きくしてしまったようなところもあります。そのとき活躍したのは手書きの壁新聞でした。情報伝達するのに人の姿をみせていた手書きの壁新聞とはひにくな結果です。
 デジタル化といってもいいことばかりではないのでしょう。それを無視して進めていけば、中小企業が設備投資ばかりにお金を回して、結局最後は弱者が借金をかえせないばかりか倒産、失業です。そんあことを考えないで、デジタル化といって、誰が得をするのでしょうか。そこのところが抜け落ちているようなことが多々あります。

 そう考えると、本当にすべてをデジタル化にすれば何でも解決ということにもならないでしょう。レイ・ブラッドベリ という作家の『華氏451度』というSF小説があります。住む世界から本というものがなくなった時代を描いた小説です。その時の権力者が考えたことは、本というものをすべてなくすこと。政府の報告以外は市民にみせなくなっていく世界を描いていました。すべてがデジタル化になるということは、ある意味『華氏451度』の世界をつくろうとしているのではと危惧するところです。

 多摩川のグランドではようやく修復したグランドでスポーツを楽しんでいる光景をみることができるようになった。土手を降りてしばらく行くと、そこでは農家の人たちが天気の日には一生懸命、作物を育てている光景を多くみかけることも多い。
今年の春先、田植えをしていた田んぼにようやく収穫の時がきたようだ。この時期は、家族総出(知人・友人?)で稲刈りをしている人たちが多い。稲を刈り、干して脱穀すれば新米の誕生だろう。
 私も農家の出身だから新米のうまさはよくわかる。ちょっと甘くておかずいらずというおいしさも知っている。
 農家にとって、種まきから収穫までの間、心待ちにしていたことだろう。最近は、台風が来ると、豪雨などで洪水の危険性が日々の心配になることが多い。昨年の台風19号のときはどうしたのだろうか。

 いまさらなのだが、こうした光景をみていると自分の口に入ってくる作物は、すべてこうして農家の人たちがお天気をきにしながら田畑にでかけては作っていてくおかげだのだなーと思う。手を土に入れ、水をくれ、雑草を刈り、作物を取り入れ、市場に運び・・・という仕事があって食べられるのだろう。
 以前『世界屠畜紀行』(内澤旬子・解放出版)という本を読んだことがある。世界中ではどんな風にして食肉をつくっているのかという紀行であったように思う。例えば、東京の食肉は芝浦でばらし、それぞれの部に分けて出荷されるということだった。ただ、偏見などもあったという話もあったように思う。
 一つの作物が、テーブルにのるまで、歴史のなかで変わってきたのだろうと思う。一見、汚いとかいう偏見のなかで延々とうけつがれた歴史があったのだろうと思う。

 とはいえ、最近は気候変動がおおきな問題を起こしている日本である。台風、地震などの災害もこれまで以上に規模が大きくなってきているようだ。甚大な災害があれば作物もできない。これまでのようにはいかいことがあるかもしれない。都はビルばかり多いと思っている人もいるだろう。都下では今でも野菜やコメを作っているのだ。ほんとうに大切なことは、自国の自給率を高めることが、日本の農業を守ることにもなるのだろう。



 10月に入った。今年もあとわずか・・・。はやいな、と思う。テレワークの人が「今年は新型コロナウイルス禍で季節感がない」という声を聞いたことがる。
 それはずっと家の中で仕事をしていると、外のことが気づかないことが多いからだろう。時々、散歩にも出るそうだが、ゆっくりみる気がしなくなるとも聞こえてくる。
 コロナ禍でテレワークをやるようになった職場では人の声も顔もみることが少なくなってしまったことだろう。新聞などによると、今年の大学生はオンラインの講義で本来あるべき刺激がないそうだ。対人関係もないければそうなるだろうと思う。勉強がパソコンを毎日みることで成立してしまっていたら、これからどうなるんだろうと思う。
 私のところはテレワークというものはほとんどやっておらず、通常通り出勤して、朝から夕方まで仕事をして帰ってくる。テレワークではないが、ほとんど会話がないことも多い。(いったい何を考えているのかわからないが・・・)
 今頃なら、どこかで運動会をやっていることだろう。今年は、公園で小さな運動会を見かけた。ソーシャルデスタンスで、人もまばらである。いつもの熱気がないようにも見えた。
 それでも、やろうとしていることが大切だなーと思った。
 読んでくれた人ありがとうございました。