日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

秋の夜長になりました。

2018年10月28日 | Weblog

 こんにちは。
 月日がたつのがはやいですね。
 昼間の暖かさと朝夕の気温の差が少しずつ大きくなってきました。暑いと思いきや、帰りにはうす着では寒く感じることがあります。




 10月も終わります。はやいー。とてもはやく感じられた10月でした。季節もゆっくりですが冬にむかって行っています。月末は、某月刊誌の締め切りに追われていてあわただしい毎日が2週間くらい続きます。読書をゆっくりという気持ちがわいてきません。どうにか、月刊誌が印刷所に送られたところで、「今月も終わった」という気になってきます。それだけまだ夢中になれるものがあることは、人生にとっても大事なことだと思います。それも、まがりなりにも仕事であるのですからけっこうなことだと思うのですが、日程がせまってこないとなかなか人の行動が活発にならない習性が悲しい限りですね。

 さて「今月の本棚」はそんな仕事のメリットが見つけ出してくれた本です。
 ときどき「書評」の載せていてその著者が紹介していた本でした。どこでどうめぐり会うのかわからない中で「書評」はひとつの目安となります。今回はよくいわれる「島原の乱」をあつかった小説でした。歴史書では資料となる子文書を参考に史実をたどっていますが、小説では史実はもちろん参考にしますがその中に史実の人物たちを登場させ「フィクション」にして言葉を語らせ、行動させています。今回の『出星前夜』という小説はそれが見事に描かれている小説でした。まさに、「きっとこんなことを言って行動していた」と思えるほど深い小説でした。もちろんかき手によって言葉がちがいますが、今回の小説では、とてもしっくりいく言葉が語られた人間がとてもよかったと思えます。そして、それが単なるその時代に起きたことではなく、今につながっていることを強く意識させてくれた小説もあったようにも思えます。今でも、登場人物と同じような人間はたくさんいることに気づかされることがよかったと思います。まさに、私たちに「人間の今を」問いつづける小説でもあったように思えます。


【内容】
寛永14年(1637)、突如として島原を襲った傷寒禍(伝染病)は、一帯の小児らの命を次々に奪い始めた。有家村の庄屋・鬼塚甚右衛門は旧知の医師・外崎恵舟を長崎から呼ぶが、代官所はあろうことかこの医師を追放。これに抗議して少年ら数十名が村外れの教会堂跡に立てこもった。
折しも代官所で火事が発生し、代官所はこれを少年らの仕業と決めつけ討伐に向かうが、逆に少年らの銃撃に遭って九人が死亡、四人が重傷を負った。
松倉家入封以来20年、いっさいの抵抗をしてこなかった旧キリシタンの土地で起こった、それは初めての武装蜂起だった‥‥。
結局は幕藩体制そのものに抗うことになる海民・土豪らの絶望的な戦いがここから始まる。向かう先は破滅にほかならなかったが、それでも彼らが戦うことを選んだのはなぜだったのか?(本紹介抜粋より)




 「やっと終わった!」というのが第一印象です。横道にそれず、いつも持ち歩いたほど興味をいだかせる小説でした。それというのも、「島原の乱」といえば、キリシタン弾圧に信徒が幕府の政治の不満が爆発して一揆をおこしたというのがこれまでのぼくの解釈でした。ところが『出星前夜』という小説では、統治される代官・板垣重昌ら代官による悪政がその根本であることを考えさせられたからでした。年貢の取り立てなども水増しで徴収され、納められなければ田畑を耕して、家族同然の家畜などを没収するという横暴な政治を行なっていたということも政治もあるのでしょう。その結果、多くの子どもたちが栄養不足から病気が蔓延していても見ぬふりをして、自分たちの保身ばかりした代官所にも不満もあったようです。村民が、代官に抗議をしようものなら男、女、老人までも拷問で対抗しみせしめを多くの死者をつくったということでした。
 この小説では、代官所の火事が発端になり、村人を代官所が取りしまり、その起因を村人のキリシタンがあるというこじつけによって、村民の不満が蜂起となります。少しずつ農民たちをまとめる豪農や元武士らがまとまって一大抗議をしたのが「反乱」となります。そのため統治していた代官でも鎮圧できずに、ついには江戸の幕府も加勢しなければならなくなったということが真実のようにも思えます。

 歴史の多くは勝者よって残されるといいます。本当はどうだったのかは問わなければ応えてくれません。多くの資料を収集しまとめてやっと、人々の生活が浮かび上がってくるのが歴史です。実際の内容を掘り下げて人々の前に出てくることまず少ないでしょう。
とはいえ、今回の『出星前夜』の小説は、歴史というものがよくわかります。フィクションであるのはゆがめませんが、「きっとこう語っていたのかもしれない」と思えるところが蜂起を長くできた結果だったと思います。とくに圧巻なのは、原城に籠城した蜂起民らがいかに持久戦に耐えて戦ったのか。そして、掃討することを任務とした側がいかに攻めていくのかこと細かく書かれています。攻めるも守もそこにいた人々の「声や息づかい」があったようにも思えます。

 小説を読み終えて、「反乱」という言葉でまとめてしまうのがなぜか無意味な気がします。人々は、どんな形であれ知恵をしぼって好い解決策を模索しているのだと思います。為政者は、一方定な「美辞麗句」で人を上手に政治のまないたにのせている時代が長く続いているように見えます。それでも抵抗をもって生きていく知恵をつくるものだと思えた小説でもあったのかもしれません。最後に、蜂起した人々が死を賭けてでも守ろうとしたものはいったい何であったのだろうかと思います。そんなことを思うと、「生命を賭して…」といっている今の政治家たちの保身の危うさ、いい加減さが島原を統治した板倉重昌の政事にあるのではないかということが浮びます。
 例えば沖縄の「辺野古新基地建設」に反対する民衆の声が小説の蜂起する人々の声と共通するものがあるように思えたものでした。民衆がこれまで起きて事件や政府の横暴に共通した利害を持ち始めて政府与党の推す候補を次々と落選させた選挙をみると、まさに蜂起にちかいものが見えるように思えます。
 こんな歴史小説が好きですねえ。
 (少し引用が長くなってしまいましたが、それぞれの動きの方向を変えた引用だと思いましたので残しました)
【ピックアップ!】
■p40 彼(マグダレナ)は、日本に潜伏していた十八年間、文字とおり不眠不休の医療活動を続け、数えられぬほど多くの日本人を救ってきた。そのマグダレナが、同じ日本人に報奨銀目当てに密告され、日本人に処刑された。いったい彼はどこに、火あぶりによって処刑されなくてはならない罪があるのか。そもそも、彼がフランシスコ会の修道士であったことは事実だが、なぜあれほど捕り方が血眼になって彼をさがし回らなくてはならなかったのか。そして、凶悪な火付けや盗賊の類と同じ目に遭わされなくてはならないのか幕府の法とはいったい何なのか。

■p66 代官職にある者は任地に駐在せず、手代や下役任せにしているという松倉家のあきれた実施がはっきりとした。南目に派遣されているこれらの代官の手代たちは、おそらくいかに定められた年貢を厳密に徴収しうるかによって島原に住む代官から査定される。手代どもは、当然おのれの保身ばかりを考え、この数年の天候や不順や台風災害などによる民の困窮などは考慮する余裕もない。頭にあるのは代官の程島某からもらうおのれの俸禄をいかに維持するかだけである。

■p96 平左衛門に代替りしてから、キリシタンからみの密告者は一人の例外もなく逆に代官所白州で長崎追放を言い渡されるという奇妙なことが続いた。追放刑は、財産没収のうえ居住地を追放され市民としての権利の一切を剥奪される厳しい身分刑である。軽重を問わず追放刑に処された者は、町衆としてのすべての権利を剥奪され乞食同然の身となることを意味した。

■p103 まったく…法というものはやっかいなもので、一度江戸表の意思によって定まられれば、それによって甘い汁を吸える連中が都合のよいように一方的な拡大解釈をし、末端にはいたればこのような手の付けようもない猛威となって民の暮らしを直撃する。何よりやっかいなのは、松倉家のかかる搾取を放置してきた責務を追及していけば、とどのつまり上様の、ひいては徳川家三代の治世そのものが重大な欠陥をもっていることを指弾することにつながってしまうことです。

■p179 「…望むところだ。これまで、代官所の者たちがこの有家の地でわれらに何をしでかしてきたか。それを思い起こせ、松倉の糞侍どもに良き暮らしをさせるために、われらの糧を奪い、牛馬を奪い、そして傷寒を招き、大勢の朋輩や幼児の生命を奪った。抗う意思を示せばキリシタンの禁令に触れたとの口実を設け、雲山地獄や今村刑場に送り込み、酷たらしいやり方で片っ端から葬ってきた。あんな奴ばらに今さら何の情けも手加減も無用だ。容赦をするな。兎と比べれば的は大きく動きものろい。われらを小童とあなどり間抜け顔で参道をのこのこやって来る。」

■p187 下役ら小者や下男にとって、代官所火災の原因を童どもの仕業とする手代権之助の意向は極めて都合のよいものだった。…島原藩松倉家の財政は逼迫し、下役や下男などいつ暇を出されるかわかったものではなかった。ここで目立つ働きを挙げることで、おおれの存在を程島久太夫に強く印象付ける好機であるとの思いが強かった。

■p221 「…現在は目も当てられないほどの惨状に陥っているのでございます。確かに、天候には誰もがあらがえず、何人もなす術はございません。加えて颱風などの天候地異もございます。されど、お奉行様。何よりも大切なことは、民が天変地異に見舞われても、それを乗り切るだけの力を蓄えることのできる政事をまず行っていただくことでございます。」

■p279 「おそれながら申し上げます。そもそも、わたくしは、三年前までは課せられましたお年貢をまがりなりにもお納めして参りました。ところが、この二年の天候不良による凶作は、五反の田から樅米で五石、五分摺りに脱穀したしますれば、わずか二石五斗の米しか収穫できませんでした。一年間働きづめで八十八度の手入れを怠りなく務め、その結果が通年の半分にしかなりませんでした。わたくしのお納めすべき御年貢がその二石五斗でございますゆえ、すべて完納しました暁には、わたくしが食べる米はもちろん、翌年の種籾さえもなくなるのでございます。にもかかわらず、お番所からは、通年と変わらずの年貢割を当村に求められました。後ろにひかえておられますが甚右衛門様を始め庄屋衆の嘆願によりまして、翌年の種籾の分だけ何とか御免除いただきました。それでも五分摺り米二石をお納めすれば、わたしくしが食べる米が全くございません。結果としてこの二年で公納年貢都合一石の不足を生じることとあいなりました。それを理由にお番所の手代様は、わたくしどもの馬を未納年貢代わりとして連れ去りました。なんでも島原へ連れて行き、売り払って銀に替え、年貢代わりに収納させるとのことでした。
 働き手の馬も奪われ、何より頼みとしておりました麦も、昨冬の暖かさでまた不作に終わりました。野良に出て骨をきしませて働き続けた結果がこの有様です。皆が飢え、この春よりも傷寒が流行り、幼き者から次々と死んでいく様を見るにつけ、いよいよわたくしは家を捨てる決心をいたしました。桜馬場の森のあります所は、教会堂が建てられるずっと以前より入り込めば俗世のすべてと縁切りになる場所でございます。古より無縁の地でございました。先々の望みなど抱きようもなく、桜馬場の教会堂跡へ出奔いたしました次第です」

■p399 怒った城下町の者たちまでが多数参入し、城下町に入るなり蜂起勢は二千を数えるほどにふくれあがった。勢いのままに白土町で江東寺を焼き打ちしたものを始とし、桜井寺も焼き払い、捕えられた僧侶は次々と血祭りに上げた。寿安が恐れていたとおり、最悪の事態が島原城下では引き起こされ始めていた。とくに貧しきものたちは日頃の鬱憤を晴らすべく暴動を開始した。城に避難した白土町の大家の戸口を破って入り込み、片っ端から略奪を始めた。そればかりか、綱をかけて大家を引き倒しそれに火を放ち始めた。

■p444 しかし、おのれもまた、彼らと同じく馬鹿だった。松倉家の苛政、そして、それにただ追随する鬼塚監物らの不甲斐なさ、それらを一切に対しい怒りに任せて抗うこと開始した。人が人として生きるだけの暮らしを奪うことは誰であれ許されない。それを力で押しつぶそうとする有家代官所の下役どもや松倉の糞侍どもには、死ぬまでア抗う意思を持っていた。目的は、勝倉家にせめて表高に見合う年貢に改めさせ、松倉領各村の民が飢餓に瀕するような出鱈目な政事を変えさせることだった。もちろん、それと引き換えにおのれが処刑されることはわかっていた。かつて年貢軽減を再三訴え出た父が、キリシタン宗の再興を企んだとして殺されたように、いかなる罪科をこしらえ上げられるようと受け入れる。初めはおのれの死を前提とした反抗だった。あの腐りきった暮らしを続け生き長らえるよりは、目的のために死ぬ方が、ずっと救われる思いがした。それらの寿安の思いが、結果として島原城下の惨状を招いた。寿安は、生きて島原城下の惨状をおのれの行動の結末として突きつけられることになった。

■p593 寛永十五年(一六三八)陰暦正月元旦、夜明け前、(略)原城跡に籠るキリシタンも、キリシタンでもない者たちも、二万七千余の誰もが共通して抱いていたただ一つ、人としてふさわしい死を迎えることにあった。その目的に向かってお互いの力を信じ合うという美徳が、その半月の形をした丘によみがえっていた。かつて雲仙の丘陵をめぐった修験が、山を仏体とし、登攀していくことによって、眼、耳、鼻、舌、身体の六根を清めたように、このたびの討伐軍との戦は、ひとつの険しい山であり、それぞれが我欲を捨ておのれを律して生きつくせるかを問う試練として存在していた。

■p694 この一大蜂起を引き起こした島原領主松倉勝家は、領地を召し上げられ、いずれ切腹もあるなどと噂されていた。だが、単に本名個人の怠慢と杜撰な藩政によって引き起こされたものではないことは、冷静に見わたす目さえ持っていれば明らかなことだった。恵舟も秀助も、蜂起直前の有家に出向き、そこで破壊された民の暮らしぶりをつぶさに見ていた。すべての原因は、大名を厳しく統制し、結果として民の暮らしぶりをつぶさに顧みない幕藩体制の欠陥にあった。





【JR大宮駅】草野球のみんなと食事をしたね
 今の大宮駅は30~40年前に草野球のたびに立ち寄った駅でもあります。あの時代を思うと今の駅はものすごく変わったようです。駅前の静けさは消え、大都市並み(新宿駅のなか)にになりました。
 最近では東武野田線での墓参りには乗り換えのため立ち寄るくらいになりました。

 30年ほど前は、大宮から先の川越線の「指扇」という所で草野球の大会があり、チームメイトと応援団らと一緒によくいきました。春から夏にかけて日曜日を利用して試合でしたが、勝っても負けても駅うらにあった中華屋さんに立ち寄り食事をしました。試合はいつも2~3回戦までいくのですが、その先がいけません。練習も昼休みのキャッチボールくらいでは勝てるわけがありませんかね。それでも、楽しかったのは試合後のことが思い出されます。野球部の家族や部員以外の人の参加もあり楽しいひとときでした。その中華屋さんの名前は忘れてしまいましたが、ひと口餃子がとてもうまかったことを覚えています。アルコールも運転手以外はありました。ひと汗かいた後のビールがおいしかった!!。ボール一つでみんながワイワイできた時代があったとは、今思うと何とも不思議な景色に思えます。今の若い子たちは持っている物といえばいつもスマホですか…。

 駅前は静かでした。いまや北への玄関口のような駅です。新幹線はとまるし、都心へでるのも電車の本数も多い。便利になりました。
 でも、騒がしいのは駅前くらいなのでしょうか。今や、駅だけが突出しているようなところがあるような感じです。駅中の必要もないお店がところ狭しとあるのも考えものです。移動スペースがせまくなり、大きなリュックをもってあるく人が多いこのごろでは、狭いところもあるかと思います。


 ぼくの仕事の1か月の仕事の忙しさ周期は、月の初めのほうは編集部のみなさんも気合がまだ入っていないようです。新聞編集だけの取材や資料集め、連絡などをボチボチやっているようです。ところが月の中ほどになると少しずつ月刊誌の担当記事がメールで静かに送られてきます。一夜明けでパソコンのメールをみると、全国から記事が集まっています。それを、整理(記事・写真など)したものをぼくのパソコンに送信してきます。まだまだ…と思って翌週には一夜明けると、赤字の原稿と記事が何本も入ってきます。こうなると、他人の仕事などにも目もくれず、著者に校正ゲラを送信するために仕事が始まるということになる月末です。

 これがぼくの1カ月の仕事の周期のようです。 
 気がつけば、月末になっていることが多い日々です。いつまで出来るのだろうか…と思いつつ終わり月末となっているような気がします。
 だからというわけではないが、月末くらいは休みを(有給休暇)とってのんびりしたいと思いますし、実行しているのが現在です。これは、また始まる1カ月への準備のようです。職場の正規社員にとっては迷惑かもれませんが、ぼくはそれらを考えないようにしています。

 自分のことです。だれになんと言われても、言うほどに他人は何もしてくれない日々が職場ではわかってきました。まして、同年輩の人たちは次々にリタイヤしていくこの頃です。高齢者(再雇用)と正規社員との仕事の流し方について何も考えなければ、ぼくのやり方を今後続けていくしかないようです。自分の出来る範囲でやっていくしかにようです。時々、たずわっている仕事のよさをみつけつつやっていこうと思います。時々、出向先の方が楽しい気もします。



 気がつけば月末です。そして今年もあとわずか…になっています。
 いったいこれまで何が出来たのだろうかと自問自答するのもわずらわしいというのが正直なところでしょうか。それにしても、月日が過ぎるのははやいですねえ。年をとってそれが加速度的になったようにも感じます。

 何かに追われているかのような日々でもあります。ちょっと立ち止まって…ということをと思いこのブログもあるような気がします。一週間の流れのなかで、自分がどんなことを考えたのかということを更新できているのかは疑問ですが、一部分だと思います。

 今週から「読書週間」だそうです。ぼくが二十歳代ころの時代、通勤電車で読書をする景色を多くみていました。最近はスマホを見ている人が大半なようです。このスマホも混雑する電車の中では迷惑な時があります。満員電車のなか、鼻先に他人のスマホがあることも多くあります。それほどにしてみることがあるのでしょうかねえ…。スマホを見る前にやることがあるだろうと思うのですが、夢中になっているようになっています。それほど大事なことでもないような気がしますが…。
 新聞社(毎日新聞)で16歳以上を対象に実施した読書世論調査では、32%が1カ月に本を読まなかったとの回答でした。「読まなくても生活に不自由しない」「インターネットやテレビなど他に面白いものがあった」というのが理由だとか。一方で、読書が禁じられたSF小説「華氏451度」で本の所持や読書が禁じられた社会を描いたものがありました。この小説を読むとメディアによる権力者の怖さがありました。情報を受け身になっているばかりで気がつけば「操作された情報」により自由な発想ができなくなっていくようなことが読みとれます。読書はちょっとめんどうで根気のいる作業です。それでも、何かを自分の気持ちを訴えるひとつの道具として考えてはいかがでしょうか。
 読者のみなさんはいかがでしょうか。

 本を読まなくても生きていけます。それは事実です。それでも本を読んでいて思うことは「世の中こんなこともあるのか…」ということを気づかされます。それがいいとか、悪いとかは読者が決めればいいことです。また、新しい出会いのようにも思えます。そんな出会いはもう一人の自分かもしれません。そんな気がします。

 それでは今週はこの辺で失礼します。
 「本棚」は引用が多くなってしまいました。お許し下さい。(資料としてあるのも事実です)そろそろ、山でも紅葉がはじまるころでしょうか。11月にはいったら山歩きにいってみたいと思案中です。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

バス停まる 顔だけ見える幼児らの 瞳のさきに何見える

2018年10月21日 | Weblog

 こんにちは。
 一日の明るさが短くなってきました。夜になると寒さが足元からくるように感じる季節になってきました。朝では、息が白く見えるときもあるようになってきました。いよいよ寒さが到来…。北風もときより吹くようにもなってきました。いちばん待っていなかった季節にが来ようとしています。室内でいるときはいいのですが、外にでるのがおっくうになってきました。こんなときは楽しい理由をみつけて屋外へいくような時がきたのでしょうか。

 さて今週はどんなことがあったのでしょうか。
 油圧メーカーのKYBによる免震・制振装置のデータ改ざん問題があり、スカイツリーや各地の都道府県庁舎がすでに使われていたというニュースには驚きました。
 日本は地震大国。毎日日本のどこかで地震が起きていることは気象庁の「地震情報」をみればわかります。最近では北海道で大きな地震があり「ブラックアウト」という言葉が強く記憶に残っているところです。その、地震による危険性を避けようと研究された結果、耐震装置ができあがったのでしょう。耐震装置によって危険をできるだけ少なくし、人命を救うことが目的とされたものだと思います。このことによって、地震の揺れにも耐えうるようなして人の不安を小さくするものなのでしょう。
 きっと何度も検査が繰り返されて、監督省庁も認可した結果として使われたのでしょう。土地のすくない日本にとっては建築物は上へのびる傾向にあるのでありがたい装置なのでしょう。

 これが、「検査不十分」「未完成」の段階で使われたとしたらどうでしょうか。使われた建築物の耐震強度には安心していた利用者は地震だけでなくちがう危険にされされることになることにならないでしょうか。いちばん困ってしまうのは、「安全・耐震」ということに不信感を強く持ちはじめるのではないのでしょうか。利用している人へのストレスをつくることにはならないのでしょうか。さらには、この装置が原発に使われていたら…と思いきや「使われている」という現在進行でもあるというニュースもありました。

 いったいいつからか、企業の利益は人の命より優先される時代になってしまったのでしょうか。それを許してしまう政治もいかにズサンなのかということにもあきれてしまいます。これまで、検査改ざん問題は、神戸製鋼や自動車業界の日産、スバルでも指摘されました。これでは、自動車の自動運転など…怖くて乗れません。ウソで固まった商品を売られ、使い、揚句のはてには事故で危険なめに遭う。そして「震度6強から7強でも人命には影響が出ないレベル」という説明ではすまされないのでしょう。ウソで固めた建築物の中に生きている。それを解明して安心して住める建物(社会)にする政治努力が問われいるように思います。



 来年10月から「消費税10%」になるようです。とうとう、来たか…と思います。これまで消費税は5%、8%というながれの中で政治の道具として利用されて来たようにも見えます。本当に上げる理由があるのかという疑問の中でいつの時代にも与党がそれなりの理由をつけてきました。時代に合った消費税という理由が語られてきました。今回の「10%消費税値上げ」の理由は「少子高齢化社会の到来」で現役労働者の減少などから社会保障費が少なくなるということになっています。でも、この理由は消費税5%時代からあったと思えます。むしろ、その時代でなぜできなかったのかということがあまり問題されずにきたのが問題なのではないかと思います。
 それと、何百億円もする戦闘機が購入するのを見送りということもあるのではないのか、とも考えます。
 それも「10月から」というのも政治利用のように見えます。
 さらに変だと思うのは、こんな記事「政府・与党は2019年10月に消費税率を10%に引き上げるのに備えた景気下支え策として、額面を上回る買い物ができる「プレミアム商品券」を発行する検討に入った。キャッシュレス決済をした消費者へのポイント還元との二本柱で、増税に伴う経済の落ち込みを和らげる狙いだ。ポイント還元は税率を8%に据え置く軽減税率の商品も対象にする。」(日経・20日新聞)ということもおかしいな気がしますが…。
 「キャッシュレス決済」というのは、いま中国ではやっている現金を持たないあのカード社会ということでしょう。一方でカードを強要する社会になるのではないのでしょうか。単純にカードを作りたくない人もいるでしょう。カードを利用するほど買い物もしない。そしてカードをつかう人だけポイント還元とは、同じ物を買って差額がでてきてしまうのではないのではないのしょうか。カードを作りたくない人だっています。その人から10%分の消費税をとるということはなんとも合点がいかないのと思えますがねえ。

 各商店が「キャッシュレスにする装置設置」費用を税金で作らせ利用することになるように思えます。そんなことをしないでダイレクトにやればいいのではないかと思いますが…。

 もうひとつ、コンビニなどで買ったものをイートイン席で食べると税がかかり、持ってかえると軽減税率の対象となる…など。これはどういった経過でなったているのかよくわからない。イートインで食べようと外で食べようとこれが税になんの関係があるのだろうかと思う。コンビニさしがねのようなやりかたのようにも思う。なるべく、イートインというものを使わないといいと思うのはコンビニの方だと思う。その場所のスペースもいらないだろうからその方が都合がいいとなる。掃除の手間もはぶけるだろうからだ。人が食べる場所に税をかけないで欲しい。これでは、「食べないと」といういって食べてしまうこともおこりうるだろう。もっと世間をみてほしい。好きでイートインで食べているわけでもないのだから…。

 消費全還元に必要なのは単純なところ「衣食住」です。それも、食と住には還元期間を設けていくことが大事です。生きていく以上に最低必要なものです。さらに必要なことは、企業の「内部留保」をちゃんと働く人へ還元すべきです。それも大事なことだと思えますが。




【羽田空港】
 羽田空港は小学校の遠足で見たくらいしかなかった。テレビや雑誌でみるだけのものだった。田畑しかない田舎では、ときおり青い空に銀色に光っている飛行機がをみえるくらいだった。冬などは、青空に白い線をえがいて飛んでいるのをみかけるだけのものだった。きっと「永遠に乗ることはないだろう」と思っていた。
 ところが、生まれて初めて飛行機に乗ったのは、20代も後半だった。
 「人と人との関係は乗り物まで換える」ということだろう。結婚を機会に乗る回数が増えてきた。なぜならつれあいが四国である。電車と船でいけば丸一日かかる(一度行ったことがる)。それにくらべて1時間弱である。朝出ていれば、夕方までには観光を楽しんで帰ることができる…。なんとも世の中はスピード時代であることか。
 そんなこんなで20年ばかり毎年一度は乗るようになった。とはいえ、今でも好きになれない。その理由は、やはりリスク度だろう。気候に危ぶまれ、整備に危ぶまれという乗り物だからだろう。一度、積乱雲のなかを通過した時などはガクンと下がったのには驚かされた。さらには、強風のために空港を変えられたときの移動の大変さである。それでも利用されるのは、やはり時間の短縮のせいだろうと思う。速く到着すればそれだけ到着後はゆっくりできるということなのだろうか。これは、今が求める最高の乗り物なのかもしれないが…。

 飛行機会社をあつかった小説に山崎豊子著『沈まぬ太陽』というのがある。飛行機会社の内幕を小説にしたものだ。御巣鷹山に墜落した日航ジャンボの背景ともいわれている小説だ。これは20年前ほど前に読んだ小説なので、それほど詳しく記憶にはない。ただ、飛行機をめぐる内実は企業とおなじで利益が優先される中でさまざまな人間模様が描かれている。その本は今は迷子になっている。他にサン・テグジュペリの『夜間飛行』とう小説もある。昔は夜に飛行機を飛ばすなどとは難しかったようだ。それでも、郵便物をまつ人のところ飛ぶ…。そんな情熱がいまにつながっているのだろう。

 それでもやっぱり飛行機は嫌いである。
 最近は、めったに帰らなくなった。もう10年以上乗っていない。余裕がないからだ。経済的に無理である。それでも、人と人のつき合いはしないといけないことは理解しているが、やはり乗りたくないと思う。
※写真は飛行機写真をとるの好きな人からのお土産。政府専用機だそうだ。めったに見られないレアーものだそうだ。ぼくは、見たいとも思わないですけど。

今ではその両親はなくなり、実家であった家には姪家族が住むようになりあまり帰らなくなったようになりました。
 飛行機ウォッチャーが好きな人が、政府専用機が羽田に来るという情報が仲間から聞いて羽田にいったとき撮ってきてくれた写真です。



 月末になってきたら、懐も気温もさがり寒くなってきたようにだ。こんな季節は避けたいなあ…と思っていても変わることはないだろうし、耐える半年ぐらいがつづくのだろうか。コスモスも今週で終わるだろうか。この時期に青空の下で風に吹かれて咲いている。なんとも美しい眺めかと思う週だった。散歩道でも小さな花には楽しませてくれた季節だった。寒くなると散歩道の花も少なくなるのだろう。ちょっと寂しい気がする季節だろう。本当に寒い…。
 これから熱くなっていくのは、秋の国会だろうか。いろいろなスキャンダルが国会前から騒がれている。女性議員の政治参加をといっていたわりには女性大臣が少なすぎる。これが、本音とたてまえの政治の現実だろうか。これまでと同じだろうか。森友問題もいつの間にか断ち切れになっている。亡くなった官僚のこともいつの間にか消えていた。過日、週刊誌でその様子を取材していた。父親は子どもの無念さが記事になっていた。なんにもなかったような今後はもう逃げられないだろう。

 月刊誌のしごとが今週終わった。(すぐ来るような気がする)。1ヵ月なんてあっという間だと思う最近である。今週は連続で出向していた。さすがに2日目は直行・直帰であった。年寄りが現役より苦労する意味はあるのだろうか。そんな思いで、2日目は直行と直訴したらいとも簡単に承諾された。考えすぎたことがバカらしくなった。とにかく、今後はこのパターンをつくっていこうと思う。

 来週は休日が忙しくなりそうだ。マンションの定期総会もあるようだ。
 「委任状」という手もある。いろいろと考えてみよう。山歩きに行きたいと計画中だったのでゆずれないなー。
 明日は、のんびりいこうと思う。月曜日にはりきる人の気がしれない。
 では、今週はこの辺で失礼します。寒くなってきました。早寝早起きが大事な季節です。更新も遅れてしまいました。のんびりいきたいものです。
 読んでくれた人、ありがとうございました。


寒さがやってきました…

2018年10月14日 | Weblog

 こんにちは。
 朝は寒くなってきました。雨がふるとさらに寒く感じる日がやってきたように思います。ますます通勤がつらいですね…。最近では、帰りの時間にはもう暗くなっています。バス停で、待つ時間がとても寒さを感じます。
 休みの日などは寒さいので起きるのもめんどうに思えてきます。




最近「再雇用者」となって働きながら疑問に思うことがある。
60歳で定年退職をして、「年金65歳満額支給」という社会のありかたが「再雇用者」をつくり出したのだろう。要は少子高齢化という現実。税金を納めるべき働き手の不足、そのために雇用を延長して年金の支給年齢をあげる政策がでてきたのだろうと思う。以前、年金は60歳から支給されていたが高齢者の増大で払いきれなくなったとうのが現実となったということ。だから65歳に年金支給年齢を上げたということなのだろう。満年齢になるまで会社では雇用延長を会社にうながして「再雇用」という形をつくりあげたのだろう。「再雇用」ということで、この段階で会社と労働者が「契約書」を結び「賃金・雇用形態・労働時間」をとりかわされることになったというわけである。

賃金にギャップ
 ぼくがこの段階で驚いたのは「賃金」の低さだった。これまでの3分の2ほどになったことである。同じ仕事をしながらこれはないだろうと思うことがある。
 年金の一部と賃金と税務署から出る受給金とあわせても、正社員の時の賃金にはとおく及ばない状態である。これでは、働くモチーベーションもあがらないだろうなと、思う。

職場では…
さらに、職場での仕事の連携がまったく無視されているようだ。ぼくが担当するお客にどれだけバックアップできるのかという疑問にも説明もなく、職場の人の対応のにぶさにお客の苦情全部ぼくにくるというしまつだ。開き直って「会社の責任者にいってくれ!」と思うことが多々ある。
 ぼくが思うところ「再雇用とは、いったい何者なのだ」という問いがいつも考えさせられる。
 だから、現状では出来るだけ、自分の担当している仕事以外は一切手をださないようにしている。それくらい割り切ってやらないとばかばかしいほどの会社の対応となっている。

定年65歳はいいけれど
 政府は今年「定年を65歳」に引き上げるという方針を打ち出した。少子高齢化で働く人が少なくなると、年金支給も危うくなるということからだろうか。ぼくが思うに、その理由は表向きで本当は、「いかに低賃金で、すぐに解雇ができる労働者にしたい」ということではないかと思える。いい例が、「派遣・契約社員」の対応について、正社員になりたいがする前に「雇用延長をしない」という企業が多いと聞く。あるいは、派遣会社が契約社員についての対応が本当に実施されているのかということを、職場にきている派遣社員を見ているかぎりでは少しも変わらないように見える。
 低賃金で得た企業の利益はどこへ流れるのだろうか。それは、決まっていて、自分たち企業の利益を代表する政治に投資する、ということになるのだろうなあ…。

 事実、規制緩和という名目で「派遣会社」ができた経緯をみればわかるとおり、労働と政治はといういちばん利益を上げる仕組みとなっている。いい機会を造ったところでそれを操縦するのは労働者なのだ。基本は労働者の人件費なのだろう。定年制が65歳になるということは、派遣会社も60歳以上の人をこれまでよりももっと安い労働者をつくりあげるのだろうなあ…。
そして考えること…

きっと大事なことは、働く人たちの連帯なのだろう。それも漠然としたものではなく日々共通している「働らく場」という共通話題を考える時なのだろうと思う。いったい労働組合は何をしているのだろうか、ということも。せっかく「組合費」を払っているのだからその分を働いてもらうことも考えるときなのかもしれない。これは日々直接かかわる人間関係なのだから。低賃金であれ、再雇用・派遣であれそこからしか始まらないだろう。
 「言うはやすいし、行なうは難し」だろうが、できることから少しずつやったほうが楽しいのに…。
 「過労死問題」で大手の「電通」の組合はいったい何をしていたのだろうかと思うことがあります。

 さて、60歳以上の「再雇用」の読者のみなさまはどうしているのでしょうか。

 今週の「WarkingMap320」では、身近の日々感じていることを書いてみました。世代が違うのでしょうか、なかなか会話がないのが残念に思います。とくにむずかしいことを話したいと思いませんが、何か話が続くかない日々です。これって、世代が違うからと言いうことではなく、生き方・働き方に関係しているのでしょうかね。
 働いていると「自分の働き方」に自信があるのか、他人の助言もきかなくて一生懸命やっている姿をみることもあります。「なんか無理しているな…」という姿を見ているように思えます。いわゆる職場の「個人商店」のような形をとっているようにです。誰の助言も受け入れないような忙しさをつくっています。これは、疲れるでしょう。ぼくは、働き方としてはほめるような形だとは思いませんが。
 さすがに10月半ばとなると、少しずつ寒さが身にしてきます。とくに、会社の帰り道では暗さも加わり寒さが増しています。寒さは、仕事にかかるのもおっくうになるような気がします。暖房が入ってくる季節です。ぼくは、会話のないような「寒い働き方」がどこでもはやっているよいうな職場は嫌いですねえ。

 今週よく目についた「労働」に対するニュースでした。
 働くを「入口(採用・就活ルールの変容)」から「出口(65歳定年制・年金支給)」からの話題が多くなってきました。さらに、労働力人口の不足を補うために外国人労働者の受け入れの規制緩和もはじまりそうです。
 これが「働き方改革」の中身になってくるのでしょうか。
 就活ルールでは経団連が就職活動の時期を廃止しようということになっています。年金では年金の先細りのため労働者に自助努力を促すとのこと。外国人労働者の受け入れの緩和などがあげられています。まさに「働かせ方改革」あるいは「働き放題改革」という呼び名があるように、政府と企業が労働者をいかようにもできる法案をつくりあげた序章からエピローグへ向かうための労働政策満載の秋となりそうそうです。どれをとっても、今の労働者にとってはいい形ではないように見えます。
 最近は労働組合の活動も先細りのようです。ですが、これからが大事なじきなのではないかと思います。だから、もっと愚痴や冗談をいえる職場が大事なのではと思います。身近なことを見渡してみていいと思うですが…。労働力はいかようにも変化する価値であるのですが、悪く利用されると当人自身の生活をも壊れる危険があるものです。労働者の唯一の労働手段です。



【国分寺:JR中央線】
 ちょっと気の利いた買い物をしようと国分寺までいくことがある。ぼくが住んでいる町は、私鉄沿線で大きなデパートが一つあるが、来年は閉館の予定とのことだ。やはり、上へ上へ建物は多くなったが人の経済活動はJR沿線へ向かうようである。このへんで一番ハイカラ(死語でしょうか)なのは吉祥寺になる。先週も地元の某デパート出店で買った靴の修理を頼もうとしたらすでに撤収していて吉祥寺までいくことになってしまった。それだけ、JR沿線は何かにつけ強い吸収力があることを思い知らされる。

 とはいえ、100年ほど前は街道には馬やリヤカー、自転車がはばをきかせていたのでしょうね。ちょっと買い物に町へでかけるのもきっと歩いたりしていったのでしょうか。ゆっくり歩いて国分寺街道をいくと歴史的な建物にも出会うことも出来ました。例えば農工大など(下写真)が代表的な建築物でしょうか。大学のケヤキ並木は1936年に植えられてものだそうです。それからずっと枯れずに育っているそうです(看板の説明より)。

 バスや電車でいくのも方法ですが、街道をゆっくり歩いてみるのもいいかもしれません。できるだけ不便を感じた方が町の風貌がりかいできそうです。
 とはいえ、この並木道に学生がよく主張している「立て看板」がないのが寂しい気がしましたが…。そういえば、どこもこぎれいになっていますが学生たちの「主張」みたいなものが見えないのが残念です。





 秋到来でしょうか。
 芸術の、スポーツの、読書の、食欲の秋という季節です。読者どんな秋を楽しんでいるのでしょうか。ぼくは、食欲の秋がいちばんですかね。
 いよいよ月刊誌の追いこみです。疲れます。今週が終われば10月も終わったという気持ちになるのではないのでしょうか。
 うっかりするとカゼをひいてしまう季節です。注意が必要でしょうか。
 では今週はこの辺で。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

10月の声に

2018年10月07日 | Weblog

 こんにちは。
 10月にはいりました。昼間の時間が短くなって、会社からの帰りでは信号機とヘッドライトばかりがまぶしく見えるバス停です。散歩道では、秋の虫が音がよく聞こえる季節となってきました。いよいよ冬到来の入り口に立っているような日々です。寒さの方が、身にしみる季節となってきました。
 散歩をしていると、運動会の準備がはじまっている景色をみかけることがあります。運動会ね…楽しいでしょうね。昔の運動会を思い出しながらいると、運動会をこの休み中にやるという知人がいうには「最近の運動会は、運動会ではないように見える」ことがあるそうです。なんでも、体にやさしいといのか、子どもの元気な姿がはじけていないとう競技という光景だそうです。「騎馬戦…ナイ、ナイ」ということです。

 さて今週は。
 台風24号の去ったあとの月曜日はさんざんでした。電車は遅れていたため二つ先の駅先まで歩いたいきました。駅には改札までいくまでの人の列が何重にもかさなり、テレビ報道までがカメラを持ちニュースにもなっていました。あの中の後ろの方にぼくもきっといたのでしょう。
 とにかく都会は自然災害にはもろい一面が見えた週の頭でした。

 一方、沖縄県知事選はオール沖縄が推す候補者の玉城デニー氏が前翁長知事の後継者としてして勝利しました。自民党系の候補者は多くの人気政治家の応援にもかかわらす敗北したのでした。沖縄の基地問題の深刻さを考えさせられる選挙でした。今後は、基地問題を中心に沖縄と政府与党との話し合いがもたれることでしょう。また、沖縄の低賃金と一緒に基地問題が話し合われることと思います。むしろ、直接沖縄は米国との話し合いや交流を通して打開策をさがした方がいいのかもしれないと思えました。
 基地と犯罪や墜落事故などを解決するスタートラインが引き継がれた形になったということでしょう。


<笑い>
青年と老人が笑う
少年と青年が笑う
幼児と老人が笑う
世代を超えた笑いが聞こえると
耳をすまして聞いている

そんな時代がなつかしい

人によって笑う音も大きさも場所も
ちがっても
笑いがはこぶつながりに
ぼくたちは立ち止まって
笑えた…だろうか

ゆっくりあとから
ふと、最後に笑える自分であればいい




【武蔵境:JR中央線】
 この駅には、子どもが誕生してから世話になっている。近くには日赤病院もあり、ぼくたちが子どもと一緒に暮らしていた町でもあった。幼稚園、小学校を通じてたくさんの人たちと知り合いになったところでもある。今でもいちばん利用している駅である。昔、駅の近くには「開かずの踏切」があった。一度電車がくると踏切は10分以上あかないという踏切である。高架線になるまえはこの踏切には多くの自動車の運転士は悩まされたと思う。歩いている人はそれほど苦にはならなかったが、いつの間にか不便を解消するためにできた道路は広く、車の多い危険な場所になったかのように思う。
 車のための道路になっただけある。歩行者は依然として同じ。
 駅もローカル線の多摩川線にもすぐ乗れたのが、高架線になったは後は階段を上り下りする不便な駅になったように思う。三鷹に住んでいる知人は、この駅の出口の階段の通路が狭すぎるとよくいっていた。確かに、駅の大きさを考えれば「狭い」と思える駅は、不便を感じている日々である。

 駅から近くに、ぼくたち家族が一緒に暮らしたモルタル2階の長屋のようなアパートに住んでいた。このアパート時代がいちばんおもしろかったように思う。住んでいた人たちの全部の人たちの顔も思い出せるほど、このアパート住人には、お世話になった思い出がある。いつも会社にいくとき、子どもが学校に行くとき声をかけてくれた、おじいさん。植木栽培のうまかった人、母子家庭でもぐれずに頑張っていたおねさん。ここの住人達は大変お世話になったように思う。
 いまは取り壊され、住んでいた人たちはみんなバラバラになってしまった。よく声をかけてくれた老夫婦は息子が住む横浜に引っ越したと聞く。あるいは都会を離れて田舎に帰った子ども連れの夫婦もいた。母子家庭のおねえさんは、病気になって亡くなったときいている。

 あんな時代の人たちのようなきさくな、おもしろい人たちにその後はめぐりあった経験がないのが残念である。もう、二度とないのかもしれない。あんなに気さくに、お互いが貧しけれど、日々を励まし合っているような生活経験はきっと経験はできないのかもしれない。
 あの時代あった人たちの「同窓会」があったりしたら面白いだろうなあ。
 ぼくが年をとったということは、お世話になった住人達はもういないのかもしれない。
 ときどき、通過するだけの駅になってしまったこの駅を降りて歩く時がある。住んでいた時代のなつかしい顔が浮かぶ場所でもある。わずらわしいと思う人とのつながりをここでは楽しく思えた場所だった。なぜ、そうれができたのかのかなあ…と思う。
 駅はかがやているが、人のつながりはますます錆びていってるような日々があることに気づく駅だろうか。




 今月、6月の「過給分」の返納が終わる。思えば、年金支給開始の2カ月前のことであった。
 ぼくの誕生日が5月なので、年金支給手続きをしたのだった。年金は「偶数日」なので8月からである。5月の給料がこれまでの額のままだった。出向先に月の半ばごろ電話があって「過給分を返納してください」と。「再雇用契約」書とおりにするとの連絡があった。
 「おー、まってくれ」と返事をして、担当者に経緯をきいてなんとも間抜けなことをやったなと思いつつ「返納予定」を作ったのだった。ぼくが、勤めておよそ三十数年は経つが初めてのこと。こんな間抜けなことは初めてだった。さっそく、部長殿が「始末書」を書いて持ってきた。出すところが違うだろうと思いつつ預かったのだった。

 これまで会社の仕事でのミスはしてお客に迷惑をかけたこともあるが、「被害者」となったことはなかった。それも暮らしにかかわること。冗談に「忘れてくれないか…とか、見なかったことにしたら…」といったが、真剣になっていたのでこちらも、そう向き合うしかなかった。
 パソコンのホームページで「返納の仕方」を検索し、「返納計画書」を書いて、この予定で返却を実施するから了解してほしいと伝えたのだった。(担当者にはすまないが、ミスをおかした分、こちらの申しれをのんでもらうしかなかった。

 とはいえ、「再雇用契約書」を再度読みかけしてみると確かに給料に関しては「誕生日…」となっていた。そして、賃金の部分には世にもおぞましい最低賃金が表記してあった。
 見れば見るほど、働きがいのない賃金額には、働くことの気力さえ失われるような数字であったことが記憶にあった。
 今年、国会で『働き方改革法案』 なるものが成立したことも思い出した。それによると、被雇用者(派遣・契約社員)に3年以降の雇用について記述がある。雇用先の正規社員にするか、派遣会社は新しい雇用先を紹介しなければならない…ということと理解している。さらには「同一労働・同一賃金」ということもある。

 ほんとうにこうなるのだろうか。
 先月読んだ『ガラパゴス』という小説では派遣社員が産業予備軍のように書かれていた。いわゆる「雇用の安全弁」であるかのようになっていることがわかる。いつの時代にはどうしても働こうとする予備をつくっておくのが資本主義の鉄則のようなものはまだまだ健在なのだろう。
本当に、正規社員にする気があるのだろうかという疑問はついてくる。事実「雇い止め」なるものが経営者から画策されているという新聞記事もある。そして「65歳定年制」さらには、「年金支給年齢を70歳に…」ともある。
 そして労働界を束ねる連合がその点があまり明確ではないようにも見えることである。

 こうしてみると、労働者は、「死ぬまで働かせる」ようにも見える社会ではないのだろうか。今度は、70歳まで年金を延ばそうとしている。その前にやることがあるだろう。ちゃんとした正規社員の増加や賃金や社会保障など、働く人が健康でいられるような労働時間の管理など…。あい変らず、長時間労働はなくならない。その長時間労働に歯止めとなっている残業代もなくそうとしているのだからあきれる規制緩和である…なにか逆行している労働政策があると思う。



 3連休も終わりです。どんな連休を送ったのでしょうか。
 ぼくは、この休みに今まではいていたR会社の靴の修理にちょっと人の多い吉祥寺にいってきました。靴は5年ほど前に市内のデパートで買ったもの。そのデパートのR社の靴屋さんに行こうかとして検索してらすでにお店が閉鎖していました。ということもあり、R社の一番の近いところということで吉祥寺にいったのでした。

 お店にいって修理を頼むと、金額がなんとバーゲンで二足変えるほどの額の見積もりに驚いてしまいました。それでも気に入っていた靴だったので依頼しました。出来あがるのは2ヵ月後だそうです。「混んでいるので…」とのことでした。
 そんなことを思いつつ、ぼくの生活も靴と同様に体も気持ちも修復しながら暮らしていることに気がつく日々です。それは、修復するために時間をどのようにつくっていくのかが毎日の目標となっているような気がします。靴であれば、何年後には修理することはわかります。おおよそ2年に一度の修復であれば、1ヵ月に1000円ずつ修理代をためることを考えたりすることが必要になってくるのでしょうかね…。いわゆる自己(生活必需品の)管理なのでしょう。
 これからますます必要性を考えた日でした。

 オシャレなんて考えたこともないのですが、でも人それぞれオシャレの形はちがうのでしょか。時々くみかかける、全身黒ずくめというのもオシャレなのでしょうかね。ぼくには、イタリアのムッソリーニ率いるファシストにしか思えませんが…。でも誰に迷惑をかけていないのですしいいのと思います。それぞれの、オシャレをそれぞれの個性でみせればいいのです。

 では今週はこの辺で失礼します。
 また、あしあたから11月号の雑誌の追い込みが2週間かけて始まりそうです。なんとも1ヵ月なんてあきれるくらい早いものです。まあ、できる範囲でやっていくしかないのでしょうかね。
うっかり昼寝などしていたら、くもり空の下では、寒さを感じる季節になってきたようです(だから冬は嫌いなのですが…)。
 温暖の差には気をつけてないといけませんね。
 連休の最後の日に、近所のアウトドアショップ(コロンビア)で通勤用帽子を買ってきました。今まで、着けていた帽子は汗だらけでしたのでとうとう替える時期になったようでした。つばの小さいものを購入したのでした。あー、これがオシャレ…っていうのでしょうかね。人とちょっと違うところがその人のオシャレなのかもしれませんネ。思い切って、なんていうわけではありませんが、明日から着けていこうと思います。気分がちょっとは違うかもね…。
 読んでくれた人、ありがとうございました。