こんにちは。
月日がたつのがはやいですね。
昼間の暖かさと朝夕の気温の差が少しずつ大きくなってきました。暑いと思いきや、帰りにはうす着では寒く感じることがあります。
10月も終わります。はやいー。とてもはやく感じられた10月でした。季節もゆっくりですが冬にむかって行っています。月末は、某月刊誌の締め切りに追われていてあわただしい毎日が2週間くらい続きます。読書をゆっくりという気持ちがわいてきません。どうにか、月刊誌が印刷所に送られたところで、「今月も終わった」という気になってきます。それだけまだ夢中になれるものがあることは、人生にとっても大事なことだと思います。それも、まがりなりにも仕事であるのですからけっこうなことだと思うのですが、日程がせまってこないとなかなか人の行動が活発にならない習性が悲しい限りですね。
さて「今月の本棚」はそんな仕事のメリットが見つけ出してくれた本です。
ときどき「書評」の載せていてその著者が紹介していた本でした。どこでどうめぐり会うのかわからない中で「書評」はひとつの目安となります。今回はよくいわれる「島原の乱」をあつかった小説でした。歴史書では資料となる子文書を参考に史実をたどっていますが、小説では史実はもちろん参考にしますがその中に史実の人物たちを登場させ「フィクション」にして言葉を語らせ、行動させています。今回の『出星前夜』という小説はそれが見事に描かれている小説でした。まさに、「きっとこんなことを言って行動していた」と思えるほど深い小説でした。もちろんかき手によって言葉がちがいますが、今回の小説では、とてもしっくりいく言葉が語られた人間がとてもよかったと思えます。そして、それが単なるその時代に起きたことではなく、今につながっていることを強く意識させてくれた小説もあったようにも思えます。今でも、登場人物と同じような人間はたくさんいることに気づかされることがよかったと思います。まさに、私たちに「人間の今を」問いつづける小説でもあったように思えます。
【内容】
寛永14年(1637)、突如として島原を襲った傷寒禍(伝染病)は、一帯の小児らの命を次々に奪い始めた。有家村の庄屋・鬼塚甚右衛門は旧知の医師・外崎恵舟を長崎から呼ぶが、代官所はあろうことかこの医師を追放。これに抗議して少年ら数十名が村外れの教会堂跡に立てこもった。
折しも代官所で火事が発生し、代官所はこれを少年らの仕業と決めつけ討伐に向かうが、逆に少年らの銃撃に遭って九人が死亡、四人が重傷を負った。
松倉家入封以来20年、いっさいの抵抗をしてこなかった旧キリシタンの土地で起こった、それは初めての武装蜂起だった‥‥。
結局は幕藩体制そのものに抗うことになる海民・土豪らの絶望的な戦いがここから始まる。向かう先は破滅にほかならなかったが、それでも彼らが戦うことを選んだのはなぜだったのか?(本紹介抜粋より)
「やっと終わった!」というのが第一印象です。横道にそれず、いつも持ち歩いたほど興味をいだかせる小説でした。それというのも、「島原の乱」といえば、キリシタン弾圧に信徒が幕府の政治の不満が爆発して一揆をおこしたというのがこれまでのぼくの解釈でした。ところが『出星前夜』という小説では、統治される代官・板垣重昌ら代官による悪政がその根本であることを考えさせられたからでした。年貢の取り立てなども水増しで徴収され、納められなければ田畑を耕して、家族同然の家畜などを没収するという横暴な政治を行なっていたということも政治もあるのでしょう。その結果、多くの子どもたちが栄養不足から病気が蔓延していても見ぬふりをして、自分たちの保身ばかりした代官所にも不満もあったようです。村民が、代官に抗議をしようものなら男、女、老人までも拷問で対抗しみせしめを多くの死者をつくったということでした。
この小説では、代官所の火事が発端になり、村人を代官所が取りしまり、その起因を村人のキリシタンがあるというこじつけによって、村民の不満が蜂起となります。少しずつ農民たちをまとめる豪農や元武士らがまとまって一大抗議をしたのが「反乱」となります。そのため統治していた代官でも鎮圧できずに、ついには江戸の幕府も加勢しなければならなくなったということが真実のようにも思えます。
歴史の多くは勝者よって残されるといいます。本当はどうだったのかは問わなければ応えてくれません。多くの資料を収集しまとめてやっと、人々の生活が浮かび上がってくるのが歴史です。実際の内容を掘り下げて人々の前に出てくることまず少ないでしょう。
とはいえ、今回の『出星前夜』の小説は、歴史というものがよくわかります。フィクションであるのはゆがめませんが、「きっとこう語っていたのかもしれない」と思えるところが蜂起を長くできた結果だったと思います。とくに圧巻なのは、原城に籠城した蜂起民らがいかに持久戦に耐えて戦ったのか。そして、掃討することを任務とした側がいかに攻めていくのかこと細かく書かれています。攻めるも守もそこにいた人々の「声や息づかい」があったようにも思えます。
小説を読み終えて、「反乱」という言葉でまとめてしまうのがなぜか無意味な気がします。人々は、どんな形であれ知恵をしぼって好い解決策を模索しているのだと思います。為政者は、一方定な「美辞麗句」で人を上手に政治のまないたにのせている時代が長く続いているように見えます。それでも抵抗をもって生きていく知恵をつくるものだと思えた小説でもあったのかもしれません。最後に、蜂起した人々が死を賭けてでも守ろうとしたものはいったい何であったのだろうかと思います。そんなことを思うと、「生命を賭して…」といっている今の政治家たちの保身の危うさ、いい加減さが島原を統治した板倉重昌の政事にあるのではないかということが浮びます。
例えば沖縄の「辺野古新基地建設」に反対する民衆の声が小説の蜂起する人々の声と共通するものがあるように思えたものでした。民衆がこれまで起きて事件や政府の横暴に共通した利害を持ち始めて政府与党の推す候補を次々と落選させた選挙をみると、まさに蜂起にちかいものが見えるように思えます。
こんな歴史小説が好きですねえ。
(少し引用が長くなってしまいましたが、それぞれの動きの方向を変えた引用だと思いましたので残しました)
【ピックアップ!】
■p40 彼(マグダレナ)は、日本に潜伏していた十八年間、文字とおり不眠不休の医療活動を続け、数えられぬほど多くの日本人を救ってきた。そのマグダレナが、同じ日本人に報奨銀目当てに密告され、日本人に処刑された。いったい彼はどこに、火あぶりによって処刑されなくてはならない罪があるのか。そもそも、彼がフランシスコ会の修道士であったことは事実だが、なぜあれほど捕り方が血眼になって彼をさがし回らなくてはならなかったのか。そして、凶悪な火付けや盗賊の類と同じ目に遭わされなくてはならないのか幕府の法とはいったい何なのか。
■p66 代官職にある者は任地に駐在せず、手代や下役任せにしているという松倉家のあきれた実施がはっきりとした。南目に派遣されているこれらの代官の手代たちは、おそらくいかに定められた年貢を厳密に徴収しうるかによって島原に住む代官から査定される。手代どもは、当然おのれの保身ばかりを考え、この数年の天候や不順や台風災害などによる民の困窮などは考慮する余裕もない。頭にあるのは代官の程島某からもらうおのれの俸禄をいかに維持するかだけである。
■p96 平左衛門に代替りしてから、キリシタンからみの密告者は一人の例外もなく逆に代官所白州で長崎追放を言い渡されるという奇妙なことが続いた。追放刑は、財産没収のうえ居住地を追放され市民としての権利の一切を剥奪される厳しい身分刑である。軽重を問わず追放刑に処された者は、町衆としてのすべての権利を剥奪され乞食同然の身となることを意味した。
■p103 まったく…法というものはやっかいなもので、一度江戸表の意思によって定まられれば、それによって甘い汁を吸える連中が都合のよいように一方的な拡大解釈をし、末端にはいたればこのような手の付けようもない猛威となって民の暮らしを直撃する。何よりやっかいなのは、松倉家のかかる搾取を放置してきた責務を追及していけば、とどのつまり上様の、ひいては徳川家三代の治世そのものが重大な欠陥をもっていることを指弾することにつながってしまうことです。
■p179 「…望むところだ。これまで、代官所の者たちがこの有家の地でわれらに何をしでかしてきたか。それを思い起こせ、松倉の糞侍どもに良き暮らしをさせるために、われらの糧を奪い、牛馬を奪い、そして傷寒を招き、大勢の朋輩や幼児の生命を奪った。抗う意思を示せばキリシタンの禁令に触れたとの口実を設け、雲山地獄や今村刑場に送り込み、酷たらしいやり方で片っ端から葬ってきた。あんな奴ばらに今さら何の情けも手加減も無用だ。容赦をするな。兎と比べれば的は大きく動きものろい。われらを小童とあなどり間抜け顔で参道をのこのこやって来る。」
■p187 下役ら小者や下男にとって、代官所火災の原因を童どもの仕業とする手代権之助の意向は極めて都合のよいものだった。…島原藩松倉家の財政は逼迫し、下役や下男などいつ暇を出されるかわかったものではなかった。ここで目立つ働きを挙げることで、おおれの存在を程島久太夫に強く印象付ける好機であるとの思いが強かった。
■p221 「…現在は目も当てられないほどの惨状に陥っているのでございます。確かに、天候には誰もがあらがえず、何人もなす術はございません。加えて颱風などの天候地異もございます。されど、お奉行様。何よりも大切なことは、民が天変地異に見舞われても、それを乗り切るだけの力を蓄えることのできる政事をまず行っていただくことでございます。」
■p279 「おそれながら申し上げます。そもそも、わたくしは、三年前までは課せられましたお年貢をまがりなりにもお納めして参りました。ところが、この二年の天候不良による凶作は、五反の田から樅米で五石、五分摺りに脱穀したしますれば、わずか二石五斗の米しか収穫できませんでした。一年間働きづめで八十八度の手入れを怠りなく務め、その結果が通年の半分にしかなりませんでした。わたくしのお納めすべき御年貢がその二石五斗でございますゆえ、すべて完納しました暁には、わたくしが食べる米はもちろん、翌年の種籾さえもなくなるのでございます。にもかかわらず、お番所からは、通年と変わらずの年貢割を当村に求められました。後ろにひかえておられますが甚右衛門様を始め庄屋衆の嘆願によりまして、翌年の種籾の分だけ何とか御免除いただきました。それでも五分摺り米二石をお納めすれば、わたしくしが食べる米が全くございません。結果としてこの二年で公納年貢都合一石の不足を生じることとあいなりました。それを理由にお番所の手代様は、わたくしどもの馬を未納年貢代わりとして連れ去りました。なんでも島原へ連れて行き、売り払って銀に替え、年貢代わりに収納させるとのことでした。
働き手の馬も奪われ、何より頼みとしておりました麦も、昨冬の暖かさでまた不作に終わりました。野良に出て骨をきしませて働き続けた結果がこの有様です。皆が飢え、この春よりも傷寒が流行り、幼き者から次々と死んでいく様を見るにつけ、いよいよわたくしは家を捨てる決心をいたしました。桜馬場の森のあります所は、教会堂が建てられるずっと以前より入り込めば俗世のすべてと縁切りになる場所でございます。古より無縁の地でございました。先々の望みなど抱きようもなく、桜馬場の教会堂跡へ出奔いたしました次第です」
■p399 怒った城下町の者たちまでが多数参入し、城下町に入るなり蜂起勢は二千を数えるほどにふくれあがった。勢いのままに白土町で江東寺を焼き打ちしたものを始とし、桜井寺も焼き払い、捕えられた僧侶は次々と血祭りに上げた。寿安が恐れていたとおり、最悪の事態が島原城下では引き起こされ始めていた。とくに貧しきものたちは日頃の鬱憤を晴らすべく暴動を開始した。城に避難した白土町の大家の戸口を破って入り込み、片っ端から略奪を始めた。そればかりか、綱をかけて大家を引き倒しそれに火を放ち始めた。
■p444 しかし、おのれもまた、彼らと同じく馬鹿だった。松倉家の苛政、そして、それにただ追随する鬼塚監物らの不甲斐なさ、それらを一切に対しい怒りに任せて抗うこと開始した。人が人として生きるだけの暮らしを奪うことは誰であれ許されない。それを力で押しつぶそうとする有家代官所の下役どもや松倉の糞侍どもには、死ぬまでア抗う意思を持っていた。目的は、勝倉家にせめて表高に見合う年貢に改めさせ、松倉領各村の民が飢餓に瀕するような出鱈目な政事を変えさせることだった。もちろん、それと引き換えにおのれが処刑されることはわかっていた。かつて年貢軽減を再三訴え出た父が、キリシタン宗の再興を企んだとして殺されたように、いかなる罪科をこしらえ上げられるようと受け入れる。初めはおのれの死を前提とした反抗だった。あの腐りきった暮らしを続け生き長らえるよりは、目的のために死ぬ方が、ずっと救われる思いがした。それらの寿安の思いが、結果として島原城下の惨状を招いた。寿安は、生きて島原城下の惨状をおのれの行動の結末として突きつけられることになった。
■p593 寛永十五年(一六三八)陰暦正月元旦、夜明け前、(略)原城跡に籠るキリシタンも、キリシタンでもない者たちも、二万七千余の誰もが共通して抱いていたただ一つ、人としてふさわしい死を迎えることにあった。その目的に向かってお互いの力を信じ合うという美徳が、その半月の形をした丘によみがえっていた。かつて雲仙の丘陵をめぐった修験が、山を仏体とし、登攀していくことによって、眼、耳、鼻、舌、身体の六根を清めたように、このたびの討伐軍との戦は、ひとつの険しい山であり、それぞれが我欲を捨ておのれを律して生きつくせるかを問う試練として存在していた。
■p694 この一大蜂起を引き起こした島原領主松倉勝家は、領地を召し上げられ、いずれ切腹もあるなどと噂されていた。だが、単に本名個人の怠慢と杜撰な藩政によって引き起こされたものではないことは、冷静に見わたす目さえ持っていれば明らかなことだった。恵舟も秀助も、蜂起直前の有家に出向き、そこで破壊された民の暮らしぶりをつぶさに見ていた。すべての原因は、大名を厳しく統制し、結果として民の暮らしぶりをつぶさに顧みない幕藩体制の欠陥にあった。
【JR大宮駅】草野球のみんなと食事をしたね
今の大宮駅は30~40年前に草野球のたびに立ち寄った駅でもあります。あの時代を思うと今の駅はものすごく変わったようです。駅前の静けさは消え、大都市並み(新宿駅のなか)にになりました。
最近では東武野田線での墓参りには乗り換えのため立ち寄るくらいになりました。
30年ほど前は、大宮から先の川越線の「指扇」という所で草野球の大会があり、チームメイトと応援団らと一緒によくいきました。春から夏にかけて日曜日を利用して試合でしたが、勝っても負けても駅うらにあった中華屋さんに立ち寄り食事をしました。試合はいつも2~3回戦までいくのですが、その先がいけません。練習も昼休みのキャッチボールくらいでは勝てるわけがありませんかね。それでも、楽しかったのは試合後のことが思い出されます。野球部の家族や部員以外の人の参加もあり楽しいひとときでした。その中華屋さんの名前は忘れてしまいましたが、ひと口餃子がとてもうまかったことを覚えています。アルコールも運転手以外はありました。ひと汗かいた後のビールがおいしかった!!。ボール一つでみんながワイワイできた時代があったとは、今思うと何とも不思議な景色に思えます。今の若い子たちは持っている物といえばいつもスマホですか…。
駅前は静かでした。いまや北への玄関口のような駅です。新幹線はとまるし、都心へでるのも電車の本数も多い。便利になりました。
でも、騒がしいのは駅前くらいなのでしょうか。今や、駅だけが突出しているようなところがあるような感じです。駅中の必要もないお店がところ狭しとあるのも考えものです。移動スペースがせまくなり、大きなリュックをもってあるく人が多いこのごろでは、狭いところもあるかと思います。
ぼくの仕事の1か月の仕事の忙しさ周期は、月の初めのほうは編集部のみなさんも気合がまだ入っていないようです。新聞編集だけの取材や資料集め、連絡などをボチボチやっているようです。ところが月の中ほどになると少しずつ月刊誌の担当記事がメールで静かに送られてきます。一夜明けでパソコンのメールをみると、全国から記事が集まっています。それを、整理(記事・写真など)したものをぼくのパソコンに送信してきます。まだまだ…と思って翌週には一夜明けると、赤字の原稿と記事が何本も入ってきます。こうなると、他人の仕事などにも目もくれず、著者に校正ゲラを送信するために仕事が始まるということになる月末です。
これがぼくの1カ月の仕事の周期のようです。
気がつけば、月末になっていることが多い日々です。いつまで出来るのだろうか…と思いつつ終わり月末となっているような気がします。
だからというわけではないが、月末くらいは休みを(有給休暇)とってのんびりしたいと思いますし、実行しているのが現在です。これは、また始まる1カ月への準備のようです。職場の正規社員にとっては迷惑かもれませんが、ぼくはそれらを考えないようにしています。
自分のことです。だれになんと言われても、言うほどに他人は何もしてくれない日々が職場ではわかってきました。まして、同年輩の人たちは次々にリタイヤしていくこの頃です。高齢者(再雇用)と正規社員との仕事の流し方について何も考えなければ、ぼくのやり方を今後続けていくしかないようです。自分の出来る範囲でやっていくしかにようです。時々、たずわっている仕事のよさをみつけつつやっていこうと思います。時々、出向先の方が楽しい気もします。
気がつけば月末です。そして今年もあとわずか…になっています。
いったいこれまで何が出来たのだろうかと自問自答するのもわずらわしいというのが正直なところでしょうか。それにしても、月日が過ぎるのははやいですねえ。年をとってそれが加速度的になったようにも感じます。
何かに追われているかのような日々でもあります。ちょっと立ち止まって…ということをと思いこのブログもあるような気がします。一週間の流れのなかで、自分がどんなことを考えたのかということを更新できているのかは疑問ですが、一部分だと思います。
今週から「読書週間」だそうです。ぼくが二十歳代ころの時代、通勤電車で読書をする景色を多くみていました。最近はスマホを見ている人が大半なようです。このスマホも混雑する電車の中では迷惑な時があります。満員電車のなか、鼻先に他人のスマホがあることも多くあります。それほどにしてみることがあるのでしょうかねえ…。スマホを見る前にやることがあるだろうと思うのですが、夢中になっているようになっています。それほど大事なことでもないような気がしますが…。
新聞社(毎日新聞)で16歳以上を対象に実施した読書世論調査では、32%が1カ月に本を読まなかったとの回答でした。「読まなくても生活に不自由しない」「インターネットやテレビなど他に面白いものがあった」というのが理由だとか。一方で、読書が禁じられたSF小説「華氏451度」で本の所持や読書が禁じられた社会を描いたものがありました。この小説を読むとメディアによる権力者の怖さがありました。情報を受け身になっているばかりで気がつけば「操作された情報」により自由な発想ができなくなっていくようなことが読みとれます。読書はちょっとめんどうで根気のいる作業です。それでも、何かを自分の気持ちを訴えるひとつの道具として考えてはいかがでしょうか。
読者のみなさんはいかがでしょうか。
本を読まなくても生きていけます。それは事実です。それでも本を読んでいて思うことは「世の中こんなこともあるのか…」ということを気づかされます。それがいいとか、悪いとかは読者が決めればいいことです。また、新しい出会いのようにも思えます。そんな出会いはもう一人の自分かもしれません。そんな気がします。
それでは今週はこの辺で失礼します。
「本棚」は引用が多くなってしまいました。お許し下さい。(資料としてあるのも事実です)そろそろ、山でも紅葉がはじまるころでしょうか。11月にはいったら山歩きにいってみたいと思案中です。
読んでくれた人、ありがとうございました。