こにちは。
桜が散り、今はハナミズキがきれいです。そして天気が快晴となれば少しずつ体が外へと向いていきます。日課でもある休日散歩をしていると軒下にツバメの巣がありました。ツバメが出たり入ったりと忙しく飛んでいるようすをみると春になったんだな、と思います。多摩川では多くのスポー好きがボールを追いかけていました。やっぱり若い人の動きはぼくの比ではありません。どこまでも飛んでいくボールを追いかけてはスポーツを楽しんでいました。身も心もちょっとは冬の時よりも軽くなったように感じる季節ですかね。そして、町中では市議会選挙の「最後のお願い」の連呼が多く聞こえていました。小さな町ですから、散歩の歩く道筋には次々に宣伝カーにあう休日でした。みんな、必死なのでしょうね。だれもが失業者にはなりたくありませんから。
【政治はいったいどこから来て、どこへいくのでしょうか】
町角にこだまする候補者の「最後のお願い」という言葉をきく1週間でした。自分が住んでいる町にどんな政治家がいるのか理解できる週でもありました。40人ほどの候補者がところ狭しと宣伝カーでやってきては、これまでの自慢のようなことばかりを訴えていました。地方議会の選挙でっすから、なかなか新聞のニュースになりません。こんな時くらいしかなじみがないのも正直なところです。国会議員のニュースは新聞でよく読みますが、地方議会まではニュースにならないことが現実です。18歳から選挙権が持てたとしても、実際のところそれほど「政治」という言葉は教科書の中くらいにしか出てこないのでは思います。
それでも自分たちの住んでいる町の環境や福祉などを決めているのはその土地の議会なのです。この時ばかりは、無視することもできません。本当は、地方自治という言葉が生かされれば、沖縄の基地問題などもいい方向にむいていくのでしょうね。小さくても、「住んでいる町は住んでいる人が決める」ということがいちばんなのでは思います。
「政治っていったいなんだ?」と、(この時期くらい)思うことがあります。そして浮かぶのは『猿の惑星』というSF映画です。宇宙船になった主人公が迷って辿りついた惑星。そこでは猿たちが議会をつくり惑星の将来について多くを語っていました。そして、多数派をにぎる議員たちの政治をみみることができます。自分たちの都合のいいようにするために過去を隠す議員(権力者)。そして、本当に目指さなければいけない政治を作ろうとする議員(少数派)の物語がありました。その攻防が人間社会そのものにも見えました。まだあります。
『スミス都へ行く』という映画です。議員の突然の死によって、その代理として議会に送られて行ったスミス。政治の世界はまったくの素人だった彼が、少年たちのために法案を作りそれを提出したのですが、その法案が取り上げるべき少年のためのキャンプ場にはすでにダム計画が持ち上がっていたのでした。それも、資本家に牛耳られた議員も多数、自分の保身のために賛成側にまわっていたのでした。そのやり方の異議をとなえたスミスは、あらゆる手段によって妨害されます。新聞社も抱き込んだ資本家のやりたい放題によってうちのめされます。それも、資本家がスミス議員はキャンプ計画によって私利私欲のためにやられたというでっち上げによってです。しかし、スミスは、政治は本当に必要としている人のためにあるはずだと自分の汚名をはらそうと議会で自分の政治信条を延々と語ります。「辞めるべき私ではない」という信条をもって徹夜をして弁明します。政治は一人のためにあるのではない・・・。当たり前のことを当たり前として通ることが大事ではないかということを語ります。この映画をみていると、本当に政治が必要としているのは一握りのひとたちではないということがよくわかります。そういう政治が、この国に希望を育てるのだということを確信をもって伝えます。
要は住民から集めた税金の使い方について議論するのが「政治」でもあるように見えます。そのお金がどう使われるのか、誰がどのように使うのか、そしてそれが誰のためになるのか・・・。その中で議論されることが、政治のモラルであり、人びとのルールとも言えるのではないのしょうか。それも、誰もが将来に希望が持てることが大事です。
それぞれの利益の代表と政治家が一緒になって政治を行うのが国会でしょうか。ぼくにとっていちばん注目しているものでは、例えば、年金を減らす政治が賛成できません。生活が危うくなるからです。そうしたら、今度は政治は「働き方改革」というのをつくって、「年金を減らす分どこかで働きなさい」という政策が出てきました。これでは、今まで期待していた政治ではないのではと思います。減らす部分を間違えているとも思えます。どこまで人をばかにしている議会なのかとも思います。(個人的に思いますが・・・)
小さな町の選挙とあなどってはいけません。これが、国の政治の基本の形をつくっていることが現実だからです。とくに今の政権には強く言いたいところです。労働力を確保するために、少子高齢化がすべての理由になっているような政治ではこの先、もっと暮らしずらくなっていくのことでしょうかね。政治を仕事にする人たちには、もっと働きやすい環境をつくってほしいものです。非正規だとか正規だとかのない仕組みが基本にあってほしい社会を目指してほしいものです。
まちにまった10連休・・・、と喜んでいる人がきっと多いのでしょうか。でも、正直なところ素直に喜べないのが現実といったところでしょうかね。職場では連日「仕事の前倒し」がある。これには、まいった。ぼくの老体にはきつい日々が待っていた。なにが一番きついかといえば時間に追われることだろうか。ただでさえスピード・効率化とは無縁の異動になってやっていた仕事がハイスピードを要求され、追われる日々になっているかのようになっていた。
さらに、「後期高齢者雇用促進法」で65歳まで再雇用されている人はまだいい。65歳以上で働いているアルバイトは10連休をどうするのだろうか。他人事ではない。身じかにそいう人もいる。
5年ほど前、4月は千代田区で働いていた。会社の帰り道に新入社員らしき若者の姿を多く見かけたものでした。楽しそうでもあり、大変そうでもあったあの光景は今の場所では見なくなった。見るのは、派遣社員の団体や非正規社員であろう人たちだ。働くことには変わりはないのだろうが、正規と非正規では生活基盤の安定感がちがうことは、これまでのニュースなので多く語られてきたところだろう。それでも、非正規社員が増え続けるのはいったい何の理由があるのだろうか。
これまで、なんにつけ「価値観の多様化」ということばを多くいわれてきた。それでは正社員、非正規社員の選択もあるだろうと考えていた。それは、それでよかった。ところが、社内の従業員が正規社員より非正規社員の数が多くなってから、「なんか変だ・・・」と思うようになった。会社内の事情があるにせよ、ちゃんとしている会社にしたければ正規社員としてあげないといけいなのではないかと思った。それは、仕事に対するモチベーションがちがうだろうし、事故や病気になった場合、会社の対応も違うのだろう。それだけ、会社は従業員に対する責任は思いだろうし、簡単に解雇できなくなるはずだと考えている。
4月が始まったと思いきや、5月の連休に突き進んいるような日々です。
巷では新しいスーツを着込んだネクタイ姿の新入社員を団体を多く見る季節なのだろうか。ところ変わればではで、今の会社でははスーツ姿の若者より作業服をきた人を多くみかけるようになった。ビジネス街ではなく工場や倉庫が多い地域だからだろう。トラックがばかりが目立つ道路でもある。
新聞を読んでいたら、朝日新聞の『天声人語』の記事に「初任給」のコラムが載っていた。そういえば、40年くらい前にぼくも「初任給」をもらったのだろう。コラムでは「初任給」を誰のために使いましたか、という内容だった。ぼくの場合、誰のためではなく自分のためにだけ使っていたのだろうと思う。東京で独身で働きに出ていくようになって食べることだけが楽しい日々でもあった。また、会社に入社してたくさんの人にめぐり会ったことが楽しかった。。職場もよく会話もはずんでいた(今とはぜんぜんちがうなあ)。
新しい生活をしていくことがこれほど楽しいということを自覚させてくれたのも会社だったのだろう。そんなことをきっと感じていたのでしょう。いまとなっては、一緒に働いていた人もほとんどいなくなりました。亡くなった人もいます。
労働組組合でも地域の集まりでもそれぞれの意見があったのだろうと思います。
ときは流れて、今の人たちとは労働組合のことも職場のこともほとんど話さなくなりました。これでいいのだろうかと思いつつ日々を送っています。
「平成」もカウントダウンの時期です。ぼくにとって、平成の時代に働いたのがいちばん長かったのだろう。とてもいい時代とはいえないが、若さがこれを補っていたのだろうか、「令和」となるであろう5月のことを考えるといまよりはずっとましだったかもしれない。なにがよかったかといえば、「どうにか働いていれば生活できる」という気持ちを持たせて働かせてくれた時代だった思います。そして、これからは「働けど働けどわが暮らし楽になたず」のという気がします。それは、きっと若者が元気になっていないからだろうと思います。忖度ではなく、一緒に痛みを分け合う仲間がいないからでしょうか・・・。それを作る環境もなくなっていく時代になりつつあるからでしょうか。
また明日から連休前の追い込みが始まります。とはいえ、結局出来る範囲はきまっています。あとは、どうにかなるのでしょうか。
読んでくれた人、ありがとうございました。
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