こんにちは。
はやいもので4月も半ばです。桜は寒いせいもあるせいでしょうか。今日くらいまではみごろでしょう。あとはお天気でかでしょうか。休日によく行く多摩川の散歩道の桜はまだまだ見ごろでした。そして、人がたくさん出かけていました。天気のいい日は、寒くもなく暑くもなく、この時期がいちばんいいのかもしれませんね。ツバメの巣作りが始まってもいました。足元にはテントウムシなども動き始めていました。ときどき寒さはもどりますが、自然は少しずつ春本番にむかっているように見えます。この時期は生命の躍動感をつくずく目にすることもできます。
さて今週はどんな週だったでしょうか。気になるニュースを2つ。
自民党政治家・桜田義孝五輪相が辞任(東京/4/11)
桜田義孝五輪相(69)=衆院千葉8区は10夜、閣僚を辞任した。東日本大震災の被災地を地盤とする自民党衆院議員パーティーで議員を「復興以上に大事」と述べるなど、不適切な発言が相次いだ責任を取る必要があると判断した。道路整備を巡る「忖度」発言で事実上更迭された塚田一郎元国土交通副大臣に続く政権メンバーの辞任。21日投開票の衆院大阪12区、沖縄3区両候補補欠選挙を控える安倍政権に打撃となる。後任には鈴木俊一元五輪相(衆院岩手2区選出)を充てる方針だ(4月11日東京新聞)。
これまで、大臣の発言はたた問題にされてきました。それでも。今回の桜田五輪相のような人はけっこういたのだろうと思います。そしてどれも、その発言に責任をもっている人だから問題になることを自覚していないことです。昨年では、五輪経費を1500億円のところ「1500円」と間違えたり、五輪選手候補だった水泳の池江瑠璃花子選手の病気では「がっかりした」といっていた。参院内閣委での宮城県石巻(いしのまき)を「いしまき」と連発。さして道路整備での議員を「復興以上に大事」ととどめをさした発言もあった。
どうしてこうなってしまったのだろうか・・・と頭をかかえるほど。それでも大臣辞職で終わろうとしている。まさに「トカゲのシッポ切り」状態だろうなあ。問題の本質は一議員の問題はなく、今の政権の問題があるのではないかと思うのは当然だろう。塚田一郎国土交通副大臣では、自分たちの利益誘導優先の発言をしていました。それを「忖度」だと言ってもいました。これは、「忖度」でもなく、政権の暴走している証拠ではないのだろうかと思えてしまう。こういうことが、「当たり前」になってしまいようなことが一番不安を覚えます。こんなことが常態化すれば「こんなものだろう」と考えるようになることが怖いです。そして、こんな議員に税金を納めていることに不満を覚えますよ。野党はこの発言の「元凶は安倍政権にある」ということで首相の任命責任を問いたいとしています。まさに、権力の長期政権はくさるということをつくずく思う出来事です。
漫才師・ケーシー高峰さん死去(東京/4/11)
「医事漫談」で知られたタレントのケーシー高峰(本名・門脇貞夫)さんが8日午後3時30分ごろ、肺気腫のため福島県いわき市の病院で死去した。85歳だった。山形県出身。漫才家として活動後、1968年に米医療ドラマ「ベン・ケーシー」と憧れの高峰秀子さんにちなんだ現在の芸名に改め、漫談家に。日本大医学部で学んだ経験を基に、聴診器を持った白衣姿で医学情報を楽しく語る医事漫談で人気を博し、「グラッチェ」「セニョール」などのせりふも流行語となった(東京/4/11)
ぼくが好きな漫才師は、「昭和ノイル・コイル」「てんぷくトリオ」「いくよくるよ」「サンドイッタマン」「中川家」「いとしこいし」などである。それぞれ、亡くなったりして今は聞けけない人ばかりになってきた。唯一お正月番組で一年に一度見ることもあるくらいだろうか・・・。ほとんど昭和の人たちだ。みんな子ども頃テレビをみていて笑っていた人たちだ。なにがそんなに人をいきつけるのかを深く考えたことはなかったが、きっとみんな時事ネタが少し入っていたりして、政治を笑ってしまって覚えさせてくれた人たちだったのではないかと思える。
そういえば、最近の漫才師は世の中の、とくに政治のネタが少なくなったような気がする。それどこころか漫才師で活躍していない人も多くなったように思う。漫才より出演料がいいのだろう。漫才師も生活があるから仕方のないことかもしれない。芸の世界を語った世阿弥の「風姿花伝・花伝書」という本がある。そこでは、芸人がいかに日々の芸に打ち込む覚悟を語っている。「一日休めば・・・、二日休めば・・・」ということを思い出す。要は、日々精進して芸を学ぶということなのだろう。そんなことを思うと、やはり大きな笑いの裏には芸の練習がきっとあるのだろう思う。そんななかケーシー高峰んさんの医事漫談は笑った。毎日の病気予防として、こういう人の話を聞いて、おおいに笑うことが大事だろ思います。生きている芸人はもっと笑える芸をと思う。
先週は友人のお通夜、告別式と流れるように終わった週でもあった。ぼくの日々でもある再雇用制度という身分で仕事が始まった。お客のクレームやら、都合やら、職場のイマヤミやら、という日常が始まった。そして、仕事の中に少しずつ寂寥感を小さくしていった。忘れることができない思い出やケンカの数々も日々小さくなっていくようだ。そんなか、ときどき訪れる寂しさもあることは事実なのだろう。ぼくと同じ共通点をもつ人がまた一人いなくなった・・・ということが残っていく。
齢を重ねてくるとどこが悪いというわけでもなく体の節々が痛み出していく。あるときは朝起きたときにとくに感じる痛みである。いろいろな人の老いをきくと、老いるということの第一は何らかの痛みと付きあう人生であるらしい。この痛みが老いに拍車をかけるように動きがにぶっていく原因であるらしい。(事実、階段の昇り降りはいそぐことさえあきらめている)
とにかく、人の一生はいつかは終わるということは消せない事実だということだ。それでも生きたいという望みは持ちちつつ、明日がまた始まるだけだ。せめて、ひとときの楽しみもみつけながらさらに多くの苦労を試練として生きていくほかあるまいなあーと思う。明日は明日の風に吹かれて、今日は今日の風に吹かれながら「生老病死」という言葉が現実的になっていくことを体は教えてくれるだろう。
老いてずるさばかり身につけてきあただけではない自分を考えてまた明日から始めるしかないように思う。生きてる間は生活することを考え、行動していくしかないのだろう。身近の人の死が言葉にならずとも身をもって教えてくれた日々を思い出しながらいこう。
町行く選挙宣伝の広報車の声が聞こえはじまた日曜日だった。今日、市議選の告示日だったようだ。今年の選挙で目立っているのは立候補者が少ないということが報道されたいた。事実「無投票」という地域もあるという。候補者にとっては正直なところよかったと思っているのだろうか。それにしても、他人ごとのような選挙は、いずれ投票の付けは自分にかえってくることなのだといえる。いちばん、身近なのは今の国会(国政)だろうか。選んだ候補者が「辞任」してしまう結果になるのは、選んだ人にとっては悲しい出来事だろう。そして、そのつけは選んだ人以外にも及ぶ・・・というのがいちばん強烈に残る。ぼくは、今の政権与党のやりかたは、なんにつけ答えになっていない審議にはあ然とすることが多い。そして、有権者のことは置き去りにされて、国会議員の保身ばかりにはしっている政治がまかりとおる時代になっているようだ。
まあー軍事独裁政権とはなっていないということはいいが、それにしてもいまは独裁政権には変わりはないように見える。公明党も変わってしまった。今は政権にすがりついているだけの政党になってしまった感がある。そうぼくには見える。自民党と同じなのは宗教と政治が根っこで結びついているように見えることだ。
さて、ゴーレウデンウイークに突き進む日々が始まる。10連休のおかげで仕事がなんでもツメツメになっている。あまりうれしくもない休みだなーと感じている。再雇用も終わりアルバイトの人は囲まったなー・・・と言っていた。休みが欲しいが、ありすぎてもねえー。4月から「働き方改革」ということがいわれいる。いわれだしたと思いきや「残業代未払い企業」労基署より「是正勧告」を受けていた・・という新聞記事が多く読んだ。なんてえーことはない、ちっとも企業は労働者のための働き方は考えず「働かせ方改革」だという言葉が頭をよぎった。人口減少で労働力が少なくなって外国人を受け入れるために「入管法」もかえたけれど、外国人と一緒に働く職場の方はいっこうにかわろうとしていないじゃなのだろうか。
今週はこの辺で失礼します。あーまた体が痛い。今週も老いを感じながらはじめるだけだ。
読んでくれた人、ありがとうございました。
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