ぶらぶら人生

心の呟き

朝顔・昼顔・夕顔・夜顔

2010-08-22 | 身辺雑記
 <夜顔(よるがお)>という植物のことを知らなかった。
 今朝、NHKの「俳句」の時間に、<夜顔>の句が紹介された。
 <夜顔?>と、風情の乏しい花の名前に、(?_?)の思いであった。
 朝顔・昼顔・夕顔の次に、夜顔もあるの? と、思いながら、すぐ手近にある電子辞書(広辞苑)を引いた。

 <ヒルガオ科の蔓性多年草で、園芸上は一年草。熱帯アメリカの原産。茎を切ると白汁を出す。葉は心臓形で長さ10センチメートル余、時に3浅裂。夏、葉腋にアサガオ型で直径約15センチメートル、純白の数花をつけ、夕方開き香気を放つ。通称、夕顔(ウリ科のものとは別)。別称、夜会草。>

 辞書には、上記のように記してあった。

 私の知らない花らしい。さらにやっかいなことは、通称<夕顔>とあり、<夕顔>には「ウリ科のもの」を指す場合と、「ヒルガオ科の夜顔」を指す場合があるということだ。

 『歳時記』やインターネットで、<夕顔>と<夜顔>をさらに調べた。

 季語としては、<昼顔>と<夕顔>が夏の部、<朝顔>と<夜顔>が秋の部に属している。
 <夕顔>は、①ウリ科の一年草で、夏の夜に白色の合弁花を開き、果実は長楕円形か球形で大きい実となり、食用の干瓢となる。
       ②夜顔の通称。
 という、二面を持つ。

 私は結局、<夜顔>は勿論、<夕顔>も、言葉でしか知らなかったことになる。

 『源氏物語』の「夕顔」の巻から、勝手なイメージを抱き、夕方咲いて朝までの、はかない命の花として、また、朝顔や昼顔の類似の花として、思い描いていたに過ぎなかった。


 ふと、正岡子規の歌を思い出した。

   夕顔の棚つくらんと思へども秋まちがてぬ我いのちかも

 「夕顔の棚を作ろうと思うけれども、その夕顔の実がなる秋を待つこともむずかしい命であることよ」
 と、子規は詠っている。
 この歌の<夕顔>は、①を指すに違いない。
 棚は、当然、果実のためのものである。
 それなのに、私はただ、朝顔に似た夕顔のはかなげな花を想像するだけあった。
 子規は重篤の身で、果実を見るまでの余命を信じがたい思いを詠っているのだ。

 そういえば、清少納言の『枕草子』にも、<夕顔>のことが書き記してあったはずである。そう思いながら、ページを繰った。
 【67段】にそれは出ていた。
 <草の花は なでしこ。>で始まる文の後半に、次のように記されている。

 <夕顔は、花のかたちも朝顔に似て、いひつづけたるに、いとをかしかりぬべき花の姿に(注 朝顔夕顔と続けてよぶと、いかにも面白そうな花の姿に対して)、実のありさまこそ、いとくちおしけれ。……されど、なほ夕顔といふ名ばかりはをかし。>

 清少納言は、花を愛でつつ、あの実はよろしくないと言っているのだ。省略した部分には、せめてほうずきくらいの大きさであればいいのに、と言っている。
 『枕草子』の<夕顔>も、①である。

 本棚に『枕草子』を取り出しに行って、思いがけず、白洲正子(1910~1998)の随筆集『夕顔』があるのに気づいた。1993年の新潮社刊であるから、かなり以前に求めた本である。(写真)

               

 表題と同じ<夕顔>と題した随筆もあった。その冒頭に、

 <私は夕顔の花が好きなので、毎年育てている。夕方四時になるといっせいに開き、明け方にはしぼんでしまうが、次か次へ蕾をもっているので、八月の半ばころから霜が降りるころまで咲きつづける。名月の晩などは、そこはことない花が闇の中に浮き出て、えもいわれぬ風情である。>

 と記され、さらに名文が続いてゆく。
 霜のころまで花が咲くとあるので、これは②、つまり<夜顔>なのだろう。

 インターネットで調べたところ、<夜顔>は明治になって入ってきたものだという。
 したがって、枕草子や源氏物語の時代にはなかった植物である。

 白洲正子さんに倣って、私も来年は、<夜顔>(通称夕顔)を育ててみようかしら。元気があればの話だけれど。
 そして、名月の晩に、その花を眺めてみたい。


 今夕は、雲が広がっていたのに、今は雲が払われ、12夜くらいであろうか、ほぼ丸いお月さまが冴えている。            

        
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甲子園の高校野球が終わって

2010-08-21 | 身辺雑記
 高校野球の決勝戦をテレビで観戦した。
 東海大相模対興南の試合。
 点差はついたけれど、決勝戦らしい熱戦であった。
 沖縄代表の興南が、春に続いて頂点に立った。春夏連覇という偉業を成し遂げた。
 生易しいことではないはずなのに、選手たちの表情には、当たり前のことを成し遂げたかのような爽やかさがあった。
 ただ技だけでなく、精神の鍛えられたチームだった。
 そんな興南ナインの雰囲気は、南の島に吹き渡る爽やかな風のようであった。

 毎年のことだが、甲子園の優勝戦が済むと、夏が終わるのだと思う。
 今年は、まだまだ残暑が続きそうだけれど。

        × × × × × × × × × × × × 
 
 食べるつもりで買ったサツマイモが、よく芽を出してしまう。
 食材に使おうと手にとっては、あらあらまたやっちゃったなと思いながらも、嬉々として水を張った容器に移す。
 3日前に、水に浸したサツマイモが、芽を出した。(写真①)
 初めから外に置いたせいか、葉の勢いが違う。

 キッチンには、三か月くらい前と、ひと月前に育て始めたものがある。
 育てるといっても、ただ水を注ぐだけのことなのだが。
 日光が足りなかったらしく、葉緑素不足である。
 そこで外に出し、三つを並べてみた。(写真②)
    (左 三か月前のもの 中 3日前 右 ひと月前のもの)
       
        ①

        ②

         × × × × × × × × × × × × 

 下の写真は、今晩のお月様。
 日中は今日も暑い一日だったが、夜の庭に立って月を眺めていると、心身のほてりが冷まされる思いである。

       
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雨の名残り

2010-08-20 | 身辺雑記
 今朝、水遣りに出てみると、明け方に一雨あったらしく、庭木の葉に雨滴が残っていた。(写真)
 地下に浸透するほどの雨でなかったらしい。地面をみれば明らかであった。

 昨夜は、不安定なお天気だったのだろう。宵の月は眺められたのに、就寝前に再び空を仰いだときには雲が広がり、月影はなかった。

 今晩は、南よりの空に月が冴えている。メロン型のお月様である。


        

                 


 高校野球の準決勝をテレビで見た。二試合とも、好ゲームだった。
 甲子園も異常な暑さのようだ。炎天下での試合なので、選手たちは大変だ。連戦の疲れもあるだろう。特に一人で投げ抜いてきたピッチャーの疲労度は、格別であろうと思う。それでも、高校生たちの溌剌としてプレーは、晴れやかで明るい。
 頭脳と全身を使い、チームプレーする姿は、生き生きとして頼もしい。

 その高校野球の楽しみも、明日の決勝戦を残すのみとなった。

 森本哲郎著『日本語 表と裏』を読み始めた。
 日常、何気なく使っている言葉。その背景にある日本人の心が探られてゆく。例えば、「よろしく」「やっぱり」「虫がいい」etc。
 その面白さ。

 夕方、パソコンの<お気に入り>を開け、<茂木健一郎 クオリア日記>を読んだ。
 お盆前から暫く読んでいなかったらしい。
 文章を読んだ後、紹介された音楽を聴いた。
 次の2曲。
 一つは、ベッツィ&クリスの唄う『白い色は恋人の色』(北山修作詞・加藤和彦作曲)
 爽やかな歌声を、映像と共に楽しむことができた。 

 もう一曲は、グレン・グールドのピアノ演奏『バッハのゴルトベルク変奏曲』。
 グードルの演奏を、手の動きや表情を見ながら聴けるのはありがたい。

 夕方のひと時、<クオリア日記>を読んだお蔭で、思いがけずいい曲を耳にし、充足の時間を過ごすことができた。 
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今日は「俳句の日」「バイクの日」とか

2010-08-19 | 身辺雑記
 朝日新聞の<天声人語>で、今日は「俳句の日」であることを知った。
 
 <俳句の日ということで、まず涼やかな句を一つ。「冷麦に氷残りて鳴りにけり」篠原温亭>

 上記は、<天声人語>の一文である。さりげなく、俳句の日という語が出ており、「なに? 俳句の日?」と不審に思いながら、紙面上で、今日の日付を確かめた。
 なんだ語呂合わせか! と、感づいた。

 いつ、誰によって、設けられたのだろう?
 インターネットで調べてみた。

 <19992年に俳人で京都教育大学教授の坪内稔典さんの提唱で決まった>

 と、出ていた。

 日本人は、語呂合わせによって記念日を作るのが好きなようだ。
 今日は「バイクの日」でもあると知った。
 果たして、今夕7時のニュースで、バイク集団の映像を映し出していた。
 私が知らなかっただけで、「俳句の日」や「バイクの日」は、かなり流布しているらしい。


 今日の新聞は、俳人・森澄雄さん(91歳)の死も報じていた。
 昨年まで、37年間<読売俳壇>の選者をされた方である。
 今日の読売新聞<編集手帳>には、次の3句が引用されていた。
 名前は知りながら、句にはなじみがなかった。引用句を孫引きし、書き留めておこう。

    <除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり>
    <聖夜眠れり頚やはらかき幼な子は>
    <美しき落葉とならん願ひあり>

 
 気分転換に、午後の庭に下りてみた。
 残暑は厳しいけれど、我慢ならないほどではない。
 花壇の片隅でランタナは黄色く燃え、高い空に向かって背伸びしたノボタンの紫は、涼やかであった。


          ランタナ

          ノボタンと空 
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寿(ことほ)ぎの年

2010-08-18 | 身辺雑記
 王貞治氏のご母堂が108歳で亡くなられたと、今日の新聞が報じていた。
 長寿を全うされたわけだが、親族は深い悲しみに沈んでいらっしゃることだろう。

 新聞の記事から、108歳を<茶寿>と呼ぶ言い方のあることを、初めて知った。
 「茶」の字を解体して足し算すれば、なるほど108になる。

 古稀・喜寿・傘寿・米寿・卒寿・白寿は承知していたが、<茶寿>や<盤寿>(81歳。将棋盤のマスの数、9×9から)、<皇寿>(111歳。字画から)は、知らなかった。

 甲子園の高校野球が終盤(準々決勝)となり、ますます面白くなった。
 テレビで試合の様子をみながら、一方で、寿ぎの年を表す言葉を捜して遊んだ。
 辞書には出ていなかったが、95歳を<珍寿>という言い方もあるらしい。
 

        (添付写真は、近所の花壇に咲いていた白い桔梗。) 

        
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17日の夕月

2010-08-17 | 身辺雑記
 来訪の友人を送って外に出たところ、白い夕月が暮れ残る空にあった。(写真)
 7日くらいの月であろうか。
 これかは、月の満ちゆくのが夜ごとの楽しみだ。

 残暑の厳しい日が続いている。
 が、お盆過ぎの今は、地面を朱色に染める陽の色もどこか寂しく、急に増えた法師蝉の声には晩夏の趣があり、草むらに集(すだ)く虫の声には秋の気配がある。

 もう少しの辛抱と、猛暑が過ぎるのを心待ちするこの頃である。


       
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「使えるモノ」と「使うモノ」

2010-08-16 | 身辺雑記
 昨日の朝日新聞<くらし考>に、坂岡洋子さんの「老前整理」についての考え方が語られていた。
 時、すでに遅しか、と思いつつ、なるほどと納得した。

 <「老前整理」なぜ必要?> (横見出し)
 <気力・体力あるうちに 「使うモノ」判断 今後の生き方考えて> (縦見出し)

 確かに、「使えるモノ」と「使うモノ」とは違う。
 私の身辺が、心地よい状態に片づかないのは、「使うモノ」以上に、「(使わないが)使えるモノ」にあふれているからなのだ。

 気力も体力も、すでに衰えてはいるけれど、まだ自立できている間に、可能な限り、「老前」ならぬ「死前」のために、できるだけあふれる「使えるモノ」から「使うモノ」の選別を心がけたいと思う。

 坂岡洋子さんによれば、
 <一度にやろうと思わない。完璧を目指さない。…>
 <一度に片づけようと思わず、毎日15分ずつでも、こつこつと続ける>
 ことが大事なのだそうだ。

 道理は分かっているのに、今までできなかった私に、果たして実践できるかどうか?
 現在、「使うモノ」ではないのに、捨てがたく増えすぎているモノといえば、衣類、食器類、私個人にとっての想い出の品々、ということになりそうだ。
 
 まずは、永らく開けたこともない引き出しの点検や片づけから始めてみることにしよう。

 
         (添付写真は、自然生えの撫子)

       
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8月の庭 (梢高く…)

2010-08-15 | 草花舎の四季
 今日、草花舎に行って、昼食をいただいた。
 先日、マグカップを求めた下和弘さんの器で、もう一つ欲しいものがあった。やや小型のドンブリ二つ。
 それを早く入手したい思いもあって。

 下さんの陶芸は、ひとつとして同じものがない。
 先日求めたマグカップもそうだが、ひとり暮らしでも、人と飲食可能なように、二つは欲しい。
 選んだのが、下の二つ。(写真)
 下手な写真での紹介より、実物は遥かに魅力的だ。
 シンプルな器もい好きだが、夢のいっぱい詰まった器も楽しい。

        

        


 窓越しに庭を眺める。8月の庭は、一面の緑である。

         

 庭を歩くと、高い梢に、ピンクの百日紅が咲いていた。
 裏庭には、純白の木槿も、高い梢に。

         百日紅

         木槿

 Tちゃん特製のケーキをいただいて帰った。(写真)
 人参に干し葡萄に……植物繊維も、たくさん入っているとのことだ。
 「栄養たっぷりですよ」
 と、Tちゃん。

 空腹時にいただくことにしよう。         

        
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来訪の子どもたち

2010-08-14 | 身辺雑記
 日常と少し異なる生活をすると、すぐ疲れる。
 12日は、業者に入ってもらって、窓拭きなどの清掃。
 13日は、墓参。

 今朝は遅い朝食をとった後、さっさと活動を開始することができないまま、点差のついた高校野球<北大津対前橋商>をぼんやり見ていた。
 呼び鈴が鳴った。
 お化粧もしていない日に限って…と思いながら、インターホンをのぞくと、熊本から帰ってきた姪たち一家だった。
 
 姪夫婦と男の子二人。高二と小三。それに、昨日一緒に墓参した、甥の子・小五の少女も一緒だった。
 急に、家の中が賑わいだ。

 ひとり特別目立つのは、小三の坊やである。
 他の4人と、どこか雰囲気が違う。
 大人と子ども、といった違いだろうか?
 小五の少女だって子どもなのだが、坊やとは違う。
 坊やが、いつも輪の中心にいて、物事が進行する。

 大人はコーヒー、子どもはアップルジュースと、私が勝手に決めていたところ、
 「ぼく、お茶」
 と、坊や。
 自己主張は、一人前である。

 一昨日、岡山の友達から、見事なピオーネとマスカットが届いた。(写真)
 そのピオーネを大皿に盛って出した。パイナップルも別皿に載せて。
 黙々と、葡萄やパイナップルに手を伸ばすのも、坊や。
 そして、「お腹いっぱい!」と、満足そうだった。

 テレビは、高校野球を放映していた。
 「島根の代表、負けたでしょ」
 と姪。
 「そう、逆転負け。……どこに負けたのだったかしら?」
 と、私が頭を傾げると、即座に答えたのも、坊や。
 「仙台育英」
 そうだった。数日前に見た試合なのに、私はもう忘れていた。
 「柊ちゃん、よく覚えてるね」
 と、感心する。
 「記憶の、小さな引出しが多いらしく、くだらんことまで、いっぱい詰まっとるとね」
 と、姪は熊本弁で言いつつ、笑っている。
 坊やの記憶の装置が、ちょっと羨ましい。

 小五の少女が、机の上にあった、私の算盤をはじき始めると、坊やの関心もたちまち算盤に移る。珠はじきはまだ幼い。
 少女は、昨年、学校で算盤を習ったという。今は、小四で習うことになっているらしい。
 姪夫婦や高ニの子ども時代には、学校で算盤を習わなかったという。
 最近になって復活したのだろうか。

 小学校の時代に、幅広くいろんなことを学ぶのはいいことだと思う。
 基盤は、狭く深くより、浅く広い方がいい。
 
 「また、お正月に…」
 と、挨拶できるのは、高ニの兄の方であった。

      
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墓参

2010-08-13 | 身辺雑記
 今年は、例年より一日早く、お墓参りをした。
 横浜から帰省した姪たちの都合で。
 お盆で、人の動きが激しく、希望どおりに航空券を入手できなかったらしい。

 私は、妹夫婦の車に乗せてもらって墓参した。
 甥の一家は別の車でお墓に向かった。
 亡き兄の一家とは三保三隅駅で待ち合わせ、11人での墓参となった。

 墓所は父の故郷、山よりの僻邑の地にあり、車で片道30分以上かかる。
 不便なこともあって、墓参は、春秋のお彼岸とお盆だけにしている。
 
 墓地の夏草は、きれいに刈り込まれていた。
 長い間、お墓に近い家の方が墓守をしてくださっていた。
 が、年老いて不自由な身体になられたので、今は、業者に託して、墓地周辺の草刈りなどをしてもらっている。

 全山、蝉時雨に満ちていた。ツクツクホーシの声が主流となっている。
 法師蝉は、夏の凋落を告げる蝉である。その声を聞くだけで、<秋近し>の思いに浸れるのが嬉しい。
 田圃の稲穂も色づき始めていた。
 リョウブだろうか、白い穂状の花が山肌に目立つ。
 クサギも沿道に多い。花が咲いているから、それと分かるのだけれど。
 すでに盛りを過ぎ、少々疲れ気味にみえる。

 11人の集いは久々だったが、それぞれの都合もあり、墓所での立ち話だけで別れた。
 いつもは、私の家に立ち寄り、お茶を飲んで帰る妹夫婦や甥たちも、家の前で私を下ろすと、そのまま帰っていった。
 お盆休みで、熊本から姪たちが帰ってくるという。


 裏庭に置いたプランターの中に、自然生えの朝顔が、花を一つつけた。(写真①)
 ごく平凡な藍色の花である。
 栄養不良のような、脆弱な茎に咲いた貴重な花である。

 写真②③は、三つの鉢に咲いた今朝の朝顔である。
 眺める角度を変えては、花を楽しんでいる。 


      ①

              ②

      ③
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