昨年の12月26日の読売新聞<時の余白に>欄に、編集委員 芥川喜好氏の文章・<人生の明るい午後へ>が、掲載されていた。
その記事を読んで、宮迫千鶴さんの死後、五冊目となる本『人生の午後を生きる』(写真)の出版されたことを知った。
この本について、
<一度かぎりの生における「午後の時間」の幸福感、充足感、いとおしさが、繰り返し語られています。>
と、芥川喜好氏は述べておられる。
芥川喜好氏の絵画評の炯眼に感動し、氏の編集された画集を求めたのは、かなり昔のことである。
その中に、宮迫千鶴さんの絵も載っていたけれど、童画のような明るい絵だなと、とりわけ感動もなく見過ごしてきた。
宮迫千鶴さんを意識したのは、絵画ではなく、エッセイの方であった。彼女の生き方が帯津良一氏の著書に登場し、関心を持ったのだ。
人と人との交わりにも、不思議な縁があるように、本との出会いにも、思いがけない縁がある。
帯津氏の著作に接しなければ、宮迫さんにも出会うことはなかったのだろう。
宮廻千鶴さんの本をパソコンで探し、三冊の本を取り寄せたのは、昨年のいつであったか?
今回も、新聞記事の紹介を読んで早速注文した。
私にとっては、宮迫千鶴さんの、4冊目の本ということになる。
暮れにも拘らず、注文の本は、思いの外早く届いた。
しかし、入手後はページを恣意にめくるだけで、そのまま日を経てしまった。
今日は、その本を読み終えた。
この本は、宮迫千鶴さん(1947~2008)の死後に出版された本だが、その内容は、宮迫さんの50歳代の文章である。
<このところ、私たち夫婦(注 ご主人は画家の谷川晃一氏)の友人や知人がつぎつぎと大きな病気になって倒れたり、亡くなったりする。最初はあれこれとショックだったが、私の人生もそういう年代になったのだと思えば、不思議な落ち着きが生まれた。五十代とというのは、立派な人生の後半、別の言葉を使えば「人生の午後」なのだ。
……略……
だが、私はできるだけ自然に存在していたいと考えるので、ホルモン療法(注 更年期治療法「女性ホルモン補充療法」のこと)はしていない。もちろん人並みにあれこれ数え上げればいくつもの「不調」はある。
しかし私の場合の特効薬は「これからの人生の午後を楽しもうという気持ち」がわいてきたことだ。友人や知人の病気や死を眺めていると、ますます午後の人生を楽しんで生きようと思う。もうどうあがいたって、失われた若さや体力、気力、記憶力、持続力は二度と返ってこないけれど、「人生を楽しむ」には別の「力」があればいい。
たとえば「平静な気持ち」や「他人の苦しみへの共感」「人生のささやかな魅力を感じる能力」「かなりのことを笑ってやり過ごせるようになったこと」。そういったことは、このシワやタルミ、腰痛や白髪などと引き換えに得たなかなかの力だ。>(<リンドバーグ夫人と「人生の午後」の楽しみ>より)
なかなか宮迫千鶴さんのようには達観できず、くよくよすることの多い私だが、考え方としては、十分共感することができる。
引用の数行に限らず、大方は納得のいく考え方である。
私の<人生の午後>は、もはや落日の時期も過ぎ、薄暗い黄昏時である。
若い日々、心身ともに強健だと思い込むことのできなかった私は、60ぐらいまで生きられたら立派なことだと思っていた。
定年まで働くことをせず、早く辞職した理由の一つには、自由な残生を楽しみたいという気持ちがあった。
ところが、私の予想は全く狂い、やがて喜寿を迎えようとしている。
不思議な気もする。
果たして喜ぶべきことかどうかも、よく分からないけれど、生きている以上は、ここまで生きられた運命を甘受して、とにかく一日一日を楽しんで生きようと、今は考えている。
どういうわけか、小学校、中学校、高校、大学と、それぞれの時代の、最も親しかった友と、私は40歳になるまでに永訣した。四人とも、外見的には私より元気な人だったのだが…。
私の諦観的な人生観は、そうした友人との決別が遠因となっているのかもしれない。
しかし、生きながらえた私は、その後の人生において、また新たな友人を得て、この「いま」を生きているのだから、幸せなことである。
ただ、私は「明日」を考えることは苦手で、さしあたり「いま」をという思いの強さは、宮迫さんと同じである。
「いま」を充足することで、結果的に残生が豊かさにつながればいいと考える。
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お正月に私の読んだ朝日新聞・読売新聞は、いずれも、2010年は<国民読書年>であることを紹介していた。(追記 朝日新聞では11日の<社説>でも、取り上げている。)
私は、<国民読書年>について知らなかった。
パソコンで調べて、平成20年の6月に、定められたものだと知った。
ことさら、そういう<年>を設けて意識化しなくてはならないほど、読書離れが広がっているということなのだろう。
私自身は、比較的活字に接している方だとは思う。が、仕事に追われていた時代に比べれば、暇はあるにもかかわらず、読書量は減っている。老化現象であろう。
完読をせず、読みかけのままになっている本が多い。
<読書年>にふさわしい読書とはならないだろうけれど、できるだけ完読の満足感を得られるようにしたい。