「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20080527

2008-05-27 | 矮小布団圧縮袋

○244赤坂BLITZラスト盛会皆様乙です(いいのか?この表現は><)。土屋さんゲストは多分メンバーのそっち関係だろう。毎回ってことはないと思うけど、下手に毎回おいでいただいたら、実に目的が244よかそっちに移動してしまうわい(すまん)、と、Duran Duranが3人の頃の氏の飛び入りを見た筆者より(笑)。しかし様々な意味で「まだ旅の途中」て感じなのかと思う。個人的には自分の中で244はcomposerとしては自分の中で完全に好きと一致する音色とかフレーズとかと少し違うので、vocalistとしての期待でLIVEに臨んでおり、それは本質的には1998年の横アリで初めて歌を聴いた時からずっとそうなのだが。でも地方会場遠征で多少箱の変化もついて、バンドの表現の懐みたいなのは固定タンクよか面白くなったんじゃなかろうか。と広島では感じた。ともかく色々つよしも「思えば遠くに来たもんだ」。それから10年もたっていたのかと気づいて驚く。それでも土屋さんを見たときから数えりゃ20年だから比べりゃ大したこたない(爆)
 その場その場で全力で対応する、という行き方もあろうが、やっぱり何らかの通底する感覚や蓄積や学習っつもんが人間にはあろうというものだ。いつまでも無邪気な子供でいられるわけじゃないし、それどころか、子供の時から不幸にも傷を死ぬほど負っているのに無邪気なフリをしなければいけないという二重三重の心の傷が、本来無傷ならスムーズに働くはずの学習能力そのものを激しく阻害するらしいからな。だから反抗期も喧嘩も無かった優等生ってのは傷を抱えてて大変で、小さいうちから素直に情調を吐き出せる不良の子より、二倍三倍屈折した長い道のりを遠回りして苦労して学習し直さないといかんという所以。を、本で読んでいる。あ、今日のは以前読んだ本のネタ本的なところでアリス・ミラーの「才能ある子のドラマ」の方ね。なに、「音楽と人」に限らず、なんのことはない、一般論にすぎない。

 最近はつくづく、「人に喜ばれること」は、「人に褒められること」とは、違う、ということを、思う。「人も自分も喜ぶ」感覚を、身の丈で了解したい。逆にどんなに褒められようが、それは本当の心の喜びではない、ということはある。だから、自分の心が素直に感じるものには向かうし、そうでないものには無理には向かわない。無理することはないのだ。でも、多くの人々はそこが麻痺していて、鈍っているらしいということを、いろいろなところで見かける。情動を阻害するものは何なのか。何が強迫的なのか。運動神経の良い悪いともあんまり関係ないみたいだし。もうちょっと基本的なレベルで、あらゆる問題でこれは考えた方がよいことのように思う。

 25日、半ば強制的に「表へ出ろ」的に、4~5名の先輩の温泉行に急遽参加。列車や車に乗せられて、窓から広い筑後平野を見た。
 涙が出そうになった。
 こんなに毎日、真っ暗な中をどぶねずみのように這って、動き回って、メールが着信するたびに心臓ばくばくして、返事送って、緊急連絡と対策会議を連続して、会社と自宅と出張先を挨拶して回っていたのに。頭の中が理論武装でぐるぐるしていたのに。文献を引いて原稿の前で悩み続けていたのに。

 世界ってこんなに美しかったんだ。
 晴れた空も新緑の山も川も。芽吹く田畑も。本当なら、5月って、そういう季節の自然なんだよな。そんなことも考えずに気づかずに。死んじゃう人だっている。もう死にそうな気分になっちゃいそうなくらい辛くなってることもある。どうして人間って、自分の狭い視野しか見えなくなっちゃう動物なんだろう。賢いんだか愚かなんだか。

 (…日帰り温泉は最高でした。)

 今日は夕方の会議の途中でメールが来て、終わってすぐ「祝画」いただきました。㌧です。(←いいのか?この表現も?画伯に対して)
 ちなみに解答の下に、「…ギギの腕輪が無い」って書いたのは、わたくしです(だって、無いと、変身も生命維持もできないじゃん)。すいません。…悪かったよ。リアルタイム世代で(笑)。(20080527)
コメント    この記事についてブログを書く
« 20080524 | トップ | 20080530 »

コメントを投稿