脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Dum spiro, spero(息をする限り希望を持つ)

2020-05-31 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。
入ったらアルコールで手と指先、靴の裏を消毒してください。またジムではガイドラインを参考に行動してください。

Dum spiro, spero(息をする限り希望を持つ)
ディズニー映画のアラジンの主題歌の歌詞がいい。聞いていて感動をおぼえた。物語は昔のアラビアの話、当時は女性であったために意見を言う事が出来ず、また商品のように扱われる、ジャスミンの気持ちが書かれた歌、単純だけど力強い表現だ、日本語訳をのせるので歌詞の内容を知って、聴いたら勇気がもらえると思う。
当時の中東は女性の地位はひくかった、人口調査で数を数える時も女性は人数に入れられなかったし、社会では「女はだまっとれ」と言うような女性蔑視の掟がいくつも定められていた。この歌詞の中の「聞いているだけで、黙ってろ」と言うのは女性に向けられたもので、それは聖書やイスラム教の経典に書かれている掟である。このジャスミンの気持ちを表現した歌詞にはそういう背景がある。
これは特にある世代から上の話だが、日本人の男は女に言われるとすごく傷つく、女性に言われなれていない人間が多いと思う。しかしアメリカ社会、所謂欧米は男女平等、女性もはっきりと意見を言う。私の友人ジウンも韓国系アメリカ人だ、顔も東洋人だし、髪の毛を後ろでくくって、お姉さん的な気づかいのある韓国人だと思っていたら、はっきりと物を言うし、時には間違った価値観を正されて、彼女には議論でけちょんけちょんにやられたのだが、私は彼女のおかげで女性にはっきりと意見されたり、ぼろくそ言われたりする免疫ができたと思う。彼女曰く私は適応能力の高い生物みたいだと言っていたが、彼女のおかげで女性を尊敬することができた。
今までは女性は弱いから守ってあげなくてはと妄想していたが、しかしそれは違う、私は異国の地で彼女に助けられることが多かった、そして私を成長させてくれたのもジウンある。
私は基本的に暴力がその社会やコミュニティを支配したら、男性中心の世界になると思っている。事実争いごとの多い、中東世界はそうであったし、そうでないと国や部族が滅んでしまう、一夫多妻制と言うのも戦争で夫をなくした女性を助けるためのもの、当時争いごとの世界の目で見れば合理的かもしれないが、しかし今は21世紀、そういう考え方は通用しない。単純に言うがコミュニティにおいては暴力をなくすことが、女性を生き生きと活動させやすい環境をつくることだと信じている。うちのクラブで暴力を徹底排除するのは、まさにそういう理由である。

日本人の女性は優秀だ、だから例えそういう世代の人間が圧力をかけてきてももっと自分の意見を主張したらいいと思う。それだけではない、例えばいじめや運動クラブで不当な扱いをうけたり、人権を侵害されて深く傷ついた時もそうだ、おかしいとか自分が正しいと感じたら、自分ががまんしたらいいとか、言っても無駄だなんていわずに思い切り主張したらいい、黙っていたら前には進まない、こういう差別的な問題は上が変えるのではなく、ひとりびとりの主張が間違った問題をかえていくのだ、そういう意味ではこの歌詞はすごく励みになる、そこには一人の女性が当時の差別と闘う姿が描かれている、映画の背景を考えて、一度日本語訳を見てみたらいいだろう。

これは笑える話だが、私も事実女性が何か言ったらやっかいなことが多いので、黙っている方がベターだと思っていたが、しかし会議や会合などで、たいした学がないから、自分の話を有利にすすめるために、今日はみなさん難しい話よりも、腹を割って話ましょうと言うおっさん、こういう人間がSpeechlessやろ。


Naomi Scott - Speechless (from Aladdin) (Official Video)

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Speechless

2020-05-30 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。
入ったらアルコールで手と指先、靴の裏を消毒してください。またジムではガイドラインを参考に行動してください。

うちの監督は人種的にはヨーロッパ系(UK?)、カナダで育ったケベックだそうだ。英語とフランス語を流暢に話す、そして彼が専門の学術関連の言葉を理解する知的な人物である。実際競技者としてのボクシングの経験がそれほどないので指導はジョージやアレンがおこなっていたが、しかし彼の影響は大きく、彼チームをしっかりと管理してくれたおかげで楽しく、充実した、自分にとって意味のあるボクシングができたと思う。そういうわけだからここで育った人間は卒業後にビジネスで成功をおさめたり、それなりに成功していった人間も少なくはない、そこではボクシングだけではない、我々が生きていく上で必要な哲学とか知恵そして大事なことが学べたと思う、私がボクシングをたかだかボクシングされどボクシングと言うのは彼の影響によるものだ。彼曰くボクシングはジェントルマンがたしなむスポーツだそうだ、そういった時私は「えっ」と思って彼の顔をみたが、理由はホームズが競技していたと言う単純な理由である。そのシャーロックホームズは誰もが知っている探偵小説である。ドラマを見ていたらわかるが、そこで使われる英語は英国社会の上流階級で使われる表現である。表現はソフトで鼻にかかったような話し方をする、わかりやすくいえば少しフランス語チックな話し方、三島由紀夫が話す英語もまさにそれである。

英語は今の時代は話せたほうがいいと言うか、英語だけではなく3か国語が当たり前の時代になってきている。私が思う語学を理解できる一番のアドバンテージは、多面的なものの考え方ができること、そして多くの人と会話できることである。事実言葉をおぼえて違う文化にふれたら考えさせられること、そして改めさせられることも多い。最近ではかなり考え方もかわってきているし、日本人は勤勉でまじめそして誠実であるから評判もよくなってきているが、当時私が目からうろこだったのはボランティアに対する考え方だ。日本ではボランティア=犠牲みたいな感じがあって、そんな何の得にもならないことを誰がやるかなんて思っていたのだが、しかし外国の人はむしろそこから得るものが多いと考えて自発的に参加していく、ボランティアに対してはすごく積極的であることに驚いた。実際私もクリスマスシーズンに病床の人たちのところにプレゼントをもってお見舞いに行くと言うボランティアに参加したことがあるが、うまく表現できないのでこんなことを言って迷うが、何かテンションが違う、友人の医師がERで研修した時に、まわりのテンションがすごく高かったと言っていたが、その感覚に少し近いのだろうか、おそらく彼ら彼女らは責任感をもってここに来ている、人によっては生き生きと活動をしていたのだが、そこがボランティアに参加しました程度の私との大きな違いである。
実際に日本をはなれて違う文化にふれることは考え方の幅をひろげる上では大事なことで、そういった体験が物事を考えたり、判断する時のものさしになるのだ。
先日未だに競技者をもののように扱う、スポーツ指導者についてふれた。聞いててはきけがするのだが、実際顔をたたいたりしたら問題になるので、公にならないところでどなったり、けとばしたりするそうだが、微妙なさじ加減でうまく、競技者をさげずんだり、痛めつけたりする、そういうことをする人間は気が小さいからいいわけをきちんと考えている、少なくともそれぐらいのことでは大問題にならないように、時には相手の家族構成や立場などを考えて行動しているからたちがわるい、むしろ陰湿な分だけ深く傷つくだろうが、こういうことをする世代と言うのはスポ根世代の体育会で育ってきた人が多いと思う。スポ根世代はスポーツにおける人権と言うものがどういうことかと言うことがわかっていない、そういう教育を受けていないのだと思っている。実際にそういう意地悪や暴力的なことをうけてきた人間に、その指導者は英語が話せないだろと聞いたら話せるはずがないと言っていたが、語学に疎いと言うものある程度共通して言えることである。
最近日本でもスポーツのハラスメントが問題になっていて、ガイドラインをつくるとか言っているが、しかし体験としてそれを受けていない人間たちが、換骨奪胎的にガイドラインをまねても機能しない、それは単なる何々するなと言うルールになるだけ、実際にそういうルールだけでははじめにあげた指導者のように、どうにでも人を傷つけたりできる、大事なのはそこに行って競技者がどういう扱いをうけているか、そして人権がどう守られているかと言うことをいいこともわるいことも含めて体験することである。競技者に英語や語学を勉強させると言うことは今の時代には必要なことだ、日本は競技者の人権がきちんと守られるにはまだまだ時間がかかりそうだが、最近はスポーツにおいて語学が重要視されるようになった時代、言葉をおぼえて実際に自分とは違う文化や場所にふれることで、ものの見方がかわり、そういう人間が大きく間違った部分を改革してくれるだろうと思う。

久しぶりの動画は私が好きな韓国人のシンガーだ、シンガーと言ってもコピーであるが、しかしコピーだけど、オリジナルになってきている、チンキーアイに黒髪で長い髪をくくる朝鮮民族スタイルは見ていてかっこいいと思う。英語圏の文化にあこがれて、それらしい格好としぐさでトレーニングしても言葉や文化がわからないそしてさらに自分の文化をしっかりともっていないと、それはサルまねだ、本人たちはかっこいいと思っていても見ていて非常にださい。しかし言葉や文化が理解出来て、かつ自分の文化に誇りを持っていたら、たとえそれがマネであってもオリジナルになるのだ。






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A Theory of Justice in MOB

2020-05-24 | Weblog
「Each person has an equal claim to a fully adequate scheme of basic rights and liberties, which scheme is compatible with the same scheme for all; and in this scheme the equal political liberties, and only those liberties, are to be guaranteed their fair value. 」A Theory of Justice(正義論 第一原理)

6月から通常通りのスケジュールとなる。高知はかなり落ち着いてきたようだが、しかしまだまだ気をぬいてはいけない。うちではアルコールや次亜塩素酸などでこまめに消毒をしているが、しかし一番重要なことは来てくれている人がどれだけまわりのことを気づかって行動してくれるかということである。私が何度も何度も常識がずれているので人とは違った行動をするDQNに対して、ジムには来るなと言っているのはそういう人間は常にあぶなっかしくていつ迷惑をかけられるかわからないからで、今この時期であるからそういう人間は絶対に受け入れないようにしたほうがいい、まじめに行動している人たちのためだからだ。
うちのクラブは暴力や暴言、とにかく女性や子供がこわがったり不快になったりするような行為はしないさせない。そしてもしそういう行為が繰り返されたら迷わずやめていただくことにしている。私がDQNとかやんちゃですを入会させないのは、こういう人間を入会させたら、まさに「悪貨は良貨を駆逐する」まともな人間がここでトレーニングしにくくなるからだ。そういう類の人間は少し一般では理解できない自分を正当化するための屁理屈を持っている。こんなこと普通はやったらだめだよということを無視して、独特の屁理屈で自分を正当化、しかも仲間たちも同じような思考回路をしているから固まると非常に厄介、彼ら彼女らの考え方は我々の理解をこえてそれでも不思議なことに共通として持っているので、もはやそれはDNAの問題ではないかと疑っているが、どんなことでも自分たちにだけ都合のいいようにしか物事を解釈しないので、こういうやつを一人でも入れたら仲間を集めて厄介なことになるので、絶対に入会させないようにしている。

うちのクラブのモットーは平等と言うこと、しかしその平等はそういう類のやつらが中心になって自分たちは楽しく自由にやらさせもらってまーすと言うような自分勝手な特定な人間たちから見た平等ではなく、ジェンダーや国籍そしてその人たちが持っている立場や考え方をよく考えて、そこから何が一番公平と言えるのかと言うことを考えた上での平等や公平である。ロールズの考え方に無知のベールと言う考え方がある。これは自分たちの利益ばかりを考えないで、おのおのがお互いの立場を考えて利益になるように平等性を考える、単純な言葉で述べると自分たちのことばかり考えないで、その自分勝手な考えをいったん置いといて互いの利益になるように考えましょうということである。

クラブが平等であるというのはそこに来た人間たちに好きなようにやらせる、放置状態と言うことではない。放置状態にしたらそれこそ力の強いものがそこでは中心になり、弱い人間は隅においやられる。そしてそこでもしトレーニングしたかったら、そういう類のやつらに気をつかわなくてはならない。まともに仕事をしてある程度社会的信用を得てきた人間よりも目立つことしか考えていない、それしかできない人間のほうがそこでは立場が上だというのはどう考えても不平等だ。なぜそこまでそんなやつらに気をつかわなくてはならないのかわからない。無知のベールをかけて見えてくるのは、自分たちのクラブでは誰が一番マイノリティか、そしてそのマイノリティを大事にすることがうちのクラブにとっては全体の益となり、平等性を導く結果となりうるということだ。自分たちの勝手をすてて、弱い存在、クラブに来ても自分はやっていけるだろうか、本当にやって大丈夫なのだろうかと言う存在が見えたならば、その存在を大事にすることが全体の益であり平和で、まわりに安心感を与えることができる、特に全体の知的レベルが高いと力ではなく、思いやりや尊重することによる平等や平和を求めるだろう。

目立ちたがり屋で血気盛んな奴らがいかにも自分たちこそがクラブのメンバーだと言うような振る舞いで、そのクラブの中心になるなんていうことはその群れの管理能力がひくいからだ。女性がいても平気で汗をまきちらして、しかも裸でトレーニングするなんて言うのは公共の場であってはならぬこと。本当に平等だと言うならば私はその群れで誰が一番マイノリティかと言うことを考えることが大事なことで、全体の益になると信じている。



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へたれ、びびりは大きなアドバンテージだ

2020-05-23 | Weblog
うちのクラブはヘタレ歓迎のジムだ、さらに運動音痴だと大歓迎である。一応格闘技をやっているのになんだと思われるかもしれないが、しかし私はむしろそういう人たちを集めたいと思っている。ボクシングとか格闘技は性質上DQNが集まりやすい。DQNが集まってけんかの話しややんちゃ話を自慢げに話す、そんな話は誰も聞きたくないのだが、そういうことでしかアドバンテージがとれないような人間が集まると、その群れはほぼ半グレの集団、それはその人たちの恰好や雰囲気を見たらわかる。うちのクラブはみなさんの雰囲気を見たらわかるが、普通の一般の社会人の集まりでカラフルな人はいない、男はおかたい職業の人が多いのでほぼ黒髪である。ジムなどではDQNが集まるとけんか話ややんちゃ話が自慢げに語られて、そういう経験をしている人間がアドバンテージをとるのだろうが、しかしうちにはやんちゃしてましたと言うのはほぼいないので、そういう話で盛り上がることはない。むしろそういう話を必要以上にすればういてしまうし、みじめなだけ、あまりに暴力的であると女性がこわがったり、まわりに不快な思いをさせたり、迷惑になるのでやめてもらう。
だいぶ前に会員の男性が高校生の時にからまれた話をしたら、俺も俺もとからまれた話で盛り上がっていたが、うちで話される武勇伝と言ったらかつあげされるのをどう回避したかという話で、その男性が得意がって話す様子に、横で聞いてて笑ってしまったが、しかし自分を大きく見せるために武勇伝ややんちゃ話を聞いてくれるからと必死で話して威嚇するようなDQNよりもよっぽど好感が持てる話だ。

うちのクラブは自称へたれやびびりジムであるが、しかしこんな時だからこそへたれやびびりのアドバンテージは発揮される。びびりだからコロナにかかってはいけないと思い切り慎重に行動するし、さらに人に迷惑をかけてしまったらとか、へたれやビビりはそういうシュミレーション能力が高いから普通以上に気をつけて行動してくれるし、自分の弱さがわかっているので、気づかいがある。へたれやびびりだから弱さがわかる弱さがわかるから協力することの大切さが見えてくるのだ。
迷惑をかけてはいけないと言う感覚が人よりもずれていて、ジムで何の気づかいもなく、本能のままにサンドバッグやミットをたたくようなDQNが多数であると、この時期にジムなどオープンしない。私がジムを再開できたのは、まず県の状況が安定してきたこと、必要な物資があること、そしてこれは一番重要なことだが、会員の人たちが常識ある人たちで、自己管理のできた人たちなので、よしこれだったらいけると思ったからだ。高知は落ち着いてきたようだが、しかしまだまだ気が抜ける状態ではない、これからもへたれ、びびり度をさらにアップさせてこの事態を乗り越えていきたい。こういう時期だからわかるが、へたれ、びびりは最大のアドバンテージだ。



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ガイドライン作成します

2020-05-19 | Weblog
よく学校の校則なんて必要ない、髪の毛の色を染めて何がいけないんだと言う人間がいるが、私は今この状況で改めて校則をきちんと守ってきた人とそうでない人の差を実感している。うちのクラブは全体的に進学校出身者が多く、まじめに生きてきた人たちだ、所謂やんちゃのぶるいではない、そういう人たちのほとんどは学校の校則や先生の言うことをしっかりと聞いてきた、そういう環境の中で学校生活を送ってきたと思う。そして私はあえてこういう事態であるからと言うことで言うが、ジムを運営していく上では彼ら彼女らのような人たちが大多数だと協力的で運営しやすい。協力的と言うのは仲間意識が強いと言うことではなく、私は感染者をださないようにしよう極力注意をしていることをよく理解してくれて、いろいろと配慮してくれるということである。さらに彼ら彼女らはこういう時に何をしてはいけないかとか、どう行動するかと言うセンスがあるので安心してジムを運営できる。おそらくそういったことは彼ら彼女らのまじめな態度や学校生活とは無関係ではないと思っている。
一方校則が守れないやんちゃですみたいな人間はどこかあぶなっかしい、迷惑をかけると言うセンサーが非常にずさん、私から見たら感覚がずれていて、非常に自分勝手、目に見えないところでも常に問題がくすぶっていて、私はこういう人間をたかだかボクシングごときできるぐらいで認めることはないだろうし、入会させない。それでも威嚇したり、おこったりして行動をおさえるようにしたらいいのだろうが、しかしここはあくまで社会人の集団だ、むしろここでは威嚇したり、どなったりするのはご法度である。

私が今考えているのはガイドライン作成することである。ジムに来たら検温してアルコールで手、特に指先を消毒してもらっているのだが、会員の人たちは気が利く人たちが多いので、そのほかにも使用後のグローブはどうしたらいいですかとか、聞かれることがあるので、そういったことをすべてまとめてジムに掲示する必要性を感じている。うちは比較的専門家の人が多いので、そういう人たちのアドバイスをもとに、ジムではこういうことに気をつけて、こういう行動をとってくださいというようなガイドラインを作成しようと思っているのだが、おそらくうちのジムの性質上ガイドラインを作成したらそれがうまく機能するのではないかと思っている。そんなことを言ってもすべては完璧ではない、コロナは現在防ぎようがないウイルスである。がしかしジムでの予防のためのガイドラインをはっきりさせることで、より一層コミュニティが機能して、まわりの安心感が高まり、トレーニングしやすくなるだろう。この先ガイドラインは必要となってくるだろう、早急に作成したいと思う。

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私の好きな歴史上の人物

2020-05-17 | Weblog
今日久しぶりにジムをオープン、なぜ土曜日にしたかと言うのは、平日だと他に行くところの選択肢がすくないので、ジムが混雑する、一発目からこの状態だと、迷いが生じてしまうのであえて休日の土曜日の5時からにした。その久しぶりのオープンはぼちぼちではなく、私が予想していた以上に忙しかった。やはり自粛のストレスがたまっているのだろう、でもみなさんが楽しくトレーニングする姿を見て開けてよかったと思った。

だいぶ前、後輩が私のことをセジョン的だと言っていた。セジョンと言うのは朝鮮の王様だが、彼曰く私は知的で容赦がない、その上何を考えているかわからないそうである。私は、うまくいうなあと感心したが、何を考えているかわからないと言うのは、私にしてみたら誉め言葉で、むしろ何を考えているかわかるような人間は何かを管理したりするにはふさわしくないとさえ思っているほどだ。私は人と話している時、違う言語で考えて答えを出すこともある。日本語で考えるよりも他の言語で考える方が本心を悟られにくい、そう考えて警戒する相手には違う言語で考えるようにしているのだ。
コミュニティを管理することは難しい、管理者の舵の取り方ひとつでそのコミュニティはまちがった方向に向かっていくだろうし、そのコミュニティが健全で正しい方向へと向かうためにはしっかりと自分の考え方を浸透させて、仲間ではなく、本当に正しい判断できる人たちの協力を得なくてはいけないからである。何々しろとか何々するなと言う安っぽい運動部のルールでは、それなりのレベルの人間しか集まってこないだろう、管理者はしっかりと学んで、そしてそこに来てくれている会員の人たちのためにクラブをよくするように努める。すべては自分ではなくここに来てくれている人たちのために考えて、実行する。ただ単に人あたりがいいとか、好かれると言うことではなく、時には厳しい判断も必要であるが、みなさんがここに来てよかったと思えるクラブにしたいと心から考えている。

話は再開の話にもどるが、正直この時期活動することに不安がないわけでもない。高知は感染者が出ていない状態で近隣の県も松山をのぞいてはここ最近感染者がゼロなので「よし行ける」と言う判断で再開したが、しかし私は同時に最悪のことも考えている。
私の好きな歴史上の人物にVercingétorix(ウェルキンゲトリクス)と言うガリアの部族の族長がいる。彼はガリア戦記によれば最もカエサルをくるしめたリーダーだと言われている非常に優秀で人望のある人物で、フランスの最初の英雄と言われているそうである。彼らはガリアに進行してくるカエサルと戦ったわけであるが、最初は勝利したり、相手を追い詰めたりもしたのだが、しかし最後はガリアの都市アレシアに追い詰められ、ローマ軍に包囲され、そこで部下達の保全を条件に降伏、投降し、そして、その後、ウェルキンゲトリクスはカエサルの凱旋式が行われた時に処刑されたそうである。
私はこの話に感銘を受けたのだが、その時戦いにまけて、すべてのものをうばわれて、処刑されるかもしれないと言う心境はどうであったか、また降伏する時になぜ命乞いせずに部下の保全を条件にしたのかということを深く考えた。そして私なりに考えて、こういう人を導き先導していく立場の人は最悪のことも考えてそれを受け入れる準備もしっかりとできていなくてはだめだ、そのためのシュミレーションとある程度覚悟して行動することが求められるんだと思ったのだが、管理者として大事なのは、何かあった時に俺はこんなことには負けないと言う気持ちよりも、その状況をどう受け入れるか、そして時には最悪の状況も考えて行動することだろう。
めちゃくちゃおおげさに聞こえるが、私はいつも最悪のことを考えている、前にも言ったがうちの会員の人たちは自分よりも相手に迷惑をかけたという気持ちがあるので、誰かが感染しまったらかなり落ち込むであろう、そしてその時、どう声をかけるか、そして人によって違うがいつかとか、そっとしていたほうが懸命だとか、そのことをメンタルトレーナーにアドバイスしてもらって、実際にすべての人に何をいつ伝えるかと言うシュミレーションができている。そしてもしそうなって矢面に立たされたとしても真摯な態度をくずさない、時がたてば冷静な目で見てくれる世間の人たちも出てくるだろう、そしてその時誠実な態度をとっていたら巻き返しは十分にできる、笑われるかもしれないがそこまで考えて私はクラブを運営しているのだ。腹をくくると言うけれども、もし最悪の事態を迎えて、先のことが見えてなかったら、正直腹などくくれない、ウェルキンゲトリクスは常にこういうことを考えていたのではないかと思っている。ガイウス・ユリウス・カエサルの言葉に有名な言葉がある。それは敵対するポンペイウスとの戦いの前、ルビコン川を渡る時に「Area Jacta Est!(サイは投げられた)」と言う言葉であるが、これはローマの喜劇のセリフであるそうだ。しかし物語は時には悲劇になりうる、私は何か行動を起こす時は必ず、後ろから考える、後ろから考えると言うのは最悪の事態を考えて、然るべき準備をすると言うことである。





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We owe Kids one.

2020-05-12 | Weblog
今日近くのショッピングセンターが営業を再開、朝型であるが小さい子供がマスクをしながらお母さんと買い物に来ていた。すごく楽しそうに歩いていたが、久しぶりに子供の笑顔が見れた様で少しほっとした。
私は府民でもないし、政治家の人にけちをつけるわけでもない、本当に為政者は今日本のために頑張ってくれていると心から思っている。
がしかし最近理解できないことがある。それは大阪府が医療関係者に20万円相当のクオカードを配ることだ。為政者が感謝の意味でと言う理由で、お金を配るのは権力の私物化ではないのか。私はなぜこういう時に給料が保障されている人たちにお金を配るのか理解できない。偉そうに言うが本当のリーダーシップは何も言わず黙ってその職務を全うさせることではないのか、意味のない気配りをしたり、よくやったからお金を配ると言うのはよくわからない。まず頑張ったと言う尺度があいまいだし、そんなことを言いだしたら他にも頑張っている人はたくさんいる、そうなると鶴の一声で頑張ったものを決められると言うのはある意味差別ではないのか。今必要なのは報酬ではなく保証だ、自粛させられて仕事もなくなり、疲弊して明日生きるのもたいへんな人もたくさんいる、忙しいけど仕事があって給料も保証されている人々に国があえて報酬を与えるのはある意味格差であると思う。

ドイツ語で仕事をあらわす言葉はberuf(ベルーフ)である。この言葉のもともとの意味は導かれるとか召されると言う意味である。宗教学的に言えば仕事は神によって与えられたもので、あなたが今ついている仕事はあなたが選んだものではなく、神によって与えられ、あなたはそこに召されと言うこと、もう少しわかりやすく言えば日本で言うところの天職である。少し失礼であるかもしれないが、仕事と言うのはまさに与えられたもので、我々はその与えられた自分の仕事を自発的に行いそれを全うしているに過ぎない。医療と言うのはプロフェッショナルな仕事である、その誰もができるわけでもないプロフェッショナル的な仕事を誇りをもってやっているのだから、そこになんら余計な気配りをする必要なんかない。むしろお金を配るのだったら心から労いの言葉をかけてあげたほうが私は正しい選択だと思う。20万円なんてすぐになくなるし、なくなればそれでおわりである、しかし本当に心からねぎらいの言葉をかけることでその言葉が職務を全うする上での支えになりうる、それがすべての人ではないとしてもひとりでもその言葉に感化されより一層職務に誇りが持てるとしたら、それはやがてひとりひとりと実をむすぶこともあるだろう。
日本の政治家は言葉のこわさを知っているが、しかし言葉の力を知らないと思う、こういう時日本の政治家は哲学を持っていないことがよくわかる。個人的にはそんなことよりも学校や保育園とか学童保育など子供のためにお金を使う方が納得がいく。医療関係者もたいへんだろうが、ウイルスによって笑顔を奪われた子供たちをもっともっと顧みてあげたらいい、小さい子供が遊びたいさかりに家の中でじっと自粛、それは我々が思った以上に大きなストレスであったと思う。私は本当に日本の子供が偉いと思うのはみんなそういうことがわかって協力して耐えているところである。先生や親に言われたことを素直に聞いて、やりたいことをおさえて行動することは小さな子供には大きなストレスである。さらにそれを支えるお母さんや保育園や学校、学童保育もそうである。今回本当に称賛されなくてはならないのは子供たちである。出口の見えない自粛生活を子供たちは何も言わずに大人と同じ行動をとって、この困難な時期をたえて、協力してくれていることは本当に心から称賛できることだと思う。日本人は哲学がないが、しかし教育レベルが高い民族だと言うことはこの子供たちを見たら理解できる。



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私は세종的人間

2020-05-11 | Weblog
最近パチンコや禁止されているところで集団でかたまってBBQをやる人間が問題視されている。よくインタビューで俺は誰にも迷惑はかけていないとか、自分で責任をとるとかいいとか言っているが、集団感染になったら責任などとれるわけがない。こういう人たちを見ていつも思うことは、人に迷惑をかけるということの考え方が我々と違う、私はこういうタイプの人間をDQNと言っているが、普通は特に日本人はなるべく人に迷惑をかけないように気をつかって生きているのだが、DQNはそういう感覚が希薄、行動が自分勝手、軽率である。私がこの手のタイプはコミュニティとして受け入れることができないというのは、感覚がずれているから人とは悪い意味で違った行動をとり、時にはそのずれた行動が全体の大迷惑になるからだ。
今のこの状況でそういう人間がひとりでもいたら大きな被害を私だけではなく、全体が被ることもありうるので、そういう人間は入会させないし、思い切り警戒している。

私自身育った環境があまりよくないので、その手の人間のことをよく理解しているが、問題は感覚が一般の人とかなりずれていること、それは環境から生まれるもので付き合う相手をかえて、まともな人間と付き合って刺激与えられたり、影響を受けなければ養われるものではないと思っている。DQNは距離が近い、仲間意識が強く、つながりが深い、距離が近いから平気で人にものを頼んできたり、お金の貸し借りも平気でする、しかしそうは言ってもそこにいない人の悪口を平気で言ったり、けなしたりする、そこまで言うのだったら付き合わなかったらいいじゃないかと思うのだが、それでも付き合いはやめれない、いわゆる彼ら彼女らはそういうべたべたした密な人間関係で生きているからだ。私はこういう人間を相手にしたら将来はないと思ってまじめに生きてきたわけだが、私の持論かも知れないが、本当にまともに生きたかったら教育をうけること、付き合う人間を選ぶこと、そしてそのコミュニティに入っていけるようにある程度の教養と正しい常識を身に着けることである。
正直まじめに机に座って人の話を聞いて、まじめに生きて来た人と、アウトローとかやんちゃですの常識は違う。そういうたぐいの人間は見栄と意味のない意地、仲間意識、同情、かばい合うことで生きている。こういう感覚で生きているとそれは時には世の中の害になることもあるのだが、格闘技のクラブと言うのはそういう人間を集めやすいので警戒している。大事なことはあいさつができるとか、ボクシングをやる気があるとか、人当たりがいいというようなことではない、その人が持っている感覚である、私の言う感覚と言うのはその人の持っている環境から生まれてくるもので、それはその人間のつきあっている相手を見たらわかることだ。私は何も聖人君主を求めているのではなく、普通の一般の感覚を持った人間がここで安心して楽しくトレーニング出来ることである。格闘技はDQNを集めやすい、そういう輩が集まってクラブが半グレの集団みたいにならないように暴力を徹底排除、われわれのように普通に生きてきた人間とは違う、ともすれば人に迷惑がかかるような人間を排除するのは当然クラブ側の権利であり、私はこのクラブにおっさんや女性がいつ来ても安心できる場所にしたいと考えている。




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政治学は専門ではないのであしからず

2020-05-09 | Weblog
実際経済活動を始めようと思ってもマスクはない、アルコール不足、非接触型体温計にいたっては手に入らない状態、売っていても高い、緊急事態なんだからこういう物資は政府が管理できないのかと思う。さらにマスクを莫大な税金で国民に配ると言っているが、そのマスクも未だ来ず、おそらくその間に多くの人が不当な金額でマスクをかうことを余儀なくされたと思う。大陸的な性格のわたしから見たら政府の決断の仕方は曖昧で、最近専門家と言う言葉を耳にするが、しかし優柔不断で決断力にかけるし、覚悟が伝わってこない、絆とか言っているけど、自粛自粛で疲弊困憊している国民にはそのメッセージは伝わらないであろう。業を煮やした各都道府県が独自の政策をとりはじめたころにやっと重い腰を動かして段階的に緊急事態宣言が解除されて、高知県もようやく経済活動ができるようになったわけだが、しかしまだまだ多くの人が今後の生活に不安を抱えていると思う。

緊急事態宣言が解除されても、ワクチンがない限り感染者が出て、また同じような事態になるうる可能性大だ。政府や自治体の方針にそって行動することは重要であるが、しかしさらにこれからも予測できる事態を予測して、自分たちで対策を練って感染者をださないように努めること、緊急事態宣言が解除されたから活動をはじめようではなく、ジムなりの方針と対策をしっかりとうちたてて再開することが必要、緊急事態宣言が解除されたからはじめますとしっかりと対策をうちたてて再開するのとでは大きな違いがあると思う。おおげさかもしれないが、私はここに来ている人の命をあずかっているのだ、私の舵のとりかたひとつでその人どころか家族にまで迷惑をかけてしまう、そういう責任の重さをしっかりと受け止めて、必要なものをしっかりとそろえて、これ以上活動するのはよくないと感じたら活動を休止する、さらにみなさんの理解と協力を求めて、この事態を乗り越えていきたいと思っている。
ここにドイツの首相メルケルの言葉がある「感染症の拡大は、私たちがいかに脆弱な存在で、他者の配慮ある行動に依存しているかを見せつけています。しかしそれは、結束した対応をとれば、互いを守り、力を与え合うことができるということでもあります。」
この言葉は彼女の演説からの一文であるが、私はこの演説を聞いた時、民主主義は単に制度の問題ではなくて、大事なのはひとりびとりの精神や気持ちの問題なんだ、人間は弱い、誰もが何か大きな支えを必要としている、だから国民が正しい知恵のある政治家を選ぶことは大事なことだと理解したのだが(しかしかならずしも私は彼女を支持するわけでもないが)、民主主義の強さは人間が協力し合って、結束して知恵を使ってものごとを解決していくことであり、それはまさにパスカルが言った「人間は考える葦である」、その葦の集合体である。トックヴィルは「アメリカの民主主義」の中でデモクラシーは多数者の支配だ、大事なのは民主主義の完成ではなく制限であると語っているが、しかし同時に民主主義はその大きな課題にぶち当たった時、意見を出し合って協力して、物事を解決していく結束する力が存在する。そしてその時必ず我々の命と人権が顧みられなくてはならないのだ。
メルケルは共同体と言うことをしきりに言うが、共同体において他人を救うことは自分を救うことである。もうそこまで説明する必要もないだろうが、相手を気づかうことは自分を気づかうことでもある。私がやらなくてはならないことは、もちろんジムで感染者を出さないように努力することだが、それと同時にここに来たら体温をはかったり、まわりを気づかうことで、今まで意識しなかった注意力が自然と高まり、そういう認識がその人の家族にも影響すること、それらのことが人と人とのつながりによって得ることができたらいいと思う。

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再開にあたっての宣言

2020-05-07 | Weblog
日本ではマスクが入手しにくいことで問題になっているが、しかしそれよりも入手困難なのは非接触型体温計である。私は3月の後半ぐらいに購入したが、届かず、しばらくして業者がばっくれたようなので、サポートセンターに伝えたら返金してもらえたが、おそらくcirculationがstagnantしてどうにもならない状況になっているのだろう。現在新しい業者から注文して届くのを待っている状態であるが、基本的に体温チェックは重要、特にうちのようなスポーツクラブは慎重に、ある程度徹底してことを運ばなくてはまわりが安心してこれないので、必要不可欠なものをそろえて、状況をよく考えて、「まあいいだろう」ではなく「よしこれだったら行ける」と言う判断でジムを再開したいと思う。
きれいごとではないが、私が再開にあたって第一に考えているのは、ここに来てくれている会員ひとりびとりの命と生活である。ボクシングと言うスポーツにおいて彼ら彼女らの命と生活を守るためにはどうしたらいいか、確かにジムでできる予防策としては私があげた必要な物資を十分にそろえることであるが、しかしこれだけでは限界がある。私が繰り返し繰り返し、時には厳しく辛辣な言葉で、注意を促しているのは私はここを本気で安全な場としたいからである。
当たり前だがコロナは100%ふせぎようがない、どんなに注意しても感染することもある厄介なウイルスである。しかしだからと言って予防をするのとしないのとでは差がある、私が人とは違うずれたことをするDQNのことをあげて、こういう行動は受け入れられないと言うのは、みなさんが気をつけてお互いを気をつかって行動しているのに、そういうDQNがひとりでもいるだけで感染率が上がると考えているからだ。
うちの会員のすべての人そしてトレーナーたちは私にとって特別な人たちだ、いろいろあるスポーツからあえてここを選んでくれたのだから、そのことには感謝してるし、そしてそれはもはやひとつのコミュニティだ。うちの会員の人たちは本当に家族を大事にしている、その会員の人たちのひとりびとりのつながりの中で相手の家族のことが見えてくるのだが、実際にジムに来るには家族の協力が必要だと言うことがわかる。中にはジムに来るのも子供が小さいので代わりに面倒を見てもらって時間をつくって来てくれる人もいるし、体調管理のために奥さんがとここを見つけて来てくれた人、そしてそれだけではなく、試合に行くことも家族の協力が必要だし、週何回かは夜時間をあけてくるのだから、そこにはみなさんの家族のひとりびとりの協力があり、その協力があるからこそ、こうして在籍してくれているのである。
コロナは100%ふせぎようがない、しかし私の舵のとりかた次第ではその大事なみなさんに迷惑がかかってしまう。おおげさのように聞こえるが、そういう意味ではここにいるみなさんの命を預かっているのだから、常に最悪の事態を考え、慎重に行動し、しっかりと責任の重さを考えて決断したいと思う。



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