脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

We wish you a happy new year!

2018-12-31 | Weblog

「我々のまわりには他者が存在し、我々は他者と何らかの関わり合いをもって存在している。個人としての人間は弱い存在であり、限界があるので、孤立した状態では自分自身の目的を達成することができない。もしも自分一人で生き、自分一人だけの力で問題に対処しようとすれば、死に絶えてしまうだろう。」これはアルフレッドアドラーの言葉で私の座右の銘の一つである。

11月ごろからフランス語を学んでいるがフランス語は発音の規則も多く複雑な語学である。基本的にアルファベットを使うが、フランス語のアルファベットの読み方はドイツ語やイタリア語とは少し違って独特である。私はラテン語とドイツ語を勉強したのでどちらかというとローマ字読みの言葉に慣れてしまっているので、フランス語のような独特の音の出し方にとまどうこともある。そういう中で気づかされるのはアルファベットというのは国によって発音の仕方がこうも違うのかということで、それはつづりが同じものであっても発音が違うと言うことでもある。ラテン語やドイツ語そしてフランス語がアルファベットの読み方が違うけれども、それぞれのアルファベットが集まって一つの単語をつくるようにうちのクラブに来ている人たちの目標もそれぞれちがうが、ひとりびとりがその相互関係の中で生かされ充実したジムワークを実感してもらいたいと思っている。そのためひとりびとりの個性を大事にそのひとひとりびとりがどうなっていくのかというベストな選択を描きつつしっかりとサポートしていきたいと思う。

今年もいろいろとまわりには助けられたと思う。できることとできないことの差がはげしいので決して能力があるとはいいがたいが、しかしここまでジムの雰囲気をよくし、みなさんが楽しくトレーニングできたのはまわりに支えられてきたからだと思っている。もう今日一日で2018年が終わり、2019年がやってくる。本当に今年はみなさんにお世話になったと思う。これからも感謝の気持ちを忘れずにみなさんに喜ばれるクラブを運営したいと思う。We wish you a happy new year! Bonne et heureuse année !(幸せでよいお年を)새해 복 많이 받으세요(たくさんの福をお受けください)また来年もよろしくお願いします。

今年最後は私が試合の前にリラックスさせるために聞いていたショパンのノクターンでしめくくりたいと思う。


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日本イムズ 外国人から見た日本のスポーツ

2018-12-26 | Weblog

在日韓国人の若い人に「君は自分を指すときどうさす」と聞いたら人差し指で自分の胸を指して自分と表現した。「なんや中途半端やなあ。韓国人は胸をたたいて俺って表現する。ここ(胸)で語って、ここでトレーニングするんや」と体育会のようなことを言ってしまったが私ははっきり言って日本人的ではない。どちらかというとものの考え方は大陸的で合理性を求める人間だ。その半分外国人で、外国でスポーツを経験してきた人間が最近日本人のスポーツに対する考え方で素晴らしいと感じることがある。

前に日本に来る中国や韓国人とはいいたくないが少数の韓国人の店のマナーがわるいのは、店側がやってはいけないことをしっかりと書かないからだ。書いていないことはやっていいとみなすのがそのマナーがわるいと言われている国の人たちの考え方、でも日本人はきちんとした道徳心を持っているので、おのずと何をしてはいけないのかということがわかっているからあえて非常識だと思うことは書く必要がないということを書いたと思う。スポーツにおいてもそれは同じ事が言える、やってはいけないこととやらなくてはいけないことをしっかりと理解して、その試合にのぞむのが日本のスポーツに対する考え方で、私はそれが日本人の持つ美意識だと思っている。特に日本人が反則が少ないのはルールを守るという性格だけではなく、反則などのやってはいけないことをするというのは一種の恥と受けとめているからだと思っている。ボクシングにしてもそうだが日本のスポーツにはそういう精神論がある。一生懸命トレーニングして、正々堂々と戦う。正々堂々戦うと言うのは反則のようにこれをやっては恥だということをしないで戦うことである。こんなみっもない戦い方はしないと競技者はよく言うが、そこが日本人の持つスポーツにおける美意識で、勝つことだけではなく勝負することに価値を見出そうとする。ゆえに日本人のスポーツに関する考え方は不可侵的なこともあって、それを土足で踏みにじると冒涜ともとられるのだ。

しかしアメリカには日本のような精神論はない。勝負事は勝つか負けるか、反則ぎりぎりでも自分のパフォーマンスを十分に発揮できればいい、日本のように恥の文化はなく、正々堂々と戦うというような考え方は日本人に比べて希薄であると思っている。私が書くことと言えば日本のスポーツの批判ばかりだが、しかしこういう精神論は十分評価されることであり、それを学校のクラブなどで実践しているから素晴らしいと思う。

 

 

 


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よくもまああんなこと言ったわ

2018-12-21 | Weblog

社会人選手権が宮崎で開催、佐藤代表率いる兵庫チームが健闘しているようです。その様子などはフェイスブックからも見れるのでみなさん応援してください。

こう見えて私も昔は競技者であった。もちろんトーナメントにも出たことがある。今考えたらはずかしい話だが私はこともあろうかトーナメントで優勝宣言をしたことがある。それはたいした大会ではなかったが、しかしそれでも5回ぐらいは勝たなくては優勝できないトーナメントだったのだが、私はそのトーナメントで「もし優勝できなければお前らの視界から消えてやる。I'll be gone」と言ったと思う。これを聞いて一同唖然としていたが、しかし私は本気であった。負けたら本当にそこから去るか、少なくともボクシングをやめる気持ちでいたことは確かなことであった。でもそういう意気込みでやったらトレーニングが変わる。何がかわるかというのは気持ちだ。まずシャドウなども実戦を想定するし、スパーなどは強い相手に打ち勝つぐらいでなと優勝できないと相手に求める基準が高くなる。アドレナリンのせいかどうかわからないが自分よりも強いと思われる相手とのスパーを望んで、とにかく上の次元を目指そうとする。おそらくそこまで気持ちを強く持たなくては我々のような凡人がいくらしょぼいトーナメントと言っても勝つことなんでできないと思う。そして実際才能のない凡人が一生懸命頑張ってとったしょぼいトーナメントの優勝、でも優勝したらいがいとあっけらかんとしたものだ。もらったトロフィーはほったらかしにしたら腕のところがおれていたので捨ててしまったし、メダルなんかもピーターにほれとあげてしまった。ここでなぜこういう話をするかというのは決してこれみよがしに自慢しているのではない。まわりもわかると思うけど私自身が今ボクシングにこだわっていないし、そんな学生時代のお遊びがすごいことなどとは決して思っていない。私が言いたいことそれは何事も過程が大事だと言うことである。少しえらそうに言わせてもらうと、本当に本気でやったらトロフィーとかメダルとかそんなものはどうでもよくなる。なぜなら自分が今までその試合に向けてやってきたことに嘘はないと言えるからである。

以下の分は私のブログからの抜粋である。

 「最初ここにきてパンチがあたらなかったので、悔しくて悔しくてずっとリングを見ていたら。ジョージが声をかけてきてくれたことではじまった彼と二人三脚で歩んだボクシング、そこそこ強豪のアメリカ人と対戦して勝った時は、単純だが、東洋人も彼ら彼女らと対等にやれると思ったし、メダルも取れた。そういった経験が私の中で自信になっていったことは確かである。けれども自分の実力なんて相対化されればされるほど小さくなっていく。そして一生懸命やればやるほど、自分の限界や現実を受けとめなくてはならない時があるのだ。人間は前に進むためには、時には大切なものを捨てなくてはいけない時もある。でもしかしその捨てたものが正しければ年とともに思い出となり、その人の年輪となる。それは決して今しがみつくものではないが、それが年をとって思い出となって自分の軌跡を振り返った時に、自分の生きてきたことはよかったんだと振り返ることができる。それが年を取ってからの人間の幅や自信になると思う。私は本当に向こうでは小さい存在であったと思う。そしていくら頑張っても認められることはなかった。そういう平凡なちっぽけな存在である。けれども一生懸命挑戦することで自分の軌跡をのこすことができた。そしてそのことを今振り返って後悔はない、それは私を語る上での本当の年輪になっていると思う。」

一生懸命トレーニングに励むと言うことは自分の価値を高めること、一生懸命努力するからこそ、すべてのことに意味をなすと思っている。たとえ大会で優勝してもそれはただの通過点、私なりに考えてやはり大事なのはどう引退するかということだ。そしてそのことは実績云々というよりも過程を大事にするからこそ、本当にボクシングをやってよかったと思えると思う。

 


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クリスマスシーズンのソウルで 즐거운 크리스마스를 보내세요

2018-12-21 | Weblog

クリスマスシーズンのソウルは寒い、それは耳がちぎれるんじゃないかと言うぐらいの寒さだ。韓国はキリスト教徒が多いのでクリスマスは休日、街のイルミネーションはかなりにぎやかである。クリスマスに久しぶりに会ったチング、韓国系アメリカ人で3か国語を流暢に話す。最初空港で会った時にはなんて話そうかなんて思っていたが、空港で私の姿を見つけてすぐに駆けよってきて「やあ久しぶり。元気にしてた」と、その後なぜかテハンノでプッチンゲを食べに行って彼女とはたくさんのことを話したが、それは昨日会ったかのように話すことができた。たぶん友達ってそんなもんだと思う。久しぶりに会って何を話していいのかなんてあれこれと思うことはない、友達は何年たっても何十年たっても普通に話せるから友達だ。そういえば昔、彼女とはたくさんのことを議論した。日韓の関係を話し合った時はこれで関係がおわるんじゃねえかと思うぐらいの激しい議論であった。そして時には傷つくこともあったし傷つけることもあったが、しかしそれでもそれは若さゆえに受け入れることができたし、何よりもそういう経験が若い時には必要であり、そういう経験を通してできた友達とはいつまでたってもかわらぬ関係でいれるのだろう。社会学者のジンメルは「若者の言うことは間違っているが主張することはただしい」と言っているが、若い時はたくさんのことをあれこれと議論することは大事なことだ。議論することだけが正しい生き方ではないが、しかしそういうモラトリアムには思い切り自分の存在を表現していくことも大事なことで、そういうことを主張し受け入れあっていくのは若いからこそできることであり、それはある意味若さゆえの特権であってもいいと思う。ラインやフェイスブックの返事が来るとか来ないとかそんなことはたいしたことではないだろう。私の意見ではそんなものをすぐかえすとかかえさないとかで悩んでいるようでは本当の友達とは言えない。本当の友達とは何年会わなかってもまた昨日会ったように話すことができる存在、そういう存在を私はチングと呼んでいる。

私がそのチングの影響を受けている。クリスマスには虐げられている子供や女性をおぼえてクラブの名前で募金しているのは、そのチングからたくさんのことを学んだからだ。まだまだ世の中には多くの子供や女性たちが幸せとは言えない状況の中にある。自分一人では何もすることはできないが、しかしせめてこのクリスマスにはMTオリーブフィットネスボクシングクラブを通してそう言う人たちのことをおぼえたいと思う。

今日あげた曲は中国語の曲を韓国人が歌っているのだが、ハワイはアジア人が多いのでいろいろな国の文化を知ることができる。古い曲だがすごくなつかしい。

즐거운 크리스마스를 보내세요.


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Man errs so long as he strives

2018-12-19 | Weblog

12月22日は私にとって思い出深い日だ。もうかなり昔のことであるが、ハワイアントーナメントの決勝戦で負けた日で、その試合が私にとっての最後の試合になったからである。
その当時のHIはボクシングのやや強豪州で、わりとボクシングは盛んであった。試合なんかも1ヶ月に1回ぐらいは開かれていて、年にはゴールデングラブを含む、3回のトーナメントが開催されていたが、私はその州だけの小さな話であるが、そこその実績を上げていたので、まあまあの自信があって、この大会では絶対に優勝してやるという野心があった。

話は映画の話になるが、今日ゴッドファーザー3と言う映画を見ていた、この映画は有名な映画なのでストーリーは説明しないが、登場人物でビンセントと言うボスの甥がいる、彼は優秀で度胸があるのだが、しかし行動的というか、思いついたことをすぐに行動するので、よくボスであるおじにおこられる。その時決まってボスであるマイケルが「YOU UNDERSTAND!」ときつく言うのだが、このセリフには聞き覚えがある。「YOU UNDERSTAND!」当時私があまりにも勝手なことをするので、よくジョージに言われた言葉である。それはそのおじであるマイケルが、組織を無視して勝手な行動をとった時に戒めるように言うのだが、まさにその言い方が同じ、笑ってしまった。今考えれば当時は、結構大胆で勝手なことをしていたと思う。しかしこういう人間をうまくコントロールしてくれて、大した才能もない人間を小さな島のマイナースポーツという枠であるが、ここまで実力を引き出してくれたのは、まさにコーチと監督のおかげ、日本だったら私のような性格は相手にされないし、知性や学力よりも素直さだけを求める日本のスポーツ界は私には合わない、しかし向こうのスポーツ界は人権や個性を大事にする世界だったからうまくいったのだと思う。だからそう言うことがわかっていたので、せめてこの試合だけは優勝して感謝の気持ちを表したいという気持ちがあった。勝ってその感謝を表したかったのだ。
しかし結果はあっさりと判定負け。1ラウンドでボコボコにして、勝ったら飛びついていってハグするというシュミレーションもできていたが、しかし現実はそうあまくはない、3ラウンドがおわって、勝者をコールした時、相手のレッドコーナーと言う声を聞いた時は、本当にみじめであった。負けを認めるということは非常に勇気のいることである、この後、その負けた相手のところにわざわざ行って、ありがとうと握手を求めるのにはかなりの勇気がいったが、負けた自分を認めるのであるから、おそらく手が震えていた、おそらくこれが人生最大の勇気だったと思う。しかし今考えればそれでよかったと思う、その時負けを認めてリセットできたからこそ、今の自分がある、偉そうに言うが、人間は勝ち続けることよりも負けを認める方が大きく成長する。ゲーテは「Man errs so long as he strives(人間は失敗をする限りは栄える)」と言ったが、この失敗があるからこそ見えてくるものも大きいのだ。勝つことばかりでは人間は成長しない、負け惜しみではないが負けたことがない生き方なんてくだらない、人間は負けるから、失敗するから、成長するのだ。しかし人間が本当に失敗や負けを認めることは難しいことだ、なぜなら本当の敗北とか失敗というのはみじめなものだからだ、しかしそれでも一歩進んで握手を求めるように、勇気を出して自分を受け入れる時、新しいものが見える。人間は見栄や意地だけでは生きていくことはできない。真実というのは時には厳しいもので、その厳しいものの先にこそ人智をこえた生き方があるのかも知れない。


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Pouvez-vous parler l'anglais? 英語を話せますか

2018-12-17 | Weblog

ハワイでの出来事。興味を持った韓国人が習いたての英語で声をかけてくる。ハングンマルロ ケンチャナヨ(韓国語で大丈夫だよ)エッイルボンニエヨ?(えっ日本人ですよね)ネ!クロナ アニエヨ(ハイ しかし 違うよ)?????

韓国語をおぼえても日本語と合わせて話ができるのはせいぜい2億人ぐらいだが、しかし英語を理解できたら18億の人たちと会話できるというCMがあったが、英語が話せると世界の4分の1の人と会話できる。コミュニケーションを必要とするスポーツにおいては英語や語学は不可欠である。特に語学が苦手とかできない人間はリーダーとしてはふさわしくないと言えるだろう。私がよく日本の監督は内弁慶だ、国内で子飼いたちの前では虎になるが外国に行くと猫になると言っているが、本当にそうかもしれない。日本では親でも言えないことや暴言や体罰を繰り返すのに、なぜか海外ではおとなしいから不思議だ。私が語学、特に共通語をおぼえろというのは、もし国際舞台という場を考えているならば、そこでの話し合いや抗議は通訳が入った地点で不利になる自分の言いたいことが言えない伝えられないからだ。日本人と欧米人の話し合いのとらえかたは少し違うと思う。日本人は和を好むので話し合いはお互いの歩み寄りみたいな感じだが、英語圏はディスカッションという言葉があるように自分の意見を有利に進めて言ってそれを通すことが目的である。だからこういう時外国人特に欧米人は自己主張が強いので話をずっと聞いていてはいけない。日本人は人の話を最後まで聞けと言われているが、しかし相手の言葉や考え方を理解するのと聞くと言うこととはまた別の次元だ。公平な話し合いならば話は最後まで聞くほうが賢明だが、しかし勝負の場での話し合いや抗議なんて言うのは自分を有利にさせるための戦略でもある。だからいちいち話を最後まで聞いていたら自分たいの言いたいことなんて言えない。そういう時はある程度まで聞いて相手の意見がわかったら、相手の意見にかぶせて言って自分の言いたいことを言う。欧米人の声がでかく、ゼスチャーがおおげさなのはまさにそういうことだと理解しているが、こういう言葉のかけひきはその言葉を理解しないとできない、だから共通語である英語を話すというのは不可欠であると思う。

なのに競技者で英語を話すとかいうのは最近ましにはなってきたものの少数だ。よく言うラスト30とか聞いたら、30秒以内に誰かが死ぬのかと思うし、サンドバッグの30秒ダッシュってサンドバッグ(土のう袋)をもって走るのだろうか、さらにフックなんてつづらせたらf〇ckとつづるが正確にはhookホック、このほかにもいろいろとあるが、言葉ひとつにしても語学のセンスがないので聞いててはずかしくなってくるが、これからは東京オリンピックに向けて監督やコーチに英会話の講習を受けさせることを義務づけたらどうだろうか。英語を話せないことはディスアドバンテージだ。話せない人間は国際試合に翻訳機でもぶらさげていくのだろうか。そして自分の言いたいことは翻訳機にうちこんで相手に聞かせるのか。近い未来東京オリンピックが開催されるが、もし英語が共通語とするならば、このままいけば一部の外国人や日本人の競技者や監督などのために日本人の通訳がつかわれることになるだろう。

あまりこういうことを言いたくないが、もし日本人が韓国語を話せたら、韓流ファンが確実にへると思っている。

 


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O Holy Night  Glória in excélsis Deo

2018-12-13 | Weblog

この歌は非常に思い出深い歌である。学生時代友達がクリスマスにクワイヤーで歌うことになって教会に誘われた。食事をさせてくれるというので思いっきりそれを期待して行った。そこで私は前列にすわらされたのだが、多分おぼえている限りでは5曲ぐらい歌ったと思う。韓国語の歌が1曲であとは英語だ、最初はまあまあ練習しているななんて思って聞いていたが、しかし最後の歌を聞いたときに私は深く感動した。ある芸術家は歌は祈るように歌えと言ったが、まさに彼女たちが歌っているのは歌ではなく祈りだ。その全身全霊を持って天にとどかせようとしている姿に感動したのだ。不思議なものだが、感受性が強い時期であったのもそうであるが、人間は本当に神聖なものに触れると畏怖を感じる、その畏怖とも感動ともいえる体験に私は自分の意識とは別に涙を流していたのだが、ヤクザが改心して宗教を信じるという話があるが、その気持ちはわからんでもない。
その後の 食事はビュッフェスタイルで彼女が私のために気をつかっていろいろととりわけてくれたのだが、カルビの前に来たら多く入れろと目配せ、それをわかったかのようにたくさんカルビを盛り付けてくれたが、私は彼女と話すたびにいつも思う、本当に受け入れられていると。教会によんでくれたのも自分が歌うのを見てほしいのもあったのだろうが、しかしクリスマスにひとりではさびしいと思ったからだ。彼女いわく人間は誰でも罪がある。おそらくこの歌詞の「long lay the world in sin and error pining」と言うのは人間が持つ現実であり、彼女が人を受け入れると言うのは、人はすべて罪びとで弱いものだと言う自分の弱さを認めたところで人は平等なんだというところから来ていると思う。宗教や哲学をたくさん学んできたが、しかし宗教的な対立ほどえげつないものはないとおもっているし、神がいるとかいないと言うことはどうでもいい、そんなことは私の知ったことではない。しかしこういう時代だからこそ矛盾しているが神がいることが必要だと願うことは大事なことかもしれない。

このo holy nightのさびの部分「fall on your knee, oh hear the angel voices oh night divine oh night when christ was born oh night divine oh night divine」のdivineはdivideと同じ語源で区別すると言うことだ。divineは神聖なと言う意味だがその神聖さは区別されるものであって、他のものとは違う。もっとこの日を大事にしなくてはならないと言うことだ。MOBでは毎年この時期にはどこかの団体をおぼえて日ごろ会員がおさめてくれている会費から寄付をしている。それは気負うほどの額ではないが、しかしチョルチン(親友)からハワイで教えてもらったクリスマスの意味を大事にするためにそうしている。

같은 하늘 다른 곳에 있어도 부디 나를 잊지 말아요


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Biracialのつぶやき

2018-12-11 | Weblog

私にはひとつの大きな後悔がある。それは中学の時ひとつ下で韓国から引っ越してきた人間がいたのだが、その彼を助けてやれなかったことだ。
当時は今のような時代ではなく韓国人蔑視と言うのがあった時代。映画にチルソの夏と言う映画があるが、これは韓国人と日本人の交際を描いた物語であるが、この映画は当時の状況をよく表している。当時は韓国人と日本人が交際したりするなんて言うのは論外であった。その時代に一人の転校生がやってきたのだが、そういう人間が当時日本に来ると言うことはいじめの対象になる。あいつはへんな言葉をつかったとかおちょくられていて、私はよくその彼がいじめられている光景を見ていて時々彼は助けを求める目で私を見たのだが、しかし仲間と思われるのがいやでずっと助けなかった。そのことが私の後悔になっている。

私が弱い者いじめが嫌いであるとか人を仲間はずれにすると言うのが大嫌いだと言うのは正義を貫いているわけではない。それは自分の体験や弱さに基づいている。多様性を認められない集団は必ず人を仲間はずれにしたり、人をいじめたりする。そして時には人を仲間外れにしたりいじめたりすることに正当な理由をつけているのだが、しかしそういう理由を持っていること自体結託している証拠だ。職場や学校スポーツクラブと言う場は公共の場であるのだから、みんながひとりの人間を疎外したりすることがあってはならない、むしろ多様性を認めていたらそうはならない。

しかしへたにくだらない小さな競争社会で生きていると自分を誇示することばかり考えてそのことが認められない、認められないから仲間を集めて小さな村社会を形成し自分たちとは違ったものを疎外しようとするのだが、こういう世界は特別ではなく小さな村社会ではよくあることである。人間は誰でもディスアドヴァンテージがある。だからしょうむないことで仲間はずれにされたり疎外されたりする。今は自分がいじめたり人を仲間はずれにしていても、しかし状況がかわれば自分も同じ、そういう現実を知ったほうがいい。
私はこういういじめと言う問題は外に目を向けなければ解決しない問題だと思っている。
多様性を認めること、そのためには広く海外を意識する必要があるのだが、これからは東京オリンピックが開催されるのだから世界でおこっているたくさんのことに目をむけること、そしてその対立や迫害をもっと伝えていく必要はあると思う。日本語では十人十色と言うがそんなものは規模が小さすぎる70億人70億色である。日本語ではユニークと言う言葉が変わった奴と言う意味にうけとられているが、しかし英語ではあなた特有のと言う言葉であってそれは個性を意味するもの、しかしこの特有と言うのが日本人にとって風変りなのであろう。
個性と言うのは自分の言いたいことや好きなことを言うことではない、まずその他者との多様性を認めることからはじめるのが個性であって、考え方が違うとかあいつは変わっているというのを徹底的にはじく世界にはそういうものは見えてこないと思う。

昔おやじが言っていたのだが、それは仲良くしましょうという言葉に対してだ。学校や職場のあらゆるところで日本人はこの言葉を使うが、しかしおやじはそんなことは大事なことではない仲良くしてもらわなくても尊重してもらいたい、権利を認めてほしいと言うようなことを言っていたがまさにその通りだ。
日本人は仲がよければいいと思いがちだが、しかし大事なのは個人を尊重し権利を認めること、はっきり言って人間は性格がそれぞれ違うのだからすべての人間と仲良くできるはずはないし、嫌いな人間もでてくるだろう。人を嫌ったりすることは個人の自由だ、権利をみとめた上でその人を嫌えばいいのだが、しかし小さな世界で生きている奴は嫌い=権利を認めない、いわゆる多様性を認めることができないからそういう稚拙な行動に出るのだと思うが、それはまったく間違っている。人を認めると言うのは自分をその多様性の中におかなくては見えてこない。
言葉と言うのは一つではないし、民族と言うのも一つではない。アジア人のバイレイシャルは顔が同じだから同じだと言う奴がいるが、しかしそういうことを言っていること自体多様性を認めていない証拠、それぞれにはそれぞれの文化がある、住んでいる人間の顔が同じだからすべて同じだと考えないほうがいい。すべて同化しようとするのが日本人のわるいところだと思う。

在日韓国人は少し特殊な存在だ。世界でもめずらしく6世7世なんていうのもいて言葉も日本語を話す国籍以外は日本人とほぼ同じ、私のほうが韓国人ぽいだろう。
この前この問題に対して「在日韓国朝鮮人はこのまま行けば100世なんて言うのも出てくる、だから日本に帰化する必要ある。」と言っていた評論家がいたが、しかし私はどちらかと言うとこの考え方には賛成できない。
確かにシステムとしては矛盾しているが、しかし日本人の性質、多様性を認めない、すべてを同化しようとする島国根性に対してかなりの不安があるからだ。フランスの哲学者であり人権活動家のS ベーユはこの人間の集団性と個人を飲み込んでいこうとする集団性の持つ同化にに対して警告を発しているが、まさに同じもので集まると言うのはそういう危険をはらんでいる。評論家は簡単に帰化しろと言うが、しかしこの国で帰化することはアメリカでアメリカ人として生きることとかなり違う。帰化と言うのは私から見たらひとつの同化としか思えないのだがおそらくそういうことを強制する前に国家が多民族国家としての多様性を認める教育を行うことが優先ではないかと思う。



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They are no more intelligent than monkeys

2018-12-10 | Weblog

「They are no more intelligent than monkeys」これはスポーツしかしようとしない人間におくる言葉だ。no moreだとサルよりもバカで、no lessだとその反対の意味になる、比較でよく間違える文法である。体育会では特定のルールがあるが私から見たら稚拙に見える。あいさつしろとか、くつをそろえろなんて言うようなことはサルでもできることだ。いい大人がもっと高度なことを言えないのかとさえ思ってしまうが、こういう稚拙なことを黄金律のように言う奴が居るから、本当に大事なことに目を向けることができない、スポーツ集団は小学生並みの道徳しか持てないと言われるのだ。今やスポーツも人権や差別などいろいろなことを考えて、そしていろんなことを基準にしなくては本当に人を大事にはできない。なのにあいさつしろとか、くつをそろえろとか、自分たちの小さい世界のことしか基準にできない、アホかと思う。こいつらは今世界でどういうことがおこっているのかということに多少なりとも関心があるのだろうか?国語力がひくい、語学もダメ、朝から晩までスポーツしかやってこなかったら、人権や人種などの観点から人間の尊厳をどうとらえるかということが理解できない。それはGreek to themだ。私はそういう無知な指導者は情でつるむことはできても、本当に人の人格を大事にして人をいかすことはできないと思っている。いい年をしてボクシングマガジンみたいな雑誌しか読まないようでは恥ずかしいことだと言うことを自覚したほうがいいだろう。新聞や本を読まないような奴がワンピースみたいな漫画なんか見るな。こういう基準でしか物事を見れない奴は時として子供の害になる。英字新聞には毎日のように未だ戦争があり、民族紛争がおこってそれに苦しめられている人たちの記事を見る、さらにジェンダーや性格の問題などスポーツクラブが取り上げて考えなくてはならないことはたくさんある。なのに言うことと言えばあいさつしろというようなほとんど小学生の道徳レベル、もう少し世の中に目を向ける必要があるのだろう。ロンドンオリンピックでロンドンをはどこにあるかと聞かれて、中東あたりを指したバカアスリートがいたが、非常に恥ずかしいことだ、こうならないためにももっと深く世の中のことを知る、クーベルタンのオリンピズムというのはまさにそうだが、世界と言うことを一番意識するのはスポーツなのだから、せめて指導者がもっと勉強して、子供にいい刺激を与えることが必要だ。


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Et tu Brute

2018-12-10 | Weblog

「Et tu Brute」これは韓国人の後輩に言った一言だ。彼には非常に親しい後輩がいて、いつも彼はその後輩のことをほめる。あいつはすごく才能があって、英語も堪能で仕事がまかせられる男なんですよと、彼はよくその後輩を食事に誘っ家によく招くそうである。話を聞いていてあまりにも彼がその後輩のことをよく言うので、こう言った。「お前ところでEt tu Bruteって言葉知ってるか?これは英語のことわざとなっているが、ラテン語で「ブルータスお前もか」カエサルが寵愛していたブルータスに裏切られ、さされて彼に言った一言である。
人間は与えられすぎると感じなくなる、愛情なんて言うのは、特にそうであまり相手に与えすぎるとその与えてもらっていることに感謝しなくなる。そして逆に今度はやってくれないと、なぜやってくれないんだと不満になり、それが裏切りの原因ともなるのだ。
私はその後輩に「与えすぎるな、与えすぎると裏切られる、そんなことよりもパートナーなんだからギブアンドテイクの関係をしっかり結べ、お互いが持ちつ持たれるという関係では、お互いが成長する、一方が与えて一方がそれを受けるだけでは成長しない、例えば君は彼がピンチの時に彼を助けてやったらそれを満足するだろうが、恩と言うのは3日で忘れてしまうものだ。与えられるだけでは人間は成長しない。助けられたりおごってもらってばかりではだめだは、人間は自分が役に立たないと思えば離れていく。特にできる人間はそうだ、君が上司であればむしろ彼に6割以上のことをさせて、彼が役に立つということをアピールしてやればいい関係がつくれるんじゃないか、あの歴史的にも偉大で人心掌握にすぐれていたカエサルであっても人に裏切られることもある」この言葉はまさに人心掌握の難しさを語ったもので、それだけ人間と言うのは複雑である。

 


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