脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

あやまらないことが国交正常化の第一歩だ サラハンダ コレア

2015-04-30 | Weblog

アメリカを公式訪問中安倍総理がハーバード大学で演説、その演説で韓国系の学生から「慰安婦の証拠がこれだけあるのにまだ政府は関与を否定するのか過去の歴史を振り返れ」と言うようなことを言われたことがニュースになっていた。このことは韓国でも有名なことでその韓国系二世のアメリカ人をネットでたくさんの人間がたたえたらしい。韓国は国としては縮小して言っているが、しかしそれでも多くの人間が外国に行って市民権を得ている。2009年の統計で申し訳ないがそのハーバード大学の留学生の数が日本がひとけたに対して中国は三十数名そして韓国は四十数名であったそうだが、これは人口比率からしても非常に多い数だと言ってもいいだろう。たぶんそれは今もさほどかわらないと思うが、事実今外国の大学には多くの韓国人が在籍している。この学生たちすべてがこういうことを言うことはないが、しかしもしこのことがロビー活動として行われているとしたらそれは非常に厄介なことかもしれない。外国に留学したものはわかるが日本人は必ず韓国人に議論をふっかけられる。それがアジア史なんて言う課題になったらもう悲惨なものだ、韓国人だけならまだしもそこにいる中国人も加わって日本人を攻撃する、そういう体験をしたものも少なくはないと思う。なぜここまで韓国人が特にアメリカで市民権を得たり、大学に行くのかと言うのはひとつは国内シェアではやっていけないから海外に出ていくということだが、しかし根本的な理由は市民権が得やすいからである。韓国と言う国はむかしアメリカと一緒にベトナムで戦った。そのこともあってか韓国人にはほぼ無条件で永住権をくれたそうだが、ハーバードの学生のように2世3世というのはその子孫たちのことである。私から見たら日本人はおとなしすぎるというか単一民族だから危機感がない。これはきわどい話なので全部伝えることはできないが、私は外国人によるロビー活動や地下組織があると思ったことがある。それはある国の学生にその運動と言うか集会に参加してくれと言われたのだが、その集会の存在を知って日本ってやっぱりスパイ天国だと思ったことは確かなことで、それだけではなく自国ではできないので日本でやるというケースもあるのだがおそらくこういう活動は日本人の知らないところで結構あるのだと思う。これは個人的な意見であるが留学させる前の手引きとして日本人の留学生にはある程度正しい日韓の歴史または中国の歴史、そしてベトナム戦争と言うものがどんなものであったかということを学ぶ必要があると思うのだが、ドラスティックな意見ではあるが、外国に留学する人間にはアジア史として正しい歴史認識を理解させるために必須として単位所得を義務付ける必要がある。タイ人から見たベトナム戦争は選択科目としても言いだろう。それらをしっかりと理解してから留学させるほうが賢明である。韓国人と言うのは私もその気質をひいているのだが、私を見てもわかるように物事をはっきりと主張するので目立つ。毛沢東だったか忘れたが嘘も100回言えば真実になるというえげつないことを言ったが、彼ら彼女らにとって真実を伝えるということはどうでもいいことだ、真実がどうであれ日本がたたかれて悪のレッテルをはられることが彼ら彼女らの目的である。私は日本の戦争問題と言うのは非常にいびつなかたちでとらえられていると思う。それよりもむしろ文化大革命やチベット問題、ベトナム戦争におけるダイハーンの行為のほうが問題だと思うのだが、それらのことについてはあまり取り上げられず大きな問題ともなっていない。自慢ではないが私は韓国で歴史のことを言われてあやまったことは一度もないし、これからもあやまることもないだろう。ただ私のようなどちらの立場にも立てないような人間があやまっても仕方がないだろうが、しかし彼ら彼女らの歴史認識を認めさせるための第一歩はあやまらないことだと思っている。

しかし私は韓国人が好きである。特に人情に熱い民族でつきあえばつきあうほどその良さはわかるであろう。これは韓国である日本人が店を探していて店の店員にこういう店は知らないかとたどたどしい英語で聞くとけんもほろろに知らないとかえってきた、一人旅で心細かったのでそのそっけない答えを聞いて非常に不安になった。やっぱり日本人は嫌われているんだととぼとぼとるいているとしばらくすると後ろから店の店員が走ってきて。たどたどしい日本語と英語を交えながらその店の場所を教えてくれたのだが、彼女はその日本人がさった後、その店がどこにあるか調べてくれてそしてわかったのでおいかけてきてくれたそうである。私にとってこの国は切っても切れない国である。がしかし私はイルボンサラムであり、その日本人がはらただしい思いをしたり、勘違いされることは遺憾である。遺憾であるがゆえの提案である。

 


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アウフヘーベンって?

2015-04-28 | Weblog

日本人が物事をはっきり言えない原因はバランス感覚でものを見ようとすることである。日本人は必ず何か考える時は物事の真ん中を基準に考える。これは我々のように右か左かと言うような物事のとらえ方をしない、とにかく右の意見もあれば左の意見もあると言うような考え方をするのだが、おそらくそういう考え方が思考のメカニズムとしてしみついているのが日本人の思考であると思っている。これに対して哲学の世界ではアウフヘーベンと言う考え方があって、右か左かということを十分に考えて最終的に右だというように自分の考え方を結論づける手学の手法であるが、これは西洋のように他民族や他宗教の中で自分たちの考え方をはっきりさせなくてはいけないということから確立していった手法で、哲学においては物事を考える上では基本的な事柄となっている。宗教論争の古文書にと当時の論争の様子が書かれている。詳しくは書かないがAと言う考え方ととBと言う考え方の対立であって、その論争に出てきたものの多くは体に何かけがをおっていたというようなことが書かれていたのだが、ローマ時代の宗教論争と言うのは非常にえげつないもので、こういう環境の中で平和的に自分たちの考え方を主張するために生まれたのが修辞学や弁証法と言った物事を伝える手段である。しかし日本人は歴史的にもこういう考え方が希薄で、自分の意見を言うというよりはそこで人間関係を見て重視する、結局のところ誰につくかということが問題になってくるのだが、特にスポーツのような縦社会にはありがちなことだと思う。基本的に自分の考え方を伝えるということは立場を利用して自分の言いたいことを言うことでもなく、聞いてもらえるからと自分の気持ちを言うことでもなく、それは学問的な事柄でありある程度それは訓練されていなければできないことである。

スポーツクラブというのも民主主義の世界である。しかし私から見れば未だスポーツの世界は徳川幕府的でそれにつらなる集団は村社会である。それはおそらく議論されるべきことがきちんとしたかたちで議論されていないからで、きちんとそれなりの勉強をして例えば人権や倫理学的なこともふまえてきちんとした物差しをもたなければ、体罰の問題どころか日本は世界からこれからもたたかれ続けるであろう。私はよく外国人と話すが日本人と言うのは非常に印象がいいし、おそらくどの国よりも信頼されていうと言っても過言ではない。私自身名前をふたつ使い分けているがもう一つの名前はすこぶる評判がわるい、しかしそれに比べて日本人であるということはかなり大きなアドヴァンテージとなるのだが、こういう体験一つにしても日本人は素晴らしい民族であると実感できる。しかしそれに対してスポーツは別、おそらくこの縦社会に日本人の内弁慶さが出ているのだろう。日本の監督などは海外に行くとおとなしい、国内ではあれだけえばっているのに海外に行くと借りてきた猫のこのようにおとなしくなるのはなぜだろうか不思議である。確かに海外ではルールを守りおとなしいので評判もあるくないだろうが、しかしその一方で体罰や暴言あるいはオーバーウオークさせるような人権を無視したような行為をはたらくのは、会社では評判がいいがDVを働く人間とメカニズムは同じである。日本人は素晴らしい民族だ。おそらくこのことを一番よくわかっているのは一番関係の深い韓国や中国であろうと思っている。私はスポーツの世界にも哲学や何か議論をするためのベースを養うことは必要だと思っている。体罰なんていうのは礼儀とか言う問題でもないいわゆる人権の問題だ、そしてその人権が理解できたらオーバーワークさせたり子供に危険なことをさせたりすることはないだろう。

 

 

 

 


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They are the life and soul in our club

2015-04-24 | Weblog

毎年レイトショーでコナンを見に行く。しかし今回はダメだこりゃぐらいの評価である。理由のひとつは肝心の推理があらい展開で終わっている。こんな推理の展開なら素人でも考えられるというような推理である。詳しく書いたら見に行く人もいるので書かないが特に犯行動機が2枚目と5枚目のゴッホが贋作でそれを世に出したくないというのが動機であったが、これは映画でもそれらの絵はキャンバスのつなぎ目からわかるように贋作ではないというのが正しい鑑定であると言っていたが、それは学説上においても正しい見解だ。にもかかわらず一流の学術員である人間がそのを見誤ってというのはおかしい理論、動機を聞いたときは思わず「え!」となってしまったが、しかしちょっとした人間ドラマと言うものも描かれているので見る人によってはいいと思う人もいると思う。私はアニメで唯一コナンが好きである。コナンは教育上いいアニメだと思っているのだが、それは彼がどんな時いかなる状況でも考えることをことをあきらめない、その知恵や勇気をふりしぼった時には必ず解決策は見えてくるということを教えているからである。よく人はあきらめるなと言うが私に言わせてみればあきらめるなと言うことは考えることをやめるなと言うことである。しかし考えろと言っても考えるための材料がなければ考えることなんかできない、コナンは少年であるが英語を話し、学術的なこともたくさん知っている。そういう素地があるから考え続けることができるのだが、それは体力がない人間にひたすら走れと言っても走り続けることができないように考えろと言っても考える素地がなければ同じこと、考えるということもいろいろなことを学んで知識を蓄えなければ正しい答えを導き出すような思考なんてとうてい無理な話だ、スポーツしかできない人は人にたいして取り入るのは上手なようだが、しかし勉強をしていないので考える能力がひくく、こういう人間が組織を動かしたり、指導と言う立場に立つと問題がおこってくる。これからのスポーツは先のことを考えてもっと学習面を重要視すべきである。

今日はThey are the life and soul in our club(彼らはクラブのムードメーカーだ)と言うタイトルだが、その言葉通り MOBにはそういう人たちがいて盛り上げてくれる。この前女性が何々さんがいると入って行きやすいマスなんかも気軽にたのめると言っていたが、ここにはそういう人たちがたくさんいる。おそらくここは健康維持やダイエットの人たちが多数を占めているからからだと思うのだが、トレーニングに来てもそこが競技者中心の雰囲気だと我々のような健康維持でボクシングをやろうというような人間は入って行きにくい、でも自分たちも同じ健康維持やダイエットでそういう人たちが何ら区別されることなく堂々とトレーニングしていると入って気安い、ここではバランスと言うものを考えて運営しているからそういう環境ができるのだと思っている。スポーツを否定する気はさらさらないが、しかしそれしかできない人間は話していてもおもしろくない、価値観が狭く自分にしか興味がなく最終的には自分の自慢話しかできない、そういう人間が多いからだ。せっかくこの世に生まれてきたのだからもっと見聞を広めることは必要なことだ、群れの質と言うのはその群れが知的かどうかということが全体のバランスを考えるときに大事なことだと思っているが、ここは社会人中心のクラブであるからなおさらのことである。

 


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ソウレソ タシ マンナルカヨ

2015-04-23 | Weblog

最近バイレイシャルがミス日本に選ばれたことで物議を醸し出している。批判する人間に対して人種差別的であるとの声が上がっているし、諸外国からも人種差別だという非難の声も上がっている。個人的にはバイレイシャルが選ばれるということは光栄なことだと思っているが、しかし私は批判する人間が必ずしも差別的とは思わない。まず諸外国と言うのはどこの国のことか?日本が諸外国という時、それはアメリカヨーロッパ諸国のことである。じゃあ中東やアフリカそしてアジア諸国などはどう見ているのか?国によっえは日本よりももっと保守的で閉鎖的な国がある。ヨーロッパやアメリカと言うのは移民政策を余儀なくされた国であり、侵略の歴史がある。特に中南米などは侵略が繰り返された歴史があるが、そういう他民族との融合を本当に寛容を持って受け入れてきたわけではない。BCまでさかのぼるとアレクサンダーがマケドニアを支配した時に他民族との融合を奨励はしたが、しかしそれは国家をと追いつさせるための策略で、基本的にはヨーロッパの民族的な歴史は戦争と支配による融合でアメリカと言う国はその副産物であると言っていい、私は日本のように侵略がない他民族に支配されたことがない国は民族に対する特別な見方があると思う。特にミス日本と言うのは日本人が持っている民族的な美意識と言うものがあるのだからそれを正しく吟味し大いに主張することは必ずしも人種差別につながるとは思ってはいない。ただこういう時に問題となるのがじゃあ日本人っていったい何なんだ?と言うことになる。アメリカのように日本で生まれれば日本人と言う定義でもないし、ユダヤ人のようにお母さんがユダヤ人であればユダヤ人だということでもない、ただ漠然と日本人は日本人だと言う風に思っているだけで、おそらくこの問題を解決するのは天皇制であると思っているのだが、民俗学的また宗教学的にも日本人にとって天皇とは何かということをはぅきりさせる必要はあるだろう。そういう考え方の中で包括されるものはすべて日本人であると考えればいいのだと思う。ただ私もひとりのバイレイシャルとしてそういう存在が選ばれることはうれしいことだし、顔や文化や習慣が違うだけでいじめや迫害がおこるということに対しては憤りを感じることは確かだ。しかし日本人は唯一自分たちが築いてきた歴史と言うものがある。諸外国に何を言われようが基本的にはその歴史を大事にすることは必要であると思っている。

仏教とキリスト教の大きな違いは「支配」と「融合」と言う言葉で表すことができる。キリスト教は支配の宗教で布教活動もその土地を支配て徹底的に改宗させるというやり方で宗教的領土を広げてきた歴史がある、しかし日本の仏教はその土地の民間信仰に融合していって形をかえるというやりかたでその土地に根差していったのだが、仏教的思想の強い日本人は基本的には支配と言う考え方を持たない平和的な民族であると信じている。韓国語に僞人(ウエノム)と言う言葉がある。これは日本人が韓国を侵略したということにちなんだ最も日本人が野蛮であるということをあらわした侮辱的な言葉であるが、386世代の人間は日本人は本当に野蛮であると信じて疑わなかった。今ではそういう時代錯誤的な考え方はなくなりつつあるが、しかし私はこういう問題に直面して時にはえげつないことになるんじゃないかと言う議論までしてきたのだが、なぜここまでするかと言うと自分のアイデンティティがかかっているからだ。中にはそういう議論は危険だから避けたほうがいいというかもしれないが、しかし日本人が野蛮だと思われたくないという思いから思ったことを言ってしまう(しかも向こうで)私は歴史学を先行したわけではないが、しかし宗教学的観点とある種の歴史的な見解を持って日本人は平和的であると思っている。

 


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ピケティとプロレタリアートとスポーツ

2015-04-20 | Weblog

ピケティと言う経済学者が書いた「21世紀の資本」と言うベストセラーがある。この本はかなり膨大なページからなるがとどのつまり富の分配は不平等で資本主義は格差社会を生み出しているということを歴史さらに統計学的に資本主義の矛盾をとらえた本である。私は専門が違うので詳しいことは言えないが、もともと格差社会はこの富のとらえ方によるものだと思っている。はじめにことわっておくがピケティはマルクス主義とは無関係である。むしろピケティは数字の経済学で近代経済学の先端を行っている学者であると言ってもいいだろう。マックスウエーバーはプロテスタンティズムの倫理において富と言うのは神の恵みであると言った。すなわち富は神からくるものであってそれを恵みとして享受しろということであるが、さらにアダムスミスが「国富論」で言った「He intends only his own security and by directing that industry in such as it produce may be of the greatest value.he is in this, as in many other case, led by a in an invisible hand to promote an end which was no part of his intention」は各人が利益を追求すれば適切な資本配分がなされるということであるが、その摂理的なものを見えざる(神の)手と言っているが、プロテスタンティズムの世界では富は神からくるものでって、その富の分配も神の摂理によってなされるというのだ。しかしそこには人間の邪悪な部分が見られることはない、それはノー天気な宗教的な発想ではないかと思う。ピケティの経済学はまさにその数字そのものが富の分配の矛盾や格差社会の広がりを示しているのだが、資本主義社会では資本家が資本収益率を上げようとする一方で経済成長率を上げて搾取しようとするのだから当然富の分配の不条理はおこってくると思っている。ピケティはマルクス主義とは無関係であるが、しかしプロレタリアート的な発想を持つということは大事なことだ。日本人はどういうわけか組織の上のほうから見る傾向がある。よく上が上がと言う言葉を耳にするが、しかし実際その上を支えているのは彼彼女らであってその彼彼女らの労働があるからこそ組織が成り立つのである。前に日本のクラブはやらされている感があって自主的ではないと言った。よく運営する側を上がと言うがしかし英語で言えば単なるThey、それをどういうわけか上と言って特別感を持たせるのは組織が体育会的で封建的であるからだと思う。特にこういうスポーツの組織と言うのは運営する側であって上層部でもなんでもない、われわれのフィードバックを反映するための組織に過ぎないのだが、日本人の性質か体育会の組織がそうさせているのかわからないが、もっと発想をかえてスポーツそのものに参加しなければスポーツそのものがよくならないだろう。


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γνωσι σεαυτον  汝自身を知れ

2015-04-17 | Weblog

私にはよく話す韓国人の友人がいる。彼女は有名な国立大学の国際政治学科を出て今は日系の企業につとめているのだが、頭の回転がはやく3か国語を話すことができる才女である。その彼女が言っていたのだが世の中でたぶん一番自分の性格をわかっているのは私だという。相性もあるのだろうが、彼女にいくつか心理分析的なことを言ったらかなりあたっていたらしく、彼女曰く占い師に何人か見てもらったけどここまでずばり私の性格を言い当てたのは私ぐらいで最初かなり驚いていた。私は占いなんて信じていないし、私が性格を言い当てているのはある種の心理分析である。しかしそういうことを占い師よりも確実に言い当てているのでもう占いなんか信じないと彼女はすっぱりと占いをやめたらしい。私は基本的に占いなんて信じていない。確かに第六感と言うものがすぐれたような人間もいるだろうが、しかし人生相談なんて言うたぐいの占いは悪用されたらいけないので具体的には書かないが、動物的なカンに頼ったいかさまくさい心理学だ。占いなんて言うのは最初は全員当たることなんてまずない、相性のいい人間を確実に言い当てたらあとは人が集まってこの人絶対当たるんだという暗示がかかりやすく、心をひらく、後は質問の仕方と目の動き、さらに人の弱さにつけいることである。昔冗談で占いに行ったことがある。私は何を考えているのかわからないのでかなり困った様子だ、かなりしどろもどろしていたことを思い出すのだが、そして何を言ったかと言うと私は人と比べてかなり強運の持ち主で何をやっても成功するらしい。たぶん私が何を考えているかわからない、つかみどころのない性格なのでこりゃあだめだと思って言ったことを信じさせるのではなく受け入れさせることを考えてこういうことを言ったのだろう、ちなみに話している時違う言語で考えたら(例えば英語で考えて日本語で話すとか)心が読まれにくくなると思っている。

スポーツ学的なことを専門的に学んだわけではないがアスリートにとってスポーツ心理学と言うのは大事なことで、私はこのスポーツ心理学を学ぶことでメンタルを多少なりとも強化できると思っている。孫子はその著書兵法において「己を知って敵を知ることは百戦危うからず」と言っているが孫子の兵法は戦いの書であるが、その戦いにおいて自分を知ることがプライオリティであると言っている。ここでの自分を知るというのは自分の弱点を知るということ、そしてそれは広く解釈すればスキル的なことだけではなく、メンタル的なこともそうで、そういう部分を受け入れて相手を知るからこそ最強の軍となりうるとのだという。弱さを知るということは必要なことである。しかし弱さを知るお言ってもおざなりのサルのような反省会を持つのではなく、もっと深く自分を知ることが大事なことであり、そのことによって意識が改革されたり、メンタルが強くされていく、そういうアプローチをしていく努力が必要なことであり、スポーツ心理学など、そういう学問的なことをふまえての人間形成も必要なことであると思う。己を知れと言うのは孫子の言葉だけではない、それはあのソクラテスもγνωσι σεαυτονグノーシー セウトン(汝自身を知れ)と言っているがそれは人間にとってすべてのことの基本であるかもしれない。

 

 

 

 

 

 


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He is the man you can rely onではなくHe is a man you can rely on

2015-04-16 | Weblog

英語のニュアンスは難しい例えばaとtheの使い方にも非常に微妙なミステイクがある。彼は信用できる男だという時He is the man you can rely on. でいいのかと言うと。そう言わない。なぜならこの世界で信用できる男は彼が唯一一人ではないからで、ここでtheをつけるとそうなってしまうからである。theと言うのはただ一つの特定されたものあるいは特定な集団を指す時に使う冠詞である。the united stateとかthe MOBなんて言うのもそうだが、日本人はtheをつける時「その」と言うような感じで使うが、使う前にそれが特定かどうかと言うことをよく考える必要はあるだろう。さらにとまどうのはyouの使い方である。英語は日本語と比べてyouと言う言葉が頻繁に使われるがそれはあなたがたという意味だけではなくdo you have a thingsのようにyouが店の定員を指すように集合体という意味でも使われる。日本人はこのyouと言う言葉をせいぜいあなた方という意味でしかとらえていないが、実はyouはthisやthatのように広がりを持つ言葉である。

英語は文法じゃないというやつがいるが、しかし英語は文法が大事、むしろ話せない人間がそう言うと負け惜しみのように聞こえてしまうが、当たり前だがきちんと話したかったら中学3年ぐらいまでの文法は必要である。そしてさらに言えば彼ら彼女らの習慣を知るということはそれを実際に使う意味では大事なことだ。島国の世界は周りが自分たちのことを知っているという感覚がある。村社会で周りがすべて自分たちのことを知っている世界ではyouと言うと他人行儀だ、しかし大陸のように多くの民族や宗教が入り乱れた環境ではあくまで出会う人は他人であってyouであるのだ。これはアジア人全般にいえることだが、その中でも特に日本人は他人との距離感が近いので時には非常に人間関係がわずらわしいことさえ思えてくる、田舎や同じ考え方で固まるような狭い集団になればなるほどこのyouと言う考え方が希薄になってくる。これは個人的な意見であるが英語を使うということはこのyouを頻繁につかうことだが、このことが他者との距離感を持たせているのだと思う。英語と言うのはこのyouをつかう分weと言う言葉は頻繁にはつかわない、weをつかうときはwe eat rice(日本人は米を食べます)のように特定な時にのみ使う言葉でweを連発すると自分たちだけはそうなんだぜと非常に閉鎖的に聞こえてしまうのだが、youと言うのは個人的な意見かもしれないが他者と自分を区別する言葉である。私は何を言いたいかと言うと他人をもっと意識しろということである。最近日本人の誇りであるとか、日本人をやたら強調するようなスローガンが掲げられマスメディアもこぞってそういう報道がなされたり、出版物などもそういうたぐいのものが目立ってきた。私はそのことに関してはわるいことだとは思わない、しかし環境的にも民族的にも他者をわからない人間が付和雷同に政府のスローガンや考え方に追従するのはいささか危険なことではないだろうか?オーストラリアの首都がわからない。カナダ、イスラエルの首都は?そういうレベルで世の中を見ている人間がただ自分たちは素晴らしいと煽られて愛国心的なものを持つことは危険なことである。

最近ハーフタレントと言うのが目立ってきてテレビをつければ必ず誰か一人は番組に登場しているぐらいの勢いである。しかし彼ら彼女らが持つイメージは必ずしもバイレイシャルを代表したものではない、容姿もよくバイリンガルで華やかな部分ばかりをテレビは映し出しているが、しかし彼ら彼女らはそういった人間ばかりではない。おそらくほとんどの人間が文化やアイデンティティの壁を経験し深く葛藤していて、このことを知ることはこれから日本がグローバル社会になっていく上での過程であるというのに、そういった部分を無視してただテレビ受けのいい部分だけを強調し、バイレイシャルの固定概念をつくってしまうのはいささかよくないこと、日本人が外国人と話す時に何を話していいのかわからない、そして国際舞台で的外れなことを言うのは英語が話せないと言うことよりも他の文化を受け入れることができない、理解しようとしないからである。そういう発想がHe is the manのミステイクにでているのだと思う。日本人が愛国心を持つことは間違ったことではないし、それは大いに賛成できることだ、しかし愛国心と言っても他者を理解できない、日本語しか理解できないのは今の日本の現状とグローバル社会と言う点で考えたら間違った方向に進んでしまう懸念があると思う。

 

 

 

 


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Ask, and it will be given to you

2015-04-12 | Weblog

うちのクラブの80パーセントは健康維持かダイエット、しかしそれでもおもしろくなってきたからと試合に出る人もいる。私はここは健康維持とダイエットのためのクラブであると公言しているので試合には関与しないのでトレーナーたちが中心になってやってくれているのだが、しかし実のところを言うと試合に事もかなり気になっている。特に試合に出る人はもう長い付き合いがあるので特別な思いがある。その人間が一生懸命頑張って試合に出てくれることはうちのクラブにとって非常に大きなことだと思っている。

HIのトーナメントの一番最後の試合での話だが絶対勝てると思っていた相手に完敗。そのころ私はHIでも結構強いと言われ、おまけにギャラリーもたくさんきていたので判定で勝者レッドコーナーと言われた時は本当にショックであった。私が今までに一番根性がいったのは実を言うとこの負けを認めることだ。この試合が私のラストマッチだったので区切りをつけるために相手のところに行って「Thank you」と握手の手を差し伸べた時は足が震えたぐらいである。でも今はその負けを認めたからこそ自分がある。負けを単なる屈辱として残したのではなく、リセットしたからこそボクシングを私の人生の糧とできたのだと思っている。

ある人は「俺負けるのがいやなんです」と言ったが負けてしまった。しかし負けてもそのことを受け入れまた今度は頑張りますと言ってくれる。そしてそのことは彼を豊かなものにしてくれているのだが、私は彼がそういう体験をするたびに彼の一回り成長した姿を見ている。、こういう人間がうちのクラブを引っ張って行ってくれるのにふさわしい人間だ。こういう姿がある限り勝ったとか負けたとか関係なくクラブの人間は思いっきり応援してくれる。だから自分を信じるのではなく、MOBの支えてくれる人間たちを信じて頑張ってほしい。この前I believeの語源は自分を確かなものにするという意味がある。すなわちI believe in Godだと神において自分は確かなものとされると言った。人間なんて弱いものだ自分を信じろなんて言ってもはっきり言って世の中で一番不確かなものは自分であって、その自分を信じるなんて言うことは日常の生活をおくっている私たちにはできないことだ。しかし自分ではなくその一生懸命やろうと頑張ることをたたえる自分たちを信じてほしい。勝っても負けてもそんなことは関係ない、その人にはいつでも暖かくむかえてくれる場があって、また再び試合に出るときは応援してくれるだろう。その共同体であるMOBを信じて自分のためにボクシングを競技してほしい。

 


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自然体でいく宣言

2015-04-10 | Weblog

春になって連日忙しくなってきた。うちくクラブは常連が多くほとんどが健康維持である。しかし常連と言っても特別扱いではない、むしろ新しい人たちに気を使ってくれるので助かっているが、この前も親子が来ていてその見学の親子が説明の後に二人で見ているだけの状態にある会員に「あのっー何かもっと説明してあげたらどうですか」と言われ「あっそうか」とまたさらにフォローしたのだが、うちの会員はとにかくこういうフォローができる。そのほか洗面台をみんなが使えるようにと作ってくれたり、なんとみんなが使っているワンダーコアはうちの常連さんが買ってきてくれたものだ。冗談でこれを使うときは○○さんに言えよと言うと、使う人がおもしろがって「使わせてもらいます」とあいさつに行くのだがその時「いやいや、やめてくださいよ。印象が悪くなりますよ」と困った顔をするのだが、本当にここは平和である。私はサドではないが日本人のこういう困った顔を見るのが好きである。実は韓国語には困るという言葉がない。だから韓国人は困らない。しかしこういう困り方は日本人のテレのようなもので、自分よりも相手の立場に立つ、相手のことを慮るからこそ困るのだろう、私は日本人ほど困る民族はないと思っているが、それはたぶん人間関係を大事にし、相手のことを思いやれる民族であるからだと思っている。

そのクラブの様子であるがテレビに例えると3つの部門からなる。まずはバラエティたぶんこれが一番うちで強い要素であると思うのだが、健康維持とダイエット組がリングを占領して女王様を繰り返す、ある人がこんなことをやったらよそのジムでお前ら出ていけっていわれるんじゃないかと言っていたが、しかしそう見えてもダイエットの女性は真剣それを健康維持組の男性が必死でよける。男性が一人の場合はその女性の申し出を全部うけなくてはならないはめになり、多い人で最高8ラウンド帰ろうと思ったら「あーっ○○さん来てるじゃないですか、マスお願いします」と言われ断ることもできずにたて続けに8ラウンドもやらされたらしい。さらにこれが本来のボクシングクラブであるがスポーツ番組である。とにかく試合に出場する人が黙々とトレーニングする。当たり前のことだが実はこのスポーツ番組がうちではマイナーである。ある中年の男性は試合に出るので黙々とトレーニングをつんでいたが、しかし周りの雰囲気が違うのでここで気合を入れるものなんだと隅っこのほうでシャドウを黙々とやっていたらしい、普通試合に出るものがいれば周りが遠慮して隅っこでやるが、しかしここは健康維持とダイエットがマジョリティである。さらに教育番組これはまわりがひくぐらい難しい話をする。うちの会員にはなかなかのインテリ層がいるので語学もそうだが自分の専門知識を持っていなければついていけない話もあるぐらいだ。ここの会員はこのひとつの共同体をひとつの大事な場としてとらえてくれている。私自身も努力しなければいけないことも多いが、しかしここはみんなが自然体でいれる場所であるから、自分も無理をせず気をつかいすぎず自然体でいく。ハンゴルン ハンゴルン タガオヌン ポム(一歩一歩近づいてくる春)新しい季節これからも楽しいボクシングクラブにしていく。

 

 

 


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APPの論文の抜粋 読める人は読んでみて

2015-04-06 | Weblog

AAP(アメリカ小児科学会)の論文の一部を抜粋した。これを読めばいかにボクシングが子供には危険かと言うことがわかる。

Amateur or Olympic-style boxing is a collision sport that is won on the basis of the number of clean punches landed successfully on an opponent's head and body (Appendix).1,2 A match is won outright if an opponent is knocked out. Participants in boxing are at risk of serious neurologic and facial injuries.3,,7 Despite these potential dangers, thousands of boys and girls participate in boxing in North America. In 2008, more than 18 000 youths younger than 19 years were registered with USA Boxing (Lynette Smith, USA Boxing, written communication, August 2009).

The societal debate regarding boxing has raged for decades. Many authors and medical organizations have called for boxing to be banned (Table 1), citing medical, ethical, legal, and moral arguments.8,,13 Others state that participants should be allowed to make autonomous decisions about participation and that the role of the medical profession should be restricted to the provision of injury care, advice, and information only.14

Position Statements on Boxing
 

Supporters of amateur boxing state that the sport is beneficial to participants by providing exercise, self-discipline, self-confidence, character development, structure, work ethic, and friendships.14 For some disadvantaged youth, boxing is a preferential alternative to gang-related activity, providing supervision, structure, and goals.14 The overall risk of injury in amateur boxing seems to be lower than15 in some other collision sports such as football, ice hockey, wrestling, and soccer.4,16 However, unlike these other collision sports, boxing encourages and rewards direct blows to the head and face.

The American Academy of Pediatrics and the Canadian Paediatric Society oppose boxing and, in particular, discourage participation by children and adolescents.8

BOXING-RELATED INJURIES

Data are limited on injuries that result from boxing in children and adolescents.17,18 National organizations, such as Boxing Canada and USA Boxing, do not keep data on the participation or injury rates of their members.

Some data on boxing injuries in children are available from the Canadian Hospitals Injury Reporting and Prevention Program database, maintained by the Public Health Agency of Canada. This database includes data collected from 15 hospitals across Canada, including 10 children's hospitals. From 1990 to 2007, the prevalence of injury from combat sports requiring admission to a hospital was highest for boxing (4.8%),17 which compares with admission rates of 3.6% for judo, 3.1% for karate, and 2.9% for wrestling.17 Of those hospitalized for injuries from boxing, 58% had facial fractures and 25% sustained closed head injuries.17 There was a significant increase in the overall number of injuries from 1999–2007 (16.4 in 100 000), compared with 1990–1998 (11.4 in 100 000). Sixty-eight percent of these injuries occurred during sparring and competition; the remainder occurred during training. Of the 273 injured boxing athletes reported in the Canadian Hospitals Injury Reporting and Prevention Program database, fewer than 1% were 5 to 9 years of age, 29.3% were 10 to 14 years of age, 39.2% were 15 to 18 years of age, and 30.8% were 19 years of age or older.17

The National Electronic Injury Surveillance System (NEISS) contained reports of 1263 boxing-related injuries in children and adolescents 5 to 14 years of age and 8082 in adolescents and adults 15 to 24 years of age in the United States in 2007. The types and severity of injuries were not delineated.18

Published injury data in amateur boxing (youth and adult participants) do not distinguish injuries according to age, so it is difficult to delineate injuries that specifically affected children and adolescents. Most injuries in boxing, both amateur and professional, occur during competition (57%), compared with training (43%).4 The authors of 1 cohort study reported an injury rate of 1.0 injury per 1000 hours of participation for amateur boxers (15.1–37.1 years of age).4 This rate is actually lower than reported high school athlete injury rates of 4.4 per 1000 athlete-exposures in football, 2.5 in wrestling, and 2.4 in soccer.16 Intentional facial and head injuries, however, are more frequent in boxing.17


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