脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

アドラーとMOB

2016-08-30 | Weblog

盆が明けて見学の人たちがさらに多くなった。女性が多数を占めるがそのほぼ100パーセントがダイエットや健康維持である。中には私は運動音痴ですと言う人もいるがそんなことは全く問題ではない。きちんとコモンセンスを守ってやってくれれば立派な会員、堂々と楽しくトレーニングしてくれたらいい。

MOBの共同体はアドラー心理学を参考にしている。アドラー心理がにおいて共同体感覚と言う言葉は彼の心理学のコアであると言っても過言ではないが、すごくあたりまえの言葉で言うと人は共同体につながることで成長し、共同体を意識することでよりよいライフスタイルを持つことができるという考え方である。MOBはどういう人がここに来ているかということを問題にしてる。DQNや乱暴そうな奴を入会させないというのはそういう人間が与える影響と言うのは大きいからで、そういう人間が来ると共同体の質がさがるからだ。それとは逆に社会で責任をもって働いている人たちが集まる集団は共同体にとって安心できる。アドラーは共同体感覚を持つことが群れをよくし自分をよくする不可欠なものだとしたが、共同体感覚と言うのは「誰かのやくにたちたい」「言い世の中にしていこう」「すべての人が幸せになることを考えよう」「自分たちの未来をよくしよう」という価値観を持つことである。一方その感覚が欠如した人間は「自分のことで手がいっぱいだから人のことにてがまわらない」「自分の思うようにコントロールしたい」「自分だけが目立ちたい」「自分が損することはできるだけさけたい」と言う価値観を持っことで、DQNを入会させないというのはそういう輩はこういうタイプが多いと分析しているからである。MOBは比較的前者の考え方を持った人たちが多く、トレーナーや会員の人たちは自分が損をするとかそういうことは関係なく人のために進んで何かを申し出てくれるのだが、基本的にはボクシングが上手だと言う人間よりもこういう共同体感覚を持った人間が入会してくれるほうがMOBにとってはありがたいし、群れが健全に保てると思う。DQNを入会させないようにしているのは群れの質を下げたくない、会員に安心してトレーニングしてもらいたいからである。さらにこの共同体感覚を持った人たちが集まれば自分のことをもっと考える。少なくともボクシングだけをやっていたらいいと言うような考えにはならない、むしろ言葉を知らなかったり教養がなければこれじゃいかんと刺激されるであろう。実際にある程度教養のある人間の中で話をしたら言葉を知らないとみじめな思いをすることは確かである。それをごまかして自分たちが通用する小さな世界で集まるか、これではいかんと本を読んだり語学を勉強するかは本人次第であるが、その原動力や刺激となるのがそこに集まっている共同体である。アドラーは劣等感が人間を進歩させる原動力だと言っているが、その劣等感も正しい共同体を通してよりよい目的を持つものとなる。例えば金銭的に恵まれない劣等感を持った人がしっかりとした共同体感覚を持っていれば社会で認められる人間いなり生産性の高い仕事につくであろう。そしてそれらの行動は社会にとって有益となる、がしかし共同体感覚がとぼしい人はなければものを盗んだり、だましたりして金品を奪えばいいんだと考える。単純であるが人間の行動のきっかけや目的を正しく導くのが共同体の役割であるというのがアドラー心理学の考え方である。そういう意味で自分はどういう共同体につながっているかということは非常に大事なことだ、ことわざで「類は友を呼ぶ」という言葉があるがこのアドラー心理学を応用させれば、その人間がどういう人間とつきあい、どういう仲間につながっているかということはその人間を見るうえで大きな手掛かりとあるであろう。よくこういうことを言うと偏見だとばかりにみんながみんなそうではないというようなことを言う人間がいるが、しかしこういう考え方は稚拙だ、はっきり言って私は共同体と言うものを正しく健全に保たなくてはならない、そのためのプロファイリングである。


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コミュタリアニズムであること

2016-08-29 | Weblog

うちのクラブでは子供にあいさつは強制しないが、しかしそれはいかげんであるということではない。一応うちのクラブにはひとつの理念があるのだ。うちのクラブはコミュタリアニズム的集団である。コミュタリアニズムと言うのは共同体の価値観は個人の価値観よりも優先されると言うことで、全体を通して正しい行いとは何かということを考えて選び取っていくことである。例えば子供で時々大人が声をかけているのに素通りして行く子供がいる。ほんと何もなかったように話しかけたり挨拶しているのに何も気にせずスーッと行く子がいるが、こういう子供には私は注意することが多い。まあ事情を抱えている場合は別であるが、なぜ注意するかと言うと必ずこの子たちは大人の世話になるからで、マスひとつにしても大人があえて子供のために時間をつくって相手をしてくれる。協力なしにトレーニングができない、そういうコミュニケーションの必要性を教えるためだ。当たり前だが話しかけても相手を何とも思っていない、かかしのように無視するようではマスをしてあげてくださいなんて言えないからだ。だからそれが理解できる年齢にではあるが、なぜいけないのかと言うことを説明して注意するようにしている。さらに私はまわりから見てこりゃあかんやろと言うようなことには注意するのだが、その時決して「お前のために」と言うようなことは言わない。指導者でもことある度にこういう文句をつけて言う人間がいるが私には理解できない。確かに結果的にはその人間のためにはなるのだろうが、しかしなぜ注意するときでもその人間を中心において考えなくてはならないのか。実際に迷惑がかかったり不快な思いをしているのは相手であったりその共同体であるのだから、君のやっていることはまわりに迷惑がかかるとか不快になるんだよということをはっきりとなぜかということを伝えなくてはいけないのだろうが、しかし日本人は相手の気持ちに入りすぎるのだろうか、間違った部分にはそれはダメだと踏み込めずつい納得さそうとするのだ。私は小さいうちから共同体感覚と言うものをはっきりと意識させ自分は社会の一員なんだと言うことを芽生えさせていくことは大事だと思う。日本人はしかる時善悪を区別させるよりもむしろ相手を納得させる。本来ならば共同体あるいは社会につながるものとしてそういう善悪を判断して共同体に迷惑をかけないというのがコモンセンスであるのだが、そういうコモンセンスをしっかりと意識させることで人に迷惑をかけたら罰せられて当然だ、悪いことをしてはいけないという考え方にもつながると思う。私は道徳教育と言うのはこうだからこうしましょうとか心にうったえかけて相手を納得させるのではなくて、徹底して善悪について話し合い社会的ルールや規範を教えるものだと思っている。ユダヤの戒律の十戒と言うのはまさに何々するなという厳しい戒めであるが、こういう厳しい戒めをもって道徳教育を展開していくことも必要だと思っている。うちのクラブはコミュニタリアンである。私はどうしたらみんなが平等に楽しくトレーニングできるかということをたえず考えているが、性別や立場年齢など違う人たちを平等に正しく導いていくのはやはり共同体と言うものをしっかりとらえて何が正しいことで必要なことかと言うことを考えてみんなが楽しく平等にトレーニングできるようにしなくてはならないだろう。


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おっさんホイホイ

2016-08-26 | Weblog

夜9時過ぎのリングを別名「おっさんホイホイ」と言う。9時ごろになると女性も少なくなり、それまで遠慮して隅っこのほうでトレーニングしていたおっさんたちがここぞとばかりにリングを占領、そしておっさんたちのマスがはじまるのだが、9時ごろになるとすいよせられるようにリングにささーっと集まってくるそういう現象をおっさんホイホイとよんでいる。うちのクラブは女性とおっさんが多いのだが、その中でもおっさんたちはまわりに気をつかう。この前もある人に「したっぱ感はんぱじゃないですよね」とからかったら「いやいやしたっぱですよ」笑っていたが、よくモップでリングの汗をふいてくれたり、気をつかってゆずってくれたりマスの相手をしてくれたりととにかくうちにはしたっぱ感満載のおっさんが多いが、しかしこういう感じのおっさんはうちのクラブの特徴で、こういう人たちがクラブの雰囲気をよくしてくれていることは間違いない。そしておっさんたちは仲がいい、若頭などは入ってくるなり開口一番に隊長今日来ましたかと聞いてくるが、それは若頭だけではなくお互いがいい意味で関心を持って協力し合っているのだが、うちのクラブは目立ちたがり屋の目立った人間ではなく、こういう縁の下の力持ちによって盛り上げてもらっているクラブである。

うちのクラブはおっさんと女性が多いボクシングクラブだ。だから普通の格闘技のクラブと運営の仕方が違う。特にうちのクラブは知的教養なども含めて常識的でなければまわりの人間も安心することはできないであろう。うちのクラブによく外国人が来る。この前なじみの人間が来たので英語で会話していたら、女性会員がすごいと言っていた。しかしこんなことは当たり前の常識だと思っている。むしろ多少の英会話ぐらいはできないとダメだと思っている。うちのクラブは留学経験があったり英文科を卒業している人も少なくはない。だから責任者である人間が共通語である英語を多少なりとも話すことは必要なことだ。知的な要素がかけてくるとその群れは乱暴になったり、でたらめになったりするものだ。程度のひくいクラブは体育会系のルールがすべてで礼儀正しいと勘違いしているが、しかし人間の群れと言うのはいろいろなレベルの人間、それこそ学歴の高い人間もいるのだからそういう人間たちにもあわせられるレベルで物事を考えなくてはうちのような社会的集団はうまく導いて運営することができない。子供の接し方ひとつにしてもなぜこう接するのかと言うことを深く考えて、時にはまわりがああそう言う意図があったのかと言うような深いレベルでの考え方を表すことも非常に大事なことで、そう言ったことはボクシングしかできないというレベルではできないであろう。物事を深く考えると言うのは材料がなければ考えられないただの勘繰りとなる。本当に深く物事を考えるためには本を読んだり語学を学んだりと知的材料が必要である。そう言ったこともせずに人に考えろとかあいさつしろとか言うのは指導者としてはちゃんちゃらおかしい、まず自分が思考能力をあげるために言葉をおぼえたり勉強すべきだと思う。

 

 


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The book of leviticus 

2016-08-24 | Weblog

とか愛読書までとはいかないが孫子の兵法をよく読むのだがその作戦篇にこうある。「敵を殺すものは怒なり。敵の貨を取るものは利なり」これは私の好きな言葉だ。大方の意味は敵を殺してしまうのは思慮をうしない憤怒にかられたのでよくない、しかし敵の敵の物資をうばいとって利用することはその利を冷静に判断するものだと言う意味である。試合になるとどうしても相手をたおしてやるとか意気込みがすごいが、しかしそれだけの大舞台であるから自分が成長することも考えてきちんと戦術自分がやるべきことを備えて挑むことが賢明である。何をすべきかどう戦うかという戦術は日ごろのシュミレーションがきちんとできていなければできないものだ。よく秒殺してやると言って逆にまけてしまう人間がいるが、非常にみっともない、こういうタイプはきちんと自分の戦術をシュミレーションできていない勢いだけで言っているのだと思う。戦いにはシュミレーションが大事である、そしてそのシュミレーションは多くの大舞台いわゆる試合を経験することにより確実なものになっていくものだと思う。最近オリンピックでも年をとった人間が有利で20代後半以上の人間が活躍できるのもこういったトレーニングが盛んで経験によって戦略や戦術を練れるからだろう。

だいぶ前にある大学関係者にイスラム教のウンマを研究しているのだが何かいい文献はないかと聞かれた。イスラムは日本語の文献がとぼしいので英語ならたくさんあると答えたら、翻訳するのに時間がかかるからいいといわれたのだが、ウンマはイスラム独特の宗教的な共同体であり、イスラム教の教えに基づいて形成されている共同体でその共同体は縦軸によって構成されるものでもなくお互いが平等と言う立場で助け合いによって形成されているそれ自体は非常に正しい共同体である。最近イスラム過激派によるテロが多発しているが、よくイスラム教徒がテレビのコメントで言うのは、あれはイスラム教の教えではないと言うことである。そういう共同体において信仰を固く守ってきたイスラム教徒は過激派などのテロ行為を見てあれは違うと思うだろうし、確かにそれはそうである。しかし問題なのは彼らの神学ではないかと思う。欧米の大学などでの宗教学科やキリスト教学科などは比較宗教学(どの学問所謂文系と言う学問においても基本であるが)があってたいていは他の宗教と比較したり哲学的な思想と対峙したりして考え方を広げていくのだが、おそらくイスラム教の神学を学ぶ機関はそれが大学などの最高学府であってもただ信仰をたかめるためのものだと理解している。もうだいぶ前たぶん私が学生の頃だと思うがローマ法王が他の宗教にも救いを認めたが、これは非常に過激な言葉で、キリスト教の根本をくつがえしかねない言葉であった。しかし学問のレベルがあがり、そして人間の生活がかわった今、地球は回っているというレベルで我々は生きているわけではないのでいろいろな宗教や思想などと対峙して世界を考えていく必要がある。このローマ法王のpantheism 的な発想はドラスティックではあるけれども平和と言う視点に立って考えれば正しいメッセージであるとも考えられる。ここからは少し主観的になるが何千年前の教義や教えに固執していると考え方が閉鎖的になりそして攻撃的になる。よく聞くのがある宗教の信者に間違えて豚肉のちょっとしたエキスをつかったとかで怒りをあらわにして抗議されて賠償金をとられたとかいう話であるが、彼らはこういう信仰的なことになると人がかわったように相手を攻撃するのだ。聖書で豚肉や甲殻類などを食べることを禁じているのは(book of leviticus参照)菌などによる病気をおそれたからで、そういう生活の知恵が書かれたのが聖書であって、科学が進んだ現在は何千年前とは違うのだからある程度科学的な視点をもって宗教を理解して行くことも必要ではないかと思っている。だいぶ前にある評論家よりも前に挙げたミシャルウエルベックの「服従」と言う小説はある意味フランスの未来を予言した警告本であっても過言ではない。

 

 

 


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オリンピックで金を噛んだら罰金

2016-08-23 | Weblog

human trafficing (人身売買)のちょっとしたシンポジウムに通訳として参加した。人身売買はおもに東南アジアなどで女性や子供が奴隷として売買されているのだが、売られた人間は労働や売春などを強制され、中には臓器をとられるために殺され、最近ではその売買がインターネットなどで行われているのだが、彼ら彼女らは抵抗できない貧困層やマイノリティである。

だいぶ前オリンピックで日本人が金メダルを本物かどうかということで噛んでそれを証明するバカげた行為があったが、はっきり言ってあれは不適切、本当にイラッとくる。これはフィリピンのCAから聞いた話であるが、フィリピンでは金の採掘には多くの貧しい子供たちがかかわっていて、その多くが貧しさゆえに家族を助けるために命をかけて金を採掘するらしい。中には深さ25メートルほどの今にも崩れそうな井戸にわずかな金をとるためにもぐるそうであるが、それは間違ったら死につながるそういう危険な作業に2万人以上の12歳未満の子供がたずさわっているのだ。たぶん金をかんだ奴らはのりと勢いでやったにすぎないが、しかしもう少し世界に出ていくならばこういう現実をよく理解してから行けと思う。こいつらは命がけでスポーツを競技していると言うが、しかしその12歳未満の子供たちは本当に命の危険にさらされながらわずかな金を採掘しようとしている。それだけではなくこういう過酷な児童労働を強いられているのはユニセフの発表では1億5000万以上いるのだ。にもかかわらずそれを本物かどうかなんてテレビに向かってオリンピックと言う世界の舞台でやるのだから、本当に程度がひくい、本来ならば罰金ぐらいとってやったらいいと思うのだが、私が競技者に見聞を広めるために勉強しろと言うのはまさにこういうこと、次の東京オリンピックまでには英語を話す競技者を20パーセントぐらいにするとか、教育面にも力をいれるべきだと思う。


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What do you see into the mirror?

2016-08-19 | Weblog

夜の9時近くになるとおっさんたちがジムに集まってくる。タイミングがよければ次々とおっさんたちが来るのだが、我々はこの現象をおっさんホイホイ現象だと言っている。うちのクラブにはおっさんが数多く存在するがやはりおっさんはどこでも気をつかうようである。日本と韓国の違いは日本では非常におっさん世代が気をつかうことだ。向こうのおっさんは非常に態度がでかく偉そうだ、しかし日本人は40代ぐらいになるとまわりに気をつかって生きているように思える。40代ぐらいになるとある程度ステータスもあってお金に余裕もでてくるが、しかしそれでも人に気をつかうことが多く、ストレスを一番抱える世代、そういう世代を励ましたいということでボクシングクラブを運営した。だから女性やおっさんが多いと言うことはありがたいことで、これからも彼ら彼女らを中心に励ましていきたいと思っている。

うちのクラブは本当に女性とおっさんだらけである。たぶんうちのクラブのゆるい雰囲気がなんとなくあうのであろう格闘技なんてやったことがないおっさんたち、「私リズム感ないです」「運動したことがありません」とか言う人もざらにいる。しかしリズム感がなくても運動経験がなくてもまわりを気にせずトレーニングに励める。ここではボクサーだからとか格闘技経験があると言うことはまったく問題にしない、中年や運動経験がない女性も堂々とトレーニングできる場がうちのクラブのモットーである。

これは前にも書いたがフェミニズムの講演の中にこういう話があった。二人の女性ひとりは白人女性そしてもう一人は黒人女性。フェミニズムを主張する白人女性に黒人の女性がこう言った。「あなたは朝起きたら鏡に何が見える?」白人女性は言った「女性が見える」しかし黒人女性は言った「そこが問題である。なぜなら私が朝起きて鏡を見たら黒人が見える。人種とは私の目には見えるけれどもあなたの目には見えないものなの、それが特権というものよ」そして講演者は続けるもしあなた方が一瞬でも人種のことを考えることがなかったらそれは贅沢なことだ特権を持っている人にはそれが見えない。話はクラブの話になるが格闘技のクラブと言うのはどちらかと言うと男性社会で日本人で男性であると言うことはジムにおいては特権を持っている。まあ特権と言っても実社会とはまったく別の話であるが、しかし男性で日本人そして競技者であると言うことはすでにクラブにおいて特権を持っていると言っても過言ではないと思う。何が言いたいのかと言うとダイエットでも健康維持でも気軽に入ってこれると言うのであればもう少し勉強しろと言うことだ。おそらくクラブはジェンダーだけではなく年齢や能力の問題など様々なディスアドバンテージが(私は思っていないが)存在する。年配の女性が迷惑にならないようにトレーニングすると言う声を聞いてどう思うか?そんなことはない自由にやってくれと言うのは無神経な言葉のようにさえ聞こえるが、我々教える側はこの特権を外して相手のことを考えなくては本当の問題が見えてこない、このいろいろな立場の人たちが集まる群れを正しく公平に導いていくためには様々な問題や思いが見えていないと偏ったアウトロー中心の集団になると言うことだ。こんな小さい世界はたかだか知れているが、しかしクラブに属する人たちにとってはここに来たときはその世界の住人になる。私自身も一応日本人、競技者であった、そして男性であるので格闘技の世界ではこの特権を持っていると言ってもいいだろう。まあ男性であること以外は一応と言うカッコつきではあるが、それでもクラブでは特権を持った一人の人間である。ボーボワールと言う女性は女は女として生まれるのではなく女性になっていくのだと言うするどい言葉をのこしている。これは男性社会で女性が抑圧されているということを意味しているのだが、女性の立場さらによわいものに対して目を向けることはその集団がいかに社会的集団であるかと言うことを意味している。自分たちは楽しくやってます。と言う時その楽しくやっている自分たちとは誰のことか?よく考える必要はある。ここでは怒号をひびかせたり、裸でトレーニングをするのは禁止していると言うかそういうことをする雰囲気はない。それははっきりとは言えないがそれはジェンダー的なこともあって女性を軽んじてはいないから、そういうことが自然に起こってくるのだと思う。うちには体育会のようなルールや上下関係など存在しないが、しかしジェンダーや国籍や年齢を越えて平等にトレーニングできる社会的集団でありたいと願っている。

 


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オリンピズムとは何か 2

2016-08-12 | Weblog

ヘギョンが話をしている時、いきなり「ぎゃははは」と笑いだした。「お前何笑ってんだ」と言うと「必死でこらえていたけどもうだめだ」と笑う。何のことかわからないが笑い終わってわけを聞いてみると。どうやら私の日本語にあったようだ。私は基本的に日本語が理解できる外国人には標準語で話すのだが、その標準語が木村拓哉が話し方に似ているらしく、それはまるでお笑い芸人が物まねをしているようで、すごく滑稽でかなりうけてしまったようだ。

この前オリンピズムについて話をしたが、これからのアスリートは世界の国に思いやりを示す必要がある。いろいろな国でその国が抱えている様々な現状を目の当りにしたらこれでいいのかと思うはずだが、そういった現状を救うのは宗教では不十分だ。オリンピズムの基本的精神は「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」だ、スポーツを競技するものがいろいろな国の現実をおぼえて競技することは夢物語ではない、それはさらに教育によって実現できるものだと理解している。サッカーをするにしてもただ偉大なアスリートになるだけではなく、そのサッカーを通して自分は世界に何ができるか、貢献できるかということを考えることができるのが一流の証だと思う。前に大阪の大きな本屋で立ち読みをしていたのだが、その本屋はかなり大きくその本屋にはスポーツのコーナーも置かれてあって、私は格闘技の伝記まがいのようなものを読んだ。しかし格闘家の伝記みたいなもののたいていは自慢話だ、簡単な言葉で武勇伝がつづられているが、私などは立ち読みした程度で内容がすべてわかる本当に薄っぺらく、いわゆるなりあがりストーリーはスポーツを教育の場としてとらえるならばそれはいささか不適切だと思った。オリンピズムの基本的精神に「文化や国籍の差異をこえる」とあるが、この差異をこえるのはお互いをまず理解することである。実際に日本もこの差異をこえるために国際交流の重要性を認識している。企業では英語を重視し、学校では外国人の英語の教師を呼んだり、地域でも文化交流と言うような機会を持ってお互いの文化を知ろうとする試みは非常に大事なことだと思う。しかしクーベルタンの言う差異をこえる国際交流とはそれだけでは不十分だ。私は差異を越えると言うのはただ相手のそういった文化を共有するのではなく、相手の痛みを知ることだと思う。震災がおこればそのことをおぼえて自分には何ができるかと考える、そしてその国でおこっている貧困や悲惨な現状に目を向けること、そういうことをおぼえることがその差異をこえて、そしてそれは協力と言うかたちになっていくのだと思っている。私は日本人はすぐれた民族で、日本の戦争は侵略ではない、東京裁判は不公平で間違っていると思っているが、しかしどちらかと言えば多くのアスリートはイルチェで、オリンピックなどで出場しても応援しない。しかしサッカーだけは別で、応援する。ワールドカップなんかは興味があってテレビ中継があったら見てしまう。なぜならサッカー選手の中には言葉をおぼえてそういう現実に痛みをおぼえて寄付したり、広くボランティア活動をしている人間が目立って存在するからである。

これは私の意見かもしれないが、日本のアスリートは自分勝手な人間が多い。所謂目立ちたがり屋、自分のことしか話さない、人の痛みがわかると言っても所詮仲間意識でしか物事を見ることができない、そういったことはただ記録だけを重要視して勉強もさせずにクラブ活動に専念させることと無関係ではない。投げる、打つ、走るというようなことだけでは人間は成長しない。頭を耕さないで技術がうまくなってもそれは芸だ、肝心なのはクーベルタンの言うよう精神をみがくことで、それは精神力とかそういったことだけではなく、平和でよりよい世界の実現とあるように、頭を耕して知性を身に着けることも大事なことである。

 

 


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オリンピズムとか何か

2016-08-08 | Weblog

おとついのヴァレーボールは韓国が圧勝、正直私は応援スポーツは国によって違う。代表的なところではサッカーは日本だが、ヴァレーボールは韓国そしてボクシングは思いっきり発展途上国を応援してしまう。最近ブラック部活などと言う言葉を聞くがヴァレーボールはその代表的な部活でよく問題になっている。どこかの運動クラブはその親の集団自体が村社会になっていて顧問の暴力や暴言などを容認していると言う話をそこの親から直接聞いたが、頭を丸刈りにさせたり、拘束時間が長く朝練なんて勉強できないようなトレーニングは人権蹂躙暴力と同じである。私はこういう話が多く問題となっている自分たちの世界でしか物事を考えることができないまわりが見えていないスポーツなど応援する気にはならない。

人身売買に問題を感じて以来発展途上国の国の人たちと交流を持つようになったが、日本は本当に平和だ。私は毎回オリンピックが開催されるたびに思うことは日本は競技者が高年齢化していることである。テレビなどでも40にも近いおっさんやおばさんたちがそれに打ち込んでオリンピックに出ている姿をよく見るのだが、それは飽きたということを通りこしてみっともない。まあ人それぞれと言ってしまえばそれまでだが、2回も3回もオリンピックに出てくる人間を見たらもういいだろう他の人間にゆずってやれよとさえ思う。日本は本当に平和で好きなことができるのだから本当に幸せであるが、それは自分たちがたまたま日本人に生まれてきたからで、そういった余裕がない貧困にあえいでいる国さえも少なくはない。何が言いたいかと言うとオリンピックと言うのは世界各国からいろいろな国が集まってくるのだから、もう少し全体から個というものをとらえてまわりのことも考える必要はあるということだ。経済効果がどうとかいうのも大事であるが、しかしその多くの国が集まるからこそ自分たちを他者とのかかわりの中で考えるべきだと思っている。これは私の意見であるが競技者はただ好きなことだけをやっていたらいいというわけではない、今やコスモポリタンで人とのつながりを考えなくてはいけない時代で、自分たちよりもめぐまれない国や人身売買などのえげつないことが起こっている現実に目をむけて思いやりを示す必要がある。スポーツは国境をこえるというがまさにそういう競技者は代表であってそういう義務をおっていると思う。「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」というオリンピズムは、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿である。よく顧問は日本一になれとか世界を目指せと言うが、しかし教育がかけた記録さえのばせばいいという考え方は思いっきり間違っている。今自分が競技している国がどこにあるのさえもわからない人間、テレビに出てきても部室で話す程度のことしか話せないような人間がはたして本当に代表としてふさわしいのだろうか。最近ましになってきたと言うが、しかしまだまだアスリートの教育レベルがひくい、朝練とかトレーニングの拘束時間が長いのだから勉強できるはずはない、まずはきちんと勉強する時間を与えて知識を与えて「知る」と言うことを教える必要があるだろう。そしてもし可能ならば海外遠征の時にそこの国でおこっている現実をきちんと学習させたらいいだろう。

 


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体育会の掟が黄金律だと持っている奴はグローバル的なアホだ

2016-08-04 | Weblog

オリンピックがはじまろうとしている。正直興味ないが、しかし次は東京でオリンピックが開催されようとしているのに未だアスリートには語学が普及していない。語学ができない主張できない日本はロンドンでもインチョンでも結構えげつない目にあわされたようだ。スポーツ指導者の多くは自分の子がいたちには親でも言えないようなことを言ったりエラそうな態度で接するのに外国に行くと何も言えない、借りてきたネコの子のようにおとなしいからなさけない話だ。国際社会ではせめて英語が話せないとかなりのディスアドバンテージだ。ファイティングスピリットとか侍魂などと言うのであれば英語をおぼえて不服なジャッジに対して抗議してみろと思う。ロンドンでもインチョンでも苦い目にあっているがまだ日本人は言葉のこわさを理解していない。トレーナーレベルであれば技術的なことを教えるので英語を理解しなくてもいいだろうが、しかし指揮官である監督は英語が話せないと国際社会では通用しない。自分のテリトリーではおいそことかエラそうに人を物でも扱うように戒めたり、おしめをかえたわけでもないのに親でも言わないようなことをさもわかったように言うが、しかし自分のテリトリーでないとものが言えない、英語が話せない人間は頼りならない、さらに日本語の語彙力もひくい人間は言語道断であるが私がアスリートならば英語が話せないと言う段階で見限るだろう。

話はアスリートの話になるがそれしかできない人間は自慢話か自分の狭いフィールド内でしか話ができないので非常にうっとうしいしおもしろくない。人が普通に話していても自分はもっとすごいとさらに上の話をしようとする。言うことも目立つようなことしか言わない、自分は監督から特別扱いされていたことをさも自慢げに言うような奴もいたが、本当にこいつらの世界は一般の常識からはずれているように思う。そもそも体育会のルールなんて子供のお遊びのようなもので、ああいう掟のようなものが絶対だと信じさせるような指導はちゃんちゃらおかしい。もっと勉強しろと思う。これはある企業の人間が言っていたことだが、その企業は個人事業主を扱って仕事をしている大手メーカーである。個人事業主と言うのも十人十色で中にはやっかいな人も多くいるらしく、そのやっかいな人たちというのは自分自身で起業してきたので自分たちのルールしかわからない、さらに経済などの専門的な勉強などもしたことがない人たちで、そういう人たちに企業の戦略やルールなどを伝えても理解しようとしないらしい。裸一環でやってきたことは認めるが、しかしこれからのビジネスは戦略が重要だ、おそらく企業と言うのは10年後ぐらいを見通した今を見ている。そういう戦略があるのに過去と今しか見えない人間ははっきり言って弊害だ。俺たちはこうやってきたからとか言うような人間は過去しか見えていない人間だ、もう少し見聞を広めたらいいのだが、なんせ狭い世界でしか生きていないので自分たちのやりかたやその価値観が正しいとゆずらない、そしてゆずらないことが信念だと勘違いしている。それしかできないアスリートはこういうやっかいな個人事業主とかぶるのだが、でかい声であいさつしたり一応敬語もどきで話すことができても、きちんともののしくみや人間関係や倫理、そして共同体というものが理解できなければ共同体としては未熟である。自分の能力の限界を知ってひっそり生きているぶんには問題ないが、しかし共同体や企業体として機能するためには全体を通して自分を見ることが求められる。所謂客観的な考察、学問的な考察が必要である。言わずともわかるが学校の規則をやぶって髪をど派手にそめたり、人に不快な思いをさせるような奴はわけのわからない自分たちの理屈を持っているがそれらは往々にして恣意的で世の中を通して自分たちを理解していない、こういう奴らには倫理とか共同体レベルで話ができないからやっかいで、少し高い次元での理解ができないから中高生のレベルの体育会の掟がすべてだと思いこむのだろう。スポーツの群れも教養がある人間が集まってくると自ずと全体をとおした自分を考える人が集まり群れの質はよくなってくる。しかし自分の自慢話や武勇伝、過去の小さい栄光にすがるようなそれしか知らないアスリートが集まると群れが体育会のような群れになるのだが、そういう群れにつながっていても進歩はない。本当に群れの質をあげたかったら責任者が教養のレベルをあげて指導する必要がある。

 

 

 

 


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