脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

I was born in japan

2009-10-31 | Weblog
「ハーフはなぜ才能を発揮するのか」という本がある。
まだ読んでいないが、大変興味深い内容なので買った、そこにはアジア人のハーフについて書かれている。
実は私はエイジアンハーフである。
性格に言えばMixed bloodとでも言うのだろうか、ハワイの言葉ではHapaである。
エイジアンハーフに限らずハーフと呼ばれる人間は、たいてい2ヶ国語以上は話すのだが、ハワイでHapaにであうと、よく聞かれるのは、あなたは家で何語をつかうかと言うことだが、こんなことはまず日本では聞かれないことである。
たぶん二つの民族の間に立たされている子供は、一般の日本人に比べて考え方が違うし、感じ方も違うだろう。
おそらくこれを読んでくださっている人の中には「ああそれで、彼はこういう考え方をするのか」とうなづいている人もいるだろうと思う。
留学時代に私の知り合いの在日韓国人から「時々岡崎さんは、絶対この人日本人じゃないなっていうことをするんですよねっ。よくわからないけど、こんなこと日本人なら絶対しないよなあってこと時々ありますよ」と言われたことがある。
その時はかちんときたので「じゃかましいわい。日本にいる外国人にそんなこといわれたくないわい」と言ってごまかしたが、確かに思い当たる節はいくつかある。
二つの文化をもつということは、時にはもう一つの文化を否定しなければならないから複雑である。だからそういう打消しの意味で、一方の文化とか、考えを強く主張するのかもしれない。
話は少し変わるが、他民族との間に生まれた子供は、日本では複雑な環境におかれる。
なぜならアメリカのように、自分がアメリカ国民であることと、民族は違うという考え方ではなく、民族と国民は同じであるからだ、われわれはその間で葛藤する。
しかしアメリカの場合は日本人であることが、生まれつきであるというような考え方はなく、アメリカ国家に属するものがアメリカ人と言うことから、アメリカ国民であることの国家にたいする責任は大きい。
兵役で国のために、イラク戦争に見られるように、戦争に派兵されることがあるように、アメリカ国家に時には武器をとってまでしても、忠誠を誓わなければならないからである。
私の恩師の娘さんが日本で生まれた日本人なのだが、もうこっちに何十年もすんでいるので、アメリカの国籍を所得するためにパスポートを申請したそうである。
しかしあることを理由に却下されたそうである。
もう何十年もこっちにすんで結婚もしているのにと思うのだが、アメリカ国籍が取れなかったその理由と言うのが「あなたはアメリカのために武器がとれるか」ということを聞かれた時に「ノー」と答えたからだそうである。
ただそれだけの理由であるが、国民になるということは、国のために忠誠を誓うことほかならない、それがあなたはアメリカのために戦うことができるかである。
しかし今の日本にこういうアイデンティティがもてるだろうか。
はっきり言ってこのアイデンティティを持つということは、軍隊をもつということとかかわっている。だからとうてい日本にはそういうものがもてない、だから天皇制なのである。
実際われわれはこの天皇制と言う名のもとに日本人であること、そして日本国民であるということが保障されているのだが、はたして今の日本人がこれらのものをこわして、新日本人と言う考えが構築され、その名の元に国家が機能していくかというと、軍隊をもてない日本人はできないといえるだろう。
3年ぐらい前に香港のエリートと話したことがある。
ほとんどオフレコ的なはなしであるが、イギリスや欧米の文化生活を十分享受してきた彼ら彼女らにとって、中国は異国でもあるらしく、正直、干渉されたくはない、独立してもいいというようなことを言っていたのだが、それができない。なぜできないかというと、軍隊などもてないからだと言っていた。
私は天皇制を否定するグループとは意見はあわないし、右翼でもない、しかし現実問題として、軍隊をもてない日本にとって、この天皇制は、日本人のアイデンティティと言うよりも、日本人であることを保障していくためのひとつの選択かもしれない。
私たちの考えでは、この日本が単一国家であるという強い考えを持ち、システムの中にあるのならば、自分たちの本当のアイデンティティというものを見出すことは難しいかもしれない。
だから私は、そういう他民族の間に生まれてきた人間には、留学することを勧めている。
日本でもどこでもそうであるが、単一民族国家であるならば、われわれのような存在は、本当にうけいれられているのだろうかわからないし、自分が本当に何者かわからないだろう。
これはあるアジア人の父を持つ人間が、高校生の時に自分の父はアジア人であることを友達に明かしたそうであるが、その時友達は顔が同じだから気にするなと言ったそうだが、それはなぐさめのことばにもならない。
私も向こうの人間にイルチェ(日本製)と言われたことがあるが、実にそれは排他的な言葉であり、単一民族であるから言える言葉だ。
しかし私はこうだから日本はだめだ、だめだから外国に出て行けと言うつもりはさらさらない。
日本は素晴らしい、日本人は優秀である。そのことを逆に外国にでたら分かることが多い。
だから言いたいことは、こんな小さい国で誰も自分のことを分かってくれないと言うよりも、外に出て行って確かめてくればいい、そういうかたちで自分を受け入れてくれる人間と必ず出会うことができるし、外国にいけば日本人のよさがわかる。
実際私も恩師である日本人から、その日本人の素晴らしさを学んだし、この方に出会った時、自分に日本人の血が流れていることに、誇りをもてたし、そういう出会いが必ずある。
そういう出会いをするために、自分の殻に閉じこもらずに、積極的にかかわっていくのである。
そういう体験をして、さらに日本と言う国に誇りがもてれば、この日本に生まれたこと自体を感謝できるようになると思っている。









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ポジティブだけでは勝てない

2009-10-28 | Weblog
スポーツ科学の分野では、試合前のそのメンタリティにおいてポジティブな思考を要求する。
たとえば試合前はなるべく、勝ったことをイメージするとかして、あまりマイナス的なことを考えないようにするのが、一般的な考えである。
もちろんこの見解は一面的な考察であるが、スポーツの世界ではマイナス的なことをあまり考えず、なるべくものごとをいいように、ポジティブにうけとっていくことが、今の主流の考え方である。
今だからこういう考えは一般に広くいきわたっているが、しかしわれわれの時代はなかなかこの考え方を受け入れがたいものがあった。
その当時日本人はほめられるというよりもむしろ、しかられてそれをばねにして育っていくのがわれわれの考えであったが、私はそういうこともそうであるが、何となくわれわれの生き方の中に根付いている何かが、根本的に違うと言うことから、この考え方がなかなか、なじめなかったのではないかと思っている。
西洋人から見て、東洋人はどちらかというと悲観的に見えるらしい、勝負事においても、負けたら後々までひきずる。
あのフランダースの犬の原作を無視して、ハッピーエンドに持っているところに、彼ら彼女らのポジティブ思考というか楽観的な態度がみられるが、しかし日本的志向の強い人は、そうは考えられないだろう。
東洋人は失敗をおそれる。それはそれをいつまでもひきづるからだ、そんなこと忘れて前向きに考えて、また一から練習すればいいのにと思うのだろうが、しかし私はむしろこの東洋人が西洋人よりも悲観的だという考えの中に、我々が逆境におかれた時の強さがあらわれているのだと思う。
大学の先生でユダヤ人の先生がいた。
ユダヤと言えば西洋だと思っているが、大きくわければ東洋の国の人間である。
この先生かなり豪華なコンドミニアムにすんでいた。
そこはパイロットや医者、大学の教授らがすんでいる、プールとスポーツジムが設備された、いわゆる金持ちのマンションであるが、ここに台湾人のピーターと言う男と、一緒にまねかれたことがある。
一言では形容しがたいが、エレヴェーターからして違う、高級コンドミニアムである。入り口に入るとインターホーンが。
私たちだとわかると、ドアが開き私たちは警備員の前を通ってエレヴェーターに、それから先生の家に通されて、私たちは写真などを見せてもらったのだが、ピーターがあることに気づいた。
それはベランダを見てみると、何か掘っ立て小屋のようなものがたってあって、非常に高級コンドミニアムとは、ミスマッチなオブジェクトであった。
何であんなもんがあるんやろうと、最初は不思議であったが、私はこれと同じことを思い出した。
実はこの掘っ立て小屋は、彼ら彼女らの宗教儀式につかわれる小屋である。
ユダヤ人には1年の間に覚え、守らなくてはならない日があって、この掘っ立て小屋は、その一つであるPass over(過ぎ越しの祭り)をおぼえて記念するための小屋である。
このPass overという祭りはどういう祭りかと言うと、簡単に今から4000年ぐらい前にエジプトに支配され奴隷であったイスラエルが、そこから開放されたことを記念する日である。
この日はいわば勝利の日であるが、ユダヤ人はその日、大いに喜び、美酒を酌み交わし、食べて騒ぐかというとそうではない。
むしろこの日は質素な食事をし、トーラーや聖書を読んで静かにすごすのだと言う。実はこの日記念するのは、エジプトから開放された勝利ではない。彼ら彼女らが、うけた奴隷時代の屈辱であり、この日、奴隷時代に味わった種無しのパンを食べ、もう二度とこういうことは繰り返してはいけないということを誓う、今更4000年前のことをおぼえてと思うかもしれない、しかし4000年前であっても、その民族の恥を覚え続けて、二度とそれがないようにと、刻み付けおぼえる日、それがPass over(過ぎ越しの祭り)である。
この先生の家に掘っ立て小屋があるのは、その奴隷時代を思い出すために、そこで過ごすのだと思うが、こういうことからも分かるように、ユダヤ人と言うのは我々が考えるよりもむしろ失敗を繰り返し覚え、その失敗から大きなものを学ぶ民族なのである。
そこがユダヤ人が逆境に強い理由かもしれない。
最近の選手の傾向を見ていると、みんな負けても意外とあっさりしていることに驚かされる。
そりゃあ社会人になってまでそこまで悔しがることはないが、しかし高校生や、大学生と言われる人たちもそう言った様子はない。
そういう点だけはアメリカ人に近いものがあるかもしれない。
しかし失敗こそ忘れてはならない。
なぜならその失敗がわれわれを大きく変えてくれるチャンスであるからだ。
よく欧米人は日本人を悲観的だというが、これは逆に考えればわれわれのアドヴァンテージである。
最近の主流ではポジティブシンキングと言って、試合に臨むときは自分が勝った時のイメージやとにかくプラス思考に物事を考えて行くという傾向があるようだが、しかしこれは西洋的である。
確かにポジティブに考えることをおおいに必要だが、しかし東洋人的にはその失敗も繰り返し覚えなくては、本能的な何か、強さをひきだせないのだ。
私は向こうでボクシングを経験したが、間違いなく日本人は遺伝子的に、逆境から何かをつかむということに長けていると思う。
スポーツ科学を研究するのも重要だが、精神的な何かをわれわれは求め、戦うことも必要である。







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バックボーンの違い

2009-10-26 | Weblog
私の知り合いの子供がいじめられていると聞いた。
どうやら何人かの子供が、彼をこついたりして彼、からかっているらしい。
このいじめだが、知り合いの小学校の先生に聞くと非常に陰湿で、こういうケースは早めに手をうっておかないとたいへんなことになるらしい、最初は2、3人のからかいが、抵抗できないとわかったらクラス全体のターゲットになるそうである。
ここオリーヴにも、何人かいじめから立ち直るために来ていた子供たちがいる。
いずれも問題をある程度解決して、学校にもどったのだが、たいへん骨のおれる仕事であった。
私はこういう子供たちが来ても、無責任に立ち向かえと言うことは言わないし、やられたらやりかえせということも当然言わない、格闘技などのジムではそういうことをいいそうだが、まずここはうらみをはらす場ではないということと、いじめと言う問題は、やられたらやりかえせとか、立ち向かって行けという問題だけでは解決できないからだ。
もちろんスポーツなどを通して、自信をつけるという方法もひとつの方法であるが、しかし最近のいじめはもっと複雑なものであり、短絡的にこの問題を取り上げるのは危険である。
いじめというのは、世界各国どこにでも例外なくおこっているが、特に欧米諸国の先進国のいじめにたいする取り組みは、まずいじめが起こるという前提からはいっているらしい。
最近はどうかわからないが、よくいじめなどがおこって問題になった学校が、それを認識していなかったとか、いじめはなかったとコメントするが、やはりそれらはいじめがあるものだということを、前提に考えなかったからだと思う。
だいぶ前、あるドキュメントでカナダかどこかの学校の、いじめに対する取り組みが紹介されていて、先生がクラスメイトを集めて、いじめについていろいろと話していたのだが、驚いたことはいじめを見て何もいわないのは、をいじめているのと同じだと言ったことで、生徒はそれに反発することなく、いろいろと意見を積極的に言っていたことが印象的であった。
これもいじめがおこりうるという前提に立っているから、ここまで自由に話し合えるのではないかと思うのだが、おそらく日本人ならばそこまではいうことはできないと思う。
悪い意味での個人化が進んだ現代、そこまで他人に対する責任なんてもってられないし、そういうことを言ったら自分がいじめられてしまう。
教師もそういうことを危惧して、うかつに、そういう発言はできないだろう。
しかしこれは明らかに宗教的なバックボーンの違いがある。
そして欧米諸国にはそういうバックボーンが十分に存在するのだ。
宗教でなくても、思想や、哲学そういうものがしっかりとバックボーンにある人間と言うか集団は、こういう問題にたいしても解決の意図がみえやすいと思う。
なぜなら人間の生き方とか、命というものに対する基本的な考えが存在するからである。
モーセの十戒というのがある。
これはユダヤ教やキリスト教の黄金律とも言える戒めであるが、この十戒の中に「汝偽証してはならない」というのがある。
これは当時のユダヤの裁判が背景としてあるのだが、この当時の裁判と言うのは人間の証言と言うものが、裁判の鍵となり、裁判は証言を通して行われた。
だからそこで嘘や偽証をしてしまったらたいへんなことになる。
しかしこの「偽証してはならない「shall not give fales testimony against your neighbor.」はさらにもう一歩踏み込んで、他人のためにあなたは知っていることを証言しなさいよということでもある。
私たちのイメージでは中東の裁判などはたいへん厳しく、処刑やむちうちという言葉がいまだにあるので、残酷で人を厳格に裁く裁判と言うイメージがある。
しかしイスラエルの裁判と言うのは、人間の命というものを非常に重視した裁判であったらしい。
ユダヤのおきての中に記されている「目には目を、歯には歯を」という言葉があるが、これはハンムラビ法典からとったもので、われわれはその言葉から「やられたらやりかえせ」という意味にとらえているだろう。
確かにハンムラビ法典においてはその報復という意味あいがつよいだろうが、しかし、ユダヤ人のすごいところは、これを同態報復法として置き換えたことである。
人間であるならば、何かされたらそれ以上のことを、やり返したくなるのが当たり前である。
歯1本をおられたら、5本ぐらいおりかえしてやりたいし、耳をきられたら口もきってやりたいと思うのが人間の心情である。
しかしそれではいけない、やられたのは歯なんだから、耳なんだから、それと同じことをするだけ、がまんして相手を許してあげなさいというように、人の生命を尊重した法律それがモーセの十戒である。
裁判と言うのは人間の命がかかっている。
だから知らない、見ていなかったでは済まされない、当時人の命を救うために積極的に発言することが、重要で、その責任を人々は負っていたのである。
こういうバッグラウンドがキリスト教国であるカナダやほかの国にはある。だからこういう取り組みがかのうなのではないかと思っている。
欧米に比べて日本は哲学や倫理学というものをそう学校では教えないが、実はこういうことをしっかりと教えないことに、問題があるのではないかと思っている。
物事の善悪を学ぶということは、それはもはや人間の感覚的なものではない、宗教学や哲学と言う思想の問題である。
われわれの頃はこどものころ道徳という時間があったが、その道徳という時間は現在もあり、機能しているのだろうか。
悲しいことに教育者であっても哲学についてあまり、勉強してこなかったという人が多い。
しかしこの哲学や、宗教学をしっかりと学んでおくことは、非常に大事なことである。









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Nodding is better

2009-10-19 | Weblog
だいぶ年下の人間だが、時々どうしたら営業でうまく話せるかと聞いてくる。
「何で営業に俺なんだ」といつも聞くのだが、彼が言うには自分は弁がたつらしいいのだが。口がうまいと言わないのは、この前「岡崎さんは口がうまいですから、営業に向いていますよ」と言ったときに「お前そんな日本語でほめてると思っているのか」言ったら、この言葉にかえてきたのだが、まったく現金なやつである。
おとつい彼にアドヴァイスしたのは、話すことではなく聞くことである。
そしてそれを具体的に言えば、どういうタイミングで、どういうあいづちをうてば相手が話しやすくなるかである。
基本的なことであるが、営業と言うと話すことだと思っているが、実はそうではない、話させることである。
相手に何か話させると言うことは、その聞いている人が、聞いているよという合図を送ることであり、その相槌ひとつによって、会話の流れが違う。
人は聞いているよというリアクションをされれば、話しやすいものであり、その「うん」とか「それで」という相槌に引き込まれて人は話してしまうのである。
漫才とはその相槌とか間の手本であるが、しかし最近の漫才を見ていると、あまり興味がわかない、なぜなら最近の若い人の漫才は相槌とか間というものを考えてはいない、いわゆるのりの漫才であるからである。
私はこの営業マンに古い漫才をみろ、特に「やすし、きよし」は最高だ、そして相槌のタイミング、コツをつかんで大いに役立てろといったのだが、この相槌と言うのは会話の潤滑油のようなもので、漫才もこの相槌ひとつによって生かされ方が違うのではないだろうか。
営業の話に戻るが、顧客との会話もそうである。
たとえその社の商品がけなされたとしても、その話が十分聞かれれば、ある程度客は満足するかもしれない。
そのあと気持ちよくなって、逆にじゃあ俺がなんとかしてやろうと、商品をかうことだってさえある。
最後に自分は人をあつかう仕事をしているが、この仕事をしていると結構クレームが多い、クレームがきた時、私はいいわけよりもむしろ、この相槌をうつことであいての話を聞くと言うよりも、取り上げるようにしている。
相手にあわせすぎると長く話されて、仕事にならないと思っている人もいると思う。
しかし相槌がうまくなれば、へたな言い訳よりも相手を納得させやすいから、かえって楽である。
話もそれほどぐだぐだされるということはあまりない。
相槌と言うのは人を相手にしてる仕事では、たいへん重要なことである。
しかし注意しなくてはならないのは、相槌をうつ人が無知では困る。ある程度それなりにそれらのことを知って、相槌をしなければ、それはテキトーに返事をしていることと同じで、無知な人間の相槌はたとえタイミングがよくても、歯車がくるうのである。
相槌をうつことは、非常にむずかしい、しかし人と接し、人をあつかう仕事としては学ばなくてはならない大事なことである。




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おっさんの主張

2009-10-14 | Weblog
私は時々わけがあって韓国に行くのだが、ソウルに行くと必ず立ち寄る店がある。
そこは純粋に酒を飲んで、歌を聞くバーであるが、歌っているのはもちろんアマチュア、仕組みはよく分からないが、たぶんアマチュアのシンガーが腕試しにここにやってくるのだろうと思われる。
それにしても韓国人女性と言うのは歌がうまい、このバーに来たのは友人が誘ってくれたのがきっかけであるが、それ以来、ここに来たら必ずと言っていいほどきている。
以前韓国に日本語の講師としてきたことがある。
1週間ほどの滞在であるが、その時学生たちからノレバン(カラオケ)に誘われたことがあるが、とにかくうまい、中にはWhitony Houstonの歌をほぼ完璧なかたちで歌っていたつわものもいたが、その彼女らの歌のうまさには、おどろかされるばかりであった。
ちなみにここでは割り勘はない、すべて年長者がおごるのだそうだが、一人の学生はソウルは都市なので、割り勘はあるという。
しかしばつが悪いので、すべて支払うことにしたが、あのうまい歌を聞いたのだからある程度納得はするだろう。
これは自分なりの解釈であるが、彼女らがうたがうまい理由は、たぶん母音の数の違いによるものだと思う。
実際韓国語の母音は、日本語の母音に比べて約3倍はあるが、どれもこれも微妙な音の違いであるが、この母音を使い分けている。おそらくそういう母音の多さが、彼女らの音域をひろげているのではないかと思う。
ただどういうわけか男はそんなにうまいと感じたことはない。
特に386世代の男はそうであるが、たぶんそれは小さいときから男らしく話せと言われ、そのためか声に特徴がでるからであろう。
しかしこの国の音楽に対するポテンシャルは高い、私は今の韓流ブームが起こる少し前から「イ ソラ」 「キム テヨン」 「イ スヨン」 「ヤンパ」などの歌手は日本で絶対売れると思っていたが、今KPOPと言って爆発的なブームとなっているが、「イ スヨン」にいたっては日本語で歌を出しているぐらい、日本では人気があるらしいが、これは彼ら彼女らの歌が、規制がとけて日本に流出したからであろう。
この国の日本に対する情熱はすごい、日本においつけ追い越せで、ソウルではかなり多くの日本語学校があり、そこで彼ら彼女らが日本語を学んでいるが、韓国では高校で第二外国語を習う。
日本語や、フランス語、ドイツ語など比較的メジャーな言語であるが、その言語をどれかひとつ選択しなくてはならないらしいのだが、その生徒いわくここでは80パーセント以上が日本語を選択するのだという。
これは今から10年以上前のことだが、日本語ブームに火がつきはじめた頃、ある時、自分の親しい友人が、友達が日本語を学んでいるので会ってやってくれないかと言う、その友人たちは自分と同じ386世代で、かなり日本語が上手だと言う。
自分は一抹の不安があったが、親しい友人の頼みでもあるので、会うことにした。
場所はおぼえてはいないが、居酒屋風の店で、最初はお互いのことを話してもりあがったと思う。
しかし案の丈、話は戦争責任の話に、しかも豊臣秀吉の時代にまでさかのぼって、お前らは俺たちを侵略したというしまつである。
頭にきたので「じゃあどう責任をとるんだ、君たちもヴェトナムの責任をとるのか」などとお互い水掛け論になり、自体は最悪、一触即発と言うか、こののまでは明らかに自分が袋叩きにあってしまうぐらい場は緊迫していた。
しかしその時自分の友人が、怒り出した「お前ら俺の友人に何をするんだ。失礼ではないか。彼はお前たちと話すためにここまできてくれたのに、どういうことだ」と。
この一言でたちまちその場はおさまり、相手からあつくなって失礼だったと言ってわびられたが、しかしこの時、友人がいなかったらどうなっていたことだろうか。
韓国人は友達を非常に大事にする。
この時自分は彼が友人であると認めてくれているんだなあと実感した。
思えば彼と自分との間にもこういう議論と言うかけんかがしばしばあった。
そして彼とこういうけんかをするたびに、何か不愉快な思いをお互いしたものだと思う。
しかしたぶんじぶんたちは、こういう意見をはっきりいいあったから、今こうしてお互い友達ともいえる仲になったと思う。
彼と議論したことはこの日韓の問題だけにつきないが、彼とはあつくそして時にはけんかになるぐらいの議論をしたことは、今ではなつかしい思い出である。
ゲオルク ジンメルという哲学者はこう言っている。
「一般に青年が主張する内容は正しくない。しかし青年がそれを主張すること、そのこと自体は正しい」と。
今けんかのできない人間が多い。けんかと言っても議論のことである。
若いうちはこういう議論をして、お互いを成長させていくのだが、しかし自分は傷つくのがいやだとか、争いごとがきらいだという理由で、議論をさける人間が多くなってきたような気がする。
よく若い人が自己主張と言うが、しかしこの言葉は自分を傷つけない相手、いわゆる教師とか親にむけられる言葉であって、逆に友達には必要以上に気をつかってかばいあう。
しかしこういう若い時にこそお互いをぶつけ合い、理解しようとしなければ人間の幅というものがひろがらない。そういうお互いの意見をぶつけあいことができる存在だからこそ、友達と言えるのではないか。
青年は主張することをおそれてはいけない。
こういう時期にお互いを主張し、議論しあうことが相手を受け入れると言うキャパが広がり、本当の大人になっていくのではないだろうか。








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メールありがとうございます。がんばってください。

2009-10-09 | Weblog
昨日ある先生からメールをいただいた。
この方は時々自分にメールをくれる方で、自分のブログは時々読んでくれているそうである。
この先生が言っていた、与えることは大切なことだと、しかし残念ながら、最近の子供は与えられてばかりされてきたので、与えることはできない、モンスターペアレンッやモンスターチルドレン現象に見られるように、与える、与えられるを通り越して、むしろ奪われてしまうのが現実であるそうだ。
確かに昔はもう少し助け合いと言うものがあったように思う。
私は今の80代ぐらいの人たちと接することが、あったがこの世代の人たちには、思いやりと言うものを感じることが多々あった。
おそらく戦後、まずしい中でそれぞれが支えあって生きてきたからであろうか。
この世代の人たちは、少々自分が困っても、人に与えるということを知っている。
しかし戦後日本は裕福になり、そこからどんどんと変わりだした。
ある評論家はこの戦後の豊かさが、モラルの低下につながったと言うが、豊かさを享受できた日本人が、それぞれが助け合うことなく生きていける時代の中で、逆に見失ったものは多いかもしれない。
おそらくこの先生は、教育という現場において、行き詰まりを感じておられるのだろうと思う。
文や表現から若い女性の先生と察するが、その言葉をここで書くことはできないが、文の内容からかなり教育に真剣に取り組んでおられる様子がわかる。
有名な心理学者であるEフロムは「愛」についてこう言っている。
「愛とは炎のようなものである。それは誰かに分け与えないと、消えてしまいかたくつめたい石のようになるだろう」と。
Eフロム曰く愛とは、愛されることではなく、愛することであるということだ。
この言葉は「愛は惜しみなく与える」と聖書の中にもでてくるが、この言葉はたいへん有名な言葉で、確かマザーテレサなんかも引用している言葉である。
10年ぐらい前の話だが、私は一人の子供の面倒をみることになった。
それは学校の先生の紹介で、何でもその子供は授業中にあばれてこまるそうで、たまりかねたある先生が、私のところに来て、この子をなんとかさせたいので、協力してほしいという。
この時正直言ってめんどくさかったが、彼のかわいそうなおいたちを聞いて引き受けることにした。
案の丈、やっかいであった。すぐにすねるし、心に傷があるので、学校で暴れ、ときどきふさぎこむ、何べんどなりつけたかわからない、あまりにやっかいなので途中で関わりをきろうと思ったことがなんどかあるが、それでもここで関わりをきったらだめだと思い、かかわっていったのだが、しかしかかわってくるうちに、彼との間にひとつの信頼関係が生まれてきた。
おそらくそこまでにいたるには、彼が大人になったということが大きいことだが、自分も自分なりに、彼にぶつかっていったことが、そういう結果をもたらしたのだと思う。
そして二人の間に信頼関係もできて、彼が中学卒業して働く時に、私は彼を呼んでこう言った。
なぜこうして呼び出して言ったかと言うと、彼がこれから大人になっていく上で、彼に根本的にかけているものがあると感じたからである。
確かに彼は人のことを気遣うやさしさのようなものは持っている、しかしそれらは情であって愛情ではない、まさにこの愛という部分、本当に人を思いやる気持ちががかけていたので、なんとか自分なりに、彼の将来を心配したので、今の自分の気持ちをぶつけた。
それはかなり単刀直入にいったのであるが、確かこんなこと言ったと思う。
「君は愛すると言うことがわかるか?愛というものは非常に大事なことだ、しかしこれを知ることはむずかしい。
でもたぶん君は大人になって好きな人ができて結婚するときがくるだろ。
そして子供ができる、その時その子供に愛せ、与えろ、人は自分に愛されたという体験がなければ、人を愛することは難しいと言ったが、しかしその子を自分だと思ったら好きになり、愛することができるやろ、愛するというのは与えることだ、しかし与えるのはものではなく心だ、これ以上は言葉ではいえないが、とにかくその子供を自分と思って大事にしろ、大事にして愛したら、今度は君が子供に愛されるやろう、その時本当に大切なものがわかるやろう」と。 
人間と言うのはおそらく、生まれた時から愛されることを、永遠に求める存在であろうと思う、しかし自分たちはEフロムが言うように愛されることだけではなく、愛することの大切さに気づかなくてはならない時がくる。
それが大人であり、子供の誕生が、ひとつのきっかけになるのではないかと思っている。
この言葉を聞いて彼がどう思ったかはわからない。
残念ながら私には、偉そうなことを言っているが、自分自身も未熟であるがゆえに、彼にこの与える愛を与えることができなかった。
しかし将来、彼に子供ができた時、自分の言葉が子供をいくらかでも愛せる力になり、彼がそういう中で信頼関係を築き、愛し愛されるものの関係を築くことを、心から願っている。









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Veni Veni Emmanuel

2009-10-08 | Weblog
O Come, O Come, Emmanuel (Veni, Veni, Emmanuel)


昨日CDを見にタワーレコードによったが、早いものでもうクリスマスのCDが売られていた。
私はクリスマスを何度かハワイで迎えたのであるが、ハワイではこの時期から忙しくなる。なんもここでは遅くても、1ヶ月ぐらい前からクリスマスプレゼントを探すのが習慣そうで、そのためかショッピングセンターも、セールや何かで忙しくなるそうだ。
クリスマスというのは、欧米の人間にとって大きな出来事である。
クリスマスの日は家族があっまって、教会に言って食事をする。これが典型的なクリスマスをむかえる、彼ら彼女らのかたちである。
今は少しそういうことが実際古くなってきているが、しかしそれは彼ら彼女らの中に習慣として根強くのこっている。
だからここで家族なしでクリスマスを迎えると言うことは寂しい。
日本ではGFのいる人間はGFと共にすごし、いなければいないで集まって、飲みにでかけたりできるが、しかしここでは、ほとんどの人が家族と共に過ごすので、家族がなければひとりである。
あるクリスマスが近づいた日、ここにいる私にクリスマスの予定はなかった。「ああ今年のクリスマスもひとりで過ごすのか」と思っていたら。
私の恩師が声をかけてきてくれた「君クリスマスうちに来ないか。」
「えっ行っていいんですか。でも家族に迷惑じゃないんですか。」
それはたいへんうれしい言葉であったが、、正直言ってとまどった。
ただでさえ忙しいのに、しかもクリスマスのこんな日におじゃまするなんて、迷惑じゃないだろうか。そう思った。
しかし自分のそういう気持ちを察するかのごとく、先生はこう言ってくれた「君クリスマスだからだよ」。
先生いわくクリスマスとは与える日らしい、日本ではクリスマスプレゼントをもらうことばかり気にかけているが、しかしそうではなく、与えることに意味があるのだという。
さらに先生はいう「僕はかつて君のような苦学生だったんだよ、要領が悪くて無鉄砲な部分も自分とよく似ている。だから君を見てると昔の自分を見ているみたいで、ほうってはおけないんだ、何かしてやりたくてねっ。」
「えっでも」と言うと、さらに先生はこうおっしゃった「人間なんて所詮罪深いんだ、しかし相手の弱さやおろかさ、そしてみじめさの中に、自分の姿を見ることができるから、相手にも優しくしてあげようと思う、クリスマスとはまさにそういう人間が、生まれかわれるチャンスなんだ、そのためにイエスが誕生したんだよ。だから俺のために来てくれよっ」
この後自分は教会に連れていかれ、一緒に祈らされたと、いうおちがついているのだが、この日は先生の家族と一緒にクリスマスの夜を過ごし、家にとめていただいた。
さらにうれしいことに、次の日の朝起きたら、クリスマスツリーの下には自分のプレゼントが用意してあったのだが、その時のうれしさは今でもおぼえている。
マキャベリは「人間は卑劣な生き物だ」と言った。
彼にいわせれば人間は自分を滅ぼすことのできる存在よりも、愛してくれる存在を裏切るのだという。たしかに彼が言うように人間は自分のことしか考えていないし、たとえそれが悪いことであっても、自分にとって都合のいいほうを選ぶ、それが人間である。
しかし先生が言ったように、自分の弱さをみとめて、その弱さを相手の中に見るならば、いくらかでも人はやさしくなれるのではないだろうか。
まさに先生もこのクリスマスの日に行くあてもなくさびしくしている私の中に自分を見て、声をかけてくださったのだと思う。
しかし、弱さを認めてやさしくなるということは、決して傷口をなめあうことでもなければ、単に同情しあうということでもない。
なぜなら自分の弱さを認めると言うのは、仲間で集まって上司や先輩の悪口を言って俺は犠牲者だということを強調し、なぐさめあうことでもなければ、酒でつぶれて俺は弱い人間だーっなんて人に泣きついたり、女に子供のように甘えるように、弱みをみせるということとまったく違うことであるからだ。
自分の弱さを認めるということは難しい、なぜなら自分の一番みにくいいやな部分と、ごまかしではなく、対峙しなければならないからである。
自分の弱さを自分自身でうけとめることは難しい、しかしこの弱さを知り、認めて乗り越えて生きていく時、それはこの先生のように、本当に人に与える力になるのではないだろうか。
Veni Veni Emmanuel! これは来たれ来たれ主よ!とでも訳せばいいのだろうか。
この歌は先生の教会の聖歌隊の学生のメンバーが足りないので、それではということで感謝のしるしに、そのクリスマスの夜に練習して一緒に歌った歌である。














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社会人は孤独である。しかし孤高であれ。

2009-10-05 | Weblog
Yangpa - Love... What is That?


今から約20年ぐらい前HIのWaikikiからAlamoanaに行く途中、どちらかと言えば、Alamoanaよりの場所に今で言うクラブとダンスクラブを、フュージョンさせたような場所があった。
そこはホテルの最上階にあって、ローカルの学生たちなんかがよく来ていたのだが、何と言ってもそこの眺めは最高であった。
ハワイのホテルというのは、大体海沿いに建てられるが、まさにそこは港のすぐ近くにあったので、その最上階から港が一望でき、ハーバーライトでプライヴェートヨットや客船が照らされ、その眺めは、プライヴェートのヨットや豪華船などと縁がなかった私にとって、まるで映画のワンシーンのような世界であった。
そこでは「Beer Please」と注文すると、ビールがビンごとそのままでてくる。
まさにアメリカである。余談であるが、ハワイではビールに氷を入れて飲むことを知っているだろうか。
自分は本当の酒の付き合いを覚えたのがここであったので、ある時、日本の居酒屋かどこかで、ビールに氷を入れた時「お前ビールに氷入れるんか」と驚かれたが、しかしここではビールに氷を入れるのは当たり前のことである。
その注文したバドワイザーを飲めもしないのに、ちびちびやりながら最上階からハーバーライトにてらされた港を見るのが、たまらなく好きであった。
ここには当時のGFが連れて行ってくれたのだが、私が夜景を見ていると彼女に、突然、笑いながら「あなたは不器用だ」と言われたことがある。
カチンときたので「ウェ(なぜ)」と聞くと、どうやら、ダンスがへたで、おぼえてはいないが、彼女の足の小指を、しばしば踏むこともあるそうである。
少し前はあまりに痛かったので「Ouch」と声を上げそうになったそうであるが、私のそういう姿を見て、彼女は不器用だと言ってきたのである。
これも余談だが「Ouch」とか「Oops]とか言う、感情というか感覚的でとっさにでてくる言葉は、母国語に関係なく、英語が一番出やすいらしい。
彼女はトライリンガル(3ヶ国語を話す)が、たぶん母国語は韓国語である。
普通だったらこういう時、韓国語で「痛い」とか「しまった」と言う言葉がでてくるのだが、しかしなぜかこういうときは英語が出てくるらしい。
そういう言えば自分もなぜかとっさに出てくる言葉がある。
それは少し言葉が悪いが「Shit!」である。
私はちょっとしたミスがあった時、よくすべってこの言葉を発してしまったが、ある時、当時2歳の子供が保育園で、自分と同じシュチュエーションで「Shit!」と言っていることが発覚したので、それ以来、封印している。
しかし自分のことを不器用だと言ったのは、それだけではない、彼女に言わせれば、自分が不器用だといった一番の理由は、周りのことを気にせず、物事をはっきり言う性格である。
しかも意外とそれは的確に物事をとらえているそうだが、ただ周りのことを考えず、おかしいと思えばおかしいという、間違っていることは違うという、そういう性格がまずいらしい。
「勇気があるが、あなたは子供だ、日本人的に見れば、おろかである」とさえ言っていた。
よく正義づらをするなと言われ、キレて帰ったこともしばしばあったが、なつかしい思い出である。
周りの人間は、わりとなんでもそつなくこなすので、自分のことを要領がいいやつと思っているが、しかしとんでもない、それは失礼であるが、能力的なことで、生き方においては、要領がわるい男であり、要領がわるくて、いたい思いをしている自分を心配して言ってくれたのである。
私はあまり信用できない人間がいる。それは「自分は弱い、何もできないから助けてください。」などと言って人を利用する人間だ。
政治家などにこういうタイプがいるが、意外とこういう人間に限って、人の同情を誘い、共感し仲間を集めて、やるべきことはしっかりやっているのであるから、したたかである。
自分はどちらかというと、こういう弱さをうりにして、したたかに生きようとする人間はあまり信用できない。
実はそういう人間のほうが、弱く、要領がわるいように見えて、実は要領がいい、おまけに周りは利用されていることすらわからない。 
しかし世の中のたいていの人間は、要領よく生きているわけではない、弱いときに弱さをだせない。しんどい時でもしんどさを見せることなく、がんばって生きている。
しかもその弱さやしんどさは誰にもわかってくれない、むしろ人間は不器用で、孤独に生きていることのほうが、多いのではないかと思っている。
それは社会的に責任がある人になればなるほど、そうであるが、私はこういう世の中で生きていく社会人たちに、このスポーツを通して生きる力と活力をあたえたいと思っている。
私の生きる活力はここからきている。
あのアメリカと言う大きな国でボクシングを競技したということが、大きな経験となり、自信につながっている。
この競技は失敗しても、すべては自分の責任であるから、それゆえに達成したときの喜びは大きく、こういう社会で生きる人間が、自信や充実感をもつために、やりがいのあるスポーツであると信じている。
幸いなことにここ最近30代以上の競技者がふえて、市民大会などの大会が増えてきたが、私はなるべく社会人の人には一度でいいから、この試合にでてほしいと願っている。
ちなみに思い出の場所は、今はもうないらしい。
5、6年ぐらい前に大学生に穴場はないのかと聞かれたので、ここを紹介したのだが、なかったそうである。















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Study japanease

2009-10-02 | Weblog
最近さらにサラリーマンが多くなってきた。
この前もある人が今度部下をつれてきますよと、言ってくれたのだが、それはたいへんうれしかった。
おもしろくなかったら人なんか連れてこないだろう、楽しんでくれているからそうやってつれて来てくれる、本当に感謝である。
話は変わるが、だいぶ前、5つ年上の先輩にこういうことを言われたことがある。
彼はそこそこの企業で、実績を上げて今は結構な地位にいる人であるが、その彼がこういうことを言っていた。
「仕事を成功させたければ、日本語を勉強しろ、会話力はまず日本語を覚えることだ、営業でも何でも、日本語力があればおのずときちんとした会話ができる。逆に言葉の乏しい奴はあかんと」。
これは言葉がたくみであるとか、立て板に水と言うような、単なる話すという問題ではない、言葉ひとつひとつを学び、その言葉の意味を深く知って、一番いい、適切な言葉を選び、その言葉でもって相手に伝えれるかということである。
非常に含蓄のある言葉である。
ボクシングを教えるということもこれと同じである。
ボクシングなんて、そこまで言葉を要するスポーツでもないかもしれないが、しかし社会人を相手にしていく以上は、こういう日本語力が必要であり、もし彼ら彼女らから信頼を得たければ、こういう学びは不可欠ではないかと思っている。







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