脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Asian Community 

2020-10-28 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

今日アメリカ人の友人が訪ねて来てくれた、ビールを買ったから少し分けてあげるよと言うことでいただくことにした。うちの地域は比較的裕福な外国人が住んでいるのだが、そのほとんどが欧米系の人たちである。中には私のことを知ってくれている人もいて、スーパーなどで声をかけてくれる。でも外国人の人のほとんどが私のことを外国人だと思っているらしく、その亭で話しかけてくるのだ。うちの近所にはアメリカ人の人たちが生活しているようであるが、最近アメリカ人の特徴が少し変わってきたような気がしている、アメリカ人をひとくくりにするのはむずかしい、少し前までは利害関係や信仰が一致しなければ動かないと思っていたが、多少義理人情も理解してくれるアメリカ人もいて、理解しやすくなったというのが私の感想であるが、それはアメリカは多民族国家でいろいろな人種が混在しているからだ。しかしそれでも一昔前は白人の権力が強かったので、往々にしてアメリカ人はこうだという概念があったように思う。さっきアメリカ人は利益と信仰が一致しないと動かないと言ったのはアメリカはプラグマティズムでプロテスタントの国だからだが、もはや今や多様性の中ではこういった考え方や信仰はうすれ、WASPと言う言葉もきえつつある。

それでも私はアメリカ人は利益と信仰が一致しなければ動かすことは難しいと理解しているが、そういう人たちに皮肉をこめて「俺たちAsianは義理人情で動く、むしろお金で動くと言うのは不名誉なことだ」とよく言っていた。
けれども義理人情と言う言葉を英語で説明するのは難しい。英語にしたらせいぜい「We value honor and human kindness」みたいになるのだろうが、しかし義理人情はおもに相手に対して何か恩義を感じていること、そしてそのことが人を動かす理由である(義理人情を「We value honor and human kindness」と言うのはどちらかというとイスラム世界の「義」のとらえかたに近いと思う。)
西洋が神と人間の関係を通して利益をあたえられたり、人を助けたりするのに対して、アジア人は相互関係を大事にする、後でもう少し詳しく述べるが、ここがアジア共同体において大事なポイントである。
Asianはお金や利益だけでは動かないと言うと、いやいや発展途上国の人たちはそうではないという人もいるだろうが、しかし私は教育をしっかりと受けている人はアジア人共通の美徳を日本人のように持っていると思っている。自分が損をしても相手を立てる、人につくして人に喜ばれることを自分の喜びとするのはアジア人が相互関係においてその自分の存在意義を理解しとらえているからだ。アジア人は相互関係において自分の存在意義を見出す、それは因果応報と言う言葉にもあるように仏教的な考え方が根底にある。
クラブと言うのは共同体であるが、それはアジア的でなければこの共同体は本当の意味で生かされないと思っている。トレーナーたちはもちろんのこと英語を教えてくれたり、会員の人たちが自分たちの手をとめて教えてくれえるのはボランティアであり、そうやって自分たちの時間を人に捧げてやってくれる人がいて、それに感謝し、応えようとする人たちの相互関係によってクラブの雰囲気はよくなり、生かされるのだと思っている。
そして初めにも「アジア人で高い教育を受けた人はアジア人共通の美徳を日本人のように持っている」と言ったが、やはり私が考えるようなアジア的な共同体であるならば、教育的なことを重んじることは大事である、自分が特別視されたり、特別な利害関係がないと教えないと言うような輩に来てもらってはこまる。奉仕的な考え方のできるある程度レベルの高い人間が教えてくれたり、関わるからこそ群れには信頼関係が生れ、共同体として機能し、会員のみなさんが安心して楽しくトレーニングできるのだと思っている。

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CNNのニュースから

2020-10-26 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

「The highest Catholic in all the world has pushed the door towards LGBTQ inclusion open further by pronouncing that same-sex couples, historically excluded from traditional religious and civil institutions like marriage, ought to have legal protections that recognize their unions.」
これはCNNで流れたニュースだ。
直訳すると「世界中の最高位のカトリック教徒が、歴史的に伝統的な宗教や結婚のような市民制度から排除されてきた同性カップルは、結婚を認める法的保護を受けるべきだと宣言することで、LGBTQへの扉をさらに開いた。」
今回ローマ法王は結婚を認める法的保護を持つべきであると宣言したわけだが、このことは歴史的にもショッキングな出来事である。
ローマンキャソリックには「Baptísmum 」「Confirmátio 」「Eucharístia 」「Pæniténtia」「Ordo 」「Únctio infirmórum 」「Matrimónium」と言う7つの儀式がある、これらは宗教に関係がない我々にとってはどうでもいいことだが、しかしローマンキャソリックにとってそれらは絶対的なものである。ここで「Matrimónium」は結婚の儀式のことであるがローマンキャソリックのカテキズムによると「結婚は自然の現実であり、男と女というペルソナの存在に呼応するものである。その意味で神ご自身が婚姻の創設者であると、教会は教える。」さらに結婚の秘跡とは、「一組の男女が互いに、生涯にわたる愛と忠実を約束し、相互に助け合いながら、子どもを出産し養育することを目的として、家庭共同体を築き発展させるための恵みを与えるものである 。」と言うことだが、Matrimónium(結婚)はあくまで離れ離れになっていた男女が一体化され、神の祝福を受けると言う7つの儀式のうちのひとつである。だからもしここでLGBTの人たちの結婚を認めてしまうとこの7つの儀式の結婚の教義自体がくずれてくるので、LGBTの人たちの結婚を認めると言うことはローマンキャソリックの性質上難しい話である。ここでは結婚を認める法的保護を受けるべきだと宣言したわけだが、civil unionと言う新しいかたちをつくったのも、結婚そのものに対するネガティブな考え方や制度に対する考え方の違いもあるが、しかし宗教上結婚と言う概念を強引にかえさせることは不可能なことであり、ローマンキャソリックが認めやすいように譲歩したのかわからないが、そのことが権利を得た大きな理由だと思っている。ローマンキャソリックのような世界最高峰の宗教がどういうかたちであれLGBTの人たちを認めると言うことはセンセーショナルな出来事だ、そしてそのようなかたちでうけいれたが、今後結婚として儀式を認めるかどうかと言うことも非常に大きな問題になってくると思う。

私の個人的な意見では好きなものどうしが共に支え合って幸せになっていくということは当然の権利であるが、しかしそれがすべての世界で受け入れられるかどうかというのは非常に難しい問題であると思う。





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子音が強いとこまるんです

2020-10-24 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

これは個人的な考察である。日本人にとって英語を聞き取りにくい民族と聞き取りやすい民族が存在する、アメリカのような大きな国になると州や地域にもよるのだろうが、私自身はあるひとつの推論を持って日本人には聞き取りにやすい英語と聞き取りにくい英語があると思っている。では日本人にとってその聞き取りやすい英語とはどのような英語なのだろうか、まずその前に聞き取りにくい英語とはどのような英語なのか、端的に言うと子音の発音が強い英語を話す人たち、少し下を巻き舌にして話す癖のある人たちはどちらかというとこれに近いが、日本語はすべて母音で終わるので母音の音をしっかりと聞き取れなくては聞き取りにくいので子音を強く発音されることで聞き取りにくいのだと思っている。
一方母音の音がある程度クリアな人たちは聞きとりやすく、ハワイの日系人の言葉が聞き取りやすいのはハワイにはローマ字的に読める地名が多く、おそらく母音を発音する傾向にあるのだろう、そのせいかハワイの日系人の英語は聞き取りやすいという意見をよく聞いた。私も実際子音が強い人は「えっ?」と「come again」と尋ねてしまうが、日ごろから母音で終わる言語を聞いていると様々な音が混在する英語の発音についていけないこともある。

この前ホモサピエンス全史の話になったので、プロフェッサーに「君は神を信じるか」と聞いた。すると「信じてはいない」と言ったと思う。そしてそこから私は「神の存在はneuroscienceからも証明できる、ホモサピエンス全史ではないが、神は人間がつくりだしたものだ、それはDeus ex machina(時計仕掛けの神)のように必要な時にふっと現れて、我々がそれを信じるのをやめたら消える、心の産物である。しかしたとえそれがサピエンス全史が言うようにフィクションであっても正しいものであり、必要であるから存続している。」と言ったのだが、そこからあれこれと議論になって、私が「神を否定したらパニッシュメントにあうぞ」とふざけて言ったら、「いや俺は否定してねえよ」と。二人とも結論的には神は人間の心が生み出した産物と言うことであるが、しかし私が彼が神を否定しているという言葉に対して違うニュアンスを感じたのだ。ここで私が否定すると言う言葉に使ったのはdenyと言う言葉であるが、この言葉はどちらかと言うと拒否とか拒絶を表すどちらかというと強い否定の言葉である。彼が最初に言った「I don't believe」を「信じてはいない」と訳したのには意味がある。彼は研究者であり、私のようなただのおっさんではない、否定するということはそれなりの根拠がなければならない、信じないというのは個人的な考察であって、一つの意見だ、それを科学的あるいは哲学的な根拠もないのにそれを全否定することは傲慢である、意見やものの見方はひとつではないという意味でそう言ったのだと理解しているが、ここでひとつ彼から教えられたと思う。
たいした勉強もしないでそれしかやった来なかった人は自分のやってきたことが一番ただしいと思っているということを、体罰を容認するような指導者の例をあげて説明したが、コミュニティにおいてこういう少し曲がったような考え方が正しいとされたり、その群れの基準になることはあってはならないことである。私も人のことは言えないが、たいていの人間は何か意見を言わせたら自分の正しさだけを主張する、しかしコミュニティを守っていくために大事なことは俺はどう思うではなく、コミュニティはどうかということをしっかりととらえて考えて行かなくてはならない。
もうすぐ冬になるが、コロナウイルスも第二波がおこりうる可能性があるし、もしなかったとしても、これから先はまだまだ気が抜けない状態である。コロナの治療法もわかってきたし、死亡者や重傷者の数も減ってきた、だからそこまで騒がなくても大丈夫だと思う人もいるだろう。しかしいつも言っているが共同体において大事なのは俺はではなく他人がどうかと言うことだ、大事なのは自分だけではなく、他者も含めた自分と言うフィルターを通して今後ジムでどのようにとらえ考えて行かなくてはならないかということを問うことが大事なことで、私はその人たちの家族、社会的立場、そういったことも含めてみなさんがなるべく安心できるようにしっかりと管理していきたいと思う。



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I don’t have to be what you want me to be 皇帝海外でネコになる 

2020-10-21 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

I don’t have to be what you want me to be. 「あなたが、私に対してなって欲しいという者に、私はなる義務がない」
ムハメッドアリの言葉である。これはおそらく人が何と言われても気にしないで、自分らしく生きろと言う意味に理解しているが、自分らしく生きると言うのは非常に難しいことだ。
私は当時の日本の運動クラブが大嫌いだった、監督を皇帝のように奉ったり、筋肉バカが多く、たかだかスポーツをするぐらいで責任を押し付けられる下達上位の世界は私にはまったく受け入れることができなかったのだ。最近では私たち自由にやらせてもらっていますと言う人たちもいるだろうが、しかし私はまずシステムに問題ありきだと疑っている。日本の運動クラブは家父長制である(英語のPatriarchyはネガティブな意味でつかわれることが多いが)監督がお父さんで部員たちがその子供たち、そのシステムは強豪といわれればいわれるほど強く、親玉に服従し、人の言うことをきくことが成長だと勘違いしているお父さん中心の家父長制の世界は非常に狭い世界であったと思う。前にも言ったがトレーニングしていてそれがたとえかかわりもなく知らない人でも人が来たらあえて手をとめてこんにちはとあいさつさせられることが正しいことなのだろうか、後ろに手を組んで監督の話を聞いたり、好きなスポーツができないとこっぴどくおこられたり、全寮制を強いられたり、これって不自然なことではないのか、なぜたかだかスポーツをするぐらいでここまでしなくてはいけないのか、我々はスポーツをする権利があるし、それを楽しむ権利はある、たかだかそれがやりたいぐらいで自分の自由を放棄するなんてことは私にとってあり得ないことだ。

10年ぐらい前に体罰は必要かどうかと言うことを問題にしていたテレビ番組があった、そこでは多くの監督やアスリートが強くするのだったら体罰は必要だ、私などはなぐって手がおれたみたいなことをあたかもそれが自分の信念で自分は正しいことをしたみたいなことを言っていたが、(しかし現在は世論も世論なのでそういうことを堂々と言わない、むしろ私はそういうことを受けて来たから体罰は反対だと言う人間もいて、世論がかわればこれかよと本当に卑怯だと思っている。)しかしスポーツはそういった人間たちだけのものではない、そういった奇特な人たちはごく少数派である。その時この人たちは物事を一般化して理解しようとしない、常に自分たちがやってきたことだけを正しいと思う最悪な指導者だと思ったのだが、こういう考え方の人は一世代前には多くいて、未だに多くかかわっていると思うのだが、それが我々の世代である。それしかできないと頭がそういう思考になってくる、日本のスポーツ指導者はひとつの考え方しかできない、物事を一般化できない人が多いというのが私の感想である。
一部の世界では未だ体罰が容認されているが、それは体罰を容認する人間がいるからだ、こういうシステムと言うかメンタリティをかえなければ、体罰なんて一部ではおこるし、暴力は絶対にふるってはいけないという常識にはならないだろう。強くするとか言う前に人をたたくことは暴力である、こういうことは小学生の低学年でもわかることだ、学校や社会ではやってはいけないことをなぜスポーツの世界だからやっていいのかわからない。個性とか自己主張と言っているけれども、まずその考え方がグローバルな世界で通用するかと言うことを考えなくては井の中の蛙だ。まずクーベルタンのオリンピズムとは何か、日本は裕福であるが、しかしこの世界にはまだまだ貧困層の人たちがたくさんいる、そして暴力によって支配され自由をうばわれている人たちもいる。世界を見ると言うことはそういった問題とは無関係ではない、クーベルタンのオリンピズムはまさにそういうことである。
もっとひろく世界を見たら我々の時代の運動クラブがいかにあほらしいかと言うことがわかる。自分たちのテリトリーでは皇帝のようにふるまうが、しかし外の世界に行ったらかりてきた猫の子のようにおとなしくなる、本当にみっともない、そういう人間たちを奉ったところで何の意味があるのか。
言葉を理解する、特に英語を理解するということは見聞を広めるには大事なことだ、言葉を理解出来てオープンにしたら、いろいろな体験ができる。辛辣な意見も言われるし、時には憎しみの目を向けられることもある、私はそういう中でいろいろと悩んだり、考えさせられたり、刺激をうけることで成長できた、そしてそういう貴重な体験を通して自分がどう生きるか、そして行動するかと言うことを決断してきたように思える。おしめをかえてもらったわけでもあるまいし、親でも言わないようなことを平気で言って、人をひよっこ扱いして、成長したとか余計なお世話、F〇ck y〇u!だ。自分らしく生きると言うのは自由に生きると言うことだが、しかし自由と言うのは自分さえよければいいと言うものではない。そうなると体罰をふるわれてもそれがよければ俺の自由となるが、しかしそういったことではなく、自由は権利だ、その誰もがもっている権利を自分だけではなく、暴力や不平等や差別を生み出さないように他者とのかかわりや、そのことばの本質をとらえつつ考えて行かなくてはならない問題でもあるだろう。そしてそういうことから解放され、おびやかされることがない世界で選択の権利を持っている、そういう中でこそ人は生かされ自由を謳歌できるのだと思っている。自由は英語で2つある「Freedom」と「Liberty」だが、「Freedom」がto be free FROM something であるのに対して「Liberty」がto be free to DO something である。前置詞のニュアンスからもわかるように自由は日本人が思っている当然の権利で感覚として持つているものではない、英語の自由は獲得するものであり、自由だと言いたければ悩み葛藤し、行動をおこすことも求められるのだろう。

うちのクラブではいくつかの団体にドネーションしている、うちでドネイションしているということはここにいる会員の人たちもそれにかかわってくれているということである。うちでは特に一番弱いと思われる人たちにドネーションしているが、例えば震災の時は新生児のためにおむつをおくったり、クリスマスには教育をうけれなくて人身売買で売られていく子供たちにドネーションしている。スポーツは共同体だ、そしてスポーツだからこそ、その共同体は国境を越えて人と交流したり、そこで仲良くなって友とよばれる存在をつくることもできる、そしてだからこそその痛みを多少なりとも共有することも大事だと考えている。


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Are you Emperor, Right?  あんたは皇帝か?

2020-10-20 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

そのスポーツができるクラブはあいさつが徹底している。しかし私から見てしらじらしい。自分たちはこういう教育をしているとか、統制がとれていると言うことをいうことをまわりから評価されたいのかはわからないが、ちよっとすれちがったぐらいでも立ち止まってちわっーすかこんにちはかはわからないが、でかい声でパフォーマンス的にあいさつされるのは自然ではないかえって迷惑、行き過ぎるパフォーマンスは監督の見栄に等しい。
あいさつを否定しているわけではないが、しかしそういうことを強調して言う人間はそれしかできない、何かが欠けている。私から見たらそういう集団でかわされるあいさつは服従だ、皇帝でもないのに練習場にはいってくるやいなや部員全員が大きな声であいさつする、話を聞くときも後ろに手をまわして監督の前に立ってハイハイと返事をする姿はどう見ても指導者と競技者の関係ではない、皇帝と家来の関係である。あいさつはにっこり笑って会釈するだけではダメなのか、私はもう10年以上前から言っているがあいさつは目上のものからしてあげたらいい、うちのクラブでも子供にはあいさつしろなんて言わないがまわりがしてくれるから自然にするようになる、うちに5年以上来ている子供はだいたいがそうなって来たと思う。
人間教育とか人を育てるとか偉そうなことを言うが、しつけと教育は違う、たいていは強制的に何かをさせるのが教育的なことみたいに思っているのだろうが、しかし教育はある程度相手の知性も育てて行かなくてはならないので時間がかかる、だから強制的に何かをさせるのは服従だ、そしてそれはしつけ程度の範疇であって、これから大人になっていこうと言う成長期の子供たちには必要はないであろう。
偉そうに言うが運動クラブの監督で英語を話せる人間がどれだけいるのか、そして日本語をある程度正しく理解し話しているのだろうか。あいさつがきちんとできるという評価は若いうちは従順とみられて礼儀正しいいい子だと思われるかもしれないが、しかし年をとってきたらそんなものは通用しない、逆にいい年をしてたいした教養もなく、言葉を知らないと軽く見られることもある。私はある種の礼儀と言うのはその人にあわせて正しい日本語で会話する、さらに外国人にはある程度英語で対応できる、言葉においてもきちんと作法を持つことだと思っている。
もし人間教育とか成長とか言うならば、その人間に幅広く深く何かを考えさせることが必要だ、そのためにはきちんと学ぶ、学ぶというのはその小さなスポーツの世界がすべてではなく、本を読んだり、語学を学んだりして学問を通して見聞を広めると言うこと、言葉を学んだら100倍以上のことが学べる、まず授業で寝るぐらいへとへとにトレーニングさせてはいけない、そしてその小さな世界のしょぼい皇帝を奉るような世界がすべてだと思わないことだ。
言葉はすごく大事で、言葉をどれだけ使いこなせるかと言うことで、外国人はもちろんのこと話せる相手の幅も広がってくる。ある哲学者は人間は言葉に応じて群れを成すと言っているが、人間関係の交流の場を広げたかったら、日本語力や語学力をあげることだ、そしてその会話力が礼儀正しいということも含めてその人の評価につながると思っている。
人間のレベルは読書の内容でわかる。自己啓発本みたいな本がいいと読んでいる指導者はいたい、はっきり言ってもうこの地点で学問をするセンスにかけている。それは客観的に物事を見ることができないということに等しいことである。


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宗教学と海外のニュース

2020-10-19 | Weblog
私が親交があるのは日本人に限らずアジア人全般である。フレンチは人によってはうまがあうのでずっと付き合いのある人もいるが、しかしどちらかと言うと欧米人よりもアジア人の方が長く付き合っている人たちが多い。
私は宗教学を勉強したのだが、おそらくその国の人々が持っている宗教はその国の人間の考え方を表すと言ってもいいだろう。私の友人の多くがどうしてもアジア人になってしまうのは、おそらく我々のバックボーンによるものだ。アメリカ人は自分にとってベネフィットあるいはプロフィットがなければ協力しない、しかしアジア人は人間関係大事にし、人のために動くと言うのが私が持つイメージで、私は利益を重視する欧米のスタイルにはあまりなじめないところがある。今から書くことはおもにアメリカなどのプロテスタントが主流を占めてきた国についてであるが、マックスウエーバーの「The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism 」と言う本がある。原文はドイツ語であるが、日本語訳では「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と言うタイトルで岩波文庫から出ているので少し文章がかたくて読みにくいが、これを読むと欧米人の労働や仕事や社会に対する考え方が見えてくる。今までは社会の中心であった修道院が労働することをうながし、修道院でもOra et labora(祈れ、働け)と労働は神から与えられた義務であったが、しかしReformed charchが台頭することによって、働いて利益をたくさん得ることは自分たちが神から祝福されている=救われていると言う考え方にシフト、ここから欧米人にとって、利益は神が当然与えた報酬であるということにつながっていったのだと思っている。それまでの修道院はIndulgentia(現在の日本語訳では贖宥状、我々は免罪符であったが?)を発効することで人間の罪をゆるしてきた(ちなみにIndulgentiaの英語の派生語Indulgence は大目に見ると言うことである)。しかしProtestant Reformationによって、いや救いは人間が修道院や教会を通してではなく、救いを得るためには神と直接向き合うことが大事だと言うことになり、そこから労働に対する考え方がかわってきた。今までの修道院主体の考え方ではなく、自分たちで答えを見出そうとしたのだが、マックスウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は宗教改革の精神を受け継ぎ、それを資本主義世界にもたらしたのだが、これらのことを考えると西洋人が利益中心であることは理解できる。
これに対してアジア人は因果応報と言う言葉があるように常に相互関係において人間関係を考える。因果応報については詳しく説明する必要もないと思うが、欧米人の人間関係は上から見るが、アジア人は横に見る、すなわちすべてのものはつながっていて、そこで誰かと出会い、何かあって人を助けたり、協力したりするのも何かの縁であると考える、プロテスタンティズムの概念では神の救い=どれだけ富を築くかどれだけの利益を神からいただいているかであるが、しかしアジア人にとって大事なのは利益ではなくて行いである。

私は英字新聞や英語の記事をよく見ている、特に見ているのがRadio Free Asiaと言うアメリカの議会が発表しているものであるが、これらのものを日本のマスメディアと比べたらかなり違う、日本は老人が暴走したとか、誰々が不倫したとかそういうことが大半記事にされることが多い。しかし海外のメディアはもっといろいろなこと例えば紛争やテロなどにも深い関心を持って報道しているのがわかる。ただ外国の記事をよく理解するためにはその背景にある宗教や思想を知らなくてはならない。日本人は優秀だが、しかしこと海外となると消極的である、これは自分たちの子飼いには親でも言えないことを平気で言うが海外では借りてきた猫の子のようにおとなしいスポーツ指導者たちを見たらわかることだ。相手のことがわからなくてはどう行動していいのかわからないのは当たり前だ、私は相手を知るためには宗教や哲学を知ると言うことは必要なことだと思っている。

欧米人は砂漠的思考らしい、砂漠では嗅覚が大事だだから鼻はその獲物や食料を得るためには大事な感覚である。だから欧米人は鼻を殴られるとすごく抵抗がある。これはテロのガイダンスにも相手の戦意を喪失させるために懐中電灯で鼻をなぐれと言うマニュアルがある。私はこれらのことを知って思った「ああ西洋人は鼻を殴られるのがいやなんだ、じゃあそこをねらえば」と、しかしそうは思っても実戦ではなかなかねらうことができなかった。



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Beat around the bush

2020-10-14 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

自分でも認めているが、私は相当毒舌である。韓国に辱(욕) と言う悪口を言う言葉遊びがあるそうだが、その遺伝子を強く持っているのだろう、場合によってはすごく的を射ていて、えぐいらしい、でも言っていることはごもっと、でもここで笑ったら俺も悪者になる、でも笑ってしまうそうだ。そんな私であるがジムでもたびたび愛されキャラ限定であだ名をつけたり、冗談を言ったり、ネタにしている、今日はその私の言葉の悪行をあげたい。

まずはウオンバット 何の前ぶれもなくいきなり
「君はすごく能力が高い、総会の三役に例えたらきちんと書記と会計ができる、そういう能力を持っている人はまあいないし、能力はすごくかっているんだが、ううーんっでもなぜか尊敬できないんだよなあっ」
ウオンバットはトレーナーとしてもかなり有能、ミットを持ってもらった人はしんどそうだが楽しそうにミットをうっているのがわかるのだが、人を楽しませながらトレーニングさせることができるトレーナーのひとりである。私はよくウオンバットトレーナーをネタにしている。本来ならばジムの看板であるトレーナーをおとすようなことはしてはいけないが、あまりにもネタを提供してくれるのでうけを狙ってネタにしたら結構うけたので、それ以来ネタにしてしまっている。前説Andあかんウオンバットトレーナーは好評だ。

一時期、捕虜とあだ名をつけられた試合前の渡辺2点に「トレーニングもコツコツとまじめにするし、仕事もできるんだろうな、ただ努力は実らんこともある、それも勉強だ」いつも昨日穴倉からでてきたんじゃないかと言うぐらい光を感じさせない疲れた様子でやってくる渡辺2点、昔は糸でつられているんじゃないかと言うようなパペットのようなシャドウをしていたが、しかし実戦を繰り返していったことと、まわりがサポートしてくれるので今ではかなり上達した。ミットうちとシャドウはうまい、でも実戦になるとうーんっとみんな首をかしげる、でもいつか大化けする可能性のあるおっさんだ。これからもそのことも含めてみんなと楽しくトレーニングしてほしい。

今度は逆にほめる話だが、最近まさのりの上達が目立つ、当てないマスだが、動きはベテランの人たちとほぼ互角で、ほんとうに彼の成長には驚いている。このまま行ったら試合に出て活躍できそうだが、彼は特に強くなりたいとか自分が人よりも目立つとか試合に出て賞をとりたいとかそういう気持ちはないようだ。ただ鍛えるために地道に動画をみたり、トレーニングをコツコツと積むのは称賛されるべきことだ。賞をとったり、活躍したりするよりも、むしろこういう地道な努力を大いにほめてあげることは大事なことだ。世の中では目立たないが地道なことの方が社会を支えている、わたしはこういう地道なことを努力できる人を大きく評価している。これからもがんばってトレーニングを続けてほしい。

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コーラス部誕生

2020-10-13 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

何年か前に忘年会をした時の話だ。うちのクラブは集まる人たちもいわゆる普通の人そして女性も半数近くいる、そして集まってもほぼボクシングの話はしないので、店のおやじが興味深そうに何の集まりですかと聞いてきた。
酒の席でボクシングの話などしたくないので、あててみてと言うと、おやじはうーんと考えて「コーラス部」「じゃあそういうことにしといてください」ということでMOBはコーラス部になった。

私はよくMOBはコミュニティであって仲間ではない、私が求めているのは仲間たちではなく、コミュニティの形成であると言っているが、仲間は狭い世界の共通認識で集まる集団で独自の人間関係を重視する集団である。一方私の考えるコミュニティはお互いの立場や目的を認めて、正しい共通認識による秩序からなる集団で、そこにはいろいろな人が集まるので人間関係よりも組織的な考え方によって公平さを保つ集団、そこにはひとりびとりの偏りのない価値観と、お互いを尊重する気持ち、協力によって形成されていくことが理想である。

話は忘年会の話に戻るが、その店のおやじにコーラス部と答えられたのは組織づくりとしてはある意味正解、なぜなら我々のようにいろいろなタイプの人たちが集まるコミュニティはボクサーみたいなやつが集まる独特のカラーを持つ偏った集団ではないからだ。
ラジャーも日本はほとんどが社会主義だと言っていたが、メンタリティがそれに近いのか勤勉なのかはわからないが、日本人はひとりがそうしたらみんなが同じようなことをする、なんとなくボクサーと言う雰囲気ができたらみんなそれに染まっていくのが日本の運動クラブである。

私から見てそういう独特で同じような価値観を持った者同士が集まると一般常識がゆがんでくる、その集まっている輩たちの気持ちや感情が最優先されるということだ。私がよくわからないのはよく聞く話だが、生意気な人間が入って来たらスパーリングで最初ボコボコにしておとなしくさせると言う考え方だ、どう考えても暴力としか思えない、そういうことも仲間程度の集まりなら正当化されるからばかげた話であるが、生意気な人間をボコボコにすると言うのは俗世間で言うリンチ、こういうことがまかり通ると言うこと自体おかしいことで、やはり仲間程度の価値観だとそういう暴力も容認されるのだろうと思う。

クラブと言うのは公共の場であって、仲間たちが集まる場所ではない。うちでは絶対に暴力あるいはそれが暴力的であっても容認しない、もしそういう行為を確認したら迷わず退会してもらう。そしてうちで基準になっていることは、コミュニティ、あるいは組織にとって何が益であり、害になるかと言うことである。仲間のような人間関係を求めるようなクラブであれば、例え自分勝手でまわりに悪影響だと言う人間が出て来たとしても、我慢して育てるとか教育するとか、そういう人間に限ってしがらみがあるのでなかなか人間関係をきることはしない。そしてそれがさらに取り巻きになれば、よほどのことがなければ多少まわりに迷惑がかかったりしてもバサッときることはできないであろう。
しかしきつい言い方かもしれないが、私はその人間を残すことによってまわりが不快感や不安を感じたら退会してもらう、コミュニティの害になれば容赦なく切ると言うことだ。うちのクラブは中高生のクラブではなく、おもに社会人のために開かれたボクシングクラブだ、私がここを設立したのは日ごろストレスを抱えている人たちをボクシングと言うスポーツを通してそのストレスを発散してもらい、元気になってもらうためだ。たいした勉強もしていないのにスポーツを通して人間教育みたいなことを言う人もいるが、しかしそういうことを言うのはおくがましいことで、ここはそういう場所ではない、むしろみなさんがコモンセンスを持っているという前提で入会してもらっている。
その人間が暴力的であったり、なわばりを意識したり、害になるような人間を残すことで悪い影響が出て組織が機能しないと判断したら迷わず切る、それはある意味一般のまじめに来ている人たちをモンスター化しようとする人間から守るための判断だと理解している。

私の判断はその人間との人間関係、ここできったらその人間がだめになるとか、そういうことがプライオリティではない、コミュニティに害が及ぶかどうかと言うことである。それがいろいろな人たちが集まる人たちがここで公平でかつ楽しく安全にトレーニングしてもらうために考えなくてはならないことだ。



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Entzauberung

2020-10-13 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

when I was a athlete.無理な減量をしたことがある。しんどさなんて顔に出さなかったのでまわりは気づいてはいないが、結構きつい減量であった。一日の食事は水分を500ミリぐらいにおさえて、あと食事ははかりではかって食べていたと思う。それはおおよそ約2週間ぐらいの減量期間ではあったが、かなりきつかった。そしてあまりきつい減量をしたら試合にも影響してくる、結局その試合は何かカゼにかかったようで体が思うように動かず、ボコボコにされてしまった。
それ以来無理な減量をするのはアホなことだと理解して、ベストウエイトで試合に出ることを心がけたのだが、スポーツは体をつくるのが基本と言うことを念頭において、減量をしたら有利だと言うアホなまやかしを無視して、減量よりもむしろ増量筋トレをしっかりとやって体をつくって試合に出た。体重がふえたらパンチが重くなるとかなさけないことを言うような人間がいるが、そういう考え方はマイナスすぎる、こういう考え方しかできないのは未だ減量することが試合に出るための正しい過程だということにとらわれているからだと思うのだが、相手のパンチが重いとか言う前にむしろパワーをつけてたたきのめしてやるぐらいのことをなぜ考えないのか。まずスポーツをしているのにヒョロガリなんておかしいだろう。私自身は減量しすぎるのならむしろ増量、筋トレをして体をつくってむしろ増量的なウエイトの管理のほうが懸命だと思っている。結果もそのほうがよかったし、RSCやKO率も高くなった。体重をへらせば有利だなんていう理論がどこから出て来たのかわからないが、日本のスポーツは視野が狭いので一つのことがそうだと認識されたら、みんながそれに従う、普通に考えたら栄養をとらないでひたすら激しいトレーニングをすることがいいのかわるいのかは小学生でも理解できるであろう。ブログのタイトルが脱あしたのジョーと言うのはボクシングは精神論が漫画から来ていることが多々ある、そこからの脱却、間違った因習からの脱却、少々難しいことを言えば脱呪術かをはかることを意味している。漫画の世界で減量がかっこいいとか男のロマンという感傷的な気持ちにひたるのもありだろうが、しかし勝負事はまず勝たなくてはだめだ。そして勝つためには十分栄養をとって、体づくりをすることが試合に出て勝つためのプライオリティである。私の場合は米国でボクシングを競技したわけだが、そこで思ったことは日本と米国ではスポーツのとらえ方が違う、日本はまだまだ鎖国だと言うこと、合理性を求めだしたら、競技者の意見や個性を認めなくてはいけない、日本のスポーツがそのことを許容できるかどうかはわからないが、英語を理解して外の世界に出て行けば多少なりとも日本は少し違うということが理解できると思う。

無理な減量は医学的にも問題がある、それを未成年にさせると言うことはかなり問題だと思っている。こういうところもしっかりと管理していく必要があるだろう。


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서울에서 또 만나자 ソウルでまた会おう

2020-10-08 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

この前某ショップでZARDがかかっていた。そういえばソウルでジウンと久しぶりに会った時今ZARDにはまってるとか言っていたが、すごく懐かしさがこみあげてきた、確かあれはクリスマスシーズンのソウル、おばさんの家に遊びに行くから、その時久しぶりに会わないかと言うことで再開した。
クリスマスシーズンのソウルは寒い、それは耳がちぎれるんじゃないかと言うぐらいの寒さだ。韓国はキリスト教徒が多いのでクリスマスは休日、街のイルミネーションはかなりにぎやかである。クリスマスシーズンに久しぶりに会ったチング、韓国系アメリカ人で3か国語を流暢に話す。最初空港で会った時にはなんて話そうかなんて思っていたが、空港で私の姿を見つけてすぐに駆けよってきて「やあ久しぶり。元気にしてた」と、その後なぜかテハンノでプッチンゲを食べに行って彼女とはたくさんのことを話したが、それは昨日会ったかのように話すことができた。たぶん友達ってそんなもんだと思う。久しぶりに会って何を話していいのかなんてあれこれと思うことはない、友達は何年たっても何十年たっても普通に話せるから友達だ。そういえば昔、彼女とはたくさんのことを議論した。日韓の関係を話し合った時はこれで関係がおわるんじゃねえかと思うぐらいの激しい議論であった。そして時には傷つくこともあったし傷つけることもあったが、しかしそれでもそれは若さゆえに受け入れることができたし、何よりもそういう経験が若い時には必要であり、そういう経験を通してできた友達とはいつまでたってもかわらぬ関係でいれるのだろう。社会学者のジンメルは「若者の言うことは間違っているが主張することはただしい」と言っているが、若い時はたくさんのことをあれこれと議論することは大事なことだ。議論することだけが正しい生き方ではないが、しかしそういうモラトリアムには思い切り自分の存在を表現していくことも大事なことで、そういうことを主張し受け入れあっていくのは若いからこそできることであり、それはある意味若さゆえの特権であってもいいと思う。ラインやフェイスブックの返事が来るとか来ないとかそんなことはたいしたことではないだろう。私の意見ではそんなものをすぐかえすとかかえさないとかで悩んでいるようでは本当の友達とは言えない。本当の友達とは何年会わなかってもまた昨日会ったように話すことができる存在、そういう存在を私はチングと呼んでいる。
私はそのチングの影響を受けている。虐げられている子供や女性をおぼえてクラブの名前で募金しているのは、そのチングからたくさんのことを学んだからだ。まだまだ世の中には多くの子供や女性たちが幸せとは言えない状況の中にある。自分一人では何もすることはできないが、MTオリーブフィットネスボクシングクラブを通してそう言う人たちのことを少しでもおぼえ力になれることを願っている。


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