脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

우리나라 일본 我が国日本

2018-01-31 | Weblog

私の好きな女優でナタリーポートマンという人物がいる。彼女はいわゆるイスラエルとアメリカの二重国籍である。彼女はイエール大学とハーバードで学び、そしてヘブライ大学でも学位を取った才女であるが、彼女はかって大学でテロリズムに対する対策と言うことで講義を行ったことがある。その彼女がインタヴューで祖国に聞かれた時にこう答えた。「私はアメリカを愛している。しかし心はエルサレムにある。そこが私の家だからだと」

二重国籍はアメリカをはじめ多くの先進国が認めている。少し前このことが日本でも問題になったが、しかしそうだからと言って日本もこの制度を認めてしまうことは危険であると思っている。日本という国は、ヨーロッパのように連合かできるようなアイデンティティというのもない、またアメリカや韓国のように忠誠心を求めるような踏み絵的存在や民族教育的なものはないので、われわれが日本人だと言うアイデンティティは希薄で、もし二重国籍などが認められて多くの外国人を受け入れるようになると、その希薄さに拍手がかかるであろう。

これは私の尊敬する恩師の話しである。この方には子供のころに移住された子供さんがいらっしゃって、こちらに住んで30年以上になるそうだが、ある時アメリカ国籍を所得するために役所に行って、その手続きをしたそうである。おそらくこの方のステータスもしっかりしているし、お子さんも30年以上住んでいるので、難なくアメリカ国籍が与えられると思っていた。しかし以外にもそのことは却下されたそうだが、理由は誓約書に書かれてあった「あなたは有事の時にアメリカのために武器を取りますか」という欄に「いいえ」と答えたからで、おそらく政府はこういう肝心な時に自分の国のために武器をとれない人間を認めることができなかったのだろう、アメリカ国民であると言うことは同時にロイヤリティが求められる。
アメリカでは国民の休日などになると国旗がかかげられるのだが、これもひとつの忠誠心の表れだ。だいぶ前テレヴィである外国人が日本人が国旗を大切にしないということをすごく不思議がっていた。運動会などで日の丸の国旗などを飾るが翌日は、それがいとも簡単にすてられているのを見て驚いたそうだが、国旗を燃やすのは罪とみなされる国も少なくはなく、アメリカなどもひょっとしたらそういう軽犯罪法にひっかかるかもしれないが、よその国がアメリカに抗議する時に国旗を燃やすのは最大の侮辱の意味をこめているのだが、国旗と言うのは日本人が考える以上に大きな意味とアイデンティティのあらわれでもある。
また韓国もこの二重国籍を認めているが、それは徴兵の義務をはたしてからで、この徴兵をおえるまでは国籍を認められることがないのだが、二重国籍を認めている国には、その国なりの踏み絵的な事柄が存在し、ロイヤリティをためされる。日本ももし二重国籍を認めるならば、民族教育の強化あるいは、言葉はわるいが正当的な踏み絵のようなものが必要とも言えるのだが、今の日本では現実的に難しいであろうが、もしこのことをぬきにして二重国籍や参政権などを認めてしまったならば、国家が半ば学級崩壊状態になってしまうのではないかと危惧している。

この国は私の父が愛した国で、私が選んだ国、そして私の子供が日本人として生まれた国だ。私は自分の子供が100パーセント日本人として生まれたことで、日本人であると言うことを実感できるようになったのだが、このことは3世代を経てようやく実現したことであり、ここは祖国ウリナラ イルボンだ。その立場からも二重国籍や外国人に参政権などと言っているが、私は反対の立場である。


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Keep on asking, and you will receive what you ask for.

2018-01-30 | Weblog

うちではそんな奴には教えさせないが、スポーツで時々指導しにに来るような奴で特別感を必死でだそうとしようとするような奴がいる。俺たちはすごいことをやってきたんだぞと言うような自慢話をしたり、上から目線で激をとばしたりする。しかしそういう奴に限って世の中では大したことがないし、針小棒大に自分の経験を語っているだけ、おまけに勉強やってませんから言葉がとぼしく、中学生レベルでしか話ができないので、自分を大きく見せるために話が自慢話になったり武勇伝になるのだろうが、そういう奴らが刑務所仲間をたよるようにジムに集まって、自分たちの優越感を満たすために上から目線で指導したり、これみよがしに自慢話をしたらクラブの雰囲気がわるくなるし、程度のひくい奴らがそのとりまきになってクラブの質がわるくなる。そうなると一般の社会人や子供が安心して楽しくトレーニングできないので、こういう奴らを徹底的に受け入れないようにしているのがうちのクラブだ。

話はハワイの話になるが10年ぶりぐらいにハワイのジムを訪ねていったときのことだ、10年と言えばひと昔、私のいたところもすっかりかわっていた。特にワイキキや日本人がよく行くところはすごく変わっていて、昔ならガイドブックになんかのらないようなところでさえ観光客が来るようになり驚いたぐらいだ。しかしその中でもかわらなかった場所がある。それはジムである。久しぶりに連れて行ってもらったジムに入ると10年前となにもかわっていなかった。おなじにおい、同じ雰囲気、そこでトレーニングする人たちを見て、かつて私が感じた10年前に戻ったような気がした。時代がめまぐるしく変わる中、いつの時代になっても変わらないものがある。それが10年前に訪れたハワイのジムだ。私はその時たくさんのことを思いをめぐらせていたのだが、本当に私はこのジムでは多くのことを経験させてもらい、そして多くのことを学ぶことができたと思っている。自信満々でやったスパーがふがない結果に終わり悔しくて悔しくてリングを見ていたら、これが私とジョージの出会いだったわけだが、ジョージが話しかけてくれ、俺がボクシングを教えてやると言って彼からボクシングを習ったこと。そして私はマイノリティであるが、そのマイノリティが生き生きと競技していたボクシングに私自身も救われたこと、最後の試合はきれいさっぱり判定でまけてしまったが、本当に学生時代経験したボクシングは私にとって貴重で、答えを求めてぶつかっていったちっぽけなエイジアンに、それなりに大きな答えを与えてくれたと思っている。聖書の言葉で私が好きな言葉がある。それは「Keep on asking, and you will receive what you ask for. Keep on seeking, and you will find. Keep on knocking, and the door will be opened to you.」だ。私はちっぽけでたいしたことができなかったが、しかしハワイで多くのものを与えられた。それは私が一生懸命求めそして思い切り答えを求めてぶつかっていったからだろうと思う。

今日あげた動画の歌のタイトルはI dont want to live foreverであるが、人生はかぎりがある。そして若さと言うのも永遠ではない、そうだから思いっきり全力でいけるのだろうと思う。そう考えたら永遠に生きるなんてつまらないことだ。


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私の責任者論

2018-01-26 | Weblog

相撲部屋で暴力が問題になっているが、暴力が問題になるのは相撲部屋だけではなくそれは格闘技全般において言えることだが、個人的には相撲だけではなく格闘技をやる人間は指導するものも含めて質がわるすぎると思っている。うちではアウトローとかやんちゃですをお断りしているのは格闘技はこういう輩を集めやすいからで、クラブの方針は厳しくしているのは、そうしないとそういう奴らが入ってきてそいつらがジムのマジョリティになりかねないからだ。責任者に哲学的なことを思考できる能力がない。まともに日本語が話せない。語学ができない。外の世界に出て行ったことがありませんでは健全にそのコミュニティを導いていけるかどうかうたがっている。

私の台湾人の友人の話になるが、彼女は中国語がすべて理解できると言っていた。中国語すべてと言っても私には何がすごいのかピンとこないが、しかし中国語だけでも台湾語を入れたら4つあるそうだが、彼女は中国語のほかに英語そして日本語を少し話す。このほかにも日本語と英語、韓国語話す友人、日本語、中国語マレー語?を話す友人がいて、結構私の知り合いの外国人はいくつか言葉を話すのだが、こういう人間たちと話をすることは非常に有意義である。スポーツや教育の話をしても経済の話をしてもいろいろな視点から答えがかえってくるので非常に参考になるし、何よりもたくさん刺激をうける。スポーツの監督は競技者にいろいろなタイプの人間と試合をして経験値を上げろと言うけれども、そういう前に言葉をおぼえて、頭を耕していろいろな知識や情報を集めて指導者としての経験値をつむことが求められるのではないか。スポーツはただそれがうまくなることだけが目的なのだろうか?ほとんどの人間は将来社会に出て仕事につかなくてはいけないのだから、また違った意味でその指導者たちから刺激をうけたり、いい影響を受けることも必要なことであろう。哲学ができない。英語どころか日本語もろくに話せないような指導者に何を学べと言うのかわからないが、スポーツしかおしえることができない人間とそれしかできない競技者の関係は猿回しとサルの関係に近い。人前でどなったり、人をなぐったり、暴力的なことを容認できるのは、そいつがバカだからだ。強くするためなら体罰的なことは必要だといまだ言うバカがいるが、物事を一般化したら人をなぐったり、暴言をはくことなど目的がどうであれ正しいことではないということは明白である。はっきり言って物事を一般化できない、考え方がとぼしいからそういう考え方しかできないのだ。

前に若い子が私のことをよく見られているからこわい。でもよく見てくれているから逆に安心できると言っていた。偉そうに言うがコミュニティを上手にまとめていくと言うのは、やくざのような組織をつくって威厳たっぷりにえらそうにするのではなく、そこに集まっている人間ひとりびとりの人格を尊重し、よく見てその人を理解すること、そしてぶれない指針を持つということだ。こう言うとひとりよがりの考え方でわけのわからないことをかんぐるやつがいるが、大事なのは考え方をしっかりさせて、正しい観察力を持つということ。私はごくまれだが、若い子にこう考えたほうがいいぞとこっそりと注意することもあるが、そういうと必ずわかりましたと理解してくれる。ゆっくりと時間をかけてその人を理解し尊重することで信頼関係は生まれる。私は人間のコミュニティは決して運動クラブの言うような上下関係のヒエラルキーからなるものではなく、ひとりびとりを尊重し、そこから生まれる信頼関係からなりたつものだと思っているが、もし相手に何か言わなくてはならない時、彼、彼女が「本当に自分のことをわかってくれている」と思うならば、どなったりしなくても伝わるものだと思う。だから責任者がその人ひとりびとりをよく見て尊重し、理解することは大事なこと、はっきり言って指導者はそういう意味での経験値をつまなくてはだめだ。特にうちのようなクラブはそういう経験値の高い人たちが集まっているので、責任者が多くのことを努力する必要がある。

ただ理解できない自分勝手な奴もいる。それは自分の好きなことしかやってこなかった机の上にすわって人の話を聞いてこなかった人間だ。こういう人間は往々にして自分勝手で同じく客観視できないので、こういうレベルで人間関係をなかなかとらえることができない。こういう人間が大多数を占めるとそいつらをおさえつけるために体罰などが容認されるのだろう。だから学習したり、学習させること、知的教養と言うのは群れの質を上げるためには大事なことだ。ここでは中高生が入会する時、保護者にへとへとになるまでトレーニングはしない。余力をのこして帰って勉強したり、ほかのこともしたほうがいいと言っている。


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I’ve missed over 9,000 shots in my career.

2018-01-25 | Weblog

I’ve missed over 9,000 shots in my career. I’ve lost almost 300 games. 26 times I’ve been trusted to take the game-winning shot and missed. I’ve failed over and over and over again in my life. And that is why I succeed.

経験値のひくい人間はすぐに自分のやり方にこだわる。所謂俺流とか個性とかに固執するわけであるが、それは本当に自分よりも大きいものを知らない、目の前の目標が小さいからそんな小さな経験値ごときでそれをすれば勝てるなどと錯覚を起こすのだろう。とてつもなく大きなものにぶつかったら、こりゃああかんこのままだったらどうにもならんと今までの自分をすてて何かを得ようとする。本当にこりゃ俺のレベルではどうすることもできないと実感したら新しく何かを得ようとするはずだ、俺流とか個性とか言っているけど、そういうことを強調する人間に限って井の中の蛙大海を知らずである。今日あげた言葉はマイケルジョーダンの言葉で好きな言葉がある。訳せば「私は9000回シュートを外し、300試合に敗れた。決勝シュートを任されて26回も外した。人生で何度も何度も失敗してきた。だから私は成功したんだ。」である。よほどの天才でない限り最初から、完成された技術など持てるはずはない。たいした努力や失敗もしていないのにこれが俺のスタイルだなんて言うのは勘違いも甚だしい。本当にうまくなりたかったり、強くなりたかったら変わることを恐れてはならない。そして失敗こそが本当に人を成長させるチャンスだ、その失敗を恐れてはならない。

私自身も最初はボクシングなんて突っ込んで行ってなぐったら勝ちじゃぐらいに思っていたけど、向こうでとてつもなく強い競技者とスパーをして相手にならず。フットワークとまた一からストレートのうちかたを学ぶことを余儀なくされた。そしておそらくそれをしなかったら向こうの競技者のレベルについていくことはできなかったと思う。あまりやりたくないので普段はやらないが時々私がシャドウボクシングをしているのを見て、すごくかっこよく動いていると言う人たちがいるが、しかしあんな動きは人種によってはたいしたことがない初歩的な動きで、私自身そのヒスパニックとトレーニングすることでおぼえた動きである。まあ正直私の実績はたいしたものではないが、それでも才能がなかった人間がそこそこやったのであるから私にしてみたらGJ、そのGJは失敗をおそれず大胆に挑戦しつづけた結果だと思っている。本当にうまくなりたいと思ったらまず変わることを恐れてはけない。そしてその変わる必要は失敗を通して教えられる。

言葉も違う、文化も違うそして仲間もいないような異国の地でその集団の中にいきなり入ってボクシングなどをするということは、思い切りのいることで内弁慶ではできないことだ。でもそこでうまくやっていくことは国際的なコミュニケーション能力がつく、うまくやっていくということは日本流のおとなしくして相手にあわすということではなく、時には衝突したりしてお互いを理解しあうことである。 


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Encouragement

2018-01-19 | Weblog

day by day in everyway, we are getting better and better. (僕たちは日々よくなっていく)これは「10人目の天使」という本の中で主人公のルキミアの少年がそれでも野球をやるのかと言う問いに答えたことばである。英語的な発想としてこのeverywayということばに私はすごく前向きな姿がうつしだされているように思える。日本でも最近ではポジティブにとらえほめるとか言っているが、しかしそのほめかたがあほらしくてしらじらしい。そりゃそうだそれしかやったことがないような奴が人をほめるには限界がある。ほめるということはアドラー的に言えば勇気づけのことであるが、しかしその勇気づけも相手を認めてフラットな関係が築けなければただのおだてである。他の言語どころか日本語もまともに話せない、単一民族の中でしか生きてこなかった。他の文化を知らない。日本人しか相手にしない。専門の勉強をしっかりやったわけでもなく考え方の薄っぺらい人間がどう人間を理解し認めていくのかわからないが、人間と言うのはそう単純なものではない。

ほめるということを勇気づけと解釈するならば、それは決して上から下に向かっていく言葉や表現ではない。監督やコーチと競技者のような関係において大事なのは、親子の関係にみられるような関係の中でほめられて安心感を持つことで何か自信が出てきたということではなく、お互いが独立したフラットな関係において認められ、尊重される関係からくる自信を持たせることだと思う。.自信を持つというのは基本的にはその親子関係の中でほめられたりしてつちかわれるものであるが、しかし自立し安定した自信は上から下に向かっていくほめるという行為によってつちかわれるものではなく、ある程度フラットな関係の中で相手から認められ尊重されることから生まれてくる。おそらくそこで認められることで対社会に対する人格が確立し、それが自分を自分たらしめる安定した自信につながるのだろうと思っている。日本人はクラブとか仲良くなったコミュニティの中では意見が言えても、まったく違うコミュニティ、たとえば外国なんかでは何も意見することができないのは、そのフラットな関係において認められ尊重されるという経験がとぼしいからだ。だから本当の意味で自信が持てないのだが、それはスポーツの親玉たちを見たらわかることだ。

これは個人的な意見だが、勝負事において欧米人と日本人をくらべて見ると、欧米人は勝ちにこだわるが日本人は負けを意識する民族だ。応援の時負けるなと応援するがこんなことを言っているのは日本人ぐらいだ。韓国はその逆イギョラこれはイギダ(勝つ)の命令形、勝てであるが、語学一つをとってみても発想がネガティブ、日本人はほかの民族に比べて思慮深いが、慎重でネガティブなところがある。だからこそお互いがフラットな相互関係の中で認められ、尊敬される関係から生まれる安定した自信を持つことが求められるだろう。私は前から日本のヒエラルキーはだめだと言ってきたが、日本のような家父長制のヒエラルキーはこの時代の真逆を行っているからだ。もっともっと人権やグルーバーリズムそしてしいて言うならばオリンピズムをまじめに勉強しろと思う。

動画はジェプラ(J Flaの韓国語の発音)のカバー曲Perfectはラブソングであるが、相手の価値を認め、そのことに感謝しているという意味ではこれもひとつのEncouragement(勇気づけ)かもしれない。男女関係はフラットである。お互いがそこで認め合い、尊敬しあう関係、勇気づけをしあう関係こそが男女関係である。それゆえに男が女を支配しようとして暴力をふるうDVは最低で卑劣なやりかただ。

 

 


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100倍膨れるタコ

2018-01-17 | Weblog

人のことは言えないがアメリカ人はいたずらが好きだ。私もよくやられたしよくやった。チームメイトにシャワーをあびている時にすごい冷たい水をしかも頭を洗っているときに3杯ほどかけられた。3倍ほどかけてにげていきやがったが、しかしそんなことをするのは彼と彼しかいない。仕返しとばかりに彼の家に行ったときに日本から持ってきた100倍ふくれるタコを持って行って水槽にいれてやったが、結構お互いこういうことをやっていたと思う。

よく言うことだが私は日本のスポーツ界は好きではない。なんというかスポーツをさせていただいていますというか、あのやらされている感に自由さを感じないのだ。あの親玉たちの威張り感は何なんだ。おしめをかえてもらったわけでもないのに親でも言えないことを平気で俺はお前たちのことをよく知っているとさもわかったように言うが、そういうことを言うのは彼ら彼女らが自分たち中心のヒエラルキーをつくろうとしているのは見え見え、そういうゴッドファーザー的な存在になりたかったらやくざの組でもつくればいいと思う。私が一番問題だと思うのはそのスポーツの楽しさを監督たちが教えないことだ。そりゃそうだ彼ら彼女らがそういう競技の仕方をしてこなかったのだから、まず競技する楽しさなんて教えれるはずはない。はっきり言うが没頭することと楽しむこととはまったく違う。日本人は没頭することはできても楽しむことはできてはいない。トレーニング後のくだらないミーティングで出てくる話は、一生懸命やればその努力はかならずむくわれるとか、どうやったらうまくなれるかというようなけつをひっぱたく話ばかりで、そのチームが楽しくトレーニングできる雰囲気づくりなどまったく考えていない。彼ら彼女らの頭の中はどうやったらこいつらを威厳を持ってまとめていけるか、そしてうまくさせるかということで、うまくさせるためならという大義で暴力や体罰が容認されるのは、まさにそういう相互関係のもとにチームが結成されているからだと思う。基本的にスポーツは遊びなのだから、競技者がそのようにスポーツを競技できたらおのずと上手になってくると思う。日本の監督はそのスポーツを楽しませようというよりも没頭させようと躍起になっている。だからトレーニングの時間も無駄に長いし、欧米に比べてけがが多い。

私は実際に海外で競技したが、むこうではすごく楽しかった。監督やコーチも日本のような親玉的な存在ではなく人生の先輩たちで、私はその先輩たちからボクシングだけではなく多くのことを学ぶことができた。日本の競技者でよく聞くクラブの思い出話は、どれだけ練習がしんどかったとか、先輩にしごかれたとか、いいとこでてくる話は武勇伝的な話で、本当にやっていておもしろいのかとさえ思ってしまう。

私は一度コーナーに戻っていくときに相手に手こずってしまって、戻った時にコーナーマットをいらいらしてけとばしたことがある。もちろんこんなことをしてはいけないので、その場でやっちゃああかんぞと目配せで注意されたのだが、でも感動したのはこの後、試合がおわってその審判が私のところに来て「君たちの国にはお辞儀と言う礼儀正しい習慣があるだろ。だから次はフェアなファイトを期待しているよ」見たいなことを言ったのだが、たぶん日本だったら1時間以上説教されてこんな競技者がいたと10年は語りつがれるのだろう。私は彼の言葉にすごく感動して次からは絶対にフェアなファイトをしようと心に決めたのだが、彼は私と言う人間をよく理解してくれその人間を生かすように言葉をえらんでくれたのだと思っている。日本も最近は少し変わってきたというが、しかしもっともっと海外で親玉中心のヒエラルキーではなく、そういう経験をする必要はあるだろう。日本は先進国だが、しかしスポーツのメンタリティは発展途上国だ。人間関係もフラットな関係になれないのは、指導者のほとんどがそれしかやったような人間ばかりで考え方が薄っぺらくて子供にいい影響を与えられない、本当の意味で自信がないから権威主義的なヒエラルキーに固執するのだと思う。

 

 


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Try being more confident!

2018-01-12 | Weblog

外国人の友人はよく私は自信を持って話すとよく言う。自慢ではないが中にはかなり信頼を置いてくれる人間もいて困った時にはアドバイスを求めてくれるのだが、私が自信を持って話せるのは自分のいいたいことをきちんと整理して、構築してその意見を伝えることができるからだ。中にはボクシングをやっていてある程度実績をあげたからと言うものもいるけれども、しかしはっきり言ってそれは100パーセント否定する。私の意見では格闘技をやっているような人間は気がちいさくて人前でまともに話せない、気がちいさくて自信がないからこういうスポーツにしがみつく、そういう人間は少なくはないと思う。偉そうに言うが自分の言いたいことを堂々と誰の前でも伝えたければ、まず国語辞書を引いて言葉をおぼえて、ある程度専門の勉強をして教養をつむことだ。私は辞書をひいたり言葉をおぼえることを言葉を支配すると言っているが、同じようなことしかできないヒエラルキーの中で、聞いてもらえるからと空想のような理想を語るのことが自己主張だと勘違いしているのは、自分が小さい世界にいて同じような人間しか相手にしていないからだ。ビトゲンシュタインだったかはわすれたが、人間は言葉のレベルによってその関係を築くというようなことを言っていたが、確かに言葉のレベルは人間のレベルに比例する。言葉と言うのはコミュニケーションのツールなのだから、責任者がある程度言葉を理解していないとその集まってくる人間も同じレベル、きちんと言葉をおぼえてある程度教養をつまないとそれ以上の人たちとの信頼関係を結ぶことはできないだろう。クラブの雰囲気をよくしたかったら、まず責任者が教養をつむこと、そして教育的であるということだ。教育的であるというのはグレーゾーンは持たない。子供のボクシングが医学的に危険であれば、きちんとした基準を持ってそれまではさせない。うちではマスでかーっと来て敵意むき出しでなぐりかかっていくのは暴力だとみなしてるが、何事にたいしてもある程度基準を持って群れを管理していくのは重要なことである。

自分の小さい住処でつれや仲間を大事にしたところで何になるのかわからないが、程度のひくい集団はずれた感覚をもってちいさくかたまってる。そういう輩が大多数であったり中心の群れは健全ではない。カラフルな格好で武勇伝ややんちゃ話に花を咲かせる改造車にのった人間はアウトローだと言うと「みんながみんなそうじゃない」と言うのではなくて、それを一般の常識としてとらえる。「なんかあった時に助けてくれるのが友達だ」ではなく、まず「何かないように迷惑かけないようにするのが友達」さらにここまでいけば負け惜しみであるが「学校でかしこいのと社会でかしこいのはちがう」、お前勉強やったんかと突っ込みたくなるが、そういう人間が賢いというのは社会の裏技的なことで、まともな集団ならばまず子供には勉強しろとはっきり言える。そしてもしわからなければ持ってきたら教えてやるよと言うぐらいのほうが群れとしては有機的であるだろう。

 

 

 


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哲学者であれ

2018-01-08 | Weblog


私は哲学の手引きのようなものを見つけたら買って読むことにしている。それは人に物事を説明する時、難しいことを簡潔にわかりやすく伝えるためで、そういう難しい哲学を簡単にした書物は非常に役に立つからである。中にはこれは哲学科ではなく教育学科とか専門外の人が書いているなと思わされるようなものもあるが、私が推奨するのは哲学の手引書でもまずその事柄を説明する時、その人が生きた時代とその人そのものを冒頭で項目ごとに紹介しているものである。哲学には当たり前だが時代背景がある。そしてその考えはその時代の中でその学者が生きそこで葛藤し悩んだ末に出てきたものであって、その過程を知ることでさらにから彼女が何を伝えたかったかと言うことを近く知ることができるからである。単にあの人は何を考えてどういう思想だったかというのは受験レベル、大事なのはその学者が生きた時代を知りその考え方を深く理解し共有し、そのことによっていくらかでも自分の悩みや生きることにヒントが与えられることが実践的であると思うし、そういう本の読み方をするほうが賢明であると思う。

アンナハーレントと言う哲学者をあげると、シオニストから批判の声があがったアイヒマンの裁判記録でもある「Eichmann in Jerusalem. A Report on the Banality Of Evil」なんていうのはまさにそのホロコースト言う経験を通して悩み葛藤して出てきた考察であって、当時のナチスの悪は集団的なものでアイヒマンをさばく刑法的根拠はないとしたのだが、当然こういう意見は同胞のユダヤ人から見たらある意味とんでもないことであろう。しかしこれらの考察はその時代背景にある彼女の経験をぬきにしては安易に決定できないものであり、だからこそ彼女の悩みや葛藤を深く知ると言う意味で、それがいつの時代に書かれたかと言う時代背景とその学者の人となりを知ることはその人の哲学を深く知る上では重要なことだと思う。我々のクラブは様々な人たちが集まってきている。そういった環境で哲学的に物事を考察すると言うことは群れがばらばらにならないために必要不可欠である。私はそれができないとそのコミュニティの質がわるくなると思っているが、そういう意味で指導者が哲学を語ると言うのは非常に大事なことで、特に日本の指導者にはそれが求められると思っている。







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Happy New Year!

2018-01-04 | Weblog

最近よく語学のレッスンの教材を探して歌の歌詞を見る。だいぶ前からよくつかっているのは雪とアナの女王の「Let it go」これはMultiLanguageバージョンなんて言うのがあって歌はかなりの国の言葉に訳されていて歌われている。そしてその中にはもちろん日本語もあるのだが、これは私の見方であるが、ほかの言語に交じって途中日本語で歌うと日本語だけ他の言語にマッチしていない、そこで流れが途切れるように思えるのだ。理由は日本語がリエゾンと言う規則を持たないすべてが母音で終わると言うこと。日本語は何を言っているのかは聞き取りやすいのであろうが、しかし音をつなげていってひとつのリズムを作ることには適した言葉ではないから日本語で歌うとそこだけ少し流れが違うように感じてしまう。おまけにLet it goを「ありのままで」なんて訳すのは不十分だ。Let it goと言うのは何かをザーッと流してしまう感じで、例えば嫌なことがあった時にそんなのわすれちまいなと言う時に使う言葉だ。だから日本語の「ありのままで」は60点、歌詞を見たらわかるけど心の葛藤から今解き放たれようとしているのに「ありのままに」なんていう響きは弱い。今までのその重荷から解放されて何かに向かっていく気持ちが込められているのだから、それらをザーッと流してしまおうと言う意味では韓国語の「タイジョ(すべて忘れよう)」)のほうが訳としては前向きであると思う。このlet it goであるが一番響きがいいのはフランス語である。あの独特の発音の響きは非常に魅力的な響きをつくる。英語やドイツ語などの複数の言語と聞き比べたが、フランス語はリエゾンがきれいに続き発音も個性的で響きがいい。昔フランス人の友人にワインをすすめられた時に、こういうの見方がワインを飲むには一番おいしく飲めるんだと得意げに「クオーッ」とのどをならしてワインをすすったのをおぼえてる。おそらく彼の飲み方は日本のそばのように酸素を同時に吸入してといったところだと思うのだが、しかし私も実際にやってみたらうまくできずにゲボゲボとなってしまったのだが、フランス語には独特ののどの使い方があるのだろうと思う。フランス語も韓国語も共通してリエゾンや鼻音化と言うのがあるが、しかしフランス語の発音はかなり違う、私はフランス語を話さないが、彼ら彼女らの独特の発音はのどを使って発音することもあるからだと思っているが、これはフランス語の個性だ。

うちのクラブでは個性を大事にしているが、個性を言うのは目立つことではない。カラフルな格好をしたり、妄想に近い大言壮語したり、滑稽なことを言って目立つことを個性だと勘違いしてる人間がいるが、髪の色や服で差をつけようとするのは、個性ではなくサル、ゴリラ、チンパンジーといった種別だ。私は個性はその人が持っている日本語で言うところの長所であり、アドバンテージとなるものであると思うし、その個性は伸ばすことでいい意味で人に大きく影響を与えることができるものであると信じている。正確に言えば個性を生かすのが人間である。いい人間関係と言うのは人を信じたり、いたわることができる関係、互いを認め支えあう集団である。そしてもし自分がその中に置かれているとしたならば、人間関係に積極的にかかわっていけるだろうし、そこで何かを発見できることもあるだろう。健全な人間関係は人を認めることを知っているし、その人間関係を通して多くのものが与えられるだろう。私の考えでは個性は「俺はこうだからこうだ」と我を通すのではない。それは相手から認められるものであり、自分も生かし人をも生かすもので、単純に言うとあの人がいるから元気になれるとか、あの人から大きな影響を受けたとか、相互関係において発揮されるものであり、人を元気づけたり、勇気づけたり、励ましたりできる存在、それが人間の持つ個性であり、その個性を生かすことが人間らしく生きることだと信じている。個性は誰でももっているものだ。でもそれはどう生かすかそしてそれがどう生かされるかと言うことが大事だ。そういう意味では自分はどういうコミュニティにつながってどういう人たちと出会うかと言うことは重要だ。



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