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脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

仲間がいない。そして取り巻きをもたない指導者のクラブを選べ

2013-01-30 | Weblog
体罰事件からいろいろな暴力事件が発覚、今度は柔道で訴えられたコーチがいたが、ここまで行ったら集団退部や独占販売まで徹底的に調べてやったらいい。集団退部なんて言うのは今まで顧問の理不尽があったからそうなったわけで、おそらく子供だと言葉で説明できないからいじわるなことを言ったり、自尊心を傷つけたりしたのだろうと思うが、クラブの世界は本当におかしい、また時期を見て具体的に何がどうおかしいかということをいろいろな例をあげて説明したいと思うのだが、たぶん私があげるようないろいろなことは教育委員会でいえば十分問題になると思っている。

私がよくわからない言葉がある。それは柔道家としての誇りとか、ボクシングでも誰かが言っていたがチャンピオンとしての誇り、ボクサーととしての誇りとかという言葉だ。最近のコメントでも代表者が言っていたが、何を根拠に言っているのかわからないが、スポーツやっている奴で時々こういう勘違いをする奴がいる。
こんな人としてやってはいけないことがつぎつぎと発覚しているのに、そういう当たり前のことができない奴らが、何を言っているのだろうか?自分たちはそいつらとは違うということをいいたいのだろうか?なぜ自分たちは人とは違うなどと自らを特別視しょうとするのか不思議でたまらない。
たぶん柔道家としてとか柔道家の誇りなんて言う奴の大半は、なぐった人間は柔道家ではない。本当の柔道家はそういうことはしないから、そいつの行った行為は自分たちとは別の次元で起こったことなんだというようなことを自分たちのメンツを守るために暗に示しているのだろうが、しかしこういう言葉は最低のいいわけともとれる言葉で、はっきり言ってこういう時に、こういう言葉を持ち出すのは自分たちのメンツのことしか考えていない、とかげのしっぽ切りのようなものである。
はっきり言ってこういう暴力や暴言をはく奴は、何とか道に生きるとかいうよりも、人として当たり前のことをやってこなかったからではないのか?
スポーツ推薦などと勉強もろくすっぽせず特別待遇で入って、ただそれだけをやっていたらいいというような世界で、当たり前の常識など持つことはできない。
そういう奴が指導者になって、倫理や道徳、社会常識などをふまえてまともな指導ができるはずなどない。
日本はこういうスポーツしかできない奴を特別視しすぎだ。
どこかの野球部は練習が厳しく朝練があるので、授業中堂々と教室で寝ているとか。そしてそれを甲子園に行くためなので教員も暗黙の了解で見逃していると言うようなことを聞くが、こういうことをするからつけあがって勘違いするのだ。
学生の本分は勉強をすること、なぜこういう奴らにたかだかスポーツをやっていると言うだけで、単位をやるのか理解できない?
今回いもづるしきにあがった暴力もそうだが、飲酒、喫煙、強盗、レイプなどの性犯罪、しょっちゅうこういう事件が起こっているが、よく言うが集団レイプなどというのは異常である。こういうことが毎年のように起こるのだから、ある意味日本のアスリートがどれだけ無知で社会常識にかけているかということが理解できると思う。
体罰がうんぬんということも大事だが、しかしさらにくわえて言うならばアスリートの学力の向上、まずスポーツ推薦などと言うバカな制度はやめるべきだ、スポーツと言うのは学業の延長線上にあるのだから、運動クラブであっても特別視しないで、みんなと同じ勉強をさせてだめだとおとすことも必要、スポーツをしているからと言って、特別視する必要はない。これからのアマチュアスポーツはそういうことを考えて行かなくてはならないのではないのか?

所詮スポーツと言うのはたいていの場合は学校や仕事の息抜きとしてあるものであって、何とか道とかここまで自分たちのスポーツや親玉を神格化するのは日本人ぐらいだ、たぶんこういう傾向は村社会をつくる農耕民族特有のものだと思われるが、この農耕民族特有の考え方は同じ目的のようなものを持った時に村社会をつくりやすく、その具体的な例がクラブ社会である。
そういう農耕民族的な発想から脱却するためには日本と言う国から外の世界に出て日本を見ることが必要である。

ただこういう村社会でもいい指導者はたくさんいる。
私が考えるいい指導者は村社会から脱却していること、仲間や取り巻き、子分は持たないような指導者は公平だと思う。
有名人で挙げるならば、元巨人の桑田とか柔道の山下とかそうじゃないのか?コメントを聞いていたらバカアスリートと全く逆の意見で非常に常識的なコメントをしている。





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チャイニーズボクサー

2013-01-28 | Weblog
日曜日NHKの特番でマニパッキャオの特別番組を見た。
パッキャオという選手は前から興味があったのだが、うちのクラブでも、彼の試合は面白いという人が多く、人気がある。
私も日本のボクシングは見ないが、しかしパッキャオの試合は何か惹かれるものがあるので、つい見てしまうのだが、それは彼が体をはってファイトしているから、その魅力に魅せられるのだと思う。
私は彼は歴史にのこる偉大なボクサーであると思っているが、その理由は彼の大きな祖国での社会貢献、特に彼が育ったミンダナオと言う島はテロリストで有名な島で、MILF ASGなどのテロリストたちによる誘拐や爆弾事件が多発しているのだが、外国人が渡航するにはかなり危険な島であるとされている。
そのせいかミンダナオは観光客などが寄り付かず、フィリピンでも最もまずしい島のひとつとされ、彼はこの生まれ故郷であるミンダナオに学校を建てたり、食糧支援をするためにほとんどのファイトマネーをつぎこんでいるそうだが、祖国のため自己献身的にファイトする姿は国民の絶大的な信頼を得、今では彼は大統領よりも有名で人気のある人物らしい。

この特集はアメリカのLVで行われるパッキャオとマルケスの試合の模様を特集として組んでいたのだが、この二人のボクサーはフィリピン系とヒスパニック系の絶大的人気を持つボクサーであるが、アメリカのボクシング人気はヒスパニック系にかたよる。
ハワイでもボクシングが人気があるのはフィリピン系の移民で、アメリカではボクシングと言うスポーツはかなり低迷してきたが、しかし未だヒスパニックなどの人種には絶大的な人気がある。
しかしそのドル箱スターであるパッキャオとマケベスも30代マケベスに至っては39歳とピークを越えた年齢で、今後は新しいドル箱スターが必要であるが、今回その特番で最後のほうでプロモーターが、今後のドル箱は中国から発掘したいというようなことを言っていた。
非常に気になる言葉である。最近金メダルがとりやすくなったのでにわかに力を入れてきた中国であるが、前にも言ったがボクシングは特別な訓練所があって、普通の人ができないというようなことを現地の学生から聞いた。
おそらくそういう施設にボクシング競技に適正と判断されたものは、そこに入る権利を認められ、子供の頃から徹底して訓練を受けさせられるのだと思うのだが、そういう選手をアマチュアだけではなく、それがおわるとプロに売り込んで、アメリカの市場に売り出すとしたならば、非常に効率のいいビジネスでそういうシナリオがすでに双方の間であるのではないだろうか。
そう考えるとAIBAの理事長が中国人で、今後プロ活動を認めるということを公言していることは非常に興味深いことで、正直私は水面下でいろいろな取引のようなものが行われていると思っているが、ボクシングと言うのは非常に疑惑の多いスポーツで、それはたとえアマチュアであってもオリンピックでいくつかの疑惑があがっている。
私は独占販売をさせるようなアマチュアボクシングも含めて、ボクシングと言う競技はかなり疑惑が多く、うさんくさいスポーツだと思っているが、しかしこのパッキャオのような存在は、このスポーツだからこそできる偉業であるということを教えてくれる。
最後にパッキャオがこう言っていたことが非常に印象的であった。
「自分たちは闘鶏でたたかうチャボである。チャボはまけたらおわりだが、しかし我々はまたまけても立ち上がれる」



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zuckerbrot und peitsche

2013-01-24 | Weblog
今週は体育会の暴力や組織について批判してきた。体育会のすべての暴力やいじめなどは一学校や指導者と言った個人の問題ではなく、組織や体質の問題でその組織を根本的にかえて行かなくてはこういう犯罪はおこるであろうということを言ってきたと思う。

体育会を表す言葉として挙げるのが「zuckerbrot und peitsche」と言う言葉である。
これは日本語に訳すと「あまいパンとムチ」一般的には「アメとムチ」と言う言葉で用いられているが、これはドイツが帝国であった時代に宰相ビスマルクが国民をあやつるためにとった国民懐柔策で、アメは報酬、そしてムチは弾圧さらに暴力や強制と言う意味が込められている。
彼がアメとムチで国民を懐柔させ、従わせたことによって、彼の政策は今日の社会保障制度のいしづえとなったが、しかしその一方で社会主義者に対しての激しい迫害があったことも確かなことで、これは近年まで為政者が国民を懐柔させ従わせるために用いてきた手段である。
しかしこう言った懐柔策は為政者がディクテイター(独裁者)であるからこそできる懐柔策で、日本のような民主主義の政治体制では当然実行することはできない、いわゆるアメとムチの懐柔策は独裁者であるからできることである。

体育会系の奴は愛情のある体罰なんていうことを言う、今回の事件でもなぐられたのは自分がミスしたから、しかし監督はなぐってもその分自分をほめてくれたと言うようなことを言っている奴が結構いるのだが、さらに元オリンピック選手は体罰はあったが、何がわるいかということを説明してなぐってくれた、そして監督はいいプレイをした時はほめてくれたとコメントしていた。
バカじゃないのか。本当にスポーツバカはおそろしい。なぜこういうバカを元オリンピックと言うだけでテレヴィに出すのか?
程度のひくいコメントはテレヴィはさせないほうがいい。こういう発言は暴力を容認しているのと同じ、自分たちはアメとムチを使い分けて懐柔させられていると言うことがわかっているのだろうか。
アメとムチのつかいわけは体育会の常とう手段だ、何がわるいのかと言ってなぐるのは、ある意味だまってなぐるよりもたちがわるい、こういうやり方は上下関係をはっきりさせ、従わせるためのもっとも効果的なやり方、口でわかっていることだから口で言えばいいのだが、しかし体育会と言う軍団は、その体質として、みせしめがなくては全体的に統制がとれないので暴力を用いる。
しかしこういうことでも競技面において成長し、情をかけられ、後でちょっとでもほめられれば感謝されるのだから、スポーツしかできないような人間は単純で、こういう懐柔策にかかりやすく、まさに体育会のアメとムチの使い方は洗脳と言ってもいいが、これはクラブと言う小さな世界で監督が独裁者であるからできることである。
しかしアメとムチをつかいわけるなんて言う指導法はもう今の時代には時代錯誤である。
指導者が、厳しくそして時には優しく、競技者から父親のように恐れられて、そしてまわりがそのお父さんを尊敬するという家父長制的な制度は、はっきり言って異常である。今回の事件もそういう体質の中で監督がお父さんや親分的な役割をもち、そういう中で監督の暴力は愛情だと言う暗黙の理解があったのではないかと思っているが、アメとムチの懐柔策は監督がそういうポジションにつき、競技者を従わせるためには必要であったことであり、たぶんこういうアメとムチをつかったやり方は、ほとんどのクラブで行われていることであると思う。
私が今回の問題を一学校や個人の問題ではなく、運動クラブのシステムそのものに問題があると言ったのは、まさにこういう悪習があるからで、こういう悪性の中にどっぷりつかると「愛情のある体罰(暴力)」などと言うバカなことを言うのだと思う。

よくこの問題を体罰は程度の問題だと言う人間がいるが、しかしこれは程度ではなく制度、システムの問題。
根本的にこういう古い徳川時代のような制度をかえなくてはだめ。
欧米なんか参考にしたらもう日本と小学生の地点でスポーツに対する考え方や取り組み方が違うと言うことがわかる。
そこでは子供の人権や主張が尊重され日本のそれとはまったく違うことがわかるが、こういうことも日本はスポーツバカがはびこっているので適応させることができない。なんせ体育会は子供の頃からスポーツばかりで、勉強はろくすっぽしてないやつが多いし、英語を話せる人間がほとんどいないのだから無理もない。
こういう悪弊が残る制度を解体させるためにも、もう少し競技者のレヴェルをあげて指導者をかえるべきだ、そのため競技者にもっと勉強させる必要もある。

欧米では大学は勉強するところだ、授業は基本的には出席する、ディスカッションには必ず参加する。できなけでは後で質問するぐらいでなければ、授業に参加したものとはみなされない。学校で勉強して専門知識を学ぶということはそういうことである。
クラブ推薦で入った奴は何をしているのかわからないが、そもそもスポーツをしに学校に来ると言うのはなめている。
こういう奴らにあまく単位をやる必要もない。学校は勉強するところ、スポーツをする場ではない。
こういう奴らがスポーツ界にはびこっている限り、制度自体をかえることはかなり困難なことだと思う。









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体育科ってムオ?

2013-01-22 | Weblog
この前うちの会員がスポーツライターの本を読んでいてその留学経験のあるスポーツライターは私と同じことを言っていたいたそうだ、特に日本のスポーツクラブが小さく固まるのは英語ができないというディスアドヴァンテージからだと言っていたらしいが、たぶんそういうことは一度外の世界に出てそういう社会を見たら明白なことである。

私はいつも疑問に思うことがあるのだが、体育科って一体何なんだ???
純粋にスポーツをしたいのか、それとも運動クラブの組織をつくるためのクラブかはわからないのだが、スポーツ科学と言うのは学問の中でも結構むずかしい学問だ。まず日本はかなりおくれているので、英語で論文を読むぐらいの力がなければ、そういう学問をおさめることはできない。実際論文なども英語で書かれるし、スポーツのルールを決める言語も英語である。だからそれなりの勉強をしないといけないといけないと思うのだが、しかし実際はそうとは思えない。
そのスポーツライターも言っていたらしいが、日本人は英語ができないので、スポーツにおいてはかなりのディスアドヴァンテージがある。
しかしこういう体育科があるのだから、単純に考えて誰かがそういう勉強をして、スポーツ科学の学位をおさめればいいのだが、しかしこのスポーツ学科と言うのは日本独特の体育会と言う組織をつくりあげることに関しては、かなり一役買っているところはあるが、肝心のスポーツ学として確立したそれなりの地位を築くことはできていないことは、今の日本の現状を見たらわかることだが、そう考えると体育科と言うのは一体何のためにあるのかわからない。

体育科は運動クラブの推薦枠なのか?それとも純粋にスポーツを勉強したいのか?もしそうだとしたらスポーツばかりさせないで、学問としてスポーツを学ばせる必要があると思うのだが、実際は体育科と言うよりも体育会学科と言った方がいい、これからいろいろな経験をしなくてはいけない子供をクラブや運動と言う狭い枠に押し込めて、全国に行けなどとけつをひっぱたいて、自由を奪うのは人権侵害も甚だしいことである。こういうことがある限り運動クラブの犯罪やいじめやしごきなどはなくなることはないだろう。
しかし体育会と言う狭い世界はまわりの親も含めてそのことがわかっていない。むしろ何もかも犠牲にして全国大会に行くことが素晴らしいと思っている奴がいるからから恐ろしいものであるが、今回は人間の尊い命が犠牲となったのだ。これはケガや不慮の事故で死ぬのと全く違うことである。

前から言っているがこういう問題は顧問や一学校の問題ではなく、運動部と言う組織の体質の問題である。
それは体罰だけではなく、レイプ事件やその他の犯罪などもそうだが、毎年体育会のえげつない異常な犯罪が実際におこっている。そしてそのたびに学校側が謝罪し、大会の出場辞退などと言う措置でごまかしてはいるが、しかしはっきり言って、のど元過ぎればあつさをわすれる。それは体育会と言う間違った社会だから起こったことで、なぜそういうことが起きるのかと言うことを、こいつらの組織を十分に理解してその腐った体質を根元の部分から断ち切っていかなくては同じことが繰り返されるだろうと思う。

そしてさらに信じられないのは未だに保護者がその暴力をふるった奴を励ます会と言って集まって擁護し、自殺した子をなじっているという記事を見たことだ、もしこういうことがあるとしたならば、それは異常すぎる世界で、はっきり言ってこういう暴力監督を生み出したのはまわりの保護者達だ。
クラブの成績を期待して全国に連れて行ってくれるならと暴力にも目をつぶり、全国大会に出場させたらいい指導者などと絶賛し持ち上げて、期待をかけるようなそういう勝利至上主義的な考え方がこういう事件を引き起こしたと言っても過言ではない。
何度も言うが人がひとり死んでいるんだ。しかも理不尽な暴力で、その親の気持ちを考えたことがあるのか?
私はこういう一生懸命好きなことをやろうとして、その好きなことのために理不尽になぐられて追い詰められて自殺したことに激しく遺憾の意を表する。好きではじめたスポーツなのにそのスポーツをやらなきゃよかったなんてもし思ったら、一番かわいそうなことではないか。
スポーツと言うのはもともとは楽しむためにやるものだ、監督のメンツや親の見栄に振り回されてやるものではない。子供の時にやった草野球がどんなに楽しかったか。そういう気持ちでプレイできるからこそ、スポーツは我々の人生の中に意味を持たせてくれるのだと信じている。

あと体罰は実際の暴力だけではなく、顧問による言葉の暴力も含めて考える必要がある。
この件に検してはいずれまた書く。

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ミーティングを考えよう

2013-01-21 | Weblog
大阪の虐待自殺事件で、OBが監督を「体罰は愛情の裏返し」などとわけのわからないことを言って擁護しているらしい。
ホントに頭に来る。こういう奴らを仲間と言うのだが、人がひとり死んでいるのに何を言っているのだと思うが、この事件はいささかスケープゴート的な要素があるにしても、こういう事態に仲間が結託して当事者をかばうのだからおそろしいものだ、こういう仲間意識は運動クラブなどの独特の連帯感だと思うのだが、私には理解できない。
人が死んでいるのに人を理不尽なことでなぐるのが愛情だと言うのだから、こういうところに運動クラブのゆがんだ考え方と仲間意識と言うものが表れている。
こういう運動クラブは保守的で、自己主張できないように芽をつまれてしまうので、こういうゆがんだ仲間意識をもっているものである。
それは未だに監督になぐられたことや、先輩にいじめられたことをおもしろおかしく、思い出のように語っているバカを見たらわかることで、何が楽しいのかわからないが、よろこんで監督からしごかれたことや先輩にいじめられたことを話しをして盛り上がるのだが、なぐられたことやいじめられたことがたとえはたから見て理不尽であっても、みんなと共有できれば思い出になるのだからおそろしい、そういうメンタリティを理解できない。アホかと思う、意外とこう言う奴らに限っていじめはいけないなどというが、しかしこいつら自体のメンタリティがいじめを擁護していて、そのことに気付いているのかいないのかわからないが、しかし人権を侵害したいじめでもみんなで共有すればそれは立派な思い出となるからおそろしいものだ。
はっきり言って私は、そういうところにどっぷりつかった運動クラブの人間が一番個性がないと思っているが、パンチをうつとか、ボールをバットにあてるとか、シュートを入れると言う芸をすべてのことよりも最優先にするこういう運動クラブのシステムと言うものは非常にゆがんでいるように思える。

たぶん監督のことを人が死んでいるのにもかかわらず、無神経に新聞などで擁護できるのは、はっきり言って芸のことしか考えさせられないからきちんと正しく物事をとらえて判断できていないからだと思うのだが、私だったらたかだかスポーツごときで、それを失敗したからと言ってなぐられるというのは耐えられないことである。
そしてこういうことをされるのは理不尽なことであるということは、大人であればわかることだ。しかしその世界がせまかったり、芸のことしか考えさせられなくては、こういう当たり前の考え方ができなくなる。
そうならないためにもまわりがもっとディスカッション能力を磨いて、発言力を高めひとりびとりがきちんとした意見を持つことである。
ひとりびとりがきちんとした考え方を持って、公平な発言ができればこういう歪んだ仲間意識を持った集団にはならないだろう。
しかしよく「自分たちは言いたいことを言わせてもらって自由にやらせてもらってまーす」というようなことを言う奴がいるが、そういう奴らはただお父さんに意見を言うような感じで自分のことを聞いてもらっているにすぎないのだが、そういうレヴェルでは意味がない、こいつらの発言は往々にしてもうすでに親と子と言うような関係ができてしまっているような中で言うことであるから、こういうのを自己主張とは言わない、単にお父さんにあまえているだけで、それははっきり言ってフラットな関係ではないからだ。

私は監督中心の家父長制の封建的な考え方がこういう体罰や不公平と言うものを生み出していると思うのだが、今後こういう事件や不正や不公平がおこらないために、クラブ全体をフラットな関係にするために、もっとディスカッションする機会を競技者に与えたらいいと思うのだが、週1回はミーティングか何かで全体でルールや戦略や、その他のことなどについて話し合う機会を持てば、かなり競技者の論理的思考は鍛えられるので、競技者の倫理や質があがると思っている。
しかしミーティングと言ってもまず言葉をおぼえさせなくてはだめだ、監督も積極的に英語や難しい言葉を使いひとりびとりの言葉に幅をもたせること。競技者が社会に出て恥をかかないためにも、そういう指導も今や必要なことである。
おそらくボキャブラリーの少ない奴ばかり集まってミーティングなど持っても、言葉に広がりがなく、毎回同じことしか言えない、サルのようにおたけびをあげて、最終的には言いたいことを言うだけの会に終わってしまう。
中にはこいつはバカじゃないのかと言うようなミーティングをする奴もいる。
全員集めてひとりずつその人間のいいとこわるいとこを言っていきましょうなんて、小学校のおわりの会さながらのミーティングをするようなバカがいるが、こういう程度を疑われるようなことは小学生まで、ここまで行けばちょっと進学校に行っているレヴェルの中学生なら、バカじゃないかと相手にしないと思うのだが、本当にみっともないバカ丸出しだ。
監督はよく考えろなんて日ごろ言っているが、しかしその考える力を養うミーティングが機能していない。ここまではいかなかっても、権威主義だけが目立つようなミーティングであったり、勢いだけのおそまつなミーティングが監督中心と言う名のもとでもたれ、それに対してまわりはごもっともですと言うだけで、そういう体質があるから、いつまでたってもこういうやくざのような家父長制のシステムから脱却できないのだ。
たぶん日本人は意見を言えと言われても意見を言うことができないので、私ならまず最初に講義式で話をして質疑応答をさせて、ディスカッションできるようにしていけばいい、講義の時もなるべく難しい言葉を使って言葉をおぼえさせるようにしたい。さらに学生の目的とは何か言うことをを徹底させて、国語や英語のテストの点も合格ラインを決めておいて、60点以下の人間はクラブをしてもらっては困ると言っておく、差別だという奴もいると思うが、学校は勉強をする場所、運動部だからと単位をあげたり、何も考えさせないでスポーツをさせるよりはいい。
たぶんこういうかたちで競技者の質をあげたらもう少し、運動クラブもかわるのではないかと思う。
少なくとも言葉をおぼえて、ディスカッションして、本当に自己主張できるようになれば、自分たちのルールや戦術でスポーツを楽しむことができる。おしめをかえてくれたわけでもないのにおやじのようにふるまわれて、アメとムチをつかいわけられててなづけられて一致団結する仲間よりも、自己主張できて、自分の選択でスポーツができるほうがいいんじゃないか。
サルのように監督にアメとムチでてなづけられたくなかったら、きちんと自分の言葉を持つべきだ、昔「戦場に架ける橋」のテーマ曲のリズムをそれにあわせて「サル エテコ チンパンジー」とうまくリズムに合わせていたが、まともに自己主張できない監督中心のヒエラルキーにどっぷりつかっている奴らは「犬 エテコ チンパンジー」たとえそいつが、小さい世界で一匹オオカミぶっていても、首には大きな首輪がついている。ジムや自分を評価してくれる小さな世界でほえても、世の中でははっきり言ってチワワがキャンとほえているにしかすぎない。

ついでに言うとクラブがやくざかしないためにも、暴力や暴言は言語道断だが、監督の禁止事項を例えば「チンピラのような恰好はするな」「巻き舌でしゃべるな」「態度を大きく見せるために大きくがにまたで足を開いてすわるな」「子供においとかそこというような物を示すような言葉は使わない」これらのようなことを禁止事項にしたらいい。
さらにこれからの時代はせめてTOEIC300点(990点が満点なのでかなりひくいが)ぐらいの英語力またはその他の言語を話すことができる。と言うようなことを義務付けたらどうか。


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バイレイシャルはこの時代は有利だ

2013-01-19 | Weblog
だいぶ前に読んだ本「ハーフはなぜ才能を発揮するのか」と言う本の中でバイレイシャルや帰国子女があげる国際人の条件が書かれてあった。
それによると
 自分のアイデンティティが何か、どこにあるのかを獲得していること。
 英語を話すか、それ以外の言葉を二か国語以上話すこと。
 日本以外の国に暮らした経験があり、日本と他国とを相対的な地平で見ることができる。
 様々な国の文化を味わった経験があり、それを知的に吸収することができる。
 現地に行って、言葉を学び、そこで出会った人々と、喜怒哀楽を共有した経験を持つ。
 外国の文化をオープンに受け入れる姿勢がある。その人たちの立場で考える力や創造性に富んでいる。
 どこの国に行っても適応能力が高く、サブカルチャー気質がある。
 自分で考える力がある。
 自分の意見を相手に伝える伝達能力、コミュニケーション能力に長けている。
 自分自身のルーツや文化を理解し、受け入れている。
の10項目である。
自分のアイデンティティが何か、どこにあるのかを獲得しているというのは、帰国子女やバイレイシャルらしい意見であるが、これらはなかなか的を射た意見である。
だいぶ前からグローバル化が進んでいるが、はたしてこの条項に自分たちの親玉たちはいくつあてはまるだろうか?
日ごろは偉そうなことを言っていても、この国際社会と言われている時代に英語や他の言葉が話せないないようではだめだ。さらによその土地に行っていろいろなことを吸収していく経験も必要だと思うが、実際にそこの土地以外出たことがない人間と、よその土地で生活したことがある特に東京や大阪などの大都市で生活したことがあるような人間は考え方に大きな差がでてくると思う。
そしてそれはスポーツにも言えるわけで、同じようなスポーツしかやったことがない、体育会の世界にどっぷり使っているような奴は考え方が非常に狭く、考えられないようなバカなことを、伝統であるとかしつけとか言って押し付けるものだが、それらは決して根拠があるわけではなく、親玉どもの権威づけのためだけに存在するものである。
野球部の坊主とかアマチュアボクシングの素っ裸で計量なんて言うのは、まさにそういう了見の狭い奴らの押し付けだが、こいつらの行為は人権侵害、常識を逸脱している。バカだとしか言いようがない。
たぶんこういうことを当たり前だと思っているような人間は、モノリングアルで外の世界を知らない、すべてのことをボクシングやスポーツに結びつけてしか考えることができないバカだと思っているが、こういう人間が特に指導する側い多いからこそ、自分の物事を考えて判断する力が必要である。
そして自分で考える力というのは、今や日本語だけでは不十分、最低でも二か国語を理解し、他の文化や考え方を吸収能力がなければ、考え方が矮小化されて非常に恣意的な考え方になるのだが、スポーツしかできないそれがすべてだと思っている人間の常識が社会の非常識と言うのは説明しないでもわかることである。

世界と言うのは確実に狭まっている。そしてその世界を狭めていると言うか身近にしているものは言葉であり、特に英語と言うのは共通語でこれが話せないと国際社会では通用しない。
だから自分たちの価値観が支配する小さいところに子供をとじこめて、それがすべてだと言うような指導法は間違っている。
元プロ野球選手の桑田が体罰は指導者の勉強不足だと言っていたが、体罰も閉ざされた狭い世界だから通用することで、それはそういった指導法が間違っていると言うことだけではなく、それ以外にもおかしいと言うことに気付いたら、もっといろいろなことを発言することができるフラット関係を築くことが必要で、そのため親玉中心の家父長主義的な制度は即刻解体する必要はあると思っている。

こういう親玉中心の家父長制の制度は、やくざごっこに等しい遊びで、体育会の行動ややり方に稚拙さを感じるのは、やくざごっこの世界にどっぷりとつかっているからであろう。
こういうやくざごっこの延長が、暴力やいじめ、そしてえげつない犯罪に実際つながっているのだが、もはやここまで行くとこいつらの遊びはもはや遊びとは言えない世の中の害を通り越して犯罪と言えると思うのだが、レイプや体罰などはまさにそう言ったことではないだろうか。

そしてさらにそれはもっと競技者にも自分で考える力を身に着けさせる必要がある。
そういう力が十分にあれば、人権を無視したような指導法も明らかにおかしいと感じるのだろうが、しかしそういう狭い世界にとじこめられると何が正しいのか、理解できない、親玉の言ったことだけがが正しくなり、たとえ親玉がバカで理不尽なことをしようが、それをおかしいと言うことができないのだ。
そうならないためにももっと自分で考えさせる力を身に着ける指導法と環境が必要ではないだろうか。
そういう力を身に着けることで、そういう親玉の理不尽な体罰や、それだけしかできないような小さな世界に対して、こんな世界ではだめだと言うことができると思うのだが、しかし自分で考えると言っても、それは知的に物事を吸収していく能力で、これはただ単にスポーツをがむしゃらにやっているだけでは身につかない。
例えば語学などをおぼえていろいろな国の文化を知り、その国のスポーツを知ると言うこともスキルアップや制度や考え方などを改善していくためには必要であり、そういう能力が身についていないと詐欺師ややくざのような指導者にふりまわされることになるのだが、今あげた国際人の条件と言うのはこれからのスポーツにも必要で、そういうセンスが磨かれなくてはならないと思うが、まずその手始めに外国語を奨励する必要があると思う。

最近頼まれて、韓国語を特別に教えることなったのだが、ここ何年か前から第二外国語が英語の代わりにセンター試験で選択されていて、多くの大学が第二外国語を採用しているそうであるが、韓国語もそのひとつである。
これは帰国子女などにとってはかなり大きなアドヴァンテージであり、こういう制度は日本だけではなく、欧米や中国でも採用されているそうであるが、こういう制度が当たり前になってきている時代に日本語だけしか理解しようとしない、他の文化が理解できないようでは落ちこぼれていくだけだ、保守的で封建的な体質を持った軍団は新しい考え方や文化を受け入れていく能力がない、徳川幕府そのもので、解体しないのが不思議なぐらいだが、たぶんそれは未だに保守的な考え方の人間でかたまっているからだと思う。





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あいさつには意味がある

2013-01-17 | Weblog
最近入会して来る人にはっきりと自分は運動部の雰囲気についていくことができない。ここだとそういう考え方や雰囲気がなさそうなので、来たと言う人が増えてきた。おそらく大阪の事件で改めて日本の運動クラブがいかに権的かと言うことを、さらに社会人になった視点から見て思ったのだろう、しかし前にも言ったがこういう問題は徹底して制度自体をかえなくては毎年同じことがおこるだろう。

話しは最近希望者に韓国語を教えているのだが、まず最初に表現で教えているのは最初のあいさつ言葉であるが、そのあいさつ言葉はアンニョンハセヨと言う言葉である。
このアンニョンハセヨと言う言葉は英語で言うとare you in peaceであり、漢字でいうと安寧がハセヨ(ありますか)と言うことである。
そしてこのあいさつは日本語の一方的なあいさつではなく、疑問形になっていて、アンニョンハセヨと聞かれたら、かならずネ アンヨンハセヨ(はい 平和があります)と答える。
これはあいさつと言うものが一方的ではなく相互関係にあって、特に相手に安寧がありますかと聞くことでお互いを気づかっていることがよくわかる。
よく運動部などであいさつはでかい声でしろと言っているバカがいるが、そもそもあいさつというものをなぜでかい声でしないといけないのかわからないのだが、おそらくそれはただの服従を意味する行為であって、そういう服従を表す行為は封建的なクラブによく見られるが、もともとあいさつというのはそういう目的のためにあるものではない。日本語の意味は私にはよくわからないが、しかし韓国語のような意味はあるのだと思う。

私は教える時はかならずそのあいさつの意味を伝えるようにしているが、それはこの言葉と言うものを大事にしてほしいからだ。
例えばさようならは行く人と送る人では表現が違う。
行く人は送る人に対してアンニョンヒケセヨ(平和でいてください)と言い、そして送るひとは行く人にアンニョンヒカセヨ(平和に言ってください。)さらに友達どうしのカジュアルな会話でもチャルガヨ(Go well)チャリッソ(stay well)と相手を気遣う言葉があって、そういうちょっとした意味を説明をするのだが、それだけでもああ言葉にはこういう意味があるのかと、そのあいさつを大事にするようになると思っているからだ。
それをただでかい声でただ服従を表せば「ちわーっす」でも立派なあいさつとみなされる運動部の体質に下品さを通り越して、国語を冒涜しているんじゃないかと思うんだが、こういうバカな体質にならないためにも、指導する人間はもう少し国語力と言うものを磨いて正しい日本語を使う必要があると思うのだが、しかし指導する奴の中には礼儀とかあいさつとか言っているわりに、結構でたらめな日本語をつかっている奴が多いのではないかとにらんでいる。
礼儀正しいと言うのは正しく国語を話すことである。日本語を正しく話す人は礼儀正しい人だし、でたらめな日本語を話す人は決して礼儀正しいわけではない。もし運動部でいうハイハイハイと親玉に服従し、一応自分は下っ端ですと言うようなことを示すことが礼儀と言うならば、そのへんのチーマーと呼ばれているような奴や暴走族でもできることであるが、DQNクラブの礼儀やあいさつというのはこれとかわらないのではないか。

正直まったく関心がないので人のブログやホームページなどは見ないが、もしそういうものを見て、使われる表現が稚拙だったり、きちんとした文章を書けないような奴はだめ、特にこういうスポーツクラブと言うのは親が見ているのだから、自分の子供よりも程度がひくいような文章しか書けないようでは信用されないだろうし、親ももっとそういうところを見なければいけないと思っている。
子供が楽しくやっているから、ひとつのことに打ち込んで一生懸命やっているからいいなどという考え方は今回の事件を見て、よく考えなくてはいけないということはわかることである。
スポーツの指導をしているからこの人は礼儀正しい人だとか、正しい人だと言うのは全くの勘違いである。
むしろそれしかできなような奴は物の見方がせまいので、わけのわからない常識をおしつけてきたり、世の中の常識からかなりずれていることが正しいと勘違いしているのだが、それは今回の事件も含めて、体育会の礼儀などが世の中の常識とマッチするかどうかということを考えたらわかることである。

正直もう少し人生の選択肢の幅を広げるために、運動クラブには勉強させる必要があるのではないだろうか?中学高校あるいは小学生の時代からそれだけをしていればいいなんていう生き方は間違っている。
そしてそういう生き方を認めてさせているのが、まわりのそういったバカな大人たちで、そういう風潮をもうそろそろなくして行く必要は大いにあるだろう。











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See you later hamburger

2013-01-14 | Weblog
よくアマチュアボクシングのことをバカにしているが、しかし決して私はボクシングが嫌いではない。
失態をさらすバカさ加減をバカにしているだけで、決してボクシングがだめだと言っているわけではない。
ただ最近のボクシングがおもしろくなくなってきただけのことで、昔はファンまではいかないが、タイトルマッチなどをよく見たものである。
その中でも辰吉の試合はおもしろかったと言える。私自身は彼をかなり評価しているが、彼こそ観客を楽しませるプロボクサーだと思うからだ。残念なことに今では少し後遺症がのこっているような感じがするが、しかしどこかのちんぴらボクサーのように豪快なことを言っておきながら、手堅い試合をするようなタイプではなく、まさに体を張ってうちあいに挑む勇敢な姿は見ている我々を釘付けにしたものである。

ボクシングは危険なスポーツである。アマチュアでも試合が終わると体に茶色いあざができるぐらいで、ヘッドギアをしていても顔がはれるぐらいであったのだが、笑い話だが私は試合で顔がはれた時、ほりが深くなってプエルトリカン系の人間に間違えられて、売人らしき奴にスペイン語で話しかけられたと言う経験もある。
当時8オンスのグローヴでうける衝撃は予想以上にハードなもので、あごが痛くてかたいものが食べれないと言うことがあった。
試合後「see you later hamburger」とマクドナルドに行ってハンバーガーを食べに行くのが試合後の恒例だったのも、試合に来てくれた友達に試合後食事に誘われて、あごがいたいからかたいものが食べれないと言った時からそうなったわけで、試合をするたびにこりゃあやばいこんなことをやってたら体がもたんと思ったものである。

前にも書いたが外国人のパンチは半端じゃない。私は一度ヒスパニック系の選手と試合をしたことがあるが、その選手は半端じゃなくパンチが強くて、特にすごかったのはスイッチする時にうってくるフックで、絶対に日本人じゃこんなパンチはうてない。
何回かそのフックをくらった後は漫画ではないが、平衡感覚をうしなって半ば千鳥足のような感じでコーナーにかえって来たことをよく覚えている。
まあその試合はずっと前から相手ののヴィデオをみていたので、なんとか判定勝ちできたが(パンチに自信のある奴はたいてい単純で同じ動きしかしない)たぶん同じ階級であれだけのパンチをくらったのは彼が最初で最後の選手で、私が千鳥足気味で帰ってきた時はセコンドのアレンがタオルを投げようかとも思っていたらしい。
余談であるが試合の後のハンバーガーは本当においしい。
ピーターのおんぼろ車で夜海岸沿いをここちよい風にあたって走りながら、3人でほうばったハンバーガーは格別で、韓国人の女の子が後ろの席から覗き込んで、私のうっ血した目じりを見て「あっフレンチフライのケチャップをとってくるのわすれた」とよく言っていたのを思い出すが、それは今では本当にいい思い出で、こういう体験があったからこそ、ボクシングは楽しかったということができるのだと思う。

しかしボクシングは危険なスポーツである。
危険だからおもしろいというのもあるが、しかし経験上ああいうパンチをうけつづけると間違いなく脳にダメージがのこる。
私自身も鼻の穴の位置がかなり大きくずれていて中でまがっているのがよくわかる。
たぶんそれだけしかとりえのないサルのような奴はどうだと武勇伝のような感じで見せるのであろうが、しかしあぶない奴と思われたらいやなので見せてはいないが、見たらはっきりとわかるぐらい鼻の穴の位置がずれていて中で曲がっているのがわかる。
ボクシングは危険なスポーツだ。
これは実際に競技していた人間が言うのだから間違いないが、させる側もある程度何が危険かと言うことをよく理解し、特に成長期の人間には脳に対する後遺症を与えないためにも適切な指導と言うものが求められるのではないかと思うのだが、これからの指導者はボクシングの技術だけではなく、何が危険で、特にパンチが与える脳のダメージなどについてある程度勉強して理解する必要はある。

たぶんケガをなくすなんて不可能なことだと思うが、しかし大事なのはそのケガや特に後遺症に対してどのように考えていくかである。
なぜならボクシングの場合はその時に起こるアクシデントよりも、競技を引退してからの後遺症のほうが問題であるからだ。
最近のアマチュアボクシングはケガや問題をおそれて大きな大会にはCTなどを義務付けて過敏になっているが、本当にアスリートのことを考えているのかどうか疑わしい。
現に子供に平気で殴り合いをさせるわ、成長期に無理な減量はさせるなど、大きな大会では人目を気にして必要以上に厳しくとりしまってはいるものの、しかし、本当に配慮しなくてはいけないところに配慮しないからだ。
ある程度技術があってしっかりした成人がするような大会だけに厳しくとりしまるというのは、科学技術庁や世論の目を気にしている態度がみえみえだが、こういう態度はまさしく暴力団が新法をおそれている態度とかわりない、代紋をつかって独占販売させたと言うことも大いにうなづけることであろう。
こういう体裁だけしか考えていないようなバカを相手にしていても楽しく競技などできるはずはないと思う。
おそらく体裁だけのルールでしばるよりも、自分たちがケガのことや脳のことをある程度知ることが事故防止につながることだ。試合の出場資格も医学的に基づいて何歳からというルールを定めること、一般の成人には、ある程度のことを話した上で、自己責任とか自己管理を促すことも必要なことではないだろうか?















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ハングルで手紙を書く

2013-01-09 | Weblog
最近企業ではメールを英語で書いているところが増えてきているそうで、実際に私の知り合いのところの会社も外資系に合併されてから、メールなどの通達はすべて英語で書かれているそうだ。
正直なぜ日本にいて英語でメールを書かなくてはならないのかという思いもあると思うが、しかし英語で伝達すると言うことはそれなりのアドヴァンテージがある。
英語でメールを書くという大きなアドヴァンテージとしては自分の考えていることや指示が的確に伝わること。日本語で伝えようとする時、どう表現していいのかと迷ったことでも、英語は日本語のように回りくどい表現をしないので、その目的を単刀直入に伝えるだけだから、日本語で書くよりも明確かつ迅速に内容が伝わるのではないだろうか。

話しはクラブの話であるが、クラブに来る人の多くは英語に興味を持っていたり、外国語に興味を持っている。
この前入会した帰国子女の子もKpopが好きで、運動不足で勉強などのストレスを発散させようとホームパージを検索し、ここのクラブのホームページを見て、ここだったらためになりそうだからということで来たそうだ。
今Kpopのあるアーティストにはまっていて、近い将来韓国語をマスターして好きなアーティストにハングルで手紙を書きたいそうであるが、やはり外国で多少なりとも育った人間はそういうことには積極的で、言葉をおぼえて自分の気持ちを伝えたいと言うのは、いろいろな文化にふれることで、刺激された知的好奇心であると思っている。

正直言ってボクシングの人はこういう積極性がない。
せまい限られた世界の中で同じようなことをさせられて何が楽しいのだろうかとおもってしまうのだが、こういう小さな世界にいたら、そういう積極性などもてることはないと考えているが、競技した理由も団体プレーが嫌いだからとか、精神力を鍛えたいから、目立ちたいからなどと消極的で短絡的、精神力を鍛えたいとか、精神的に強くなりたいと言うのは聞くだけではまともに見えるが、しかし考え方が抽象的で、ある意味ルサンチマン的である。
おそらく彼女のように好きなアーティストに手紙を書きたいと言う好奇心が、自分の世界から他の世界に目を向けさせるのだと思うが、はっきり言ってボクシングはそういう好奇心と言うか向学心が他のスポーツに比べて希薄すぎるのだが、それはこのスポーツの封建的な制度などを見たらわかることだ。

よくオリジナリティと言うことを言うが、しかし前にも言ったが他との比較なしにオリジナリティなんてありえない。
この多様性の時代オリジナリティをもつというのは、いろいろなものを知って比較することで生まれてくるものだと信じているが、狭い世界の中で生きていて、他者と比べる術を持たないで、個性だとかオリジナリティというレヴェルは単なる独りよがりであると思っているが、本当にオリジナリティと言うものを追求したかったら、自分の世界を広げてたと比較する必要があるのだが、アスリートが言葉をおぼえてよその国に行くのはまさにそういったことだと思う。

よくスポーツはバカではできないと言うことを言うが、21世はグローバルな時代になってきているので、こう言った知的好奇心を満たしていくことも、特にアマチュアの選手に課せられた課題である。
21世にはこう言ったグローバルな考え方をしなければ人間の成長はありえないと思う、アスリートもきちんと語学の勉強などをさせて国際的にもアドヴァンテージをとることができる育成は必要なことだが、まさに今の時代はそういった意味でバカではできないということが言えるかもしれない。
はっきり言ってどうしたら強くたたけるかとか、よけれるかといったようなたぐいは芸に等しい、よけたりたたいたりすることは、半分は本能なのだから、そんなものはサルでもできる。
芸に磨きをかけることも大事だが、しかしもう少し知的好奇心を刺激して、外の世界に目をむけさせることも大事なことだと思うが、なんせアマチュアボクシングはこういうことには疎く、よく指導する人間が英語で日常会話ぐらいできなくてはいけないと言っているが、そういう知的好奇心を刺激させる指導者と言うのは今の時代には必要ではないだろうか。

今日高校で体罰による自殺がおこった。
前から警告しているがこういうバカな事件は運動クラブの制度をみなおさなければ、また同じようなことが起こると思う。
よくスポーツは素晴らしい、感動的だと言うことを目をうるうるさせていうバカがいるが、スポーツと言うのは、ある意味麻薬のようなものである。特に判断力がまだ十分ではない過渡期の子供は、スポーツをするとゲームのようにはまってしまい、それはあまわりからみたらあたかもひとつのことに打ち込んでいるように見えるが、しかしもう少し冷静になって考える必要もあるだろう。
そういう状況下でアメとムチをつかいわけるクラブの顧問と生徒や親の関係は取り巻きをつくりやすい関係だ。
インタヴューである元部員がなぐられたけどそれは自分たちを喚起させるためで、顧問のところには卒業してもよく遊びに行っていたと言っていたが、こういう取り巻きの存在も危険である。アメとムチをつかいわけ、時には情をかけてつなげるやり方はやくざさながらであるが、中にはうちの子が喜んで楽しくやっているのだからと目をつぶっていた人間もいたのではないだろうか。

私は正直こういう親分子分の関係が生まれやすい、体育会にはもっと学校側が目を光らせなくてはいけないと思うが、私が聞いているだけでも集団退部や遠征中のキャバクラなどひどい話を聞いているが、運動クラブの顧問はもっと厳しく目を光らせる必要があると思う。

次のブログではバカ顧問とその取り巻きの人間がいかにそういう狭い世界を生み出し、害になっているかということを書きたい。
 





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笑止千万 They are highly idiot

2013-01-07 | Weblog
異国の小学校での出来事。
授業中後ろからひそひそと彼のことを囁く声がする。どうやらイルボン野郎とか何とか言っているようだ。
少年は常日頃からそういうことをひそひそと言われ続けてきたので、その時怒りが込み上げて大きな声で「ナ ヌン ○○○ イムニダ」と自分の名前を叫んで、その言ったであろうと言う奴につかみかかっておおげんかになったそうだ。
当然2人とも先生にその場でぼこぼこにされた。授業中に何をやっているのだとひどくなぐられたそうだ。
しかしなぜかその後、お互い仲良くはならなかったが、まわりは彼を認め尊重したらしい。
遠足に行っても一緒にランチを食べてくれる子供もできたようで、彼はそいつに立ち向かっていくことで、周りを認めさせたそうである。
男と言うのは時にはこういう荒々しいことを通して成長していくものだ、特に子供のうちはこういうこともひとつの自己表現だと思っているが、理由のあるけんかと言うのは個人差はあるが、人によっては必要なことだろう。

しかしこういう世界をいつまでも引きづるような世界は幼稚である。
逆境におかれた人間が力をつけて、その困難と言うか試練に逃げずに立ち向かっていくと言うことは、男らしいひとつの解決法のような感じもするが、こういうことは子供の世界だから通用することで、社会では通用しない。
特にボクシングクラブのような人が集まって、コミュニティを形成しているようなところは、人それぞれ正確が違うし、個性があるので、こういう力だけを誇示するような考え方から卒業する必要がある。
よく格闘技で強くなって自信をつけろというのは、何か力をつけたら周りは自分を認めるようになると言うことで自信がつくと考えているのだろうが、しかしボクシングをやったからと言って自信がつくというのは、根拠のないことで、ケンカをして相手をたたきのめすことぐらいが自信につながると考えるならば屈折している。非常に愚かなことである。(しかし今のアマチュアボクシングはけんかにもつかえない弱い、弱すぎる)

最近オリーヴでよく彼は自信がついたように見えると言う言葉を耳にするが、正直な話それは彼らが強くなったから自信がついたということではないと思う。
自信がついたと言われるようになった人たちは、性格的に特にかわったり、精神力がついたとも思えない。
ただひとつ言えることは楽しそうに練習に来るのだが、彼らが自信がついたように見えるのはボクシングと言うスポーツを通して、ひとつの楽しみができて、それによって自分の生活が満たされるようになったからだと思っている。
バカな集団はさも自分たちが強くなったかのごとく、武勇伝を語っていかに自分たちがすごいかということを言う。おそらく多くの奴が逆境を乗り越えて自分はこういうことをしたんだというたわいもないことをおおげさに自慢のだと思うが、しかしそれを裏返せば、バカだからそういうことしか自慢できない。それは本当の自信ではない虚勢で、そういう奴に限ってコンプレックスを抱えているものだ。

今この時代スポーツクラブの持つ使命は、そういう幼稚な武勇伝を持ち出して自信をつけろということではなく、その人間の生活を豊かにしていくことではないかと思っている。
おそらく人をたたきのめしたり、やっつけることで本当の満足感は得ることはできないし、そういうことが自信につながるとは思えない。
大事なのはこのスポーツをやっていて、楽しいかと感じれるかが重要で、このスポーツを本当に心から楽しむことができるから、心が満たされて生活が満たされるのではないだろうか。

ただ勘違いしてはいけないのは没頭(後犬のようにやらされて喜びを感じる奴)と楽しむこととは全く違うと言うことである。
競技だけを目的に一生懸命やるのもいいが、しかしそれが行き過ぎて燃え尽き症候群になって、引退したら無気力になって何もする気がなくなったと言うようなことをよく聞くが、しかしこれではスポーツをやっている意味がない。
プロ選手になるのなら話は別だが、全国に行けだの、相手を煽って追い込んで、そういう世界が本当のボクシングだなんていうような考え方は、アマチュアスポーツと言う枠から大きくはずれている。
オリーヴの目的は楽しくボクシングをすることで、ストレスを発散してもらうことである。
ここには運動クラブのような雰囲気はない、ほとんどが趣味程度で遊びの一つとして、真剣にやっているが、そういう日ごろいそがしく、中にはストレスをかかえた人がボクシングを競技することで、楽しい時間をつくり、そういったことから解放されてくれたらと願っているが、私はこの競技がバリバリ試合ができる時期を重要視せず、できるだけ長い間趣味として競技して、これを競技することがひとつのストレス発散や楽しみになってくれて、生活が満たされるようになったらいいと思っている。

あいさつができなくても、根性がなかってもどんな子供でもスポーツをするという権利はある。
気が弱いから人前で話せないと言う人間、根性がないから練習についていけない、そういう人間を最初から条件を付けて、やるんだったらこれぐらいのことはしろと切り捨てるのはおかしいことだ、ならお前はきちんと世の中で必要なことはやってきたのか、きちんと学校で机にむかって話を聞いていたのかと聞きたい。
たかだかボクシングだ、よく言うが今はそういうことを自慢するよりも、Toeicが700点とか複数の言葉を話せる人間の方が価値があるし、自慢になる。
知り合いの外国人はこの前日本で仕事をやめたと言っていたが、またすぐに見つけたようだ、聞くと大手で商品の説明をする仕事のようだが、給料はまあまあいいらしい。彼女は複数の言葉を話すので、そのアドヴァンテージを買われての採用だと思うが、今の時代スポーツしかできないようではみじめだ、それしかできない奴は固まる傾向があるので、先輩などのこねを頼って人にぶらさがるのもひとつの生き残りであるが、こういう生き方は一生うだつがあがらない。はっきり言って人にぶらさがっておいて、威勢よく逃げるな男なら勝負しろなんて偉そうなことは言うことは言えない。
偉そうに言うけどお前は一体どれほどの人間か、何だと思うのだが、威勢のいいことを言う奴の言葉なんか何も考えていないので矛盾していることが多い。
今はおれおれ詐欺程度の詐欺師でも大卒の奴がいて専門用語を並び立てて人をだますようだが、スポーツしかできないバカがこういう時代にまともに世の中を理解できるはずはない、できないから自分のことを棚に上げて愚かなことを言うのだろう。
ボクシングは趣味、そして社会に必要なやるべきことをやって趣味を楽しむから、その趣味が生きる意味で価値あるものとなる。

子供の関係で時々Kids stationというアニメのケーブルテレヴィを見るが、ワンピースもそうだが、こういう漫画の世界はバカボクサーのロマンそのもの、言っていることが同じである。
たぶん本など読まない奴がこういう漫画の影響を受けて、逆境から立ち上がると言うような世界を作り上げているのだろうが、笑止千万。









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