韓国人はキリスト教徒が多い、時々彼らまたは彼女らと議論になるのだが、この前議論になった時にこう言った。そもそも君らは時代錯誤で勉強不足だ、今何世紀かわかるか21世紀だ、それなのにtrinityでなければイエスと神の関係を証明できないとか、なんで神の子がvirginマリアから生まれなくてはならないのか?キリスト教の考え方は宗教改革からぬけだせていない。そもそも1500年代の宗教改革の人間なんてインターネットどころか電話もなかった時代だ、そういう時代の人間と我々を比べたら情報量が違うし、世界観も違う、我々は情報量がほとんどなく迷信を信じていた中世の人間たちとは違う。科学や心理学などが発達した時代に生きているのだ、そういう今の情報時代を生きている人間が宗教改革の時代のレベルで物事を考えて信じろなんて言うこと自体おかしなことだ。と、一神教が難しいのは考え方がその時代にとどまっているところである。アーミッシュのように厳格に生きると言う意味ではいいことなのだろうが、しかしそういう生き方は時代錯誤であって私から見たら積極的に生きているとは思いがたい。人間が客体によってではなく主体的に生きることは大事なことだ、考え抜いてそこに導かれるのは正しい選択だろうが、しかし何も考えず付和雷同に宗教を信じるのは危険なことで、それは自爆テロなどが物語っている。何のために人間は存在しているのかそれは宗教と言う狭い枠の中で無駄に命をおとすことではない、人間には人間としての生き方が存在する。ハイデガーと言う人は人間の存在を時間もって解釈する。人間だけがここに存在していると言うことを認識しているから時間の感覚が持てる特別な存在だ。ハイデガーは世界をザインとザインデスと言う言葉にわけた。ザインというのは存在そのものでザインデスは存在者と言う意味、ウサギや犬は時間の感覚を持たないのはただそこに存在しているからだ、しかし人間が時間の無駄と感じるのはただ存在しているのではなく、その存在そのものを認識できる存在者だからだ。そう考えると人間だけが時間の感覚を持ちそれをどう生かすは人間次第であるということが言える。彼はその著書「sein und zeit((存在と時間)」の中で時間は我々の外側を無関係に流れているのではなく人間にはあるべき未来を目指す未来と自分がひきうけなくてはならない過去が存在すると言っている。しかし人間の時間には限りがあるゆえに人間は死に向かう存在である。その死を受け入れつつ自分の可能性に向かって生きるのが人間がその時間の中に存在すると言う意義ではないかと解釈している。ここからは私の解釈であるが人間が時間の無駄と感じるのは自分の時間には限りがあり自分がその死に向かって生きると言うことを知っているからである。そしてその死は自爆テロのように自分でピリオドをうつものでもない。ザインデスである人間だけが時間の感覚をもつことができるのは、それは時間と言うのはただ流れるものではなく自分にとって与えられたものだからだ。そう考えればもっともっと積極的に正しくその時間を有効に使おうとするのではないかと思っている。時間と言うのは平等に与えられる。それを巻き戻すことはできないし、かといって早回しする必要もないだろうが、しかし我々はその与えられた時間時間を大切に有効に使うことができる権利と特権があたえられているのだ。引き受けなくてはならない過去の時間を巻き戻して未来の時間を浪費するよりもこれから始まろうとする時間を大切に有効的に使いたいと思う。
laissez faire(レッセフエール)は日本で言うところ自由放任主義、しかしこれはもともとmercantilismなどがもたらす植民地支配に対して用いられた言葉である。うちのクラブは基本的には自由放任主義であるが、しかし自由と言ってもやりたいことを勝手気ままにすると言うことではない。利己心の追及は他者の共感が得れる範囲であるとアダムスミスは言っているが、自由放任主義と言ってもそこにきちんとした秩序がなければ動物の群れと同じ、きちんとした秩序を持った人間がそこに集うことができるから自由放任主義であり得るのだ。私はこのクラブの全体的な雰囲気をだいたい偏差値60ぐらいの学校の雰囲気でまとめようと考えている。前にスポーツチームでの日本人と外国人のキャプテンのとらえ方は違う。日本人は監督の言うことをよく聞いてまわりの意見も聞く調整型をキャプテンに選ぶが、しかし向こうでは監督の戦略や戦術を理解し、時にはそれに意見できる主張型の人間がキャプテンに選ばれると言ったが、こういう社会人が集まる群れを正しく運営するためには運動クラブのような縦社会で服従型のクラブではダメ、ある程度知的な考え方がその背景になかったらまともな社会人は集まらない。うちのクラブはうまくまとまっているまとまるというのは決して縦社会のようなものでもなく、力関係でもないひとりびとりがこのクラブの趣旨をある程度理解しそれに協力しようとする気持ちである。前に親しい会員が私はグループをつくってそのグループを奉仕集団にしていると言っていた。人聞きのわるい話であるが、むしろ私はこの人たちによって存在するおまけのようなもの、MTオリーブはまさに彼ら彼女らのクラブである。ここの会員の人たちは何の見返りもなしによく動いてくれる素晴らしい存在だ。金をもらわなければそれ以上はしないとかトレーナーの特権を利用してナンパしたり、エラそうにしたりというような特別な計らいがなければ何もしないというような程度のひくい人間ではない、純粋に教えることや奉仕してくれることを楽しんでくれているそういう人たちの協力で運営できているからクラブの雰囲気も良く中年や女性が多く在籍しているのだと思っている。偏差値60ぐらいの学校と言うのは語弊があるが、うちのクラブはブログでもわかるように哲学が存在している。それは平等性と人権を守り、みんなが自由にトレーニングできる権利である。前にも言ったが自分たちは楽しく自由にやってますという自分たちとは一体誰のことか?そういうことも踏まえて物事を解釈して行かなくては本当の平等性と言うものを保つことができない。勢いで集まるような競技者中心のクラブでは本当に平等で楽しくやっているとは言えない、何が本当に平等なのか正しいのかということをよく考えて運営しなければ恣意的な目だちたがり屋の競技者中心の集団になってしまう。そういう意味で管理者が何を考えているかということとそのまわりに集まる人たちのレベルと言うのは重要であると考えている。
フェミニズムの講演の中にこういう話があった。二人の女性ひとりは白人女性そしてもう一人は黒人女性。フェミニズムを主張する白人女性に黒人の女性がこう言った。「あなたは朝起きたら鏡に何が見える?」白人女性は言った「女性が見える」しかし黒人女性は言った「そこが問題である。なぜなら私が朝起きて鏡を見たら黒人が見える。人種とは私の目には見えるけれどもあなたの目には見えないものなの、それが特権というものよ」そして講演者は続けるもしあなた方が一瞬でも人種のことを考えることがなかったらそれは贅沢なことだ特権を持っている人にはそれが見えない。話はクラブの話になるが格闘技のクラブと言うのはどちらかと言うと男性社会で日本人で男性であると言うことはジムにおいては特権を持っている。まあ特権と言っても実社会とはまったく別の話であるが、しかし男性で日本人そして競技者であると言うことはすでにクラブにおいて特権を持っていると言っても過言ではないと思う。何が言いたいのかと言うとダイエットでも健康維持でも気軽に入ってこれると言うのであればもう少し勉強しろと言うことだ。おそらくクラブはジェンダーだけではなく年齢や能力の問題など様々なディスアドバンテージが(私は思っていないが)存在する。年配の女性が迷惑にならないようにトレーニングすると言う声を聞いてどう思うか?そんなことはない自由にやってくれと言うのは無神経な言葉のようにさえ聞こえるが、我々教える側はこの特権を外して相手のことを考えなくては本当の問題が見えてこない、このいろいろな立場の人たちが集まる群れを正しく公平に導いていくためには様々な問題や思いが見えていないと偏ったアウトロー中心の集団になると言うことだ。こんな小さい世界はたかだか知れているが、しかしクラブに属する人たちにとってはここに来たときはその世界の住人になる。私自身も一応日本人、競技者であった、そして男性であるので格闘技の世界ではこの特権を持っていると言ってもいいだろう。まあ男性であること以外は一応と言うカッコつきではあるが、それでもクラブでは特権を持った一人の人間である。ボーボワールと言う女性は女は女として生まれるのではなく女性になっていくのだと言うするどい言葉をのこしている。これは男性社会で女性が抑圧されているということを意味しているのだが、女性の立場さらによわいものに対して目を向けることはその集団がいかに社会的集団であるかと言うことを意味している。自分たちは楽しくやってます。と言う時その楽しくやっている自分たちとは誰のことか?よく考える必要はある。ここでは怒号をひびかせたり、裸でトレーニングをするのは禁止していると言うかそういうことをする雰囲気はない。それははっきりとは言えないがそれはジェンダー的なこともあって女性を軽んじてはいないから、そういうことが自然に起こってくるのだと思う。うちには体育会のようなルールや上下関係など存在しないが、しかしジェンダーや国籍や年齢を越えて平等にトレーニングできる社会的集団でありたいと願っている。
この前虚弱体質だと言っていた人がいたので「いやうちの男性には虚弱精神の人が多いので安心してください。」と言ったら笑っていたが、ここではボクシングをするのに精神力なんて求めない、ただそれが面白いと思ってもらえるかが問題だ。
ペシミズムと言うのは一般的に悲観的主義者のことである。これはラテン語の「pesiimum(最悪のもの)を意味する言葉であるが、実はこの言葉には深い意味がある。この言葉を使ったのはショーペンハウアーである。ショーペンハウアーは世界の秩序を「盲目的な生の意志」と考えた。細胞は弱い細胞を強い細胞が駆逐して生き延びようとする。それと同じように人間も存在したいと言う衝動によって生きている。戦争がおこったり競争があるのはすべて人間の存在したいと言う意志のあらわれでそういう悲観的な世界に我々は生きているのだと言うのが彼の哲学である。彼の考え方は非常に合理的な感じさえもする。事実そういう連鎖がこの世界にあることは否めない事実である。しかしどういう世界であってもどういうことがおこっていても人間の意志はユニークである。ショウペンハウアーと同じ時代を生きたキルケゴールと言う哲学者はペシミスト的な考え方や当時の世界観が世界の在り方を問うたことに対して、いや哲学とはそういうことではなくたとえ世界がそうであっても自分だけの存在価値を守るものだと考えた。この彼の考え方は実存主義と言って今までは世界の在り方や神と言うものを通してしか語られなかった哲学が、今度は人間自信を中心にして語られるようになったということで、少し語弊があるが哲学が客体的から主観的になったということである。人間は主体的に生きるよりも客体的を通して生きるほうが楽である。ペシミストのように人間とはそんな存在なのだからと悲観的に物事を受けとめることや、あるいは宗教に救いを求めて生きることもひとつの生き方としては正しいことであろう。しかし人間として生まれた以上は自分の存在価値を主体的に証明する生き方を選ぶと言うのもひとつの生き方である。哲学と言うと何か難しい学問のように聞こえるが、しかし私は人間が人間らしく生きるための知恵であり、力であると信じている。キルケゴールはその著書「Either/or(あれかこれか)」の中で例外者と言う言葉を用いて人間の存在はまわりの意見や一般的な真理によって決められるのではなく私にとって真理であるような真理こそがその人の存在価値をあらわすものだとした。例えば1000人以上集まったパーティは客観的には盛大なパーティであるが、しかし来てほしい人が来なかった人から見ればそれは盛大なパーティではなくさびしいパーティである。キルケゴールの例外者とは一般的な真理に目を向けるのではなくて、この主観的な真理に目を向けること、そしてそういう存在価値を個性だと言うことができると思う。スポーツクラブはいろいろな人が集まる。その集まってきた人たちはそれぞれ価値観も違うし求めているものも違うのだから、そういう部分をつぶさに顧みて尊重して行くことが責任者には求められるであろう。
ソクラテスの言葉に「無知の知」と言う言葉がある。BC400年代にはソフィストと言うのがいてその代表的なのがゴルギアスとプロタゴラス特にプロタゴラスは人間を万物の尺度(panton chematen metoron anthropos)とし世の中には正しいものはないそれはすべて人間が決めることだとした。ラテン語の原文の「panton chematen metoron anthropos」の「metoron」と言う言葉は傲慢とも訳されるが事情に対する判断はすべて相反することだという意味で使われる言葉でここで言う尺度と言うのは人間が正しいからと言うような積極的なことではなく、むしろ我々は真実をとらえることができないという意味で使われている。そう考えると真実をねじまげてまでもいいくるめた人間が正しいことになる。そういう言ったもん勝ちの世の中に対して立ち上がったのがソクラテスである。ソクラテスの問答は産婆術と言って相手に質問し、自分は何も知らないと言うことを認識させることからはじまる。産婆術は原文は「διαλεκτικη」と言ってこれは「教える」と言う言葉が言語である。すなわち教えると言うことは相手に自分は何も知らないのだと言うことをまずわからせることで、そこから得た新しい知識こそが正しい知識で真理に導くとしたのがソクラテスの考え方である。卑近な例であるが俺は知っていると言う知識をちけひらかすほど退屈であほらしいものはない。哲学と言うのはまさにそれが本当に正しいかどうかということを検証する方法で、アウフヘーベンと言う手法はまさに何が正しいかということを問うための方法である。何とか哲学とか言う奴がいるが哲学と言うのはただ自分のいいたいことを言うことではない。ソクラテス的に言うならばそれは共同体に徳をもたらすものでちゃんとしたやり方で検証されなくてはならないものだ。運動クラブで監督が部員に一方的に話すのはナンセンスである。なぜ質問しないのか、あるいは質問するレベルの話ではないのかわからないが、ああいうミーティングや言葉のコミュニケーションは言葉がまともに機能してからだと思っている。集団によっては本当にこの人たちは国語力が「ひくい」と感じさせられる集団もあるが、よく言うがその集団の質と言うのは言葉に現れる。アウトローくさい集団はこの言葉の質がひくいひくいからそういう輩が好んで集まってくるのだが、小学生の受験生も多くなっているのだからせめてそういう子供たちから見てまともに話ができるぐらいの国語力は必要である。
未だにクラブで暴力や暴言があるらしいが、そう言ったことも双方の言葉の質を上げることが問題の解決策で、かなりの部分でアスリートにも学習させる必要はあるだろう。
日本は昨日の韓国戦でおしくも敗退。しかし私は野球は日本を応援してはいない。たぶんこんなことを逆に「俺は日本を応援する」と言ったらえらい目に合う。こういう主張ができる日本は素晴らしいと思う。韓国戦の話しであるが、私は初戦は日本が絶対勝つと思っていた。根拠は韓国人が日本人相手に思いっきり力むからである。昔韓国人の友人とサッカーゲームをした。私は日本で相手は韓国ゲームは私のほうがやりなれていたので、かなり有利に進む何回かやったのだが、5対0とか7対0とかほとんどフルボッコ状態である。負けるたびに思いっきりくやしがってもう一回と友人はせがむ、しかし何度やってもやりなれている私のほうが有利、やるたびに容赦なくゴールを決めるのだが、そのたびに「これが日本の実力じゃ」と言ってはいけないようなことを言っておちょくるのだが、かなりいらついているようである。しかし3回目のゲームで突然ゲームの画面が消える。何がおこったのだと驚いたが、相手がこれ以上負けるのがいやでゲームのリセットボタンを押したのである。人によって違うが多くの韓国人は日本人に負けることをいやがる。このサッカーゲームの話は具体的な例であるが、おそらく初戦の日本戦なんかは全員がこいつら叩きのめしてやろうと言う気持ちで向かって言って力んでああいう結果になったのだと思う。2戦目も1戦目で負けているから次こそはと力んでくるので同じ投手を出すのは正解である。こいつにやられたからと躍起になってバットを振ってくる、韓国人はわかりやすいのでそういう心理をつくことは難しいことではないだろう。
話は心理学の話になるが心理学や社会学と言うのは集団を率いていく上で学ぶことは非常に大事なことだ。なぜなら社会人でそれぞれが専門分野を持っている人たちが集まる集団は単なる情や勢いでうまく機能させることは難しいことで、こういう一般の人にも開放されているクラブはボクシング以外にもきちんとした対話能力や組織力が必要であるからだ。子供にタバコを吸わせたことがインターネットで問題になっているが、なんでもその男の釈明文の「は」と書くところを「わ」となっていたとか。教育レベルと言うのはこういうところに顕著にあらわれる。前に「こういった」を「こおいった」と書いて夜中にいやがらせのメールを送ってきた人間がいたが、同じようなレベルの人間だろう。「は」を「わ」と書いたり「こういった」を「こおいった」と書くのは社会人として間違ってはいけないこと、同じようなレベルの人間の中にいては気づかないだろうが、しかしうちのクラブでこういう間違いをしたら間違いなくひかれる。一般常識と言うのはでかい声であいさつしたり、先輩に服従した姿勢を見せたりすることではない。一般常識の基本は正しい日本語を話すこと。私は日本語を正しく話す=礼儀正しいことだと理解しているが、こういうスポーツ指導者は日本語を正しく話し、そして英語もある程度理解する必要はあると思う。うちのクラブには40代の人が多く定着しているが、それらの人たちは決して元ボクサーとかではなく、ここでボクシングを健康維持のためにはじめた人たちである。そういう人たちが安心して定着してもらえるためにはある程度の教育のレベルと言葉の使い方は大事である。
これは神学ではなくあくまで私の宗教学的な考察である。パリのテロ事件を聞いてあらためて宗教が間違った方向に向かうとこわいものだと実感した。宗教学科と言う学科は神を信じる人間と信じない人間がいて、結構みにくい論争に発展することもある。特にカルバン派の人間は教義的で頭がかたい。非常にひとりよがりなところがあってこの人たちにとっては正しいのだが、しかしそんな理屈は受け入れがたく議論しても平行線をたどる。彼ら彼女らとはよく論争になるのだが、面倒くさいのでふざけて「俺はヒュームの知覚の束的立場からそんなことは一切信じないと言ったら」「いや神様は全能のお方だからあなたの意志を越えてとらえてくださる」と言う。しかしそんなことは余計なお世話で、相手がそういうことが受け入れられないのに自分たちの正論を半ば強引に人に押し付けるのは勘違いも甚だしい。こういうキリスト教の感覚がハワイの文化や歴史をめちゃめちゃにしてきたところはある。人には信じない、信じたくない権利はあるのだからその権利を認めることも大事なことではないか。しかしそういう権利を無視して自分たちの正論を押しつけるのは傲慢である。一神教と言うのはたとえそれが愛だとかきれいごとを言っていてもこういう傾向がある。最近ではアサーションと言う考え方が各分野に入ってきたので、ここでいうところの信じたくない権利と言うものにも目を向けることが対話の仕方としては正しくなってきているのだが、しかし神学と言う学問は自画自賛の学問でただひたすら神の権威を主張する学問でそれが教義的になればなるほど頑固である。それでも最近ではローマンキャソックではアサーション的な対話やものの考え方が傾向として見られるが、しかしプロテスタントは教義的で信じない権利なんて認めることはできない、彼ら彼女らに言わせてみればそういう人間にも神のご意志は働いているらしいが、そういう神学と言う学問が国によってはかなりの権威を持っているのだから時代錯誤である。この前テレビの討論会でイスラエルとパレスティナの問題について討論していた、根本的にはあのあたりの領土問題は土地をどう分配するかが一番重要な課題だ、それができれば問題は解決に向かうとノー天気なことを言っていたが、しかし日本人は宗教のこわさを知らない。もともと領土問題は宗教問題でイスラエルにしてみれば彼らの土地はもともと聖書で神が彼らに与えた土地である。その神が与えた土地を政治的な事柄だけで解決できると思っているのだろうか。日本のような民主主義では政治の下に宗教があるが、しかしイスラム国のような国は宗教の下に政治がある。ここが根本的に日本人とは違う考え方でもともと一神教などと言う概念がない日本人にはイスラム教やキリスト教は言葉で理解できても感覚としては理解できないと思っている。これは私が学生時代に韓国人の友人からもらった本の話だ。少しうすら覚えで内容ははっきりとは覚えていないのだが、「たとえそうでなくても」と言う韓国人が書いた本である。その本は戦時中の韓国の話、キリスト教徒だった主人公は当時国家神道が強制されその現人神である天皇を奉ることを無理やり押しつけられるのだが、彼は最後まで抵抗し殺されてもその自分たちの神をすてなかったと言う話である。たぶん今の世代から見て日本が国家神道で現人神である天皇を奉っていたなんて信じられないが、しかしこの国家神道が根付かなかったどころか失敗におわったのはある意味日本人が宗教の本質と歴史をとらえてこなかったからだと思っているのだが、この場合はローマの皇帝崇拝によくにているので歴史から学ぶことができたら国家神道なんて考えなかったであろう。ただ日本の神道はアサーション的であると言ってもいい。日本が戦後半ばアメリカに占領されてもキリスト教が広がらなかったのは、それぞれが持っている柔軟な宗教観と言うものを土着の宗教いわゆる神道から譲り受けてきたからだろう。
心理学の用語に「social interest」と言う言葉がある。これは家族、地域、職場などの中で自分はその一員なんだと言う感覚を持っている状態で、アドラー心理学ではこの感覚を高めることを重視している。共同体感覚とは他者が興味を持っていることに興味をもっていること。自分は所属グループの一員だと言う感覚を持っている。積極的にその仲間の役にたとうとする。関わる人たちとお互いに尊敬、信頼し合っている。すすんで協力しようとする。などがあげられるが、こういう行為ができるのは自分をよく理解し短所も長所も受容している一人前の大人だからできることだと思うのだが、うちの共同体はこういう共同体を目指して向かっていると言ってもいいだろう。よく上げるうちのトレーナーやマス部隊などがそうである。一見遊んでいるようであるが、しかし隊員は来てくれる女性たちに思いっきり楽しく汗を流してもらおうと一生懸命にやってくれる。時にはもうトレーニングがおわりかけているのに女性が来て「すいませんトレーニングおわりますか?」と聞くと「あっいいですよ」と快く返事してくれるのだが、やはりこういう奉仕的な精神があると言うのは彼ら彼女らが自立した大人だからでこの人たちの肩書がしっかりしているのもうなづけるのだが、マス部隊の人たちは人間としてレベルが高い人たちだと思っている。これは理屈抜きにいえることだが人間として成熟した人は他者のために何かができる協力できるということである。そしてそれは単なる仲間意識ではなくて社会貢献的なもので、そういう感覚がクラブの中にあると言うことはそのクラブが平和的であるとも言えると思う。一方自立できていない集団は仲間意識がつよいが他者への協力が希薄である。自分を目立たせたり優位に立たせるための上下関係やヒエラルキーがそこには存在するのだが、自分の欠点を見ようともせず相手よりも優位に立とうとするような競争的な姿勢は共同体を正しく保っていくためには必要ない。勉強がだめだから社会的実績がないからとスポーツのしょうむない実績や武勇伝で目立とうとするような人間はまさにそうだ。格闘技のクラブによってはこういう目立ちたがり屋ばかりのいるところもあるようだがこういう人間はころもをはがしていくと3流以下だということがわかる。こういう人間がトレーナーとして人を指導することはかなり問題があるだろう。social interestと言うのを実践するためにはそこで中心となる人の質が問題だ。ここでは自分勝手で目立ちたがり屋のアウトローを入会させないと言うのはそいつらがそういうレベルで物事を見れないからでそういう感覚を持っていないからだ。前にも言ったが共同体の中心にそういう人たちを集めるためには言葉の力が必要である。やさしく知的な言葉をつかい、そして何が正しいかと言うことをしっかりとした基準を持って、時にはその基準をもって裁くことも必要であるが、そういう哲学的な思考を持つ必要はあると思っている。私ができることはアウトローなどを入会させないと言うような人選とこいつは邪魔だ悪影響だと感じたらバッサリ切り捨てること、ただそれだけであるが難しいことである。ここには40代以上の人や女性が定着している。40代以上の人で何年も在籍してくれている人は何人もいるのだが、その人たちはもと経験者とかではなくここで健康維持のためにボクシングをはじめた人たちで、そういう人たちが在籍しているということはうちのクラブの実績でもあると思う。
私は一度に何冊も本を読む集中して読む時もあるが、時間がない時は日によって読む本をかえて読んでいるが、私が読書に費やす時間はかなり長く暇があれば本を読むことにしている。なぜここまで言葉の勉強をするかと言うと言葉には力がある言葉は魔法だからだ。私が講演などでお勧めなのがケリーマクゴニガル著書のほとんどはベストセラーになっているが、私はそれらの本に関して都合よく実験やデータを用いていると言うような面もあると思っているが、しかしレクチャーはお勧めだ。どうお勧めかと言うと彼女のレクチャーはアメリカ人特有の派手さはなく淡々としているが、しかし何を伝えたいかと言うことが明確で言葉の使い方なども知的で思わず聞き入ってしまうような魅力がその言葉の中にあるからだ。言葉を伝えると言うと何かエネルギッシュに表現して自分の言いたいことを押し切るように伝えるようにさえ思ってしまうが、しかし知性のある言葉には力がある。たとえ表現が淡々としていてもその言葉に力があれば人には響くものである。言葉はtoolそのものではあるが、しかしこのtoolに魂を吹き込むのは人間の知性だと信じている。
これは我々の間で有名な話、ある女性仮にエイミーとしておくが、彼女は生まれてすぐに施設にあずけられたらしく、そのあずけられた時には名前がなくその施設でエイミーと名づけられたそうである。彼女は親から名前をもらえなかったことが彼女のトラウマになっていた。それはある意味彼女を消極的にさせていた何かであったようだ。やがて成人になり彼女は大学に入学かなり年をとってからでの入学ではあったが非常に楽しい学生生活を送り、そこで年下の男性と知り合い恋におちる。優しい人とたくさんの友達にかこまれての楽しい学園生活であったが、周りが幸せであればあるほど自分の過去がひっかかる。そこで思い切ってその男性に自分が施設で育って親から名前をもらわなかった、だから名前がないんだということを打ち明けた。するとその男性はこう言った「ケンチャナヨ。神様にも名前はないんだよ。」二人は同じ教会に行っていたのだが、聖書の神には名前がない、十戒の戒めに自分の名前を持つなつけるなと言う厳しい戒めがあるのだが、その神の戒めを逆手にとってジョークにして笑い飛ばして過去のいやな思いでとおさらばしたのだ。私は言葉には力があると信じている。人間が人間のことを思いやり知性を持って伝える言葉は本当にその人を生かす言葉であると信じている。ちょっとした言葉もその言葉にその人を気づかう気持ちと知性が感じられればその人は勇気づけられるものだ、最後に一発毒をはくが知性のない自分がどれだけ力が強いかとほえているようなサルのような集団は競技以外進歩がない。パスカルは人間は考える葦であると言ったこの言葉は私の好きな言葉の一つでもあるが、人間には考える力がある。知性を重んじ考えるからこそ集団と言うものはよくなっていくのだと信じている。
英語を教えている会員で結構うまがあう子がいる。大学時代に関西にいて留学経験があることもうまがうひとつの理由だが、私は彼女から時々優しいと言われる。しかし優しい男は嫌いらしい。私はすかさず「じゃあ俺のことを嫌ってるのか?」と言うと「いやいやそんなんじゃなくて」と言うのだが、私はやさしい人間ではない。しかし平等性を重んじる人間である。この前アサーションと言う言葉を引き合いに何かを説明したが、アサーションの基本は互いの人権を認めること、即ち人が存在する権利と自由に表現しその人らしく生きる権利を尊重すると言うことで、基本的にはその人権がそこなわれがちな弱者の視点に立って物事を見ると言うことが必要なことである。私は平等と言うのはこの人権と言うものをよく理解することだと思っているが、私自身そのように実践しようとこころがけている。人権理解と言うのはコミュニケーションにあらわれる。観客席から「おいそこ」と叱責したり、おしめをかえたわけでもないのにエラそうな態度でさもわかったように時にはその権威を見せつけるかのごとく親の前でおいこらと言うような感じで叱責するようなバカもいて、この前バレーかなんかで暴力事件があったそうだが、日本の体育会の世界は人権をよく理解していないというか、思いっきり勉強不足でこういう学習と言うか学問的なことに関しては無知な人間が多い。いくら子供であっても自分の権威の下におくためにその子をひよっこあつかいすることは私からみたら人権侵害で、日本のスポーツは人権に疎くそう言うことがまったくわかっていない奴が結構いる。ただこういうコミュニケーション能力と言うのは経験してきたことだけでは不十分で、書物を読んだり専門のトレーニングを受けなくては養われないことである。たぶん彼女が優しいと言ったのはそういう感情や情的なことではなくよく勉強して平等性を理解しているということも含めてリスペクトの意味でそう言ってくれるのだと思っている。話は少し飛躍するが、人権と言うことを問題にして考えたらレイプや暴力というものがいかにその人の人権をうばうものかと言うことが理解できるかと思う。おそらくこういう問題もばれたら問題になるとか法的に問題があるとか人それぞれの理解の仕方が違うが、それはある程度教育によるものだ、私はこういう問題はもっと世界で何が起こっているかと言うことに目を向けて、例えばインドであれだけえげつないレイプがおこるのは女性に人権がないからだし、かたよったイスラム圏では女性は教育を受けられない。これからのスポーツ指導も日本と言う視点だけではなくオリンピックも開催されるのだから人権と言うことがらしっかりと理解しとらえることが必要であって、そういう教育をしていく義務はあると思っている。うちのクラブではカーッときて敵意むき出しで相手に殴りかかって行くことは100パーセント暴力とみなしているし、俗に言うかわいがりのようなスパーリングも陰湿ないじめ、暴力である。ここに来たらそういう恐怖にはさらされないという権利はある。私がアウトローお断りと言うのはこういう奴らは自分よりも力が弱ければいじめたり疎んじたりその人間のことを邪魔に思うからだ。現に女性で年配の人たちが邪魔にならないようにとかなり遠慮がちで言うのは自分たちは力が弱い女性だと言うことを認識しているからだろうと思っている。若い人たちが中心になってワイワイと盛り上がって、女性や年配の人たちが遠慮して隅のほうでトレーニングすることは悲劇である。ここではすべての人がトレーニングする権利を持っている。その権威を主張して堂々と楽しくトレーニングしてほしい。
思い切り運動クラブにつかった人間は自分より年下の人間になんでも平気で押しつける傾向があるというのは間違った観測だろうか。こういうことを見たり聞いたりしたらやはり正しい人権教育が足りないと感じる。ただこいつらはこういう世界しか知らないのでそうなるのも仕方がない、たぶんそれは組織を管理する人間の質がわるいからだ。