脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ラテン語のすすめ

2024-03-25 | Weblog
以前本の紹介で「教養としてのラテン語の授業」 ハン・ドンイルをあげたが、この本が韓国では100刷を超えるロングセラーになり「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」と絶賛の声が集まっているそうである。 温故知新は韓国語では「온고지신 」意味は日本語とおなじであるが、四字熟語は中国から来ているので日中韓と共通であるが、言葉によって意味がかわる言葉もある。例えば八方美人は日本では誰にでもいい顔をする人のことでネガティブな使い方をするが、しかし韓国では社交的な人のことでポジティブな使い方をする。話は論文の話になるがだいぶ前友人のDrに文系の論文の評価はどこにあるかと聞かれたことがある。その時文系は比較が重要だからなるべく多くの文献を読んで比較すること、その上で参考文献の量だと言ったことがあるが、私は文系は比較が大事であり、さらにその研究によっては原書で読むことは必要な作業だと理解しているが、ラテン語はそういう意味では王道であり、当時世界の共通語的なラテン語を理解することで多くのことが得れると思う。
「Carpe diem」と言う好きなラテン語の言葉がある。これは私の監督が言っていたことでホラティウスの詩の一文、直訳すると「その日を摘め」違う日本語訳ではその日を精一杯生きろである。 私は時々クラブの若い会員に若い人の涙はこやしになるし、恥ずかしい思いをすることは貴重なことだと言う。失敗してもいいし、負けてもいい、どうであってもすべてのことを受け入れることができるように精一杯生きると言うことにその日を生きる意味がある。 自分がそこで一生懸命、力を出せたか、そしてそのための準備をしたかということ、本当に満足できる競技人生はその積み重ねの結果ではないかと思う。勝ち負けだけにこだわっていたら成長などするはずはない。ドイツの詩人ヘルマンヘッセはこういう言葉を残している
「鳥は卵から出ようともがく。卵は世界だ。生まれようとする者はひとつの世界を壊さなければならない。」
ドイツ語 "Der Vogel kämpft sich aus dem Ei. Das Ei ist die Welt. Wer geboren werden will, muss eine Welt zerstören."
英語 "The bird fights its way out of the egg. The egg is the world. Whoever will be born must destroy a world."
失敗や挫折とも思えることも実は後になって考えてみたらその自分の小さな世界をこわすひとつのきっかけである。失敗は成功とはいえないが、しかしそれらのことは人間特に若い人たちを成長させるこやしだ、語学を学ぶことは温故知新を知るだけではなくいろいろな角度から世界、そして自分を見ることができる。実際私はそのことが年を取った今わかりつつあある。


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「ドイツの学校にはなぜ「部活」がないのか」を読んで

2024-03-15 | Weblog
毎年クラブ内でのいじめが問題になっている。インターネットで取り上げられる記事はいじめと言うよりもむしろ犯罪であるが、好きなことをやっているのになぜそのようなことがおこるのか理解できない。私は上下関係があることはかならずしもわるくないと思っている。なぜなら年長者をうやまう関係性において敬語をおぼえるし、何かを学ぶ姿勢を学べるからだ。最近見た面白い本がある。ドイツ在住のジャーナリストが書いた「ドイツの学校にはなぜ「部活」がないのか 」と言う本だが、この本によるとドイツではクラブ活動は、自分の自由な時間であり、もし個人がスポーツがしたければ、NPOなどが運営するスポーツクラブに加入するのが一般的であるそうだ。そしてそのスポーツクラブは日本の部活のように同じ学校の限られた年齢層が集まる集団ではなく、そこには子供だけでなく大人までいて一緒にスポーツを楽しむのだが、それは日本のように学校内だけのクラブではなく、社会全体のクラブであり、年齢や立場をこえて、平等に純粋にスポーツをする人間が集まるコミュニティである。
人間関係においても、スポーツクラブはスポーツを共にする仲間として平等である。一方、日本の部活は監督を頂点とする厳しい上下関係、ヒエラルキーがあって、たかだかスポーツをするのに上下関係を意識し、時には服従をしいられるが、はっきり言ってそれは平等とは言えないであろう。また、ドイツではクラブに入ったけれども、自分に合わないと思えば、簡単に別のクラブを探して入りなおすことが可能だ。けれども日本の学校システムではそれがなかなか難しく、そういう閉ざされた世界での厳しい上下関係が、いじめをひきおこす要因であると思っているが、ドイツのように学校社会とスポーツコミュニティが分離している世界ではそういういじめが起きにくく、日本のように多様性をみとめない、閉ざされた世界がいじめを生み出すのではないかと言う、スポーツ集団の構造を問題にした著者の意見は、現在起こっているスポーツ社会のいじめに対して一考に値する意見であると思う。

参考文献「ドイツの学校にはなぜ「部活」がないのか」 高松 平藏  晃洋書房


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サルトルは死んだ?

2024-03-08 | Weblog
最近会員の人がある研究者にはまっていて、イスラム教の話をする。一般的に日本人の多くはイスラム教に対して警戒心を持っているし、私もそうだ。無利子で貸してくれるイスラム銀行、ウンマ共同体の持つ助け合いの精神は高度な思想であると思うが、しかし問題なのは一神教は排他的であり、その物差しが絶対的に帰依すること、神への服従にあるという事がわれわれには理解できない。「submission」と言うミシェル・ウエルベックの書いた小説がある。これは私がだいぶ前にあげた小説であるが、その時は英語と韓国語にしか翻訳をされておらず、2015年になって日本語訳が出版されたが、舞台は2022年のフランス。大学で教鞭をとるフランソワは、研究者としての能力や知的欲求も低下していると強く感じていた。その時フランスは極右に傾こうとする国家にイスラム政権が台頭し、国民の支持を得ていた。フランスの国民が極右を信じてファシズムになるよりもましだと、イスラムの政党を支持し始めたのだ。そして極右・国民戦線マリーヌ・ル・ペンと、穏健イスラム政党党首が衝突、内戦直前まで行ったが、左派が国民戦線を嫌い、イスラム政党を支持したため、フランスにイスラム政権が誕生する。そしてイスラム政権によって大学の教員はすべてムスリムであることが義務付けられ、主人公は解雇されてしまう。新たに生まれ変わった大学からの求めに応じて、イスラムに改宗するかを真剣に考えるのだ。この小説の題名である「服従」は自分の存在意義を保障してくれるのは、何かに服従している時だけなのではないか?という問いかけを意味する。確かにイスラム社会では、ほとんどの女性は教育機会を奪われ、恋愛の自由も制限され、服装の自由も限られ、徹底した服従を強制される。一方、男性、特に社会的に優位な立場にある人々は、強力な権力を獲得する。そういった不平等、不公平はあるが、しかし男女ともにこの構造のなかで自分が何者かでいられることに何らかの安心感はないかと問う。神への服従、女性の男性に対する服従、人間は服従することで自由になれるのではないかと言う問いかけがある。サルトルによれば人間はこの世に存在し自らの自由な行動によって自分がなんであるかと言う本質をつくっていく存在である。それをサルトルは「人間は自由の刑にしょせられている」といったが、個人主義を徹底してつらぬき生きていくことはしんどいし、非常にむずかしいことだ。人間は何かに帰属することで安心感を得れる。宗教的になると行き過ぎであるが、スポーツクラブもある意味その帰属性が求められる。過干渉せず、常識的で、ボランティア精神がある、誰が来ても帰属することで安心感を得るクラブを目指している。私がコミュニティ論やアドラーなどを研究しているのは、まさにそういうクラブを目指しているからだ。

これは私の個人的な意見だが、かなり昔は日本人は帰属性のようなものがあったように思える。おそらくそれは教育によるものなのだろうが、自由とか個性をうたいすぎるのもいいが、まずもう少し自分たちの帰属する国家について考えることも必要であると思う。

Reference "Submission" Michel Houellebecq Farrar Straus & Giroux
参考文献 「服従」 ミシェル・ウエルベック 河出出版




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